ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

本の片付けに取り組んでみた長い記録

片付けから学ぶことが多くて楽しいので、ついにカテゴリをこしらえてしまった。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

 

今回は本の片付けについて。

 

取り組んだのは理由があって、1月の中旬に競技かるたの大会があって、それに向けて身辺を片付けておこうと思ったから。競技かるたと片付けの話はこちらに。

 

昨年の春からずっと片付けに取り組んでいたが、本については手をつけていなかった。本はわたしにとって相当の難物なので、これに取り組むとだいぶエネルギーを持っていかれてしまうので避けていたのだ。

しかし今回のに出場するにあたって、なんとしても強さを上げていきたい!今本を片付けたら何かが起こるような気がする!なんならこの先の運気も上げたい!という根拠は特にないがやたら強い衝動に押されて、片付けをはじめた。

 

部屋をよく観察すると、いつのまにか、本が50冊本棚に入らずにあぶれている状態となっていた。この一年特にたくさん考えたし、たくさん創ったからなぁ、とまず自分を労う。

 

片付けの目標は、「家にあるすべての本を整理して本棚に収める」と決めた。

 

もともとわたしにとって本は増やしてもいいものとしてある。

小さい頃に、父親から「本だったらいくらでも買ってやる」と言われていたのを今だにお守りのように持っているわけだ。(もちろん今はお金を出しているのはわたしなのだが。。)それで気づくといつも山のようにあふれてしまう。そこについてもあまり責めない。自分と仲良くするのがわたしの片付けのコツ。

 

 

わたしの片付けアドバイザーであるところの妹殿は、本の片付けはどうしているのか、聞いてみた。

雑誌、手芸、子育て、漫画、古い文庫、自己啓発の本が中心で、使用頻度で要る要らんを決めてる。見たいところだけコピーしてファイルするとか。

という返事がきた。

 

他にネットでも「本の整理収納」「本の片付け」、などで検索してみた結果、これは人のは参考になるようでならんかも、ということに気づいた。

その人が本とどういう付き合い方をしているか、どういう思い入れをもっているかによって全然変わってくるようだった。そしてわたしと似たような関係を本とつくっている人の手法は見当たらなかった。

 

「わたしにとって本とは」

 

わたしにとって本は情報ではない。

わたしにとって本は旧友だ。

 

また、去年散々「積読本をひらく読書会」をやってみて、本というのは単純に読んでいるかいないかで要不要が測れるものではなく、一度もページをひらいがことがなくても、ただそこに存在するだけで価値がある本もある、ということがわかっている。

 

片付け指南の本を見てていまいち納得がいかないのは、人間が本棚に入れているものはそんなに単純じゃないんじゃないか、ということだ。

 

わたしなりの本の片付けのセオリーがあるんじゃないか?それは一体なんだ?

探ってみよう!そしてそれを記録しよう!

とだんだん意欲がわいてきた。

 

 

 

 

まずは全量把握のため、本をすべて棚から出した。これで1/10〜1/15ぐらいか?


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1時間かけて全量を摘出した。

この日は20分のスカイプセッションを入れていたので、途中のインターバルとして聴いてもらうことを楽しみに、アラームをセットして作業をした。

それからご褒美をセッティング。終わったらお風呂に入って、行きつけのカフェで美味しいものを食べて、昼寝をしてもいいことにした。

 

ぜんぶ本を出してから、本棚の棚板の高さが合っていなかったことが判明した。よくこれで4年も本を載せてたなぁ。出してみたからわかった。

出してみると、見覚えのない本や「使ってない」本はなくて、どれも常に参照していることがわかった。

 

ここで息子の本にも手をつけようかと思ったが、やはり本人不在のところでさわるのもどうかと思い、別日に相談することにした。わたしは人と蔵書が混ざるのが嫌なので、息子の本は息子の本で棚がきっちり分かれているので、片付けやすい。

 

 

さて、この次はどうしよう?と考えた。

 

本棚の大きさや高さも考え、形態(雑誌、絵本、文庫本、単行本など)とジャンルを合体させてカテゴリ分けした。その結果、こんな感じに分かれた。

・画集、写真集、図録
・単行本の小説、エッセイ
・雑誌、ムック
・文学、本、読書、読み聞かせ
・語学
・古典文学、百人一首、競技かるた
・宗教、歴史
・政治経済、社会、心理
ファシリテーション、対話の技法、場づくり
・美術、建築、舞台芸術
・パンフレット
・漫画
・絵本
・文庫本
・レシピ、園芸
・ガイドブック
・楽譜
・その他(本のコピー、勉強のノート、チラシ、小冊子、Zineなど)

 

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カテゴリ分けしてみて気づいた!

つまりここはわたしの私設図書館なのだ!!!

図書館の本もカテゴリー別に分類されて所蔵されているように、利用者がわたしだけの図書館という視点で本を整理すればいいのだ。


そう考えると、図書館の除籍の方針も参考になるんじゃないか?と思い、調べてみた。

 

以下wikipediaより引用:


●除籍(じょせき、英語: Weeding)
図書館において図書原簿から図書館資料を除去すること。資料の収集とは逆の行為であるが、収集と除籍はしばしば同じ思考プロセスをたどることになる。除籍はコレクションを最新・適切・良好な状態に保つために極めて重要なプロセスであり、継続的に行われるべきである。
「よく管理され、よく絞り込まれたコレクションは、古くなったまたは不要な資料でいっぱいになったコレクションよりもはるかに役に立つ」という考えに基づく


●除籍方針
内容が不十分である
内容が時代遅れである
内容に偏りや差別的・性的なものが含まれる
内容が利用者の求めるものと合わない(または学校のカリキュラムで扱われない)
内容が利用者にとって高度すぎるもしくは低度すぎる(学校図書館にとって特に重要な問題)
状態が不十分である
資料が修復困難なほど破損している(ページの破れや背表紙の損壊)
資料が汚損している、異臭がする
資料が次の貸し出しに耐えられない
利用状況が不十分である
一定期間に資料が利用者から使われていない
その他
蔵書の重複(副本が不要になった) - 一時的に利用が増大した資料は同じものを複数所蔵していることがあるが、需要が落ち着けば除籍される[5]。
他の資料に同じ情報がある
資料の交換が行われた
視覚的訴求力に難がある(芸術作品を含む)

 

さらに公立図書館大学図書館の除籍方針なんかも検索してみた。

いくつか見てみたところ、収集方針と除籍方針は表裏一体だということがよくわかった。図書館の性格によっても何を良し、何を貴重とするかは各々なのだ。ふむふむ。

 

この図書館はわたしのためにある。

ならばそこに収められている本は、わたしが一番必要としていて、読みたい、使いたい、残したいという本があってほしい。

 

 

ここでついつい収納しながら分別すると時短なのでは?という考えが頭をかすめるが、整理収納はまずは整理してそれから収納する、という順番だったことを思い出して、「残す・手放す」に注力した。

 

この顛末をFacebookでいちいち中継していたので、友人がたくさんコメントをしてくれたのが一人じゃない感じでうれしかった。「せいこさんにとって本の持つ意味が重そうだけど、がんばれ」「せいこさんが本を片付けたらまた何かが生まれそう」など、とても励まされた。

 

しかし作業を進めても、手放す本があまり出てこない。これはどういうことなんだろう?

今のままで十分魅力的な書架ということなんだろうか?

残しておいてもいい。強い拠り所があるというのはいい面もある。でも何か新しいものが入ることを阻害している気もする...。

 

以前、一箱古本市に出店したときに蔵書からどれを出そうか考えていたときに、「うちの本棚にあってほしいか、この世のどこかにあってくれればいいか」という基準を発見した。

 

そんなことを思い出して使ってみながら、結局あぶれていたのと同じぐらいの50冊を放出できた。

 

 

次は収納。本を収納する場所は3ヶ所ある。それぞれに何を入れるかをまず決めた。

  • リビングのスライド式本棚
    後面はすぐに手に取らないがあるとよい「資料」と大型本を中心に。全面は使用頻度の高い資料と、や美術書を中心に。

  • リビングの木箱の本棚
    近々読みたい今関心が高い領域の本、目に入ると気分がよくなる文芸書を中心に。最上段は図書館で借りている本、人から借りている本を置く。

  • 寝室の本棚
    寝る前にパラパラ読むとよく寝られそうな本、星占い、雑誌、漫画など気軽な本を中心に。

に分けた。

 

終わったときには、結局18時になっていた。

一日がかり。

 

爽快だった。

本棚に並んでいる本はどれも好きで興味があってすぐに役に立つ本ばかりだった。

 

 

住まいの環境の快適さを諦めない。

諦めない姿勢を持ち続けて、行動もしていくとひらける。

そのことをまず思い出した。

 

 


中継を見ていた友だちが、気になってたリネン類70L3袋ぶんを寄付したり廃棄したりして処分したとコメントをくれた。

 

おお、わたし、いいことをしたじゃないか!

