ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

リサイクル本コーナーで掘り出し物

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公立図書館に行くと、「きょうかえってきた本」と同じぐらい、「リサイクル本」のブックトラックを物色するのが好きだ。たまに、ここでしか会えへんかったわ〜というような本が見つかったりする。

 

先日、リサイクル本の山の中から見つけたこの本、「めぐろシティカレッジ叢書8 川からひろがる世界」。

川のほとりで生まれ育ったわたし、川好きとしては、ぐっとくるタイトル、表紙だ。

 

川に支えられた日本の物資流動、河川の地形学入門、日本の灌漑システムと稲作、川と電気事業、川の癒しと地域の観光(ドイツを例として)、セーヌの流れに育まれたパリ(世界都市の文化はいかに生まれてきたか)、世界文明の礎をつくったティグリス川とユーフラテス川...などなど、川をテーマに、小学校の学習科目で言えば、「社会」にあたるような話がいろんな著者によって書かれていて、はじめて知ることも多くて楽しい。知っていたつもりのことも、その隣(影響しあうもの)やその奥(背景や要因)がわかって、へー!と思ったり、じゃああれももしかして関係あるのかも?と自分の体系とつなぎたい欲求が出てくるとわくわくする。

 

内容としては、論文と社会の副読本の間のような難易度で、でも「川のことでこれは言いたい!」という熱が持ち寄られて編んであるところが、専門家同士がつくっているZINEのような楽しさや賑わいも感じる。

 

そう思ってあとがきを読んでみると、この編者の方自身が、大学在学中に受けた「川の流れ」という講義が忘れがたく、それが叢書の構想の土台にあった、というエピソードが出てくる。

“この講義はオムニバス形式で行われ、「川の流れ」が文系や理系の切り口に限らず、さまざまな先生によって毎回異なる切り口で説明された。すべての講義内容を記憶しているわけではないが、地理学では河川地形の発達史や水文学水収支論が、歴史学では水運や河岸の経済史が、哲学では川向こうや彼岸の思想が、物理学では流体力学が講義され、それら以外にも民俗学や生物学、あるいは政治学社会学などからの説明があり、どの授業も興味深いものであった。” (おわりに/菊地俊夫)

 

...そ、その講義ものすごくおもしろそう......。わたしも受けたい!

 

そして偶然だけれど、ちょうどことほぎ研究室で、7月からまちの教室KLASSで講座「ことほぎクッキングレポート」をひらくことになり、そこでめざしていることとも重なるような気がする。

kotohogicooking.peatix.com

 

 

もう一度表紙を眺めてみて、そういえば「めぐろシティカレッジ」ってなんだろうと思い、本をパラパラめくってみたが、まったく情報がない。ネットで検索してみたところ、目黒区で開講されていた(いる?)区民講座らしい。発足のきっかけが、都立大学が目黒区から八王子市へ移転したこととあったりして、なんだかおもしろい。

 

わたしは人が集って本を紹介しあう場(読書会)を日頃ひらいている。だからこそ余計にそう感じるのかもしれないが、こういうおすすめする意図で置かれているわけではない本に、自分だけの掘り出し物を発見するのはとても楽しい。

 

映画『レディ・バード』鑑賞記録


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*鑑賞行動に影響のある内容(いわゆるネタバレ)が含まれています。未見の方はご注意ください*

 

 

 

6/1公開の映画「レディ・バード」を観てきた。

 

よかった。登場人物たちがみんな、設定ではない人生を生きていて。

赤い髪の女の子が主人公といえば、「ラン・ローラ・ラン」がわたしの中で一等キュートだけど、レディ・バードはまた違うキュートさ。嘘もつくんだけど、誠実さとか愛情豊かな人で、彼女なりの思春期の切実さからであって、気まぐれに大声でわめいたり、ただはちゃめちゃなわけじゃない。気持ちを、意思を言葉で伝えている。応援したくなる感じ。ポーッとなったりもするけれど、基本自分を大事にしていて、ちゃんと境界も守れるから安心して見ていられる。

 

英語の気持ちを伝える言葉ってシンプルでストレートでいいなぁってあらためて思った。日本語だとバリエーションが星の数ほどあって、そこが分厚さや奥行きを伝えることもあるけど、まるで意味が通じてないときもある気がして。人が違っても「そのフレーズ」は一緒なところが、ちょっと羨ましくなった。

 

監督・脚本のグレタ・ガーウィグの「フランシス・ハ」は去年DVDで観て、なんだかぐったりしちゃって、たぶん20年前だったらどハマリしてそうだけど、今のわたしはそうではなかった。「あー、あたし人の親でもあるんだなぁ、いったん親になったら一生親なんだなぁ」と思った、そのとき。

 

リチャード・リンクレーターの「6歳のボクが大人になるまで」もめっちゃ好きだけど、その大部分はパトリシア・アークエットの母親役に共感していたりする。(パトリシアの俳優人生と自分の映画人生とがリンクするっていうのもあるけど)

だからきょうもやっぱりまずは母親が気になった。

そして次に、思春期バンザイ!!ってきた感じ。

 

その他、「プロムには恋人と行く」に代表されるこの「カップル文化」って辛いなぁとか、銃乱射事件、鬱、離婚、ステップファミリー、セクシャル・マイノリティ、カトリック性教育、学費、就職、養子縁組、人種、都会と田舎...などなど、たくさんの小さな筋が集まって本流の物語を支えているので、あーだこーだ話していたら、2時間ぐらいあっという間に経ってしまいそうだ。

 

 

 

自分の聴くを点検する60分

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相変わらず多岐にわたっているわたしの仕事や活動だが、「片付け」が進み、軸がどんどん定まってきている。これから場づくりの個人セッションや団体へのコンサルティングも増やしていきたい。そうしていくには、自分の「聴く」も再点検する必要を感じていた。だいたい年に一度は「聴く」の大きな見直しをするようにしているが、そのタイミングが今来た、という感じだった。

 

そんなときに、こんな場を見かけたのですぐに飛びついた。

「聴くプロのための公開カウンセリング研究会」

ameblo.jp

 

