ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

片付け、スタイリング、そしてアイロンがけが必要な服を着てもよいわたし

きょう掃除をしていて、これを書き、それからふと思いたって、今年の5月に大片付けに取り組んでいたときのレポートをこっそり大量にUPした。

片付け祭りレポート① 

片付け祭りレポート②

片付け祭りレポート③

片付け祭りレポート④

片付け祭りレポート⑤

片付け祭りのあとに

 

 

それから、もうちょっと書いとこうと思ったのがこれ ↓ について。

 

 

 

 

 

 

 

片付けをする流れを起こしたものは、いろいろあるのだけれども、

まず4月にKLASSで講座をはじめたこと。

その講師のプロフィールに載せる写真がほしいと思ったこと。(HPをつくったのもこの頃)

友人のみゆきさんに写真撮影をお願いしたこと。

友人のクミさんに写真撮影のためのスタイリングをお願いしたこと。

ポッドキャスト関連の集まりで、みんなの前で「片付けをしたい」と宣言したこと。

…などなど。

 

 

 

 

そのあたりで登場したのが、アイロン台だった。

 

 

 

どこから片付けようかなぁと部屋を眺めていたある時、ふいに部屋の片隅に立てかけられているアイロン台が目についた。

 

立った姿勢でアイロンをかけるタイプのもので、洋裁や和裁をしている人が使うぐらいの本格的なもの。しかも大きくて重い。

 


【仕様】
収納時の厚さ 約12cm
収納時の長さ 約120cm
幅 袖部分  約58cm
  胴部分  約43cm
使用時の高さ 76~88cm スタンド式4段
重量 約7kg

 

 

背の低いわたしが使うにしては、あほみたいにでかい。

 

あれ?この家になんでこんなアイロン台があるんだろう?と思った。

 

 

その瞬間に、このアイロン台を購入した経緯やそれを使っていたシーンが目の前にウワッと広がった。

書けないがほんとうにそこにはいろんなことがあった。

 

 

でもそれらはぜんぶ、今のわたしにはもう要らないものだった。

 

手放してよい。

 

 

そして、わたしはもう「子育てで大変な働くお母さん」と自分にラベルを貼る必要がなくなっていたことも知った。子どもがいます、男の子です、というと、「大変ですね」「そうなんです」というやり取りが何千回と繰り返されてきた。

 

でも実際は子は大きくなり、自分の意思をはっきり持ち、判断して行動して生きている。思春期に入り、大変なこともあるけれど、それはなんというか、乳幼児だった頃や、わたしが送り迎えしないとどこにも行けなかった頃の大変さとは全然違う。

 

息子と二人で暮らしていると、自分を「お母さん」と意識することもほぼない。単に「親」というだけ。相対する存在がないので、母親役割バイアスからも自由になっている。自分でつくった仕事をして、まだ確立されていないので、そのときどきで軸があっちいったりこっちいったりはしているけれど、働いていて楽しい。

 

 

だから、アイロンをかけるゆとりが十分にある。

わたしの好きなアイロンがけを楽しむ時間がある。

 

アイロン台は友人がとても喜んで引き取ってくれたので、わたしは今暮らしているこの家にぴったりの、コンパクトで機動力のあるアイロン台を買い直すことができる。

 

そして、わたしはなんと、アイロンがけが必要な服を着てもよい!!

忙しいからアイロンをかけなくて済む服だけを着る必要がない。

 

 

アイロン台をめぐるこの一連の発見は、まるで人魚の下半身からほろほろ、ほろほろと鱗が剥がれ落ちて、自由に陸を歩ける二本の足が姿を現したかのような、わたしにとっては大きな事件だった。

 

 

 

半年も温めてきて、きょうようやく言葉にできたことがうれしい。

 

美しい秋の日の贈り物。

 

 

 

 

▼2代目のTHE ACADEMIC

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片付け・掃除を応援アラームで楽しく


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10月に入ってからカレンダーにセットしておいたアラームが、「カーテンを洗おうよ!気持ちがいいよ!」とお知らせをくれていた。

 

いろいろすっきりしてきて、重い予定も事情によりなくなって、雨が上がって天気がよいし、土曜日だし(土曜日って好き)、きょう決行した。

とりあえず一部屋分。

 

カーテンを洗い、カーテンレールの上につもった埃をとって、いつの間にか汚くなっていた窓ガラスも拭いて。

 

今日日、コンビニには洗剤がひととおり揃っている。

ごめん地球、あんまりエコじゃないけど、強力にサッとやってくれてストレスがないのがわたし今一番大事なの、と合成な洗剤で、シンク周りもお風呂のカビも取り、サーキュレーターの羽とカバーも洗って。

 

あーすっきり!

 

「年末の寒い時期に大掃除なんかまっぴらだ!」というのは昔から思っていたのだけれど、今年になって大片付けに取り組んだおかげで、いろんなことが年中に平準化できるようになってきた。

 

・洗濯槽の掃除。こちらを見ながら。3ヶ月に1回。

 

・カーテンを洗う。春と秋にやるといいかな。秋は空気が乾燥してきて、窓を開けていてもまだ寒くなくて、蚊がいなくなっている10月の今ぐらいがぴったり。

 

・大片付け。いちおう来年のまたGWにする予定でアラーム設定。

こちらは5/5の新月に始めて、5/19の満月に完了している予定。それ以外の片付けは日常で気になった1箇所や、必要な1テーマを決めてちょこちょこする。

 

他にも、園芸とか、衣替えとか、息子の教材整理とか、年中に割り振って、タイミングを決めて、平準化しているものってあるな。

 

ぜんぶこれもアラーム設定しておくと、忘れないし、過去の自分から励まされる。

 

 

 

もともとは、

計 画 性

の三文字を見ただけでオエッっとなるわたし。

 

でもいろんなもののおかげで、最近ちょっと楽しくなってきた。

 

この記事の冒頭に書いた

「カーテンを洗おうよ!気持ちがいいよ!」

というメッセージは、アラームのタイトルにしているもの。

 

 

参考にしたのは、友人ライチさんのこの記事。

 

 

ameblo.jp

 

 

これだよこれー!!こういうことだよって思った。

 

「せねば」「すべき」では自分は動かない。

家事や生活習慣は自分の「通り」をよくすること。それを脅してやらせるのはいやだ。

自分と仲良くしながら、楽しんで取り組んでいきたい。

 

家事に関して言えば、TVで言っていたこと、友だちが教えてくれたこと、祖母や母や姉や妹が教えてくれたことがいろいろ入っている。

そのときはできなくても、頭の中にある「これいつか必要なときに使えたらなー」の箱に入れてあって、こういうときにパッと出てきて助けてくれる。

 

 

 

人がやっていることで「いいな!」と思うものは、どんどんやってみる。

逆に自分に関係ないものはこのタイミングで手放すと、自分流が生まれてさらに捗る。

 

 

いろんな人たちが、あふれる愛でシェアしてくれた、あるいは漏れ出て結果的にシェアしてしまったことの集合体で自分ができていると思うと楽しい。

 

わたしからもそういうものが溢れ出たり、漏れ出たりしているのかと思うと、それもまた楽しい。

 

一生懸命掃除して、おなかペコペコで食べるコンビニ弁当が美味い。

セブンイレブンのサバの身がほぐしてのってるやつ。

熱いお茶を淹れて。幸せ。

 


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しごとについて考えるランチ会、ひらいてもらった

 きのう、「せいこさんと風土はfoodからのランチを食べながらしごとについて考えるランチ会」をひらいてもらいました。

 

天才思いつき屋のライチさん、参加してくださった友人の皆さん、たくさんご協力・おもてなししてくださった風土はfoodからの皆さん、ありがとう^^

 

最初ただのランチ会だったのですが、途中で送別会になりました。

ハイ、3ヵ月いたこのお店を離れました。

 

来てくださった方には事前にお伝えしようかどうしようか迷って結局、当日会場でお話しすることに決めました。

来たら突然「送別会」になっててびっくりさせて申し訳なかったです。

 

 

