ひととび〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する場づくりを通して考えることなど。

なぜ?どうして?を問いなおす

10月と11月に1回ずつ、対話型ファシリテーションの勉強会をしました。 

 


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2年前にもこの勉強会は2回ひらいたことがありました。

そのときの様子はこちらのレポートをどうぞ。

わたしのテキストは表紙が薄いのもあって、もうこんなにぼろぼろになっちゃった!

 

 

 

 

今回は、KLASSでひらいた、「また行きたい!と思える場をつくるゼミ」を受講してくれた人に役に立ちそうだな、とピンときたので、スピンオフ勉強会としてやりませんか?と声をかけたところ、 「今自分のやっていることや知りたいことに関係ありそう!」「実は2年前の勉強会に参加したくてできなかったの!」と友人知人11名が集まってくれました。ありがとう!

 

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あらためてみんなで練習してみて、いいメソッドだなと思います。

この2年、よい人間関係をつくり、育んでこられたのは、このメソッドのおかげでもある(もちろんこれだけではないけれども)。


「なぜ」「どうして」を封印する、というのは悪者にするのではなくて、問い直す試み。

その底には「ほんとうに知りたいこと」がある。


いや、その前に、その人に「伝えたいこと」があるのかもしれない。
「仲良くしたい」とか「わたしのことを知ってほしい」とか。

 

「なぜ」「どうして」と聞いても、「今どうしてわたしがそれを聞いたかっていうとね」と意図をあとから説明することもできる。

事実質問って尋問みたいになるとか、誘導的になるとか、いろんな難しさもありますが、「わたしはその人とどのような関係をつくりたいのかな?」を持ちながら、ゆっくり一緒に歩いていくように聴けたらいいなぁと思う。

 

 

「なぜ」「どうして」がよいのは、ひとつの答えや正解を求めない、オープンな問いかけのときですね。たとえば哲学対話。

「なぜ我々は生きるのか?」

「なぜあなたはここにいるのか?」

「どうして勉強しなくてはいけないのか?」

それに応じて出てくるのは、答えというよりも、願いや祈りのようなものかも。
広く深い海のような時間になりそう。

 

 

 

今回おもしろかったことの一つに、相手が感じていることや考えていることを推測しながら会話を進めていたのに、相手に問い合わせてみたら実は違った、という現象がたびたび起こっていたことがあります。

話しているのは相手なのに、「きっとこう感じているだろう、考えているだろう」という、自分の立てた推測を当てにしすぎる、信じすぎる、思い込む、ということが会話の中では起きている。

もちろん、日常会話の中でいちいち聞くわけにいかないのですが、たまにこうやって、「今の誘導的な感じがした?」と率直に聞いても、自分の思い込みがわかっておもしろいかも。

 

相手の感覚や感情を先回りして抑えなくてもいい。

もっとついていっていい。

その中で、自分の中に起こっている感覚や感情を表現してみることや、提案もできる。

自分からまず相手を信頼して。

 

 

たとえば「さっきから話が堂々巡りしている感覚がわたしの中にあって、この状況をどうにかしないといけないのではと焦る気持ちもわいています」とか、

「もう少しそのときの状況をあなたと一緒によく見てみたいんです。それがいつどこで起こったことなのか聞かせてください」とか。

 

質問すること(何を聞き出すか)だけに集中するだけでは、コミュニケーションにはならないのだよなぁ。外界の観察と内面の観察を同時にやっている。そこが、このメソッドが「対話型ファシリテーション」と名付けている理由なのかも、とようやくピンときました。

 

 

 

皆さんの感想

人と話す、聞くって毎日やっていることだけど、手法とかスキルとして意識してやったのが今日が初めてだったので頭がはちきれそうです。確実に新しいシナプスが生まれた気がしています(笑)。今日の勉強会を受けて、また本を読み返して、そして日常の中で実験的に質問の仕方を変えてみて、反応を感じたいと思います。めっちゃ楽しかったですー!!

 

充実の時間になりました。仕事のみならず、プライベートでも早速実行出来そう(^○^)実践してまた後日報告したいです! 