わたしはオブザーバーとして場にいて、20分の話を同じように聴きながらメモをとる。終わってから、20分の道程をみんなで辿りながら、質問やディスカッションを通して、講師との聴き方の違いを探り、気づき、全体の構造をとらえなおす。

20分の時間制限がある聴き方なので、いずれは本流に戻るかもしれない話も、一番の近道を通っていく必要がある。わたしは登場人物の多さや状況整理、自分の関心事にとらわれてしまい、話し手の主訴を正確に把握できていなかった。重要なことは、「話し手がどうしたいか」ということだ。

また、事実の確認(何は起きていて、何は起きていないか)も非常に大きなポイントになっていたことがわかった。整理、確認、具体化。

 

聴き手としてそこにいる責任は持たずにいられて、客観的でありながらも、自分だったらどう聴くか同時に考えながら聴ける。こういうことは自分が聴き手のときにはなかなかできないことなので、ありがたい。自分の聴き方を録音して聴くのもいい勉強になるが、しょせんは自分を超えられないので、優秀なお手本をトレースするのも大事なのだ。

 

上のブログ記事の中にも競技かるたの話が出ていたが、わたしが今年の名人戦・クイーン戦を観戦する前に、A級選手からもらったアドバイスで非常に役に立ったのも、そのトレースと分析だった。自分も同じように50枚を暗記して、並べ方、どういう取り方で取ったか、どのタイミングで何の札を送ったかをつぶさに観察していって、自分の予想や選択とのずれを見るとよいとのことだった。確かにやってみて、上級、超一流の選手の対戦を見て学ぶというのはこういうことか!と興奮した。

 

講師のライチさんによれば、何かを教える/教わるときに大切なのは以下の3つ。

  • 知識を学ぶ
  • 技術を学ぶ
  • 態度を学ぶ

今回のトレースは最後の「態度」のところ。やってもらって先生からフィードバックを受けるのも大切なのだが、やっている人を見て学ぶということも忘れず入れる。

 

今回の学びを自分の現場にどう活かすか、少しずつ見えてきている。

まずは、翌日の場づくりゼミで、「わたしも今ゼミという場をつくっている。ここで話していること、態度やふるまいは、今わたしがゼミの中で述べていることと一貫している。それも見ても学んでもらうつもりでやっています」と、宣言してみた。

「聴く」に関しては、聴けてると思ったらダメで、自分を尽くして聴きながらも、「聴けていないかもしれない」とも一緒にいつづけなくては、と思う。

常に学び続ける。背筋が伸びる思い。

年に一回は少なくともこのような機会はやはり必要だ。

 

それにしても、晩ごはんを食べて風呂に入って寝る準備をしてから参加できるので、Zoomはほんとうに大変ありがたいツールだ。わたしもこれから大いに活用したい。

 

 

・・・

《募集中の講座@KLASS》
▼また行きたい!と思える場をつくるゼミ(単発参加OK!)

第1期:6/23(土)参加者役募集中
第2期:7/14(土) , 7/28(土) , 8/11(土) , 8/25(土) , 9/1(土)
http://bazukuri-2nd.peatix.com

▼自分の今とこれからを見つける夏至のコラージュの会 6/21(木)
http://klass.hagiso.jp/class/collage-2/

積読本をひらく読書会
7/7(土) , 8/4(土), 9/6(木)
http://dokushokai-2nd.peatix.com


《個人セッション》
企画や設計のサポート、案内文添削、こんなときどうする?など場づくりにかかわることならなんでもご相談ください。
進捗やご希望に応じ、期間や回数はヒアリングの上、ご提案します。
1回1h ¥10,000(税別)〜 
http://hitotobi.strikingly.com/#service

 

片付け祭りのあとに

片付け祭りのあとに、最近ぷかんぷかんとあぶくのように上がってくる感情。

本当に大事にしたいものを大事にできなくて辛かったのだなぁという痛みと悼み。

 

暮らしのこと。

片付け、掃除、洗濯、料理。

育児にまつわることも一部そうかもな。

 

それを丁寧にすればするほど、自ら性別役割分業を強化することになるのではと怖れて、それが苦手、嫌い、関心がないとする態度をとったり、強化してくるように思える存在に対して、戦闘態勢を敷いてこなければいけなかった。

 

祖母や母や叔母などの身内の女たちをずっと見てきて、ああいうふうにジェンダーと結びつけられ、家庭内権力が上の者のやりたがらない雑事として、押し付けるようにやらされ、できないと責め上げられるのはたまらないと、子どもの頃から感じていた。

 

行動を制限されるのも納得がいかなかったし、大切にすることが優しさ、弱さのようにとらえられることも悔しかった。

 

 

わたしはほんとうは、自分の生に直結する衣食住のことを丁寧にやりたかったんだなぁ。

 


「丁寧にする」っていうのは、手順を増やすとか、いい材料を使うってことじゃなくて(それも一部含むけど)、自分の中心から外さない・自分から切り出さないってことを言っている。



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どうしても手がまわらなくて家事を外注したときに、楽にはなったけどあまり幸せになれなかった。

ほんとうは家事や育児の「めんどうな部分」を省いたり、コストカットしたいわけじゃなかった。

 

身の回りのことを自分の扱える範囲にし続けておきたい。

衣食住を自分の身体の延長として真摯に考えていたい。

 

もちろんそれをまずは切り分けて、安心して暮らしたり、集中して伸びたり挑戦したい時期もあるから、ずっとずっと毎日こうでないと!と考えているわけじゃないけれども。

 

 

 

そしてこういうことはたぶんわたし個人の話じゃないと思っている。世界中にあると思う。

 

 

ほんとうにジェンダーと家事、炊事、育児を結びつけるとロクなことないので、そういう土俵からはわたしはもう完全に降りたいし、かかわりたくない。

 

そう思っていても、巻き込まれる面倒臭さはまだまだあるのだけれど、なるべく距離を置くことにする。

 

役割や属性に人を閉じ込めたらほんとだめ。

 

 

片付けの副産物はこれからもたくさん出てくるだろう。

 

映画「スリー・ビルボード」がよかった話

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*鑑賞行動に影響のある内容です。未見の方はご注意ください*

 

