ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

映画「人生フルーツ」を観た

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5月初旬の話。

 

ポスターからの印象の、「丁寧な暮らし」とか「ほっこりほのぼのいい気分」じゃない、ずっしり重くて強い力。今のわたしにとても関係あるのかも…と思った人が集まってきたのか、満席&パイプ椅子&階段までびっしりお客さんでいっぱい。


ことほぎラジオの第2話の冒頭で、相方の桂さんが「自分の信じるものを信じるようにつくればいいじゃん」と言ってたのを思い出した。あるいは、どこかで聞いたか話したか読んだか、「自分自身が信じているもの、そのものに"なる"」ことなども。


ふいに香港のことも思い出した。すべてが細分化され高度に分業化されている。自分でやらなくてもやってくれる人がいる。洗濯もしなくていい。ごはんもつくらなくなる。家から台所が消える。選択と集中により、できること、できなくなることが生まれる。そういう風に成り立ってる社会があることを知っている。あのような方向もある。取り入れたい部分もある。一個人でぜんぶすべきということではなくて。もちろん向き不向きとか得手不得手とか、能力とか事情でできないこともあるから、全部自分で抱えるということではなくて。

 

ただ、自分でもつくれる、可能性をもっていることを忘れないようにする。小さいことでも「やらない」判断をする前に、自分でやってみられないかの検討からまずしたいというか。「やってみる」の中にあえて面倒くさいことに取り組んでみる、それがどのように作られているかへの興味関心を失わないというか。プロセスを楽しむとか.......。

 

まとまりませんが。


信頼、信心、信念みたいなことを考えました。
観られてよかったです。

 

モンフィーユ、夏

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立秋を過ぎて、まだまだ暑いけれど涼しさも出てきて、夏がいつの間にか半ばを過ぎたことを肌で知る。

年々、気温も湿度も高くなり、かつて訪れた東南アジアの国々や沖縄の気候を思い出す。きょうは金子光晴の「マレー蘭印紀行」や「どくろ杯」の気分。湿度の高さも、雨の降り方も、人々の装いも、もはや南国の東京。それでもジャカルタと香港に暮らしてきた友だちからすれば、「こんなのはまだまだ」らしいが。

 

友だちが音読する永井宏の「モンフィーユ」を聞きながら歩いていたら、「おはようございます」と声をかけられてびっくりした。近所で雑貨とカフェのお店を営む夏子さんだった。

お店以外で夏子さんと会うとき、わたしはだいたい一人で歩いていて、そして一人のときわたしはだいたいのめり込んで考え事や心の旅をしているので、夏子さんが思い浮かべるわたしは、きっと鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしているんじゃないかと想像する。

 

考え事をしているときの人というのは、すごく機嫌が悪いように見えるので、子どもの頃からなんでも考え込むことの多かったわたしは、あまりフレンドリーな人とは思われてきていなかっただろう。話すとけっこう朗らかだと思うんだけど。

 

友だちのとつとつとした優しい声を通して、アロハ柄の傘、枯らしてしまった植木鉢、17歳の老犬、夏の雨が降るハワイ…などを浮かべていたら、ふいに涙が出た。

ああ、そうか、今わたし、いたわりとねぎらいと、居てくれること、祝福がほしかったんだな。

 

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読書会『いのちを"つくって"もいいですか?』をひらきました

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ひらきました、といっても、2017/1/29の話です。どんだけ前...。時間が経ってもう少し気持ちが進んで書けるかなぁと思っていたのですが、結局何も書けず...。こういうのはすぐ書かないとダメですね。直後にFacebookにUPしたものに加筆して転載します。とりあえずの記録にFacebookTwitterは本当にありがたいツール!

