ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

16時半からの上野公園

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みんなが帰りはじめる16時半ぐらいから上野公園へ行って、スタバでコーヒーを飲んだりチーズケーキを食べながら、日が傾いていくのを目の端に感じながら、それぞれに作業に没頭し、ハッと顔を上げるともう真っ暗で人もまばら……という過ごし方が好きで、息子を誘ってたまにやる。

 

科博やトーハクなど一部の館で金曜と土曜に夜間開館を実施しているので、それに入ることもあるし、たまに都美の売店を冷やかしたりもする。けれど、きのうはそういうのもなく、滑り台などの遊具がちょこっとあるところでめいっぱい遊んで、疲れた頃に暖をとりにいくのもよかった。広場では何もイベントはなくて、ただ冬の美しい日暮れの音があった。

 

スタバの客層が時間の経過とともに変わっていくのもおもしろい。一番星が出る頃にはこどもの姿はほとんどなくなり、ぐっと大人の時間になる。子連れの人々は、ずいぶん遠くから来ているのだろうか。というより、「動物園に行く!」とか目的がはっきりしているので、それが終われば居残る理由もないのか。

 

店を出て振り返ると、夜の暗い中に浮かび上がるこうこうと灯る明かりがまぶしい。エドワード・ホッパーの"Nighthawks at the diner"にも似ているけど、店内の人々はあの絵よりもずっと幸せそうに微笑んでいる。

 

わたしは小4まで大学の構内にある官舎で暮らしていた。他の領域から確かな力によって守られた広々とした公園の近くにいて、だいたいどこに何があるかわかっていて、その日の気分で自由にいたいところにいられて、知や芸術が人間にとって大切なものとされている…というあたりに、あの頃のことを思い出して満たされるのだろう。

 

なんということのない、穏やかで美しい冬のある日。

これもまた大切な記憶としてわたしの中に残ってゆく。

 

 

 

 

ことほぎラジオ(Podcast)第2話、配信しました

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久しぶりにブログに来ました。最近このブログの中でご覧いただいているページが、「この世界の片隅に」について書いた2本に集中していて、3桁PVぐらいいってたので、けっこうびびってました (^^; とても注目されている映画なんですね、やっぱり。

 

気を取り直して、ことほぎラジオ・第2話配信のお知らせです。

今回は、けいさんが能の話をしてくれています。

わたしは今回、人生で初めてこんなにガッツリと能の「あのこと」の話を聴いたり、話したりできて、とっても満たされている感じです。

 

70分程度あるので、家事や移動のときなどにいいかなと思います。

どこでどんなふうに聴いてくださるんだろう。

時空を超えたところにぽっかりと生まれたPodcastという茶席で、お待ちしてます。

 

 

*Blogから(右上におたよりフォームあります)

doremium.seesaa.net

 

 


Podcastから

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*集いのお知らせ* 《最終回のひとつ前》ブックトークカフェ#18

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集いのお知らせです。

 

武蔵小杉で正味1年半ほど続けてきたブックトークカフェも、その場の役割を終え、2月で終わることになりました。いつもの内容での開催は1月がラストです。

  ↓ 詳細、お申し込みはこちらから ↓ 

everevo.com

 

最終回の2月は、「ブックトークカフェ(読書会)のつくり方講座」と題した場をひらきます。

わたしがこれまでの6年間に培ってきた場づくり&読書会主催の知見をシェアしつつ、「読書会ちょっとやってみたいかも?」と思っている方と実際に企画を立てるワークをする予定です。

こちらは2/19(日)午後。申し込み開始次第、またお知らせします。

 

ご参加お待ちしております!

 

 

映画「この世界の片隅に」その他の感想

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ネタバレなしです(たぶん)。写真は漫画のほうですが、内容は映画が主です。

 

映画の「この世界の片隅に」の違和感についてはこちらでひと通り書いたけれど、違和感ではないところの書き足りない部分を、もう少しだらだらと書きます。

 

 

観たのはまだ半月前なのに、詳細な部分は記憶からこぼれて抜け落ち、今思い出すのは、色がとても美しかったこと。どんなものを描いていても、戦闘機が飛んでいるシーンでさえも、風景の描写は美しかったこと。線画の繊細さ、水彩絵の具の淡さ、やわらかさ、瑞々しさ。時間による光の違い。動きのなめらかさ。

 

空の印象。

高台から見た海の風景。

 

母が広島出身なので、のんの広島弁も心地よかった。子どもの頃に親戚の人たちにかけてもらった音とまったく一緒で、懐かしさでいっぱいになった。呉に連れて行ってもらったこともあって、のんびりとした暖かい日のことを思い出す。母もかつてこのような音に囲まれて生きていた時代もあったのかと思いながら観た。

 

音。効果音も、音楽も、歌も加わって、ひとつの確固とした世界観が貫かれていたと感じた。この映画によって、日本のアニメーション映画の現場ではたらく人たちの技術の高さが示されたと思う。日本的なアニメーションの表現はまだまだ極まっていくし、広がってもいくのだろう。つくり手への敬意を込めて、それに対する報酬(金銭的に受け取るものや地位や名誉など)がリーズナブルなものであってほしいと願う。

 

 

そういうものとは別に、作り手の意図とか人物の描き方ということの前に、そもそも、と強く思ったのが、「わたしは戦争はほんとうに嫌だ」ということだった。

 

こんな状況は、こんな世界は、嫌だ。

 

戦闘機が当たり前のように飛ぶ。防空壕を掘る。

防空警報が鳴ったら、手順通りに逃げる。身を潜める。

無力なまま一方的に狙われる。

「戦力」と言葉が、戦争ができる力、人を殺すに十分な力という意味を持ち、人が選別されていく。逼迫してくると低年齢化していく。

だれでも寿命をまっとうする前に、命が他者によって奪われる可能性がある。

直接的に。間接的に。

生き延びるために、一般市民が兵器や救命について学ぶ。

 

食糧が自由に買えなくなっていく、少しずつ配給に切り替わっていく、配給されなくなっていく、そのへんにあるものでしのいでいく、工夫の限界を超えたらもうあとはあるもので我慢していくか想像して楽しむ。