このお店の立ち上げから今まで、約10人のメンバーと、週3日ランチタイム5時間を3ヶ月はたらく中で感受したこと、学んだこと、「場・関係性」というフィルターを通して見えたものを、わたしの言葉と身体で表現する。

皆さんにはそのパフォーマンスを鑑賞し、その後、めいめいが受け取ったもの、しごとについて考えたことをシェアする、というライブイベントとなりました。

もちろん、ごはんをいただきながら。

 

皆さんと感想をやり取りしたり質問に答えていて、わたしの中からわーっと湧いてきたのは、

-やってみたからわかった
-身体ごと行って引っ掴んでくる
-職能を自覚する
-自分を通して理解する、表現する、シェアする
-作品にする・みんなの力で完成してもらう
-自分という物語を生きる

ほかにもたくさんたくさん...。もう少し時間が経ったらわかることもたくさんあるような気がします。

 

 

わたしとしごと、わたしのしごとの話を表現としてできたのがとてもよかったです。

 

聴いていた方の中には、涙が溢れる、どっと疲れる、ぐさぐさ刺されたような感覚...などがあったようです。...すごい体験をなさっていたんですね。

わたしも「舞い」を終えて、なにか言いようのない不思議な感覚がありました。

 

目の前で人が死にものぐるいで何かを表現しているときには、やはり息をつめて見入ってしまうもの。それにしごとの話って生きることの話だから。尊厳と歴史の話はやはりそれなりに重さがある。

 

自分に関係あることを深いレベルで受け取る。

そういうことがもしきのう起こったのだとしたら、とてもよかったです。

わたしも深いレベルで受け取って、そのいただいたものをまた次の表現活動に生かして、循環させていきます。

 

心をひらいて真摯に受け取ってくださったことに、感謝を。


こういうことが起こり得る、深さと奥行きのある表現のある場をこれからはもっと自覚的につくっていきます。

こうしてシェアされるのもありがたい、舞台を用意していただくのもありがたいです。

いろいろありましたが、わたしは、Relational Art, Performing Artsの領域にいるArtistとして、今は生きております。うん、しっくり。

 

 

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それから、これはいろんな物や人との関係に言えることだけれども、

「○年前ならもっとおもしろかった(好きだった、夢中になれた、心地よかった、似合っていた、がんばれた、自分と関係があった)だろうけど、今はもうおもしろくない(好きじゃない、夢中になれない、心地よくない、似合ってない、がんばれない、自分と関係がない」

そのような今の自分であること、自分の変化を認めてもいいよ、ということも、内からわいてきました。

 

自分が「変わってしまった」や「その場で自分だけが違う」ことを認めるのはかなり勇気が要る。怖いから。

 

慣れ親しんだ生温かい、まだ血が通っているその関係・つながりの管を切るのは怖いから、棄てる罪悪感や痛みがあるから、救われた部分もあるからこそそれがない自分を思うと恐怖だから、まだみんなと一緒にいたいから、その次どうしたらいいかわからないから、「ふつう」とは違うから、自分が見知らぬ自分になった気がするから、自分を信じられないから......。

 

でもだいじょうぶ。

 

もう十分によくやってきた。移る準備はできている。わたしには今のわたしにぴったりの服と場所と関係と仕事が待っている。わたしのいたい世界は、見たい世界はもうそこにある。そこで思いっきり自分を表現して、幸せになっていい。

 

別れを告げるのは辛い。寂しい。苦しい。


でも、離れたほうがより大きな愛でつながれる。

 

世界は美しく優しい。祝福に満ちている。

 

 

またね、と笑顔で手を振る。またいつかどこかのグリッドで会えるかもしれないし、短い命だからもう会えないかもしれないけれど。ともかくも、一緒に過ごしてくれてありがとう、とこれまで仕舞えないできた数多の関係にも、心からの感謝を。

 

Life goes on! 

場づくり公開コンサルテーションをやってみた

気づけばもう10日も経ってしまったけれども、まだ10日しか経っていないのか、という気もする本件。

 

 

一緒にリブトビ(liveco&人と美)をやっているちほさんが、場づくりの相談をわたしに依頼してくださった!

それだけでもうれしいのに、なんとその様子をライブ配信してみたらどうかというアイディア。

リブトビトークライブをやったあとだったから、すぐにいいじゃんいいじゃん!となりました。

(あれ、ライブの前に話したんだったかな?もはや前後関係を覚えていない)

 

 

ちほさんがつくりたい「発達障害に関する勉強会」のご相談を、せいこがコンサルタントとして聴き、建付けを一緒に考える様子をライブ配信する、というもの。

 

ちほさんがFacebookで前夜に公開投稿でこんなふうにお知らせ。  

発達障害について学んできたことがとてもたくさんになり、そして本当に大事なことだと衝撃を受け続けてきたので、少なくとも興味のある方に共有したいけれど、伝えたいことが膨大になってしまい、どうしよう〜とクヨクヨしていたのですが、

そうだ、せいこさんが場づくりお悩み相談の個人セッションをなさってるじゃないか!
と思い立ち、明日10月12日(金)の11時20分〜12時頃にセッションしていただくことになりました。

先日以来、引き続き聖子さんとは色々な発信実験中なので、私のタイムライン上で打ち合わせを「ライブ配信」してみようかなと思っています。興味のある方は、オンタイムでも、事後でも、よかったらのぞいてみてください。内容作りから興味を持ってコメントくださったりしたら超うれしい。

勉強会やシェア会の作り方について、聖子さんの場づくりコンサルティングについて、ライブ配信について、発達障害を考える場づくりについて、二人の会話について、などに興味のある方にオススメです(?)。

ちなみに以下が、私が聖子さんに送りつけた事前質問票です。例によって色々過剰なので、オエップとなったらごめんなさい。好物の方だけご覧ください。

 

そして続く《事前質問票》

これが(これも)とにかく素晴らしい。わたしもお手本にさせていただきます。

プロフェッショナルに相談するときって、だいたい時間あたりいくらというフィーがかかります。こうやってまとまっていると、お互いに時間を有効に使える。

ちほさんはご自身がコンサルタントだったり、場づくりの経験があったり、ご自身への洞察も鋭く深いからここまでまとめられるというのもあるけれど、取り組めば筋肉がついてくる類のものでもあると思います!(と信じたい!笑)

 

《事前質問票》

■聖子さんにお願いしたいこと

・自分のひらきたい場が、読書会がいいのか、シェア会がいいのか、そのどれでもない場なのか、などどういう場がいいのか混乱してきたので、一緒に整理し、考え、場の設計をしてほしい

 

■私の望み

・すっごいイイ勉強をさせてもらっているので、これを興味のある人にいい感じにシェアして、盛り上がったり、静かに噛み締めたりしたい

・具体的には、神奈川県立コミュニティカレッジが主催する「発達障害児地域支援コーディネーター養成講座<基礎編>および<実践編>」の中で特にインパクトが強かったものと、そこから関連して私がぜひ紹介したいと思った書籍、あともし入れば原宿カウンセリングセンターで信田さよ子さんに習った暴力についての学びなどをシェアしたい

 

■迷いポイント

1)ある程度の情報量を、参加者それぞれなりのいまの理解度や感性でもって自由に、でもある程度の責任とともに受け止めて欲しい→聖子さんがやってらした読書会形式のように、最初にそれぞれ自由に読んでもらう時間があるといいのかな(講座主催者からは、資料を使った勉強会はOKいただきずみ)

 

2)みんなの自由な解釈や体験談を、安全な場でシェアし、承認し合い、じゃぶじゃぶしたい→1の後にシェアタイムの流れかな

 

3)読書会なのか、シェア会なのか(同じように感想を分け合うのか、私の感想を中心に分け合うのか

 

4)一人でやるということに気持ちが前向きにならないので、だれかパートナーに立ってほしい→公募?まずは一人で頑張る?聖子さん請けてくれないかな笑(特に2のハンドリングが心配

 

■今の所シェアしたいテキスト

①医学的観点からみた発達障害

②LD(読み書き障害)

③生来的気質と後天的反応(発達障害/愛着障害/虐待の区別)

④子どもにとっての権利とは(川崎市フリースクールの事例から)

⑤「小・中・高に通わず大学へ行った話」

⑥グレーゾーンとコーピング

⑦暴力(信田さよこ先生の講座をまとめたい)

 

テキストは未定だけれど大事そう

・境界線 ・ゴルゴ ・NVC

 

■つまり伝えたい概要は

一人一人が特殊なのでは & 特殊性に折り合うためのコーピング

 

■あと迷ってるのは

・何時間×何回やろう

・時間帯や曜日はいつがいいかな

・対象は当事者?支援者?