 

前にも、わたしの一連の片付けのブログ記事を読んで、片付けが進んだと友人に言われたこともある。具体的な片付け手法についてはまったく書いてはいないのだけれど、取り組んでいる姿勢やわいてきた感情、熱みたいなものは伝染するのかもしれない。

 

また、同じく投稿を見ていてくれた友人が、文庫をつくりたいので、要らなくなった本を譲り受けたいと申し出てくれた。チャリボンにするか欲しい人にあげるか、いろいろ考えていたので、これはありがたかった。

 

 

 

 

片付けをしてわかってきたのが、わたしの特性。

  • ものすごく気が散りやすい
  • 集めグセ
  • 目につくところにないと忘れてしまう(気がして怖れる)
  • 空間把握が苦手
  • パニクりやすい

で、それらが合体すると散らかるようだ。

 

これが解決できるように、できるだけシンプルに、片付けにエネルギーを使わないように、と思っているのだけれど、まだこのあたりは模索中。

 

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今回一番うれしかったのは、「この世にはわたしが好きなものがたくさんある!」と幸せな気持ちになったことだった。ここにあるぶんだけでも、世界のいろんな秘密や謎のことが書いてある。一冊ごとに宇宙がひろがっている。そしてこの世にはたくさんの本が存在していて、宇宙はどこまでも果てしなくひろがっている。。そんなことを考えてうれしくなる。

 
また、本棚を眺めていて、本の背表紙っていっぱい字が書いてあるんだなぁ、なんてことにも気づいた。家にいるとだいたいどこにいても本棚が目につく。言葉がいつも目に入ってるんだ。そしてわたしにとってそれがものすごく落ち着くということなのだ。自分のことをまたひとつ知れたのもうれしかった。

 

 

蔵書を生かして、いろんな魅力的な場を生み出していけそうでもあり、楽しみ。

 

わたしなりの本の整理収納、片付けの方法が見つかって、とてもうれしい。

本好きな人の参考にもすこーしなったりするとうれしいです。

 

 

 

noteで配信中のラジオで、整理収納アドバイザーの友人と片付けの話をしています。

note.mu

ほんとうのKJ法に少しふれた話

KJ法 の「花火」技法で2019年を描いてみる会に参加した。

募集文はこんな感じ。


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KJ法って付箋や紙片に書いたキーワードをカテゴリ分けしていく手法のことでしょ?」って思っていたら、主催の由貴さんから、「わたしもそう思ってたんだけど違うんですよ、すごく対話的で深いらしいんですよ」と聞き、へーっと思ったのが去年の秋ぐらい。

 

そのときに、これを発案した川喜田二郎さんの著書も教えてもらった。

KJ法―渾沌をして語らしめる」

...あ!川喜田(K)二郎(J)!!!

タイトルにじわじわくるし、、しかもこの本580ページもあるよ。

ほんとうに上に書いたようなことなら、そんなにページ要らないわけで、、

これはなんかあるぞ!しかも伝道者から学べる機会はそうそうないぞ!

ということで、参加した。

 

 

もう少し参加にあたっての動機を書くと。

普段からメモ魔のわたしだが、まずメモをどこかにやってしまうのが悩みである。(これはKJ法でもどうにもならなそうだけど!)

メモを元手に何かをつくり出すときに、重要度や優先度に基づいて実行するのが苦手で、とっちらかってしまうことが多い。取りこぼしたものの中に大事なものが入ってるんじゃないかと気になってしまう。

付箋をつかったワークショップへのアレルギーもあった。付箋にキーワードを書いて分類されたときに、書いたことが自分から分離しすぎたり、意図をくんでもらえていない気がしたり、ネタとして使われただけ、など、どこか気持ちがついていかない感じがあったのが気になっていた。

 

 

 

ファシリテーターは、この道32年の宗形憲樹さん。

茨城のひたちというところからいらしているそう。(日立市ひたちなか市?どっちでもない町?今度聞いてみよう)

 

KJ法に関する宗形さんのエントリー

munaken.hatenablog.jp

 

 

参加してみての第一感想は、とにかく、すごくおもしろかった。

頭も感覚も身体も使うから、すごく好みだった。丁寧で温かで人間らしい手法だ。

 

わたしが他で日常的にやっていることとも関連があって、言わんとしていることは部分的にではあるけれど、理解できていたと思う。

例えば感覚を大切に配置する話は、競技かるた、コラージュ、写真、ポッドキャスト、片付けで大切にしていること。

言語化する話は、新月のリストでやっていること。

 

↓ なんか近いことをやっている気がする(ポッドキャスト収録のときに使った地図)

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宗形さんが用意してくださった資料が2cmぐらいもある分厚さで、特別な紙だったり、中身は詳細でしかもわかりやすい流れで、こうして一つひとつ丁寧に準備してきてくださったのだなぁということが伝わって、それだけでもう、うれしい。

 

さすがに長年培われてきただけあって、一つひとつに根拠があり、体系立っている。そういうものを順番に手渡される過程では、自分の中の既にある体系が、ぐぐーーっと手を伸ばしてつかみとろうとしているのを感じる。

 

わたしの好奇心がとても喜んでいる、という感じ。

 

 

 

その中でわたしが受け取ったことや印象や感想を備忘的に並べる。(間違ってることも多々あると思う!)

  • KJ法は「考えたいこと」をより広く深く考えるための発想法。KJ法でつくった図解は、自分なりの納得のいく答えを見つけたり、選択するために力をくれるものになる。「分類」はその要素の一部でしかない。まして、目的ではない。
  • 付箋は使わない。
    小さなタックシールを使う。貼るまでは動かしやすく、貼ってしまうとはがせない。時間帯が変わる、モードが変わることが、道具の変態によって意識的になる効果がありそうだ。
  • キーワードで書かない。文章にする。
    付箋を使わない、固定するシールを使うということと、キーワードではなく文章で書く、ということが、大いなる誤解だった!と思った。
  • 「考えたいこと」に至るための「問い」を立てる。この問いの立て方にもコツがありそうだ。答えを出しやすい、自分が答えを出そうと意欲的、協力的になれる問いなのだろう。

  • 問いに対する答えをひたすら出していく時間がある。ここはブレインストーミングなので、時間に制限をかけつつ、出尽くすまで出し、分類や評価はしない。

  • 出したものをピックアップする段階では、要らないものを捨てるのではなく、要るものを残す。このへんが実に片付けっぽい。

  • 関係性を見ながら進める。関係性であって、整理分類ではない。このあたりがもう少し経験を積みたいところ。

  •  表面的な言葉だけに引っ張られず、言わんとしていること、願いをすくいとる。言い換えや要約の力、聴く力が求められる。
  •  階層が上がっても、元のラベルに書いたエッセンスが失われないようにすくとってすくいとって、最後に結晶のような文章にする。細かく見たければ最下層まで戻れるし、最上層だけ見ても、なんのことか思い出せる。

  • 一人でもグループでも作れる。みんなで作っているときは、機会が等しく与えられている良さがある。他の人に伝わるように、みんなにとっていいものになるように文章をつくろうとする力がより働くのもいい。参加、貢献の実感がある。

  • 最終的にできるものは図解ではあるけれど、わりと言葉に偏ってはいるので、ここにもっとイメージが強くなるような象徴するイラスト、写真、などを貼りこんでいくともっと自分にとって特別なものになりそう。逆に今までやっているコラージュを最後見える言語にも落としていくといいかもしれないというアイディアもわいた。(今は発表で話してもらっているので、見える言語としては残っていない)

  • 後半の個人ワーク「わたしが2019年にやりたいこと」は、今一歩自分で納得するものができなかったので、あらためて作ってみたい。

  • 宗形さんが見せてくれた、タスクリストをKJ法で作ったものが楽しくて効果がありそうだった。あれにもこれにも使えるのではないか、といろいろ試してみたくなった。

  • 今年は仲間と本をつくるプロジェクトがあるので、そこでも生かしてみたい。クライアントの話を聴くときにも使ってみたい。

 

 

考えや思いは自分のものだけれど、自分の中にあるときにはそれと気づかないことも多い。こうして出して見えるようにして、味わって、またそれを食べて栄養にして、、自給自足な感じ。さらにこれをもって人に説明することもできるし、人と交流もつながりも生み出すことができる。

表現ツールのひとつ、という気もした。

 

 

熱意をもってひらいてくれる人がいるから学べ、仲間がいるから学べる。

講師の宗形さん、主催のお二人、参加者のみなさま、ありがとうございました!

 

 

主催の由貴さんのレポート。言語化、ありがとう。

blog.joyliving.org

 


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かるたの大会前に部屋を片付ける話

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競技かるたの大会前に、片付けをするようにしている。

今回は本の片付けをしたのだけれど、それを書く前に、「競技かるたと片付け」その二つがどう関係あるのか、考えてきたことを書いてみる。

 

 

どんなスポーツや競技でもそうだと思うのだけれど、競技かるたも体力と精神力をものすごく消費する。

一つの試合がだいたい80分〜90分ぐらいはかかる。

(競技かるたの大会について詳しく知りたい方は、こちらの記事がとてもわかりやすくまとめてくださっているのでぜひ)

 

大会の前には練習時間を多めに作って、当日に向けてフォームや技術を仕上げていくことが大切。そして、練習以外の時間で調子を整えておくことも、同じぐらいとても大切だと思っている。

 

わたしが特に大会の2週間ぐらい前からゆるゆるとやっていること。

  • お酒をストップ(普段からアルコールに強くないので、お祝いの席ぐらいでしか飲まないけれど、この期間は完全に飲まない)
  • コーヒーは1日1杯〜2杯。全く飲まない日もつくる。
  • 食べたいものを自分で料理して腹八分目に食べる。
  • 夜は胃に負担のないものをなるべく早い時刻に食べる。
  • 炭水化物、砂糖、果糖は控えめで、タンパク質を多めに。
  • 8時間以上寝る。
  • 仕事や家庭や人間関係などで気になることはできるだけ回避したり、自分なりに片をつける。
  • 部屋の片付けをする。


こんなふうに身も心も快適で軽くしておく。

その一貫としての片付けなのである。

 

 

たとえば部屋が散らかってると、その状態を見たくなくて目に入ってても、見えないように自分を麻痺させるから、感度が鈍くなってる。逆に片付けるとひらめきが出てくる。

 

競技かるたでは、この感度やひらめきの部分がとても大切だ。

対戦では、百枚を裏返しにして、半分の五十枚をランダムにピックアップしたものを使い、そのうちさらに二十五枚ずつを相手と自分とで分ける。場には五十枚しかないが、読まれるのは百首。読まれても場にない札、つまり空札が半分ある。

この読み上げられる順を感覚をはたらかせて、読む(ひらめく)力が必要になる。

 

 

また、競技者は「定位置」と呼ばれる、何の札がきたらどこに置くかをあらかじめ決めている。これは競技者の数だけバリエーションがある。

この距離のこの隣の位置にこれがあるのがしっくりくる、考えなくても自然と手が伸びる位置にあって取りやすい、印象が強い、というような言語化できないエリアの感覚を使っていく。

 

試合では実際に並べたら、暗記をする。「なにがどこにあるか」と「どこになにがあるか」の両方の視点を持ち、交互に確認していく。

それを身体ごととらえているので、空間認識能力が上がる。

 