ちょっと前、3月。まだ寒い時期の話。

開業して初のお仕事でいただいたお金をにぎりしめ、郊外の映画館にモーニングショウを観に行った。友だちとあーだこーだ話そうねと約束していて、観終わった後に90分、映画の感想だけをガッツリと話した。

こんな幸せな循環があるだろうか(いやない)。

 

感想を徒然と。

・・・

  • フランシス・マクドーマンド、「ブラッド・シンプル/ザ・スリラー」「ファーゴ」を思い出すね、やっぱり。彼女がいてくれてほんとよかったもん、あの映画。今回の監督がこの二作を意識していないはずがなく、そこかしこにオマージュを感じる映画だった。
  • 他に「フライドグリーントマト」とか「エリン・ブロコヴィッチ」を思い出したりもした。でもあれらの映画とは違って、主人公の心中はあまり語られなくて、むしろ彼女の周辺にいる男性たちのほうに共感してしまうような描かれ方だった。主人公は狂言回しのような存在なのがおもしろい。
  • ディクソンの悼みと自立の物語なのかも。署長が父親がわりだったのかな。その点ではミルドレッドの息子の話でもあるようにも思う。他の登場人物に視点を移していくと、それぞれが見ている世界の唯一さが光って見えるようだ。違いの差分というより、ほんとうに違う世界を生きている。キャラクター一人ひとりに丁寧な設定があるのがわかる。
  • 山あいの小さなまちの、すべてがまちの中で完結してしまうあのどこへも行けない息苦しさ。あっという間に噂の回る、どいつもこいつもろくでもない、常識が通じなくてイカれてると頭をかきむしりたくなるような鬱屈とした感じ、あーこういうのよく知ってるわとうなずいていくうちに、いろんなものがどんどんぶっ壊されていく。時に軽妙。
  • 主人公は、いろんなろくでもないものと闘っていて常にファイティングポーズでいるのだけど、マイノリティ的な立場の人といるときはフラットに接していられているよう。看板を設営するメキシコ人の男性、セクシュアルマイノリティの警察官の男性、身体に障害のある男性、お店のスタッフの黒人女性。
  • それからどうしてもキーになってくるのは、銃の問題。
  • 不思議と食事のシーンが少なく、あっても食べ物が映らない。ゆっくりコーヒーを飲んだりもなく、ボーッと考え事をするちょっとしたカットさえも短く、すぐに次の出来事が起こって転回/展開していく。なんとなく、今の時代のスピード感なんだろうなと思う。

 

・・・

 

そんな感じ。

 

この日の前後に、アカデミー賞の授賞式があり、フランシス・マクドーマンド主演女優賞、サム・ロックウェル助演男優賞とのこと。おめでとうございます。

 

一緒に観た友だちが、映画を観ながらメモをとっていて、それに沿って感想が話せたのですごくよかった。傍目には書きながら映画を観る?集中できないのでは?と思ったけれど、「ちはやふる-結び-」で真似してメモをとってみたら、わりといけた。というかむしろ味わいが深い。そんなことも教えてもらえてよかった映画でした。

 

 

▼ブラッドシンプル/ザ・スリラー公開当時(1999年)のチラシ。
 この映画、すごく好きなんだけど、好きすぎてもう観られない気がしている。
 チラシだけ大事にとってある。


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映画「ちはやふる-結び」の感想をあーだこーだ語る会、ひらきました!


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映画「ちはやふる-結び」の感想をあーだこーだ語る会をひらきました。

chihayafurumusubiadacoda.peatix.com

 

今回一緒に場をひらいてくれたゆきこさんは、かるたがきっかけで知り合った人。「物事をたいこ目線で語りがち」という子どもの頃から打楽器を愛し、今も市民オケで鳴らしている(まさに!)アマチュア打楽器奏者。

ちはやふる」は漫画も映画もかなりディープなお付き合いのようで、彼女の世界観の中で、魅力をどう語ってくれるのかとっても楽しみでした。

わたしは競技かるた、和歌、映画などをキーワードに語ろうかなと思っていた。

当日の会場は、これまた店主がかるたつながりのご縁のある茗荷谷カフェバーtotoruさん

 

そしてその時間になって...。

とても楽しくエネルギッシュな場で、来てくれた人ととにかく楽しく話して、熱中して...。

ほんとうに夢の中にいたみたいでした。

 

いろいろ、いろいろと、ほんとうに表現したいことはあって、何度も書きかけました。でも、なかなか書けず。まずは周辺から書いてみようと3本ブログ記事を書きました。

「ちはやふる-結び-」を語る前に考えたこと① - ひととび〜人と美の表現活動研究室

「ちはやふる-結び-」を語る前に考えたこと② - ひととび〜人と美の表現活動研究室

「ちはやふる-結び-」を語る前に考えたこと③ - ひととび〜人と美の表現活動研究室

 

 

でも、当日の話はなかなか書けない...。「どうしてなのかなぁと思っている」ということをある場で話したら、どうも個人的すぎて大切すぎて、わたしは大事にしまっておきたいんだとわかりました。そのへんのことをポッドキャストのこの回で話しました。

doremium.seesaa.net

 

 

こんなんして...こんなことがあって...というのは、物に語ってもらうことにして、この映画と場のことはしばらく大切にとっておこうと思います。

 

ふわー、ほんとうにこの1ヵ月はいい時間を過ごしていたのです!

