ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

ピナ・バウシュ「カーネーション」を観てきたメモ

f:id:hitotobi:20170320094909j:image

 

2017/3/19 彩の国さいたま芸術劇場ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団の「カーネーション」を観てきたメモ、走り書き。

 

 

わずか90分の長い夢。

 

ダンスと演劇の融合。ダンサー自身のエピソードを基に、コラージュ的に構成するクリエイション。わたしたちも一輪ずつのカーネーションとして、舞台のこちら側をつくる重要な存在。

 

自分の中にあらゆる感情が起こった。絶えず方向を変える感情の渦に呑まれ続けた。3年前のKontakthofの時のようなダンサーへの自己の投影の余地は感じられず、ダンサーからの問いを聞くのみ。

 

あなたはここで何を見たいの?
愛の何を探しているの?

 

次に何が起こるか予測もつかないのに、最後に見る光景、数千本のカーネーションの結末はわかっている。その間の出来事にひたすらに目を凝らせ、と。

 

花を愛で、花を踏み、花を損う。ひとつの儀式、祭りのような。生の踊りとはこのようである、ということなのか。

 

ダンサーの一人から祝福を受けた。わたしの中の何かを呼び覚まそうとするかのような力強い抱擁…。

 

劇場を出てすぐに、「わからなかった。みんな拍手なんかしてわかっていると思えない。有名だから観に来ただけだ」ともらす男性二人連れがいた。怒り、苛立ち、戸惑い…ぜんぶあの中にあったよ。もしかしてほしいのはそれだったのかな。わからないと全身で憤りたかったのでは。決して安くはないチケット。何らかの期待があったんだろうな。そこを見に行けるといいね、と共感を送った。

 

わかろうとすると、わからない。なんで自分はこんなものを見ているのだろうとなったとき、感じ取るだけでいい。怖くないよ。でも怖いときはひらかなくてもいい。自分次第。

 

定番の演目であっても、その国、地域、時代に合わせて上演時にローカライズされているんだろう。そのときに演じるダンサーによっても微調整されているとも思う。今、そこでしか見られない、生の舞台はやはりダイナミック。

 

古株のメンバーの顔を見つけてホッとする。でも時間は流れているから、ピナを直接知らない人のほうが増えていって、これからどんどん変化していくんだろう。一観客としては、ピナとヴッパタール舞踊団のDNAが受け継がれていくこと、また舞台を観られる日が来ることを切に願う。

 

Trailer>>

youtu.be

 



f:id:hitotobi:20170320095219j:image

 

f:id:hitotobi:20170320103445j:plain

 

ことほぎラジオ(Podcast)第4話、配信しました

f:id:hitotobi:20170316153010j:plain

 

3/12、Podcast「ことほぎラジオ」の第4話を配信しました。

 

月に一度、満月の日に配信しています。
徐々に膨らむ月を見上げながら、「そろそろ配信かなー」と思い出してくださる方もいて、うれしい。

 

今回はわたしの友人をゲストにお招きして3人で話しています。去年の11月から2人で3回収録して編集して配信してという道のりを経て、「なんとなくこんな感じ?」というのをつかんだ次のチャレンジ。「おお、こんなことが起きたか...」という仕上がりになっています。毎回いろんなことが起こるし、配信すると発見がある。わたしの中で、相方のけいさんの中で、聴いてくれた方一人ひとりの中で。

 

我々が製作し展示した作品に、人は何を見てくださるのだろう。

 

全世界にインターネットを通じて配信され、どこでだれがいつ聴くかわからないラジオ(Podcast)というしつらえだからこそ、リアルの聴き手とネットの向こうのリスナーという人々で共につくる場だからこそ、生まれてくるこの語り合い。

  

ぜひ聴いてみてください。

 

 

*ブログから

doremium.seesaa.net

 

 

iTunesから

ことほぎラジオ

ことほぎラジオ

  • ことほぎ研究室
  • アート
  • ¥0

 

 

f:id:hitotobi:20170316153733j:plain

夢を見た

f:id:hitotobi:20170314092110j:image

 

夢を見た。

 

実家から車で1時間ぐらいのところにどこか知らないが古い町があり、古い寺があった。友人と参拝だけして去る予定だったが、その敷地内にある公民館の座敷で、たまたま今日だけ手ぬぐいに絵を描く催しをやっているということで、参加してみた。

