ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

「君の名は。」を観た

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君の名は。」観てきました。大ヒットしてますね。わたしは特にこの監督のファンでもないのだけど、「こんなにも人の心をとらえる何がこの作品にあるのだろう?」と知りたくて観に行きました。

 

友人の中にもこの作品が大好きな人も多いと知っている中で、こういう感想を書くのは非常に勇気が要りますが...

自由な感想を表現できる場をつくっていきたいわたしとしては、やはり書きます!

 

ネタバレがありますので、これから観ようと思っている方は読まないでくださいね。

 

わたしの感想は、「これないわ〜」でした。

 

身体が苦しかった

のれない、のれない、これはのれないわーとぐるぐる思いながら観て、観終わったあとは、ぐったりと疲れていて、全身がこわばって、動悸とめまいがして、吐き気もあった。家に帰って座って、唐揚げをつまみながらビール飲んだらちょっとホッとしました。

その身体の反応っていったいなんだったんだろう?と考えると、

画面が始終揺さぶられている感じに酔ったのかなとまず思いました。あとは、中盤からの展開の速さが過呼吸になりそうでしんどい。そして突然ぶち込まれた震災を彷彿とさせる自然災害に、胸が苦しくなりました。(それを題材にとったという意図を想像してなお気分が悪くなりました)

 

いつまでも像が立ち上がらないキャラクターたち

 個々のエピソード、シーンやカットから、人物たちの背景、性格、心情、人物と人物との間にある関係性を立ち上げようとしたり、このシーンの意味は?と読み解こうと努力し続けていた。でも、どうやら作品のほうから、「そういうのはこう感じとけばいいから!」とか、「今はそれ考えなくていいから!」と言われているような感じを受け取って、そうしたら、もうだんだんどうでもよくなった。伏線とか謎かけがあってそこがおもしろいという話は観た人から聞いて知っていましたが、人物にもストーリーにも映像にも入れなかったので、それを探そうという気にもなりませんでした。見えているんだけど、この時間に「のる」ために、感じない考えないようにしていたら心が疲れました。

人物や関係性の像が結べないというのは、わたしにとっては物語に入る上ですごく辛いことです。しかしわたしの努力なんかよそに、キャラクターののっぺりとした感じは徹底していた。ステレオタイプなキャラクター。セリフも、印象的な言葉も聞こえてこなくて、「アニメの登場人物はこういうことをしゃべりそうだ」っていうことしか言わない。友だちもバイト先の人も「アニメではいそうな人」なだけで、全然リアリティをもって迫ってこない。例えば「お前が心配で」とバイトを休んで旅についてくるほどの友情は見えなかったり。そもそもが運命の二人なのに、その二人でなければならない必然性が一向に感じられませんでした。その普遍テーマはわたしも好きだから、もっと没入したかったんですけどね。

 

着地点へ向かうためのジェットコースター

エンディングがさらにがっかりでした。特にセリフは、「はい?」という終わり方で。やっぱりこれはアニメーションでつくられた人形(ひとがた)たちがお芝居をやっていただけなんだなぁ(やらされていたんだなぁ)という残念さ。「生きていない」人たち。このシーンは「秒速5センチメートル」の決着のように思えて、新海さんはこのシーンのためだけに膨大な110分をわたしに付き合わせたのかなと思った。

いや、結局はそのシーンに至るためにどう構成していくか、その効果を上げるために何をパッチワークしていくか、どう盛り上げてどう落としてどう回収するか。そういう設計図があって、その中をジェットコースターに乗せられて進んでいくだけ。話のつくりとしてはそのような印象を受けました。ちなみにわたしはジェットコースターが大の苦手なのですが、終わった時の疲れはほとんど同じでした。身体のこわばり、吐き気、動悸、めまい。

 

設定、装置としてだけの死、喪失、暴力

その中では、人の死、不在、喪失、性暴力というものが、盛り上げるための装置としてだけ使われているところが、非常に冒涜というか蹂躙だと感じました。

息子と一緒に行ったのですが、「あんまりいいお話だとおもわない。ほとんどの人が助かったってことは、死んだ人もいるんでしょ?それにまちもつぶれちゃったし、悲しいよ。君の名は。って事故とか、そんなお話だと思ってなかったから...」と終わってからすぐに話してくれました。普段はあまり感想を言わない子ですが、それを聞いて、そうだよなぁと同感でした。