毎日少しずつ(あるいは突然に)少ない方へと、選択が狭まるほうへと変わっていく暮らし。あるだけまし。

小さい頃から住んでいた家が一瞬で破壊される。

 

怪我と病気に怯える。不衛生な環境。

 

起こってしまったらそうせざるを得ないんだろうな、ということすらも思いたくない。

この映画を観て、そんな覚悟をするのなんか絶対に嫌だ。

 

わたしが映画の中で涙が出たのは、あんなに美しいと感じた呉の街に、バラバラと落とされていく焼夷弾を上空からの視点で見せるシーン。

大切にしているものが一瞬で喪われたり、破壊されるのは辛い。

たとえ後から立ち上がることがわかっていても。

 

わたしは戦争や戦闘や破壊モノを一切観ません!というのでもない。

スター・ウォーズが好きだ。

でもこれは日本に本当にあった戦争を描いているから、何をか思わずにはいられない。

 

 

戦争は嫌だ。

 

 

 

 

 

 

 

山と新年

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あけましておめでとうございます。

今年も当ブログをどうぞよろしくお願いいたします。

 

年末年始は実家で過ごしています。

きのうはふと思い立って、父と息子と甥との4人で、近くの山に登りました。車をちょっと走らせれば、山まですぐ行けるのがうれしい。所要時間4時間だけど、岩場が多くてなかなか楽しいコースでした。

 

去年友人に連れて行ってもらった山で、息子はいつの間にかたくさんのことを学んでいたようで、きのうは、自分から挨拶する、人と競わない、道を譲る、無理をしない、パーティを待つ、などしていました。よしよし。

 

ここは、真ん中に湖があって、周りに平野があって、その周りを山々が囲む地形になっています。山の恵みが川に流れ湖に注ぐ。湖から流れる川はやがて海に至る。そういう自然の仕組みが、日常の中で体感できる豊かな土地です。歴史と文化と自然。ここで生まれ育ってよかったです。

 

思い起こせば幼い頃、父と毎週末のように登っていたので、山はわたしにとってとても馴染み深い場所なのでした。もうずっと長いあいだこの感覚から離れてしまっていたけれど、やっぱり山にはわたしのルーツがあるなぁときのうあらためて思いました。大事にしたいです。

 

 

山について思うこと。

 

山には頂上がある。

山の形はいろいろあって、広々とした平野にひとつだけぽこんとそびえている山では、その頂上は「一番高いところ」だからわかりやすい。

でも峰がいくつもある広がりのある山の場合、どこから眺めるか、どこから登るかによって、必ずしも一番高いところが頂上と言い難い感じがある。

 

この登山口から登りたいし、このルートを辿りたいし、その結果として着いた「高いところ」を自分にとってのとりあえずの頂上としてもいいんじゃないか。必ずしも絶対的な標高で測っているわけではないというか。

 

ここよりももっと高い頂上があるとわかっていて、その存在を知って/感じているとき、これ以上行くと体力気力を使い果たす予感がするならば、一旦ここでよしとして帰るという勇気はもちたい。次回また行ってみることもできる(行きたければ)。挑戦しないわけでも、諦めるわけでも、足るを知るわけでもなく、ここもまたひとつの頂上として眺めを一旦味わいきる。他と比較しての最上位よりも、自分にとっての一番よい眺めを求める。渇望はある。

 

わたしの新しい年の「山の登り方」は、ちょうどこんなふうかなぁ。

積極を大切に生きたいと思います。

 

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場づくりについての何度めかのユリイカ

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「人はなぜそのようであるか」
「なにが人をそのようにさせるか」

このふたつのテーマを、わたしは小さい頃から探究してきて、そのために日々せっせと場をこしらえているのだ、きっと。

…と、ユリイカしたのが今年の前半。


課題解決、課題共有、意思決定、協働共創、組織開発、事業創造、人材育成...。

そういうものが目的の場のワークショップ・デザインやファシリテーションをいくら勉強しても全くできるようにならなくて、「論理的思考をせよ!」「ビジネス感覚をもて!」と言われても頭が真っ白になってしまう。2012年〜2013年半ばまで。

あの時期は、バカな自分が嫌でしょうがなかった。

 

でも現場は大好きで、自分でひらくのも、参加するのも楽しくて、何が起こるかはわからないし、その場にいる人にしか味わえないダイナミズムをいつも感じていた。場をひらく人によって全然違う味わいになることも、次第にわかっていった。

 

「企画」の二文字だけで身が固まるけど、場をつくることに関わるなら、それが「企画」かどうかはどうでもよくてとにかく楽しくて、どんどんアイディアが浮かぶ。それが何につながるかはまったくわからなかったけど、とにかく片っ端からやってみた。やればやったで必ず何かを発見する。ふりかえって言語化する作業をひたすらやった。

何をやったか、一部しか記録していなくて大半は思い出せないけれど、多いときには月に8本ぐらい場をつくっていた。当時の状況を打破するためには、とにかくこの先に何かがあるんだと信じて、猛烈に進むしかないということもあった。

その中では、かつて学んだデザインの手法はかなり役に立った。 理論や技術を学び、それを自分流にアレンジし、自分のものにして立てていくこと。まさに守破離

 

人の学びや成長を促進、社会をよりよく、普及・啓発、ということを、わたしはあんまり意図していないのかもしれない。その日の場が終わったときにの「よい状態」を想定してプロセスをデザインする、という理論は入っているけれど、それが人の行動を過度に促進したり抑制するものであってほしくない。人の変化はもっとゆるやかで時間がかかるし、個別だし、ひとつの場だけでは成らないと思っている。

大切なのは、場ですることを通じて、自分がどう扱われたか・接してもらえたかではないか。

 

場をつくりはじめた頃は、「自分が変化のきっかけになりたい」と思っていたけれど、それも自分自身が人生で充実して満たされていくと、だんだんと考えなくなった。人に変化を促すような影響を与えたくて(つまり自分の力を誇示するために)場をひらいているのではない。

 