 

手ぬぐいには既に下地の色が染めてあって、それは地元に自生している植物からできた染料を使っているとのことだった。藍と臙脂(えんじ)の2枚を選んでその上に絵を描いていった。何で描いたのか、絵の具のようなものなのか、筆なのかペンなのか、定かではない。萌黄のような色だったのは覚えている。普段めったに黄は選ばないので、珍しいなと自分でも思った。

 

布に色をのせると定着しすぎるでも反発するのでもなくて、ああ、この感じはいい、と思ってどんどん描いていった。発色の美しさにうっとりしながら。

 

完成に近づくと、やり方を教えてくれていたおじさんが急に「ここで会ったのも何かの縁だから、さっきしゃべっていた男の人と出来上がった手ぬぐいを交換すれば」などと言い出した。確かにはじまる前に、その場にいた人たちと少し挨拶程度に話したけれど、別に縁を持ちたいとか、そんなつもりではなかったし、わたしはこの絵を自分のために描いていたのになんであげなきゃいけないんだ、と心の中で思いながら、「いや、いいです」と言ったのに、おじさんはしつこくご縁ご縁と言ってくるので辟易した。こういう中年にならないように気をつけよう…と思ったところで目が覚めた。

 

おじさんにはイライラしたが、色をつけるのがとにかく楽しく、この夢中(まさに)になっていた時間が現実世界でも長かったのか、すっかり寝坊をしてしまった。でもあの描く幸福に比べたらそんなことはどうでもよくて、雨の朝だけどとても満たされて一日がはじまった。

 

 

 

 

 

 

短編法廷ドラマを観て感想を話す会、ひらきました

 f:id:hitotobi:20170302183302j:image

武蔵小杉のブックトークカフェの常連メンバーと、「短編法廷ドラマを観て感想を話す会」をひらきました。こうしてひとつの場から、共につくる関係が派生していくのは、わたしにとって、とてもうれしいことです。

 

この場をひらくにあたって、いくつかエピソードがあります。

・ブックトークカフェで、テーマが「悪い本」のときにこのドラマを小説化した本を紹介してくださった方がいて、これはみんなで話すとよいのでは?と興味をもちました。

・わたしが4年前に3回ひらいた、「刑事裁判を傍聴をして弁護士さんと感想を話す会」の流れを汲んでいます。

・犯罪はどうして起こるか、刑罰・量刑は妥当か、正義と悪とは線引きできるか、誰が何をどこまで判定するか・できるか、他人事の正義感と刷り込まれた道徳心・倫理観に気づけるか、などの問いを相方さんと事前に想定しました。

・自分も含む参加者は、裁かれる本人ではないけれど、ある種の当事者である。自分もみんなも他人事ではない、当事者としての言葉を発する場になれば、というわたしの思いがありました。

 

進め方はごくシンプルに、

1. 裁判員として1話15分の裁判を「傍聴」する。

2. 争点を確認し、証拠や証言について考察し、あらゆる可能性について討議する。

3. 最後に一人ひとりの意見(有罪/無罪等)とその理由を表明する。

として、2話分を行って、2時間きっかりで終わりました。

 

感想としては、とにかく、非常によかった!

 

法律の専門家ではない参加者4人それぞれの経験や背景から、深く広がりのある対話が展開し、人の数だけ世界の見え方があること、立場が変われば見える景色がまるで変わることの確認や、裁判や裁判員制度の課題の浮上、テーマを設定して話しきる大切さを実感するなど、とても充実した時間となりました。

 

一人で観ただけでは、なかなかここまで思考を前に進めることは難しい。「他の人はどう思っているんだろう?」が聞けて、そこから影響を受けてまた言葉にできたことがつながる。徐々に自分の意見が絞られていくのは、場の力だと思います。

 

例えば、正当防衛が認められる状況、保護責任者遺棄致死罪が適応される人や状況など、判断の根拠として設定した線引きがあって、時には目に見えない個人の感情までも評価される、ということ。知っていたようで知らなかった世界が、わたしたちの周りには、ある。良し悪しを語る前にまず、「そのように運用されていたんだ!運行していたんだ!」という衝撃がありました。

 

リアルだったのは、自分の中の有罪・無罪の意見の揺れ。最初は「完全に有罪よね?」と思っても、新しい証拠や他の「裁判員」から発言が出るたびに、「無罪の可能性もある?」など、自分の意見がぐらぐらと揺れ続けました。実際の裁判員裁判もきっとこのようだろうと思います。より説得力のある方へ、思い込みや偏見も含め、傾いていくのは、人は情報によって意見を変える性質があるからではないか。

 

わたしたちは果たして、人を裁き刑を課す、決断を下す場に立ち会えるほど、十分に成熟した市民なんだろうか?

