ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

ことほぎラジオ(Podcast)第3話、配信しました

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昨年末からはじめたPodcast「ことほぎラジオ」の第3話を配信しました。

今回は、わたしが「場をつくること」をテーマに話をしています。聴いてくれた人からさっそく、「羽田空港の背景音がとってもよかった」という感想をいただいています。みんな空港が好きなんだなぁ。

 

この「非常に個人的である」わたしの話は、いったいどのようにリスナーさんに受け取られていくのか、まったくわかりません。しかし、ラジオとしてお届けするこの作品の中に、誰かにとっての「きわめて個人的であるがゆえに投影できる」部分もあるといいな、と今の時点では思います。前回のけいさんの「能」の話がそうであったように。

 

「わたしは何を話していたのか」。時間が経てば経つほど発見があって、ああ、そうだったのか...と呆然とすること度々。

 

ミュージシャンが一枚のアルバムをリリースするときの、ファンの反応にふれる前の時点ですでに「何かが判った」と話しているインタビューや、自分で自分のアルバムをよく聴くことがあるとか、曲をセルフカバーするなど、その理由がずっとよくわからずにきたのだけど、このラジオを3回やってきてうっすらと理解できる気がします。わたしはミュージシャンでも芸人でもなんでもないのだけど。

少なくとも自分の声や話を恥ずかしがらずに何度も何度も聴けたり、公に流したりできるのは、これを作品として客観的にとらえているからで、つまりこれもひとつのわたしの「仕事」なんだろうと思います。

 

今回は全体で2時間10分収録したものを、最終的に65分まで編集しています。それでも含まれなかった時間の中で話されたことや起こったことも、最終版にはすべて含まれていて、それは本当に不思議なのです。これがリリースされる直前のわたしは、「編集する」ということについて非常に恐れを抱いていたのだけれど、ある人の耳や目や手をを通して現れるものもまた本物で、結局は「誰によって」というところが重要なのかと。

 

1回目、2回目、3回目と、人と人とが少しずつ知り合っていく、その普遍さも描かれている。残り9回の中で、それがどのような絵、どのような景色になってゆくのだろう。途上の景色、ふりかえって見える景色、それを相方のけいさんとリスナーさんと一緒に辿る旅が、これからもとても楽しみです。

 

よかったら聴いてみてください。

 

 

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映画「むかしMattoの町があった」を観て感想を話す会《前半》をひらきました

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2/4(土)まち健(谷根千まちばの健康プロジェクト)さんとの共催『映画「むかしMattoの町があった」を観て感想を話す会』の前半が無事に終了しました。19人で過ごした貴重な時間でした。

 

まずこの映画がとてもよいのです。いかにもなところが一切なくて、愛にあふれていた。正直、辛いシーンもあるのですが、不必要に人をいじめていなくて(ストーリー上はいじめられていますが)、ちゃんと一つひとつのエピソードに意味があって、個別に丁寧に展開・決着されていく。そこにはまるでバザーリアその人のもののような、あたたかい眼差しがありました。

 

鑑賞後の感想を話す時間は、様々な属性や立場の人たちと共に、「わたしたちは何を見たのか」という問いを少しずつ進めていきました。「精神の病と人間の尊厳」という繊細なテーマで、参加されている方がその病の本人、家族、友人、支援者などである可能性もあるので、とにかく丁寧にひらいていくことを心がけ、人数が多いことを活かす場にできるよう、ぎりぎりまで進行を見直していました。皆さんにとってよい体験になっているとよいのですが。

 

途中、Matto pericoloso(危険な狂人)という単語がわたしの耳にガーンと飛び込んできました。果たしてそうなのだろうか。クライシスと呼ばれる急性期の状況も描かれていて、それを見ると確かに驚いてしまう。でも何も原因やきっかけがなくてそうなっているわけではないのでは?

 

それは本当に病気なのか、病気と病気でないとはどう違うのか、だれが病気と判定するのか、本人だけを見ることで解決できるのか、家族も「病」を抱えているのではないか、家族へのケアがないのではないか、家と病院以外の選択肢はないのか、隔離とはなんのために、改革が対話を通じて行われてきたというところに驚きと感動がある、イタリア的な明るさに救われる、屋外の世界の美しさ、男女のすれ違い、日本の現状・挑戦...etc、話題は多岐にわたりました。

 

重いテーマなので一人で観ると沈み込むだけで終わりそうですが、こうしてみんなで聴いたり話したりできるとホッとして希望がもてるし、自分の考えもどんどん進んでいくように思います。

 

今週末2/11は、後半です。前半が「わぁ......まじで?」というところで終わっているのでとても楽しみです。ご参加予定の皆さん、運営チームの皆さん、どうぞ宜しくお願いします。

 

この映画は、上映会方式で普及していますが、映画館でもときどき観ることができます。今は田端の「Cinema Chupki」という映画館で上映しています。ご興味あればぜひ!
2月2日〜28日『むかしMattoの町があった』 | CINEMA Chupki TABATA