その定位置は、どの札の組み合わせでどの札が自分の陣にくるか、音が途中まで同じ札(友札という)を相手がどこに置くか、自分の調子によって最初に置く場所も変える。試合が進むと札を送ったり送られたり、枚数が減ってくるうちに場所は刻々と変わっていく。どこに置くとどのように取れるか、取られるか。そして次にどの歌が読み上げられるか。常にひらめきと臨機応変さが求められる。

 

そして、日々練習を重ねる中では、自分の変化や成長に合わせて変更したり、崩したりもしていく。そして取りづらいと思っている位置にある札、苦手な札がなくなるように実践で調整していく。


こういう対戦を重ねていく中で、「わたしには状況を変える力がある」という信頼、自信など、「信」という感覚が持てると強い。よい取りができる気がしている。

もちろん勝つか負けるかは時の運なので、わからないが、自分のかるたができたかどうかで、試合のあとの後味は全然違う。自分のかるたをするための、様々な調整なのである。

 

 

 

上に書いたことが、そのまんま片付けにも当てはまるように思う。

居心地の良さ、使えるものが置いてあること、動作のしやすさ、今の自分に一番ぴったりにさせてあること、優先順位がついていること、心身が軽いこと。

自分の生活を頼もしく支え、外での活動を送り出してくれる部屋にしておく。

それらは自分の力で変えていける範疇にある。

 

週に一度の練習や1〜3ヵ月ごとの大会がいい節目になって、自分の生活や人生が整うのはありがたい。貴重な練習のために、貴重な大会のために体調を整えておこうと思うし、それに向けて身辺整理をしておこうと思える。そしてやると実際に効果がある。いいことしかない。

 

 

片付けにも節目やサイクルを導入してみるといいかもなぁと、最近はカレンダーのアラート機能を利用して、「洗濯槽洗い」や「書類整理」や「冷蔵庫掃除」などをしている。もちろんわたしは大雑把なところはびっくりするほど大雑把なので、できないことも多い。でもできたときの爽快さが好きで、計画をする。

自分には計画性がないと思っていたが、ひとつ身体性を伴った成功体験があると、動機が明確になるし、プロセスにも意味があることがわかっているからサクサク進むのだということもわかった。

 

 

一つやっていることが他にもよく作用するのは楽しい。

 

「心の声と体の声はちょっとだけずれている」を読んで

吉本ばななさんの有料メルマガ(note)を購読している。
最新の配信を読んで、思い出したことを書いてみたい。

 

 

先日の競技かるたの大会で、めでたくC級初段に昇段することができた。

大会というのは不思議なもので、今までわからなかったことや努力してもなかなかできなかったことが急にできたりする。一気に成長させてくれる、ありがたい機会なのだ。

 

今回も不思議なことがいろいろと起きた。そのうちのひとつ。

 

試合がはじまって読手の声がよく聴こえない、ということが起きた。

 

序歌を詠んでいる時点で、「おや?なんだか声が小さいぞ、よく聴こえないぞ」となり、一枚目が詠まれて、「うわっ気のせいじゃない、ほんとに声が小さい」となった。思わず対戦相手と「聴こえにくいですね」と交わす。周りの選手たちも少しざわついている。

わたしが座っていたのは読手から一番遠い場所。とはいえ、マイクを通して詠んでいるので、場所による有利不利があるのか、実はあまりよくわからない。

 

二枚、三枚と詠まれる。取ったり取られたりしているが、わたしも相手もお互いに聴こえづらいために、いつもよりだいぶ遅いタイミングで取っている。

 

今、手を挙げて、運営スタッフの方に「聴きづらいです」と訴えようかな、と一瞬思った。

既に流れはじめている場に介入するって、なかなか言い出しづらい。でもわたしは場における数少ない大人なので、「子どもたち」に代わってそういうことを引き受けたほうがいいのかもしれないと思った。もちろんリクエストを出すこと自体は許されているし、そのことが受け入れられなくても、批判されることはないはずだ。

最悪、「詠みが聴こえなかったせいで負けた」という形にはなりたくなかった。それならば早めにその状況を改善するほうが、前向きで正当なように思えた。

でも同時に、今ここでリクエストを出したら、会場にいる600人ぐらいいる選手や引率の方たちが一斉にわたしのほうを見る。聞き入れられてもそうでなくても、そういう大きな波紋を起こす動きをしたことに、わたしは絶対に激しく動揺するだろう、と想像した。まして聞き入れられない場合はどんなに恥ずかしい思いをするだろう、とも。

 

そのときハッと気づいた。

普通に取っている人もいる!!


聴こえないねと動揺する人たちに混じって、取っている人が確かにいる。しかも数人ではなくてたくさんいる。

取っている、ということは、その人には聴こえているということだ...。

 

反射的に、「その人は特別に耳がいいので聴こえるのであって、わたしはそれほど耳もよくないから聴こえなくて当たり前なのだ」という言い訳が心をよぎる。「読手の声が小さくて、よく聴こえなくて負けた」という人の話も聴いたことがあった。

もしわたしが同じように言ったら、「不運だね、そういうのあるよね」と同情してもらえたり、「なにそれ、運営ちゃんとやってるの?」と恨みの感情を一緒に燃やしてもらえたり、するかもしれない。「自分に嫌なことをしてくる何か」を据えるという道を歩いたこともあるので、容易に想像できる。

 

でも、そのときわたしはそちらにも行かなかった。

何をしに来たかといえば、試合だ。試合をしに来たのだ。

畳の上に座ったら言い訳はしないと決めている。

 

わたしは切り替えた。

聴こえている人がいるということは、わたしにも同じ音が届いているということだ。

わたしにも聴こえるはずなのだ。

 

わたしは「こんな音がこんなふうに聴こえるだろう」と待っていたから聴こえないのだ。

その想定や予測を外したところで、受け身ではなく、自分から音をつかみにいかないといけない。聴きにいかなくてはいけない。

 

よし、聴こう!

 

なんだか漫画みたいなのだけれど、ほんとうにそういう対話が2,3秒のうちに花火のようにわたしの中に起こった。

わたしの思考と精神と身体が全員一致の上で、「聴こう!」と決めた。

 

そう決めて構えると、不思議なことに、その次の札からいきなり音が聴こえるようになった。何枚か連取して、「ああ、やっぱりそうだったのか、自分から聴きにいかなくてはダメなんだ」と決断を喜んだ。

 

集中が切れそうになったり、試合が進むにつれて決まり字が変化していくと聴こえなくなって、取られる札もあった。

その微調整をひたすら繰り返したり、もし1音目が聴こえなくても2音目で反応できるように暗記を正確に回しているうちに、相手がお手つきをしたり、わたしのほうが早く反応できたりして、どんどん戦局はわたしのほうが優勢になり、最終的に10枚差で勝った。

 

「大きな相手」を変えられないときに、できることは自分が変わることしかない。

どういう変え方をするかは、そのときそのときで違う。

 

自分が無力な被害者になる道を選ぶのは楽だ。もちろん、ほんとうに暴力の被害を受けているときや嫌な目にあっているときは別として。(こちらはこちらで戦い方がある)

仮置きで一旦誰かのせいにすることで、からくりが見えて、理解しやすくなるときもある。ほんとうにわからない問いのときや、感情があふれてどうにもならないとき、誰もいないところで一旦そうしてみるのも効果がある。

 

でも、今そっちの流れに乗りたい?乗り続けたい?と自分に問うてもみる。

 

ばななさんのメルマガの中では、よくない思考回路のことを

「思いグセ」

と表現している。

 

さらに、

「思いグセ」と「それを叶えてくれる役者」がいつまでもそろっているとエンドレスループになるが、この例のようにどちらかがなにかでそれを抜けちゃうと、肩すかしになって世界が簡単に変わってしまう(略)

ともあり、つまりわたしが大会で経験したことは、「思いグセ」を抜かしたことで、別の流れを生み出し、すかさず乗ったということなんだろうと思う。

そしてそれをひたすらやり続けたことで、勝ち上がって昇段できた。勝因は他にもいろいろありそうだが、わたしにとって一番大きかったのはこれだ。

 

それから2週間のあいだにも、「思いグセ」と「それを叶えてくれる役者」のループに乗りそうになるときが何度もあった。

でもかろうじて乗っていない。

 

そっちは嫌だ、ということがわかっている。

対処しなければいけないこと、不満に思っていること、心にひっかかっていること、などなどがたまってきて目盛りいっぱいにはなりそうだ。でもよくない流れが出現してきそうになったら、早めに人前で泣いて嘆きまくったり、美味しいものを食べたり、さっさと風呂に入って寝たりしている。

 

それでどう状況が好転するかはぜんぜんわからない。

 

しかし少なくとも、わたしの尊厳は保たれている。

わたしはわたしのかるたをしている。

人の流れを悪化させてもいないと思う(たぶん)。

 

嫌な流れに乗るとリカバリーがキツい。その瞬間は楽だけど、結局あとからリカバリーが必要になる。そこに時間やエネルギーを投入している場合じゃないという切実さのほうが今は強い。

 

自分の中にある、そして人が今までに分け与えてくれた、たくさんの善きものの力を使いまくり、なんとしてもそっちには行かないのだ。

 

でももし行ってしまっても、気づいたらだいじょうぶ。

リカバリはできる。

人間は生きているかぎり回復する。

 

 

そんなことを今回のメルマガを読んで思った。

 

 

最近読んだ、「吉本ばななが友だちの悩みについてこたえる」という本もぐさぐさきて、「ほんまそれ」と何度もつぶやいてしまった。www.amazon.co.jp

 

もちろん中には、「これはようわからんなぁ」「これは言い過ぎでは」と思うものもある。でも「今後わかるときがくるかもしれない」とも思う。

 

ともかくどちらも、ハードな人間関係をわたり歩いてきた、一人の人間の実感の言葉として読んだ。

 


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短歌のつくり方がたぶんわかった話

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久しぶりに歌会に出た。

 

いつも「楽しいんだけど、今一歩届かない歯がゆさ」があったのが、きょうは「そうそうこの気持ちが詠みたかったのよね!」とぴったりして、すごくうれしい。

 

ほかで学んでいることの体系化が進んだからなのか、先生の歌の作るプロセスを説明してもらったのが、きょうはとてもスッと入った感覚があった。

その説明や、これまで教わってきたこと、自分の理解を大幅に足したものを備忘として書いておく。

 