きっと先々の人生で何度もあたためてもらうことがあると思うなぁ。

 

 
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草花の名前

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母や祖母は、草花や木の名前をよく知っていた。庭や田畑で作業をするとき、よそのお宅の庭先を通りかかるとき、山歩きをするときに教えてくれたり、独り言のように名前を呼んだりしていた。子どもの頃は興味がなくて、ろくに聞いてなかったはずなのに、今見ればパッと口をついて出て、自分でビックリすることがある。

 

父もよく知っているけど、こちらは文学や雑学と結びつけての知識自慢がメインか。それはそれで面白かったけど、「お前そんなんも知らんのか、アホか」となるので、むかついて終わる。

 

大人になって母と、「立葵の根っこが、路肩の隙間からあんなに高く自分を支えて立っているのはすごい」という話を15分もすることになるとは、思ってもみなかった。

 

立葵の名は、神楽坂を歩いているときに、空き地からぐーんと高く生えていたのを立ち止まってぼーっと見ていたら、通りすがりの着物姿のご婦人が「立葵って言うんですよ」と教えてくださって、それで憶えている。

 

今暮らしているまちでは、軒先の鉢植えや小さな庭が四季折々、丹精されていて、色とりどりの花が目を楽しませてくれる。手入れ中の方に自分から、「これはなんという花ですか?」と尋ねることもよくある。


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【KLASSの講座】また行きたい!と思える場をつくるゼミ(第2回)、ひらきました

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人が集まる場をつくりたい人や、運営している場をふりかえりたい人が、自分らしい場づくりをレクチャー、ワーク、参加者同士の対話を通じて考え、学び合うゼミ形式の講座です。

 

第二回のこの日は「設計と進行の抑えどころ」がテーマ。「なぜわたしが/誰と/何を分かち合いたくて/何をする場をひらくか」のコンセプトを抱きつつ、さらに具体的に、場を現実に存在させるために図面を引く作業をしました。

まずは、前回からこの日までにあったことで印象に残っているエピソードをシェアしました。ある場にいって考えた違和感のこと、自分の場への辛口コメントについて考えたこと、ゼミでの体験をもとに今の自分の課題を考察してみた…など、「場をつくる」というテーマと共に日常を過ごされていたようです。発見したことを聴いてもらえる仲間がいるのもまたうれしいものですね!

 

 
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ワークでは、いつ、どこで、誰向けに、何人、いくら、タイトルは…?など13の項目について考えたり、その場の風景を絵に描いてみたり、時間の使い方(プログラム、タイムライン)などを紙に落としてもらいました。場をつくる人は、このような事前に行う時間と体験のデザインが大きな役割としてあります。

 


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ワークのあとは一人ずつ発表をして、フィードバックをもらう時間。この時間がやはり貴重です。口にしてみることや問われることで明らかになってくる自分の思い、思いが言葉になっていく過程をお互いに見ることそのものが刺激になります。お互いの場の発表を聞いて、「すごく興味ある!参加してみたい!」とゼミ生同士で盛り上がる姿も見られました。

 

場をつくる人は、場を守る人でもあります。実際に場が守られているために大切な、ルールを敷くことと守ること、一人ひとりに対する目配り、時間の管理、ふりかえりなどについても話しました。(第4回6/23(土)で実際に自分の場の進行を試してみることができます。)

ここまで考えるとあとは「場へのお誘い」ができます。不完全なように思えても、まずはできているところまで出してみて、いろんな人に持ち寄ってもらいながら進めよう!という勇気も大切です。場をひらいてみようと決めて、引き受けていこうとしている皆さんの勇気はすばらしいもの。引き続き今後の展開を応援しています!

 


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自分では場をひらく予定がない方も、わたしたちは日々暮らしたり、遊んだり、働いたり、学んだりする中で、たくさんの場にかかわりながら生きています。そこは誰が守っている、誰にとっての、何が行われている場なのか。そしてそこで人がどのように動いているか、を観察してみるとおもしろい発見がありますよ。

 

・・・
今後の予定です。ご参加お待ちしております!

また行きたい!と思える場をつくるゼミ
https://bazukuri.peatix.com/

6/9(土) 第3回 運営と事前事後の抑えどころ
・申し込み方/参加の仕方⁄受け付け方
・参加者とのコミュニケーション
・準備する物、事
・活動スケジュール
・ふりかえりの仕方
・運営体制
実務面の抑えと、参加者や運営メンバーとの関係づくりにフォーカスします。既に運営している場があるが、何かうまくいっていないかも…と感じる方にもぜひ参加いただきたい回です。はじめてゼミに参加する方にはキャッチアップのための宿題を事前にお送りします。

6/23(土) 第4回 パート練習
1人15分〜30分の持ち時間の中で、自分の場で実施予定の進行練習ができます。練習ができるのは、第1〜第3回のいずれかを受講された方に限ります。未受講の方は参加者役となりますが、参加しフィードバックすることでも学びは得られます。まだテーマが決まっていない方にもぜひ参加していただきたい回です。

 

▼6/21(木) 自分の今とこれからを見つける夏至のコラージュの会 
https://collage2.peatix.com/

自分のやりたいことが場なのか、場で何をやりたいのか、なぜやりたいのか、などを見つめていくこともできる時間です。ぜひご活用ください。

 

チャペック展がよかった話

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松濤美術館にチャペック展を観に行きました。

チャペック兄弟と子どもの世界
~20世紀はじめ、チェコのマルチアーティスト

 

やってるのは知っていたけれど、子どもの本の絵なら庭園美術館に行ったしな(フランス絵本展よかったです)……とスルーしかけてたら、前日に見た友人の激推し投稿に心が動いて思わず行ってきました。

 

この日は荻窪のTitleで今日マチ子さんの展示があり、在廊されているというので、どうにかはしごしようとして、結局体力不足で無理でした…残念。お会いしたかった。

 

チャペック展は、想像以上によかったです。

 

かわいい〜☆だけじゃない。チェコ、スロヴァキアって。そのあたりのことはたぶん3月の「積読本をひらく読書会」で持ち寄られた、『不自由な自由 自由な不自由 チェコとスロヴァキアのグラフィック・デザイン』を読んできたら、きっともっと受け取れただろうなーと思います。でも今からでも読もうと思います。

人の積読本なのにすごく影響を受けてるのはおもしろい。

 

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スケッチがどれもすごく小さいのが興味深いです。5cm*5cmぐらいの枠をとった中に鉛筆で描いてる。これきっと意味があると思う。

 

絵がかけてあるのがわたしの目線の高さで見やすい。たぶん通常の展覧会より低い。キャプションにもたくさんふりがなふってあるから、こどもの鑑賞者を意識してかな?