焚き火

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去年の1月31日の話、再録。

 

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息子を連れて、東京の山のほうの河原で焚き火をしてきた。

 

ほとんど初めて会う人たちと、焼けそうな食べ物を片っ端から焼いたり、ホットワインを飲んだり、ただ火を眺めたり、ぽつりぽつりと話したり。

 

子どもたちを河原に放つと、いつまでも石を放っているのでおもしろい。

 

小さい頃は、焚き火なんかどこでだってできたのに、2時間かけてはるばる行かないと焚き火ひとつできない環境にいる今の自分が不思議でならない。大人になったらなんてことなく火を取り扱い、子どもたちを周りに集わせてるものだと、幼い自分は思っていたから。焚き火がこんなに非日常なものになっていることを、まだうまく受け入れられていない。

 

出がけに近くで火事があり、噴煙が上がっていた。火を遊びに行くのがなんとも不謹慎な気がして、道中も気にかけながら。70代の方が顔にやけどをされたとか。ご無事でよかったけど、やけども辛いし、大事な家が焼けるのもどんなにか辛いことだろう。

 

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この家は一年経った今も路地の奥のほうで焼けただれたまま、解体されていない。直前まで暮らしを営んでいた痕跡のまま、焼け焦げた家財道具が風雨にさらされていて、なんとも言えない気持ちになる。

*集いのお知らせ* 2/19(日)「ブックトークカフェ(読書会)のつくり方講座」をひらきます

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2017/2/19(日)14:00-17:00 武蔵小杉のcosugi coboにて、

読書会を主催したい方向け
「ブックトークカフェ(読書会)のつくり方講座」をひらきます。

読書会体験→解説→企画→講評で3時間。

せいこの6年の場づくりノウハウを詰め込みます。

 

「これだけ考えれば、とりあえず告知はできる」という状態でお帰りいただけたらなーと思っています。

 

ご参加お待ちしております。

 

詳細・お申し込み>>

everevo.com

強くならないといけないの?


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友人に、競技かるたとは何か、という話をしていたときに「あー、でもきょうの試合負けちゃったんで悔しいなー。もっと強くなりたい」と漏らしたら、「強くならないといけないの?」と聞かれた。

 

あらためて素朴に問われると、「えっ、うーーん…」となった。考え続け、一夜明けて出てきたのはこれだった。

 

勝ちたいし強くなりたい。

それはもっともっと、という気持ちから来ている。

 

わたしは、もっともっと見たことのない景色を見てみたいと思っている。

それはわたしにとっては、かるたを通してしか見ることのできない景色。

それ自体が、息を飲むほど美しいものだから。

森羅万象の謎に、理に、一瞬指先がかすめたか、かすめないかというところへ行ける。

 

その景色と、そこに至るまでの道のりの中で、自分の人生と(そのつもりはなくても)関連付けてしまうような瞬間がふいにやってくる。「あの場で起こっていることは、過去のある時点で起こったあれそれものだ」、逆に言うと「今のこれはかるたで言うと"あのときのあの感じ"に似ている」というような。それを追いかけて、さらに思考を深めていくと、「ああ、そういうことだったのか」と、いくら考えてもわからなかった人生の謎がいきなり解けることが起こる。自分で解明できた喜びから生きる力が湧く。その感じは、誰かからありがたい説法や格言を聞かされることとは、比べ物にならないほどのパワフルさがある。

 

大人だからこそ取れるかるたってこういうところにあるんじゃないかと思っている。もっともっと深いかるた(和歌としても、競技としても)の魅力に迫っていける。それは子どもたちがやっているかるたとは、同じ場にあっても全然別物という気がする。負け惜しみでなく。

 

 

それから、カッコいい自分になりたい、相手にとって対戦するに価する自分になりたい、自分の納得いく取りがしたい、などもある。

 

もちろん実際に取り組んでいるときには、そんなことは考えていない。

もっと言うと、「かるたをしている」のではなく、「"それ"になっている」という状態。「それ」というのが、かるたなのか、場なのか、理なのか、なんなのかわからないけれども。

 

「勝った負けた」を競うことを通じて、その奥にある「しつらえ」に惹かれている。

それが、ことほぎラジオの第1話で相方のけいさんがくみとってくれたことなのだと思う。

 

なぜかるたはわたしをこんなにも楽しくさせるのか、魅了するのか、をこれからも考えていくと思う。その原動力になるのが、「勝ちたいし強くなりたい」で、それがある限り、わたしは探し求めていくんだろうな。

 

 

16時半からの上野公園

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みんなが帰りはじめる16時半ぐらいから上野公園へ行って、スタバでコーヒーを飲んだりチーズケーキを食べながら、日が傾いていくのを目の端に感じながら、それぞれに作業に没頭し、ハッと顔を上げるともう真っ暗で人もまばら……という過ごし方が好きで、息子を誘ってたまにやる。

 