 

難しい…難しいけれど、よりクリーンな問いかけになるのを感じます。

それでどんな関係をつくりたいか、の視点は私あまりなかったかもな…と気づきました。どんな風に解けていくかな。。これから意識していきたいな、と思います。

 

子どもたちに質問するとき、どうしてそう思うか?を聞くのに、なぜ、どうしてを使わないと、話しやすいんだなーと感じてます。おもしろいなー。また、練習したいです(^^)

 

本で読んでるときは、「そーそー!そんな風に言えたらいいのよね〜!」と思ってるけど、実際やってみるとしどろもどろだったり、難しいな〜と思いました。

でも、事実質問だと確かに、考えるのではなく思い出す作業なので、
あまり負担がないんだな〜というのは実感。

人の話を聞くのは好きなので、今までは思うままに聞いてしまってましたが、それだとお相手の気づきのお手伝いには必ずしもならないんだな〜と分かり、今後は今回のことを踏まえて質問するってことをやっていきたいなと思います。

 

すぐさま何かが激変することはなくても、今まで疑問なく使っていた「なんで?」「どうして?」アプローチのワナというか、いかに無意識にやっていたかなどの発見がありました。

今後、人に対して何か聞くときに一瞬、立ち止まって聞くことができるかも、と思いました。

 

2時間とは思えない濃厚さと満足感でした。

きちんと人と触れ合うこと、やっぱり必要ですね❤︎

 

勉強会後のランチで、空中戦になってしまった会話を地上戦にもちこむには、
・もう一つのグループで流行っていた「それは最近ではいつありましたか?」を使ってみる
・話の中で誰かに言われたことについて「何と言われたんですか?」と、事実として言われた言葉を質問する
・話をひとつの事例に絞って、いつですか?だれに?どこで起こった?をひとつひとつ聞いていく。質問を細分化する。
というようなシェアがありました。リベンジしたいーと思いましたが、まずは日常生活で意識するところからですね。

 

 

「学びの場に参加するときは、きょうこの場に来られなかった方の代表と思って参加している」とは友人の言ですが、ぜひご自分の現場や持ち場で、なんらかの形でシェアしたり、表現したり、活用してみていただきたいなぁと、場をひらく側も願っていることも、ここに置いておきます。

 

ご参加ありがとうございました!

まだまだ書ききれないことたくさんあるから、みんなで「その後何か変化があった?」を聴くブラッシュアップの会をやりたいな!

 

 

聴く人といえばこの人かな?

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最後に。

 

この本を出版しているムラのミライさんでも講座がひらかれています。

http://muranomirai.org/

わたしは認定ファシリテーターではなく、今回ひらいた勉強会も非公式のものですが、事前に事務局に連絡して、開催の許可をいただいています。

 

テキストはこちらで購入できます。

http://amzn.asia/d/eDWtLu1

江戸東京たてもの園でスマホで人物写真講座、ひらきます!

「今の私スタイルを楽しむ会」ですっかり人物写真に目覚めちゃったわたし。

もっと技術を学びたいよー!ということで、さっそく場をつくっちゃう!!

 

友人でフォトグラファーのさっちーさんと、11/22(木)江戸東京たてもの園スマホで人物写真の講座ひらくことになりました。

 

たてもの園のレトロな建物を背景にたくさん練習を。

撮ってはフィードバック、
レクチャーもらって質問、
撮ってはフィードバック、、の時間をつくって確かな技術を身につけましょう。

 

手軽に撮れるからこそ、
もっといい写真にしたい!
喜んでもらいたい!