自分が無力だと思っていたけれども、探究テーマに沿ったことなら、どうも切れ味鋭くなれている気がするし、言葉が滑らかに出てくるし、堂々としている感じがある。それほど悩まなくてもアイディアが出るしプロセスが見える。抑えどころも実践を通してみえている。自分の深いところからの衝動から始まるものならば、なれる。自分がバカとかそういうことじゃないのかも、と思えてから楽になった。いろいろと抜け漏れはあるし、思い至らない部分もあるけれど、それも全部自分だけで引き受けなくていいということも知る。


論理思考的なワークショップやプログラムの開発ができる人は頭いいなぁ、すごいなぁと思うけど、自分がそれをできなくても今はあんまり悔しくない。「お客さん」でいられる。他の人との比較ではなく、わたし自身はなるべく、意図的に引き出すことはしたくないし、「これが足りていない人」という見立てを他者に対してしたくないし、人が発した意見の内容・起こしている行動だけに注目したくない感じがある。

 

場にいる人をそのまま聴きたいし、その場で起こることぜんぶを人の表現として見たり聴いたり味わったりしたい。その人が今そこに存在している。この池に石を投げ込んでいるときの波紋の出方(場への影響)を眺めたい。話すことより話しぶり、見えてくる感情、存在感を大切にできたらと思っているんだろう。できないときの自分の中の葛藤も含め。

 

場で何が起こっているのか、本質はなにかといつも探しているし、その人の本来性にふれたい、という欲求がある。たぶん。

人がなにかの役割や立場に拠ってのみ、そこに存在しているときは苦しい。意図するとすれば、安心して役割や立場以外からの声を発せられる場でありたい。

 

 

映画「この世界の片隅に」の違和感

 

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映画「この世界の片隅に」を観た感想です。

ネタバレあります。違和感について書いています。

「原作通りに描くことが正しい」ではなく、「原作と映画の相違点から自分が感じること」を書いています。

今年のはじめに漫画を読み、12月中旬に映画を観ました。

それから友人がひらいた「"この世界の片隅に"を観て違和感を語る会」に参加しました。以下にはそのときの対話の収穫も含まれています。

 

 

◆すずさんの人物像

わたしの中では、原作でこうのさんが描いたすずさんは、清も濁も理知も狂気も内に含み、またそれに自覚的でもある人で、最初こそほんわりと描かれているけれど、物語が進むうちに、本来の強さを源として、美しい大人の女性に成長していくという印象だった。一方、映画では最初から最後まで、無垢で無知で健気な少女として描かれていたところに、最も違和感を覚えた。

映画では、「絵を描く人」として、すずさんのアーティスト性を際立たせたところに、同じく描き手である監督の共感や思い入れは見られたけれども、根拠のない純真さが強まっているように感じた。さらに、のんの声やセリフの改変によって少女性(処女性?聖母性?)のようなものが被せられていて、特に白木りんさんとの交流から生まれる揺らぎ、嫉妬、愛憎をバッサリと捨てたことで、すずさんの中の「りんさん的」な(対応させるとすれば娼婦性?文字通り?)部分を無いものとしているように感じた。りんさんの登場を最小限に留めたことで緊張は和らぎ、ほとんど巫女的なすずさんによって、映画世界の均衡は「平和に保たれて」いる。

それ以外の「女」は、「母は強し(箪笥に米を隠しておく=最後はなんとかしてくれる)」をお義母さんが担い、「強がっているけど結局はツンデレ」を義姉・径子さんが担う。女たちがこのような役割分担をして銃後を守る一方で、男たちの存在は驚くほどに薄い。周作とすずさんの夫婦のつながりや対等性も薄い。

漫画では、りんさんを間に挟んだやりとりも多く、その中で徐々に夫婦となっていく二人の様子が感じられる。そしてこの物語のタイトルにもなっている、「ありがとう、この世界の片隅にウチを見つけてくれて」というのは、喪失と傷みを生きてきたすずさんの内側から発せられた、「わたしは、ここで、あなたと生きていきます」という決意表明のように感じられたのだが、映画では「わたしをお嫁さんにしてくれてありがとう」というような、可愛らしい新妻的なトーンになっていたのは残念だ。癒し手として、「笑顔の器」としての女性ということなのだろうか。

玉音放送のあとの、「暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね。うちも知らんまま死にたかったなぁ......」が「海の向こうから来たお米…大豆…そんなもんで出来とるんじゃろうなあ、うちは。じぇけえ暴力にも屈せんとならんのかね」になる、この大きな変更に対する違和感も大きい。

正義の名の下、日常生活の運行と国民の責務を全うすることで「暴力」と戦ってきたすずさんが、太極旗がはためくのを見て、片隅の小さな一人であっても、自らも暴力で従わせていた側だったという事実を知り、絶望の中、慟哭するシーン。この重要な独白の変更は、すずさんを無知・無力なるものと扱っているばかりか、暴力に対する憤懣をきれいに抜き去っている。監督のインタビューを読んで、ますます納得できない箇所だった。

漫画の動力は、すずさんの内なる声や、すずさんが一人になったときに発する言葉だった。しかし、映画ではその多くがすっぱりと裁ち落とされたり、改変されていて、すずさんから野性味や力強さや聡明さを奪っているし、何がこの物語の動力になっているかがわかりづらくなったように感じた。

 

   

◆男性監督から見た女性像のズレ

映画の作り手は、心底この漫画に魅了されて、「あの世界を再現したい、色をつけて動かしたい、しゃべらせたい、2016年の日本に存在させたい」と考えていたのだろう。それぐらい美しく、再現性の高い作品だったし、漫画では表現できない部分をアニメーションの技術は可能にしていた。詳しく確認していないが、考証も相当丁寧にされていたと推測する。ただ、その思いをもってあの漫画を解釈した結果が、上記に述べたすずさんの人物像だとすれば、「男性から見た理想の女性はこのようである」ということを表しているのだろうと思った。

そこに作り手の悪意も作意もまったく感じられない。「本当に」「見えている」ものを「そのまま表現した」という実直さがあって、当然整合性は取れているし、悪意よりはむしろ、「すずさんで観客を癒す」ような善意も含まれているとさえ思えた。