科博やトーハクなど一部の館で金曜と土曜に夜間開館を実施しているので、それに入ることもあるし、たまに都美の売店を冷やかしたりもする。けれど、きのうはそういうのもなく、滑り台などの遊具がちょこっとあるところでめいっぱい遊んで、疲れた頃に暖をとりにいくのもよかった。広場では何もイベントはなくて、ただ冬の美しい日暮れの音があった。

 

スタバの客層が時間の経過とともに変わっていくのもおもしろい。一番星が出る頃にはこどもの姿はほとんどなくなり、ぐっと大人の時間になる。子連れの人々は、ずいぶん遠くから来ているのだろうか。というより、「動物園に行く!」とか目的がはっきりしているので、それが終われば居残る理由もないのか。

 

店を出て振り返ると、夜の暗い中に浮かび上がるこうこうと灯る明かりがまぶしい。エドワード・ホッパーの"Nighthawks at the diner"にも似ているけど、店内の人々はあの絵よりもずっと幸せそうに微笑んでいる。

 

わたしは小4まで大学の構内にある官舎で暮らしていた。他の領域から確かな力によって守られた広々とした公園の近くにいて、だいたいどこに何があるかわかっていて、その日の気分で自由にいたいところにいられて、知や芸術が人間にとって大切なものとされている…というあたりに、あの頃のことを思い出して満たされるのだろう。

 

なんということのない、穏やかで美しい冬のある日。

これもまた大切な記憶としてわたしの中に残ってゆく。

 

 

 

 

ことほぎラジオ(Podcast)第2話、配信しました

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久しぶりにブログに来ました。最近このブログの中でご覧いただいているページが、「この世界の片隅に」について書いた2本に集中していて、3桁PVぐらいいってたので、けっこうびびってました (^^; とても注目されている映画なんですね、やっぱり。

 

気を取り直して、ことほぎラジオ・第2話配信のお知らせです。

今回は、けいさんが能の話をしてくれています。

わたしは今回、人生で初めてこんなにガッツリと能の「あのこと」の話を聴いたり、話したりできて、とっても満たされている感じです。

 

70分程度あるので、家事や移動のときなどにいいかなと思います。

どこでどんなふうに聴いてくださるんだろう。

時空を超えたところにぽっかりと生まれたPodcastという茶席で、お待ちしてます。

 

 

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*集いのお知らせ* 《最終回のひとつ前》ブックトークカフェ#18

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集いのお知らせです。

 

武蔵小杉で正味1年半ほど続けてきたブックトークカフェも、その場の役割を終え、2月で終わることになりました。いつもの内容での開催は1月がラストです。

  ↓ 詳細、お申し込みはこちらから ↓ 

everevo.com

 

最終回の2月は、「ブックトークカフェ(読書会)のつくり方講座」と題した場をひらきます。

わたしがこれまでの6年間に培ってきた場づくり&読書会主催の知見をシェアしつつ、「読書会ちょっとやってみたいかも?」と思っている方と実際に企画を立てるワークをする予定です。

こちらは2/19(日)午後。申し込み開始次第、またお知らせします。

 

ご参加お待ちしております!

 

 

映画「この世界の片隅に」その他の感想

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ネタバレなしです(たぶん)。写真は漫画のほうですが、内容は映画が主です。

 

映画の「この世界の片隅に」の違和感についてはこちらでひと通り書いたけれど、違和感ではないところの書き足りない部分を、もう少しだらだらと書きます。

 

 

観たのはまだ半月前なのに、詳細な部分は記憶からこぼれて抜け落ち、今思い出すのは、色がとても美しかったこと。どんなものを描いていても、戦闘機が飛んでいるシーンでさえも、風景の描写は美しかったこと。線画の繊細さ、水彩絵の具の淡さ、やわらかさ、瑞々しさ。時間による光の違い。動きのなめらかさ。

 

空の印象。

高台から見た海の風景。

 

母が広島出身なので、のんの広島弁も心地よかった。子どもの頃に親戚の人たちにかけてもらった音とまったく一緒で、懐かしさでいっぱいになった。呉に連れて行ってもらったこともあって、のんびりとした暖かい日のことを思い出す。母もかつてこのような音に囲まれて生きていた時代もあったのかと思いながら観た。

 

音。効果音も、音楽も、歌も加わって、ひとつの確固とした世界観が貫かれていたと感じた。この映画によって、日本のアニメーション映画の現場ではたらく人たちの技術の高さが示されたと思う。日本的なアニメーションの表現はまだまだ極まっていくし、広がってもいくのだろう。つくり手への敬意を込めて、それに対する報酬(金銭的に受け取るものや地位や名誉など)がリーズナブルなものであってほしいと願う。

 

 

そういうものとは別に、作り手の意図とか人物の描き方ということの前に、そもそも、と強く思ったのが、「わたしは戦争はほんとうに嫌だ」ということだった。

 

こんな状況は、こんな世界は、嫌だ。

 