・場を分ける?

・リアル?オンライン?

・(上記によって)テキストのシェアの仕方

・ちょうどいいテキストの分量

・自分の解釈をどの立場でどのくらい入れるか

・費用?

・ファシリが注意すべきこと?

 

 

せっかくなので、場所のご紹介もしたいよね。ということで、明るくて広くて美しくてサービスが素晴らしくて、おいしいカフェで行いました。

 

Facebookで配信をはじめると、見てくださっている方がどんどん増えていくのが見える。ドキドキしつつ、こんなふうなことをしました。(こちらはあとでYoutubeにアップしたもの。60分くらい)

 

www.youtube.com

 

ライブ中も、その後も、たくさんコメントをいただいていて、ありがたい限りです。

Facebookのほうでの視聴が今現在1,200回を超えています。すごいね。。

 

 

でも実は、わたしにとって今回の試みはとても怖いことでもありました。

リブトビで自分の個人的な話をするより、自分の「職務遂行能力」をさらけ出すほうがずっと怖いわ...と。

それははじまる直前に急に気づいたのですが。遅いけど(笑)。

これを公開することによって、自分が評価される、無能さやろくでもなさを包み隠さず露呈する、嫌われる、バカにされる、相手にされない...そんな怖れも湧いてきました。

 

ちほさんの投稿には、前日から友人、知人、ファンからの関心と熱〜いコメントが集中し、ちほさんの人望やら、やろうとしていることへの「人々の期待」みたいなものが溢れていて、一瞬それに押しつぶされそうになりました。

 

うん、怖いは怖い。

でも一人じゃない。

なによりわたしを信頼して声をかけてくれているちほさんがいる。

こんなに丁寧に準備してくれている。

楽しみにしてくれている。

 

そのちほさんがひらいている。

わたしも一緒に行きたい。

わたしもちほさんと一緒に楽しみたい。

一緒につくりたい。

 

 

わたしはべつにうまくやろうとしなくてよくて。

それはまったく期待されていなくて。

ただ、この人の熱さを、素晴らしさを世界にシェアしようと。

 

ちほさんは一人でもできる人だ。力のある人だ。

でもそのちほさんでさえも人の助けが要る。

そう言ってひらいている。

ちほさんがやりたいことをやれるように、わたしにできることをするのみ!

 

そう思ったらなんだか楽しくなってきました。

 

「やれるやれる!」「だいじょうぶ!」とか、結局それしか言っていなかったような気がしますが、ノリで無責任に言っているわけではなくて、わたしがそれを言うときにはすごく「見えている」からだと自分でもわかっているので、まぁいいか!!

 

わたしのお仕事は、理路整然と整理をつけることではなく、わたし自身が感受して、感情表現いっぱいしながら聴いていることだと、あらためて思った次第です。

 

 

 

最近ひとつ思い至ったことがあります。

例えば、絵を描く人は、絵の描き方を教えることはできるけど、「なぜ絵を描けるのか、なぜ『そのような』絵を描けるのか」をほんとうに説明することも教えることもできないと思う。

血筋とかDNAとか生まれ育った環境が...と言うことは可能だけれども、ほんとうにそうかはわからないし、少なくとも教えることはできない。

 

わたしもたぶんそうで、どうやったら場がつくれるかはいくらでも教えられる。

場がどう成り立っているか、何がそろえば場になるか、項目出し、順番、つまづきやすいポイント、行き詰まったとき何が起こっているかの解釈・打開策...。

 

でも講座に来てもらったり、セッションを受けてもらったりして、受け取ってもらっているのは、「なぜわたしは場をつくることができるか」だと思う。

わたしの存在や表し方にお金をいただいている。

(含まれているのが知識や情報であっても)

究極の個別性、唯一性。

かるたの講座で書いた、だれから橋を架けてもらうか、という話にも共通している。

 

そして、誰のお仕事もそのようであると思います。

というか、なんかもうすべてのお仕事はそのようであってほしい。

 

 

そういうあれこれを辿っていくと、公開コンサルテーションは、すごくいい取り組みだったなぁとあらためて思います。

 

実際に受けてくれたちほさんは個別案件について進むし、

世の中に必要な場は生まれるし、

ちほさんをわたしの友人知人(あるいはわたしを通じて知る人)に紹介できるし、

ちほさんはわたしを友人知人(あるいはちほさんを通じて知る人)に紹介できるし、

見ていた人が誰であっても、一人ひとり何かを受け取ってくれているし。

 

わお!いいことづくめじゃん!!

 

 

 

これはアートだ!と言ってくれた友人もいました。

 

そうそう、そうなの。

わたし、こういうのをやりたかったんだわ。

この記事で書いてた、見知らぬ人にお花をあげるようなこと。

リー・ミンウェイとその関係展を思い出す - ひととび〜人と美の表現活動研究室

 

 

ライブはやっぱり楽しいな。

 

 

この2人の間合いとか、呼吸とか、やり取りの感じがすごいよかった。わたし的にはかるたっぽかった。

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ちほとせいこの話しぶりが気に入ってくださったら、次回のリブトビトークライブもぜひご覧くださいませ。

横浜のkosha33で観覧もできます。お賽銭も受け付けております^^

次は、このコンサルテーションの経験を生かし、山登りのルートを決めようかと話し中。お土産もあります。楽しみ楽しみ。

 

liveandbeauty2.peatix.com

どうして場をひらけないか

「場をひらくための知識や情報は持っているけれども、一度も自分が個人として主催して場をひらいたことはない。しかしとても興味がありひらいてみたい気持ちはある」

との自己紹介を携えて講座やセッションにいらっしゃる方が、一定数おられる。

 

聞けば、場づくりや、ファシリテーション、ワークショップ・デザイン、コミュニティ・デザインなどの界隈で活動している方や団体、そこがひらいているワークショップや講座やイベントのことなど、わたしよりもよっぽどよくご存知だし、個人的なつながりもある様子。ひたすら「すごいですねぇ〜」と感服してしまう。

 

わたしの場にたどり着いてくださる方というのは、言語化できないまでも、「場」という概念について自分なりの感覚をもってらっしゃる方なので、当然といえば当然なのか...。

 

 

 

そうかぁ、それほどまでに切実に求めていらっしゃるのだな、と思う。

場を、人とのつながりを。

 

あるいは、自分が持っている「大切な何か」と「他の人」との間に、橋を架けたい!という欲求がおありなのだな、とも。

 

 

うん、素敵!

素敵なことです!!

