ヒトトビ〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する場づくりを通して考えることなど。

場づくりにおける安全・安心とは?

 

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わたしが人生において関わっていかなければならないと腹を決めたテーマが「暴力」である。具体的なエピソードについては、また別に書ける日が来るかもしれないし、来ないかもしれないが、とりあえずここでは、このブログのテーマである「場づくり」と暴力がどういう関係があるのかを書こうと思う。

 

「場とは第一に安全であり、さらに健やかでなくてはならない」という考えがわたしにはある。

 

ここの抑えが本当に効いているかどうかは、自分が参加者の立場になってみればわかる。ざわざわする感じがある、時間が経っても緊張がほぐれない、終わったあと嫌な気持ちが残る、そこにいる誰とも連絡先を交換する気になれなかったなど、なぜ?と問うても理由が明確でない場合、その場は安全も安心も健やかさよりも、別の何かが優先されていた可能性がある。(自分の体調などもあると思うけど)

 

話を戻して、安全で健やかな場をどうつくるかを散々考えてきて、非常に基本的なところに戻ってきた。結局は、場をひらくわたし自身が、安全な環境にいて、安心を感じていて、健やかであることがもっとも重要なのだった。場を催す前に、わたし自身が継続的に棚卸しをし、過去の傷を治し、心の筋肉を鍛え、自分のテーマにしっかりと向き合っていくこと。それと並行して、人の心、内面、心理的なことや、安全安心を脅かす暴力が発生する仕組みについても、学んでいる。

 

暴力性は誰の中にあり、わたしの中にも当然ある。まずそれを認めた上で、それがどんなときに、どんなふうに、手段としての暴力に発展するかを、よくよく知っておく必要がある。

 

わたしのひらく場では、必ず気持ちの話が出る。感情や本音が出る。場でその表現を歓迎しているからだ。そのときにやはり場に安全と安心と健やかさがなければ、どれだけ怖いことだろう。その表現をしてくれた人に敬意を払うどころか、傷つけることになってしまう。

 

あるいは逆に、ある人の表現によって、他の参加者が傷つくということもあり得る。もちろん何によって人が傷つくのかは予測はできないものの、自分の最大限の想像力と経験を総動員して、どちらも守る必要がある。

 

だから場をひらく人、ファシリテーターは、気配や感情など見えないものに対する感覚の鋭さと繊細さが必要だと思う。(先日の記事:場づくりは感情労働にも関連する)
場ではもちろん、普段から敏感にならざるをえない。とはいえ、敏感でい続けるのはしんどいので、自分なりの調節の方法を見つけて実践しながらやっていくのだが。

 

「暴力」といっても、「アホ」「バカ」「死ね」などの罵倒か、殴る、叩く、蹴るなどの身体的行為だけではない。人が人の言動やふるまいに嫌な気持ちになったり恐怖を感じること、感じていても逆らえない、我慢させられる(我慢してしまう)のすべてが暴力だといっていい。だから一見悪い言葉のように聞こえないのに、いつまでも喉に刺さった小骨のように抜けないということもあれば、とても嫌な感じを受けるのに説明できない、ということが起こる。それは暴力を受けていて、傷ついている(でも頭では否定しているとか、なんらかの理由で認められない)可能性がある。

 

場の安全性の根本に、お互いの境界を守るということがある。「嫌いとイヤからはじまることもある」にも書いたが、嫌いとかイヤを言う、言える選択を手に取れるところに置いておけることは重要だ。場では、「全体」の空気になりやすいからこそ、この境界は非常に重要。

 

多様性を認めるというのは、どんな人も自分の境界を超えて受け入れることでもないし、「隣人」のすべての面を愛するということでもない。健やかな関係の中では、「いいね!」ということもできるし、「それはいやだ!」ということもできる。

 

こうした話は、わたしが過去に参加した場づくりのノウハウ伝授やファシリテーション講座のようなところでほとんど聞いたことがない。でも現場をもっている主宰者や運営者が現場で最も困っていることというのは、参加者のことではないか?つまり、自分や場に理不尽であったり、場の趣旨にはずれたふるまいをしてくる人にどうしたらいいか。

 

今のところのわたしの考えとしては、場で安全、安心、健やかさを守るために、それに対して「暴力」や「境界侵犯」という名前をつけ、ちゃんと怒る、毅然としている、暴力には屈しないという態度をとるということ。それが結果的にすべての参加者を、人として尊重することだと思っている。

 

わたし自身はまだまだ未熟であるし、途上で、ここに書いたのも仮説の部分が多いけれど、まずは「ここまで考えた」ということを、ここに置いていこうと思う。