 

「長い長いお医者さんの話」はすごい懐かしかった!岩波少年文庫の青だったか黄色だったかのざらざらした表紙の手触りを覚えている。特に「郵便屋さんの話」は子どもの頃好きだったので原画が見られて、こんなところで会えるなんて!とたまらない気持ちになりました。

 

いつもの模写メモとってたら「デッサンは禁止ですよ」って注意されたんだけど、張り紙もなかったので、ほんとうにダメだったのかやや疑問…。物販もちゃんと買ったから勘弁してください。

 

線で捉える、グラフィカルに理解する、表現する、共有する、にここのところ関心があるので、わたしは行ってほんとうによかったです。ほんのちょっとだけ、なにかつかめた気がしました。

 

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なんで気になったのかと思ったら、ポスターの色と同じ!

 

 

 

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なんとなくこういうイラストが目に入る帰り道。

 

 

 

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久田工芸製のとびだし坊や。なぜこんなところに?

 

 

 

 

「ちはやふる-結び-」を語る前に考えたこと③

「ちはやふる-結び-」を語る前に考えたこと①

「ちはやふる-結び-」を語る前に考えたこと② 

の続きです。

あーだこーだの会で語る前に3回観ました。それぞれで考えたことのメモです。

 

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★鑑賞2回目

あーだこーだの会をひらくと決めてから、こんな感想が浮かんできました。

 

「結び」は「青春映画の金字塔」か…。「青春映画」に詳しくないけど、そう言いたくなる感じはわかる。その年齢にしかないもののすべてがあって、それが創られたものなのだけど、驚くほどわざとらしさがなくて一つひとつが覚えのあるリアルな感触を持っている。

 

映像の美麗さと演劇的約束と漫画のリズムがリアルな音と共に体感できる。個人戦から団体戦へ、その意味するところが深く。競技部分には特に丁寧なリサーチと監修と指導が入っていると思われ、そこまで描くのかという、思い切った踏み込み方をしていて驚く。娯楽性と本物さが両立している。

 

演じる人たちとスタッフとの前2作を経ての関係があるんだろう。作り手の彼ら自身が今を生きていて、優れる、強い、美しい、賢い、勝つにシビアにさらされ、問われ、逃げずに生きているのかもしれない。「こんなところでは終われない」と腹を括ることもおそらく。どうもこの結びは全く違う…。

 

わたしの状況や状態の変化もあるけれど、なにが違うのか?もう一度、確かめたくて2回目の「ちはやふる-結び-」を観てきました。

 

今回はストーリーがわかっているので、1回目で見落としてるところをだいぶ拾えました。メモを取りながら観てたら無印良品のらくがき帳100枚使い切ってました。

 

でも誰かがあーだこーだの会で発言した時に、「ああ、あのシーンのあれね!」ってわたしが確実に思い当たれるようになるには、あと1回は観たほうが良さそうな気がしました。

調べたいこともまた出てきたり。

 

ほんと何があったんだろう?てぐらい、上の句、下の句と結びの出来が全く違うんですよ。ただのおまけで撮ったわけじゃない。映画としても、競技かるたとしても、すごくいいのです。

もちろん実際の大会や試合でこんなのないよっていうのもあるけど、大事なのはそこじゃないというか。

 

一緒にあーだこーだの会をひらくゆきこさんによれば、漫画へのリスペクトも半端ないということで、映画だけ観てる人も、漫画から好きな人にもどちらも楽しめるように、本当にちゃんとなってるとこがすごいとのことでした。

 

そういう話も聞くとますます、「青春かるた漫画の実写化映画」の形をとりながら、すごく普遍的なことを伝えているように思えてきます。

 

そんなこんなで余韻に浸っているうちにあーだこーだの会はおかげさまで満席になりました。ご関心をお寄せいただいたのもうれしい。参加してくれる人がいるから場がひらける。「語る場があるから、映画観ようと思えた」と言ってくださる方もいて、すごくうれしい。そんな営みがぽこぽこできたらきっと楽しい。

 

パンフレットは3冊買ってみたけれど、濃度もやはり「結び」が最高に深まってて凄い。これも「ふつうあるもんだからとりあえず作った」て感じじゃなくて、愛があふれてました。わたしも読んでて付箋がべたべたに。やはり競技かるたへのリスペクトが半端なくて涙しちゃう。

いやー、あーだこーだの会ほんま楽しみ。

 

 

 で、結局もう一回ダメ押しで観たくなって前日に

★鑑賞3回目

同じ映画を2回以上映画館に観に行ったことがないわたしとしては、3回も足を運ぶとは異例で自分でもびっくりでした。中学生以来じゃないか。

繰り返すとき、今はまだ自分でもわかっていないことも含め、自分の人生にすごく関係があることが起こっているのだと思います。たぶん後になるとわかる。

 

競技かるた選手なら、あーそういうことかって思うような定位置。劇中でキーになってピックアップされた札(歌)はもちろん、それ以外の札もただ読まれているだけでなく、タイミングや順番も競技と歌の意味がわかると鳥肌もので、そのあたりの手抜きのなさが伝わってきました。

 

3回観て毎回同じところで自動的に涙が出るというのは…話には聞いていたけれど、そーかこういう感じなのか。うん、悪くない!

 

ピント外の人の表情や声に注目したり、札の流れを感じたり、何字決まりで取ったか。セリフも掛詞になってるのかとか。堪能しました!

 

翌日の語る会に向けて、いい調整ができた日でした。

 

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「ちはやふる-結び-」を語る前に考えたこと②

「ちはやふる-結び-」を語る前に考えたこと①の続きです。

あーだこーだの会で語る前に3回観ました。それぞれで考えたことのメモです。

 

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★鑑賞1回目★

ちはやふる」観てきました。息子と二人で気持ちよーく泣いた。
息子は嗚咽レベルで、
「太一ががんばってるぅう〜」
「いいチームになってきてるぅう〜」
「駒野くん、おつかれさまぁあ〜」
「もっとこのチームでかるたしたかったぁあ〜」
…など言っておりました。

映像の美麗さと演劇的お約束と漫画のページをめくっているかのようなリズムが体感できて、いやーよくできてるなぁ。団体戦にしぼって描いたのよかった。細かい背景が描かれないのも、軸がスッと通っていて、よかったな。