けれども、すずさんを中心とした変更の数々は、女性としてのわたしが「生きづらい」としばしば感じる状況と根っこを同じくしていた。この監督が、男性が悪い、というのでもない。ただ、実感としてズレているし、そのように描かれるのは一女性として腹立たしかったり苦しかったりする、ということなのだ。

先日、とある読書会に参加したときに、友人が、「男性の視点からの話も聞いてみたい。女性だけで話していると片目を覆って見ているようなものだ」と発言して、その表現に「なるほど」と思った。

右目だけ、左目だけのどちらか片目で見ているとき、どちらからも微妙に角度がずれて見える。両方の目から見ることで、はじめて脳の中で調整が起こり、像を結んで奥行きや距離を感知し、対象を立体的に見ることができる。

男と女と、片目だけからの世界をお互い見せ合って、そのズレを修正し合い、一面的ではなくもっと立体的に世界を共にとらえられないかと、主に場づくりを通して日々模索しているわたしとしては、このような映画が題材として活発に取り上げられることを願ってもいる。

 

 

◆ささやかな日常の美しさ

どんなに辛く厳しい状況でも、人はこんなにもたくましく生きていくことができる。ささやかな日常を大切にし、家族や隣近所との連帯を強くすることで乗り切っていける...というメッセージが、これでもかと繰り出される。

「ささやかで尊い日常」。

他の題材ならば、響く。

楽しい、うれしい、希望に満ちる、心をふるわせ涙を流す。わたしも映画を観てそんな体験をしたいし、実際、この映画を観て涙がわくシーンもあった。

けれども、やはり戦争という題材で、それだけで果たしていいのだろうかとも思う。防ぎようのないものという諦め、わたしたちに抗う力はないことの証明するように涙するだけでいいのだろうか。今この時代にあって、この時期にあって、わたしたちは、戦争を「暴力」と表現していた一人の女性の生き様を見て、手放しで感動していていいのだろうかと、複雑な気持ちになる。(周作がすずさんに「細(こま)い」と言ったのは、無力という意味ではなかったはずだ)

漫画は戦争を描いていたと思う。片時も戦争のことを忘れることができない。戦時中に普通の人々がどんな日常を送っていたかを、こうのさんの言葉を借りれば「だらだらと」描いていた。女性がどのように生きていたのかも、あらためて考えさせられた。

それが映画になると、日常から見た戦争という側から見ることになる。これはカメラワークの問題だろう。画を動かすということは、どこかにカメラを設置しなければならない。より登場人物の見ているものにピントを合わせるし、音楽の効果もあって、時には観客は登場人物そのものになりきって躍動する。その結果、不思議なことにわたしの中では、「その世界に適応するために現状を受け入れる」ということが時々起こった。俯瞰してみようとしていても、諦念が芽生える瞬間があった。そこから引き戻してくれるはずのすずさんの言葉がないので、最後まで心地よく浸ろうと思ったら浸れそうだった。「しあはせの手紙」がその役目を果たすはずだが、映画では画だけが採用され、手紙の言葉は全て割愛されている。あれはなぜだったのだろう。

この映画で着目すべきは、その「辛くともかけがえのない日常」が「あること」だったのだろうか。自分に問うてみてもまだわからない。ただ、このまま為政者がコトを進めても、反発する力は起こらないままに国民は耐え忍ぶし、ささやかな日常に美を「自ら」見出してしまうのかもしれない、と将来への恐れを抱いている。

 

 

◆展開の速さ

君の名は。」でも感じたこれは最近の傾向なのだろうか、展開が恐ろしく速い。余白がない。どんどん連れて行かれる。速いのにメリハリがない。どのシーンもびっくりするぐらい一定の速度で進み、均等に公平に扱われている。終戦のシーンも「しあはせの手紙」のくだりさえも。尺の問題だけではないように思う。割いたコマ数、秒数だけ見ても、「これこそが描きたかった!」というシーンを、残念ながらわたしには見つけられなかった。(友人は「ここに絵の具があったら!」がまさにそのシーンだという意見)

また、漫画はストーリーが進む中にも、解説コラム、図解があったり、作中漫画が入ったり、ペンやクレヨンや筆など画材も様々に表現されていた。読み手は、それらの表現のテンポの違いや、そのときの自分の心の動きに即してページをめくることができていたが、映画では十分に噛む間もなく、シークエンスやエピソードがどんどん消化されていくように感じられた。これは漫画とアニメ映画の特性の違いもあるのだとは思うけれど。

 

 

 

この物語について語ろうとするとき、自分の知識の浅さを呪う気持ちが起きて、なかなか手がつけられなかった。それでも、漫画を読みながら、少ないながらも戦争に関わる自分自身の記憶を引き出そうと、懸命の捜索をしていた。その気持ちを忘れずにいたい。

切り取る部分、光を当てる場所や角度によって、全く異なる物語が出てくるのが戦争で、その膨大さ、複雑さ、多面性に圧倒されるばかりだけれども、知り続けなければ、学び続けなければと思う。わたし自身もまた「記憶の器」として生きる覚悟をもって。

 

最後に、映画をどのように観るかは個人の自由であり、これは一つの見方に過ぎず、他を否定するものではないことを付け加えたい。

 

 

 

 

 

 

はじまりはささやかで不完全

 

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かるたCafeの第1回の告知が出てきました。

 

こんなでした。

ちょうど5年前の今日。これが20年ぶりに人と百人一首する場になるというわくわくと、だれか来てくれるかなぁというどきどきと、両方の気持ちでした。

 

はじまりの声はこんなふうにごくごく小さくてささやかで不完全なもので、こんなことが起きたらどうしようとか、将来的にこうしたいとか一切ありませんでした。ただやりたいことをやってみただけ。

 

このことは、このあとにも、かるたでもかるた以外でも、何度も何度も何度も経験することになりました。はじまりはささやかで不完全なものだということを体感できたのは大きかった。そして、そのときは自分がなぜやっているのか、なにをやっているのかはわからなくても、後々に、しばしばすごく後になってからわかることもある、という経験もしました。だからやっているときは、そのときの心のままに、ただ夢中でやっていればいいんだという自分なりの指針もできました。

 