 

 

だからこそ、どうしてご自分では場をひらけないのか、が気になる。

時間内の設計はできる、でも企画ができない。

・場をひらく内的動機、衝動。

・誰と出会いたいか。

・何によってその人(たち)とつながりたいか。

が進まない。曖昧には言えるけれども、イメージ(絵やシーン)やその人自身とのつながりが見えてこない。

「自分に切実さが足りない」とさえおっしゃる。

 

 

それを聞いていると、心理的なブロックがあると感じる。

切実さはある、でもそれを表現するのが怖い。

 

 

そういう方々に対して、もっとイメージをクリアにする問いをどんどん転がせればよかったなと、毎回講座やセッションが終わってから、自分の未熟さを思う。

 

 

恥、劣等感、無力感、疎外感、罪悪感、猜疑心、嫉妬心などからくる怖れや、自己不信や自己嫌悪があるのかなと想像する。

わたしが自分をひらいて、場をひらくときには、そのあたりがテーマになったので。

あくまで想像。

 

心理的ブロックを外すこと自体は、自分の手でしかできないだろうなとも思う。

とても勇気の要ることだ。

深みや重みのある事情があるのかもしれない。

そんな感じを受ける。

 

 

 

でもだからといって、わたしが、自分で勝手につくった妄想に引きずられてはいけない。共感しすぎてはいけない。怖れへの拒絶反応が自分に起きていないか点検する。

 

・丁寧にチューニングして、同好の士が集まる場を設えて、安心安全で健やかな場をつくることが、まずわたしが第一にやること。

・それから、事実を聴くこと。
温かな関心をもって、イメージを明快なものにするサポートをすること。

・感情が出てきたら丁寧に聴くこと。

・自分を守るためにも、安心安全で健やかな場のつくり方をお伝えする。

 

 

怖れの出所を聴くのではなく、怖れを排除するのでもなく、「怖れがあるんだな」と感じながらも、ほんとうに見たい景色を共に描いていくこと。

 

ああ、自分の持ち分、持ち場を忘れてはいけないなぁ!反省。。

 

 

幸いなことに、有難いことに、「同好の士」がその方の背中を押してくださっている。

他の参加者が問いかけてくださる言葉が、ご本人にとってとても大きい。

そういう場をつくれたときにも、「お仕事をした」と感じる。

 

わたし自身の問う力を鍛えると共に、お互いの問いかけがもっと出てくるような、設えや進行や姿勢を磨く。

 

場をつくるときのアプローチが、もしかしたら違う・合わないのかもしれないけれど、少なくともこちらがさまざまに込めて書いた募集文を見て、申し込んで来てくださったということは、ヒントがあると思ってくださったわけだから、精一杯やろう。

 

 

変化を起こすのは、その人の力と信じて、いる。

 

 

必要としている方にお届けできるように。

 

精進します。

 

 

 

 

 

▼「場をつくる」をテーマにして話したもの。

doremium.seesaa.net

 

わたしのはじまりはこんな感じでした。

わたしの場合は、いきなり一人ではやれなくて、プラットフォームに乗って、そこに集った仲間と一緒にやったので、怖さはだいぶ軽減されたけれども、それでもやっぱり怖かったな。

 

 

 

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主催者の目を持つ(読書会のつくり方講座)

10/21 読書会のつくり方講座をひらきました。

 

dokushokai3.peatix.com

 

 

「本が好き!本をきっかけにおもしろい人と出会いたい!」
「読書会に興味があって、自分でもはじめてみたい!」など、

読書会を主催したい方が、つくり方が学べる場です。

 

わたし自身が5年前に「読書会をやってみたい!」と思い立ったときに、一番助けてくれたのが「型」を学べる講座だったので、型を2つ体験できるようにしました。

そしてさらに企画を立て、当日の場の設計をして、とりあえずここまではイメージできた!という状態をつくることがきょうのゴールでした。

 

来てくださったのは、こんな読書会を考えておられる方々。

-「ジェイン・オースティンの読書会」のような雰囲気で、同時代が集って本を通じてお互いの人生を引き出し合うような読書会をしてみたい。

-ケアをする人たちやケアをする家族と一緒に、ケアについて考える本を真ん中にした場をひらきたい。

-みんなで読みたい本が一冊ある。これを通じて人生の奥深さや気づき、奥底に眠っているニーズの話を交換する読書会をひらきたい。

 

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「持ち寄り型」は、テーマを「秋の夜長にこの一冊」にして一人一冊持ってきた本を紹介。

「課題本話し合い型」は、黒井千次の「どうすれば虹の根もとに行けるか」という6ページの短い随筆をその場で読んで感想を話す。

それぞれ約30〜40分のミニ読書会を体験してもらいました。

 

体験した感想や、進行についての質問などを出し合ったあとは、「読書会のいいところ」を挙げてもらったり、他の型の紹介、進行のコツなどの解説を行いました。

  

「わたしがここでやっていることには全部意味や意図がありますので、知りたいことがあったらどんどん聞いてください」と事前にお伝えしてあったので、どんどん質問が出てとてもありがたかったです。

 

ひと通りインプットしたところで、最後に各自が「自分の読書会」をワークシートをつかって企画、設計し、発表しました。

きょういらしたときには「ふわっとしていて...」なんておっしゃっていましたが、「ここをわたしは一番おもしろいと思ってるんだよね!」という場の核のところをグッとつかんでいる感じがあり、話を聞いていてわくわくしました。

 

たまたま全員が1冊の本を読み合う読書会を考えていましたが、一人ひとり少しずつ違っていて、

-勉強会型の読書会で、事前に15分キーノートスピートを入れる

-本を読んできていないけれど、その作品のことを別の形で知っている人はギャラリーとして参加できる

-難解な内容なので、事前に「みんなに質問してみたいこと」「わからなかったところ」を送ってもらい、そこから対話をはじめていく

 

などの、アイディアあふれる読書会の企画が生まれていました。

 

 

開催へのやる気がぐんとわきました、

楽しみになりました、

もっと考えを進めたい、

などの感想が出ました。

 

きょう3時間取り組んだのは、主催者の目を持つこと。

ぜひ自分とやりたいことが近そうな読書会に出かけていって、その読書会を「場」としてとらえ、構造を見て、進行の流れを見て、ひらく人のふるまいや言動、そこで集っている人の様子などを観察するとよいです。

 

そしてそこで自分の快や不快を感じてみる。

快なことは、自分の場でも取り入れてみる。

不快なことは、自分だったらどうするかを考えてみる。

 

そんなことも取り入れながら、ぜひ自分がやりたい読書会を、自分が会いたい人に会える読書会をのびのびとつくっていっていただきたいです。

 

わたしは今回やってみて、特定の場のつくり方講座は、マニアックな質問や話題も出たりして、場づくりゼミとはまた違う楽しさがあるなぁとあらためて思いました。

 

 

日常の続きをちょっと出て表現してみる、その楽しさを分かち合う。

芸工展にも参加できてよかったです。

自己満足かもしれないけれども、ここにまたオレンジ色の手ぬぐいを下げられたことは、やはりうれしい。

 

 

ご参加の皆さま、ありがとうございました!

 

 

次回はオンラインでの講座になります。

ご興味ある方はこちらへお問い合わせください。

 

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「持ち寄り型読書会」の練習で出た本たち



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場をつくる人が何を大切にしているか

 
 

10/13(土)KLASSでの「また行きたい!と思える場をつくるゼミ」の第2回でした。
 
来てくださったのは、
いろんな場に参加してきて、ちょっと主催の側にも回ってみたいと思って学び中の方。
 
そして、以前頼まれて教えていた場が自分の目指すものと違った。自分としてつくりたい場を模索中の方。
 
いきなり起業ノウハウではない、技術やツールの使い方だけでもない、場をつくるにあたっての自分の心づくりや、人との関係づくりを丁寧に考えていける場を探していたとのことで、とてもありがたいです。
 
-自分が思う「行きたい場、行きたくない場」を挙げ、その理由を考える
-どんな人がどんな体験をしてどんな変化を遂げて帰るのかの体験のデザインをしたり
-どこで募集するか、どうすれば人が集まるか
 
など、参加された方の進捗具合や関心に沿って、いくつかのツールを使って進めていきました。
 
 
場をつくる人が何を大切にしているのか知ることができてよかった、
具体的にどんな場にしたいのかをもらったシートを使って考えていきたい、
という感想をいただきました。
 
自分の内なる動機や熱を大切に、少しずつつくっていきましょう。
皆さまの場づくりを応援しています!
 