競技のシーンは、実際のかるたもああいう音がするのでリアルだった。本物の読手さんだし。かるたーじゃない友だちも言ってたけど、音よかった。うん、あれは映画館で聞きたい。実際の試合で読みの間であんなに待ってもらえたり、あんなわかりやすく表情に出せたら、おもしろいだろうな。

わたしがかるた会や練習会や大会で会う中学生、高校生、大学生は、いろんな環境や状況にいて、揺れやすく、期限つき、中でのかるたなんだなぁ。人生の土台の形成にかるたがきっと役立つであろう、彼ら彼女らのこの時に、わたしは一緒にかるたがやれて、うれしくありがたく光栄なことなのだな、とウルウル(T_T)しました。

「誰かのためにやるかるた」から、「自分のためにやるかるた」に変わっていく。どこかでそうならなきゃ突き抜けられない、自分の人生にならない。そこに健やかさがあってよかったな。その「かるた」の部分にはきっといろんなものが当てはまり、かるたをしていない人も、高校生ではない人も、ハッと胸をつかれるのではないかなぁ。

 

そしてもちろん「今すぐかるたしたいーーーー!!!」となりました。前回下の句を観たときとはまた全然違う、「かるたしたい」の感じ。わたしは変化しているんだな。

 

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大津パルコの建物の中にあるシネコンで観たのですが、他の店舗跡はぜんぶ改装でめっちゃ工事してる中、ものっすごいわかりづらい入口からこそこそ入ったところの7階で、映画館だけがいつも通りに営業してて、そこだけが生き残った廃墟の中の楽園みたくなってて、そういう設定のSFみたいでした。なかなかない体験。

 

琵琶湖はこの日も美しかったです。

 

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東京に帰ってきて、思い返せば思い返すほど、「結び」は映画としても、競技かるたとしてもよかったなぁという気持ちがわきあがってきて、もう一回観たいぐらいの感じになってるし、さらにみんなであーだこーだの会したい気持ちになってる......。

 

...とつぶやいたら、「ちはやふる」好きのかるたーではない友人が拾ってくれて、こちらの会をすることになったのでした。

chihayafurumusubiadacoda.peatix.com

 

かるたの聖地・文京スポーツセンター&かるた会館に近いカフェtotoruさん。店主が元競技かるたの選手。

そこで競技かるたと映画を愛するわたしと、吹奏楽と打楽器とちはやふるを愛するゆきこさんとひらくことになりました。

 

でもそれをひらくまでにあと2回観て、まだまだ考えたのであと一本書きます。

 

「ちはやふる-結び-」を語る前に考えたこと①

4月下旬にこんな会を催しました。

chihayafurumusubiadacoda.peatix.com

 

開催レポートを書く前に、そこへ至るまでにいろいろメモしたことをまとめていこうと思います。

 

今回の「結び」は観に行く予定でしたが、やはり競技かるたは自分の大事にしているものなだけに、どういう期待を持って観に行けばいいかなぁということをふわふわと考えていました。

ちょうど民放で2週連続「ちはやふる上の句」「下の句」を放映していたのを実家で録画しておいてくれたので、春休みで帰省したときに息子と二人で観ました。次の日「結び」を一緒に観に行くのでおさらいのつもりで。

 

すると、前回はなんら印象的ではなかったシーンに目が留まりました。

例えば「下の句」のこのシーン。払った札を取りに行った千早に、札を拾った奏が祈りを込めて渡しています。

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前回観たときは確か、「実際にこんなことあるのか?マンガ(創作)だからか?」と思っていましたが、今なら、「いや、ありますよ!」と言える。去年の東京都大会で実際にありました。かるた仲間が払ってわたしのところに飛んできて拾って渡した札は、「わがいおは」でした。そういえば2月の大会でもあったな。ていうか、すごくよくあるわと次々に思い出してきました。

 

 

例えばまたこんなシーンもありました。

太一「お前さ、試合中に流れが悪いとき、どうしてる?」
新 「は?」
太一「狙ってる札が全然出なくて、自分のペースがつかめないまま、気づいたら試合が終わってるみたいなとき。…新はないか…」
新 「......イメージや」
太一「え」
新 「立ち上がって、かるたが一番楽しかったときをイメージするんや」

これを観て、その数日前にあった横浜大会でのことを思い出しました。

一回戦 不戦勝、二回戦 11枚差負け。

決して敵わない相手ではなかったし、ミスも頻発していたのに、全然自分のリズムがつかめず、読手の読みともタイミングが合わず音が遠く、しまいには束負けとは...と情けなくて悔しくて泣いたのでした。

そうか!今度またあれが起きそうになったら、イメージや!

...など。そういうシーンが他にもいくつかありました。

 

そこで、「実はこの映画はすごく競技者として参考になることが描かれているのではないだろうか?」という期待がむくむくとわいてきました。

 

前回の下の句からの間に、わたしは何回か大会に出て、1月には近江神宮での大会で優勝して、かるた会に入り、かるたを通じて出会いもあり、かるたから教わることも増え...という月日を過ごしてきていたのでした。同じ映画なのに、時間を経て観ると全然違って見えるということはよく経験したけれど、その見え方が、同じ競技に自分も取り組んでるということによって、まったく違う味わいになっている、というはじめての感触に驚きました。

競技かるたをやったことがない人にもわかりやすいようにつくられていることにも気づき、制作サイドからの風景にも関心がわきました。

 

 

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ちょうど横浜大会は、「どうしてわたしはかるたをするんだろうか?」ということと向き合っていた頃でもありました。いつも向き合っているんだけど、しっかりと言語化してみました。

 

自分のかるたをする。相手の動きや気配や感情を全身で感じ取りながらも、自分のかるたをする。それを引き続き、「自分の仕事をする」、「自分の人生を生きる」としっかりつなぎながら、しぶとく諦めず、失敗や負けを恐れず、挑戦していこうと思います。

かるたの試合では、今自分が取り組むべきテーマが感情として出てきます。横浜大会のときは、反感や執着を覚える自分とそれから逃れたいとする自分との葛藤が内面に起こりました。それとどうかるたの時間中に向き合えるかで、試合が終わってからの自分の姿勢が変わるように思います。

