ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

はじまりはささやかで不完全

 

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かるたCafeの第1回の告知が出てきました。

 

こんなでした。

ちょうど5年前の今日。これが20年ぶりに人と百人一首する場になるというわくわくと、だれか来てくれるかなぁというどきどきと、両方の気持ちでした。

 

はじまりの声はこんなふうにごくごく小さくてささやかで不完全なもので、こんなことが起きたらどうしようとか、将来的にこうしたいとか一切ありませんでした。ただやりたいことをやってみただけ。

 

このことは、このあとにも、かるたでもかるた以外でも、何度も何度も何度も経験することになりました。はじまりはささやかで不完全なものだということを体感できたのは大きかった。そして、そのときは自分がなぜやっているのか、なにをやっているのかはわからなくても、後々に、しばしばすごく後になってからわかることもある、という経験もしました。だからやっているときは、そのときの心のままに、ただ夢中でやっていればいいんだという自分なりの指針もできました。

 

2011年より前のわたしは、「場をつくる」なんて言葉は知らなかったし、飲み会の幹事をするのさえも嫌で、イベントに参加するのも面倒くさいし、人と交流することにも興味がないような人間でした。場という概念を知って、人とのつながりにこの世界の希望を見出したことで、自分が本来望んでいる方角へぐいっと舵を切れたように思います。

 

わたしはこれからもこんなふうに生きていけたらと思う。こんなふうとは、自分の中の小さな声に耳を傾け、希望をもって小さくはじめることを積み重ねるとか、人と関わり合っていくとか…かな。それから、こういう道のりや風景もあるんだなぁということを、なんの目的かはわからないけど、これからも思いつくままに表現していきたいです。

 

今年もたくさんの方が一緒に場をつくってくださり、応援してくださり、関心を寄せてくださいました。

ほんとうにありがとうございました。

 

 

クリスマスプレゼント

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今年の12月はやたらと忙しくて、飾り付けをする余裕もない上に、24日と25日はわたしと息子は別々に過ごしていたので、我が家にはクリスマスという感じが一切なかった。けれど息子が帰宅してサンタさんが来ていないと、それはそれでガッカリするかなと思い、「サンタさんからのプレゼント」は用意しておいた。

 

特にサンタさんへのお願いもなかったし、息子が今とても興味を持っていることもとりたててないし、わたしもあまり物欲がないので思いつかず、友人らに聞き回ってなんとか決めたのが、この図鑑。

 

綺麗な写真が満載だよ、種類が多いよ、実物大だよ、という売り文句の図鑑とは一線を画す、挿画や装丁が美しい。大人っぽい。子ども向けだからと子どもっぽくするのではなく、美しいものを手渡したいという作り手の思いが感じられる。

 

息子は、「この本、ぼくにぴったりだ!」と大喜びしていた。それでも去年ほどには喜んでいない感じが、少し寂しいような嬉しいような気がする。

 

去年は、これまでになくサンタさんを待ちわびていた。

サンタさんはどんな人なんだろう?
日本語はしゃべれる?
いろんな絵本を読んだけど、友だちもいろいろ言ってるけど、どれもほんとじゃない気がする…きっとこんなふうだよ!......と、自分だけのサンタさんのイメージが息子の中でどんどん形作られていってる感じに、わたしもわくわくした。25日の朝、息子は飛び起きて、サンタさんからの手紙(わたしが書いた)を読んでやると、「サンタさん、優しい…!」と号泣していた。

 

つまり今年、息子はずいぶん強く大きくなったということなのかもしれない。だとしたらそれはとても喜ばしいことだ。

 

自分が世界から愛されていることの心強さとか、自分のがんばりを誰かが密かに見ていてくれる嬉しさとか、この世にはいろんな秘密や不思議があるんだという敬虔さが、クリスマスやサンタさんにまつわることにはあるように思う。

これがひとつの生きる力の源として、心の深いところに降り積もってくれますようにとわたしは願う。

いつか魔法が解けても、その降り積もったものは、きっと息子を助けてくれるはずだから。

 

*集いのお知らせ* 読書会『いのちを"つくって"もいいですか?』

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表現の場づくりを探究するせいこと、友人で編集者の小林潤さんとで、
小林さんの担当本『いのちを"つくって"もいいですか?』の読書会をひらきます。

 

本書は、「いのち」を巡るさまざまな問題に長く取り組んできた宗教学者島薗進さんが、目覚ましい発展を続ける現代の生命科学と、私たちのいのちの倫理との関わりを哲学的に問い、考えた一冊です。

 

誰もが願う「より健康に、より長く生きたい」という希望。 

最新のバイオテクノロジーに根ざす現代医療は、
iPS細胞と再生医療の開発、 出生前診断の導入、遺伝子への介入等によって、
その願いを着実に叶えつつあります。

より「良く」生きるためにわたしたちが望み選んだことは、
これまでのところは、幸福な結果をもたらしてきたかもしれません。

しかし、このままの方向へ進んでいくと、
わたしたちはやがて「いのちをつくり変える」領域に踏み込んでしまうのではないか? 既にそのようなことが可能になっているかもしれないときに、
わたしたちは一人ひとり、どのような考えの元、選択をしていけばいいのか?

 

考えを巡らしてもすぐに壁に行き当たってしまうような重いテーマですが、
身近には感じられなくても、ケガや病気、妊娠・出産、死に直面したとき、
一人ひとりが知らず知らずのうちに既にこのテーマにふれています。

 

まずはこのテキストをきっかけに、
自分の事や身近な人の事として話しはじめませんか。

 

センシティブな内容ではありますが、タブー視せずに、批判を恐れずに、
安心で安全な中で気軽に口にできたらと思い、この場を企画しました。

一度足を止めて、一人ひとりがもつ「いのち」に対するあやふやな思いや考えを
聴き合えたらと願っています。

 

全編の読了を推奨していますが、読書会では本書の《序章〜第3章》について話し合います。

 

ご参加をお待ちしております。

 

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日 時: 2017年1月29日(日)10:00-12:00(終了後希望者のみ12:00-13:00ランチ)