ご参加ありがとうございました。

 

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次回11/4(日)の場づくりゼミのテーマをもっとはっきりさせました。

「安心、安全な場のために知っておきたいリスクの話」をします。

人が集ったときに良いこともたくさん起こるけれども、嫌(と感じる)なこともたくさん起こります。それが人と何かをするということです。

  
特に抜けがちなのは、《ひらくあなた自身の安心・安全・健やかさは守られているか?》ということ。それらは設計や運営のやり方によって事前に防いだり、より健やかなほうに舵を切ることができます。

  
-これから場をつくる人には、知識として。
-場を運営中の人には、その課題のポイントを。
-仕舞いかけの人には、仕舞い方のコツを。

 

他ではあまり聞かない話かもしれません。
11/4(日)午前。単発参加大歓迎です。お申し込みお待ちしています。

 
★場づくりゼミの今後の予定
11/4(日)安心安全な場のために知っておきたいリスクの話
11/18(日)進行練習
単発参加大歓迎です。
 
★KLASSの他の講座
12/22(土)自分の今とこれからを見つけるコラージュの会《冬至編》

これから先、何十年もファッションを楽しもう!

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「今の私スタイルを楽しむ会」第二回をナカオクミさんとひらきました。

第一回のレポートはこちら

 

 

このレポートのタイトルになっているのは、参加してくださった方のご感想からいただいたもの。

 

今回もよき時間でした。楽しかった。

 

 

 

 

 

自己紹介タイムでは、各自のお悩みときょう楽しみにしていることの話からはじまりました。

体型の変化、輪郭のぼやけ、身体のガタ、おしゃれすることを見ないようにしてきた心理、気づけばカジュアルばかり、子どもがらみでない場に行ったときに自分を出せる服がない...などなど一人ひとり、率直に語ってくださいました。

 

それを丁寧に聴くクミさん。

子育てや人生の転換期にあって、ファッションへの関心がやや薄れていた数年〜十数年近くの間に、ファッションのトレンドもずいぶん変わっている。身体のラインを出さなくてもきれいに流れるラインを作れるような、フォルムや素材がおもしろいものもお手頃に入手できるようになっている。

 

 

...なるほど。でもどういうことだろう...と思いながらのメンバーたち。

 

クミさんのワードローブから試着しながら、形や素材や色や柄や分量のおもしろさで、魅力がどんどん引き出されている他のメンバーを見ていて、「あ、意味がわかった!」という表情。

 

次第に、体型の悩みという軸を離れて、ただもう装うこと、自分の変化が楽しい!という世界にいく時間に入って行く。

今から何かを大幅に改変したり、隠す目的だけで選ばなくてもよいというか。

 

今の自分を真に楽しむファッションはこれ!をクミさんが思いっきり引き上げてくれる。ここまでいけるよ!と。

 

そのスケールが変わる、対象範囲が一気に拡張される感じが、諦め気味の、でも諦めたくない欲望に火をつけてくれる。

 

場をひらく人の本気は、そこにいる人たちを本気にさせる。

勝手に気づいたり学んだりしてしまうんですよねぇ。

 

プロ/素人、本業/副業、生業/趣味(?)、これで生計を立てている/いない、看板を掲げている/いない

...表現はよくわからないけれど、それらの違いはともかく、こういう現場にいると、仕事や商いって、やっぱり人のニーズと提供できるものの交換によって成り立っているんだなと思うし、その原点は楽しい!うれしい!幸せ!からはじまっている。

 

 

皆さんのご感想

「色味」と「柄」と「素材感」について新たな刺激がいっぱい入りました。これから先何十年も楽しめるんだ!という希望にもなりました。

 

これまでの私の服を選ぶ基準が、似合う似合わないや体型よりも、自分の今の役割としてこういう服装をすべきという枠、それも思い込みで作った枠だったのかなということでした。
私の今の外出理由は6割が子供がらみで、その際のキーワードが「The 無難」だった!と今更気付いたのです。
もちろんそれで気持ちが落ち着くならいいのでしょうけど、「無難スタイル」や「無難と好みの折衷案スタイル」に私はモヤモヤしていたんだなと。

 

服の選択と時同じくして、実は自分の個性(というか癖)を押し殺してきました。普通ってこんな感じで良かったかな?みたいに。
シャバで仕事は持たずに乳幼児のお母さんをやる事への気負い、世間に紛れないといけない、みたいな思いがあったのかな。

でも、クミさんが私に見せてくれた魔法は、自分を思い出させてくれました。単純にきれいになりたいなって思いました。

 

「自分ではぜったいに手に取らない服やアイテムが意外といける!」って思えるのが、この会のすごくよいところ。
何点もバリエーションを変えて着てみて、お悩みにもしっかり向き合ってもらいながら、殻を外からつついて破ってもらえる。

 

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たかが衣食住、されど衣食住。

 

わたしは、どれだけ自分が衣食住を適当にやってるかを、ここ十年ほど一生懸命アピールしてきたけれど、それももう虚しくて、ほんとうはずっとやめたかったんでした。

本当は自分が気に入るものを、感性を使って時間をかけて選んだり、大切にしたり、自分を素敵にすることを楽しみたかったのよね。

 

いいじゃん、すれば!!!!!

 

 

叶えてあげると自分が喜ぶ。
そういう笑顔をたくさん見られてうれしい。

 

 

美しいお花みたいな鳥みたいな。

たくさん咲いた笑顔が、鮮やかな色をまとって軽く飛んでいくような。

装うって素敵。

 

 

 

 

今週も三回目あります。楽しみだなー。

 

 

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今は

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「困ったときは『今は』ってつけるといいよー」とだいぶ前に友だちに教わって、すごく重宝している。

 

例えば、
「あの人とは気が合わない、今は」
「どうしてもわからない、今は」
「とても辛くてたまらない、今は」
とか。

 

 

変化してきたわたし、変化していくわたし。

関係性。

実際あとあとになってわかることばかり。

 

今を意識することで確かめられる事実や状況。味わえる感情。

次の歩みを出すための、今。

 

ありがたいことに何事にも終わりのときが来る。

希望。

 

 

おすすめです。

 

デュシャン展がよかった話

東京国立博物館で開催中のデュシャン展、よかったです!

 

2016年にわたしがひらいた「ポンピドゥーセンター展の感想話す会」のときに、「デュシャン以前と以後で様相が変わってしまった」という感想が出てたのを思い出しました。

 

あのときは一年一作品で会場構成がされてて、デュシャン作品の前後の違いが一目瞭然だったのがおもしろかったんだなぁ。(あの展覧会ほんとよかったな)

 

その、デュシャンという現象や革命の部分をきょうはゆっくり味わう。

今当たり前のようにあるあれもこれも、デュシャンがはじめにやったんだ!て感じ。わたしもこーゆーのやりたかったんだよ!という作品があってコーフンしました。

 

伝説になるだけあるなぁ。

この後の人たちをも、きっとインスパイアし続けるでしょうね。

 

初期の画家としてのキャリアは全然知らなかったので見られてよかった。

 

個人的には美術の教科書に載っていた「チョコレート磨砕機」の本物が見れてうれしかったです。それとメモ群。

 

施工どこがやってんだろう、青が効いててカッコよかったな。

 

トーハクでやってるのもユニークだったり。フィラデルフィア美術館が日本美術の収蔵にも力を入れてて交流があってという経緯だそう。

 

音声ガイドがアプリをダウンロードして家でも聞けるようになってます。600円。
イアフォン持参でぜひ!毎回入ってくるジングルがややうるさいのが難...。

 

ほとんどの作品が撮影OKです!