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  • 頭の中の「五七五七七バスケット」をテーブルに置く。
  • 「これを詠みたい!」と思った対象となる物や人を浮かべ、バスケットに入れる。(例:芍薬、糸電話)
  • 感情が先に出る場合はそれを象徴する物をひとつ決めてみる。(例:ロッテリアのトイレ)
  • 仮に助詞をつける。「〜の」「〜を」「〜に」など(例:芍薬を)
  • その対象のディテールを頭の中で観察する。形状、立体感、質感、色、匂いなど。目を留めたポイントを味わう。その対象が象徴している「何か」を浮き立たせて言葉にしてみる。バスケットに入れる。(例:花びらの重なり、ピンクのグラデーション)
  • 入れたものを眺めて「動き」や「考えや思いがフレーズやセリフになったもの」や「表情」を出す。言葉にしてみる。バスケットに入れる。詠もうとするときにまずこれがパッと浮かんできたらこれを最初にバスケットに入れる。(例:ひらきつづけて)
  • 入れたものを味わう。さらに「印象」や「感じ取るもの」を言葉にしてバスケットに入れる。つながっていくものはどんどん入れてひとつの「景」(ビジュアルイメージ)をつくる。ここでつながらなければ入れたものは、それほど表現したいものではない、という判断をして、バスケットからぽいぽい出していく。一旦入れてもなんか違うと思えば出す。(アマゾンで買い物をするときに気になるものを一旦カートに入れてから「あとで買う」や「削除」にしたりするのに似てる)
  • 五音と七音に分けていく。字余り、字足らずは最初はなしで考える。まずはなんとか型にはめる努力をする。
  • 音の型にはまらないものは言い換えたり、イメージがしっくりこないものは似たものに変えたりする(金平糖たまごボーロ)。
  • 五七五七七はめてみて、さらに位置を変える。多いのは倒置。「〜があって、〜だと思った」の順よりは、「〜だと思った、なぜなら〜だから」のほうが力が入る感じ。一般的には「(上の句)景色や出来事をうたい」ー「(下の句)叙情や心をうたう」が安定はしている。
  • どこの句を一番言いたいか。言いたいところが一番効果が出てしっくりくる位置を探す。
  • 一番言いたい感情の形容詞をそのまま使わず(うれしい、寂しい、怖いなど)、景を描くことで引き立たせる。感情に没頭しきらず引いた視点をもつ。
  • 感情や概念はスコープがでかいので、象徴する物に落として扱いやすくする。(どちらかというと象徴を含む情景から感情を浮き立たせるほうが楽)
  • ひらがなかカタカナか漢字かなど表記や読んでみての音感でしっくりくるところをあれこれ探ってみる。
  • 文芸は詠んだ人と受け取った人がズレるもので、答え合わせをするものではない。ただ、言葉の選び方には工夫があって、言葉の範囲が狭いほどわかる人にはわかるおもしろさが出るが、わからない人はおいてけぼりになる、言葉の範囲が広くなるほど誤解はなくなるがつまらなくなる。誰にどんなふうにわかってもらいたいか。
  • イメージと妄想を頭の中で制限なく爆発させる
  • インスピレーションを得るために歩き回ったりするのもいい

 


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書いてみると、もはや先生の説明の原状を留めていない気もする...。

 

 

五七五七七の世界。競技かるたの対戦で百人一首の札を激しく払っていることと、思いを短歌に託して詠むことが同一線上でつながるうれしい時間、空間だ。

 

自分でも詠んでみると、女房がからかわれて、その場で一首詠んで切り返したという「よをこめて」や「はるのよの」なんてほんとうだったんだろうか?だとしたらすごすぎる!なんてことがわかる。そうするとまた札への愛着も強まる。

 

百人一首や競技かるたをハブに関心と関心が次々につながっていて、わかったこと、好きなことが増えた。

さらに上達も加わって、今はただもう楽しい。

 

なんの役に立つとかは知らん、ただの興味本位で突き進む。

そういうところがなにより気に入っている。

英国ロイヤル・オペラ・ハウス・シネマ、デビューした!

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英国ロイヤル・オペラ・ハウスの公演をライブビューイングで観た。デビューである!

 

おととしからMETオペラにライブビューイングという新しい鑑賞スタイルで親しんできて、楽しい時間を過ごしてきた。(そのあたりの記事はこちらに)

ほどなくして、バレエもライブビューイングで観られることを知ったのだけれど、なかなか実際に観に行くまでに至らず、そのうち機会が訪れるだろうと待っていた。

 

昨日その機会がわっと訪れ、想像以上にすばらしい時間だったので、記憶に留めておきたくて、ここに置く。

 

 

わたしとバレエ

ロイヤル・バレエがスクリーンで観られることを知ってから、すぐに足が向かわなかったのは、「よく知らない」「どう楽しめばいいかわからない(わからなそう)」という漠然とした感触によるものだった。

 

でもよく考えてみると、10年ぐらい前からところどころにバレエ関係の石は置かれていた。NHKで「スーパーバレエレッスン ロイヤル・バレエの精華 吉田都」をなぜかよく観ていたり、ふと思いたって東京バレエ団の公演を観に行ったり、バレエ・リュスのコスチューム展に行ったり、映画「バレエ・リュス 踊る歓び、生きる歓び」を友人たちと観る会をひらいたり、桜沢エリカの漫画「バレエ・リュス ニジンスキーとディアギレフ」を持っていたり。

その合間にコンレンポラリー・ダンスやオペラを鑑賞する、クラシック音楽に親しむ、なども挟まっていた。そういう一つひとつ、今思えばすべて飛び石だったのだろう。

最後のひと押しは、METライブビューイングをよく観に行く仲間でバレエの経験者の、「とにかく『くるみ割り人形』は観て!!」というひと言で、予習として見所や演者のことを教えてもらって行ってきた。

ついでにその日別の用事で会う友人にも声をかけたらなんだか二つ返事で、気づけば界隈の友人たち5人が映画館に集結していた。

 

 

youtu.be

 

 

感想としては一夜明けた今もまだ「よかった!!」しか出てこない。

 

はじめから終わりまで胸がいっぱいで、比喩でなく大げさでもなく、ほんとうに涙が止まらなくて、目を腫らしたまま一日を過ごした。

美しい音楽、美しいダンサー、美しい衣装、美しい舞台美術、、ぜんぶがただただ美しくて、愛にあふれていて、舞台の上とスクリーンの中で起こる一つひとつに魅了された。どうしてハードルが高いなんて思ってしまっていたんだろう!というぐらい、近く感じた。

 

フィナーレが近づくにつれて、「夢の時間よ、終わらないで〜!」と祈りながら観ていた。そんな体験もなかなかない。

 

少し前から、わたしは気が滅入ること、怒りがわくこと、絶望を感じることが積み重なって、へとへとに疲れていた。ほとんど人間でいることが嫌になっていたそんな最中に、ロイヤルのくるみ割り人形を観て、「ああ、そうだった、人間はこんなに美しいものをつくり出すこともするんだった。そうして、この美しいものでほかの人間を幸せにもするんだった」と思い出した。

 

踊りに目を凝らすと、積み重ねることと、報われることについて考えざるを得ない。あんなにも自分の身体を思い通りの軌道で、思い通りの位置に決めていくために、いったいどれだけのハードな積み重ねやギリギリのせめぎ合いがあるのだろうかと思ってしまう。

それでも意識を引いてみれば舞台の上にあるのは、美と愛しかない。

それに身を捧げてくれている人がいる。

 

あふれる涙をぬぐいながら思った。

芸術に救われるってこういうことだ。

わたしはいつも人の生み出す表現に救われて生きている。

ありがたい。

 

 

ライブビューイングという鑑賞スタイル

METでもそうだし、やはりライブビューイングという鑑賞のスタイルや普及の手段がわたしにとっては興味深くて仕方がない。

今回は、解説とインタビューを二回、休憩を一回挟みながら、一幕が約60分で、トータル2時間40分。ほどよい!!

ロイヤル・オペラ・ハウスの解説は劇場も飛び出して、DVDの特典映像みたいな感じだった。冒頭に解説があるのでよく知らない人でもあらすじや見所がつかめるようになっているのが素晴らしい。かといって、おそらくプロ級の鑑賞者が観ても「そんなこと知ってるわい」とはならない、親しみやすさと高いレベルの本物さが両立している。これは観客への態度の問題なんだろうか。

あるダンサーのスペシャルショートフィルムが挿入されていたり、トウシューズについての特集コーナーがあったり、クララ&ハンス・ピーター役の2人のダンサーの母校訪問のドキュメンタリーなど、鑑賞にあたっての「くるみ割り人形」という作品への知識だけではなく、ロイヤル・オペラ・ハウスというバレエ団や、ダンサーの個性や技術など、バレエという世界へ関心を持つための様々な橋をかけてくれていた。

 

ダンサーや演奏者やディレクターやナビゲーターや......とにかく様々な人がお話してくれるのだが、「クリスマスといえばくるみ割りよね!」とか「やっぱりくるみ割りの音楽は・踊りはここが素敵なの!!」など、作品への愛、この作品にかかわれることの歓びを感情いっぱいに惜しみなく表現してくれて、それが何よりもわたしを喜ばせる。

 

「有名な作品だからわざわざ言うまでもない」、「本番の芸を観てくれたらわかるから」、「わたしがあれこれ言うより観る人が個々に自由に観て感じてくれたらいいから」...というトーク(?)をよく耳にするように思う。作り手の側に立つとわたしも言っているときがあるので、言いたい気持ちもわからなくもないのだけれど。

でも、結局は人に関心を持たせる(その世界に橋をかける)のは、個々の演じ手や作り手のオープンでチャーミングでエモーショナルな姿ではないのかな。

わたしの仕事の核になる部分なので、このことはあらためて書きたい。

 

 

感想を話す場

友人たちと観に行って、席はバラバラに取り、終わってから当たり前のようにごはん食べながら、わいわい感想を話しあうのがやっぱり楽しかった。バレエの経験者や鑑賞歴が長い人もいても、べつに自慢話のようにならない。一人ひとりの知っていることや体験したことや感じたことをシェアしあう、持ち寄りやおすそ分けをしている場だから、より豊かになるばかり。こういう関係はほんとうに気持ちがいい。