あの時点では想像もできなかったようなことも、現実の世界では日々起こっています。でも不思議と怖れるだけではない自分がいるのは、この場で話ができたおかげなのだと思います。

 

▼告知ページ。どんな意図をもって場をひらいたか。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

読書会『いのちを"つくって"もいいですか?』をひらきました。

終わったら、自分の全機能を使い尽くしたようで、帰ったらもう眠くて眠くて、小一時間ほどぐっすり眠りました。とにかくこの場に心身の調子や集中度を合わせ、環境を整えてこられて、無事にひらくことができて、本当によかったです。

言葉や文章のプロである潤さんと、場をつくり続けてきたわたしとで、大切に慎重に考えはじめ、参加された方々と共につくりあげた2時間の小さな場。来てくださった皆様、ほんとうにありがとうございました。

最初にわたしが聞き手になり、潤さんからこの本の生まれた経緯や、編集の過程で大切にしてきたもの、対話を進める上での共有事項などを話してもらい、その後、集った9人の「このテーマについての話」を一巡しました。時間帯としては前半でしたが、この時間こそがきょうのクライマックスでした。もしかしてわたしたちはきょう、それを聴くためにここに居合わせたのかもしれません。いのちをもって、今ここにいる、一人ひとりの生の存在や言葉を。

死や命などのテーマを扱うとき、慎重で丁寧ではあるけど、恐れずに場にいたい。一人ひとりの声が聞きたい。そういう気持ちを確かに反映する言葉が、自分の内からあがってきてほしい。そう願ってひらきました。それに応えてくださるかのように、誰一人として、「難しいですよね」という言葉で締めなかったことに驚いています。考えきる、濁さない、ごまかさないという、一人ひとりと、場の意思を感じました。

 

「『社会が望んだから、社会が決めたから、科学者が進める』と言う。その社会が『ムード』のようなものであってはいけないのではないか。個人に責任を帰して追い詰めるような選択のあり方はおかしいのではないか」

「ある一線からは鳥肌が立つほど『気持ち悪い』と感じる、その感覚を見過ごしてはいけないのではないか。その一線とはなんなのか。善悪や正誤の判定の意図からではなく、ただ知りたい、わたしたちが本当にほしがっているものは何なのか......」

「望むと望まぬとにかかわらず、既にそこに選択肢があると知ったら、やはり手にとってしまう。それに苦悩、煩悶しながらでも選ぶことの先にもきっと幸福はある。人間としての成長もある。でも、そもそも、その手段は誰が何のために生み出しているのか。誰がここから先はするべきでないと線引きするのか」

「それが当たり前になりすぎることが理屈抜きで怖い。選択の苦悩さえも取り除く力の働き、『できないよりできたほうがいい』という無邪気さ。でもその結果は誰も引き受けられない。未知の領域だから。参照すべき情報が増え、何が本当かを見分ける日々の選択だけでも大変なのに......」

「男女で引き受けている責任の非対称性がある」

などの話も出ました。

 

立ち止まって考え、「このことについて、今の自分としてはここまでは考えた」「あの人たちと、あの時間ではこのことがわかった」という小さいけれども確実な、身体性を伴う手応えを、場をつくることで積み重ねていけたらと願います。わたしなりの祈り方として。

機会さえあれば、このような場の設定さえあれば、考えたり話したり聴いたり、本当は多くの人はしたいのではないでしょうか。

重いのかもしれません。でもこういう重い話ができなければ、なんのために生きてるのか、わたしはわからなくなります。そういう自分を無視することができない。

たとえ時代の足のほうが速いとしても、諦めたくない。

人間が本当に嫌になる。でも人間を信じたい。

叡智というものがあるから。最後の最後まではわからないから。

 

わたしはいつでも希望と願いをもっている、ささやかないのちです。

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▼参加された方のご感想。ありがとうございます!

eriie.hatenablog.com

 

▼今回の読書会の相方・潤さんのBlog。この本にまつわる話、参考本などぎっしり。

note.mu

 

▼潤さん、参加者さんが持って来てくださった参考本たち

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「台北ストーリー」でエドワード・ヤンにまた会えた

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まさか観られる日が来るとは!

エドワード・ヤンホウ・シャオシェンの青春のすべてが凝縮されていて眩い。夢のように過ぎた時代。戒厳令下の台湾総督府前のシーンの奇跡。すべてのカットが、セリフが、詩的で音楽的で美しい。日本が字幕文化でよかった。

急速な成長を遂げる都市。若者たちは多くの可能性に満ちている一方で、前世代の価値観からの離脱症状に苦しんでいる。きらめくネオンサインの下には、置きざりにされた過去が同時並行で生きており、そこから目を背けることはできない。

未来を見つめているはずなのにどこにも行けない虚しさ。確固たるあてもなく連呼されるアメリカという地名。ここにはないどこかへ衝動的に脱出を試みたところで、欲しいものは何一つ手に入らない。何がほしかったんだろう。それでも、どうにも有難いことに、人生は続き、時代は移る......。