2011年より前のわたしは、「場をつくる」なんて言葉は知らなかったし、飲み会の幹事をするのさえも嫌で、イベントに参加するのも面倒くさいし、人と交流することにも興味がないような人間でした。場という概念を知って、人とのつながりにこの世界の希望を見出したことで、自分が本来望んでいる方角へぐいっと舵を切れたように思います。

 

わたしはこれからもこんなふうに生きていけたらと思う。こんなふうとは、自分の中の小さな声に耳を傾け、希望をもって小さくはじめることを積み重ねるとか、人と関わり合っていくとか…かな。それから、こういう道のりや風景もあるんだなぁということを、なんの目的かはわからないけど、これからも思いつくままに表現していきたいです。

 

今年もたくさんの方が一緒に場をつくってくださり、応援してくださり、関心を寄せてくださいました。

ほんとうにありがとうございました。

 

 

クリスマスプレゼント

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今年の12月はやたらと忙しくて、飾り付けをする余裕もない上に、24日と25日はわたしと息子は別々に過ごしていたので、我が家にはクリスマスという感じが一切なかった。けれど息子が帰宅してサンタさんが来ていないと、それはそれでガッカリするかなと思い、「サンタさんからのプレゼント」は用意しておいた。

 

特にサンタさんへのお願いもなかったし、息子が今とても興味を持っていることもとりたててないし、わたしもあまり物欲がないので思いつかず、友人らに聞き回ってなんとか決めたのが、この図鑑。

 

綺麗な写真が満載だよ、種類が多いよ、実物大だよ、という売り文句の図鑑とは一線を画す、挿画や装丁が美しい。大人っぽい。子ども向けだからと子どもっぽくするのではなく、美しいものを手渡したいという作り手の思いが感じられる。

 

息子は、「この本、ぼくにぴったりだ!」と大喜びしていた。それでも去年ほどには喜んでいない感じが、少し寂しいような嬉しいような気がする。

 

去年は、これまでになくサンタさんを待ちわびていた。

サンタさんはどんな人なんだろう?
日本語はしゃべれる?
いろんな絵本を読んだけど、友だちもいろいろ言ってるけど、どれもほんとじゃない気がする…きっとこんなふうだよ!......と、自分だけのサンタさんのイメージが息子の中でどんどん形作られていってる感じに、わたしもわくわくした。25日の朝、息子は飛び起きて、サンタさんからの手紙(わたしが書いた)を読んでやると、「サンタさん、優しい…!」と号泣していた。

 

つまり今年、息子はずいぶん強く大きくなったということなのかもしれない。だとしたらそれはとても喜ばしいことだ。

 

自分が世界から愛されていることの心強さとか、自分のがんばりを誰かが密かに見ていてくれる嬉しさとか、この世にはいろんな秘密や不思議があるんだという敬虔さが、クリスマスやサンタさんにまつわることにはあるように思う。

これがひとつの生きる力の源として、心の深いところに降り積もってくれますようにとわたしは願う。

いつか魔法が解けても、その降り積もったものは、きっと息子を助けてくれるはずだから。

 

*集いのお知らせ* 読書会『いのちを"つくって"もいいですか?』

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表現の場づくりを探究するせいこと、友人で編集者の小林潤さんとで、
小林さんの担当本『いのちを"つくって"もいいですか?』の読書会をひらきます。

 

本書は、「いのち」を巡るさまざまな問題に長く取り組んできた宗教学者島薗進さんが、目覚ましい発展を続ける現代の生命科学と、私たちのいのちの倫理との関わりを哲学的に問い、考えた一冊です。

 

誰もが願う「より健康に、より長く生きたい」という希望。 

最新のバイオテクノロジーに根ざす現代医療は、
iPS細胞と再生医療の開発、 出生前診断の導入、遺伝子への介入等によって、
その願いを着実に叶えつつあります。

より「良く」生きるためにわたしたちが望み選んだことは、
これまでのところは、幸福な結果をもたらしてきたかもしれません。

しかし、このままの方向へ進んでいくと、
わたしたちはやがて「いのちをつくり変える」領域に踏み込んでしまうのではないか? 既にそのようなことが可能になっているかもしれないときに、
わたしたちは一人ひとり、どのような考えの元、選択をしていけばいいのか?

 

考えを巡らしてもすぐに壁に行き当たってしまうような重いテーマですが、
身近には感じられなくても、ケガや病気、妊娠・出産、死に直面したとき、
一人ひとりが知らず知らずのうちに既にこのテーマにふれています。

 

まずはこのテキストをきっかけに、
自分の事や身近な人の事として話しはじめませんか。

 

センシティブな内容ではありますが、タブー視せずに、批判を恐れずに、
安心で安全な中で気軽に口にできたらと思い、この場を企画しました。

一度足を止めて、一人ひとりがもつ「いのち」に対するあやふやな思いや考えを
聴き合えたらと願っています。

 

全編の読了を推奨していますが、読書会では本書の《序章〜第3章》について話し合います。

 

ご参加をお待ちしております。

 

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日 時: 2017年1月29日(日)10:00-12:00(終了後希望者のみ12:00-13:00ランチ)

会 場: JR日暮里駅付近の会場(お申し込みの方にご連絡します)

定 員: 8名(主催者2名と合わせて最大10名の場になります)

対 象: 大学生以上。 医療や生命科学の専門知識は不要です。

参加費: 2,800円(おやつ付)

参加条件:書籍『いのちを"つくって"もいいですか?』序章〜第3章を読了。
     こちらから購入できます>>http://amzn.asia/902irK7
     気になる箇所に付箋を貼ったり、感想をメモされるのをおすすめします。      

持ち物: 書籍『いのちを"つくって"もいいですか?』    
     入手ルートは問いません(買っても、借りても)

 

★★お申し込みフォーム★★
http://bit.ly/2hRPU52

お問い合わせ:seiko.funanokawa★gmail.com(★→@)

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本書に関連した小林さんの連載もご参考までに!

note.mu

 

 

Amazon購入ページ

いのちを“つくって

いのちを“つくって"もいいですか?―生命科学のジレンマを考える哲学講義

 

 

