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ヒトトビ〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する場づくりを通して考えることなど。

メリーゴーランドの鈴木潤さんからあふれ出るプロフェッショナリティ

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友人が、「行けなくなったので代わりにせいこさんどう?」と声かけてくれて、気楽な単身の夜にふらふらと行ってきた、京都の絵本専門書店メリーゴーランドの店長さん・鈴木潤さんのトークイベント@ひるねこBOOKS。

 

「絵本は子ども向けにかかれているのだけど、子ども用ってことではなく、子どもから読めるという意味あいである。そもそも読み聞かせをする大人の心が動くものでなかったらたのしくないし、子どもだって心が動かない」

言葉はだいぶ違うけど、…というようなお話に、ああ、と思う。

 

刺激のあるものはすぐ反応が出て分かりやすいのだけど、一瞬で飽きる。よく噛まないと味がわからないもの、どんな味と表現できないもの、甘いだけじゃなくて時には苦いものや酸っぱいもの。読み終わって、しーんとなってしまうような類のもの。でも内側ではものすごいざわめきが起こっていたり。いろんな感覚を表現する言葉を本から教えてもらって、反芻して、また身体をつかって体験して、そして本の世界にまた潜って…わたしもそういうことをやってきたのだなと思う。

 

わたしは本(特に物語や詩)を読むことを馬鹿にする人が大嫌いだ。本を読まなくても優秀な人はいくらでもいるとか、生きていけるとか、今は映像の時代だからとか、本を読む人は内向的だとかどっか病んでるとか、そんな話はほんとどうでもいいのでわたし以外のどっか他所でやってください、と思う。なんか急に思い出した、その怒り。。

 

自分は全然いいと思わないけど売れてる絵本があって、お店にも置かないけど、そういう本が現れるのはチャンスなんだ、と潤さん。その開かれた窓から、本当に手にとってほしい絵本、豊かな絵本の世界をどう知ってもらうか、たくましく提案していくことが必要なのだと。

 

いつの間にか本をつくる人と読み手の関係は変わってしまった。昔は読み手が本をつくる人たちを育てていたのだけど、今はつくる側が読み手を育てていかないといけない時代。そのことに切なくなりそうだけど、そこは割り切って、その使命を背負っていかれているのかなと思う。。もちろんそうでないつくり手もいて、読み手を馬鹿にしたような売り文句で買わせようとすることには腹が立つとおっしゃっていて、わたしも完全に同感だ。

 

お店に来たのに題名をメモして、家でAmazonでポチッとする読み手の消費行動が実際にあると言う。そういう中でも、本を買うというひとつのささやかな体験を、潤さんはとても大切にしている。大人が棚を見ているあいだにこどもも好きなように絵本を出したり読んだりうろうろして、この本を買ってと親と交渉したり、お店の人に名前を覚えてもらって何度も通っていったりということに、その営みに意味があるのだと。本屋だからこそ、絵本の専門店だからこそできることとは何か。その問いにずっと向かっている方なのだ。

 

わたしはいつも思うのだけど、自分の名前を呼んでくれる生身の人が介在することによってはじめて、その対象が自分と関係があるものになるのだと思う。人の介在しないところで知ることはほとんどが情報と言っていい。それは表面であって本質ではない。介在する人がどんな人なのかもとても大切。それは、その人が、誰かから授けられた根拠のよくわからないお墨付き(資格)をもっているかとか、知識が豊富でなにを聞かれても答えられるとか、最新の情報をもっているとか、正しいことを言っているとか、そういうことでは全然ない。

 

一回一回のことは効率が悪いように見えることでも積み重ねていくことで、ある日突然確かな意味をもつことがある。そのために続けてわけではないのに、よくよく考えてみたら、わたしが本当に見たかった景色はこれだったのだ、というようなこと。だから、ビジネスプランにアドバイスするような仕事とかあるけど、ほんとうにわからんよなと思う。アドバイスできることはゼロではないけど、立ち上げて続けていく人にしか見えないものがあるんだから、そこはわきまえってあるだろうと思う。(そういうときにポーズで叱咤激励する人もわたしは嫌い)

 

それから、なぜ「それ」がこの世に必要なのかを(なんかうまく説明できないけど必要なんだ、というものも含め)、言い続けることができる人が、そのことにおいて本当にプロフェッショナルと言えると思った。だから誰かからインプットされた借り物の言葉では言い続けられないし、聞いてももらえない。一瞬は聞いてもらえたとしても、すぐに新しい大きな声のほうに振り向かれてしまうだろう。本質、真正さ。自分の実感が全てだ。そうでなければ喜びもない。

 

お話を聞いていて、わたしは常に新しい情報を追いかけて、人よりよく知っていることに夢中になっていた時期があるのだけど、今はなんかそこじゃないなぁという気がしている。そんなにたくさんお金もないし、時間もない。そのときたまたま目に入るもの、信頼できる人から教えてもらったもの、そういうものを最大限に生かす・活かすだけで十分に「行えている」。わたしが発信するのは情報ではないということだ。

 

ああ、きょうは潤さんの話が聞けてほんとうによかったな!