 

わたしたちのことなのに知らないでいることはまだまだたくさんあると思う。まずそれらを明らかにする。そしてそれが意味することは何かを考えたい。わからないからこそ、これからも場をつくり、いろんな人と対話を重ねていきたいと思いました。

 

わたしはこのような社会派的なテーマでも場をひらきますが、それは「社会を変えるactivist」としてやってるわけではないようです。人間について、あるいは人間がつくったものについてもっと知りたいという気持ちから。この中にはよくわからなくて怖いものもある。でも、放っておいて怖いものが増えるだけなら、いっそその顔を見に行ってみよう、みんなでしゃべりながら行って帰ってこれば、案外怖くないかもよ、という感じです。わたしはビビりだし、根拠なく楽観的にもなれないので、こういう手段をとっているのではないか、と思います。

 

終了後のランチタイムでは、武蔵小杉のおばちゃんたちが朝早くからせっせと作るボリュームたっぷりの「横浜サンド」をいただきました。時間がたってもパンがべしょべしょしてなくて、レタスがパリッとしていて、細かく刻んだゆで卵の楽しい食感がある。丁寧な手仕事も込みで美味しかったです。

 

この場をひらけてよかった。ありがとうございました。

 

f:id:hitotobi:20170302184236j:image  f:id:hitotobi:20170302184245j:image

短歌

f:id:hitotobi:20170125232147j:image

 

短歌が楽しい。

 

友人が主催する歌会(短歌を詠みあう会)に通いはじめて一年。去年のちょうど今ごろに第一回がはじまった。最初は、彼女のペースで「そろそろやるよー」という感じだったのが、途中から月1の定期開催になった。

 

初めて詠むなら絶対に彼女がつくる場で!と思ってたから、すごくうれしかった。こういうのは、「あなたのその得意なことで場をひらいてほしいわー」といくらこちらが熱い視線を送っていても、相手の情熱や時期が合わなければ実現しないので、有り難いのだ。


短歌にまつわるトピックが毎回用意されていて、レクチャーしてもらえる。短歌の短歌たる所以みたいなものを頭に入れたあとは、主題を与えられ、あるいは自由主題で実際に作ってみる。

 

当初こそ難しいとか恥ずかしいとか思っていたのが、最近は自分の実感と深く深くつながっていって、それを表現するための一番近い言葉を海女のように何度も潜って取りに行く作業が、かけがえのない時間と思える。5.7.5.7.7に当てはめる試行錯誤も楽しい。枠があるからこそ、自由になれる。


そうしてわたしの中から産み出したばかりの歌を人に鑑賞してもらい、それぞれの解釈を聞く。この体験がおもしろい。感じること、見えてくる画などを自由に話すだけなのに、「あんたどっかで見てたんか!」と言いたくなるぐらいの深い洞察が場に生まれる。説明的なところは省かれてるし、シチュエーションやモチーフも実際とは違うものをあてていることも多い。でも自分がその歌に込めた大事な思いがちゃんと伝わっている。


そう考えると、和歌を詠みあっていた古の人はすごい。こんなプライベートな奥底の気持ちを誰も笑わず、むしろ美しいものと愛でるのは。生の気持ちにみんなが共感して大事にしていたのは。今とは文化も生活スタイルもモラルも社会のシステムも世界の広さも違っているあの時代の、歌を大切にした人たちの気持ちが、実際に作ってみて、なんとなくわかったような気がする。


どうにもならない気持ちや人間本来の性質への共感の気持ちが人々にあるという点で、なにか救いを感じる。

 

 

「夜と霧」の読書会の記録

f:id:hitotobi:20170225074755j:image

ことほぎラジオの3話目でもちらっと出てきましたが、去年のちょうど今日、この読書会をしました。そのときのわたしの感想をこちらにもアーカイブしておきます。

 