 

わたしは小学生のときの水泳以来、スポーツに真剣に取り組んだことがなかったのですが、最近、アスリートがインタビューに「自分の走りをするだけ」「日頃やっているように一つ一つやっていくだけ」と答えている意味がようやく近い重みで理解できるようになってきました。

 

かるたには次の一枚を目指せることのありがたさがあります。

そう、次の一枚に何が起こるかは誰にもわからない、かるたのそこが好きなんだよなーと思います。

 

40代になってはじめての「道」に分け入って行くって楽しいです。

読書会「あさきゆめみし・宇治十帖編」ひらきました

4月下旬にして既に初夏の風薫る、金曜日の朝。前回の「シッダールタ」の読書会でもお世話になった、赤門テラスなゆたさんで「あさきゆめみし宇治十帖編」読書会を7人でひらきました。

 

こんな感じでお知らせしました。


asakiyumemishi0420.peatix.com

 

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もともとこの企画が立ち上がったのが、2年前にひらいたこの場。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

正編(光源氏の時代)からのつながり、変化、繰り返されるテーマ。

恋愛、婚姻と身分制度、宗教観。

摂関政治の斜陽と末法思想にさらされる時代の閉塞感。

二択のうちのどちらを選ぶのか、あるいは第三の道を自らひらくか。

正解のない中で葛藤しそれぞれの道を選ぶ登場人物たち。

正編の読書会のときには感じなかった、今その場に起こっていることに立ち会って、登場人物たちを見守っているような視点は、誰のものなんだろう。(もしや光源氏?)

 

 

今回の発案者&ファシリのまゆみさんと話して、「あさきゆめみし」はあくまで大和和紀さんの解釈を漫画として表現したものであるが、源氏物語の時代背景、文化風習など一定の事実や研究成果が明らかなものは、はじめに抑えておくと、安心してあーだこーだの本領を発揮できるね、となり、資料を集めて「プリント」を作り、冒頭で共有させてもらいました。

専門家でないので間違っているところもあったけど、詳しい人がいると補完し合える場になるので楽しい。知に知が、経験に経験が重なって、豊かになる。

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感想としては、いつも言っていることだけど、とにかく楽しかった〜!

 

大人になってもう一度出会うあの頃の自分。

酸いも甘いも噛み分けてきた経験が人生の豊かさに変わって、自分を生きながらも、同時に違う視点も楽しめている。みんなの話がとにかくおもしろい。

 

千年前に書かれたものを、脚注の力を借りながらでも原文で読める、少なくとも学生時代に習いはした、というところが実はすごいことなんだと知れたのもよかった。

原文でも読みたいし、いろんな人の訳(解釈)も読んでみたいという声も出ました。

 

平安の世も、女たちはこうしてサロンで、「源氏物語の続き読んだぁ?」「どのキャラが気になる?」なんてお話したんだろうか。

 

今回もなゆたさんがプレートを出してくださっていた。ありがたい!

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第3回 学びのシェア会に参加した!

友人たちと隔月でひらいている「学びのシェア会」。

第1回のことはこちらに書きました。

 

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毎回この会が楽しみで、最後に「きょうの収穫」を話すときもだいたい「楽しい!楽しいしかでてきません」なんて言ってるわたし。

 

何が楽しいんだろうなぁと考えてみると、やっぱり好きな人や尊敬してる人に向かって話せるのがうれしい、ということがまずあると思う。「わたしこんなことを考えたんです!こんな学びを得たんです!」という話を一生懸命できて、その人たちがまた丁寧に聴いて、ご自身の学びや経験と結びつけたりしてフィードバックしてくれるのがうれしい。

その話も、どれだけ親しくても友人同士で話しているときと、「学びのシェア会」として設えられた場で話すときはやはり違う。演者と聴衆のほどよい緊張のある関係が生まれる時間が心地良い。

話すための準備の期間も、話している最中も、話終わってからも、自分が取り込んできた様々なことを一つのテーマで語ること、聴いてもらうということはこんなに充実した学びになるんだということに、いつもわくわくする。

そしておもしろいのは、学んだこと=わかったこと、でもなく、結果これがわからないということもでてくる。ゆえにまた次への探究心が湧く。まとめたつもりで、まとめればまとめるほど、終わらない好奇心。楽しい。

 

これは一生遊んで暮らせる!

 

・・・

わたしは、「自分の声を録って聴いてみたら案外いいやん♡の話」を発表しました。

自分の声を聞くのが辛い、恥ずかしいと思っていたわたしがポッドキャストをやっています。何をして自分の声に慣れたのか?慣れたら自分への愛情を深める大きな一歩だったかも?ポッドキャストをやっていない方でも、自己肯定感てなんなのかよくわかんないけど、低いなどで悩んでいるなら、声を録って聴くといいかもしれない?!という仮説を語ります。

自分で言うのもあれですが、なんだかおもしろそうでしょ?

 

だいたいこんな話をしました。----

わたしは、友だちと一緒にお芝居の台本を作ってカセットテープに録音したり、演劇クラブに入って全校生徒の前で演じたり、国語の時間の音読で当てられると嬉々として読んでいたり、働きだしてからは講師をしていたり、コールセンターで働いたりしたこともあったりして、人前で話したり、声を聞かれるのはわりと好きなほうです。上手かどうかは別として。

ただ、インタビューやポッドキャストでは、どちらかというと素に近い自分がまるごと出てしまう感覚があって、最初は声を聞くのが辛かったのです。役を演じるとか、仕事だからという名目でやるのだったらOKだけど、台本なしで自分のことを話すのは、「あー、あたしってばかみたい!穴があったら入りたい!」という気分になる...。

でも、ポッドキャストを1回の配信分あたり何十回と聴いたり、相方さんと話の内容を徹底的に分析したり、配信するべきか、どう編集するか、何を話すかどう話すか、毎回毎回議論を重ねたことで、だんだんとメタに捉えられるようになりました。

そして配信してみると、聴いてくださった方が、「声がいいね」「話し方がいいね」と言っていただけたりもしてうれしかったです。話し方はわからないけど、声ってなかなかごまかせないものだから、その部分でいいねといわれるのは自信になりました。

