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ヒトトビ〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する場づくりを通して考えることなど。

状況というロープを真剣で斬る

言葉 身体

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先日書いたこの記事に対して、友人からこんなコメントをもらった。
 
上野千鶴子先生が先日イベントで"返り血を浴びる覚悟が状況を変えていく"みたいなことを言ってて、返り血を避けてる自分に気づいた。不快の表明はトレーニングがあるくらい、難しい人には難しい。快の表明だって難しかったり。
そうなると、自分を生き生きさせて生きるには、明らかな意図、意思が必要だなあ。」
 
「帰り血」というのは、自分が不快を表明したときに、相手からの反応が別の形の不快になって返ってくるということを指しているのかなと思った。
 
そのときにふと思い出したのは、わたしが子どもの頃に、真剣で斬ったらあんまり血は出ないという話を聞いて(あんまり痛くない、だったかもしれない。うろ覚え、というか適当...)、それからは、ちょっとがんばって自分の不快を伝えるときに真剣で斬るイメージをもっていた。そうすると、相手から返ってくるものがなんであれ、「真剣で相手をしたんだ」という自分の矜持は守られた。
 
そのことと、かるたのことも思い出した。
一対一の対戦をしているときには、真剣で斬っているつもりでやっているのだけど、そういえば斬っているのは相手のつもりだったけど、変えたいのは状況だったり、自分なのかもしれないなとも思った。
 
そのことを言ったら、
 
「それなら罪悪感なしにスパッといったれ!って気持ちになるな。相手とも対立せずに。ああ、なんかすごいヒントをありがとう。イメージとしては、相手(と自分)を縛っている状況というロープを、よく切れるナイフで切る。相手はナイフを向けられるのでいったん恐れたり怒ったりするかもしれないけど、ロープがはずれる解放感を本人も(自分も)感じることができれば。」
 
というコメントがまた返ってきた。
 
ああ、そうか、そういうことだったのかと合点がいった。
 
わたしが斬りたいのは相手ではなく、
相手(と自分)を縛っている状況という名のロープなのだ。
 
憎しみが何も生まない、でも「返り血」は怖い、嫌だ。じゃあどうすれば?と、わからなくなっていたけれど、そう、そういう意識、意思をもって斬ることができれば、何かが変わっていくのではないか。小さな手元の状況もすぐには切れないとしても、少なくとも自分のほうは変わっていくはずだ。
 
それがいろいろな目に見えない連鎖の中で、大きな状況を断ち切ることにつながっていければ。ほとんど祈りだけれども。祈るだけではなく、斬るという行動もできる、選べる。