これを開催する少し前に、2年やっていた読書会をクローズしたため、喪失感いっぱいのふらふらな中でひらいた記憶があります。同じ年の9月の「ポンピドゥセンター展を観た感想をあーだこーだと話す会」まで、かるた以外は一般公募ができず、半年ほど友人だけのクローズドな場をこつこつとつくっていました。その第一回目がこれ。

 

結局、息子はインフルエンザで、このあとから試合開始のゴングが鳴ったようにハードな日々が年末まで続きました。どうやって超えられたのか、自分のどこにそんな力があったのか、サッパリわかりませんが、夜と霧の底流である「あれをまだ成していないから生きるのだ、生きねば」のようなものがあったのかもしれない。

 

-----

友人5人に声をかけて「夜と霧」の読書会をしました。

 

壮絶な体験をくぐりぬけ、今もなお生き続ける人の、魂の切実さから書かれたものからは、何かを感じずにいられない。わたしはフランクルの言葉に突き動かされて歩みを進められた経験があるし、それ以外の部分でも、わたしの遍歴を語る上で外せない一冊です。

 

当日は、ホロコーストの話よりも、暴力や痛み、喪失を語る場になりました。感想を話しあってわたしが思ったのは、このような体験でさえも、参加された方が語った体験も、ただひとりの人の体験を描いているものであり、世界の見え方でしかない、万人に当てはまる正しさではない。自分には自分の真実があり、他者と軽重を比較できない自分の苦しみがあり、自分なりの死生観があるのだ、というような当たり前のことでした。もちろんそれは、ホロコーストの事実やそこで生まれた計り知れない傷みを否定するものではありません。

 

そして読み合うことは、同じ時間を、それぞれにただ生きていることを、体の重みの乗った言葉を通じて感じること。弱さの部分でつながろうとするのではなく、誰もがそれぞれに痛みや喜びや美しさを感じながら生きていることをただ知る...そういう時間だったような気がします。

 

すごい深くて遠いところまで行って疲れたので、帰ってお風呂も入らず、あっという前に寝てしまいました。

 

きのうの朝から息子が発熱して焦ったけど、こんなときのためにフローレンスの卒業生パックにしておいてよかった。きょうも熱が下がらず、もしかしてインフルエンザかもしれない。またきょうもこれから受診して、ああ、どうなるかな...。仕事、学校...。こんなとき一馬力はほんと辛いなぁ。息子も「一緒にいてほしい」と言うし。母と同じくらいの存在である人がいればなぁと思ったりするけど、まぁしょうがない。

 

毎日いろんなことが起きます。でも、何も起こらなくなったら、生きている感じがしなくなるだろうなと思う。わたしの性質として。

 

これからもときどき、「この本は!」と思うものに出会ったら、「あなたと読みたいの!」と誘う場をつくりたいなと思います。

 

ご感想をいただきました。

 

『同じ本を読んで、受け取り方が人によってこんなにも違うのだということが本当に本当に面白くて、ものすごーーくいい経験になりました!考えてみると、親しい人と週末に外食するというありふれた出来事ひとつ取っても、それぞれの人生の中でまったく別の景色に見えているんでしょうね。私が決して見ることができない、近くて遠いその景色に、憧れのような気持ちを抱きました。

それから、人生はアドベンチャーゲームのようなもので、苦しいこともただ味わえばいいんだな、と、よりシンプルに思えるようになった気がします。

重ーい雰囲気ではありましたが、私はとっても楽しかったです』

 

ご参加くださった皆さま、ありがとうございました!