そして

理論や技術を知って「変わった!」

をぜひぜひ実感しにきてくださいね♪

 

大人の遠足気分もきっと楽しい。お申し込みお待ちしてまーす。

 

詳しくはこちら!

portraitbysmartphone.peatix.com

 

 

写真講座なのにこのヘッダー画像はスケッチってなんだかよくわかんないですが^^;借り物の写真だとなんだか自分の場のような気がせず、かといってこういう構図の写真を撮るのも間に合わず、これに...。

 

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このフリー素材をトレースしただけ〜

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付き合うのでも、付き合わされるのでもなく

息子と夜の公園をお散歩。カフェでお茶しながら思い思いに過ごして、おしゃべりしながら帰ってくる。この時間が好きな話は、前にもここで書いた。

 

息子が乳幼児の頃に、遊びや関心に付き合うのが、わたしはほんとうに苦痛だった。苦痛を感じているときは、息子をぜんぜんかわいく思えなかった。そのことにずっと罪悪感や後ろめたさがあった。

 

でも、小学校にあがってからの、このまちでの息子との時間は、ほんとうにかけがえがなく、愛おしい。

 

苦痛だったことにも、苦痛じゃなくなったことにも、いろいろ、ほんとうにいろいろ理由がある。

 

ただ、今もし乳幼児をかかえて、同じことを感じている人がいたら、それ変じゃないよ、とまずは言ってあげたい。

 

 


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オネアミスの翼展がやっぱり大きな幸と福だった話

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伝説の最高傑作SFアニメーション映画、「王立宇宙軍 オネアミスの翼」の展覧会を観てきた。八王子夢美術館にて。

 

開催概要はそのうち消えてしまうかもしれないので、八王子夢美術館のサイトからこちらに引用させていただきます。

八王子市夢美術館では、SFアニメ映画「王立宇宙軍 オネアミスの翼」を紹介する展覧会を開催します。

 

王立宇宙軍 オネアミスの翼」は1987年にSFアニメ映画として劇場公開され、その独創性とリアルに描かれた作品世界は今日に至るまで映像の分野で高い評価を得ています。当時、24歳だった山賀 博之監督をはじめ、無名だった若きクリエーター達が劇場向けアニメ映画に初挑戦したことも異例でしたが、これまでのアニメ映画とは一線を画すその緻密な設定や映像美は、当時のアニメ業界に驚きをもって受け止められました。

 

本作はスタッフたちと等身大の青春群像劇を描きつつ、その異世界の設定は美術、デザイン、建築、政治、思想、言語、宗教、風俗、食物、宇宙、工学、衣服、武器など多岐にわたり、その詳細な設定がSFでありながら、作品にリアルな実感をもたらしました。加えて、特に注目したいのが完成映像に使われた設定よりも、実際には使われることのなかった制作過程の素材資料が本作の背後に膨大な数として横たわり、この世界を形づくっていたことです。それらのつくり手の多くは、工業デザイン、建築、美術を学ぶ学生やまだ無名のアニメーター達でしたが、山賀監督は作品にリアルな実感を創出するためには多種多様なセンスが必要と考え、彼らの個性が見えてきたところで得意な分野の素材資料を山ほどつくらせます。

 

しかし、監督はそれらの素材資料を作品中の世界を統一する目的でつくらせたわけではなく、むしろ個々の才能が生かされたアイデアやデザインなどを集め、そこから作品をひとつの世界へと徐々に構築していったのです。このような部分から全体をつくる方法は本作特有の手法といえるでしょう。

 

本展では、主にこれらの制作過程の素材資料を国内で初めて紹介します。中でも山賀監督の制作メモは監督として本作をどのように構築していったかが赤裸々にわかる興味深い内容です。数多くの素材資料を通じ、映像の中で現れるリアルさとはまた違った本作独特のSFアニメのつくり方をリアルに感じていただければ幸いです。

 

 

 

わたしがこの映画を観たのは確か小学校6年生。

 

きっかけは、姉だったか、「アニメージュ」だったか、テレビ放映だったか忘れたけれども、すぐに夢中になった。

 

中学1年生の体育で創作ダンスの授業があり、選曲から振り付けまで自分たちで全部やるという課題が出たときに、オネアミスの翼のオープニングテーマがいい!と言い張り、映画のイメージで振り付けを主導した。けっこうオラオラだったな、わたし...。

 

 

この世界のために文字や言葉をオリジナルでつくったと知ったのも衝撃だった。

そんなことができるんだ!そこまでやる人がいるのか!という驚嘆。

 

 

この偉大さを超えるアニメーションは、わたしの人生で絶対にもう二度と現れないと断言できる!

