ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

場における意図について


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場づくりに関する覚書。

場において、参加者に意図をどのぐらい伝えるか、ということについて考えている。伝えすぎると、それに沿おうとしてしまう。参加者はもちろん、場をひらく自分も。

実践、省察を繰り返してみて思ったのは、参加するにあたって、あるいはそのアクティビティを行うにあたって、より安心して、より関心をもって取り組めるのであれば、意図は伝えるのがいい、ということ。どんなに楽しいことも、「これをやりましょう」と提示されることは、ひとつの挑戦。軽かったり重かったりする、その内容に合わせて、意図の伝え方も変わる。あるいは参加者の状態によって。

それでも全体としては、意図を伝えすぎなくていいと思っている。とりわけ企画とか運営とかデザインの意図とかは参加者に関係ないし、結局、支配につながるような気がする。

あくまでもその場では、その人が夢中で楽しめるか、そこにエネルギーをそそげるかが大事で、どのようにひらく側自らがふるまえば、伝えれば、そうなれるかの微妙な加減に自分の注意を払いたい。

場をひらく上で、意図がまったくないことがいいのではない。そんな場は場として成り立たない。ただ、それは参加者のほうにはほとんど関係ないことが多い。それに、参加者は、こちらの意図を超えたところのものを常に受け取っていくことも肝に銘じたい。それも意図が確固としてあるからこそ、超えてもらえるので、意図をもつことは大切。

ひらく側としても一番うれしいのは、メッセージを受け止めてもらった上で、こちらの意図を超えたほうへ行ってくれることだと思う。あくまで自分がやっていることは、きっかけにすぎない。行く方向は制限しない。

挑戦の度合いが強いときでも、緊張感をもって真剣にやることとそれを楽しむことは両立できるし、そのための安心・安全を担保するのが、「教える」とか「育てる」役割をもって場をひらく人間の責務だと思う。ある程度の制限の中で、のびのびとしているときが一番伸びるから。追い詰められるような苦しさやそこから来る身体的、精神的な危機感だけでは、なにか暴力装置のようなものになってしまう。

アクティビティの中では、意図を考えさせることもあると思う。自分がやっていることと同じようなことを再現してほしいとき。行く方向をある程度設定しているとき。そういうときほど、ステップを細かく設定していくのだと思う。それも答え合わせだけを求める形ではなく、意図を汲み取ろうとするにあたって必要な部分は伝え、あらゆる角度からそれについて考えられるようにサポートする。安心して悩んでもらう。

難しいけれど、そのときの態度をあんまりオープンにしすぎると、教えているほうも、でてきた反応に対して、時に「理解してもらえなさ」がいちいち辛くなるような気がする。禅問答や哲学対話ならいざ知らず、こちらにある程度の答えがあることに対しては、出していってもいいんじゃないか。丸投げ状態になると、教えてもらっている側は、気にかけてもらえていない感じがして、ちょっと怖い。

結局、意図をほんとうに汲み取ることができるのは、手を離れて実践しはじめるときでしかないとも思うし。

とりあえず、今、今の所感をメモ。