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ヒトトビ〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する場づくりを通して考えることなど。

「愛すべき」キャラは愛されてはいないのか

映画

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ファインディング・ドリー」のポスターを目にし、予告編を観てもやもやしてたことを思い出したので、書きます。

 

ファインディング・ニモ」のドリー。
スターウォーズ」の
ジャー・ジャービンクスもそうだし、今パッと思いつかないけど、おっちょこちょいレベル超えてもはや笑えない感じで主人公の足を引っ張り、悪びれもせずヘラヘラし、自分の正当性を主張するようなキャラクターを設定するのはハリウッド映画(?)の常套。

 

観ている方は、最初の一発目はあらあら、と思っているのだけど、次第に苛立ちがつのり、終いには「お前が全ての元凶だ!」「お前さえいなければ全てうまくいったのに!」と、怒りの矛先をそこに集中させていく。ほとんど憎しみすら覚えてしまう。

 

それはある種の人々をスケープゴートにして、人の憎しみを駆り立てようとする装置のようにもみえる。集団の暴力性。

 

落語でもそういう人は出てくるけど、あまり毒は感じなかったように思う、わたしは。

 

主人公にするというのは、「愛すべきキャラクター!」とか言いながら、実は「堂々と憎んでいいなんだよ、石を投げていいんだよ」と、みんなの前に曝すようで、ひどく気分が悪い。

 

「愛すべき」ではあっても、実際は愛してはいないんじゃないか?とわたしは思ってるけど。そして、「みんなが本当に愛している人はこうだよね!」とモデルとなる人のノーマルさを見せつける。そっちの人はだいたい主人公で、今は自分では気づいていないけど、可能性を秘めているみたいに描かれる。本来の姿、あるいは、乗り越えた先にある変身後の姿。でもドリー的なキャラにはそれがない。最後で主人公が変容を遂げていてもに、その脇でチラッと出てきて、ああやっぱり変われないよね、この人は、ということを印象付けていく。

 

その判定の現場に自分が放り込まれているみたいだ。

 

こういうお話を世界的な興行にのせることでなにがしたいのかな?と思う。人がつくるものに意図がないわけがない。ましてや巨額の金が動く中で。なにか与えたい影響があるのだ。そしてわたしは、それはほとんど悪意だと思ってる。

 

今、思い出した。わたしはこどもの頃に「オバケのQ太郎」が大嫌いだった。
でも友だちは「おバカで笑えるしかわいいやん」と言っていた。
それと何か似ている。

 

おバカが嫌いなのか、おバカ扱いしている人が嫌いなのか、両方なのか...。