 

エドワード・ヤンの映画は、「恐怖分子」から「ヤンヤン夏の思い出」まで全て観た。観た劇場のある関西のまちの記憶とも相まっている。学生時代の友人の顔も浮かぶ。だから今回観たときも、好奇とも理解とも共感とも違う、懐かしい夜の水に身を浸すような感覚があった。

エドワード・ヤンは10年前に亡くなった。かつての盟友ホウ・シャオシェンの監修により、この4Kデジタル修復版が作られて上映され、「牯嶺街少年殺人事件」のリバイバル上映が好評を博し、DVD化もされていて、なんというか今もう、「我が永遠のエドワード・ヤン」みたいな気持ちでいっぱいである。

 

それにしても主人公の君らタバコ吸いすぎや。

 

大英自然史博物館展がよかった話

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「大英自然史博物館展」2017年3月18日〜6月11日 国立科学博物館に行った記録。直後に書いたので興奮気味ですが、そのままで。。

 

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大英自然史博物館展、圧巻!!想像以上。人類がここまでのわずか300~400年ばかりの間にこの世界を探索してきた、その軌跡が描かれていた。その生命体自身の力が宿る標本の数々も素晴らしかった。限りなく美術展に近い博物展という意味で、大人のための展示だったかもしれない。


大英自然史博物館本体のほうに中学生のときに行ったけど、「珍品を駆け足で見た」みたいな記憶しかなくて、その意義深さとか全くわからなかった。しかし今こうしてまた出会えていることに感謝。長く生きてるとわかることが多い。


美術工芸品的な側面もあるのは、科学技術の発展が学者だけの力によるものだけではないことを証明している。というよりも、サイエンスの中にアート的な要素があるからではなく、アートの中にサイエンスがあるから、というのがふさわしい。いずれにせよ科学というのはそれ単体の狭義の「理系」ではないということを実感する。
17世紀、18世紀の、「これが同じこの地上にあるのか!」という人々や時代の興奮が伝わってくる。全てを収集し、把握し、分類し、分析し、解読したい!という人間の熱狂。もちろんその裏には、今の我々から見ると「非エシカル」と捉える行いも多々あるのだけれど。


オーウェン、ウォレス、ダーウィン、スコット、リビングストン、ロスチャイルドなど、別の文脈で知っていた人々がこの展示で語られ、各々の、全体の、全く新しい物語が立ち上がってきたことに驚嘆。企画した人々の物語る力。


山田孝之さんの音声ガイドもよくて、鼓膜が震える。「いい声してはるわ~」としびれた。さすがプロ。クイズ入れるのとかいい。制作はアコースティックガイド・ジャパンさん。ラジオをはじめてから音声ガイドが気になるこの頃。


博物館の8,000万点もの所蔵品の一部。かつては博覧強記の意味合いがあったものが、そうではなく。これからの人類が成すべきことを示唆するために、今、我々の前に披露されている。

 

本家(Natural History Museum)のサイト見てるとまたわくわくしてくる!

www.nhm.ac.uk

 

twitter.com

 

 

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ことほぎラジオ第9話、配信しました

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「人形の中に体はないんだよ」というちょっとドキッとするタイトルですが、怖い話ではないです。文楽の話、映画や小説の話をして、どこかに着地した模様。

前回のLightning Talk大会を経て、さらに渋谷のラジオにも出て明言できるようになったのは、好きや夢中を話すことは、この世のさまざまな事象を祝福(祈りのひとつ)する行為で、それを話す人間も聴く人間も祝福されてるんだ、ということでした。

最初からそういうことが言いたくて、「ことほぎラジオ」by ことほぎ研究室と名付けていたのですが、実際に9カ月やってきたことで、わたし自身が「やっぱりそうなんだ!」と感じられたり、「こんなふうにやってみました!」と記録が残せたかなぁと思います。

3rd quarterが終了し、残るは3回。

けいさんと取り組みたいことはいくつかあって、丁寧につくりたい、挑戦し続けたい、この先お互いがやっていくことにつながる何かを鼻歌う、とかとか、そんなことを考えています。

 

暑い暑い夏の日の、一服の清涼となれたらうれしいです。Please enjoy!