 

そして毎回書いているけど、もし一人で観て一人で帰って誰ともこの経験を共有しないでいたら、わたしはこの作品からここまでたくさんの喜びや愛を受け取れていなかっただろうし、こんなに自分の人生に関係のある、深い意味をもった大事な体験にできていなかったと思う。感想を気軽に話せて愛を語れる仲間がいるからなのよね。そういう人たちに出会えてとてもうれしい。

そういう仲間にどうやって出会うのかというと、結局は、「好きなことを好きと言い、見えるようにしていく」に尽きる。わたしがどんなものを好きで、関心を持っていて、どんな感性を持っていて、どんなふうに受け取る人間なのかは、表現しない限り他の人からはわからないのよね。

その表現の仕方は、「書く」や「場をつくる」がキーになる。

 


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表現形式の違いを楽しむ

 

オペラが歌だけではないように、バレエもまた踊りだけではなく、細かな演技や美術も楽しめた。衣装も素晴らしかった。

この世にはいろんな表現形式がある。「バレエのこの要素を強めていくとマイムになる」とか、「オペラのこの要素のほうへ深めるとミュージカルになる」とか、それぞれの表現形式でしか現れてこないもの描けないものはありつつ、各々はシームレスに接続している。なぜこの表現形式で演る必要があるのか、感じ取る違いがわかってきて、橋をかけてくれる人に出会えると、何を観ても楽しめる、受け取れるものがある。

さらに、「プレイヤー」の個性が見えてくると、続けて観ることが俄然楽しくなってくる。別の作品では別の面を見せたり、前作から成長していたり。そしてまたそれを仲間とおしゃべりしたり。

 

ちょうど今、METで「椿姫」を上演していて、4月にロイヤル・オペラでも「椿姫」の上演がある。生で観るのに比べたら相当気軽な値段で見比べられるのも、ライブビューイングのいいところだ。

次のロイヤル・バレエは「スペードの女王」もチャイコフスキーなので観たいし、友人のおすすめ「ロミオとジュリエット」は夏のお楽しみでこれは絶対に観る。バレエ初心者にはまず「くるみ割り人形」そして「ロミジュリ」がいいから観て!!!とのお達しであった。

その間にMETで「マーニー」を歌ったイザベル・レナードの「カルメル会修道女の対話」もある。

www.shochiku.co.jp

 

 

 

この先も飛び石がぽんぽん置いてある。

 

渡っていくのが楽しみだ。 

 

 

一緒に行った友人のブログを読んでまた幸せな気持ちになった。増えるいっぽう。

micandescitrus.hatenablog.com

 

 

 

 

《Information》

一緒に観劇に行く仲間のつくり方、鑑賞おしゃべり会のつくり方、予習講座のつくり方、募集文の添削などのご相談、承ります。

Zoomまたは対面にて。1枠60分¥10,800

 

お問い合わせはこちらへ。

 

 

映画のチラシを見せびらかした!

今年のはじめに本の整理をしたときに、「書籍」以外のものが出てきた。映画や芝居のパンフレット、楽譜のコピー、レシピをファイルしたもの、スクラップブック、勉強のノート、仕事の資料…などなど。

 

そんなものに混じってお気に入りの映画チラシファイルが出てきた。学生の頃から集めていたチラシ。引っ越しのたびに少しずつ減らしたり、新しい映画に出会うとストックしたり。パラパラめくっていると懐かしさがこみ上げる。

 

ふと、これ映画好きな友だちに見てもらいたいな〜と思った。

 

年末に行った「お気に入りの図録を見せびらかしあう会」が楽しかったのを思い出したのだ。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

 

先日、友だち2人とごはんを食べに行くことになって、そうだ、あのチラシのファイルを持って行って見てもらおうと思った。きっとあの人たちなら楽しく鑑賞してくれるに違いない、と期待している時間も幸せだ。

 

実際、とても丁寧に見てくれてうれしかった。

観たことある映画も、全然知らない映画も。

好きな映画の話、映画館の話、あの年代の社会の話、あの頃のわたしたちの話。

 

いっぱい映画を観てきた。

いっぱい映画にお世話になってきた。 

 

思い出せてよかったあれやこれ、おしゃべりできてよかったなぁ。

 

 

 

見せるほうも見せられるほうも楽しい「自慢」、よき「見せびらかし」。

 

持っているコレクションを自分のためだけではなく、人に見せるとその人の何かに反応して受け取ってもらえて喜んでもらえることがある。だから好きをシェアすると、そのものの価値が増幅する喜びがあるのだな。

 

 

 

そして、外に連れ出して風を通してあげると、コレクションも喜んでいる気がして、より愛おしくなる。

 

 

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2/20(水)爽やかな集中感・競技かるた体験会のお誘い

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日が近づいてきたので、あらためてお知らせです。

 

2/20(水)横浜のUmiのいえで競技かるたの講座をひらきます。

  • 未経験者・初心者向け。
  • 歌を覚えていなくて大丈夫です。
  • 18歳以上の大人のみ。

映画化で有名になった「ちはやふる」を読んだことはあっても、正式な競技かるたを気軽に体験できる機会ってなかなかないと思います。

 

わたしがこの講座をひらく理由は、わたし自身が競技かるたをやっていて、「へー!おもしろいなー!これは競技かるたならではだなー!」と思っている部分をシェアしたい、という気持ちが大きいです。

 

百人一首」と聞いたときに、人によってイメージするものが様々である、というところがすでにおもしろいなと思っています。

 

雅な和歌を味わう「歌集」。

家族や友だちとわいわい楽しむ「カードゲーム」。

学校の授業やアクティビティで夢中になった「源平戦」。

漫画や映画「ちはやふる」の「めっちゃ早く札を飛ばすヤツ」。

書道のお稽古で使ったという方もいるかも。

 

競技かるたはそのどれでもない。

 

身体と思考と精神すべてを使う武道としての側面に、一歩入ってみると何が起こるか?

好きになるかどうかはわからないですが、「へぇ〜こんな世界もあるんだ!」という発見があるはずです。

知らなかったことを知るのは楽しい、その世界が大好きな人から教えてもらうのって楽しいと思うんです。そして人生の経験を積んできた大人だからこそ、楽しめる目を持っている。

 

わたしも前回の講座から一つ級を上げてC級初段になり、見える景色もまた変わってきました。

そんな生もの、人間同士の交流のある場です。

その世界に橋をかける人として、皆さんを旅にお連れします。

 

 

横浜のUmiのいえという船着場で、お待ちしております^^

 

 

 

▼前回のようす

hitotobi.hatenadiary.jp

 

 

 

▼お申し込みはこちらから▼

coubic.com

 

 

 

《Information》

●出張講座、承ります。

参加者4名以上で承ります。2時間の場合は競技かるたをメインに、2時間半〜3時間の場合は百人一首の歴史などもお伝えします。実施例 をご参考に。謝礼についてはお問い合わせください。

 

●お子さんのための百人一首Zoom個人授業、承ります。

子どもが学校から百人一首の暗記の宿題が出たが、覚え方がわからない、乗り気じゃない。おもしろさや楽しみ方を知ってより前向きに取り組んでもらいたいが、親の自分は百人一首に親しんで来なかったのでどうすればいいかわからない.....などのお困り事や興味に応える授業です。

暗記の仕方はもちろん、百人一首の歴史的・文化的背景、特徴、歌人のプロフィール、歌の味わい方などもお伝えします。過去の実施例はこちら。対面でもOKです。授業料はお問い合わせください。

 

百人一首や競技かるたの会を立ち上げたい方へZoomアドバイス、承ります

2012年1月〜2017年9月まで、「かるたCafe〜百人一首を楽しむ大人の部活」というコミュニティを運営していました。また2016年に本格的に競技かるたをはじめてからは、競技かるたの練習会も催すことがあります。場づくりのプロのアドバイスを受けながら、会の趣旨を立てる、場所選び、仲間集め、当日の進行、運営に取り組んでみませんか。対面でもOKです。コンサルティング料はお問い合わせください。

 

お問い合わせフォーム

 

 

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Umiのいえつうしんにコラムを書きました

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いのちを育む学びと気づきの場所・場をつくっている NPO法人Umiのいえの季刊誌にコラムを書かせていただきました。「私のライフワーク」というタイトルです。いつも考えていることをこんなにシャープにまとめたのははじめてなので、とてもいい機会をいただいたなぁと感謝してます。

執筆者1人あたり1〜2ページなので、電車の中などで気軽に読めるボリュームです。

助産師、お坊さん、シンガー、ファシリテーター、ダンサー、ヨガインストラクター、武術家...に混じって、わたしも同じ本に居させてもらえるのは、なんだかとっても心地好くうれしい気持ちです。

 

わたしの手元に2部あります。600円。
消費税サービスでお譲りしますので、お気軽にお声がけくださいませ^^

 

Umiのいえのサイトからも購入できます。

www.uminoie.org

 

 

 

さて、わたしはUmiのいえにて、2/20(水)午後、大人(18歳以上)の未経験者・初心者を対象にした競技かるたの講座をひらきます。

横浜駅から徒歩圏内です。

 

日頃からかるた絡みの催しには目を光らせているわたしでも、正式な競技かるたに気軽にふれる機会はあまり見ません。

前回参加してくださった方は、「まったくイメージが変わった!」「競技かるたってこういうことをやっていたのか!」とおっしゃってました。

びっくり楽しい体験です。

歌を覚えていなくて大丈夫です。

順を追って丁寧に進めていきますので、ぜひぜひおいでください〜♪

 

▼お申し込みはこちらまで

coubic.com

1/21(月)-1/23(水)自分の本質とつながる場を掘る耕す個別セッション

追記:1/22(火)のセッションは体調不良のためやすみます。

 

 

寺子屋学での連載がUPされました。

 

【自分の身を削られるような場づくりをしていませんか?】
「お寺の場づくり」の技術を伝える連載『場づくりを成功させるための5つの鍵』。二つ目の鍵へと進む前に、一つめの鍵「なぜわたしは場をつくるのか」について、もう少し掘り下げた #1.5 となる記事をお届けします。
 
場づくりを行なっていく上で、自分の思いや原体験となるストーリーをおろそかにしてしまうと、継続性に欠ける場となってしまいます。
主催者と参加者の間に「良き循環」を生み出すためには?
 