 

テープ起こし

f:id:hitotobi:20170221161156j:image

 

3年ほど前から、ときどきテープ起こしの仕事もしている。テーマや人(インタビュアー、インタビュイー)に興味があるものに限定される。作業なんでもやりますという感じではないので、どこかに登録をしているわけではなく、友人、知人のつてで依頼がある。分野は、医療、福祉、芸術など。

 

人の話を、内容もそうだけれど、人が話しているのを聴くのが好きなので、インタビューの現場にたまたま同席させてもらえているようなテープ起こしはとても楽しい。

 

醍醐味であり腕の見せ所でもあるのは、その「話」をどうテキストに起こしていくのかの工夫。その場の空気感、人柄、発言のニュアンスを文字のみでどう伝えていくのか。変換や表記の仕方、選び方に起こす人のクリエイティビティが発揮される。

 

句読点のどちらを使うか、どこで句読点を入れるか、「ケバ」と呼ばれるしかし大切な部分をどこまで拾うか、漢字・片仮名・平仮名・アルファベットのどれに変換するか、同音の漢字はどれを充てるか、括弧付きにするか否か、「ねぇ」か「ねー」か、読みやすさと話者のパーソナリティとの間をとる表記は、など、音声から読み取れるものはたくさんある。

 

固有名詞や専門用語を調べにいくと、知らなかった世界が広がっていて、これまたおもしろい。

 

いずれ原稿になる、その基になるテープ起こしという作業。インタビュー現場で生で話を聴いていなかった人々にもその熱が届く、よい原稿になるように、できるだけの貢献ができたらと思うし、例え自己満足だとしても、わたしなりのuncountableな価値を込めたい。

 

求められれば、インタビューのフィードバックもする。あるいは単に感想を送るときもあって、そのときはずいぶんと喜ばれた。現場をこちら側に立って共有し共感してもらえるというのは、人にもよると思うけれど、インタビュアーにとってはうれしいことだろうと思う。基本的に聴いて感じ取って書く表現をするというのは、孤独な作業だから。

 

聴いていると自然とその場のビジュアルが立ち上がってくる。声や話し方から、その人たちの表情や、顔の造作、ヘアスタイル、お化粧やファッション、部屋の内装、天気、光の当たり具合、周囲の環境。それに加えて劇中劇のように、話している人の語りの中に見ている映像も、こちらにはありありと見えてくる。

 

写真を見たわけでもないし、それが合っているかどうかもわからないけど、音から見えたものを感じていると、聴くと見るはけっこう近いところにあったり、イコールになったりする、とわかる。

 

 

 

いつか緑の…

f:id:hitotobi:20170220081834j:image

買っちまった。

 

10代、20代に吉野朔実さんの漫画に出会えたことは、ほんとうの幸運だった。ありがとうございます。

 

子どもの頃から死というものを身近に感じていたけれど、この世でのお別れは一つひとつ、やはりとても辛くて悲しくて寂しい。とりわけ一度でも深いところで手を握った命とのお別れは。

 

それでもこの世界には、喪失と、それと同時期に起こる祝福の不思議な仕組みがあって、単に物事の裏表というわけではないそれに、なんとか救われながら、もう少しだけ生き続けることができるようだ。

 

わたしもまたどこかで喪われる日まで。

映画「むかしMattoの町があった」を観て感想を話す会《後編》をひらきました

f:id:hitotobi:20170212181736j:plain


映画「むかしMattoの町があった」を観て感想を話す会の後編が終了しました。
(前編のようすはこちら

前編からきてくださった方も半数おられました。貴重な時間を共にしてくださって、場を信頼してお話しくださったこと、本当にありがとうございました。


前回に続き、愛があり、芸術という拠り所があり、ストレートな感情の表明がある点に、イタリアという国の人間味を感じていました。(もちろんフィクションの部分もあるし、絵に描いたようなところばかりではないけれども、日本に比べてどうか、という点で)


ひとつの精神病院内での取り組みを物語った前編から、後編は地域にどう還す/還るか、どのように法制化していくのかの道のりに入り、精神疾患、トラウマ、家族(親子、きょうだい、夫婦、カップル)、アルコール依存、依存、性暴力、暴力、虐待、妊娠・出産、別居・離婚、支援者の支援など、書ききれないほどのテーマが含まれていました。短い尺の中にたくさんのエピソードが詰め込まれていたため、アップダウンが激しく、鑑賞だけでぐったりされた方もおられたかと思います。


それでも一度感想を場に出して、置いて帰れると少しはホッとしていただけるのではないかと思い、どう進行するか迷いつつも、精神科医のつかぴーさんによるキーノートスピーチにあった問い「この人たちをどうしたら地域に還すことができるか」をよすがとしながら、場の流れについてゆくことにしました。今回は現場を知る方、制度面の知識をお持ちの方が何人かいらっしゃったことで、映画の背景が補足されて、理解が深まったという印象がありました。感情が大きく揺さぶられた分、史実、事実に基づく話で着地できたのはありがたかったです。


