ひととび〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する場づくりを通して考えることなど。

男性による男性のための支援と場について

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きょうは、この5,6年ほどかかわってきた団体の、NPO法人化をお祝いする会に招待されて行ってきた。そこでは女性たちが当たり前のように「女性のサポートをしたい」との言葉を口にし、海を超えて集いがひらかれ、とてもあたたかな共感と応援と祝福に満ちていた。

 

そこには希望しかなかった。

 

その幸福と同時に、痛烈に無念さと怒りを覚えたのは、一体男性が男性に対して、このようなあたたかな共感や応援や祝福をもって支援するという場や行動が、今の社会にどれだけあるだろうかということだった。

 

社会的起業や場づくりという視点からこの7年、いろいろなものを見てきたつもりだ。でも「当たり前のように」「男性が男性をサポートしたい」と公言した活動や人をわたしは思い当たらない。

 

 

あるのは、励ましたり、焚きつけたり、煽ったり、能力を試したり、恥をかかせたり、教育的指導を施したり、心の弱さにつけこんで日常から引き離すもの。

 

あるいは女性の場に男性が「混ぜてもらう」ようなもの。

 

自然な分かち合いやつながりの中で、男性が男性に対して支援する、したい、というふうにならない、なりにくいのはなぜなんだろうか。

 

 

 

感情を出す=弱い=強い者が支配してよいという合図...という図式でもあるんだろうか。

 

 

自分の息子や周りにいる男の子たち、そして大人になった男の人たちを見ていてつくづく思うのは、「男の子はバカで元気でたくましくて乱暴だから、粗雑に扱ってもOK」とか「自分の気持ちの話を聴いてほしいなんて男らしくない」というようなことがまかり通るような時代ではまったくない。

 

繊細さも強さも、男性にも女性にもある。

 

人として扱う。


つまり人権Human Rightsが、ジェンダー平等Gender Equalityの根底にある。

 

 

このことに強い怒りを感じるのは、わたしの大切な男性の友人知人たちが、人生のどこかの時点で(またはそこから今に至るまで)、人として扱われてこない、男性らしさを強要される苦しさから怒りや不安や怖れを抱き、望まない暴力を自分にも人にも振るい、傷つき傷つける様を見なくてはならない辛さに因る。

 

男性が、男性自身を嫌悪する場面もたくさん見てきた。

それもほんとうに辛く悲しいことだ。

 

 

 

それからもう一つはやはり、女性がその暴力の被害者になり、男性の傷つきのケアをする立場に回らされるという実態がとても多い。多すぎる。もうたくさんだというぐらいに多い。そしてもちろんわたしもその一人だ。

 

このことをどう解決したらいいか、日々奮闘している。個人でできることは小さい。これは、今にはじまったことではないからだ。社会や地域の問題を取り込んだ世代の問題と家系の問題があるから。どうしたらいいかわからない。

 

きょうみたいに女性同士が支援しあっている場にいると、自分は女でよかったと安堵する。ヘルプを出せる、共感を示しあえる、手を差し伸べあえる。これまでたくさんの女性たちと手を取ってやってこれた。

 

安堵してしまう。

 

それは男性でなくてよかったという気持ちがわいているということだ。つまり、同じように男性が困窮したときに、脱落者の烙印も押されず、多くの男性から共感が示され、真に心をひらけ、助け合える男性同士の多様なつながりは、男性にあるんだろうか。公然と大変だ、辛い、悲しい、苦しい、サポートが必要だと言える安心安全な場は?

 

そして、わたしの息子はどうなるんだろうか。

今は繊細で優しい息子も、よき人、よき場に出会えないとき、人生のどこかの段階で、マチスモの刃に倒れてしまうのだろうか。

 

いろいろ思い出して泣けてきたのは、「そのような場や関係があれば、彼は亡くならずに済んだのではないか」、「生い立ちの中で男性らしさを強要されず、繊細さを押し殺す必要もなく、暴力も振るわれずに、人として大切にされて生きてこれていたら、彼(ら)とわたしはもっと幸せな関係があったのではないか」という思いが抑えられないからだ。

悔しい。

 

こういう構造を変えるために、ひとつ作りたいプロダクトがある。

少し前から考えていたものだ。

場ではなくて、物。商品。

それを一緒につくってくれるデザイナーを探す。

 

 

その話も次回のリブトビ逆噴射トークライブでしようと思う。