ヒトトビ〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する場づくりを通して考えることなど。

ニッポン・サポート・センター

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平田オリザの新作「ニッポン・サポート・センター」を観た。
 
ああ、憤懣やる方なし…。
芝居ではなくて、この描かれているもの、世界に対して。
 
吐き気がするほどの気持ち悪さ!
わたしの大嫌いなものが、これでもかこれでもかと詰まっていた。
笑っているのに同時に怒り狂ってもいて、自分の中は常に忙しく、ぐったり疲れた。
 
 
なにがわたしを気持ち悪くさせるのか?
これほどまでに疲れさせるのか?

観劇後に友人と1時間のリミットで感想を話す時間をつくり、吉祥寺のスタバで議論した中からいくつかメモする。


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誰でも来ていい場は、誰にも優しくない。時に危険地帯。

人間がただの話題提供者でしかない。

話題提供者に、お節介という免罪符をもって、心配しているフリをして群がっていく卑しさ。ほとんどいじめ、暴力。

他者へのレッテルの貼り合い。一度貼られたレッテルは上書きされるだけで、はがされることはない。

他人事にすることと、境界を守ることの違い。

プロっぽい人はいても、プロではない。アセスメントが必要な事案も、合議でのみで決断。

苦々しく見ている人の繊細な感性も、「悪気のなさ」という暴力に絡めとられていく。こういうものだと納得させられていく。

お互いに「付き合ってあげている」と思っている男、中年のオッサン同士のマウンティング。

ノリだけで話す人。それを煽って楽しむ人。

支援者と相談者の間にいるサポートスタッフの存在の謎。

プライバシー駄々漏れ。

助けをもとめて相談に行った先で二次被害に遭う、あるある…。

秘密をみずからバラしておいて、他言無用を約束させる共依存関係。

ハラスメントをネタに嗤う無神経さ。

その人の必要や背景を見ずに、「とりあえず紹介」「とりあえずつなぐ」、この「とりあえず」というスタンスの雑さ。

そうせざるを得ないほどの現場にもちこまれる人々の困り事の多様さ。


などなど……。


どちらかというとあのセンターという場が醸し出しているものに対する嫌悪だった。

サポートとは何か。
話をきくとは何か。
寄り添いとは何か。
人のためにとはどういうことか。

このセンターは誰の何の役に立っているのか?
「場」なので、意図せざるところで役に立つことはあるだろう。
けれども相談者の主訴に対しては、ほんとうにサポートできているのだろうか。
あの場の支援側の人たちは、なぜあそこにいるのだろう。

 
扱っているものが、貧困、病、障害、失業、DVなど、「社会問題」にふれるものだからといって、「お前も当事者意識をもって社会問題を考えろ」などというメッセージとは考えなかった。そんな話はそのへんに腐るほど落ちているのだから日々考えないほうがおかしい。

だれもがなんらかの当事者であり、だれでもなんらかの事情を抱えている。相談室とラウンジを隔てるのは、あの防音壁のように決して厚くはない。

にもかかわらず、センターの職員やスタッフの多くは、まるで自分は相談者たちとは違うようなポジションをとる。繰り返される「大変ですねぇ」と「お節介ですから」に象徴される。

ラウンジでは、自分たちの仲間の春山に対しても「困っている人」として見ているし、ほとんどネタ扱いである。センター立ち上げの同志の所長さえも春山の事情を簡単にバラす。

ラウンジでは、様々なハラスメントが展開されている。それらは悪気のない、むしろ善意からくるふるまいや発言として、容認されている。

ごくごくありふれた人間関係、どこにでもいる普通の人による悪気のない暴力にこそ、生きづらさの原因があり、その果てに相談室で語られるような案件が生じているのに、あの場にいる誰もかれもがその構造に対して鈍感である。するほうもされるほうも。ほとんど愚鈍と言ってもいい。それゆえに腹が立つ。

しかも最も腹立たしいのは、相談室とラウンジの境がないように、ラウンジと観客席にもまた隔たりがないことだ。あの様子を見て笑っているわたしこそが、滑稽なお芝居を日夜繰り返して生きているのだと、この芝居は突きつけてくる。

こんなふうな光の当てかたをされてみろ!
お前だって何の違いもないぞ。
お前自身を笑えよ!と。

 
よくこんな脚本が書けて、演出できて、演じられるな!
最高の芝居だった。
行ってよかった。

人間はこんなことができるのか!!