1時間ちょっとの短い時間の中で、皆さんはどのような体験をされたのでしょうか。


最近、物事の両面性について考える機会が多いのですが、きのうも皆さんの話を聴きながら、何度もそれを思う瞬間がありました。例えば、精神病院への入院は隔離された閉鎖的な場とも言えるし、制御不能になった時間の激流から退避できる安全な場とも言える、とか。

どちらから見るか、どのような態度でかかわるか、によって変わってくるのかもしれません。


意図はあるけれども支配はしたくない、想定はするけれども見立てはしたくない、ということをファシリの席からは強く思っていました。まだまだ修行は続きます。

 

f:id:hitotobi:20170212182132j:plain

ことほぎラジオ(Podcast)第3話、配信しました

f:id:hitotobi:20170212135557j:plain

昨年末からはじめたPodcast「ことほぎラジオ」の第3話を配信しました。

今回は、わたしが「場をつくること」をテーマに話をしています。聴いてくれた人からさっそく、「羽田空港の背景音がとってもよかった」という感想をいただいています。みんな空港が好きなんだなぁ。

 

この「非常に個人的である」わたしの話は、いったいどのようにリスナーさんに受け取られていくのか、まったくわかりません。しかし、ラジオとしてお届けするこの作品の中に、誰かにとっての「きわめて個人的であるがゆえに投影できる」部分もあるといいな、と今の時点では思います。前回のけいさんの「能」の話がそうであったように。

 

「わたしは何を話していたのか」。時間が経てば経つほど発見があって、ああ、そうだったのか...と呆然とすること度々。

 

ミュージシャンが一枚のアルバムをリリースするときの、ファンの反応にふれる前の時点ですでに「何かが判った」と話しているインタビューや、自分で自分のアルバムをよく聴くことがあるとか、曲をセルフカバーするなど、その理由がずっとよくわからずにきたのだけど、このラジオを3回やってきてうっすらと理解できる気がします。わたしはミュージシャンでも芸人でもなんでもないのだけど。

少なくとも自分の声や話を恥ずかしがらずに何度も何度も聴けたり、公に流したりできるのは、これを作品として客観的にとらえているからで、つまりこれもひとつのわたしの「仕事」なんだろうと思います。

 

今回は全体で2時間10分収録したものを、最終的に65分まで編集しています。それでも含まれなかった時間の中で話されたことや起こったことも、最終版にはすべて含まれていて、それは本当に不思議なのです。これがリリースされる直前のわたしは、「編集する」ということについて非常に恐れを抱いていたのだけれど、ある人の耳や目や手をを通して現れるものもまた本物で、結局は「誰によって」というところが重要なのかと。

 

1回目、2回目、3回目と、人と人とが少しずつ知り合っていく、その普遍さも描かれている。残り9回の中で、それがどのような絵、どのような景色になってゆくのだろう。途上の景色、ふりかえって見える景色、それを相方のけいさんとリスナーさんと一緒に辿る旅が、これからもとても楽しみです。

 

よかったら聴いてみてください。

 

 

*ブログから

doremium.seesaa.net

 

 

iTunesから

ことほぎラジオ

ことほぎラジオ

  • ことほぎ研究室
  • アート
  • ¥0

 

 

f:id:hitotobi:20170212143323j:plain

映画「むかしMattoの町があった」を観て感想を話す会《前半》をひらきました

f:id:hitotobi:20170206200448j:image

 

2/4(土)まち健(谷根千まちばの健康プロジェクト)さんとの共催『映画「むかしMattoの町があった」を観て感想を話す会』の前半が無事に終了しました。19人で過ごした貴重な時間でした。

 

まずこの映画がとてもよいのです。いかにもなところが一切なくて、愛にあふれていた。正直、辛いシーンもあるのですが、不必要に人をいじめていなくて(ストーリー上はいじめられていますが)、ちゃんと一つひとつのエピソードに意味があって、個別に丁寧に展開・決着されていく。そこにはまるでバザーリアその人のもののような、あたたかい眼差しがありました。

 

