ヒトトビ〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する場づくりを通して考えることなど。

いつか緑の…

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買っちまった。

 

10代、20代に吉野朔実さんの漫画に出会えたことは、ほんとうの幸運だった。ありがとうございます。

 

子どもの頃から死というものを身近に感じていたけれど、この世でのお別れは一つひとつ、やはりとても辛くて悲しくて寂しい。とりわけ一度でも深いところで手を握った命とのお別れは。

 

それでもこの世界には、喪失と、それと同時期に起こる祝福の不思議な仕組みがあって、単に物事の裏表というわけではないそれに、なんとか救われながら、もう少しだけ生き続けることができるようだ。

 

わたしもまたどこかで喪われる日まで。

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映画「むかしMattoの町があった」を観て感想を話す会《後編》をひらきました

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映画「むかしMattoの町があった」を観て感想を話す会の後編が終了しました。
(前編のようすはこちら

前編からきてくださった方も半数おられました。貴重な時間を共にしてくださって、場を信頼してお話しくださったこと、本当にありがとうございました。


前回に続き、愛があり、芸術という拠り所があり、ストレートな感情の表明がある点に、イタリアという国の人間味を感じていました。(もちろんフィクションの部分もあるし、絵に描いたようなところばかりではないけれども、日本に比べてどうか、という点で)


ひとつの精神病院内での取り組みを物語った前編から、後編は地域にどう還す/還るか、どのように法制化していくのかの道のりに入り、精神疾患、トラウマ、家族(親子、きょうだい、夫婦、カップル)、アルコール依存、依存、性暴力、暴力、虐待、妊娠・出産、別居・離婚、支援者の支援など、書ききれないほどのテーマが含まれていました。短い尺の中にたくさんのエピソードが詰め込まれていたため、アップダウンが激しく、鑑賞だけでぐったりされた方もおられたかと思います。


それでも一度感想を場に出して、置いて帰れると少しはホッとしていただけるのではないかと思い、どう進行するか迷いつつも、精神科医のつかぴーさんによるキーノートスピーチにあった問い「この人たちをどうしたら地域に還すことができるか」をよすがとしながら、場の流れについてゆくことにしました。今回は現場を知る方、制度面の知識をお持ちの方が何人かいらっしゃったことで、映画の背景が補足されて、理解が深まったという印象がありました。感情が大きく揺さぶられた分、史実、事実に基づく話で着地できたのはありがたかったです。


1時間ちょっとの短い時間の中で、皆さんはどのような体験をされたのでしょうか。


最近、物事の両面性について考える機会が多いのですが、きのうも皆さんの話を聴きながら、何度もそれを思う瞬間がありました。例えば、精神病院への入院は隔離された閉鎖的な場とも言えるし、制御不能になった時間の激流から退避できる安全な場とも言える、とか。

どちらから見るか、どのような態度でかかわるか、によって変わってくるのかもしれません。


意図はあるけれども支配はしたくない、想定はするけれども見立てはしたくない、ということをファシリの席からは強く思っていました。まだまだ修行は続きます。

 

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ことほぎラジオ(Podcast)第3話、配信しました

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昨年末からはじめたPodcast「ことほぎラジオ」の第3話を配信しました。

今回は、わたしが「場をつくること」をテーマに話をしています。聴いてくれた人からさっそく、「羽田空港の背景音がとってもよかった」という感想をいただいています。みんな空港が好きなんだなぁ。

 

この「非常に個人的である」わたしの話は、いったいどのようにリスナーさんに受け取られていくのか、まったくわかりません。しかし、ラジオとしてお届けするこの作品の中に、誰かにとっての「きわめて個人的であるがゆえに投影できる」部分もあるといいな、と今の時点では思います。前回のけいさんの「能」の話がそうであったように。

 

「わたしは何を話していたのか」。時間が経てば経つほど発見があって、ああ、そうだったのか...と呆然とすること度々。

 

ミュージシャンが一枚のアルバムをリリースするときの、ファンの反応にふれる前の時点ですでに「何かが判った」と話しているインタビューや、自分で自分のアルバムをよく聴くことがあるとか、曲をセルフカバーするなど、その理由がずっとよくわからずにきたのだけど、このラジオを3回やってきてうっすらと理解できる気がします。わたしはミュージシャンでも芸人でもなんでもないのだけど。