 

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一条ゆかり展がよかった話

根津の弥生美術館で開催中の、一条ゆかり展に行ってきました。

 

最高でした。もう胸いっぱいでよくわからない。

 

50年前から、こんなに先進的で先鋭的な感覚を持って、闘ってらっしゃったんだなと、震えた。

表現者たること、その覚悟、生き様を展示から見せていただきました。

 

先日のリブトビのトークライブで、「大きな決断をしたときに、これやったら友だちゼロ人になるかもしれない。でもゼロ人になってもいい、今これをやらないとわたしが死ぬから、生きるほうをとった」という話をしたことを思い出しました。

 

あの続きは、結果的に友だちゼロ人にはならなかった。

それどころか、ふえた。

深まりだったり、見えてなかった関係が浮いてきたり、新たに出会う、などさまざまな形で。

 

 

 

「人間の深さってね、もっともっとあるのよ」と漫画を通して教わってきたんだな。

子どもの頃に洗礼を受けていてほんとうによかったです。

 

懐かしい、だけじゃなかった。

物凄い画力、だけじゃなかった。

 

観たあとに友人と興奮するままにたくさん話して、濃い時間を過ごしました。幸せ。

 

読んでない作品もこの機会にまとめて読もう。

行き詰まっていることのヒントが隠されているような気がしてなりません。

 

 

作品保護のため、カラー原画は2回入れ替えがあるそうです。

 

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芸工展2018企画としての「読書会のつくり方講座」

わたしが一昨年から出展している芸工展

今年は「読書会のつくり方講座」で出展することにしました。

 

芸工展とは
https://www.geikoten.net/
「まちじゅうが展覧会場」をキーワードに谷中・根津・千駄木池之端・上野桜木・日暮里エリアで毎年ひらかれているまちの文化祭のような集い。参加者は、プロアマ問わず、表現を楽しむ市井の人たちが、日常の延長をおすそ分けする非日常との出会いの場。

 

 

読書会は、表現を味わう体験を通して、小さな表現を試みる場。

読書会のつくり方講座は、参加側から主催側に回り、日常の延長にある小さな場を営もうとする人たちの場。

なんだか芸工展にぴったりだなぁと思いました。

 

 

 

一昨年は、こんなことをしました。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

このときは、「わたしが培ってきた芸を披露する」がコンセプトでした。

ソロでやってみて、いろんな人が来てくれて、サポートもしてくれて、こんなにも自分を表現することがはじめてで楽しかったことはないというくらい、幸せな時間でした。たくさんの種を蒔いて、その後次々と芽が出て、実がなったものもあります。

 

 

 

そして、去年はことほぎ研究室という名前で、ことほぎラジオを一緒にやっていたけいさんと出展しました。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

このときも「研究成果を発表」という形で、ラジオをやっていて生まれてきたものをいろいろ並べて、試してもらう場としてひらいて。2人でひらくのは、1人のときとはまた違って広がりがあって、楽しかったなぁ。

思えばお店で働きたい感じというのは、このあたりからはじまっていたのかもしれないなぁ。

 

 

 

まちのいろんなところで、いろんなスタイルで、いろんな表現が生まれて循環する。

愛する芸工展に、今年も出展できることがうれしいです。

 

今年はいっぷう変わっていて、賛同人として協賛金をお支払いし、芸工展に出展していると宣言して、オレンジ色のてぬぐいを下げ、実施すればそれが芸工展に出展していることになるそうです。このゆるさ......^^

 

出展者はわたし・せいこであり、講座に参加される方にとっては、これが芸工展の出展企画であろうとなかろうと、正直なところあまり影響はありません。

どうぞ気になさらずおいでください。

ただ、こういう「場」としての芸工展のおもしろさ、それを生み育んできたまちのおもしろさを、ご紹介できたらなぁとは思っています。

 

 

 

 

講座はまだお席ございます。お申し込みお待ちしております♪

遠方や日程が合わない方にはオンライン講座も予定しております。お問い合わせください。

dokushokai3.peatix.com

 

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関係の中の精神的自立と境界線、または尊重と感情的な安全性

男性による男性のための支援について、2本記事を書いて、いろんなフィードバックをもらって、また書きたくなりました。

男性による男性のための支援と場について - ひととび〜人と美の表現活動研究室

「同性」の共感と応援によってしか行けない場所 - ひととび〜人と美の表現活動研究室

 

 

しかし、考えをまとめて一本の記事にするのが今どうしてもできなかったので、自分のコメントをばらばらとまず貼ってみて、最後にまとめを書きました。

 

 

 

 

あえて社会的な男性、女性とくくっているのは、それがあるという前提の社会の中で生きるときのズレや違和感があるから。

もし社会的な男性が男性を支援したり、そのズレや違和感の認識を共有する場がもっと増えたら、

いつしかどちらからも、「ほんとうに男性とか女性とか曖昧な区分けでしかないよね?多様だよね?」ってとこに至れるのではないか。

 

なるほどなー

"女性が「同姓の中で共感する」ことが強いことで、その輪から外れた人たちの「場」が少ない"

そうかー。あるのかもしれないですね。

 

うーん、うーん、、、

 

わたしは場をつくるということをテーマに生きているので、どうしてもこの発想になりますが、

もし、ある人が、生きていてズレや違和感をもっていて、それが耐え難く苦しい(阻害されていると感じる)のであれば、わたしはこうだ!と旗を立て、場をつくることで、あるいは場の一員になることで、人と出会って、自分と出会って、共感と応援を得て、顔を上げてspeak upしたら、希望をもって生きていける可能性が大きい。ぜひそうなったらいいのにって思うのです。これをSisterhoodっていうのかな。

 

言いたいのは結局そこで、それはどんな性であれ、なんですよね。ただわたしが見えている範囲では、「男性性」(ややこしいなぁ、性...)、左脳的っていうのかな...のほうが不得手で不慣れなように見えるし、思考・判断・裁定が激しい、ように思える。そういう傾向があると、恥や罪悪感や劣等感は押し込められ、怒りが蓄積され、どこかで爆発する。

 

感情的な安全性がもてる場を自分の手でつくれたらすごくいいですよ、とか、ジャッジなしに、思考判断や編集を交えずただ聴いてもらうのは良いものですよ(それは訓練で身につけられる)、ともわたしは言いたいかな。

 

「性を扱いながら、軽々とそれを超える」をわたしも見たいんだよなー

 

「支援」というものの解釈が人によって、あまりいいイメージがないのかもしれないと思った。

わたしはSupportとして使ってたんだけれども、アドバイスされるとか、内側に踏み込まれるとか、脅威だったり、大きなお世話だったりしているのかもしれない。

そもそもこのことを書き出した発端が、リスニングママ・プロジェクトで、その活動は「20分ただ聴く」で子どものいる女性をエンパワーしているんです。ジャッジなし、アドバイスなしで聴いてる。相談というのとも違う。心療内科的なカウンセリングでもない。

それはすごく支援的Supportiveなんだけど、この感じが伝わりにくいんだろうなぁ。難しいなぁ。

 

記事が読まれてうれしいけれども誰かを傷つけたり、もやもやさせたりもするんだろうなぁとも思う。

まぁでもわたしの書いたものが意図通りに伝わることっていうのはないと思っているので(わたしも本当に何を書いたのかは自分ではわかっていないし、、)、これによってなにか考えることがあったり、誰かと話すことがあったら、そういう踏み台としてあるのは、本望です。

 

 

「支援」というキーワードで語るならば、例えば、マドレボニータやリスニング・ママプロジェクトを通じて知り合ったり、ご近所さんだったり、自分がひらいた場に来てくれて知り合ったり、の女性の友人たちといるとき、おしゃべりするとき、一緒に何かをするときのこの気持ちよさといったら!という感じ。この出会いがわたしにとっては宝。

核をもった個としていて、精神的な自立があり、ユニークで、感受や感情がたくさんで、それでいて共有できるところもあり、お互いの境界を守りながらも愛にあふれていて。

泣きつくときもあるし、みっともないところもいっぱい見せて、助けてもらうときもあるけれど、すごく対等で相互的。

支援というといかついイメージがあるけれど、わたしの身近にあるのはこういうものです。

 

あとは生物的性の別があり、やはり「同性」同士でも話したほうがいいと思うのは、息子の性教育のことを考えはじめてからです。「男も、女も、カテゴライズできない性も、違いはないよね」と、ここは言えない。

 

うん、そうだろうなぁと思います。そうだろうなぁというのは、女性男性という二分された何かでつながりたくなかったり、つながりたくないテーマがあったりすることや、既存の場や関係の中に合うものがないことや、これまでそのことで嫌な経験をしてきたこと。わたしにもあるので。警戒などもあると思います。

 