 


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リア王を観た

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先月と同じ時期に熱が出た。原因はだいたいわかっているので、根本治療が必要なんだろうと思う。この暑い時期に熱が出るのは、喪失の濃度が上がるようで本当にキツい。

 

さて、熱が出た日の昼間には友人と「リア王」を観ていた。やはりシェイクスピアはタイミングが合うごとにもっともっと観たいと思う。演出によって、演じ手によって、時期によって感じることが異なる。

今回は、なにやら身につまされる感情ばかりで、他人事じゃなさをひしひしと感じていたが、突きつけられて苦しいというよりも、「在る」ということに救いを覚えた。家族、親族間で、殺めるまではいかなくとも、愛憎入り乱れる感情をもつこと、非友好的な関係になることはあって然る。血縁というものの厄介さに、いつの時代も人間は苦しめられている。だからこうして必要とされて、400年以上も上演されているのだろう。

リア王の登場人物は、誰もが脆弱で浅はかで悪の一面を持つ。末娘のコーディリアさえも。古来から、信、義、忠、情、愛の物語は他にもたくさん語られてきたけれど、有限の人間と絶対的な約束をすること、しかも言葉にして誓うことの危うさや儚さ、甘言に溺れる愚かさが、殊に沁みた。裏切りがあり得るとわかっていても、そうしなければ生きてゆけない人間の哀しさがある。

黒澤明「乱」のシーンが何度もオーバーラップした。高校生のときに映画を観て、これはリア王も何かの折に観ねばと思い続けてようやく叶った形。

配布されたチラシ群の中にあった、佐々木蔵之介主演の「リチャード3世」も気になる。ちょうど先日のラジオの収録のためにスクラップブックを見返していて、惑星ピスタチオのチケットを発見したりもしたので、これもまたタイミングかと。

 

読み聞かせ(3年生・7月)

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久しぶりの小学校での読み聞かせでした。
夏休み直前なので、「夏の冒険」をテーマに2冊選んでみました。

 

「はちうえはぼくにまかせて」(ペンギン社)

「ウエズレーの国」(あすなろ書房

 

夏休みにお出かけがない子がいるかもしれないという前提で、しかし、日常の風景が一変するようなドラマがもしかして起こるかもしれないよね。ちょっとしたひらめきから楽しくなるかもしれないし、それをみんなが喜んでくれたらもっとうれしい。子どもだってお金を稼いだっていいんだよ......などなど、こちらの胸にしまった思惑はあるとして、子どもたちはどんなふうに聞いてくれただろう。読み聞かせは子どもから感想を聞かないのが良いところなのだけど、きょうはちょっと聞きたい気持ちがあったな。あざとすぎたな、という反省があるからですね。

 

「はちうえはぼくにまかせて」は、4年ぐらい前に、遊びで原書から翻訳してみたことがあって、親しみのある絵本です。自分の翻訳とプロの翻訳とを並べてみて、「そうか、絵本の翻訳をする人は、こどものことをよく知っているし、言葉をメロディとしても聞いているのだ」と思いました。この本、かわいいんだけど、それだけじゃなくて、子どもがお父さんにぶつぶつ文句を言われても全然へっちゃらで、したたかなところがいいのです。

 

「ウエズレーの国」は、内容的に高学年がいいんじゃないかなぁと、非常に迷いましたが、息子がどうしてもこれを取り上げてほしいということだったので、思いきって出して見ました。親や同級生から「あいつヤバい」と言われいる子が、実はすごいアイディア、能力、実行力を持っていて、どんどん自分だけの国を作っていって、そのすごさにみんなも振り向くというお話。みんなと同じことがしたくないのは全然おかしなことじゃなくて、誰からも理解されなくても自分の好きなこと、やりたいことで一歩踏み出して、突き進んでとんがっていけばいいんだぜ!というスピリットは好きだし、必要な局面もあると思うのだけど、同時に支配的、強制的でもあるかもと感じている。結局最後はウエズレーの作り出すものにみんなが並んで受け取る感じになっているし...。それは一時のブームかもしれないし、害とは言いきれないのだけど...。どう捉えるかはその人それぞれで、子どもも大人も議論のしがいがある話だと思います。そういう意味で、5〜6年生に向いているのかもしれない。

 