わたしにとっては、一緒に何かをつくる経験や、自分を表現する場の中で、次第に自分がぴったりしていったということが何より大きかったのだなぁと今思います。

今や自分の声を聴くと、妙な落ち着きを感じるまでになって、自給自足してます。

 

かといって、ポッドキャストって誰でもやりたくなるものでもないし、自分の声を録音して聴くことなら、例えば自分の好きな本を朗読して録音してみる、それを絶対に笑わないで、むしろ愛おしく受け止めてくれる人に聴いてもらうところからでも、ちょっとやってみるのもおもしろいかもしれません。

...と、ざっくり書くとそんなような話をしました(確か...)----

 

 

話し終わってから、「今の話をどう聞いた?」で、参加者さんから「自分の声が辛いのは、話している内容や状態が自分自身とぴったりきていない、ズレを感じているから起こるんではないか」という発言が出たり、例えば相手との関係によって声のトーンが変わったり、うまく場が進むことを目的にしていると内容にも違和感が出たりすることもあるよね(「自分じゃないような感じがする」というやつ)という話題も出ました。メモしきれなくて忘れてしまったけど、うん、やっぱりこの時間がすごくおもしろいし、学びを深めていただいた!という喜びがある!!

 

 

満面の笑みの発起人のライチさん。かわいい♡

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ライチさんのブログ記事。

ameblo.jp

 

この型でひらく場合の注意事項も書いてあります。

おもしろそう〜って思ったら、ぜひお友だちを集めてやってみていただきたいな!

プーシキン美術館展がよかった話

今年は時間の使い方をいろいろ試していて、展覧会や映画など、わりと厳選して観るようになっています。

 

そんな中でルドン展、ミロコマチコ展、そして先日行ったプーシキン美術館展はどれもわたしとしては大当たりでした。しかも全部ご招待で入れたところがうれしい。


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特設ウェブサイトはカッコいいんだけど、ちょっと入りにくい感じがして、少しさわってみたのだけど、どんな展覧会なのかわからないまま閉じてしまいました。風景画もあまり興味のあるカテゴリーではないし...と思い、招待券をもらっていなければスルーしているところでした。でもポスター大のチラシはとてもインパクトがあったので、2月にひらいたコラージュの会で、これを台紙にしていました。部屋に貼っていつも眺めていたモネの絵。これだけでも観に(会いに)行く意味が自分にとってはあるなと思ってはいました。

 

今年の初夏は片付けに取り組んでいたのですが、片付けをがんばった日のご褒美として、目標にしているところまでできたらプーシキン美術館展に行こうと決めて、予定通り達成したので、16時前でしたがすべりこんできました。

 

 

5月上旬の新緑まぶしい季節に当ててきたんでしょう?と言いたくなるような、外の世界(上野公園) から美術館の風景画の世界へ、そしてまた外へ出て…絵の世界が続いている!

 

世界は美しいなぁ......

 

というのがまず感想でした。


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同じく東京都美術館で開催されたボストン美術館展のときも思ったけど、実業家の皆さんの「愛する祖国に芸術を」のエネルギーがすごい。どうしてロシアの美術館でこんなにフランスの絵画を?という疑問にもちろん展覧会は答えてくれていました。

 

また、この展覧会でのわたしにとっての最大の収穫は、「風景画をどう楽しめばいいかがわかった」ということでした。17世紀から19世紀へ、聖書や神話の中の理想としての自然や、単なる背景としての風景が時代を追って、人々の現実の営みに沿った主題に変化していく展示の流れや解説はとてもわかりやすかったです。

 

17世紀の「近代風景画の源流」の部屋は、とにかくみんな廃墟萌え!城の跡が舞台になっていたり、遠景になってたりと廃墟が欠かせない感じで。崇高や畏怖のモチーフとしての廃墟の扱い方は、昔も今も変わらないような気がします。

 

印象派の時代に発明され普及したスクリューキャップ付きのチューブの絵の具のことがオーディオガイドで出てきましたが、画家たちがまさにその風景を前に、直接キャンバスに絵の具をのせている興奮も伝わってくるということがあります。スケッチだけしてアトリエへ持ち帰って記憶の中のイメージを膨らませて描き込んでいた時代は、それはそれで美しいのですが、屋外で描けるようになってからの絵画はどうも興奮、情熱、生のエネルギーが断然 違うという気がしました。

 

19世紀半ばからガス灯が発明され、19世紀半ばには配電網が敷かれ、鉄道網も発達し、移動して余暇を過ごすという文化が生まれていく勢いも、展示を追っていくとつぶさに感じられます。

 

いつものように作品シートに模写メモをとりました。こうしておくとその絵に自分が観たものが思い出せる。メモは自分にだけわかればいいので、巧い必要はまったくないのがいいところ。最近はバインダーと8Bの鉛筆を持参するようにしています。

 

ボナールやドニ。去年の今頃に「オルセーのナビ派展がよかった話」というポッドキャストの番組を配信したので、ナビ派の人たちに会えるとうれしくなってしまう。
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このあたりの時代もよかった。
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今回一番好きだったのはこの絵かもしれない。冷蔵庫に貼っています。
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50才で宝くじが当たって絵に専念したという、アルマン・ギヨマンの作品もよかったし、友人マティスと訪れた港町を描いたフォービズムのアンドレ・ドランも服にして着てしまいたいぐらい好き。

 

ツイートを引用させていただいたこの絵は、モニターで見るとなんのことだかって感じなのですが、本物を見ると迫力です。

 

模写メモしていて思いましたが、風景画だけをこんなにまとめてじっくり観ることもあまりないし、全体で見てもこんなに好きな絵ばかりが並んでいる展覧会はもしかしたら大人になってはじめてかもしれません。そのうっとりした感じが、3週間ぐらい経ってもまだ消えないのは、今の季節が絵の中に描かれたように美しいからかな。

 

森を散歩するようで、とても気持ちよくて、絵を見るのっていいなとか、自然って美しいなとか、とにかくすごくいい気分になる展覧会です。

2018年7月8日(日)まで。

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音声ガイド。BGMもよかった。
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