鑑賞後の感想を話す時間は、様々な属性や立場の人たちと共に、「わたしたちは何を見たのか」という問いを少しずつ進めていきました。「精神の病と人間の尊厳」という繊細なテーマで、参加されている方がその病の本人、家族、友人、支援者などである可能性もあるので、とにかく丁寧にひらいていくことを心がけ、人数が多いことを活かす場にできるよう、ぎりぎりまで進行を見直していました。皆さんにとってよい体験になっているとよいのですが。

 

途中、Matto pericoloso(危険な狂人)という単語がわたしの耳にガーンと飛び込んできました。果たしてそうなのだろうか。クライシスと呼ばれる急性期の状況も描かれていて、それを見ると確かに驚いてしまう。でも何も原因やきっかけがなくてそうなっているわけではないのでは?

 

それは本当に病気なのか、病気と病気でないとはどう違うのか、だれが病気と判定するのか、本人だけを見ることで解決できるのか、家族も「病」を抱えているのではないか、家族へのケアがないのではないか、家と病院以外の選択肢はないのか、隔離とはなんのために、改革が対話を通じて行われてきたというところに驚きと感動がある、イタリア的な明るさに救われる、屋外の世界の美しさ、男女のすれ違い、日本の現状・挑戦...etc、話題は多岐にわたりました。

 

重いテーマなので一人で観ると沈み込むだけで終わりそうですが、こうしてみんなで聴いたり話したりできるとホッとして希望がもてるし、自分の考えもどんどん進んでいくように思います。

 

今週末2/11は、後半です。前半が「わぁ......まじで?」というところで終わっているのでとても楽しみです。ご参加予定の皆さん、運営チームの皆さん、どうぞ宜しくお願いします。

 

この映画は、上映会方式で普及していますが、映画館でもときどき観ることができます。今は田端の「Cinema Chupki」という映画館で上映しています。ご興味あればぜひ!
2月2日〜28日『むかしMattoの町があった』 | CINEMA Chupki TABATA

焚き火

f:id:hitotobi:20170131071838j:plain

 

去年の1月31日の話、再録。

 

---

息子を連れて、東京の山のほうの河原で焚き火をしてきた。

 

ほとんど初めて会う人たちと、焼けそうな食べ物を片っ端から焼いたり、ホットワインを飲んだり、ただ火を眺めたり、ぽつりぽつりと話したり。

 

子どもたちを河原に放つと、いつまでも石を放っているのでおもしろい。

 

小さい頃は、焚き火なんかどこでだってできたのに、2時間かけてはるばる行かないと焚き火ひとつできない環境にいる今の自分が不思議でならない。大人になったらなんてことなく火を取り扱い、子どもたちを周りに集わせてるものだと、幼い自分は思っていたから。焚き火がこんなに非日常なものになっていることを、まだうまく受け入れられていない。

 

出がけに近くで火事があり、噴煙が上がっていた。火を遊びに行くのがなんとも不謹慎な気がして、道中も気にかけながら。70代の方が顔にやけどをされたとか。ご無事でよかったけど、やけども辛いし、大事な家が焼けるのもどんなにか辛いことだろう。

 

---

この家は一年経った今も路地の奥のほうで焼けただれたまま、解体されていない。直前まで暮らしを営んでいた痕跡のまま、焼け焦げた家財道具が風雨にさらされていて、なんとも言えない気持ちになる。

*集いのお知らせ* 2/19(日)「ブックトークカフェ(読書会)のつくり方講座」をひらきます

f:id:hitotobi:20170124190923j:plain

 

2017/2/19(日)14:00-17:00 武蔵小杉のcosugi coboにて、

読書会を主催したい方向け
「ブックトークカフェ(読書会)のつくり方講座」をひらきます。

読書会体験→解説→企画→講評で3時間。

せいこの6年の場づくりノウハウを詰め込みます。

 

「これだけ考えれば、とりあえず告知はできる」という状態でお帰りいただけたらなーと思っています。

 

ご参加お待ちしております。

 

詳細・お申し込み>>

everevo.com

強くならないといけないの?


f:id:hitotobi:20170123100630j:image

 

友人に、競技かるたとは何か、という話をしていたときに「あー、でもきょうの試合負けちゃったんで悔しいなー。もっと強くなりたい」と漏らしたら、「強くならないといけないの?」と聞かれた。