かるたでふりかえる2016年

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今年最後のかるたの練習会でした。


夏に競技かるたをもっとやりたいメンバーを集めて練習会を発足して、かるたCafeとは別に練習会の日をつくって、稽古をつけてもらって、大会に出て...それ以外に起こった出来事との相互反応の中で、見える風景がぐっと変わった一年でした。

 

いくつかのターニングポイントの中で、今年5月にやったメンバーとの対戦がひときわ思い出深く残っています。ちょうど定位置を決めはじめた頃。

運命戦になり、自陣は「ありあ」、敵陣は「あらざ」。「ありま」も「あらし」ももう出ているので、決まり字は「あり」か「あら」しかない状態。音としては「AR」まで同じで、そのあとに来る音が「I」か「A」かを聞き分けるという難しい局面。頭が真っ白になりながら、自陣を守るとか敵陣を抜くとか全く考えずに、ただ音に反応していました。周りで見ていたメンバーに、「運命戦で、しかも"あら"で敵陣抜いたの!すごい!」という声が上がってはじめて、「あ、抜いたんだ、取れたんだ」と思考が追いついたのを覚えています。そのときに何回目かの「かるたっておもしろい」という興奮がありました。

 


長らく、競技かるたって競技をして勝ち負けを争っているだけなんだと思っていた。でもそうではない、そんな浅いものではありませんでした。少なくともわたしにとっては。「これは何だ?ここでは何が起こっているんだ?ここでわたしは何をしているんだ?」と目を凝らすと見えてくる、その奥深さにいつも心動かされています。


厳格なルールのある安全な場で、本気で挑んでくる相手と競技することを通じて、自分の事から、自分自身から絶対に手を離してはいけないこと、自分の人生の責任を取り続けていくこと、小さな覚悟をたくさん重ねていくタフさを学んでいます。


場にいるとき、わたしはこの上なく孤独だけれど、同時にこれこそが、この安らぎこそが、わたしが求めていたものだったのだとも思う。そのとき場に対して神聖さを感じるし、敬う気持ちが自然と起こる。「畳の上の格闘技」なんて亜流みたいな表現じゃなく、「札道」とでも名付けたらどうでしょうか。


あとからはじめた人や若くて反応のいい人にどんどん抜かされる、やってもやっても敵わない人がいる、他にもやりたいことがいっぱいあってかるただけに熱中できない、子育て・家事・仕事ぜんぶ一馬力でやっているからという言い訳...そういうわたしとして、情けなさも恥もプライドもぜんぶ棄てて臨むしかない場は、いつも厳しくて優しい。


練習会の立ち上げを通じて、「みんなが望むことをやる」という場をひらく者としての学びもとても大きかったです。場に集うみんなのことを考える、一緒に運営している人を思うことをわたしはときどき手を抜いてしまう。わたしの楽しみや望みも大切にしながら、みんなのことも考えるということが、ようやくできつつあるかな、遅まきながら大人の階段をようやく上りはじめたかなと思う。それでもわたしは偉そうにしたりする必要もなくて、何かを為さなくてもよくて、「せいこさんはいてくれればいいから」と言ってもらえるのが、すごく幸せ。見えないところで場の動力でありつづけたいな。


来年はどんな新しい景色が見えるんだろう。楽しみです。
とりあえずは1/9の近江神宮での高松宮杯まであと17日。

 

Year-End Collageの会、ひらきました

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ごくごく親しい友人たちと9人で、「Year-End Collage〜2016年をふりかえり、2017年を望む」と題したコラージュ製作の場をひらきました。

2011年ごろからはじめた年末/年始のコラージュも、もう6年目。節目のときに作ると、充実感がもてたり、気持ちがあらたまるように思います。

コラージュがより自分の中から出てきたものの表現となれるよう、製作の前にふりかえる時間をもつのですが、きょうは、こんなやり方で進めました。

手帳で1年間の「予定」を丁寧に眺めたあと、そのとき胸に去来している気持ちをペアになって聴いてもらう。話が終わったら、聴いていた人から、話の中に含まれていたと思う言葉をリストの中から探してフィードバックしてもらう...というもの。

わたしが受けとったのは、

Authenticity(自分に本物である), Self-Acceptance(自己受容), Initiative(自発性), Mattering to Myself(自己価値の承認), Independence(自立), Connection(つながり),Learning(学び), Pride(誇り) 

どれもうれしかったのですが、中でもAuthenticityとIndependenceは自分でもしみじみとする言葉でした。そう、それが大切だったんだよね、という。

そのあとに作ったのが上のコラージュです。
整然としつつも静かに上に伸びていこうとする感じが、今の自分らしいと感じました。

 

みんなが作ったものも、一人ひとり全然違っていて、それぞれの世界観が表れていました。

切ったり貼ったりしゃべったり。ボディワークを入れてゆるんだりしながら。

わーこれ楽しいね、楽しいね、とただ言い合う、わきあいあいとした場でした。

完成後は、近所のお店の美味しいアップルパイを食べながら、自分の作品を発表。

こんなことを考えながら選んだり貼ったりしたよと。

見ている人は、その作品から受ける印象を返していく。

それによってまた気づくことがあったり、受け止めてもらえるうれしさがあったり。

 

コラージュの場は、「見ればわかる」という即時性と、言語と非言語を行き来する振り子感覚があって、楽しいのだと思います。

 

また来年の年末にみんなとできますように。

きっとそのころにはまた「芸風」も幾分変わっていることでしょう。

刻一刻と、変わり続けるわたしたち。

 

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2014年に取り組んでいたのは、0歳の子どもを育てる女性向けのコラージュの場でした。自分の時間がなかなか作りにくい時期に、なんとか少しでも、夢中で切ったり貼ったり、自分に意識を向ける時間が持てればと、産後ドゥーラの友人に見守り保育に入ってもらっていました。

今はその活動はお休み中ですが、機会があったり、リクエストがあればやってみたいな。

 

 

望むのは死刑ですか?〜考え悩む“世論” @ EUROPA HOUSE

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11/17  駐日欧州連合代表部(通称:EUROPA HOUSE)にて行われたシンポジウムに参加した。書きたいことはたくさんあるのだけど、できるだけ落ち着いて一つずつ書いていこうと思う。