子どもの頃にリアルタイムでこの作品に出会えてほんとうによかった!!

 

そしてこの展示を見ることができてほんとうによかった!!

 

一緒に行った友だちと熱く熱く語って、あの頃に受け取っていたもの、大人になった今だからこそ見えるものの深さや豊かさに感謝した。

 

当時はこの映画の話をできる友だちがいなかったもんね!これからもたくさん出会っていくんだろう、きっと。

 

ほんとうに生きててよかったと思った作品、展示。胸いっぱい。幸せ。

 

 

場内のモニターで流れている監督のインタビュー(今年の5月収録)がとてもよかった。

この映画のテーマを恐れずに、今、言うならば「いい」ということだ。「いい」とは「愛」といってももしかしていいのかもしれない。24歳の自分から見えていた世界の実感は「いい」だった。そしてこの映画について言いたかったのは「あなたの生きている世界も同じようにいい」ということだったと思う。

意訳するとそんな感じのことをおっしゃっていた。

 

 

大人が本気でつくってくれたものに触れられたことも、10代のわたしを確かに育んできたし、救ってくれたこともあったと思う。

 

感謝。

 

 

 

つらつらとツイッターにメモしたことを貼っておきます。

 

 

見て、たくさん語り合ってみて、今だからわかること、今だから受け取れること、わからなくて知りたいことがいっぱいあって幸せだった。時代とか歴史とか人生とか。時間。とにかく時間を感じている。それからつくるということ。技術。胸いっぱいでこのまま布団に倒れ込みたい。 

 

も一回観よ。 

 

だ、だめだ...空母の画見ちゃったからオープニングからもう胸がいっぱいで...T_T ...

 

坂本龍一の4曲入りの「イメージスケッチ」がお小遣いで買ったCDのかなり初期で。PROTOTYPEってどういう意味なんだろうと思ってた。「リイクニのテーマ」が坂本龍一のスコア集に入っていて、家のピアノで弾いてた覚えある。ほんと好きだったんだなーわたし。世界観!今も赤と青のペンケース使ってるし。 

 

坂本龍一にとっては黒歴史らしいけど、わたしにはとにかくありがたい出会いでした。 

 

おととし「さとにきたらええやん」を観に行ったときに、配給会社・ノンデライコって出て、うわってなって、それで思い出したりなー。いやはや。 

 

今見るとここまで宗教にハッキリ踏み込んで表現してたのがすごいと友だちと話した。暴力、性、人と人との理解し得なさについても誤魔化しなし。誰にも共感できないこと。誰とも友だちになれなそうなこと。説明がないこと(ないけれども背景や経緯や歴史を持っていること)。ゆえに没入できた世界。 

 

死への恐怖が描かれないところはまだよくわかっていないのだけど、人類を彼一人に背負わせてみる試みのほうが大きかったんだろうか。死への恐怖にふれると物語がだいぶ違ってしまうわなぁ。。 

 

人工衛星の説明をすごくよく覚えてたし、すごくよく理解できてたって話も友だちと共通してた。「地平線の向こうに果てしなく落下」っていう。あのシーン実は1分にも満たなかったなんて。。すごい。。。 

 

それから夢が叶う瞬間って、当初思っていたルートとは全然違う、まったく想定していない形で現れるっていうことを最近つらつら考えていたから、あのシーンは音楽も含めて美しくて涙出る。ほんとうになんだかいろんなことが含まれている。これを20代前半の人たちがつくるってなぁ...ほんとうに...。 

 

その、劇中に登場する若者たちとまったく同じように、つくる自分たちの青春の日々が綴じこめられているところは、「ちはやふる-結び-」にも感じた美しさ。もう二度とない若い日のきらめき。 

 

きょうの展覧会すばらしすぎて、思い出すからもう一気に見られなくて、あほかってぐらい休み休み見てる。 

 