この部分は友だちから、「誰も死なずに災害を回避するなんてできないからこそ、そこを"悲しいね"って作中でも感じている物語じゃないのが悲しいよね。"このシークエンスはもう終わりました!"感半端ない」というメッセージをもらい、そうそう、そうなんだよ、そこが。

悲しむ必要はない、感情を味わうためのエピソードではもはやない、「設定」でしかない。びっくりさせる(新海さんの言葉を借りるなら「おもしろくする」)ための仕掛けとしてだけの自然災害でした。もし仮に助かった人が多かったとしても、あのラーメン屋のご主人のように、故郷を失った人がいる。観客も一度は町の壊滅を見せつけられ、まちの半分の人たちが亡くなったことに多かれ少なかれショックを受けている。本来ならばその悲しみを表現するはずの物語の主人公は、運命の相手探しに没頭している。それを追わなければならない観客の辛さは考慮されていない、ということだと受け取りました。

この3年ずれていた、その3年前に何があったか。びっくりしたでしょ?おもしろいでしょ?という刺激を与えつづけることに腐心しているつくり手の顔が浮かびました。

物語の展開上、必要だから据えられたキャラクター設定としての人物。ゆえに、三葉の母親は病死している、父親とは別居している。瀧は父と二人暮らし(母の生死も所在も不明)という「設定」です。現実で考えればその状況は決して当たり前ではなく、そのことが彼らの内面に与えている影響は大きいはずなのに、物語の進行上、ラストシーンへ突撃する途上では不要な「贅肉」として切り捨てられていました。

 

不快だったことはまだありました。

・三葉の妹が三葉に、「口噛み酒に生写真をつけて売れば」と言い、それに対してみつはが赤面し、「あんたよくそんなこと思いつくね」と言うシーン。

・瀧のバイト先のレストランで、いいがかりをつけた客に場をおさめるために入った奥寺さんが、スカートをカッターナイフで切られる。それを他のスタッフに指摘され、奥寺さんが赤面するシーン。

これは、特にこどもが観る映画として完全に間違った描写だと思います。女性が自らの性を売り物にして自分のやりたいことを成し遂げる方法をもっているなどと小学生の女子に言わせる。女性は公衆の面前で暴力を受ける対象になることがあるが、それは「不運」であるから同じ女性性で優しく慰めて終えることができる。そういうストーリーを刷り込んではいませんか。

ここは恥ではなく、不快であり恐怖であり怒りではないでしょうか。不用意に不必要なエピソードを混ぜ込む。これを悪意なく垂れ流した責任をどうとるのでしょうか。

 

はっきり言うと、わたしと息子はこの映画を観て深く傷ついたし、わたしは息子に対して申し訳なく思っています。

でもウケている人には、そこは別に気にならなかったんだろう(むしろそこがよかったりする人もいるのかも?)と思うと、余計に傷が深く広くなる感じがあります。

「作品から想起される自分固有の物語に思いを馳せた(「作品を味わう人」と「作品をフックに自分の中を味わう人」の違いじゃないか?)、「謎解き感覚が楽しい」、「映像美を楽しむ」、「キャラが空虚だからこそ自分でもある、という感じでスムーズにのれた」とか、それぞれの理由でウケてるのは友人たちとのやり取りで見えてきましたが、「人を軽んじてる点はやっぱり気にならなかったんだ」...ってところにわたしはまだショックを受け続けています。多くの人が求めるエンターテインメントとは、このような姿をしているのだ、ということなのでしょうか。

 

 

フィクションであっても人を尊重する姿勢

アニメーションだから・ファンタジーだから(「つくりもの」の意味で)いいんだ、運命なんだ、結びなんだ、だから細かいところはいいんだって丸め込まれる感じがあったのかもしれない。でもわたしは、ファンタジーだからこそ、その世界の中ではありありと生きていないと、日常から離れてそれを信じることはできないと思っています。それがないファンタジーは生きる力になりえない。つじつまがあってないことへの粗探しがしたいのではないのです。

きのう友人が「フィクションの中の人間を、安易に扱わない。人に対する尊重があるものだけ見たい」とSNSで書いていて、ほんとそうなんだよなぁと思って泣きました。

物語の中の人間は生きていてほしい。その人の生を生きていてほしい。自分がつくりだした虚構だから何をしてもいいってことではない。それは、そのまんまそのつくり手の人間に対する態度だと、わたしは見ます。

