2017/3/19 彩の国さいたま芸術劇場でピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団の「カーネーション」を観てきたメモ、走り書き。
わずか90分の長い夢。
ダンスと演劇の融合。ダンサー自身のエピソードを基に、コラージュ的に構成するクリエイション。わたしたちも一輪ずつのカーネーションとして、舞台のこちら側をつくる重要な存在。
自分の中にあらゆる感情が起こった。絶えず方向を変える感情の渦に呑まれ続けた。3年前のKontakthofの時のようなダンサーへの自己の投影の余地は感じられず、ダンサーからの問いを聞くのみ。
あなたはここで何を見たいの?
愛の何を探しているの?
次に何が起こるか予測もつかないのに、最後に見る光景、数千本のカーネーションの結末はわかっている。その間の出来事にひたすらに目を凝らせ、と。
花を愛で、花を踏み、花を損う。ひとつの儀式、祭りのような。生の踊りとはこのようである、ということなのか。
ダンサーの一人から祝福を受けた。わたしの中の何かを呼び覚まそうとするかのような力強い抱擁…。
劇場を出てすぐに、「わからなかった。みんな拍手なんかしてわかっていると思えない。有名だから観に来ただけだ」ともらす男性二人連れがいた。怒り、苛立ち、戸惑い…ぜんぶあの中にあったよ。もしかしてほしいのはそれだったのかな。わからないと全身で憤りたかったのでは。決して安くはないチケット。何らかの期待があったんだろうな。そこを見に行けるといいね、と共感を送った。
わかろうとすると、わからない。なんで自分はこんなものを見ているのだろうとなったとき、感じ取るだけでいい。怖くないよ。でも怖いときはひらかなくてもいい。自分次第。
定番の演目であっても、その国、地域、時代に合わせて上演時にローカライズされているんだろう。そのときに演じるダンサーによっても微調整されているとも思う。今、そこでしか見られない、生の舞台はやはりダイナミック。
古株のメンバーの顔を見つけてホッとする。でも時間は流れているから、ピナを直接知らない人のほうが増えていって、これからどんどん変化していくんだろう。一観客としては、ピナとヴッパタール舞踊団のDNAが受け継がれていくこと、また舞台を観られる日が来ることを切に願う。
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