ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

映画「この世界の片隅に」の違和感

 

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映画「この世界の片隅に」を観た感想です。

ネタバレあります。違和感について書いています。

「原作通りに描くことが正しい」ではなく、「原作と映画の相違点から自分が感じること」を書いています。

今年のはじめに漫画を読み、12月中旬に映画を観ました。

それから友人がひらいた「"この世界の片隅に"を観て違和感を語る会」に参加しました。以下にはそのときの対話の収穫も含まれています。

 

 

◆すずさんの人物像

わたしの中では、原作でこうのさんが描いたすずさんは、清も濁も理知も狂気も内に含み、またそれに自覚的でもある人で、最初こそほんわりと描かれているけれど、物語が進むうちに、本来の強さを源として、美しい大人の女性に成長していくという印象だった。一方、映画では最初から最後まで、無垢で無知で健気な少女として描かれていたところに、最も違和感を覚えた。

映画では、「絵を描く人」として、すずさんのアーティスト性を際立たせたところに、同じく描き手である監督の共感や思い入れは見られたけれども、根拠のない純真さが強まっているように感じた。さらに、のんの声やセリフの改変によって少女性(処女性?聖母性?)のようなものが被せられていて、特に白木りんさんとの交流から生まれる揺らぎ、嫉妬、愛憎をバッサリと捨てたことで、すずさんの中の「りんさん的」な(対応させるとすれば娼婦性?文字通り?)部分を無いものとしているように感じた。りんさんの登場を最小限に留めたことで緊張は和らぎ、ほとんど巫女的なすずさんによって、映画世界の均衡は「平和に保たれて」いる。

それ以外の「女」は、「母は強し(箪笥に米を隠しておく=最後はなんとかしてくれる)」をお義母さんが担い、「強がっているけど結局はツンデレ」を義姉・径子さんが担う。女たちがこのような役割分担をして銃後を守る一方で、男たちの存在は驚くほどに薄い。周作とすずさんの夫婦のつながりや対等性も薄い。

漫画では、りんさんを間に挟んだやりとりも多く、その中で徐々に夫婦となっていく二人の様子が感じられる。そしてこの物語のタイトルにもなっている、「ありがとう、この世界の片隅にウチを見つけてくれて」というのは、喪失と傷みを生きてきたすずさんの内側から発せられた、「わたしは、ここで、あなたと生きていきます」という決意表明のように感じられたのだが、映画では「わたしをお嫁さんにしてくれてありがとう」というような、可愛らしい新妻的なトーンになっていたのは残念だ。癒し手として、「笑顔の器」としての女性ということなのだろうか。

玉音放送のあとの、「暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね。うちも知らんまま死にたかったなぁ......」が「海の向こうから来たお米…大豆…そんなもんで出来とるんじゃろうなあ、うちは。じぇけえ暴力にも屈せんとならんのかね」になる、この大きな変更に対する違和感も大きい。

正義の名の下、日常生活の運行と国民の責務を全うすることで「暴力」と戦ってきたすずさんが、太極旗がはためくのを見て、片隅の小さな一人であっても、自らも暴力で従わせていた側だったという事実を知り、絶望の中、慟哭するシーン。この重要な独白の変更は、すずさんを無知・無力なるものと扱っているばかりか、暴力に対する憤懣をきれいに抜き去っている。監督のインタビューを読んで、ますます納得できない箇所だった。

漫画の動力は、すずさんの内なる声や、すずさんが一人になったときに発する言葉だった。しかし、映画ではその多くがすっぱりと裁ち落とされたり、改変されていて、すずさんから野性味や力強さや聡明さを奪っているし、何がこの物語の動力になっているかがわかりづらくなったように感じた。

 

   

◆男性監督から見た女性像のズレ

映画の作り手は、心底この漫画に魅了されて、「あの世界を再現したい、色をつけて動かしたい、しゃべらせたい、2016年の日本に存在させたい」と考えていたのだろう。それぐらい美しく、再現性の高い作品だったし、漫画では表現できない部分をアニメーションの技術は可能にしていた。詳しく確認していないが、考証も相当丁寧にされていたと推測する。ただ、その思いをもってあの漫画を解釈した結果が、上記に述べたすずさんの人物像だとすれば、「男性から見た理想の女性はこのようである」ということを表しているのだろうと思った。

そこに作り手の悪意も作意もまったく感じられない。「本当に」「見えている」ものを「そのまま表現した」という実直さがあって、当然整合性は取れているし、悪意よりはむしろ、「すずさんで観客を癒す」ような善意も含まれているとさえ思えた。

けれども、すずさんを中心とした変更の数々は、女性としてのわたしが「生きづらい」としばしば感じる状況と根っこを同じくしていた。この監督が、男性が悪い、というのでもない。ただ、実感としてズレているし、そのように描かれるのは一女性として腹立たしかったり苦しかったりする、ということなのだ。