会 場: JR日暮里駅付近の会場(お申し込みの方にご連絡します)

定 員: 8名(主催者2名と合わせて最大10名の場になります)

対 象: 大学生以上。 医療や生命科学の専門知識は不要です。

参加費: 2,800円(おやつ付)

参加条件:書籍『いのちを"つくって"もいいですか?』序章〜第3章を読了。
     こちらから購入できます>>http://amzn.asia/902irK7
     気になる箇所に付箋を貼ったり、感想をメモされるのをおすすめします。      

持ち物: 書籍『いのちを"つくって"もいいですか?』    
     入手ルートは問いません(買っても、借りても)

 

★★お申し込みフォーム★★
http://bit.ly/2hRPU52

お問い合わせ:seiko.funanokawa★gmail.com(★→@)

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本書に関連した小林さんの連載もご参考までに!

note.mu

 

 

Amazon購入ページ

いのちを“つくって

いのちを“つくって"もいいですか?―生命科学のジレンマを考える哲学講義

 

 

かるたでふりかえる2016年

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今年最後のかるたの練習会でした。


夏に競技かるたをもっとやりたいメンバーを集めて練習会を発足して、かるたCafeとは別に練習会の日をつくって、稽古をつけてもらって、大会に出て...それ以外に起こった出来事との相互反応の中で、見える風景がぐっと変わった一年でした。

 

いくつかのターニングポイントの中で、今年5月にやったメンバーとの対戦がひときわ思い出深く残っています。ちょうど定位置を決めはじめた頃。

運命戦になり、自陣は「ありあ」、敵陣は「あらざ」。「ありま」も「あらし」ももう出ているので、決まり字は「あり」か「あら」しかない状態。音としては「AR」まで同じで、そのあとに来る音が「I」か「A」かを聞き分けるという難しい局面。頭が真っ白になりながら、自陣を守るとか敵陣を抜くとか全く考えずに、ただ音に反応していました。周りで見ていたメンバーに、「運命戦で、しかも"あら"で敵陣抜いたの!すごい!」という声が上がってはじめて、「あ、抜いたんだ、取れたんだ」と思考が追いついたのを覚えています。そのときに何回目かの「かるたっておもしろい」という興奮がありました。

 


長らく、競技かるたって競技をして勝ち負けを争っているだけなんだと思っていた。でもそうではない、そんな浅いものではありませんでした。少なくともわたしにとっては。「これは何だ?ここでは何が起こっているんだ?ここでわたしは何をしているんだ?」と目を凝らすと見えてくる、その奥深さにいつも心動かされています。


厳格なルールのある安全な場で、本気で挑んでくる相手と競技することを通じて、自分の事から、自分自身から絶対に手を離してはいけないこと、自分の人生の責任を取り続けていくこと、小さな覚悟をたくさん重ねていくタフさを学んでいます。


場にいるとき、わたしはこの上なく孤独だけれど、同時にこれこそが、この安らぎこそが、わたしが求めていたものだったのだとも思う。そのとき場に対して神聖さを感じるし、敬う気持ちが自然と起こる。「畳の上の格闘技」なんて亜流みたいな表現じゃなく、「札道」とでも名付けたらどうでしょうか。


あとからはじめた人や若くて反応のいい人にどんどん抜かされる、やってもやっても敵わない人がいる、他にもやりたいことがいっぱいあってかるただけに熱中できない、子育て・家事・仕事ぜんぶ一馬力でやっているからという言い訳...そういうわたしとして、情けなさも恥もプライドもぜんぶ棄てて臨むしかない場は、いつも厳しくて優しい。


練習会の立ち上げを通じて、「みんなが望むことをやる」という場をひらく者としての学びもとても大きかったです。場に集うみんなのことを考える、一緒に運営している人を思うことをわたしはときどき手を抜いてしまう。わたしの楽しみや望みも大切にしながら、みんなのことも考えるということが、ようやくできつつあるかな、遅まきながら大人の階段をようやく上りはじめたかなと思う。それでもわたしは偉そうにしたりする必要もなくて、何かを為さなくてもよくて、「せいこさんはいてくれればいいから」と言ってもらえるのが、すごく幸せ。見えないところで場の動力でありつづけたいな。


来年はどんな新しい景色が見えるんだろう。楽しみです。
とりあえずは1/9の近江神宮での高松宮杯まであと17日。

 

Year-End Collageの会、ひらきました

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ごくごく親しい友人たちと9人で、「Year-End Collage〜2016年をふりかえり、2017年を望む」と題したコラージュ製作の場をひらきました。

2011年ごろからはじめた年末/年始のコラージュも、もう6年目。節目のときに作ると、充実感がもてたり、気持ちがあらたまるように思います。

コラージュがより自分の中から出てきたものの表現となれるよう、製作の前にふりかえる時間をもつのですが、きょうは、こんなやり方で進めました。

手帳で1年間の「予定」を丁寧に眺めたあと、そのとき胸に去来している気持ちをペアになって聴いてもらう。話が終わったら、聴いていた人から、話の中に含まれていたと思う言葉をリストの中から探してフィードバックしてもらう...というもの。

わたしが受けとったのは、

Authenticity(自分に本物である), Self-Acceptance(自己受容), Initiative(自発性), Mattering to Myself(自己価値の承認), Independence(自立), Connection(つながり),Learning(学び), Pride(誇り) 

どれもうれしかったのですが、中でもAuthenticityとIndependenceは自分でもしみじみとする言葉でした。そう、それが大切だったんだよね、という。

そのあとに作ったのが上のコラージュです。
整然としつつも静かに上に伸びていこうとする感じが、今の自分らしいと感じました。

 

みんなが作ったものも、一人ひとり全然違っていて、それぞれの世界観が表れていました。

切ったり貼ったりしゃべったり。ボディワークを入れてゆるんだりしながら。

わーこれ楽しいね、楽しいね、とただ言い合う、わきあいあいとした場でした。

完成後は、近所のお店の美味しいアップルパイを食べながら、自分の作品を発表。

こんなことを考えながら選んだり貼ったりしたよと。

見ている人は、その作品から受ける印象を返していく。

それによってまた気づくことがあったり、受け止めてもらえるうれしさがあったり。

 