戦闘機が当たり前のように飛ぶ。防空壕を掘る。

防空警報が鳴ったら、手順通りに逃げる。身を潜める。

無力なまま一方的に狙われる。

「戦力」と言葉が、戦争ができる力、人を殺すに十分な力という意味を持ち、人が選別されていく。逼迫してくると低年齢化していく。

だれでも寿命をまっとうする前に、命が他者によって奪われる可能性がある。

直接的に。間接的に。

生き延びるために、一般市民が兵器や救命について学ぶ。

 

食糧が自由に買えなくなっていく、少しずつ配給に切り替わっていく、配給されなくなっていく、そのへんにあるものでしのいでいく、工夫の限界を超えたらもうあとはあるもので我慢していくか想像して楽しむ。

毎日少しずつ(あるいは突然に)少ない方へと、選択が狭まるほうへと変わっていく暮らし。あるだけまし。

小さい頃から住んでいた家が一瞬で破壊される。

 

怪我と病気に怯える。不衛生な環境。

 

起こってしまったらそうせざるを得ないんだろうな、ということすらも思いたくない。

この映画を観て、そんな覚悟をするのなんか絶対に嫌だ。

 

わたしが映画の中で涙が出たのは、あんなに美しいと感じた呉の街に、バラバラと落とされていく焼夷弾を上空からの視点で見せるシーン。

大切にしているものが一瞬で喪われたり、破壊されるのは辛い。

たとえ後から立ち上がることがわかっていても。

 

わたしは戦争や戦闘や破壊モノを一切観ません!というのでもない。

スター・ウォーズが好きだ。

でもこれは日本に本当にあった戦争を描いているから、何をか思わずにはいられない。

 

 

戦争は嫌だ。

 

 

 

 

 

 

 

山と新年

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あけましておめでとうございます。

今年も当ブログをどうぞよろしくお願いいたします。

 

年末年始は実家で過ごしています。

きのうはふと思い立って、父と息子と甥との4人で、近くの山に登りました。車をちょっと走らせれば、山まですぐ行けるのがうれしい。所要時間4時間だけど、岩場が多くてなかなか楽しいコースでした。

 

去年友人に連れて行ってもらった山で、息子はいつの間にかたくさんのことを学んでいたようで、きのうは、自分から挨拶する、人と競わない、道を譲る、無理をしない、パーティを待つ、などしていました。よしよし。

 

ここは、真ん中に湖があって、周りに平野があって、その周りを山々が囲む地形になっています。山の恵みが川に流れ湖に注ぐ。湖から流れる川はやがて海に至る。そういう自然の仕組みが、日常の中で体感できる豊かな土地です。歴史と文化と自然。ここで生まれ育ってよかったです。

 

思い起こせば幼い頃、父と毎週末のように登っていたので、山はわたしにとってとても馴染み深い場所なのでした。もうずっと長いあいだこの感覚から離れてしまっていたけれど、やっぱり山にはわたしのルーツがあるなぁときのうあらためて思いました。大事にしたいです。

 

 

山について思うこと。

 

山には頂上がある。

山の形はいろいろあって、広々とした平野にひとつだけぽこんとそびえている山では、その頂上は「一番高いところ」だからわかりやすい。

でも峰がいくつもある広がりのある山の場合、どこから眺めるか、どこから登るかによって、必ずしも一番高いところが頂上と言い難い感じがある。

 

この登山口から登りたいし、このルートを辿りたいし、その結果として着いた「高いところ」を自分にとってのとりあえずの頂上としてもいいんじゃないか。必ずしも絶対的な標高で測っているわけではないというか。

 

ここよりももっと高い頂上があるとわかっていて、その存在を知って/感じているとき、これ以上行くと体力気力を使い果たす予感がするならば、一旦ここでよしとして帰るという勇気はもちたい。次回また行ってみることもできる(行きたければ)。挑戦しないわけでも、諦めるわけでも、足るを知るわけでもなく、ここもまたひとつの頂上として眺めを一旦味わいきる。他と比較しての最上位よりも、自分にとっての一番よい眺めを求める。渇望はある。

 

わたしの新しい年の「山の登り方」は、ちょうどこんなふうかなぁ。

積極を大切に生きたいと思います。

 

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場づくりについての何度めかのユリイカ

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「人はなぜそのようであるか」
「なにが人をそのようにさせるか」

このふたつのテーマを、わたしは小さい頃から探究してきて、そのために日々せっせと場をこしらえているのだ、きっと。

…と、ユリイカしたのが今年の前半。


課題解決、課題共有、意思決定、協働共創、組織開発、事業創造、人材育成...。

そういうものが目的の場のワークショップ・デザインやファシリテーションをいくら勉強しても全くできるようにならなくて、「論理的思考をせよ!」「ビジネス感覚をもて!」と言われても頭が真っ白になってしまう。2012年〜2013年半ばまで。

あの時期は、バカな自分が嫌でしょうがなかった。

 

でも現場は大好きで、自分でひらくのも、参加するのも楽しくて、何が起こるかはわからないし、その場にいる人にしか味わえないダイナミズムをいつも感じていた。場をひらく人によって全然違う味わいになることも、次第にわかっていった。

 