頼んでないのにずかずか入って来るお節介とかアドバイスや人をカテゴリでくくるのが「支援」なのではなく。

直面している課題が自分一人で考えても、自分のこれまでの経験や全能力を投入してもどうにもならなくて、他者の力が必要なときに、個人としての核や精神的自立や境界線は確保され尊重されたまま、ジャッジされずただ聴いてもらえたり、自分が選ぶこと・自分の力で道をひらいていくことを応援してもらえる、感情的に安全な場や関係をわたしは「支援」と呼んでいます。当然ながら「弱者を助ける」というのでもない。

もしその直面している課題が、なぜわたしが理不尽な目に遭ったり違和感を覚えているのか--> Because I am a girl/woman や Because I am a boy/man というフレーズにつながるものであるならば、それは同じように【切実に苦しさを感じている者同士】でしか真にエンパワーできないのではないだろうか?という仮説です。

そして今わたしがどの立場から言っているかというと、

・Because I am a girl/womanと感じることが人生の中でほんとうにしょっちゅうあった。

・girl/woman同士の自立しつつ共感を伴う心地よい「支援」の中にわたしはいる。

・boy/manから助けを求められる。場というものに興味があり仕事にしている。

そのような立場から見て、boy/man同士の「支援」の数やバリエーションが少ないことが問題で、それはgirl/womanの側からいくらお膳立てしてもどうにもならない、切実に感じている人たちが立ち上がらないとどうにもならないのではないか、と思っている感じです。

 

 

 

友人たちと言葉を交わしてきて思ったのは、ほんとうに聴いてもらえてきてなくて、ジャッジや評価やアドバイスやマウントされてて、場で嫌な思いをしていて、「支援」という言葉にもういいイメージがない人もいるのだということ。

 

 

そもそものところで、精神的自立、境界線、尊重、感情的な安全性が人間関係の中で薄いまたはない、のではないかというのを、場をつくる仕事をしていても、日々生活していても、ひしひしと感じています。「ここでは何を言っても大丈夫と思える」という感想もよくいただきます。

 

自分も未熟だから、できない、わからないことも、もちろんあります。

 

 

 

わたしが長い時間をかけて辿り着いた関係や場は、もしかしたら特別なことなのかもしれない。わたし自身、時間もかかったし、、

 

でも、「あると信じたいけどほんとうにあるのかなぁ?」と思っている方がいるとしたら、「あるよ!」と大声で言いたいのです。

今はないところにも育める。

 

そのとてもよい関係性がどのようなものなのかを、バシッと書くというのがとても難しくて、この通り抽象的にしか表現できてなくて悔しいです。

 

精神的に自立し、他者との心地よい境界線を持つことと、共感でつながることは対立しないのです。

 

 

「聴く」とか「聴いてもらえる場」を増やしていきたいなぁ。

聴けるプロフェッショナル(カウンセラー、コンサルタント、サポーターとか)ももちろん増えてほしいし、そのお仕事でなくても聴ける人。もっともっと。

 

 

 

 

そして今回の記事で書きたかったのは、それはわたし個人にとってはとても快適な関係だけれども、感情的な安全性や、他者からの共感は必要としていなかったり、「なぜこのように理不尽なのか-"Because I am a girl/woman, boy/man"」と感じたことがない方もいると思う。その方にはわたしが書いてきたことは、的外れだと思います。

あくまでも「違和感や苦しさを感じていて、それがジェンダーギャップに起因するなら」という仮説を書いてみたものです。

 

 

誰かの生き方やあり方を批判するものではないです。

 

わたしもあなたも、お互いに「そうでないと生きていかれない」人生を生きていると思ってます。

 

 

そして「場をつくる」ということにおいては、わたしは力になれます。

 

 

うん、そんな感じだな!

 

 

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ハイパーセンシティブ


朝、息子を学校に送って行ったら、担任の先生に「ちょっとお時間いいですか」と呼び止められた。

 

今、理科の時間に骨や筋肉のことを扱っているのだが、前回の授業で模式図を見ながら説明していたところ、息子の様子が急におかしくなり、怖い怖いと泣いて教室にいられなくなったので、保健室に連れて行った。養護の先生と話をしてだいぶ落ち着いたようだったけれども、心当たりはありますか。授業で配慮すべき点があれば教えてください。

......とのことだった。はじめて聞く話だったのでびっくりしたが、先生が「怖いものや苦手なものは誰にだってあるし、他の人は平気でも自分はダメとかも当然あるので、それはいいんです」と、言ってくださったのが大変ありがたかった。

 

「心当たりはありませんが、もしまたそんなふうに本人が辛くなったときにどんな対応が可能ですか?」と聞き、いくつか提案をもらった。

 

家でも様子を見て聞いてみますと答えてその話は終わった。

 

 

 

それでふと自分のことを思い出した。

 

数人でごはんを食べられるカフェを探していて、入ってみたらわたしの苦手なミラーボールが回っていた。

慌てて連れの人たちに、「ほんとうにごめんなさい、ミラーボールがダメなんで…」と言ったら、「あ、そうなんだ。じゃあ別のとこにしよか」と言ってすぐ別の店にしてもらえた。

 

「えーなんで?大丈夫だよー」とか、「珍しいね」とかも一切言われなかったのがとにかくありがたかった。

 

 

わたしは規則的に回っているものや左右や上下に触れているものを見るのがとにかくダメ。

天井のファンがあるお店では、なるべく視界に入らない席に座るなどしています。

大地の芸術祭のある展示で、真っ暗闇で狭い部屋の中でぐるぐる回る電球を見つめるように言われ、これはかなりの拷問でした...。

 

乗るのももちろんダメ。遊園地のメリーゴーランドやコーヒーカップなど。

 

 

こういう苦手なもの、他にもあったなぁと思い出してみたら、いろいろ出てきた。

 

・蛍光灯の青い光

・海の波(音も)

・サイレン音

・お寺や教会の鐘のわぁぁあんという振動音

・インドの楽器のシタール

・電車の発車音楽が隣のホームのと混ざるとき

こどものおもちゃで電子音が鳴るのもの(音程が合っていないとかすぐ狂うもの)

・掃除機をかけてるときのキーンという高い音

・ストッキング

・ウールやアルパカのタートルネック

 

などなど、他にもありそうです。

 

 

小さい頃は時計の秒針のカチカチいう音がダメでした。

 

 

 

苦手を通り越してダメ。

ときにはその場にいられない、逃げ出す、というぐらい無理なときも。

逃げられないときは、手のひらにいっぱい汗をかいて、指先や足のつま先が冷たくなって、おなかが痛くなって、身をかたくして、感覚を麻痺させて、過ぎ去るのを待つ、という感じ。

 

暴力シーンの多い映画もダメで、途中で退席したこともあります。

 

 

感覚過敏というものかなと思います。もちろん中には「誰だってそうだよ!」というものもあるかもですが、意外と「まったく気にならない」という人もいたりして。

 

感覚過敏については、ぷるすあるはのチアキさんがとてもわかりやすく役に立つ記事を書いてくださっています。困っている方はぜひ読んでいただきたいな。

『感覚過敏のチアキの世界』─苦手と工夫を探検してみました(前編) - 子ども情報ステーションby ぷるすあるは

 

 

 

あるいはHSP(Hyper Sensitive Person)。

本を買ってチェックリストを試してみたら、ほとんどが該当。

わたしってなんでこんなめんどくさいのかなぁと昔から自分で自分が嫌だったけれど、そういう特性ならしょうがない。名前があったのかとわかるとちょっとホッとする。

 

 

そんなわたしなので、場所選びを任されやすい。

わたしが居心地がよくいられるところなら、だいたいみんなも安心していられるから。

 

 

 

で、最初の話に戻ると。

息子は、理科の授業のとき、何かがフラッシュバックしてしまう感じだったのか、わたしの感覚過敏の話とは違うのかもしれないけれど、「その場にいられなくなる感じ」というのはわかるので、なんとかサポートできるかなと思った。

 

という話。

 

 

 

朝顔、10月半ばだけどまだ咲いているものなのね。

 