コラージュの場は、「見ればわかる」という即時性と、言語と非言語を行き来する振り子感覚があって、楽しいのだと思います。

 

また来年の年末にみんなとできますように。

きっとそのころにはまた「芸風」も幾分変わっていることでしょう。

刻一刻と、変わり続けるわたしたち。

 

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2014年に取り組んでいたのは、0歳の子どもを育てる女性向けのコラージュの場でした。自分の時間がなかなか作りにくい時期に、なんとか少しでも、夢中で切ったり貼ったり、自分に意識を向ける時間が持てればと、産後ドゥーラの友人に見守り保育に入ってもらっていました。

今はその活動はお休み中ですが、機会があったり、リクエストがあればやってみたいな。

 

 

望むのは死刑ですか?〜考え悩む“世論” @ EUROPA HOUSE

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11/17  駐日欧州連合代表部(通称:EUROPA HOUSE)にて行われたシンポジウムに参加した。書きたいことはたくさんあるのだけど、できるだけ落ち着いて一つずつ書いていこうと思う。

 

この日のプログラムは、死刑存置派(現行制度の維持)の弁護士と廃止派の弁護士のそれぞれのプレゼンテーションがあり、ドキュメンタリー映画「望むのは死刑ですか?〜考え悩む“世論”」を鑑賞し、弁護士への質疑応答という流れ。

 

EUの日本における出先機関でこのシンポジウムを開催するのは、EUが加盟国はもちろん、世界に対して死刑制度の撤廃を求める運動を行なっていることが背景にある。(だから存置派の弁護士に対し、「この場はものすごいアウェイなのによく来てくださいましたね」と冒頭に感謝が述べられていた)

www.euinjapan.jp

 

弁護士2名のプレゼンテーションと、上映、質疑応答を見て聴いていて、議論の機会なく物事が決まっていく現状を、やはりどうにかしたいと思った。存置にしても廃止にしても、国民が等しく情報を得られ、どんな意見であっても他者と議論し、一人ひとりが考え尽くした末に決定していきたいと。なぜなら死刑囚に限らず、被害者も含めたその手続きの全てが人の命に関わることだから。もしこのドキュメンタリー映画のような「審議型意識調査」という場があり、有権者全員が参加した上で国民投票などしたら、結果はどうなるのだろうか?

 

映画の中では、審議前、審議中、審議後とアンケートを採っている。興味深いのは、「ぜったい存置/どちらかといえば存置/ぜったい廃止/どちらかといえば廃止/わからない」の割合自体は、審議の前後でほとんど変わらないが、半数近い人が意見を変えている点と、その選択をした理由の記述式回答欄には明確な質的変化が見られる点。「漠然と」選ばれた回答ではない、これは非常に重要なことだと思った。そう、丁寧にデザインされた場で尊重をもって接してもらえたら、人間は考えるのだ。考えた上で意思決定をするのだ。そうわたしは信じたい。

 

質疑応答の時間に、一人の女性が「看護師はその人が何者であれケアをします。職務として使命として人の命を助けることを日々行っている自分がいる一方で、国家は人を殺める。その行いは如何でしょうか?」というようなことを投げかけられた。弁護士への質問というよりも、会場に対して問うていると感じた。同時に、会場にいた私を含めて残り99人の人にもそれぞれに「話」があったはずなのだ。それを聴きあえたらよかったのにと思った。この日のテーマは「死刑について議論しよう」だったので、その時間が持たれなかったのは非常に残念だった。

 

残念つながりで言えば、弁護士さんたちは「この中には犯罪被害者はいないと思うが」とおっしゃったが、なぜわかるのか?見た目ではわからない。被害者もいれば加害者もいるかもしれない。「いるかもしれない」という前提で話をしてほしかったというのは両氏に対して思う。また、自分が被害者および身近な人が被害者になるかもしれないことは言われても、「自分が人を殺すかもしれない」の方は誰も口にしなくて、そこは暗黙の前提になっている気がするのもわたしには不思議だった。

 

なぜ自分にとって死刑がこんなに気になるのか。

考えはじめるきっかけになったのは、1987年に新聞で見た帝銀事件の平沢貞通さんの獄中死。そのときにはじめて冤罪という言葉を知った。父に意味を尋ねると、岩波新書の「冤罪」という本を買ってくれたので、それを貪るように読んだ。正義感の強い子どもだったので、「なぜこんなことが起こるのだろう」と怒りに震えた。しかも平沢さんの死後も、遺族と支援者が名誉回復のために再審請求をするも却下され続けていて、その数はなんと20回以上。わたしに考えるきっかけを与えた平沢さんの事件は、わたしが大人になってもまだ続いていて、全く終わっていない。多くの人の人生を巻き込んでいくこの「裁き」の結果。このシンポジウムの少し前に、ドキュメンタリー映画「袴田巌 夢の間の世の中」も観ていたので、今もまだ暗澹たる思いを抱え続けている。

 

さらに、このシンポジウムの直前の11/11に一人の死刑執行があったことを知らなかったこともショックだった。つまり関心があっても普通に暮らしていて目にしないぐらい、死刑というものがわたしたちの社会の中で実にひっそりと執行されているということなのだろうと思う。これで現在の確定死刑囚は129人、裁判員裁判で2人目の死刑執行となった。裁判員裁判、という点にも非常に心が揺らぐ。

 

存置か廃止か。立場によって様々な意見がある。簡単には白黒つけられないのはわかっている。でも今のところわたしは、「殺してもいい人がいる」とされている国に暮らしている。わたしは自分が絞首刑台の板を外すスイッチを押すことはできないのに、誰かにわたしの代理で押させているということをいつも考える。

 

 

▼全国各地で様々な形での上映会が開催されている。

nozomu-shikei.wixsite.com

 

▼ドキュメンタリーでは簡単にしか触れていなかった「審議型意識調査」の結果レポートもこのサイトに全文掲載されている。

「世論という神話〜日本はなぜ、死刑を存置するのか (pdf)」



わたしはこれで生きます

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11月上旬の話。忘れないように書く。

 