先日、とある読書会に参加したときに、友人が、「男性の視点からの話も聞いてみたい。女性だけで話していると片目を覆って見ているようなものだ」と発言して、その表現に「なるほど」と思った。

右目だけ、左目だけのどちらか片目で見ているとき、どちらからも微妙に角度がずれて見える。両方の目から見ることで、はじめて脳の中で調整が起こり、像を結んで奥行きや距離を感知し、対象を立体的に見ることができる。

男と女と、片目だけからの世界をお互い見せ合って、そのズレを修正し合い、一面的ではなくもっと立体的に世界を共にとらえられないかと、主に場づくりを通して日々模索しているわたしとしては、このような映画が題材として活発に取り上げられることを願ってもいる。

 

 

◆ささやかな日常の美しさ

どんなに辛く厳しい状況でも、人はこんなにもたくましく生きていくことができる。ささやかな日常を大切にし、家族や隣近所との連帯を強くすることで乗り切っていける...というメッセージが、これでもかと繰り出される。

「ささやかで尊い日常」。

他の題材ならば、響く。

楽しい、うれしい、希望に満ちる、心をふるわせ涙を流す。わたしも映画を観てそんな体験をしたいし、実際、この映画を観て涙がわくシーンもあった。

けれども、やはり戦争という題材で、それだけで果たしていいのだろうかとも思う。防ぎようのないものという諦め、わたしたちに抗う力はないことの証明するように涙するだけでいいのだろうか。今この時代にあって、この時期にあって、わたしたちは、戦争を「暴力」と表現していた一人の女性の生き様を見て、手放しで感動していていいのだろうかと、複雑な気持ちになる。(周作がすずさんに「細(こま)い」と言ったのは、無力という意味ではなかったはずだ)

漫画は戦争を描いていたと思う。片時も戦争のことを忘れることができない。戦時中に普通の人々がどんな日常を送っていたかを、こうのさんの言葉を借りれば「だらだらと」描いていた。女性がどのように生きていたのかも、あらためて考えさせられた。

それが映画になると、日常から見た戦争という側から見ることになる。これはカメラワークの問題だろう。画を動かすということは、どこかにカメラを設置しなければならない。より登場人物の見ているものにピントを合わせるし、音楽の効果もあって、時には観客は登場人物そのものになりきって躍動する。その結果、不思議なことにわたしの中では、「その世界に適応するために現状を受け入れる」ということが時々起こった。俯瞰してみようとしていても、諦念が芽生える瞬間があった。そこから引き戻してくれるはずのすずさんの言葉がないので、最後まで心地よく浸ろうと思ったら浸れそうだった。「しあはせの手紙」がその役目を果たすはずだが、映画では画だけが採用され、手紙の言葉は全て割愛されている。あれはなぜだったのだろう。

この映画で着目すべきは、その「辛くともかけがえのない日常」が「あること」だったのだろうか。自分に問うてみてもまだわからない。ただ、このまま為政者がコトを進めても、反発する力は起こらないままに国民は耐え忍ぶし、ささやかな日常に美を「自ら」見出してしまうのかもしれない、と将来への恐れを抱いている。

 

 

◆展開の速さ

君の名は。」でも感じたこれは最近の傾向なのだろうか、展開が恐ろしく速い。余白がない。どんどん連れて行かれる。速いのにメリハリがない。どのシーンもびっくりするぐらい一定の速度で進み、均等に公平に扱われている。終戦のシーンも「しあはせの手紙」のくだりさえも。尺の問題だけではないように思う。割いたコマ数、秒数だけ見ても、「これこそが描きたかった!」というシーンを、残念ながらわたしには見つけられなかった。(友人は「ここに絵の具があったら!」がまさにそのシーンだという意見)

また、漫画はストーリーが進む中にも、解説コラム、図解があったり、作中漫画が入ったり、ペンやクレヨンや筆など画材も様々に表現されていた。読み手は、それらの表現のテンポの違いや、そのときの自分の心の動きに即してページをめくることができていたが、映画では十分に噛む間もなく、シークエンスやエピソードがどんどん消化されていくように感じられた。これは漫画とアニメ映画の特性の違いもあるのだとは思うけれど。

 

 

 

この物語について語ろうとするとき、自分の知識の浅さを呪う気持ちが起きて、なかなか手がつけられなかった。それでも、漫画を読みながら、少ないながらも戦争に関わる自分自身の記憶を引き出そうと、懸命の捜索をしていた。その気持ちを忘れずにいたい。

切り取る部分、光を当てる場所や角度によって、全く異なる物語が出てくるのが戦争で、その膨大さ、複雑さ、多面性に圧倒されるばかりだけれども、知り続けなければ、学び続けなければと思う。わたし自身もまた「記憶の器」として生きる覚悟をもって。

 

最後に、映画をどのように観るかは個人の自由であり、これは一つの見方に過ぎず、他を否定するものではないことを付け加えたい。