きょうはテーマを設定してみたのもあり2冊とも同じような路線でいってしまったので、主人公を男の子と女の子(あるいは人間と人間でないもの)、外国と日本、昔話と今のお話、短いお話と長いお話、物語と科学絵本など、次回は意識して変えてみようと思います。10日前ぐらいから候補を挙げて、なんとなく組み合わせを決めて、練習して、一旦寝かせて、5日前ぐらいにまた見直して...ってするのがいいんだろうな。

 

読み聞かせボランティアさんは人気なので、1つの学期中にだいたい1回で、2回まわってきたら多いな!という感じ。それゆえに慣れがなくて、ほどよい緊張感をもって臨めているのがよいです。

 

はー、朝からひと仕事終えた気分。近所のカフェでモーニングして栄養補給して、さて、きょうも暑いけれどがんばろう。

 

ことほぎラジオ第8話、配信しました

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第8話は「ことほぎ・ライトニングトーク大会」と銘打って、5分で終わる小さな話を交互に次々に全部で2ダースしています。

 

書き留めていた「いつか話したい話」や、お互いにリクエストした「けいさん/せいこさんの、いつかまとめて聴きたかった話」の蔵出しのような機会になりました。
でもこれでも一部で、まだまだ話したい話は持っていて、いつでも全世界に披露する準備ができているものが多いです。配信してから思いました。どれだけ話したがりなんでしょうか。。


リスナーさんが何を聴いてくださるのか、楽しみです。
はじめての方も、よかったら聴いてみてください。

 

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ことほぎラジオ第7話、配信しました。


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ことほぎラジオ第7話、配信しました。

ブログでの前回のお知らせが第5話で止まっていましたが、その後、

 

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と、次々と配信しておりました。

「あ、これがやりたかったのかも!」とか「もうちょっとでなにか見えそうかも」という予感と衝動でつくりまくった、勢いのある2ヶ月でした。ああ、楽しかった。

 

第7話は少し落ち着いて、タイトルのとおり、「日常をしっかり」を感じ考え続けた中での収録となりました。

 

今回はリスナーさんからのおたよりがみーんな示し合わせたみたいに同じぐらいの量で長文で、おもしろいなぁ。ほんとうに丁寧に聴いてくださってるんだなとひしひしと伝わってきて、ありがたいです。おたよりはしていないけど、同じように感じてくださっている方の存在がこの10倍ぐらいはありそう。

 

楽しんでもらえるとうれしいです。
なんて言ってるあいだに、そろそろ第8話の収録の時期です。
さてさて、今回はどんなふうになるのかなぁ。

 

忘れものを届けない話

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月曜の朝は〈体操服、給食の白衣、上靴、歯ブラシ〉の入った‬「お持ち帰りバッグ」を息子が忘れていきがちである。先週も出て行ったあとバッグが置いてあるのに気づいた。出るついでに届けてあげたこともあったけど、その日は時間がなくて、届けなかった。

 

夕方迎えに行ったら、「きょうお持ち帰りバッグ忘れちゃったんだよねー。あなた(!)が届けてくれるのかと期待しちゃったー」とガハハと笑っていた。わたしも「きょうは時間がないし、ついでもないからしなかったよ」と言って、「そっかー」みたいな感じで話は終わった。忘れたことについては自分なりに解決したらしい。先生に相談などしたんだろう。

 

ここで「ごめんね、届けられなくて」というのも違う。それはわたしが責任をもつことではないから。「そんなもんお前の責任じゃ」というのも違う。息子はそれが自分の責任で行うべきだったとわかっている。

 

自分にも相手にも責任の範囲がある。まずは各々がそれをやる。もちろんそれを超えて行うことだっていっぱいある。でもそれは人の選択で自由である。超えてしてもらったら感謝。でもしなくて非難しない。そういうことかなぁ。全部に当てはまらないと思うけど、この日はそんなことを考えた。

 

忘れて致命的に困ることもたまに起こるし(パスポート忘れて飛行機に乗れないとか)、忘れるのが人間だから、どうやったら忘れないか工夫だなーみたいな話もした。これはわたし自分にも言っている、ということは息子にバレバレであった。

 

 

こどもは不思議

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今朝息子が別人になってた。顔立ちも違う感じ。内のほうの見えないところでなんかぐーっと変化があったんだなぁ。ほうほう。

 