「企画」の二文字だけで身が固まるけど、場をつくることに関わるなら、それが「企画」かどうかはどうでもよくてとにかく楽しくて、どんどんアイディアが浮かぶ。それが何につながるかはまったくわからなかったけど、とにかく片っ端からやってみた。やればやったで必ず何かを発見する。ふりかえって言語化する作業をひたすらやった。

何をやったか、一部しか記録していなくて大半は思い出せないけれど、多いときには月に8本ぐらい場をつくっていた。当時の状況を打破するためには、とにかくこの先に何かがあるんだと信じて、猛烈に進むしかないということもあった。

その中では、かつて学んだデザインの手法はかなり役に立った。 理論や技術を学び、それを自分流にアレンジし、自分のものにして立てていくこと。まさに守破離

 

人の学びや成長を促進、社会をよりよく、普及・啓発、ということを、わたしはあんまり意図していないのかもしれない。その日の場が終わったときにの「よい状態」を想定してプロセスをデザインする、という理論は入っているけれど、それが人の行動を過度に促進したり抑制するものであってほしくない。人の変化はもっとゆるやかで時間がかかるし、個別だし、ひとつの場だけでは成らないと思っている。

大切なのは、場ですることを通じて、自分がどう扱われたか・接してもらえたかではないか。

 

場をつくりはじめた頃は、「自分が変化のきっかけになりたい」と思っていたけれど、それも自分自身が人生で充実して満たされていくと、だんだんと考えなくなった。人に変化を促すような影響を与えたくて(つまり自分の力を誇示するために)場をひらいているのではない。

 

自分が無力だと思っていたけれども、探究テーマに沿ったことなら、どうも切れ味鋭くなれている気がするし、言葉が滑らかに出てくるし、堂々としている感じがある。それほど悩まなくてもアイディアが出るしプロセスが見える。抑えどころも実践を通してみえている。自分の深いところからの衝動から始まるものならば、なれる。自分がバカとかそういうことじゃないのかも、と思えてから楽になった。いろいろと抜け漏れはあるし、思い至らない部分もあるけれど、それも全部自分だけで引き受けなくていいということも知る。


論理思考的なワークショップやプログラムの開発ができる人は頭いいなぁ、すごいなぁと思うけど、自分がそれをできなくても今はあんまり悔しくない。「お客さん」でいられる。他の人との比較ではなく、わたし自身はなるべく、意図的に引き出すことはしたくないし、「これが足りていない人」という見立てを他者に対してしたくないし、人が発した意見の内容・起こしている行動だけに注目したくない感じがある。

 

場にいる人をそのまま聴きたいし、その場で起こることぜんぶを人の表現として見たり聴いたり味わったりしたい。その人が今そこに存在している。この池に石を投げ込んでいるときの波紋の出方(場への影響)を眺めたい。話すことより話しぶり、見えてくる感情、存在感を大切にできたらと思っているんだろう。できないときの自分の中の葛藤も含め。

 

場で何が起こっているのか、本質はなにかといつも探しているし、その人の本来性にふれたい、という欲求がある。たぶん。

人がなにかの役割や立場に拠ってのみ、そこに存在しているときは苦しい。意図するとすれば、安心して役割や立場以外からの声を発せられる場でありたい。

 

 

映画「この世界の片隅に」の違和感

 

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映画「この世界の片隅に」を観た感想です。

ネタバレあります。違和感について書いています。

「原作通りに描くことが正しい」ではなく、「原作と映画の相違点から自分が感じること」を書いています。

今年のはじめに漫画を読み、12月中旬に映画を観ました。

それから友人がひらいた「"この世界の片隅に"を観て違和感を語る会」に参加しました。以下にはそのときの対話の収穫も含まれています。

 

 

◆すずさんの人物像

わたしの中では、原作でこうのさんが描いたすずさんは、清も濁も理知も狂気も内に含み、またそれに自覚的でもある人で、最初こそほんわりと描かれているけれど、物語が進むうちに、本来の強さを源として、美しい大人の女性に成長していくという印象だった。一方、映画では最初から最後まで、無垢で無知で健気な少女として描かれていたところに、最も違和感を覚えた。

映画では、「絵を描く人」として、すずさんのアーティスト性を際立たせたところに、同じく描き手である監督の共感や思い入れは見られたけれども、根拠のない純真さが強まっているように感じた。さらに、のんの声やセリフの改変によって少女性(処女性?聖母性?)のようなものが被せられていて、特に白木りんさんとの交流から生まれる揺らぎ、嫉妬、愛憎をバッサリと捨てたことで、すずさんの中の「りんさん的」な(対応させるとすれば娼婦性?文字通り?)部分を無いものとしているように感じた。りんさんの登場を最小限に留めたことで緊張は和らぎ、ほとんど巫女的なすずさんによって、映画世界の均衡は「平和に保たれて」いる。