下旬に出場する初めて競技かるたの大会のために、知人にお願いして稽古をつけてもらった。彼女はC級ホルダー。我々はとにかく正式な試合をしたことがないので、持ち物、服装、受付の仕方から、競技中の作法、ルール、戦術、構え方、取り方、マインドセットまで、とにかく試合における全部を逐一質問していき、お答えいただいた。かるた会に行っても、つきっきりで教えてもらえることはなかなかないので、こういう機会は本当にラッキーなのだ。

 

ちなみに多くのかるた会には、かるた教室という雰囲気はあまりない。全員が競技者で、会は基本的には練習する場なので。昨今のかるた人気で、入会するのに条件を課すかるた会が多いと聞く。100枚すべて暗記しているのとはもちろん、決まり字の暗記と札流しが2分以内にできるなど。なかなか初心者や初級者にはハードルが高い。札流しとは決まり字に慣れるための練習法で、100枚の札を上から決まり字を順に言いながら取っていく。C級の彼女はこれを45秒でできると言っていた。わたしはここに書くのが恥ずかしいぐらい遅い……。

 

いろいろ教わった中で、特に印象的だったのが、札を並べ直すときのこと。払ったり払われたりして位置がズレてバラバラになった札を並べ直したときに、対戦相手から「元の位置と違う」と言われることがある。そのときに、自分でもそうだったと思えば指摘通りに並べ直したらいいけれど、自分はそうは思わないとか、わからなくなったりしたら、「これでいきます!」と宣言してその新しい並びで進めちゃっていいのだそう。

 

それを聞いて、ああ、と思ったのは、「前はこうだったじゃないか」とか、「あのときはああだったくせに」とか、たとえ言われたとしても、「新しい自分でやっていく!」と自分が決めたらそれで進めたらいいんだ、という人生における覚悟と宣言のことだった。

 

わたしはこれでいきます。と宣言する。

わかりました。と相手も承認する。

そういうやり取りは、なんというかとても清々しい。

 

この知人は大人になってからかるたをはじめた人で、漫画「ちはやふる」を読んでハマって、最初は小学生のお子さんにやらせようと付き添いでかるた会に行ったら自分の方が抜けられなくなってしまったんだそう。お会いして話すと、競技かるたが大好きで大好きでたまらないという気持ちが伝わってきて、こちらまでうれしくなる。

 

試合の前日にも「勝ち負けよりも、試合の雰囲気を知り、札と音と、何より自分と向き合う時間を大切にしてください」というメッセージをくださり、大いに励まされた。

 

たった4人のために、「競技かるたをもっと好きになってほしいから」と、労を惜しまず稽古をつけに駆けつけてくださって、本当にありがたかった。謝礼も、会にカンパしますと受け取られなかった。本当にカッコいいのだ…。

 

おかげで我々は試合では自信をもって臨めたし、一人ひとりとしても、チームとしても、とてもよい試合ができた。

 

 

*集いのお知らせ* 映画「むかしMattoの町があった」を観て感想を話す会

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せいこと、谷中・根津・千駄木・上野桜木のまちで健康づくり活動を進める「まち健」との共同開催で、イタリア映画「むかしMattoの町があった」をみんなで観て感想を語る会をひらきます。

 

自由こそ治療だ!

 

「イタリアには精神科病院はない」ということをご存知でしょうか。

イタリアでは1978年に成立したバザーリア法により精神保健改革がはじまり、やがてイタリア全土の精神科病院が次々と解体されていきました。入院施設の代わりに役割を担う地域の精神保健サービスでは、精神の病をもった人々を隔離するのではなく、地域の一員として迎え入れています。また、単なる投薬による治療のみではなく、市民として回復し、市民として社会に貢献できる存在になれるようにすること、つまり自立を目指す支援が行われています。

この映画は、かつてのイタリアで劣悪な環境におかれた患者の自由のために尽くした精神科医フランコ・バザーリアの1961年からの半生と、その過程で起こる様々な困難、患者たちとの交流、そしてバザーリア法が成立するまでが描かれた物語です。(mattoは狂気をもつ人、「Mattoの町」は精神科病院の意)

精神の病とは、
その治療や回復とは、
人として生きるとは、
隣人と共に生きるとは、
などについて、皆さんと共に映画を通して感じ考えていけたらと思っています。

医療者からキーノートスピーチがありますが、鑑賞後の感想の時間は、専門的な話を詰めていくのではなく、様々な背景や立場や職業の方の自由で素朴な声を聴き合うことで、小さい発見がたくさん起こる場になればと願っています。

この映画は2編に分かれており、それぞれ100分程度ありますので、2日に分けて会をひらくことにしました。

 

2日間共でも、いずれかの日だけでも参加歓迎。
お申し込みをお待ちしております。

 

◆映画について
・映画予告編

www.youtube.com


・180人のmattoの会(バザーリア映画を自主上映する団体)
http://180matto.jp/about.php

 

 

◆参考図書
「精神病院はいらない!イタリア・バザーリア改革を達成させた愛弟子3人の証言」
http://amzn.asia/2eX23X2
※この書籍には「むかしmattoの町があった」のDVD付録があるので、どちらかの日程しか参加できない方は、本を買って鑑賞されるのも一案です。

 


《 開催概要 》——————————

●日  時:
・前半:2017年2月 4日(土)13:30〜17:00
 バザーリアが問題意識を持つ〜県当局から反対に遭いながらも病院改革に必死に取り組む〜病院を追われる
・後半:2017年2月11日(土)13:30〜17:00
 バザーリアが県立病院長に就任し病院改革が進む〜1978年国会がイタリア国内の全ての精神病院の廃止を決定
 ※2回目は1回目の続編です。

●会  場:谷中防災コミュニティセンター2F和室(谷中5-6-5)
     和室ですが床座が辛い方のために、先着8席で椅子がございます。

●アクセス:東京メトロ千代田線千駄木駅徒歩5分 または JR日暮里から徒歩8分  http://www.city.taito.lg.jp/index/shisetsu/hall/kuminkan/01575392.html