だいたいそういうことの前にはすごく甘えてきたりするんだけど、そのときにどうぞどうぞと「甘やかす」をしてみると、安心してびゅーんと飛んでいけるみたい。後ろ姿が眩しい。

 なにかはわからないけど、おめでとう。

 

ああ、この人は、わたしでもなく夫でもなく、一人の人間なのだなぁということに感謝する。自分で産んだわけだけど、「あら、この男の子はどうしてここにいるんだろう、不思議だなー、不思議だなー」と思いながら、伸びたい方向へ生命力豊かに伸びてきて、8年経った感じ。

 

親子の関係性もちょっとずつ変化する。それぞれの世界の中で生きて、いろんな部屋に入って出て、また同じ部屋に戻ってくる。

 

まだしばらくは同じ部屋に。‬

 

シャセリオー展を観てきたメモ

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国立西洋美術館で開催中のシャセリオー展、とっても良いです!!GWなのにお客さん少なかったからだらだら宣伝します!!5/28まで。国立西洋美術館

 

ポスターの「カバリュス嬢」、かわいいなぁ〜と思ってたんですが、本物はもっとぐっと迫ってきます。同じ部屋の肖像画群も、「肖像画ってこういうものだったのか!」と開眼した感じがあります。ロマン派ってよくわかってなくて、「すごく古い時代のヨーロッパ絵画」ぐらいの雑な捉え方しかしてなかったんですが、新たな潮流を起こした一人で、だいぶ異端児だったみたい。シャセリオーにしか描けない世界があって、シャセリオーの手にかかると人にも動物にも神話にも魔法がかかる。

いろんな対象と「恋愛」して、目でお話して、情熱をとらえる方だったんじゃないかなぁ。物腰柔らかで繊細で激しい。人間の感情をどれも美しいものと見て、美しいものに光を当てて、一番美しく描き出す。

 

新古典主義のアングルに11歳弟子入りして、16歳でサロンデビューするも、別の流れにいったドラクロワに傾倒して、新しい画風を作り出して行った。アングルからも画壇からも叩かれたこともあったようだけれども、若いモローやシャヴァンヌ、ルドンなどが影響を受け、慕い。モデルになった恋愛関係のあった女性たちが生涯絵を大切にしていたとか、彼の人生とてもドラマティック...。実際、絵柄もとっても漫画っぽいというか、きれいとか美しいの感覚が現代の我々に通じるものが多くて、わかりやすいし、すごく共感できる(←ここ重要)。

 

ドラクロワ、モロー、ルドンと並べた構成もよかったし、音声ガイドもとてもよくて、山田五郎の解説がとてもわかりやすくて3回ぐらい聞いた。ドラクロワの版画もとてもよかったです。

 

シャセリオーを観て常設のモローとシャヴァンヌを観るとまた味わい深いし、ナビ派を観たあとなので、ゴーガン、セリュジエ、ドニ、ボナールが並べてあるのとかうれしい。

 

 
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常設展の2階の「スケーエン展」もとてもいいです。観るのは2回目なんだけどまた新しい発見があった。19世紀のデンマークでこんな素敵な絵を描いてる人たちがいたんだー。人々の体つき、顔立ちは、それまで見て来たフランスの人たちと全然違って、バイキングの血を感じる。人々の暮らしぶりや海辺の風景なども独自のものがある。人間が風景に溶け込んで描かれているところとか、色や光が心地よかったです。

 

さらに下の階に行くと、モローとシャヴァンヌがいて、ゴーガン、ボナール、ドニがいて。ラジオの番外編でも取り上げたばかりだったので、この流れはすごーい!と興奮しました。

 

常設&企画だけで半日は要したので、ぜひ時間をかけてゆっくり観ていただきたいな!

なんだか元気になる展覧会です。

 

 

一箱古本市、出店しました。

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不忍ブックストリートの一箱古本市が無事に終了しました!あー楽しかった!!