場づくりを成功させるための5つの鍵 #1.5
自分の「本質」から、場はスタートする

terakoyagaku.net

 

 

 

「何をするか」と「なぜするか」は両輪で、行ったり来たりしながら場が組まれていきます。どちらが先に立つかはその人による。でも明確に言えることは、どこかの地点で「もう片方」を考えるときがくる、ということ。

 

わたしのお仕事とつなげると、ここの胆力が必要なところでお力になれます。

 

自分で考えた範囲で行き詰まるとき、「なぜするか」のもう一段深い層に到達して、思いや本質にふれる必要があるのかもしれません。

あるいは、これまでやってきたことのふりかえり「何をするか」がまだまだつくりこみができるということなのかもしれない。「なぜするか」とつながることで、もっともっとあなただけの本質的な場をつくっていくことができる。

 

ひらく人が自分とつながった本質的な場は、自然と人の集まりを生み出し、有機体として細く長く命をつなぎます。しかしそれには一般解はない。事実の積み重ねと自己との対話。

 

これはお寺の場づくりの話なんですが、自分のことだ!とピンとくる方はいらっしゃると思う。そういう人生の時期、季節にいて必要とされている方が。これを読んで感じたことからでもよいので、ご相談にいらっしゃいませんか。

 

 

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1/21(月)-1/23(水)の3日間をセッション集中期間します。1枠60分。どしどし使ってください!

 

●場づくり相談
-今、場をひらいていて、これでいいのか、こんなときどうしたらいいのか、もっとよくするには、などヒントがほしい。
-これから場をひらいていきたいが不安。どうやって人を集めたらいいのかなど、何から手をつければいいか知りたい
-場(関係)の仕舞い方を一緒に探ってほしい。
-企画をここまで考えたので聴いてフィードバックほしい。
-プログラムのつくり込みをしているので相談したい。

 

●募集文の添削、フィードバック

 

●マンツーマン講座開催
-読書会のつくり方講座
-勉強会のつくり方講座
-シェア会のつくり方講座
-上映感想会のつくり方講座
-鑑賞対話会のつくり方講座
-講座のつくり方講座
-トークライブのつくり方講座
-百人一首/競技かるた講座 

●その他リクエストください
ご参考までに。過去のお仕事一覧あります。

 

 

オンライン会議システムZoomにて。60分¥10,800(税込)です。

1/21(月)
①13:30-14:30
②15:00-16:00
③16:30-17:30
④18:00-19:00

1/22(火)
①10:00-11:00
②11:30-12:30
③13:00-14:00
④14:30-15:30
⑤16:00-17:00
⑥17:30-18:30
⑦20:00-21:00

体調不良のため休みます。

 

1/23(水)
①11:00-12:00
②12:30-13:30
③14:00-15:00
④15:30-16:30
⑤17:00-18:00
⑥20:00-21:00

 

※こちらの個別セッションはひととびの通常メニューです。上記日程が合わない方は希望日をお知らせください^^

 

★お申し込みはこちらから★

ひととびお問い合わせフォーム
・せいこにお願いしたいこと
・わたしの望み(わたしは〜したい)
・希望の日時枠
を明記の上、ご連絡ください。

 

取り切った時間をオンライン上にご用意して、あなたの宣言に立ち会います。

ご連絡お待ちしております。

 

舟之川聖子

METオペラ「マーニー」がよかった話

f:id:hitotobi:20190119195531j:plain                           METライブビューイングHPより

 

METライブビューイング2018-2019シーズン、

「アイーダ」がよかった話 

「サムソンとデリラ」がよかった話

に続いて、「マーニー」を観てきました。

 

ヒッチコックも映画化した心理サスペンスが、若き鬼才作曲家の手でオペラに!美貌と美声のI・レナード演じる謎めいた美女マーニーの秘められた過去とは?シックでオシャレなM・メイヤーの演出や魅惑的な衣裳も見逃せない話題作!

 

ということで、

新作ってはじめて!へー、オペラってこんなモダンなのもあるんだ!

いつも幕間でナビゲートしてくれてるレナードさんてオペラ歌手だったんだ!

わー、15回も着替え?素敵な衣装!!

...などなど、予告やインタビューなどでかなり期待が高まっておりましたが、

 

 

いやー、もうほんとすばらしかった!観に行ってほんとよかったです。

 

 

その魅力をわたし目線で4つご紹介したいと思います。

鑑賞行動に影響を与える可能性がありますので、未見の方はご了承の上、読み進めてくださいね。

 

 

①スタイリッシュな衣装、メイク・ヘアスタイリング

やはり期待していたのも一番印象に残っているのもこれ!

一点一点のファッションが彼女(レナードでありマーニーであり)のためだけに一分の隙もなくぴったりに採寸され縫製されていて、それを着こなしていたイザベル・レナードがめちゃくちゃクールで!!

わたしの短いオペラ鑑賞キャリアの中で、オペラ歌手のイメージを一番壊してくれたのは彼女かもしれません。

ツイッターをやってるとインタビューで話していたので、探してフォローしてしまいました。I s a b e l (@IsabelLeonardNY) | Twitter  

 

50年代のイギリスという時代の雰囲気や、マーニーの複雑で人物像や感情の動き、緊張と不安に満ちたストーリーをファッションやスタイリングはとてもよく表現していました。

衣装のアリアンヌ・フィリップスの他のお仕事ってどんなだろう?とこの記事を読んでいたら、この映画も見たくなってしまった→

映画監督トム・フォードを支える衣装デザイナー、アリアンヌ・フィリップスが語る『ノクターナル・アニマルズ』の見どころ。|ファッションインタビュー(流行・モード)|VOGUE JAPAN

 

纏うものによって人間が影響を受けるという記事、なんだか関係がありそう→

軍服だけで権力を手にした男の驚くべき実話。映画『ちいさな独裁者』監督インタビュー | ハフポスト

 

 

ヒッチコックの映画との相違と相乗効果

ウインストン・グレアムというイギリスのミステリー作家が1961年に書いた「マーニィ」という原作があり、それを1964年にヒッチコックが映画化しています。

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やっぱり予習大事よね!!ということで、前日にアマゾンプライムで観ていたのですが、どうも観終わってから気分が落ち込みました。苦悩する女性を描いてはいるけれども、マーニーへの共感や救済のようなものはあまり感じ取れなくて、設定をプログラムした人物を操るような、人間の性をじっと観察しているだけのような、ヒッチコックの眼差しの冷たさや意地の悪さを感じるような体験でした。あと、これは当時は問題なかったかもしれない、トラウマなど精神的に困難を抱える人への接し方や、女性への接し方、女性の描き方として、それはアウトだろう...というようなシーンがあったりもしました。

なんとなく耳に残っていた"decent"という単語がやはり物語の鍵だったようです。

「まともな」だけじゃない「decent」の意味とネイティブの使い方 | 英語部

 

 

いろいろと書いていますが、しかしこの映画を観ておいたのはとてもよかったのです。

 

オペラ版は、映画版と物語の流れ方はほぼ同じなのですが、設定の部分がだいぶ変わっているし、やはり表現形式が全く違うので、別の物語と考えよう!と臨みました。

さらにオペラのほうでは、演出や作曲や美術や演技や歌唱によって、マーニーやマークの複雑な内面や揺れ動く感情が丁寧に表現されていて、映画では悶々としてしまった部分が、だいぶ解消されました。…という以上に、最終盤では思わず涙があふれるほど心動かされました。

 

「オペラというのはストーリーはシンプルに、複雑な感情を表現するものなのだ」と幕間のインタビューで話されていて納得でした。

逆に映画のほうではスルスルと理解できていた母親の人物像や、マーニーとの関係性が、オペラのほうではもう少し必然性がほしかったなという設定や表現になっていました。

この、似て非なるもう一つの物語も起動させながら、今目の前で展開している物語に集中して、二つを同時に補完しながら自分の中に落としていくという鑑賞体験は、これまであまり体験したことがなく、興味深かったです。

漫画の実写化などで体験していそうなことですが、それとはちょっと違うような体験。一体何が違ったんだろう。

 

 

 

 

③新作オペラならではのチームワーク

合間のインタビューで語られていて、「作曲家が生きているから」というくだり。新作オペラでは作曲家と一緒につくれるから、「質問したりディスカッションしながら、一から一緒に作れるのがうれしい」とか「失敗して恥をかかせなようにしなきゃって思った」ということが起こる。

他の表現形式で実験された作品を、同時代の第一線で活躍するアーティストたちがチームを編成して、喧々諤々の議論を重ねながら、オペラという形式ではじめて作っていく...。同時代ならではのエネルギー。これが楽しくないわけがないだろう!と想像してわくわくします。

 

古典のオペラも好きだけれど、その芸術がその時代の人たちに必要とされながら継がれていくためには、このように新しい風も入れながら、刺激を与え合い、ストレッチしながら変わり続けていくことが大切なのだろうと思います。

 

私事だが、NYでこのオペラ(マーニー)のチケットを持っていながらコンサートのリハーサルで行けなかった僕にとって、このライブビューイングはほんとうにありがたい、感謝である。

との久石譲さんのコメントを読んで、そうか、そういうニーズにも(ニッチすぎるけど)マッチしてしまうMETライブビューイングは、やっぱり素晴らしいイノベーションだったなぁと思ったのでした。

 

 

 

④今、これをオペラ化する意味

 映画との対比ではより強く思ったし、METLVだけ観ていても感じられることだけれど、今の時代にこれを上演することの意味が大きい。根底にあるテーマは、「性(セクシャリティジェンダー・セックス)と暴力」だと感じました。これまでもこれからも、時代も国も超えた人類のテーマであったこれが、これからどう変わっていくのか、わたしたちはこのように解釈し、今、このように表現しました。あなた方はこれをどのように観ますか?と問われたようです。新作オペラを創る意義は、残していくということもあるけれども、社会の価値観の再考を促すという面もあるのでしょうね。

 

ふと、この2冊の本が思い浮かびました。

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それぞれのシーンの観察や発見やら、ニコ・ミューリービョークの音楽世界とのリンクやら、友人とはひとしきり語ったんですが、まだここには書けないですねぇ。書くところに落ちていくまでってやっぱり時間がかかるのかな。