それ以外の「女」は、「母は強し(箪笥に米を隠しておく=最後はなんとかしてくれる)」をお義母さんが担い、「強がっているけど結局はツンデレ」を義姉・径子さんが担う。女たちがこのような役割分担をして銃後を守る一方で、男たちの存在は驚くほどに薄い。周作とすずさんの夫婦のつながりや対等性も薄い。

漫画では、りんさんを間に挟んだやりとりも多く、その中で徐々に夫婦となっていく二人の様子が感じられる。そしてこの物語のタイトルにもなっている、「ありがとう、この世界の片隅にウチを見つけてくれて」というのは、喪失と傷みを生きてきたすずさんの内側から発せられた、「わたしは、ここで、あなたと生きていきます」という決意表明のように感じられたのだが、映画では「わたしをお嫁さんにしてくれてありがとう」というような、可愛らしい新妻的なトーンになっていたのは残念だ。癒し手として、「笑顔の器」としての女性ということなのだろうか。

玉音放送のあとの、「暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね。うちも知らんまま死にたかったなぁ......」が「海の向こうから来たお米…大豆…そんなもんで出来とるんじゃろうなあ、うちは。じぇけえ暴力にも屈せんとならんのかね」になる、この大きな変更に対する違和感も大きい。

正義の名の下、日常生活の運行と国民の責務を全うすることで「暴力」と戦ってきたすずさんが、太極旗がはためくのを見て、片隅の小さな一人であっても、自らも暴力で従わせていた側だったという事実を知り、絶望の中、慟哭するシーン。この重要な独白の変更は、すずさんを無知・無力なるものと扱っているばかりか、暴力に対する憤懣をきれいに抜き去っている。監督のインタビューを読んで、ますます納得できない箇所だった。

漫画の動力は、すずさんの内なる声や、すずさんが一人になったときに発する言葉だった。しかし、映画ではその多くがすっぱりと裁ち落とされたり、改変されていて、すずさんから野性味や力強さや聡明さを奪っているし、何がこの物語の動力になっているかがわかりづらくなったように感じた。

 

   

◆男性監督から見た女性像のズレ

映画の作り手は、心底この漫画に魅了されて、「あの世界を再現したい、色をつけて動かしたい、しゃべらせたい、2016年の日本に存在させたい」と考えていたのだろう。それぐらい美しく、再現性の高い作品だったし、漫画では表現できない部分をアニメーションの技術は可能にしていた。詳しく確認していないが、考証も相当丁寧にされていたと推測する。ただ、その思いをもってあの漫画を解釈した結果が、上記に述べたすずさんの人物像だとすれば、「男性から見た理想の女性はこのようである」ということを表しているのだろうと思った。

そこに作り手の悪意も作意もまったく感じられない。「本当に」「見えている」ものを「そのまま表現した」という実直さがあって、当然整合性は取れているし、悪意よりはむしろ、「すずさんで観客を癒す」ような善意も含まれているとさえ思えた。

けれども、すずさんを中心とした変更の数々は、女性としてのわたしが「生きづらい」としばしば感じる状況と根っこを同じくしていた。この監督が、男性が悪い、というのでもない。ただ、実感としてズレているし、そのように描かれるのは一女性として腹立たしかったり苦しかったりする、ということなのだ。

先日、とある読書会に参加したときに、友人が、「男性の視点からの話も聞いてみたい。女性だけで話していると片目を覆って見ているようなものだ」と発言して、その表現に「なるほど」と思った。

右目だけ、左目だけのどちらか片目で見ているとき、どちらからも微妙に角度がずれて見える。両方の目から見ることで、はじめて脳の中で調整が起こり、像を結んで奥行きや距離を感知し、対象を立体的に見ることができる。

男と女と、片目だけからの世界をお互い見せ合って、そのズレを修正し合い、一面的ではなくもっと立体的に世界を共にとらえられないかと、主に場づくりを通して日々模索しているわたしとしては、このような映画が題材として活発に取り上げられることを願ってもいる。

 

 

◆ささやかな日常の美しさ

どんなに辛く厳しい状況でも、人はこんなにもたくましく生きていくことができる。ささやかな日常を大切にし、家族や隣近所との連帯を強くすることで乗り切っていける...というメッセージが、これでもかと繰り出される。

「ささやかで尊い日常」。

他の題材ならば、響く。

楽しい、うれしい、希望に満ちる、心をふるわせ涙を流す。わたしも映画を観てそんな体験をしたいし、実際、この映画を観て涙がわくシーンもあった。

けれども、やはり戦争という題材で、それだけで果たしていいのだろうかとも思う。防ぎようのないものという諦め、わたしたちに抗う力はないことの証明するように涙するだけでいいのだろうか。今この時代にあって、この時期にあって、わたしたちは、戦争を「暴力」と表現していた一人の女性の生き様を見て、手放しで感動していていいのだろうかと、複雑な気持ちになる。(周作がすずさんに「細(こま)い」と言ったのは、無力という意味ではなかったはずだ)

漫画は戦争を描いていたと思う。片時も戦争のことを忘れることができない。戦時中に普通の人々がどんな日常を送っていたかを、こうのさんの言葉を借りれば「だらだらと」描いていた。女性がどのように生きていたのかも、あらためて考えさせられた。

