ひととび〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する場づくりを通して考えることなど。

みんながやっていたから

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昨夜、旧優生保護法についてのEテレの番組を見た。

 

まず思ったのは、この法律が「生き生きと」していた時代に育てられてきた人たちによって、自分が育てられたのだということ。

 

その時代に正しいとされてきたこと、常識を浴び続けて。

 

「人権意識を持つ」や「どんなあなたでも価値のある存在」という言葉は、その時代を生きていた人たちに今、届いているんだろうか。届いているとしたらどのように。

 

後々、知識や経験を通して獲得されたものもたくさんあるだろうけれど、育ちの中に人権が欠落した見聞と体験のほうが多ければ、人権を根源的にわかるのはとても難しいのではないだろうか。認知と変容に努力が要るのではないだろうか。そんなふうに思わざるを得ないようなニュースを日々、目にする。(いやもちろんそれとて編集されたものであるが……)

 

なんて罪深いことをしたのかと思うけれど、番組の中でも出てきたように、したほうの人間は悪気はなく真剣に、「みんながやっていたから」、「そのときはそれが正しい、よいことだと思っていた」のだ。

 

これははじめて聞く言葉ではない。いつもこうだ。命にかかわることほど思考が停止するし、善や正義のようなものと結びつきやすい。そして集団の力を得て暴力になる。

 

わたしの祖父母、曾祖父母世代からの戦争がまだ終わらない。こどもたちは戦争で大爆発を起こした暴力の後始末をずっとずっとさせられているように思えてならない。

 

火種はいつも人と人、そして場にある。日常の、自分のこの身体の、信じられないくらい近くに、ほかでもない自分の事としてある。要素がそろえば力の勾配が起こり、より弱い立場の人間(生き物もか…)が犠牲になる。

 

わたしは学び続け、自分の頭で考え、対話して意思決定することのほかに、テクノロジーを暴力の抑止に使いたいと思っている。暴力が存在することを認めながらも、行為化することを防げたら。

 

番組の内容は辛いものだったけれど、ここに書けなかったことも含め、「ああ、そこだったのか、それゆえにか…」と自分の中でつながることが多々あり、知れてよかったと思う。

 

番組サイト:クローズアップ現代
“私は不妊手術を強いられた” ~追跡・旧優生保護法

https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4122/