ご興味ある方はぜひぜひ観ていただきたいです。

 METLVは1作品の上映期間が短くて、今回は2019/1/24までなので、急いで、足を運んでみていただけたらうれしいです。

 

METライブビューイング「マーニー」ウェブサイト

www.shochiku.co.jp

 

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今回も観終わってから友人らと感想の場を1時間、劇場近くのバーでクイックにつくって語りました。新宿ピカデリー出てすぐ、伝説のJAZZ BAR"DUG"にて。

一緒に観た友人Aさんと、その日の夜に観る予定の友人Bさんと三人で話していたのですが、これもなかなか楽しかったです。

Bさんは気持ちを高める&予習として、強い関心をもちつつフラットに聴いてくださり、Aさんとわたしは、「ここは事前情報なしにはじめて出会うほうがいいぞ」という部分には注意深くなりながらも、生まれたての感想を聴いてもらえ分かち合え、とてもいい時間でした。

つまり、「体験の分かち合い」と「その世界に入る橋を架ける」は同時に行えるということなんですね。


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自家製ミートパイ。
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・何を観たのか、聴いたのか、そこから何を感じ、考えたのか。
・自分の知っていること、これまでの体験と関連づけられることは何か。

感想を語り合える人がいること、その場があることが、鑑賞体験を深く濃く自分に関係あるものにしてくれます。

 

場が自給できると、人生が豊かになります。

相互的で深い鑑賞体験を通して、作品やその分野への関心を高めることができます。

 

 

 

★企業や団体の方

・映画、演劇、オペラ、展覧会、読書会など、販売促進や教育普及などを目的とした鑑賞イベントの企画運営をお手伝いします。

・鑑賞の場のつくり方やファシリテーション講座を実施します。

 

★個人の方

仲間を集めて鑑賞を楽しむ場をこれからつくりたい方や、すでに運営していてアドバイスがほしい方に、対面またはZoomにてコンサルティングします。


お気軽にお問い合わせください。

 

 


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絵を鑑賞することと言葉の処理の話

美術展に行って、キャプションや解説を読んでいるときに、なんだか頭に入ってこないのだけれど、併記してある英語を読むとスッと入ってくるということが、わたしはよくあります。
 
これは和訳がいまいちという可能性もあるだろうけど、別の可能性として、絵を観るときと英語を読んだり話したりするときは、脳の同じ部位を使っているからなのかもしれません。もしかしたら。(あ、日本語より英語が得意とかでは全くないです!)
 
 
わたしは展覧会に行くときはだいたいオーディオガイドを聞いていますが、観ることと聴くことを同時にやるのは、習慣にしていても、実はけっこう難しなぁと最近ようやく気づきました。ガイドの内容自体はすごく楽しいし好きなんだけれど、観るか聴くかのどちらかにしか、わたしは集中できないようです。これはもしかすると、ガイドから聴こえてくるものを、音楽を聴くときにつかっている脳の部位でとらえているからなのかもしれません。
 
結局、集中しきれていなくて聴きなおしたり、ちゃんと観れていなかったような気がして、最初からガイドなしでもう一度観て歩いたりしています。だからすごく時間がかかるわけですが...。さらにスケッチなどもしているので、体験はもっと深まり、一つの展覧会から受け取るものが多くなってきて、まぁなんというか、うれしいかぎりです。うれしい悲鳴です、とも言えるかな。何周も遊べるから。
 
 
そういえば、以前ポッドキャストでも話したことがありますが、「外国語の音声を聴きながら日本語の字幕を読む」って当たり前にやっているけれど、よく考えてみたらおもしろいことしてるんですよね。ほんと器用だなぁと思う。
そう考えると、観ながら聴く力(?)というのは習慣や訓練でアップしたりするものなんだろうか。「読む」を「観る」に近づけているあの絶妙なバランス感覚で、「観る」と「聴く」を近づけるというような?
 
...とここまで書いていて気づきましたが、人と話しながら絵を見てまわっているときって、よく観ることもできるし、聴くこともできるんですよね。これは人がいてくれて、「双方向性」があるおかげで、両方が実現しているんだと思う。
 

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最近、英語の自主学習を励まし合うオンライングループに入って、他の人の学習に刺激を受けたり参考にしたりしながら、毎日なんらか英語の音声や文章に触れてみています。そんな流れもあって、先日フィリップス・コレクション展に行ったときに読んだダンカン・フィリップスの言葉を原文で味わいたくて、メモしてきたのを見たり、読み上げたりしています。
  
Art offers two great gifts of emotion -the emotion of recognition and the emotion of escape. Both emotions take us out of the boundaries of self...
At my period of crisis I was prompted to create something which express my awareness to life's returning joy and my potential escape into the land of artists' dreams. I would created a collection of pictures -laying every block in its place with a vision of the whole exactly as the artist builds his monument or his decoration.

Pictures send us back to life and to other arts with the ability to see beauty all about us as we go on our accustomed ways. Such quickening of perception is surely worth cultivating. 
 
I have devoted myself to the lifelong task of interpreting the painters to the public and gradually doing my bit to train the public to see beautifully with a sublimated observation detached from self-interest and sufficient unto itself. 
 
-Duncan Philips, the founder of The Philips Collection
 
展覧会ってほんと今あるものだけで十分に楽しめるし、鑑賞の幅を広げたり深めたりする方法はたくさんある。そのひとつを世の中に提示してみつつ、他の人の楽しみ方も交換したり味わう場ができたなら、催す人にとっても受け取る人にとっても幸せな、副産物がぽこぽこと生じることだろうなぁ、というようなことを考えています。
 

学びのシェア会《別腹編》に参加して

友人たちと学びのシェア会という場を営んでいる。

 

発起人がいて、コアメンバーの運営だと自覚して担う人がいて、いつも参加する前のめりなメンバーがいて、気が向いたときに参加する人がいて、その活動を見ながらいつか参加してみたいと思う人がいる。そういう一人ひとりの温度や座標の違いが、とてもいい。場が温かく運動が生まれ続ける有機体として機能している。そういう場にいると、わたしはとてものびのびとして、幸福を感じる。

 

わたしは、多くの人と学び、仮説・検証を繰り返して伝えてきたコミュニティの立ち上げ方や営み方のセオリーを持っているが、客観的で分析的な視点からもやはり、よい場だなと常に感じる。各々、現場をもち場づくりをしてきたメンバーたちの智慧が持ち寄られていることも、相互の学びの刺激やつながりが感じられる。

 

今わたしがいられてうれしいと思うコミュニティのひとつだ。

 

 

会は隔月開催。1回につき3名が発表する。

参加すればするほど、発表すればするほど、シェアしてみたいことは増える。

「今シェアしたいことがあるのに!」「発表枠からもれてしまった!」というときに、この場を待たずとも自分でひらいちゃえばいいですよ〜ということも推奨している。

 

 

そんな会のスピリットに則って、今回、メンバーのまゆみさんが別腹開催を企画してくれた。内容は、文章表現インストラクターの山田ズーニーさんの「伝わる・響く!表現力講座」に参加した体験のシェア。ズーニーさんは、わたしもツイッターをフォローし、ほぼ日の記事や著書を読み、近くに感じてきた方だ。

 

 

ここ数ヶ月、わたしは自分の仕事をどんな手段でどう伝えていくか、誰に働きかけるか、どう計画を立てるかということばかりを考えて、やってもやっても何にも結びついていないように思ったり、どうずれているのかわからず、何も進められていない、形にならない現状が辛くて、胃を痛くする日々を過ごしていた。そんな中で、あのあたたかなつながりを感じながら、どうにか突破口を見出したい、という思いで参加した。

 


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わたしはこの本を2、3年前に買ったのだが、なかなかページをめくれずにいた。

このようないわゆる「積ん読」状態には様々な理由があるが、その中のひとつに、「自分に非常に関係が深いが今は直視できない」ということがある。わたしとこの本との関係はまさにそれだった。

 

これはズーニーさんのお仕事を表す中核的な存在だと思う、とまゆみさんが教えてくれた。

講座でズーニーさんが話したこと、ワークの内容、実際にまゆみさんが書いた文章の紹介、そのときどきのまゆみさんの内面での葛藤や歓喜が、まるで今起こっているかのような鮮やかさで差し出され続け、わたしは自分から手を伸ばして受け取り続けた。

 

受け取ったものを「食べ」ながら、ああ、わたしには何か極度に怖れているものがあり、それを全力で避けようとたくさんの努力を重ねていたのだな...、あるのにないと否定することで自分をどうにか立たせていたのだな...というようなことをつらつらと考えていた。

 

そう、わたしには、評価されること、批判されること、理解されないこと、認めてもらえないこと、受け容れてもらえないことへの大きな怖れがある。ようやくそれを見ることができた。

 

 

 


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今朝、目を覚ましてきのうのことを反芻していて、ありありと思い浮かんだのは、まゆみさんがズーニーさんから受け取ったもののことを話しているときに、「ズーニーさんもそこにいた」という濃い気配だ。

言葉や音声や存在を通して人間が伝えているのは、この感触なんだろうと思う。

 

だから話すにせよ書くにせよ、量はたくさんでなくてよくて、内容は多岐に渡っていなくてよくて、むしろ「削りたくない!」と苦渋の決断で削っていく過程、残された部分にこそ、思いは宿るのかもしれない。

 

そうでない「全部出し」の表現もまだまだ取り組むつもりだが、一方でずっと避けてきた、「たった一つの思いを制限のある中で書き抜く」という道をわたしは今ゆかねばならない。そこにほんとうにわたしがいる、読んでいる人のところに来ている、と感じてもらえる文章を書くことに挑む。

 

 

同じ場にいた友人たちが、さっそくきのうの体験をブログに書いてくれている。

 

主催のまゆみさん

mayuminaba.hatenablog.com

 

学びのシェア会言い出しっぺのライチさん

ameblo.jp

 

甘夏さん

micandescitrus.hatenablog.com

 

 

 

同じ場にいて、違う体験を共有できるのはありがたいことだ。

それもこうして表現を惜しまない人がいてくれるから。

 