そもそもの物語のつくり手としての姿勢に対して疑問をもっています。

わたしは人間を一人ひとりとしてみる、存在を感じるということを場でもそうだし、日常の中で大切にしています。人は誰かのために存在しているのではないということ。それはフィクションの中の人間であっても同じで。わたしのために空っぽの三葉が存在していて、三葉という乗り物に乗って違う世界を見たいと思わないし、物語の中でも三葉のために友だちのさやちゃんがいたり、早くに病気でなくなったりするお母さんがいるような「設定」が辛いです。

人がそういう描き方をされていること、観客が「こういうのが好きでしょ?のれるんでしょ?」と扱うこと。それら両方によって、深く傷つきました。

 

 

彩やかな色の寄せ集めの映像「美」

映像については、「秒速5センチメートル」と「言の葉の庭」を観ていたので、ある程度わかっていたところはあります。でも色数が多くて繊細な描き方だけど、心に響かないのはどうしてだろう。前作の2本はやっぱりPVとして観てたんだと思います。わたしはニュータウン的田舎で主には育っていて、でも里山的田舎の風景も自分の一部としてあるし、「こんなとこ出て行ってやる!」とは思っていた上京組ですが、なぜかわたしの心象風景にいっこもアクセスしてこないので、「美しい」と思えませんでした。「いつもの都心の風景が違って見える」という感じもなかった。

それはたぶんキャラクターが空虚すぎたから。キャラクターの心情を通して風景を見るということができないので、それはわたしにとってはただの彩やかな色の寄せ集めでしかありませんでした。

 

 

わずかながら思い出したこと

作品から想起されたわたし自身にまつわることが2カ所ありました。

・国語の先生。「言の葉の庭」の雪野さんですよね?ここに転勤してたんだ〜と思って、知ってる人に会ったみたいでうれしかったです。そういえばこの作品は、読書会の参加者さんが以前DVDを貸してくれて観たのでした。彼は元気だろうかとちょっと思い出しました。

・西新宿の歩道橋ですれ違ったり、すれ違いざまの総武線と山手線の車両にたまたま相手を見つけたり、、するかぁ?と思ったときに、20代前半に通ってた映画学校でこういうのと似たような脚本出してきた人がいたのを思い出しました。山手線内でばったり友人に会って、そこから話がはじまるっていう設定。「あなたは山手線内でお友達に会ったことがありますか?それは描かないほうがいい。その確率はものすごく低いから。あまりにもありえないことを描くと観客が物語に入れないんだよ。あまりにリアルだったり卑近すぎても入れないけど、ありえなすぎてもダメなんだ」と言われてました。その講評はすごく覚えています。

 

 

まとわりつく気持ち悪さ

書いてみたり、友だちとメッセージのやり取りしている中で、「なぜ多くの人にウケているのか」を考えてもきました。これが爆発的にウケているということは、「わたしこれまで何をやってきたんだろう」とか「これから何をやっていけばいいんだろう」ということとも大いに関わるように思ったので。でもこれを考えてくると、なかなか暗くなってきます。

自分も他の人も「みんな」と同じでならないとは思いません。でもなにかこう、、気持ち悪さがまとわりつくのです。

例えば、つくり手の生い立ちや家族の物語などが出てきて「まだ精神的に子どもなんだからしょうがない」というニュアンスの会話になるのはどうしてでしょうか。あるいは、「でもそういうふうに話題にさせるという点でマーケ的には成功してますよね」という話の終わらされ方をすることもありました。諦めというのか、話題をズラされて黙らされているような気持ち悪さがあります。作品の受け手、観客には一次的には関係ないことなのに。

この「君の名は。」にまつわる気持ち悪さは話題作の中にとりわけ現れ、「おおかみこどもの雨と雪」や「ちはやふる」にも見受けられました。人物を物語の進行上、必要な「設定」としてだけ扱っていて、人格をもち生きている人間として尊重していない。それは翻っては観客や読者への態度(暴力的な)でもあると、わたしは思っています。

 

深く傷ついたので、当分この映画のことは思い出したくないなぁとさえ思っています。