少なくとも自分の声や話を恥ずかしがらずに何度も何度も聴けたり、公に流したりできるのは、これを作品として客観的にとらえているからで、つまりこれもひとつのわたしの「仕事」なんだろうと思います。

 

今回は全体で2時間10分収録したものを、最終的に65分まで編集しています。それでも含まれなかった時間の中で話されたことや起こったことも、最終版にはすべて含まれていて、それは本当に不思議なのです。これがリリースされる直前のわたしは、「編集する」ということについて非常に恐れを抱いていたのだけれど、ある人の耳や目や手をを通して現れるものもまた本物で、結局は「誰によって」というところが重要なのかと。

 

1回目、2回目、3回目と、人と人とが少しずつ知り合っていく、その普遍さも描かれている。残り9回の中で、それがどのような絵、どのような景色になってゆくのだろう。途上の景色、ふりかえって見える景色、それを相方のけいさんとリスナーさんと一緒に辿る旅が、これからもとても楽しみです。

 

よかったら聴いてみてください。

 

 

*ブログから

doremium.seesaa.net

 

 

iTunesから

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  • アート
  • ¥0

 

 

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映画「むかしMattoの町があった」を観て感想を話す会《前半》をひらきました

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2/4(土)まち健(谷根千まちばの健康プロジェクト)さんとの共催『映画「むかしMattoの町があった」を観て感想を話す会』の前半が無事に終了しました。19人で過ごした貴重な時間でした。

 

まずこの映画がとてもよいのです。いかにもなところが一切なくて、愛にあふれていた。正直、辛いシーンもあるのですが、不必要に人をいじめていなくて(ストーリー上はいじめられていますが)、ちゃんと一つひとつのエピソードに意味があって、個別に丁寧に展開・決着されていく。そこにはまるでバザーリアその人のもののような、あたたかい眼差しがありました。

 

鑑賞後の感想を話す時間は、様々な属性や立場の人たちと共に、「わたしたちは何を見たのか」という問いを少しずつ進めていきました。「精神の病と人間の尊厳」という繊細なテーマで、参加されている方がその病の本人、家族、友人、支援者などである可能性もあるので、とにかく丁寧にひらいていくことを心がけ、人数が多いことを活かす場にできるよう、ぎりぎりまで進行を見直していました。皆さんにとってよい体験になっているとよいのですが。

 

途中、Matto pericoloso(危険な狂人)という単語がわたしの耳にガーンと飛び込んできました。果たしてそうなのだろうか。クライシスと呼ばれる急性期の状況も描かれていて、それを見ると確かに驚いてしまう。でも何も原因やきっかけがなくてそうなっているわけではないのでは?

 

それは本当に病気なのか、病気と病気でないとはどう違うのか、だれが病気と判定するのか、本人だけを見ることで解決できるのか、家族も「病」を抱えているのではないか、家族へのケアがないのではないか、家と病院以外の選択肢はないのか、隔離とはなんのために、改革が対話を通じて行われてきたというところに驚きと感動がある、イタリア的な明るさに救われる、屋外の世界の美しさ、男女のすれ違い、日本の現状・挑戦...etc、話題は多岐にわたりました。

 

重いテーマなので一人で観ると沈み込むだけで終わりそうですが、こうしてみんなで聴いたり話したりできるとホッとして希望がもてるし、自分の考えもどんどん進んでいくように思います。

 

今週末2/11は、後半です。前半が「わぁ......まじで?」というところで終わっているのでとても楽しみです。ご参加予定の皆さん、運営チームの皆さん、どうぞ宜しくお願いします。

 

この映画は、上映会方式で普及していますが、映画館でもときどき観ることができます。今は田端の「Cinema Chupki」という映画館で上映しています。ご興味あればぜひ!
2月2日〜28日『むかしMattoの町があった』 | CINEMA Chupki TABATA

焚き火

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去年の1月31日の話、再録。

 

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息子を連れて、東京の山のほうの河原で焚き火をしてきた。

 

ほとんど初めて会う人たちと、焼けそうな食べ物を片っ端から焼いたり、ホットワインを飲んだり、ただ火を眺めたり、ぽつりぽつりと話したり。

 