 

この日のプログラムは、死刑存置派(現行制度の維持)の弁護士と廃止派の弁護士のそれぞれのプレゼンテーションがあり、ドキュメンタリー映画「望むのは死刑ですか?〜考え悩む“世論”」を鑑賞し、弁護士への質疑応答という流れ。

 

EUの日本における出先機関でこのシンポジウムを開催するのは、EUが加盟国はもちろん、世界に対して死刑制度の撤廃を求める運動を行なっていることが背景にある。(だから存置派の弁護士に対し、「この場はものすごいアウェイなのによく来てくださいましたね」と冒頭に感謝が述べられていた)

www.euinjapan.jp

 

弁護士2名のプレゼンテーションと、上映、質疑応答を見て聴いていて、議論の機会なく物事が決まっていく現状を、やはりどうにかしたいと思った。存置にしても廃止にしても、国民が等しく情報を得られ、どんな意見であっても他者と議論し、一人ひとりが考え尽くした末に決定していきたいと。なぜなら死刑囚に限らず、被害者も含めたその手続きの全てが人の命に関わることだから。もしこのドキュメンタリー映画のような「審議型意識調査」という場があり、有権者全員が参加した上で国民投票などしたら、結果はどうなるのだろうか?

 

映画の中では、審議前、審議中、審議後とアンケートを採っている。興味深いのは、「ぜったい存置/どちらかといえば存置/ぜったい廃止/どちらかといえば廃止/わからない」の割合自体は、審議の前後でほとんど変わらないが、半数近い人が意見を変えている点と、その選択をした理由の記述式回答欄には明確な質的変化が見られる点。「漠然と」選ばれた回答ではない、これは非常に重要なことだと思った。そう、丁寧にデザインされた場で尊重をもって接してもらえたら、人間は考えるのだ。考えた上で意思決定をするのだ。そうわたしは信じたい。

 

質疑応答の時間に、一人の女性が「看護師はその人が何者であれケアをします。職務として使命として人の命を助けることを日々行っている自分がいる一方で、国家は人を殺める。その行いは如何でしょうか?」というようなことを投げかけられた。弁護士への質問というよりも、会場に対して問うていると感じた。同時に、会場にいた私を含めて残り99人の人にもそれぞれに「話」があったはずなのだ。それを聴きあえたらよかったのにと思った。この日のテーマは「死刑について議論しよう」だったので、その時間が持たれなかったのは非常に残念だった。

 

残念つながりで言えば、弁護士さんたちは「この中には犯罪被害者はいないと思うが」とおっしゃったが、なぜわかるのか?見た目ではわからない。被害者もいれば加害者もいるかもしれない。「いるかもしれない」という前提で話をしてほしかったというのは両氏に対して思う。また、自分が被害者および身近な人が被害者になるかもしれないことは言われても、「自分が人を殺すかもしれない」の方は誰も口にしなくて、そこは暗黙の前提になっている気がするのもわたしには不思議だった。

 

なぜ自分にとって死刑がこんなに気になるのか。

考えはじめるきっかけになったのは、1987年に新聞で見た帝銀事件の平沢貞通さんの獄中死。そのときにはじめて冤罪という言葉を知った。父に意味を尋ねると、岩波新書の「冤罪」という本を買ってくれたので、それを貪るように読んだ。正義感の強い子どもだったので、「なぜこんなことが起こるのだろう」と怒りに震えた。しかも平沢さんの死後も、遺族と支援者が名誉回復のために再審請求をするも却下され続けていて、その数はなんと20回以上。わたしに考えるきっかけを与えた平沢さんの事件は、わたしが大人になってもまだ続いていて、全く終わっていない。多くの人の人生を巻き込んでいくこの「裁き」の結果。このシンポジウムの少し前に、ドキュメンタリー映画「袴田巌 夢の間の世の中」も観ていたので、今もまだ暗澹たる思いを抱え続けている。

 

さらに、このシンポジウムの直前の11/11に一人の死刑執行があったことを知らなかったこともショックだった。つまり関心があっても普通に暮らしていて目にしないぐらい、死刑というものがわたしたちの社会の中で実にひっそりと執行されているということなのだろうと思う。これで現在の確定死刑囚は129人、裁判員裁判で2人目の死刑執行となった。裁判員裁判、という点にも非常に心が揺らぐ。

 

存置か廃止か。立場によって様々な意見がある。簡単には白黒つけられないのはわかっている。でも今のところわたしは、「殺してもいい人がいる」とされている国に暮らしている。わたしは自分が絞首刑台の板を外すスイッチを押すことはできないのに、誰かにわたしの代理で押させているということをいつも考える。

 

 

▼全国各地で様々な形での上映会が開催されている。

nozomu-shikei.wixsite.com

 

▼ドキュメンタリーでは簡単にしか触れていなかった「審議型意識調査」の結果レポートもこのサイトに全文掲載されている。

「世論という神話〜日本はなぜ、死刑を存置するのか (pdf)」



わたしはこれで生きます

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11月上旬の話。忘れないように書く。

 

下旬に出場する初めて競技かるたの大会のために、知人にお願いして稽古をつけてもらった。彼女はC級ホルダー。我々はとにかく正式な試合をしたことがないので、持ち物、服装、受付の仕方から、競技中の作法、ルール、戦術、構え方、取り方、マインドセットまで、とにかく試合における全部を逐一質問していき、お答えいただいた。かるた会に行っても、つきっきりで教えてもらえることはなかなかないので、こういう機会は本当にラッキーなのだ。

 

ちなみに多くのかるた会には、かるた教室という雰囲気はあまりない。全員が競技者で、会は基本的には練習する場なので。昨今のかるた人気で、入会するのに条件を課すかるた会が多いと聞く。100枚すべて暗記しているのとはもちろん、決まり字の暗記と札流しが2分以内にできるなど。なかなか初心者や初級者にはハードルが高い。札流しとは決まり字に慣れるための練習法で、100枚の札を上から決まり字を順に言いながら取っていく。C級の彼女はこれを45秒でできると言っていた。わたしはここに書くのが恥ずかしいぐらい遅い……。

 