●参加費:各回2,000円(おやつ&運営カンパ1,000円含む)
     当日現金にてお支払いください。
     映画を観て感想を語る場のため、映画観賞のみのご参加はご遠慮ください。

●定  員:各回20名(主催者含む)

●対  象:大学生以上。託児はございませんので、小さいお子さんは信頼できる方に預け、単身でご参加ください。

 

●内  容:1.ご挨拶
     2.キーノートスピーチ
       精神科医・塚原美穂子さん、家庭医・孫大輔さん      
       (それぞれ1回目か2回目のいずれか)
     3.映画観賞
     4.おやつを食べながらあーだこーだと自由に感想を話す


★★申し込みフォーム★★
http://bit.ly/2gPpdhL
*各回先着順で受け付けます。

★キャンセルについて★
やむを得ずキャンセルされる場合は、必ず下記までご連絡ください。

 

——————————————————————————————

●問い合わせ先:seiko.funanokawa★gmail.com(★→@)

●主  催:せいこ(ヒトトビ〜人と美の表現活動研究室)
      http://hitotobi.hatenadiary.jp/
       谷根千まちばの健康プロジェクト(まち健)
      https://www.facebook.com/YanesenMachiken/

 

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はじめての一箱古本市

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11月某日、「ろじの一箱古本市」に出店しました。

 

古本市に出るのは初めてでしたが、一緒に出店した友人と、「要らない本を処分するんじゃなくて、好きだけど今はもう手元になくてもよくなった本を、次の人に手渡していく気持ち、小さな場をひらくつもりでやりたいね」と打ち合わせで決めたのはよかったです。

 

50冊ぐらい持っていって40冊ぐらい売れました。もっとかもしれない。ちゃんと数えなかった。はじめてだから値段の感覚がわからず、すごくフレンドリーな価格で売ってたのに、思ったより売上があってびっくりでした。途中でまだまだ時間が残ってるのに、あまりにもスカスカになったので、家に帰って補充するぐらい、たくさんの人が立ち寄ってくれました。

 

わたしは自分の本だけでは足りなかったので、友人に声をかけて、趣旨に合う本を提供してもらったりもしました。その作業もなかなか楽しかった。それにかこつけて久しぶりに会えたり、おうちにお邪魔したりもできて。

 

足を止めて手に取ってくださってる方と、一冊の本にまつわるエピソードを話したり聴いたり。本好きの人は、自分の興味や好奇心にまっすぐな人が多い気がする。お話していて楽しい。どの本もよい方にもらわれていってほんとうによかったです。


息子もレイアウトや呼び込みやお会計をやってくれて、みんなから「こども店長」と呼ばれてかわいがられていました。保育園や学童でごっこ的にはしてたけど、実際の商品を人とやり取りしながら売ったり、計算をしたり、お金をいただく喜びや達成感を感じたりというのは初めてだったので、よい経験になったようです。


たまたま立ち寄ってくださる方と小さな話をしたり、友だちが次々に来てくれたり、ご家族を紹介いただいたり、友だちに友だちを紹介したり、主催者さんや他の出店者さんとお話したり、戦利品があったり、谷中ビールを飲んだり…ほんとうに楽しいばっかり言ってる休日でした。お天気もよく暖かで、安心できる場所で、大好きな人たちとひらく場、満たされる…!

 

古本市業界(?)の方々はtwitterでつながるのが一般的らしく、アカウントの教え合いとかものっすごい久しぶりにやって懐かしかった。


これに味をしめた我々、「また一箱古本市出たいね」となって、次回はゴールデンウィーク不忍ブックストリートを目指す予定。

 

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座禅20分×4本

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9月の話。

 

近所にある知人のお寺で座禅をしてきた。

20分を4本、けっこうガッツリと。

「あれこれ試してきたけどこのやり方が一番よかった」と副住職がおっしゃるように、確かにこのぐらいの量や回数をやってはじめて、何かわかったりみえたりする感じがある。

来てすぐの1本は心も体もざわざわしていて息も速かったのだけど、ひたすら自分の呼吸に意識を合わせていくと、3本目ぐらいでゆったりとしてきて、4本目にはもう琵琶湖にたゆたう水草のように気持ちよかった。終わったあとは、清々して目の曇りが取れたようにものがよく見える。

警策をいただくのもこんなありがたいものだったとは。じんわりとはくるけれど、音の大きさのわりには痛くなく、勇気と集中がぐんと増す。与えるほうもいただくほうも、警策の前と後で低頭して合掌する。つまり、愛と感謝の行為なのだな。

 

以前、別のところで何回か座禅をしたときは20分1本だけで、それはただ落ち着かなく調わない時間として記憶されていたので、ほぼ初心者でも容赦なく4本やってくれるのはありがたかった。


とっつきにくいだろうからとハードルを下げてしまうと、参加者に本当に体験してほしいことが届けられない。思い切ってこちらで閾値を設定するほうが、結果的には参加者の満足度も高くなる。

 

終わってからは、皆さんでお菓子をいただきながら、その日の座禅がどうだったかと、副住職からの問いかけにわたしはこう思う、おおそうなのか、わたしはこうだetc...というフリーディスカッションの時間。

 

この日は「リーダーシップ」がテーマ。

自分で発した言葉を何度も反芻しながらの帰り道。

 

「わたしがいることで、周りの人に役割が生まれてゆくことが大切」

 

 

小平市・平櫛田中美術館への巡礼

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わたしの暮らすまちには彫刻家・平櫛田中(ひらくし・でんちゅう)の旧邸がある。近隣で「田中邸」と呼ばれるその古民家の存在は、わたしがここに住まいを定めた理由の一つだ(それについて書くと長くなるので、また機をあらためたい)。とはいえはじめは田中のことは何も知らず、田中邸を管理したり、アートイベントを開催している地元NPOのメンバーから教わった。

田中は98歳でこの旧邸から小平市に移り住んだ。107歳で亡くなった後、小平の邸宅は美術館となり、孫の弘子さんが館長を務めている。

わたしにとっては聖地巡礼のような心持ちで、11月のある日、初めてこの美術館を訪れた。台風がくれば吹き飛びそうな旧邸に比べて、あまりに立派な建築に気後れしつつ、これが国立能楽堂の設計者の手によるものと聞いて納得もした。