それが映画になると、日常から見た戦争という側から見ることになる。これはカメラワークの問題だろう。画を動かすということは、どこかにカメラを設置しなければならない。より登場人物の見ているものにピントを合わせるし、音楽の効果もあって、時には観客は登場人物そのものになりきって躍動する。その結果、不思議なことにわたしの中では、「その世界に適応するために現状を受け入れる」ということが時々起こった。俯瞰してみようとしていても、諦念が芽生える瞬間があった。そこから引き戻してくれるはずのすずさんの言葉がないので、最後まで心地よく浸ろうと思ったら浸れそうだった。「しあはせの手紙」がその役目を果たすはずだが、映画では画だけが採用され、手紙の言葉は全て割愛されている。あれはなぜだったのだろう。

この映画で着目すべきは、その「辛くともかけがえのない日常」が「あること」だったのだろうか。自分に問うてみてもまだわからない。ただ、このまま為政者がコトを進めても、反発する力は起こらないままに国民は耐え忍ぶし、ささやかな日常に美を「自ら」見出してしまうのかもしれない、と将来への恐れを抱いている。

 

 

◆展開の速さ

君の名は。」でも感じたこれは最近の傾向なのだろうか、展開が恐ろしく速い。余白がない。どんどん連れて行かれる。速いのにメリハリがない。どのシーンもびっくりするぐらい一定の速度で進み、均等に公平に扱われている。終戦のシーンも「しあはせの手紙」のくだりさえも。尺の問題だけではないように思う。割いたコマ数、秒数だけ見ても、「これこそが描きたかった!」というシーンを、残念ながらわたしには見つけられなかった。(友人は「ここに絵の具があったら!」がまさにそのシーンだという意見)

また、漫画はストーリーが進む中にも、解説コラム、図解があったり、作中漫画が入ったり、ペンやクレヨンや筆など画材も様々に表現されていた。読み手は、それらの表現のテンポの違いや、そのときの自分の心の動きに即してページをめくることができていたが、映画では十分に噛む間もなく、シークエンスやエピソードがどんどん消化されていくように感じられた。これは漫画とアニメ映画の特性の違いもあるのだとは思うけれど。

 

 

 

この物語について語ろうとするとき、自分の知識の浅さを呪う気持ちが起きて、なかなか手がつけられなかった。それでも、漫画を読みながら、少ないながらも戦争に関わる自分自身の記憶を引き出そうと、懸命の捜索をしていた。その気持ちを忘れずにいたい。

切り取る部分、光を当てる場所や角度によって、全く異なる物語が出てくるのが戦争で、その膨大さ、複雑さ、多面性に圧倒されるばかりだけれども、知り続けなければ、学び続けなければと思う。わたし自身もまた「記憶の器」として生きる覚悟をもって。

 

最後に、映画をどのように観るかは個人の自由であり、これは一つの見方に過ぎず、他を否定するものではないことを付け加えたい。

 

 

 

 

 

 

はじまりはささやかで不完全

 

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かるたCafeの第1回の告知が出てきました。

 

こんなでした。

ちょうど5年前の今日。これが20年ぶりに人と百人一首する場になるというわくわくと、だれか来てくれるかなぁというどきどきと、両方の気持ちでした。

 

はじまりの声はこんなふうにごくごく小さくてささやかで不完全なもので、こんなことが起きたらどうしようとか、将来的にこうしたいとか一切ありませんでした。ただやりたいことをやってみただけ。

 

このことは、このあとにも、かるたでもかるた以外でも、何度も何度も何度も経験することになりました。はじまりはささやかで不完全なものだということを体感できたのは大きかった。そして、そのときは自分がなぜやっているのか、なにをやっているのかはわからなくても、後々に、しばしばすごく後になってからわかることもある、という経験もしました。だからやっているときは、そのときの心のままに、ただ夢中でやっていればいいんだという自分なりの指針もできました。

 

2011年より前のわたしは、「場をつくる」なんて言葉は知らなかったし、飲み会の幹事をするのさえも嫌で、イベントに参加するのも面倒くさいし、人と交流することにも興味がないような人間でした。場という概念を知って、人とのつながりにこの世界の希望を見出したことで、自分が本来望んでいる方角へぐいっと舵を切れたように思います。

 

わたしはこれからもこんなふうに生きていけたらと思う。こんなふうとは、自分の中の小さな声に耳を傾け、希望をもって小さくはじめることを積み重ねるとか、人と関わり合っていくとか…かな。それから、こういう道のりや風景もあるんだなぁということを、なんの目的かはわからないけど、これからも思いつくままに表現していきたいです。

 

今年もたくさんの方が一緒に場をつくってくださり、応援してくださり、関心を寄せてくださいました。

ほんとうにありがとうございました。

 

 