ああ、そうだ、言葉だからこそ、文章だからこそ受け取れるもののことを、わたしは幼い頃からずっとずっと信じてきたじゃないか。

 

 

ちょうど最近目にした記事も背中を押してくれる。

www.monosus.co.jp

 

 

そうだそうだ、わたしはこの山をまだまだ登りはじめたばかり。

ここまでいくつもの嶺は超えてきたから、体力と智慧とつながりを元手に登っていけるのだ。

 

 

まゆみさんが伝えてくれたズーニーさんの思いと、まゆみさん自身の思い。
あの2人が重なってみえたときの画を思い出すと、勇気が湧く。
伝えたいことがある。響かせたい思いがある。
それを持っていていいし、表現していい。

 

その感触をつながりを感じる場で得られたことがうれしい。

まゆみさん、一緒に参加してくださった皆さん、ありがとう。

これを読んでくださった方、ありがとうございます。

フィリップス・コレクション展がよかった話

三菱一号館美術館で開催中のフィリップス・コレクション展に行ってきました。

 

 

「全員巨匠!」というキャッチコピーにこのポスタービジュアル。

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すばらしく言いたいことがシンプル(笑)。

 

 

美術評論家」のダンカン・フィリップスさんが、自分の目利きで、注目するアーティストを集めたレーベルの、さらに日本向けに編集されたコンピレーションアルバムのような展覧会でした。

 

フィリップスさんの画家を評した言葉がところどころに掲示されているのですが、これが「惚れ込んだらべた褒め!」な感じがよかったです。

 

 

コンピレーションCDを聴いて、よかった曲があったら、それが収録されているアルバムをたどったり、同じアーティストの他のアルバムもさらに聴きにいって、どんどん広げていく、ということを中学生、高校生ぐらいによくやっていたのを思い出したので、最近、美術館展やコレクション展を楽しく鑑賞しています。

 

その楽しさを教えてもらったのは、プーシキン美術館展もそうだし、もう少しさかのぼると、やっぱりポンピドゥーセンター展だったかな。

 

 

今回は、ジョルジュ・ブラック、ジョルジョ・モランディ、フランツ・マルクは、他の作品をもっとみてみたいです。

 

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フィリップさんはボナールとも親交があり、コレクションの中でも重要なものとして位置付けていたようです。

 

秋にボナール展があり、ブログでよかった話を書きましたが、一時的に詳しくなっていたこの短期間に、またボナールの作品に4点も会えるのはうれしいことです。三菱一号館美術館は最近のナビ派ブームをもたらした美術館という文脈もあるので、ボナールとヴュイヤールも入れてあるのかなぁと勝手に憶測してみたり。

 

2.5mぐらい離れてみてみると、色がじわじわと動き出す感じ。

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わたしが今回一番うれしかったのはこれ。

全く似てなくて残念ですが、モディリアーニの「エレナ・パヴォロスキー」。

モディリアーニの作品の中でも子どもの頃からずっと気になっていました。まさかここで対面できるとは!と胸が震えました。

友人エレナの透明さ、凛々しさ、知的さ、繊細が伝わってきます。

実物を見ると、顔はほんとうに丁寧に描いてある。

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好きな絵が多くて、毎度のことながら観るのに時間がかかりました。

 

最初のご挨拶のところで読んだのだったか、「近代美術(Modern Art)だけれど、ダンカン・フィリップスにとっては同時代だった」というような文章を目にして、それを念頭に入れながら観ていけたのはよかったです。

 

生まれたのが1886年

初めて絵を購入したのが1912年。

フィリップス・コレクションの前進のギャラリーがオープンしたのが1921年

MoMAがオープンするのが1929年。フィリップスも運営に尽力。

 

だからフィリップスにとっては、ゴッホ、モネは「ちょっと前」、マティスピカソユトリロ、ボナール、モディリアーニ、ブラック、カンディンスキー、クレー、ランディ...みーんなみんな、Contemporaryだったんだなぁ。

 

 

コレクションなので、獲得年や寄贈年が記されていて、蒐集のキャリアもうかがうことができます。

 

第二次世界大戦の影響でヨーロッパの画家たちがアメリカに渡ってきて、芸術の発信地がパリからニューヨークに移って、という大きな流れにフィリップスも乗って、そして戦時中も蒐集活動を熱心に進めた、と。

 

...というところで、「はて、大戦中のアメリカ国内の状況ってどのようだったんだろう?」という疑問がわきました。

手元にある山川の世界史資料集についている、各国の出来事が比較できる年表を見てみて、だいたいの時期や出来事についてはわかったのですが、もう少しリアルな人々の生活も見てみたいなぁという気持ちが出てきました。

フィリップスがどうしてそんなにも芸術を人々と共有しなくてはと切実な思いを抱くことになったのか、ももう少し知りたかったなぁ。

これは図書館に行くかな〜

 

 

 

 

これは写真撮影スポットに飾られているパネル。


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現地のフィリップス・コレクションでは写真取り放題みたいですけどね。

いろんな方のブログを観ていると、へーこんな作品もあるんだ!と別のツアーに出たみたいで楽しいです。

 

《DCのおすすめ美術館》フィリップスコレクション | | Global Familia

 

フィリップスコレクションの見どころ ワシントンDCの素晴らしいモダンアートコレクションを誇るミュージアム The Phillips Collection - Petite New York

 

 

「絵画は、周囲のものに美を見出す力を与えてくれる」米国紳士が残した言葉 | 文春オンライン

 

 

《公式HP》https://www.phillipscollection.org/about/history

《PDF》https://www.phillipscollection.org/sites/default/files/attachments/building-history-july-2015.pdf

 

"Phillips Collection"でGoogle検索するのも、同じ作品が現地ではどういうふうに展示されているのかわかっておもしろいです。

 

 

そういえばこれが今年の初展覧会でした。

今年も個人的に観るものは、厳選してじっくり味わっていこうと思います。

 

 

 

 

そして、今年こそは美術館とパートナーシップを組んで、鑑賞感想会を催すお仕事をしたいです。

一方向のレクチャー形式の知識の吸収でもなく、特定の絵の中の話だけをする対話型鑑賞だけでもない。

 

展覧会を観た感想を他の鑑賞者とわいわい話す場。

 

絵を観察することはもちろん、美術史や技法ももちろん扱い、それに加え、自分の背景も、経験も、思い出も、すべてを感想として話し、聴き、お互いに新しい発見をしあい、人と人とが作品を通じて出会い、出会うことで作品を深く理解する「場」。

 

場にしたい。

場をつくりたい。

 

一人ひとりにとって、鑑賞の体験が自分と真に関係があるものとしてとらえられる場。鑑賞が生きる上で真に必要な力となるために、対象を通じて「人と出会うこと」を組み込みたい。

 

展覧会で絵を鑑賞することを「体験」としてデザインしていく。

一人ひとりの人生に位置づけられていく可能性のあるものとしてとらえる。

 

それが可能な安心安全な環境設計から行います。

どなたかそれを一緒にやってみたい美術館の方はいらっしゃらないでしょうか。


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*追記(備忘として)*

・フランツ・マルク Franz Marc  
Wikipedia

フランツ・マルク 画像と解説

【美術解説】フランツ・マルク「動物をモチーフにした絵で人気の前衛芸術家」 - Artpedia / わかる、近代美術と現代美術

36歳で戦死。本格的に画業に携わっていたのはたった10年。
ミュンヘン市立美術館とNYのグッゲンハイム美術館が多く所蔵している模様。


青騎士 Wikipedia

Punk, Icon, Activist

*鑑賞行動に影響を与える内容を含みます。未見の方はご注意ください*

 

 

年末にタータン展に行ったときにチラシを見て、ぜったい観に行くぞーと決めていた「ヴィヴィアン・ウエストウッド 最強のエレガンス」 、観てきた。

 


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原題は、"Westwood: Punk, Icon, Activist" 

 

なんか、うん、そういうそういう感じだったネ。

 

 

正直には、あまり心が動いた映画ではなかったんだけれども。

 

でも、ヴィヴィアンが動いて自分のことを話しているのを観れてよかった。

というのも、年末にひらいた当時のコラージュで、たまたまヴィヴィアンの記事を見つけて( ↓ )感銘を受けたので 。

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5歳で靴を作ったヴィヴィアンは、騎士を目指していたそうだ。

画面にはジャンヌ・ダルクらしい騎士の鎧をまとい、馬にのった女性が映る。

その言葉どおりに、人生で"Dame(デイム)"の称号を得ている。

 

 

ものづくりと事業と。デザイナーで創業者。

帝国(会社)が大きくなりすぎて、女王の把握できる範囲を遥かに超えてしまったことへの、やり場のない感情の吐露するシーンは、なにやら切なかった。

 

もっとファッションに敏感な人なら、ヴィヴィアンとアンドレアスのつくる服をよく「聴ける」んだろうな。わたしはファッション(特にショウにおける)については、どう「鑑賞」したらよいのか、まだよくわからない。関心はあるけれども。

 

 

メモした言葉

・私の知的好奇心が満たされなかった

・人通りのない道から大通りに出てからは

・これが体の求めていた本物の服だ!

・一番うれしいのは自分が認められたことです

・性のアイデンティティを主張しない

・彼を追い越した。知的な魅力がなくなった

・人生を楽しむ服です

 

 

ヴィヴィアンの「作品」も所蔵されているVictoria & Arbert Museumのウェブサイト楽しい。

https://www.vam.ac.uk/

The V&A is the world’s leading museum of art and design, housing a permanent collection of over 2.3 million objects that span over 5,000 years of human creativity. The Museum holds many of the UK's national collections and houses some of the greatest resources for the study of architecture, furniture, fashion, textiles, photography, sculpture, painting, jewellery, glass, ceramics, book arts, Asian art and design, theatre and performance.

 

 

アンドレアスのメッセージが出てる。

Andreas Kronthaler for Vivienne Westwood AUTUMN WINTER 2018-19 COLLECTION | 【公式通販】ヴィヴィアン・ウエストウッド

 

 

しかし、何よりもかによりも、ファッションモデルというお仕事の苛酷さなぁ...。

 

あれ、そういえば観てみようというきっかけになったタータンの服はあまり出てこなかったな......。

 

 

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