美術館の棟では、ちょうど11/6まで「岡倉天心平櫛田中」という企画展を開催しており、田中にとっての師・岡倉天心の存在のかけがえのなさや、天心に対する愛を、作品群からひしひしと感じることができた。天心に「諸君は売れるものを作ろうとするが、それではだめです。売れないものをお作りなさい」と説かれ、田中は、「思い返すとわたくしは先生のこの言葉のために彫刻を作ってきたようなものだ」との言葉を残している。

天心から田中への書簡にある宛先の「下谷谷中天王寺」や「下谷区谷中茶屋町九」から、確かに彼の地に田中が生きていた気配が感じられ、胸が熱くなった。

田中作品の魅力はひと言では語り尽くせないが、肩から背中にかけての表情、彫像の存在が生み出す独特の緊張感、あふれる躍動感と生命力にわたしは特に惹かれている。大胆さと繊細さの強弱がうねりとなって空気を震わせ、観る者をその人物の物語の世界に包み込む。しかし圧迫はない、むしろ空間には余白が多く、想像力をたくましくさせて作品と対話することができる。

ここ最近、人でないものに生命を吹き込む際の、作り手の心と行いについてつらつらと考えてきたが、田中の作品を見ていると、作り手自身の「天から愛され与えられた才能」に対する無自覚の謙虚さ、敬虔さ、高い精神性と深い友愛の心があり、その現れとしての創作物があると感じる。(もちろんそのような「崇高なもの」だけが芸術なのではない)

国立劇場のロビーに置かれている「鏡獅子」は20年の歳月をかけて、田中87の歳に完成したのだという。そして100歳になってもなお2メートル近くあるクスノキの原木を購入し、鏡獅子に匹敵する大作を彫ろうとしていたことや、向こう30年の製作に使える量の木材の備蓄があったそうだ。小柄で地味な顔立ちの老人の、いったいどこにそのようなバイタリティがあったのか。まさに豪気としか言いようがない。

反面、孫の弘子さんにとっては、雨の日に学校に傘をさして迎えに来てくれる優しい祖父でもあった。田中一家にとって、小平もまた大切な土地であることや、二人の子を成人前に亡くす、作品が売れず食うにも困るなどの不遇の時代をくぐり抜けたこと、最後は緑あふれる庭に包まれた心穏やかな日々であったことなどに、しばし思いを馳せた。


田中の作品はこの小平市平櫛田中彫刻美術館のほか、教鞭をとっていた東京藝術大学の美術館、出身地である岡山県井原市田中美術館に所蔵されている。

また小平市の美術館収蔵作品の一部を音声ガイド付きでネット上で鑑賞できたり、漫画「平櫛田中彫刻記」などで田中の生涯を追うこともできる。

 

 

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▲旧平櫛田中邸。普段は閉鎖されており、月1度程度、イベントの際に開放される。

「こころのこえをきいてみる時間」をひらきました

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こちらで告知だけしておいて、どんな場だったかのご報告をしていませんでした。
いまさらですが綴っておきます。

 

11/12「こころのこえをきいてみる時間」@こころのこえをきかせ展 にて、

男鹿半島の夏を切り取った、True North, Akitaシリーズの最新作の上映と、写真の展示会で、映像を観て感想を聴き合う場をファシリテートさせていただきました。

 

映像を観たあとに心に浮かんだ風景や思いを言葉にしたり、他者の物語を聴く時間をもちます。語る人は、ただ自分の中から出てくるままに、些細な話やまとまらない話を声にしてみましょう。聴く人は、さえぎることなく、聞こえてくる音に静かに耳を澄まします。日常に戻る前の余韻のときを、皆さんで味わえたらと思います。

 

どんな言葉も、どんなその人も聴く、という気持ちでいたら、実はわたしが一番感情的で、涙があふれてしまいました。観るのは4回目なのに、こうも毎回涙が出るという…。それもひとつの表現ということで、まぁよしとしたいと思います(というか、もうどうしようもない...)。

 

場は、すうっとはじまり、またすうっとおわっていきました。
ひたひたと生まれ、何かが咲き実り、そしてはらはらと散っていく。
美しかった。


一人のこえをただ聴く行為は、その人の話の内容を理解しようとすることではなくて、その人のこれまでの生の時間を思うこと、その人が今生きて、そこにいると感じることなのかなと思いました。こえを聴かせてくださってありがたいなぁという気持ちにいっぱいになりました。


映像自体は17分の短いものですが、わたしは長編映画一本観たぐらいのたくさんの何かがつまっていると感じました。観る前と観た後では、自分の立っている場所は座標がちょっとだけ動いているんじゃないかとさえ。その感じを存分に味わえるように、日常にいきなり帰るのではなく、場を通過してからゆっくりと戻っていってもらいたい。そんなことも意図しました。

 

今回のTrue North, Akita#3は、今のところネット上に公開しない形をとっています。ワンクリックでは伝わらないことを大切にして、別の方法でゆっくりと、しかし確実に伝わっていくことや、人々の記憶に断片として残っていくようにとの思いから。


会期中は、スタッフがお客さん同士を紹介しなくても、その場に居合わせた方同士で自然と会話が生まれる。思わず感想を話しかけても、オカシイとかヘンだとか思われない、思わない雰囲気が、この時間と空間にはありました。

 

わたし個人的には、True North, Akita#1 がリリースされてから念願だった、映像集団augment5さんとの場づくりという夢が叶いました。

 

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「こころのこえをきかせ展」(会期は終了しています)
http://true-north.jp/

True North, Akita #1, #2 はこちらで視聴できます
http://true-north.jp/about 

 

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リー・ミンウェイとその関係展を思い出す

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Facebookは検索性が低いかわりに(?)「過去のこの日」の投稿を出す機能を設置している。Facebook的には単により多くのユーザをアクティベートさせたいだけだと思うけど、忘れていたことが思い出されたり、今はちょっと違うふうに感じているなぁとか、時の流れが感じられておもしろい。

 