 

あらためて素朴に問われると、「えっ、うーーん…」となった。考え続け、一夜明けて出てきたのはこれだった。

 

勝ちたいし強くなりたい。

それはもっともっと、という気持ちから来ている。

 

わたしは、もっともっと見たことのない景色を見てみたいと思っている。

それはわたしにとっては、かるたを通してしか見ることのできない景色。

それ自体が、息を飲むほど美しいものだから。

森羅万象の謎に、理に、一瞬指先がかすめたか、かすめないかというところへ行ける。

 

その景色と、そこに至るまでの道のりの中で、自分の人生と(そのつもりはなくても)関連付けてしまうような瞬間がふいにやってくる。「あの場で起こっていることは、過去のある時点で起こったあれそれものだ」、逆に言うと「今のこれはかるたで言うと"あのときのあの感じ"に似ている」というような。それを追いかけて、さらに思考を深めていくと、「ああ、そういうことだったのか」と、いくら考えてもわからなかった人生の謎がいきなり解けることが起こる。自分で解明できた喜びから生きる力が湧く。その感じは、誰かからありがたい説法や格言を聞かされることとは、比べ物にならないほどのパワフルさがある。

 

大人だからこそ取れるかるたってこういうところにあるんじゃないかと思っている。もっともっと深いかるた(和歌としても、競技としても)の魅力に迫っていける。それは子どもたちがやっているかるたとは、同じ場にあっても全然別物という気がする。負け惜しみでなく。

 

 

それから、カッコいい自分になりたい、相手にとって対戦するに価する自分になりたい、自分の納得いく取りがしたい、などもある。

 

もちろん実際に取り組んでいるときには、そんなことは考えていない。

もっと言うと、「かるたをしている」のではなく、「"それ"になっている」という状態。「それ」というのが、かるたなのか、場なのか、理なのか、なんなのかわからないけれども。

 

「勝った負けた」を競うことを通じて、その奥にある「しつらえ」に惹かれている。

それが、ことほぎラジオの第1話で相方のけいさんがくみとってくれたことなのだと思う。

 

なぜかるたはわたしをこんなにも楽しくさせるのか、魅了するのか、をこれからも考えていくと思う。その原動力になるのが、「勝ちたいし強くなりたい」で、それがある限り、わたしは探し求めていくんだろうな。

 

 

16時半からの上野公園

f:id:hitotobi:20170122033535j:image

 

みんなが帰りはじめる16時半ぐらいから上野公園へ行って、スタバでコーヒーを飲んだりチーズケーキを食べながら、日が傾いていくのを目の端に感じながら、それぞれに作業に没頭し、ハッと顔を上げるともう真っ暗で人もまばら……という過ごし方が好きで、息子を誘ってたまにやる。

 

科博やトーハクなど一部の館で金曜と土曜に夜間開館を実施しているので、それに入ることもあるし、たまに都美の売店を冷やかしたりもする。けれど、きのうはそういうのもなく、滑り台などの遊具がちょこっとあるところでめいっぱい遊んで、疲れた頃に暖をとりにいくのもよかった。広場では何もイベントはなくて、ただ冬の美しい日暮れの音があった。

 

スタバの客層が時間の経過とともに変わっていくのもおもしろい。一番星が出る頃にはこどもの姿はほとんどなくなり、ぐっと大人の時間になる。子連れの人々は、ずいぶん遠くから来ているのだろうか。というより、「動物園に行く!」とか目的がはっきりしているので、それが終われば居残る理由もないのか。

 

店を出て振り返ると、夜の暗い中に浮かび上がるこうこうと灯る明かりがまぶしい。エドワード・ホッパーの"Nighthawks at the diner"にも似ているけど、店内の人々はあの絵よりもずっと幸せそうに微笑んでいる。

 

わたしは小4まで大学の構内にある官舎で暮らしていた。他の領域から確かな力によって守られた広々とした公園の近くにいて、だいたいどこに何があるかわかっていて、その日の気分で自由にいたいところにいられて、知や芸術が人間にとって大切なものとされている…というあたりに、あの頃のことを思い出して満たされるのだろう。

 

なんということのない、穏やかで美しい冬のある日。

これもまた大切な記憶としてわたしの中に残ってゆく。