いろいろ教わった中で、特に印象的だったのが、札を並べ直すときのこと。払ったり払われたりして位置がズレてバラバラになった札を並べ直したときに、対戦相手から「元の位置と違う」と言われることがある。そのときに、自分でもそうだったと思えば指摘通りに並べ直したらいいけれど、自分はそうは思わないとか、わからなくなったりしたら、「これでいきます!」と宣言してその新しい並びで進めちゃっていいのだそう。

 

それを聞いて、ああ、と思ったのは、「前はこうだったじゃないか」とか、「あのときはああだったくせに」とか、たとえ言われたとしても、「新しい自分でやっていく!」と自分が決めたらそれで進めたらいいんだ、という人生における覚悟と宣言のことだった。

 

わたしはこれでいきます。と宣言する。

わかりました。と相手も承認する。

そういうやり取りは、なんというかとても清々しい。

 

この知人は大人になってからかるたをはじめた人で、漫画「ちはやふる」を読んでハマって、最初は小学生のお子さんにやらせようと付き添いでかるた会に行ったら自分の方が抜けられなくなってしまったんだそう。お会いして話すと、競技かるたが大好きで大好きでたまらないという気持ちが伝わってきて、こちらまでうれしくなる。

 

試合の前日にも「勝ち負けよりも、試合の雰囲気を知り、札と音と、何より自分と向き合う時間を大切にしてください」というメッセージをくださり、大いに励まされた。

 

たった4人のために、「競技かるたをもっと好きになってほしいから」と、労を惜しまず稽古をつけに駆けつけてくださって、本当にありがたかった。謝礼も、会にカンパしますと受け取られなかった。本当にカッコいいのだ…。

 

おかげで我々は試合では自信をもって臨めたし、一人ひとりとしても、チームとしても、とてもよい試合ができた。

 

 

*集いのお知らせ* 映画「むかしMattoの町があった」を観て感想を話す会

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せいこと、谷中・根津・千駄木・上野桜木のまちで健康づくり活動を進める「まち健」との共同開催で、イタリア映画「むかしMattoの町があった」をみんなで観て感想を語る会をひらきます。

 

自由こそ治療だ!

 

「イタリアには精神科病院はない」ということをご存知でしょうか。

イタリアでは1978年に成立したバザーリア法により精神保健改革がはじまり、やがてイタリア全土の精神科病院が次々と解体されていきました。入院施設の代わりに役割を担う地域の精神保健サービスでは、精神の病をもった人々を隔離するのではなく、地域の一員として迎え入れています。また、単なる投薬による治療のみではなく、市民として回復し、市民として社会に貢献できる存在になれるようにすること、つまり自立を目指す支援が行われています。

この映画は、かつてのイタリアで劣悪な環境におかれた患者の自由のために尽くした精神科医フランコ・バザーリアの1961年からの半生と、その過程で起こる様々な困難、患者たちとの交流、そしてバザーリア法が成立するまでが描かれた物語です。(mattoは狂気をもつ人、「Mattoの町」は精神科病院の意)

精神の病とは、
その治療や回復とは、
人として生きるとは、
隣人と共に生きるとは、
などについて、皆さんと共に映画を通して感じ考えていけたらと思っています。

医療者からキーノートスピーチがありますが、鑑賞後の感想の時間は、専門的な話を詰めていくのではなく、様々な背景や立場や職業の方の自由で素朴な声を聴き合うことで、小さい発見がたくさん起こる場になればと願っています。

この映画は2編に分かれており、それぞれ100分程度ありますので、2日に分けて会をひらくことにしました。

 

2日間共でも、いずれかの日だけでも参加歓迎。
お申し込みをお待ちしております。

 

◆映画について
・映画予告編

www.youtube.com


・180人のmattoの会(バザーリア映画を自主上映する団体)
http://180matto.jp/about.php

 

 

◆参考図書
「精神病院はいらない!イタリア・バザーリア改革を達成させた愛弟子3人の証言」
http://amzn.asia/2eX23X2
※この書籍には「むかしmattoの町があった」のDVD付録があるので、どちらかの日程しか参加できない方は、本を買って鑑賞されるのも一案です。

 


《 開催概要 》——————————

●日  時:
・前半:2017年2月 4日(土)13:30〜17:00
 バザーリアが問題意識を持つ〜県当局から反対に遭いながらも病院改革に必死に取り組む〜病院を追われる
・後半:2017年2月11日(土)13:30〜17:00
 バザーリアが県立病院長に就任し病院改革が進む〜1978年国会がイタリア国内の全ての精神病院の廃止を決定
 ※2回目は1回目の続編です。

●会  場:谷中防災コミュニティセンター2F和室(谷中5-6-5)
     和室ですが床座が辛い方のために、先着8席で椅子がございます。

●アクセス:東京メトロ千代田線千駄木駅徒歩5分 または JR日暮里から徒歩8分  http://www.city.taito.lg.jp/index/shisetsu/hall/kuminkan/01575392.html

●参加費:各回2,000円(おやつ&運営カンパ1,000円含む)
     当日現金にてお支払いください。
     映画を観て感想を語る場のため、映画観賞のみのご参加はご遠慮ください。

●定  員:各回20名(主催者含む)

●対  象:大学生以上。託児はございませんので、小さいお子さんは信頼できる方に預け、単身でご参加ください。

 

●内  容:1.ご挨拶
     2.キーノートスピーチ
       精神科医・塚原美穂子さん、家庭医・孫大輔さん      
       (それぞれ1回目か2回目のいずれか)
     3.映画観賞
     4.おやつを食べながらあーだこーだと自由に感想を話す


★★申し込みフォーム★★
http://bit.ly/2gPpdhL
*各回先着順で受け付けます。

★キャンセルについて★
やむを得ずキャンセルされる場合は、必ず下記までご連絡ください。

 

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●問い合わせ先:seiko.funanokawa★gmail.com(★→@)

●主  催:せいこ(ヒトトビ〜人と美の表現活動研究室)
      http://hitotobi.hatenadiary.jp/
       谷根千まちばの健康プロジェクト(まち健)
      https://www.facebook.com/YanesenMachiken/

 

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