2014年の12月13日は、3回目の「リー・ミンウェイとその関係展」に行ったらしい。本当に好きだったし、わたしの思想や行動にかなりの影響を与えた展覧会だった。アート好きな友人たちがなぜかスルーを決め込んでいたので、絶対行ったほうがいい!とやたら熱く語ったっけ。

 

個人的には人生でも指折りのハードでタフな時期だったから、目にうつるすべてのものに微かにでも希望を見出して、お守りにしようとしていたのかもしれない。

 

そのときの投稿をこちらにも置く。

 

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関係性やつながりをさまざまな手段で可視化する試みは、「意識にのぼらせることによって、Lifeにおけるあらゆる行動や活動はArtと呼べる」ことを教えてくれる。

 

わたしとわたし自身、わたしを取り巻く人、わたしと世界とのつながりに思いを馳せるのも特別なひとときなのだけど、中でも見知らぬ人にお花をギフトとして渡す"The Moving Garden"の体験が何より大きかった。見知らぬ人とのあいだに、いきなり生まれる関係性。一瞬の出来事なのだけど、体験として残るものは深くて大きい。お花を渡した人にも、きっともらった人にも。

リー・ミンウェイって人は、なんて素敵なことを考えるんだろう!

 

わたしは、あの、見知らぬ人にお花を渡したときのような心持ちで生きていきたい。
無防備に、おずおずと、でも人とつながりを持ちたいという温かい望みを確かにもって。

 

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ムラのミライからはじまる本

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11月のはじめ、風邪を引いて一日家に閉じこもっていたときについつい買ってしまった本たち。
13時にポチして19時にはもう届くAmazon
ありがたいけど、誰か搾取されてやしないだろうかと心配になる。

 

 

「ムラの未来、ヒトの未来」はこちらで書いた「対話型ファシリテーションの手ほどき」の中田豊一さんが共著。

そういえば中田さんから、「一時期にあの本が一気に数十冊出たので、何事かと担当者が首をかしげていました」とお返事をいただいた。やはり事務局をお騒がせしていたらしい。

きのう会った方も「実は僕も買ってたんですよ」と言ってたので、わたしの知らないところでも、本当にたくさんの方が買ってくださっていたみたい。
なんというか、ありがとうございます。わたしもこの本をたくさんの方が手にとってくださることをとてもうれしく思います。

ムラの未来さんのファシリテーション講座にも、来年はタイミングが合いますように。


「看護管理」のほうは、その「対話型ファシリテーションの手ほどき」勉強会の参加者さんが教えてくれたもの。中野民夫さんのお名前も見える。

 

 

どんどん積ん読本になってしまって、読めていない本がたくさん。

「プリズン・ブック・クラブ--コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年」、元かるたクイーン・楠木早紀さんの「瞬間の記憶力」、「外来種は本当に悪者か」etc...。

まともに本を読めない期間が続くのは、誠に遺憾である。

年末年始に山に籠ってまとめて読む。

 

 

「対話型ファシリテーションの手ほどき」自主勉強会/読書会をひらきました

 

 

9月と10月に「対話型ファシリテーションの手ほどき」という書籍をつかった勉強会的な読書会/読書会的な勉強会をひらいた。

 

この本は国際協力や国内外の地域づくりの分野で活動する、認定NPOムラのミライ代表理事・中田豊一さんの著作で、現場での試行錯誤の末に編み出されたファシリテーション(コミュニケーション)の手法・技術について書かれている。支援の現場で何に行き詰まり、それをどんな具体的なやり方で解消し、結局なにが課題だったのかを、そのときの会話の再現と共にわかりやすく、体型立てて説明してくれている。この手法を身に付けるためのワークも紹介されており、2、3人いればちょっとした練習をすることもできる。

 

わたしがこの本を知ったのは、心理カウンセラーの友人がおすすめしていたから。「ファシリテーションを学ぶのによい本をおすすめしてくださいと言われるとき、わたしはこれを挙げています」ということだった。

http://amzn.asia/d/11J7QvV


 

 

表紙に

「なぜ?」と聞かない質問術

「どうでした?」ではどうにもならない

と書いてあり、このフレーズがとても気になってすぐに注文した。

 

なぜ気になったかというと。


ある日小学生の息子が、「大人はどうしてすぐ"学校は好き?"って聞くの?好きかって聞かれたらそれ以外に言えない」というようなことを言っていて、わたしも確かにそれは嫌だなと思った、というようなことをFacebookに投稿したら、コメントが20ぐらいついて、ちょっとしたディスカッションの場になった。

 

その中で、「じゃあ、これからは"きょう学校どうだった?"って聞くようにします」というコメントが2、3あって、「なんだかそれも違うような気がするんです」とコメントをしてそのときは終わった。

 

けれどもその問いはわたしの中にずっと残っていて、その3ヶ月後にこの本の紹介を見て、この2つのフレーズ(「なぜ?」と聞かない質問術、「どうでした?」ではどうにもならない)を目にして、「もしかしてあのときのもやもやの答えがわかるかも?」とつながった。

 

実際に届いてみて読みはじめたら、今までになかったファシリテーションの切り口にすっかり夢中になってしまった。

 

そして「きょう学校どうだった?」ではダメな理由もハッキリとわかったので、「いつぞやの答えがこの本でわかった!」と興奮気味にまたFacebook投稿したら、今度はこの本を買う人が続出して、コメントやメッセージをくれた人だけで30人もいるというフィーバーぶりに。

 

そこで、「こんなにたくさんの人が同じ本を買っているなら、読書会ができるんじゃないのか?」と思い、投げかけてみたら、ぜひやってほしいという人が10人はいたので、場として設定することにしたのだった。これがひらくまでの経緯。

 

共同主催者も手を上げてくれ、2人で場を設計することになった。ファシリテーションをテーマに場をひらくのは実に3年ぶりで、正直なところファシリテーションのついての場をファシリテートするなんて考えたくもなかったぐらい、トラウマがあった。

 

わたしはかつて人にファシリテーションを教えるなどという仕事をしていた。

あんな無知で実践経験もろくになく、対人関係にも課題があったわたしが、人様にファシリテーションについて講義するなんて、今思うと全く恐ろしい話で…本当に今も冷や汗が出ている。

