ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

バルド・トドゥル〜死のワークに参加しました

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「バルド・トドゥル」という、チベット死者の書をベースにした、死を体験するワークに参加してきました。吉福 伸逸(よしふく しんいち)というスピリチュアル、ホーリズムトランスパーソナル心理学の分野を探究されていた方が生前に行っていたワークで、昨晩はその弟子の新海 正彦さんが提供してくださいました。

 

死を体験するワークでスピリチュアル系の人がやっててって書くと、怪しい呪術的な感じに聞こえるけど、実際の場は、そんな変な単語や雰囲気はふるまいは全くなくて、瞑想するときのような穏やかな中で、言葉に従って、進行していくだけ。

 

死自体はデリケートでもタブーでもないけど、死の周辺にある感情や関係は予期できないものがあらわれたりするので、人間の外側の動きも内側の動きにも敏感で、エネルギーの大きい人、普段から鍛錬を重ねている人が場をホールドし、場で起こることをみながら丁寧にガイドしていくことが重要。たぶん素人が遊び半分にやると傷つきが残ってしまうと思う。

 

ワークのほうは、わたしは亡くなる役で、周りで大切な人に看取られた。これから体験する方もいるかもしれないから、詳細は割愛。「予定調和になるのを避けたい」という場の意思があって、わたしも同感です。

 

わたしは死ぬことが本当に怖かった。でもワークをしてみたら、最後の最後は、「ああ、この体はもう亡くなっていこうとしているのだ。だから、"仕方がない"」という気持ちになった。ただ終わりのときへ向かっていく、大切な人とも遠くなっていく、一旦このパートは終わる、でもまた別の局面があらわれる。なんかただそれだけの。ドラマチックなことではないというか。

 

体験や、他の人の話を聞いたりする中で、これまでの自分の死にまつわるありとあらゆる体験も呼び起こされたりしたので、重い感じになったけど、一晩経ったらすっきりとしている。寝るというのも一種の死みたいなものなのかも。ひと続きのものである、という感じ。

 

ずっと抱えていた20年前に祖母を看取れなかったことの後悔も、すっと霧散しているのにも気づいた。

 

人間みんな死ぬのだから、死ぬ練習をしてみるのもいいのかもとか、死に方はいろいろだけど、最後の最後に起こることは、もしかすると同じなんだろうかとか、いろんな話が出ました。

 

息子を預かってくださってた方にお話したら興味もってくださって、気づいたら30分以上、その日の体験、職場での死(介護職の方なので)、近親者の死、子どもの頃の自分にとっての死など、お互いの死生観を共有する時間がもてて、それはとてもよかった。打ち上げに行けなかったけど、豊かな時間を過ごしました。