なにこれ「王立宇宙軍制作記録集」ってあったの?ヤフオクで15,000円からかーうーわーー 

 

庵野秀明の「破片」、文字と外国語、音、詩...ぜんぶが美しいなぁああ

 

カニックのことはまったくわからないが、説明を読んでいるだけでその設計の奥深さを感じ取れる。詳細に設定された美術、デザイン、建築、言語、宗教、風俗、食物、宇宙、工学、衣服、武器等の各分野に精通した人たちの鑑賞体験を聞けば何度でも理解し味わえる。それに耐える強度を持つ作品。 

 

 

ちょうど目黒の庭園美術館アール・デコ展を開催中。もともと行く予定だったけれど、さらにオネアミスの世界と重ねて見るのもおもしろそうだなぁ。

www.teien-art-museum.ne.jp

華やかなもの、良いものを堂々と

先週は9月から3回ひらいてきた「今の私スタイルを楽しむ会」、今季の最終回を迎えました。

過去のレポートはこちら>   

 

 

わたしは今回もクミさんのサポート&アシストしつつ、自分もスタイリングしてもらったり、午後からのお買い物同伴を楽しむというポジション。

こういう役回りも実はすごく好きで、応援している場にいるのは心地よくて、楽しくて、うれしいです。

 

 

今回は、皆さんのお悩みやここにいる理由を分かち合う時間を冒頭に30分ぐらいとって、丁寧にひらいていきました。それがよかったなぁと思います。

その日の場のメインが、内面にはたらきかけていくもの(今回なら「装う」)を扱っているからこそ、心も体も時間も余裕をもって臨まなければならないんだなと、学びと自省がありました。

 

今回もクミさんが、事前に描いたスタイル画を元に、5〜6回ぐらいのコーディネートを提案していくのですが、人が違い日が違うと、やはり同じことは起こらず、今回は今回ならではの、とてもよい時間になりました。

一人ひとりと場に起こっていく変化を感知していくクミさん。
冴え渡っていて、すごかったです。ご本人はまだ7割ぐらいだとのことでしたが!

皆さんもノッてどんどん楽しんでくださってよかった!

 

 

ファッションに意識を向ける、興味を示す、おしゃれをすることに心のブロックがあってなんとかしたい!という方が多く、その原因は生い立ちの中にあった出来事や、親子関係だったり、ジェンダーギャップだったりする。でもそれ自体にアプローチしなくても、着ている服を変更するだけで、装いの力は内面にどーん!とはたらきかけて、いとも簡単にそのブロックを外してしまう。

それはほんとうに爽快な体験だし、その体験を経て内面の輝きを放つ人を見ているほうもほんとうにうれしくなってしまうのです。

 

 

 

 

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スタイリングが終わって、お買い物に行って、帰ってきてからはチャットスレッドでの感想のやり取りが止まらないのも楽しい(そして今もまだ続いている)。

 

そこでいろいろやり取りした中でわたしが印象的だったのは、まずこれ。

 

 

「中年期のほうが堂々と着られる」

 

この半年、くみさんにファッションの愉しみやたくさんのコーディネイト例を見せてもらってきて、今かなり充実のワードローブになっています。

どう使えばいいかわからなかったあの服もこの服も、このアイテム一つ買えば、無難路線じゃなくて素敵路線で引き立て合えること。10年前から眠ってたあれらを活用できる日がようやく来ていると知ったこと。

 

 

特に時計。20代後半から30代前半の、中身が伴っていなかった自分が、見栄や自信をつけるために買ったような品。

長い間電池も切れて止まっていたので、先日思いきってオーバーホールに出してみました。戻ってきて新しい装いに合わせてみたら、ぴったり!