 

が、いざ流れを考えて詰めていくと、学びの場を組み立てていくその作業はなかなか楽しかった。「自分が参加したい場のイメージをただ形にしていけばいいんだ!」ということに、頭と手を動かしながら気がついた。

 

仲間内の気楽な勉強会、読書会とはいっても、いつもの小説の感想を自由に話している読書会とはまったく違う、場に来る全員が、「ここから何かを学びとりたい、疑問を解きたい」という気持ちをもっているわけだから、その全体のニーズを満たすためには、やはり設計図がないとうまくいかないだろうということで一致した。

 

とはいえ、2人のキャラクターや場の作り方が全然違うので、構成的にするか、非構成的にするかで若干意見の食い違いもあったりしたが、結局2人でつくって1回ずつファシリテートしてみることで解決した。

 

1回目にやってみて、わたしはベースの構成は決めておいて、当日は非構成的に進行したいタイプなのかもしれないという発見があった。

 

このメソッド自体は、「なぜ」「どうでした」を聴かない、いつ、どこ、だれ、なに、いくら、何人、何年、何回…等の事実を聴くのが基本。

シンプルだが非常にパワフルでであることを、本に載っていた3つのワークを実際にやって、ふりかえりをすることで実感することができた。やはり他者と共に体験し、ふりかえることは大きな学びになる。自分とは違う感想、感触、疑問を口にしてくれる他者の存在はありがたい。

 

さらにこの勉強会が終わったあとの日常での気づきも大きかった。

 

事実を聞いていくことで見えてくるのは、自分の浅ましさだったりする。

いかに
自分の描くストーリーに相手を乗せて運ぼうとしているか、
自分の設定した落としどころへ向かわせようとしているか、
自分が安心したいだけで聞いているか、
相手の進みたい方向ではなく、自分の興味、好奇心にのみ付き合わせているか、
相手の楽しそうな「様子」を見て、自分が満足したいか。

人も自分も、非難し追い詰める傾向にあるかも見えてくる。
よく、
いつも、
みんな、
全体的に、
絶対…

質問の言葉は、暴力になり得る。

 

「なぜ」「どう」が効くときもある。
でも、もう少し丁寧に分解すれば、もしかすると「なぜ」の中に、「何がほしくて」「何に対して」などが入っているかもしれない。

 

他の言葉で表現できるのに探索の手間を省いているということがある。
そして、その探索を相手にやらせている。

 

事実質問は、その点、脳が楽。
考えなくてよくて、思い出せばいい。
それでいて、今の、目の前の相手に近づいていけている感じがする。

 

尋問しているような、不躾な気がして戸惑う気持ちがあった、という声も出た。
質問されたほうに聞いてみると嫌な気持ちはしなかった、むしろ聞いてもらえてありがたかったというフィードバック。だから尋問とか不躾になるかどうかは、相手と自分との間の事実質問の言葉以外の、別の要素なのかもしれない。

 

今よりもっと熱心にファシリテーションの勉強をしていたときに、オープン・クエスチョンとクローズド・クエスチョンを使い分けるということを知り、それでも現場ではなにかとオープンクエスチョンが重宝されていたようなイメージがあり、わたし自身も偉そうに多用していたのだが、それは大きな間違いだったということにも気づいた。

 

なぜ場が意図と違い、漠として広がりすぎてしまうのかと言えば、事実質問が足りないという、ただそれだけだったのかもしれないのに、参加者のせいにする自分がいたのだった。当時の参加者さんに土下座して謝って回りたい気持ちになった。

 

相手に探索を促したいときでも、果たして目の前のその人にこの質問でよいのかという自問を経て行いたい。援助や支援を普段仕事で行っている人は、この点に注意が必要だという声も出た。相手を必要以上に揺さぶったり、疲れさせていないか、力を奪っていないか。

 

ファシリテーションとはなんなのか、未だにわたしもわからない。
このメソッドがファシリテーションなのかどうかもよくわからない。

 

けれど今回の勉強会がよかったのは、場をファシリテートするわたし自身があまりわかっていないということだった。教え授けることが目的ではなく、みんなで探求したかった。だからわかっている人が進行することで、場で生まれる学びを妨げる結果にならなくてよかったと思う。極端に構成的になりすぎることもなかった。

これは2人で場をつくったことも理由として大きかったと思う。

 

このメソッドは、他のファシリテーションの手法と対立しない。もし対立するとすれば、メソッドの利用自体に権力的な制限がかかっているはずだ。結局は話を聴く、話をする目の前の相手とどういう関係をつくりたいかだと思うから。

 

このメソッドをいつどの場面で誰を相手に使うのかや、これまで培ってきたメソッドやスキル、もともとのパーソナリティやキャラクターとどう組み合わせるのかは、使う人次第。その無限の可能性にわくわくする。勉強会に参加した人や、わたしの投稿を読んで本を買ってくれた人に会うと、その後の話を聞かせてもらうことが度々あり、そのドラマに心が揺さぶられる。中でも離婚一歩手前だった夫婦関係が改善するまでの話には、聴いていて涙があふれた。

 

後日、著者の中田さん本人にメールでご報告したところ、「国際協力や支援といった特定のシーンから生まれた手法であるが、日常で親子関係、夫婦関係に生かされているのは本当にうれしい」というようなお返事をいただいた。本の書きぶりと同じ、温かい人柄が感じられる文章に、一度お会いしてお礼を申し上げたい気持ちでいっぱいになった。

 

「こういうシーンで使いたい」という動機はとてもよいきっかけなのだけど、特定のシーンだけでいきなり話がきけるようにはならないので、誰に対しても、そして会って話す以外にも実践し、瞬間瞬間の自分を内省していくしかないのだなと思う。

 

人と人との間に起こることは、果てしないけど、取り組みがいがある。

 

 

※この本をつかった有料の読書会や勉強会等を開催する場合は、事前にムラのミライ事務局へ連絡が必要です。

 

 

コファシリしてくれたまぁちゃんのブログ

http://www.uedamasatoshi.com/?p=4228