クリスマスプレゼント

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今年の12月はやたらと忙しくて、飾り付けをする余裕もない上に、24日と25日はわたしと息子は別々に過ごしていたので、我が家にはクリスマスという感じが一切なかった。けれど息子が帰宅してサンタさんが来ていないと、それはそれでガッカリするかなと思い、「サンタさんからのプレゼント」は用意しておいた。

 

特にサンタさんへのお願いもなかったし、息子が今とても興味を持っていることもとりたててないし、わたしもあまり物欲がないので思いつかず、友人らに聞き回ってなんとか決めたのが、この図鑑。

 

綺麗な写真が満載だよ、種類が多いよ、実物大だよ、という売り文句の図鑑とは一線を画す、挿画や装丁が美しい。大人っぽい。子ども向けだからと子どもっぽくするのではなく、美しいものを手渡したいという作り手の思いが感じられる。

 

息子は、「この本、ぼくにぴったりだ!」と大喜びしていた。それでも去年ほどには喜んでいない感じが、少し寂しいような嬉しいような気がする。

 

去年は、これまでになくサンタさんを待ちわびていた。

サンタさんはどんな人なんだろう?
日本語はしゃべれる?
いろんな絵本を読んだけど、友だちもいろいろ言ってるけど、どれもほんとじゃない気がする…きっとこんなふうだよ!......と、自分だけのサンタさんのイメージが息子の中でどんどん形作られていってる感じに、わたしもわくわくした。25日の朝、息子は飛び起きて、サンタさんからの手紙(わたしが書いた)を読んでやると、「サンタさん、優しい…!」と号泣していた。

 

つまり今年、息子はずいぶん強く大きくなったということなのかもしれない。だとしたらそれはとても喜ばしいことだ。

 

自分が世界から愛されていることの心強さとか、自分のがんばりを誰かが密かに見ていてくれる嬉しさとか、この世にはいろんな秘密や不思議があるんだという敬虔さが、クリスマスやサンタさんにまつわることにはあるように思う。

これがひとつの生きる力の源として、心の深いところに降り積もってくれますようにとわたしは願う。

いつか魔法が解けても、その降り積もったものは、きっと息子を助けてくれるはずだから。

 

*集いのお知らせ* 読書会『いのちを"つくって"もいいですか?』

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表現の場づくりを探究するせいこと、友人で編集者の小林潤さんとで、
小林さんの担当本『いのちを"つくって"もいいですか?』の読書会をひらきます。

 

本書は、「いのち」を巡るさまざまな問題に長く取り組んできた宗教学者島薗進さんが、目覚ましい発展を続ける現代の生命科学と、私たちのいのちの倫理との関わりを哲学的に問い、考えた一冊です。

 

誰もが願う「より健康に、より長く生きたい」という希望。 

最新のバイオテクノロジーに根ざす現代医療は、
iPS細胞と再生医療の開発、 出生前診断の導入、遺伝子への介入等によって、
その願いを着実に叶えつつあります。

より「良く」生きるためにわたしたちが望み選んだことは、
これまでのところは、幸福な結果をもたらしてきたかもしれません。

しかし、このままの方向へ進んでいくと、
わたしたちはやがて「いのちをつくり変える」領域に踏み込んでしまうのではないか? 既にそのようなことが可能になっているかもしれないときに、
わたしたちは一人ひとり、どのような考えの元、選択をしていけばいいのか?

 

考えを巡らしてもすぐに壁に行き当たってしまうような重いテーマですが、
身近には感じられなくても、ケガや病気、妊娠・出産、死に直面したとき、
一人ひとりが知らず知らずのうちに既にこのテーマにふれています。

 

まずはこのテキストをきっかけに、
自分の事や身近な人の事として話しはじめませんか。

 

センシティブな内容ではありますが、タブー視せずに、批判を恐れずに、
安心で安全な中で気軽に口にできたらと思い、この場を企画しました。

一度足を止めて、一人ひとりがもつ「いのち」に対するあやふやな思いや考えを
聴き合えたらと願っています。

 

全編の読了を推奨していますが、読書会では本書の《序章〜第3章》について話し合います。

 

ご参加をお待ちしております。

 

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日 時: 2017年1月29日(日)10:00-12:00(終了後希望者のみ12:00-13:00ランチ)

会 場: JR日暮里駅付近の会場(お申し込みの方にご連絡します)

定 員: 8名(主催者2名と合わせて最大10名の場になります)

対 象: 大学生以上。 医療や生命科学の専門知識は不要です。

参加費: 2,800円(おやつ付)

参加条件:書籍『いのちを"つくって"もいいですか?』序章〜第3章を読了。
     こちらから購入できます>>http://amzn.asia/902irK7
     気になる箇所に付箋を貼ったり、感想をメモされるのをおすすめします。      

持ち物: 書籍『いのちを"つくって"もいいですか?』    
     入手ルートは問いません(買っても、借りても)

 

★★お申し込みフォーム★★
http://bit.ly/2hRPU52

お問い合わせ:seiko.funanokawa★gmail.com(★→@)

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本書に関連した小林さんの連載もご参考までに!

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