2人が自宅や友人たちの本棚から持ち寄った本のうち、38冊が旅立っていきました。

 

昨年秋に初めて一箱古本市に出たときに、話したのはこんなこと。

"思い入れがあったり、その本について何かひと言添えられる本だけど、もう自分の手元にはなくてもいいな、と思える本を持っていきたい。処分ではなく、次にその本を必要としている人に手渡す気持ちでお店を出したい。"

 

今回もまたそんな気持ちで本を集め、お客さん一人ひとりと言葉を交わし、音読を聴いていただき、手渡ししました。このインスタントには買えない面倒くささがいいし、そういう面倒くささをむしろ歓迎する方々がたくさんいらしてる古本市だなという感じがしました。一回一回のやり取りが小さな出会いの場になったかなと思います。

 

やっぱり「お店をやる」って楽しいなぁと思います。パッとひらいて、もってきたものを陳列して、もってるものを披露して、集まってもらって、交換作業があって。それを「同じ場所」で積み重ねていくこと。古本市でのやり取りはほんの一瞬なんだけど、「この本懐かしい」「この作者はぜんぶ読むことにしてる」「この装丁なんか気になる」などの呟きから広がる、その人とその本とのドラマ(過去か未来か)をちょっぴり聴かせていただける。お客さんが「この本とわたし、今なにか関係してるのかも?」という気配に包まれている瞬間は、ほんとうに美しくて、とても好き。

 

音読をしたのは、持って帰ろうと決めた本を読む楽しみがより広がるように、より愛着がわくといいなというお節介からでしたが、大人になってから一対一で読み聞かせしてもらうことってあまりないから、皆さん喜んでくださったみたいです。「他の誰でもない目の前のあなたに」っていう贈り物をしたかったのです。

 

ラジオをはじめてから音読が楽しくてしょうがなくて、時々録音して友だちと交換して楽しんでます。そういうのもきっかけとしてあったな。これまでやってきたこと、今ちょうど出会っていることが次々につながっていってうれしい。


そしてなんと!なんとなんと!トリとニワトリは「谷根千工房賞」をいただきました!本屋が生業でないこと、一箱に収めていること、音読のアイデアがよいことなどが受賞の決め手だったようです。うれしい。商品は谷根千地域のおせんべい屋さん6店舗分の詰め合わせ、雑誌「谷中・根津・千駄木」、多肉的な植物の挿し穂。もう2人とも、どれも、大好物!(そういえば森まゆみさんの本も一冊出してました!)


立ち寄ってくださった皆さま、運営の皆さま、同じスペースでサポートしてくださった先輩店主の方々、本を譲ってくれたお友だち、ありがとうございました!

そしてなにより相方のニワトリ・まきさんにありがとう!!いつも知的な刺激と深い優しさをもらってます。

 

本を通じての出会い、楽しいな~  また一箱古本市に出てみたい。

売るって楽しいな〜 お店で働く仕事の楽しさを思い出した。

 

きょうは怒濤の祭りから一夜明けて、ちょっと喪失感と、あーまた知らないことを知って世界が刷新された!感と両方あってぼんやりしています。準備して、実践して、堪能して、省察して。楽しい。

 

 

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出店します!:4/30 不忍ブックストリート 一箱古本市

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昨年はじめて出店したので味をしめ、今年はなんと一箱古本市の元祖、不忍ブックストリートの一箱古本市に出店することになりました!

不忍の特徴は、書店、カフェ、ギャラリー、教会、ホテル、老人ホーム、文化財指定古民家などなど、地域のさまざまな建物の軒先をお借りして開かれるもので、言ってみればまちじゅうが会場になるという楽しいもの。(軒先をお借りできるので、雨天でも決行できるんですねぇ)

毎年秋にひらかれる芸工展にも通じますが、「まちじゅう」と「思ってもみなかった出会い」があるところが好きです。

 

 

わたしたちのお店の名前は、

トリとニワトリ

です。

 

2017年春:店主一覧 | 不忍ブックストリートにも載っております。

会場は、ギャラリーKINGYOさん 文京区千駄木2-49-10

同じ場所で出店する方々とは、はじめまして。どんなコラボレーションが生まれるんだろう。わくわく。

 

こんなコンセプトでやります。

大切にしている物語・暮らし・アートの本を、家の本棚から持ち寄ってお店開き。色とりどりの世界観が混じり合う本を介して、たくさんの方と小さな出会いの場をつくります。

 

 

 

まわりの店主さんたちは各地の古本市で腕をふるってきた猛者(?)ばかり。
どきどきしていますが、わたしたちなりの小さな場を楽しんでつくりたいと思います。

 

遊びにきてね!

 

 

 

前回出店した古本市の様子 ↓

 

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