ようやくそれを身につけるにふさわしい中身を伴ったように、しっくりと感じました。追いついたような気持ち。

そして、時計そのものだけではなく、わたしの止まっていた時間も動き出したように感じました。

 

それに対してクミさんが、「堂々と華やかなもの、良いものを身につけられるのは、それだけの人生を背負ったから」と言ってくださったのがうれしかった。

 

認めて、受け入れて、感謝して、愛することができる。

 

 

 

それから、「年齢や役割相応なんか知らん!」


という話題も出ました。体型にとらわれない、むしろそれを生かし、色や形や素材の力を借りて、自分のわくわくとつながって表現を楽しむファッションが、今まではあまり目には入っていなかった(あるいは入らないようにしていた)ことにも気づきました。目に入るのは、「仕事に使える」「無難」「着まわしが楽」「年齢に相応しい落ち着いた」スタイル。そこには、「わたしってこの程度」にしておきたい心理も見え隠れする。

 

世界は自分が信じているものが、信じているように見えているだけ。

人は自分が信じる世界に生きることができる。

 

もっと世界は遊べる!もっと楽しんでいこう!

そしてそれは自分が楽しく美しく装うことから!

 

 

「範囲を広げてしまったら、自分に選び取る力がないから大変なことになってしまうのでは?」ともわたしは思っていたんだけれど、実はもう自分が何を好きか、どう着ればいい気分になるかも、十分にわかっている。

さっきの時計の話ともつながるけれど、成熟した自分になっていることを、ただ認めるだけ。それが装うことで身体ごと理解できたことがよかったです。

 

 

それから、これはわたしの個人的目覚めですが、人物写真を撮るのが楽しい

毎回、皆さんの試着した姿を今後の参考にしていただくべく、スマホのカメラで撮っているのですが、第2回のあとにSNSのプロフィール写真をわたしの撮ったものに変更してくださった方がおられました。そのときに、「写真を撮ってこんなに喜ばれたのは初めて!」とこれまでにない幸せを感じました。

 

実際に撮っていてもすごく楽しかった。

そこから「技術を伴ってもっと表現できるようになりたい!」と気持ちがわわーっと盛り上がって、さっそく「スマホでプロ並みに撮る写真講座」をプロにお願いすることにしました。11/22にひらきます。

 

 

豊かな場は、豊かな副産物を生み出します。うれしいな。

クミさん、スタイリングの会にご参加くださった皆さん、ありがとうございました!

 

 

次は春かなー? 楽しみにしております^^

 

 

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KLASSの講座についてお知らせ

お知らせです。

 

今年の4月からひらいてきた「まちの教室KLASS」の定期講座を10月末で終了することにしました。

 

 

予定していた講座については以下のようになります。

 

11/4(土)・11/18(土)「また行きたい!と思える場をつくるゼミ」

http://klass.hagiso.jp/class/bazukuri3/

休講します。今後また内容や形態をバージョンアップして開催する予定です。

 

 

12/22(土)「自分の今とこれからを見つけるコラージュの会《冬至編》」

http://klass.hagiso.jp/class/collage3/

日程や内容は変わらず、会場のみ変えて開催します。

決まりましたら、このブログ等でご案内します。

 

 

お申し込み済みの方には各自ご案内しておりますが、ご検討中の方がおられましたら、大変申し訳ありません。

 

 

KLASSの皆さまにはこれまで様々なチャレンジをサポートしていただき、受講してくださった皆さまには素晴らしい時間を共にしていただき、心より感謝申し上げます。

 

 

このお知らせについてお問い合わせはこちらまでお願いいたします。

 



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こどものわたし、おとなのわたし

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きのうふと思い出した。
「よそのうちはああなのに、うちは違うのなんで?」
「〇〇くん・ちゃんもみんな持ってる・やってる、だからわたしにも買って」
とわたしは小さい頃、親によく訴えていた。


 
でも、わたしの息子は、親のわたしにそのようなことをあまり訴えてこない。

ということに気づいた。

 

確か一年生の頃によく言ってた気がするけれど、一時期だけだった。覚えているのは、「うちはなんでかぞく一緒に暮らせないの?」と「Nintendoスイッチ買ってよー」ぐらい。

 

どちらもわたしにそうできない・しない理由が明確にあるので、息子の気持ちを受け止めつつ、実感からの言葉で丁寧に説明を繰り返すだけで、そのうち本人がなんらかの解決策を見つけたり、それにわたしができる範囲で協力することで、そういうやりとりもいつしかなくなっていった。
 
