友だちと待ち合わせしたカフェで。
わたしはもうこういうものを見たときの反応が鈍くなったのだなぁ、とふいに思った。
テーブルのガラスの天板。
目の高さにくるぐらいの身長の子どもが、角でぶつける可能性...。
ほんの5、6年前までは、幼い息子とはこういうおしゃれなお店には来られないなぁと思っていたのに。
個人の状況や関心は移る。当事者性の変遷。でもその渦中にいる人もいる。暮らしや仕事の中で出会う人を通じて、渦中にいないからこそ、そのテーマに触れ考え続けられるのはありがたいことだ。
当事者性でいえば、過去にこんなこともつぶやいていた。
当事者の場をつくっていたときに怖いなと思ったのは、知り合う人や会う人が「当事者ばっかり」っていう状況になると同質性が高くハイコンテクストな関係性に慣れてしまう。それはよほど気をつけないと、全然違う立場や価値観の人にまでバイアスをかけて見立ててしまうことにつながる。と思った。
— せいこ (@seikofunanok) January 24, 2017
バイアスの話で言えば、先日、これまたふと気づいたのが、わたしは夜の時間の外の世界にふれなくなってずいぶん経つ、ということだった。
9時〜17時とそれ以降の時間。この10年、それ以降の世界のことは点、非日常としてしか知らない。その時間帯が選択肢に入らない日常。だからわたしには大きなバイアスがかかっている。そういうわたしとしている。
— せいこ (@seikofunanok) June 9, 2018
ときにその選択肢を持つ人を激しく羨むことがある。納得はしていても。今だけとわかっていても。身はひとつだし、体力的に実際無理だけど。でもほんとうにそれを選びたいのかというと、実はそうでもなくて、選んだほうの自分を夢想しているだけなのかもしれないとも思う。
— せいこ (@seikofunanok) June 9, 2018
そうしたらそのツイートを読んだ友だちが、共感をくれた。「人に嫉妬するとき、あり得たかもしれないけど選ばなかった自分が疼く」「でも理由はどうであれ、今の自分は選んで選んで選び抜いた上で、ここにいるのよね」と。
ほんとそうだなって。
今もこれからも、生きている間にまた選べるものもある。
同じものでなくても、底のほうでほしかったのはいつも「自由」「本物であること」だとしたら、きっと何度も満たされて幸せを味わうことはできる。
自分のバイアスを自覚しながら、聴く、話す。
そしてときには自分のバイアスから思いっきり語る。
そういうことをあれこれやってみている日々。