子どもたちを河原に放つと、いつまでも石を放っているのでおもしろい。

 

小さい頃は、焚き火なんかどこでだってできたのに、2時間かけてはるばる行かないと焚き火ひとつできない環境にいる今の自分が不思議でならない。大人になったらなんてことなく火を取り扱い、子どもたちを周りに集わせてるものだと、幼い自分は思っていたから。焚き火がこんなに非日常なものになっていることを、まだうまく受け入れられていない。

 

出がけに近くで火事があり、噴煙が上がっていた。火を遊びに行くのがなんとも不謹慎な気がして、道中も気にかけながら。70代の方が顔にやけどをされたとか。ご無事でよかったけど、やけども辛いし、大事な家が焼けるのもどんなにか辛いことだろう。

 

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この家は一年経った今も路地の奥のほうで焼けただれたまま、解体されていない。直前まで暮らしを営んでいた痕跡のまま、焼け焦げた家財道具が風雨にさらされていて、なんとも言えない気持ちになる。

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*集いのお知らせ* 2/19(日)「ブックトークカフェ(読書会)のつくり方講座」をひらきます

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2017/2/19(日)14:00-17:00 武蔵小杉のcosugi coboにて、

読書会を主催したい方向け
「ブックトークカフェ(読書会)のつくり方講座」をひらきます。

読書会体験→解説→企画→講評で3時間。

せいこの6年の場づくりノウハウを詰め込みます。

 

「これだけ考えれば、とりあえず告知はできる」という状態でお帰りいただけたらなーと思っています。

 

ご参加お待ちしております。

 

詳細・お申し込み>>

everevo.com

強くならないといけないの?


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友人に、競技かるたとは何か、という話をしていたときに「あー、でもきょうの試合負けちゃったんで悔しいなー。もっと強くなりたい」と漏らしたら、「強くならないといけないの?」と聞かれた。

 

あらためて素朴に問われると、「えっ、うーーん…」となった。考え続け、一夜明けて出てきたのはこれだった。

 

勝ちたいし強くなりたい。

それはもっともっと、という気持ちから来ている。

 

わたしは、もっともっと見たことのない景色を見てみたいと思っている。

それはわたしにとっては、かるたを通してしか見ることのできない景色。

それ自体が、息を飲むほど美しいものだから。

森羅万象の謎に、理に、一瞬指先がかすめたか、かすめないかというところへ行ける。

 

その景色と、そこに至るまでの道のりの中で、自分の人生と(そのつもりはなくても)関連付けてしまうような瞬間がふいにやってくる。「あの場で起こっていることは、過去のある時点で起こったあれそれものだ」、逆に言うと「今のこれはかるたで言うと"あのときのあの感じ"に似ている」というような。それを追いかけて、さらに思考を深めていくと、「ああ、そういうことだったのか」と、いくら考えてもわからなかった人生の謎がいきなり解けることが起こる。自分で解明できた喜びから生きる力が湧く。その感じは、誰かからありがたい説法や格言を聞かされることとは、比べ物にならないほどのパワフルさがある。

 

大人だからこそ取れるかるたってこういうところにあるんじゃないかと思っている。もっともっと深いかるた(和歌としても、競技としても)の魅力に迫っていける。それは子どもたちがやっているかるたとは、同じ場にあっても全然別物という気がする。負け惜しみでなく。

 

 

それから、カッコいい自分になりたい、相手にとって対戦するに価する自分になりたい、自分の納得いく取りがしたい、などもある。

 

もちろん実際に取り組んでいるときには、そんなことは考えていない。

もっと言うと、「かるたをしている」のではなく、「"それ"になっている」という状態。「それ」というのが、かるたなのか、場なのか、理なのか、なんなのかわからないけれども。

 

「勝った負けた」を競うことを通じて、その奥にある「しつらえ」に惹かれている。

それが、ことほぎラジオの第1話で相方のけいさんがくみとってくれたことなのだと思う。

 

なぜかるたはわたしをこんなにも楽しくさせるのか、魅了するのか、をこれからも考えていくと思う。その原動力になるのが、「勝ちたいし強くなりたい」で、それがある限り、わたしは探し求めていくんだろうな。