極めて個人的な、個別具体の話をしているのに、一般化されたり(みんなそうだよ、そういうのよくあるよね)、全然別のものや、わたしの知らないもので比較されたり(そんなのまだマシだよ、わたしなんか、わたしの友だちの話だけどもっと悲惨で)すると、ビックリする。
「わたしの話」を聞く気はないんだなぁと残念にも思う。
そして、この人にはもう「きもち」は言えないなぁと思う。
人の話をきいたら、何か言わなきゃいけないと、思いすぎてるんじゃないだろうか。
きもちの話。
わたしに関わる人には、わたしの側に立っていてほしいし、わたしのきもちをきいてほしいと思う。
正しさからではなく。
耳の痛い話だってきくときはきく。
でもそれは関係性による。
しかも、その人の正しさに同意したわけではない。
なにか別のものを受け取ったからきける。
言葉の取り扱いが上手な人は、相手が黙ってしまうので、響いたと思うかもしれないけど、実は相手の側にはシャッターが降りてるかもしれない。
わたしはわたしでこういうことを書くのは、正しくありたいのではなくて、自己一致が大切だと思っているから。
端的に言うと、されていやなことを自分もしたくない。
「そのように言うことで、振る舞うことで何を得ようとしているのか」に自覚的でありたい。