ヒトトビ〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する場づくりを通して考えることなど。

場づくりについての何度めかのユリイカ

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「人はなぜそのようであるか」
「なにが人をそのようにさせるか」

このふたつのテーマを、わたしは小さい頃から探究してきて、そのために日々せっせと場をこしらえているのだ、きっと。

…と、ユリイカしたのが今年の前半。


課題解決、課題共有、意思決定、協働共創、組織開発、事業創造、人材育成...。

そういうものが目的の場のワークショップ・デザインやファシリテーションをいくら勉強しても全くできるようにならなくて、「論理的思考をせよ!」「ビジネス感覚をもて!」と言われても頭が真っ白になってしまう。2012年〜2013年半ばまで。

あの時期は、バカな自分が嫌でしょうがなかった。

 

でも現場は大好きで、自分でひらくのも、参加するのも楽しくて、何が起こるかはわからないし、その場にいる人にしか味わえないダイナミズムをいつも感じていた。場をひらく人によって全然違う味わいになることも、次第にわかっていった。

 

「企画」の二文字だけで身が固まるけど、場をつくることに関わるなら、それが「企画」かどうかはどうでもよくてとにかく楽しくて、どんどんアイディアが浮かぶ。それが何につながるかはまったくわからなかったけど、とにかく片っ端からやってみた。やればやったで必ず何かを発見する。ふりかえって言語化する作業をひたすらやった。

何をやったか、一部しか記録していなくて大半は思い出せないけれど、多いときには月に8本ぐらい場をつくっていた。当時の状況を打破するためには、とにかくこの先に何かがあるんだと信じて、猛烈に進むしかないということもあった。

その中では、かつて学んだデザインの手法はかなり役に立った。 理論や技術を学び、それを自分流にアレンジし、自分のものにして立てていくこと。まさに守破離

 

人の学びや成長を促進、社会をよりよく、普及・啓発、ということを、わたしはあんまり意図していないのかもしれない。その日の場が終わったときにの「よい状態」を想定してプロセスをデザインする、という理論は入っているけれど、それが人の行動を過度に促進したり抑制するものであってほしくない。人の変化はもっとゆるやかで時間がかかるし、個別だし、ひとつの場だけでは成らないと思っている。

大切なのは、場ですることを通じて、自分がどう扱われたか・接してもらえたかではないか。

 

場をつくりはじめた頃は、「自分が変化のきっかけになりたい」と思っていたけれど、それも自分自身が人生で充実して満たされていくと、だんだんと考えなくなった。人に変化を促すような影響を与えたくて(つまり自分の力を誇示するために)場をひらいているのではない。

 

自分が無力だと思っていたけれども、探究テーマに沿ったことなら、どうも切れ味鋭くなれている気がするし、言葉が滑らかに出てくるし、堂々としている感じがある。それほど悩まなくてもアイディアが出るしプロセスが見える。抑えどころも実践を通してみえている。自分の深いところからの衝動から始まるものならば、なれる。自分がバカとかそういうことじゃないのかも、と思えてから楽になった。いろいろと抜け漏れはあるし、思い至らない部分もあるけれど、それも全部自分だけで引き受けなくていいということも知る。


論理思考的なワークショップやプログラムの開発ができる人は頭いいなぁ、すごいなぁと思うけど、自分がそれをできなくても今はあんまり悔しくない。「お客さん」でいられる。他の人との比較ではなく、わたし自身はなるべく、意図的に引き出すことはしたくないし、「これが足りていない人」という見立てを他者に対してしたくないし、人が発した意見の内容・起こしている行動だけに注目したくない感じがある。

 

場にいる人をそのまま聴きたいし、その場で起こることぜんぶを人の表現として見たり聴いたり味わったりしたい。その人が今そこに存在している。この池に石を投げ込んでいるときの波紋の出方(場への影響)を眺めたい。話すことより話しぶり、見えてくる感情、存在感を大切にできたらと思っているんだろう。できないときの自分の中の葛藤も含め。

 

場で何が起こっているのか、本質はなにかといつも探しているし、その人の本来性にふれたい、という欲求がある。たぶん。

人がなにかの役割や立場に拠ってのみ、そこに存在しているときは苦しい。意図するとすれば、安心して役割や立場以外からの声を発せられる場でありたい。