「〇〇くん・ちゃんはすごいなー。ぼくはどうせ〇〇だからダメだ」
という友だちとの比較やランキングの言葉も、少なくともわたしといるときにはあまり出ていない。
「〇〇くんはああだけど、自分は不得意だから別にいい」はよく言っているかも。
でも、これから思春期が深まっていくにつれてもっと出てくるのかな。
 


わたし自身が子どもだったときは、ほしいものはどんな些細なものでも、親に普通に話してもダメで、声が枯れるほど泣いて訴えないと手に入らなくて、そうまでしても簡単に退けられたり、嘲られたり、辱められたりして、「欲しがる」と「戦い」はほぼ同義だった。欲しい理由を聴いてももらえないし、ダメな理由もまったく説明されなかった。代わりに全く欲しがっていないものが与えられることもあり、それを喜ばないと怒鳴られた。
 
次第に欲しがることや望むことを我慢して、これが与えられないのは自分に価値がないせいだと引き受ける習慣がついて、でも喉から手が出るほど欲しいから、自分や人を騙したり誤魔化してそれらしきものを手に入れたり、持っている人へ憎しみを募らせ、キレて、そういう自分を嫌悪し、また価値を下げ、、、

そのパターンから抜けるのに何十年もかかった。それでも今もまだ怒りや恥の感情を扱うのは苦手だけれども、見ていくといろいろ発見があるし、道もひらけるのもわかっているから、怖れはない。

 

歳を重ねると怖いものが減るというのは、こういうことなのかもな。


 
息子がこれから通過するのは、そのような環境下で生き延びるために身につけなければならない自己不信、自己否定、自己嫌悪、自己肯定感のありえないほどの低さ、あるいはその反動で起こる自意識の肥大、支配欲求、、などとは違う道のような気がしている。
 
わからないけれど。

わたしとしては希望にあふれたものであってほしいので、息子への、人間全般へのあたたかな愛情と関心をもちながら、わたしも自分を見つめ続ける。行いやふるまいや言動を見直し続ける。

息子の「やりたい」「やりたくない」には寄り添う、息子の問題として大切にする。
 
 
 
わたしの父親も母親も、世代や時代の問題(暴力、抑圧など戦争の疵)にさらされていたことに加え、今で言えば名前のつく特性をもった人だと思う。でも子どもにはそんなことはわからないし、わかったところで親を選べない、環境も変えられない。
 
息子と二人暮らしをはじめた頃はわたしも一人で背負う不安とプレッシャーやその他の事情から、些細なことを極度に禁止したり、抑制する時期があったけれども、だんだん自分の人生を生きるほうへ進むにつれて、「ちゃんと(母)親をやらなければ」という縛りが解けて、息子とも愛と信頼のある関係が育めるようになった。そういう日々を営んで、もう何年も経つ。
 
 
子に対して禁止事項を強いたくなったときに、自分の中の「何から」言っているかを見つめてみる。怖いけど、見つめつづけてきてよかった。自分が禁止されたこと、望みや願いを大切に扱われなかった痛みと無力感で、今も泣いている小さい自分がいるかもしれない。
 
小さなわたしを抱きしめて、もう大丈夫だよ、わたしがいるよ、今まで放っといてごめんね、と助けに行くイメージをもつ。手をつないで、隣に座って、髪をなでてあげる。
 
そして、「大人になったわたしが叶えてあげる」と小さなわたしに約束してあげる。
 


ほんとうに、もうその力が十分にある。
自分自身の実感とつながって、十分に望んで、十分に叶えられる良い循環。
あるものを入手する「選ぶ」だけではなくて、場所を変えることや断ることの「選ぶ」もできる。
 
いっこずつ、小さくでも。
 
あるからねー!という気持ちで、ここに置いておきます。


 
 
 
この話、11/16のちほさんとやるトークライブにも関係ありそうだなぁ。

liveandbeauty2.peatix.com