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「同性」の共感と応援によってしか行けない場所

きのう書いた記事がたくさん読まれているようで、びっくりしました。思うにまかせた未熟な文章を読んでくださり、ありがとうございます。

 

書いたものをFacebookでシェアしたら、友人たちが「どう読んだか」をコメントしてくれました。おかげでまた進んだことがあるので、きょうも書きます。

 

 

男性、女性と二つの性を挙げることについてはかなり躊躇もしていたし、ディスカッションの中で出てきたこともあるので、きょうはやはりそのことから。

 

この世に二つの性しかない、とわたしは言いたいわけではもちろんないです。ただ、性やジェンダーについてはまだまだ勉強中なので、言葉の使い方が違っていたらご指摘ください。

 

男性、女性という言葉を使うときには、性(sex)とジェンダー(gender)の二つの観点がありますが、この記事では、自認している性別(sex)と社会的な性別(gender)について扱っています。

 

そして、社会を生きる中で、生物的であれ、社会的であれ、性嗜好的であれ、「性別」によって背負っているもの、抱えているものが違っているとわたしは感じています。

 

自分の性を生きる中での、ズレ、ギャップ、違和感、コンフリクト、悩み、困り事が起きたときに、「異性」の理解や支援も非常に大きい力になるのだけれども、「同性」同士の分かち合いや委ね合いや頼り合いの場(関係や機会)によって、エンパワーされ、人が希望を持って生きていくことに、ずっと関心があるのだと思います。

 

特に社会的な「男性」「女性」のギャップに関しては、「男性」が「男性」を「共感をもって支援する」という残されたフロンティアの耕作に着手しないと、どうにも埋まらないんじゃないかと思っています。

女性から女性

女性から男性

男性から女性

はあるけれど、「男性から男性」がまだ耕されていないように思うのです。

 

 

 

きのう参加したのは、リスニングママ・プロジェクトという団体の会でした。

リスニング・ママ プロジェクト(リスママ)は、妊婦さんや、乳児〜未就学児・小学生を子育て中の母親を対象とした子育て支援プロジェクトです。

 

子どもと過ごす毎日の中で、煮詰まったり、くじけそうになったり、逃げ出したくなったり、自分の力を信じられなくなった時、ふと誰かに自分の話を聞いてもらいたくなったことはありませんか?

 

リスママでは「聴く」の専門的なトレーニングを受けたママが、プレママから小学生の子どもを持つママの話を20分間寄り添って聴きます。

 

聴き手からジャッジされず、アドバイスされず、話が漏れることもなく、安心して気持ちを話せる20分。どんな話でも大丈夫。一度体験してみませんか?

 

寄り添って20分、「ただ聴く」を提供している。その聴き手も出産し、子育てをしている女性。

女性が女性を支援する。

そのことによって女性だけではなく、彼女がかかわる子どもたちも育まれる。

家族が育まれる。彼女の生きる世界への影響がある。

そこに喜びがあり、よき循環があります。

 

 

 

きのう男性から男性への「支援は皆無」というようなことを書いてしまったのだけれど、

・医療、福祉

・カウンセリング、セラピー

・コミュニティづくりを支援する団体

・ホームレス支援

・DV加害者向けプログラム

ピアサポートグループ

・コミュニケーションを学んだり、対話を目的とした場

などは友人たちが挙げてくれたり、わたしも思いついたりしました。

 

ただ、それらの場は女性への支援とはちょっと違っていて、もしかすると、

  • 「困り事が話せる場」と掲げず、趣味やアクティビティで仲を深めることからはじめて、次第に悩みを話しあう関係になる
  • それが「男性」特有の困り事だと明示しない(人間ならあること、会社員ならよくあることだ、的な)

という特徴があるのかもしれない。

 

そういう間口の広いアプローチもある。

行きやすいのはいい。

 

違いといえば、女性による女性のための支援は、困り事を明らかにし、「女性」特有の困り事やしんどさであることを認めるところからはじめているところも多いと感じます。

 

でも数やアプローチのバリエーションやアクセスのしやすさでいえば、男性向けの比ではない。

 

 

わたしは男性の友人の悩みも聴くことがありますが、「男性の友人にこんなこと話したことはない、話せない」ともしばしば聞きます。信頼していて、話はするけれども、気持ちを話したり、本当に困っていることは開示できないと。

 

それは、女性が友だち同士でお茶をしながら、気持ちや悩みをじゃんじゃん話したり、お母さんの支援をしたい!働く女性の役に立ちたい!と明るく話すのとは対照的な世界に見えます。

 

何がストッパーになっているのか、ハードルになっているのかはわからないのですが、女性には話せるが男性には話せないというその枷は、どこから来ているのでしょうか。

 

本当に困窮するところまでいかなくても頼り合える場(関係)がもっと気軽に生まれてほしいし、動きがもっと起こってもいいのにな、と思う。

 

それは場の設えなのか、個人のあり方の問題なのか、両方なのか、、

 

 

女性が女性に対して関心を持つように。

男性が男性に対して関心を持ち、共感や寄り添いを持って支援する。

男性の人生がよりよきものになるように貢献する。

そして「困っていることをどうにかしたい」という場(機会や営み)を男性の手でつくる。

さまざまなテーマでつくる。

 

 

それでしか、「男性」のしんどさや苦しみや自己嫌悪をどうにかすることはできないのではないか、というところに、今わたしは考えがたどり着いたところです。

 

 

「同性」の共感と応援によってしか行けない場所があると思うんです。

それは「別の性」がお膳立てしてくれて行けるところともまた違う。 

 

 

わたしが女性たちと見てきた景色の美しさや、「同性」だからマジあったかい心のつながりを、男性が当たり前のように持てたらなぁと思うのは、大きなお世話かな。

 

 

 

「男性は共感は要らなくて、論理的な解決方法を最短で知りたい生き物だからしょうがない。そういう脳だから」という言説も見聞きするのだけれど、それはわたしはちょっと疑わしい。

 

 

共感も共有も支援もとても必要としていると感じます。

人はみんな必要としている。

 

 

ただ、もしかしたら、生物学的な脳のつくりや、育ってきた社会環境や、受けてきた教育や、「男性」社会からの圧力による難しさもあるのかもしれなくて、「男性」が自己共感や他者共感でつながる関係をつくっていくには、「女性」よりも意識的な訓練が必要なのかもしれない、ということは考えられます。(もちろん「女性」が全員、自己共感や他者共感にとても優れているということではない)

でも「性別」と共感力がほんとうに関係してるのかは謎。

 

 

なんにせよ、どの場もどの動きも、現象の分析や解説だけして放置したり、自己嫌悪を煽るのではなく、勇気づけるものであってほしいと願う。

 

 

 

実は子どもたちのほうがずっと進んでいるのかもしれない。

男の子だから、女の子だからということに全然とらわれていなくて、共感的で繊細で優しい。そんな子どもたちを受け入れる準備を大人がむしろできていなくて、悪いことには潰しにかかっている。それもどうにかしたい。

 

 

 

今読んでいる本、「虐待・親にもケアを」のあとがきに書いてある文章が、なんとなくこのことと関係があるように思うので、引用します。

 

出会っていくという回復のプロセスの中で、人は自分に正直にならざるを得ません。自分に正直になるとは着込んでいるたくさんの不要な服や鎧を脱ぐことです。そのプロセスには恐れと苦痛が伴いますが、人と人とが優劣で競い合うパワーゲームの中で生きている虚しさに気づかせてくれます。他者との比較、他者への優越感によってしか自分の価値を自覚できない競争社会にあって、では自分ではどう生きたいのかという多くの人が避けている課題に向き合わせてくれます。持ちすぎているものを手放し、着込みすぎている服を脱いで、地に根を張って立つ木のように素足で土を踏みしめれば、自分の存在の輝きが姿を表すという真実に気づかせてくれます。

 

 

 

性別のことについては、まだもやもやしてうまく書けていないと思うし、がさっとしたくくりにどうしてもなってしまう。 もっと丁寧で的確な言葉があると思います。

 

 

しばらくこのテーマで探求の旅を続けます。

 

 



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