ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

「同性」の共感と応援によってしか行けない場所

きのう書いた記事がたくさん読まれているようで、びっくりしました。思うにまかせた未熟な文章を読んでくださり、ありがとうございます。

 

書いたものをFacebookでシェアしたら、友人たちが「どう読んだか」をコメントしてくれました。おかげでまた進んだことがあるので、きょうも書きます。

 

 

男性、女性と二つの性を挙げることについてはかなり躊躇もしていたし、ディスカッションの中で出てきたこともあるので、きょうはやはりそのことから。

 

この世に二つの性しかない、とわたしは言いたいわけではもちろんないです。ただ、性やジェンダーについてはまだまだ勉強中なので、言葉の使い方が違っていたらご指摘ください。

 

男性、女性という言葉を使うときには、性(sex)とジェンダー(gender)の二つの観点がありますが、この記事では、自認している性別(sex)と社会的な性別(gender)について扱っています。

 

そして、社会を生きる中で、生物的であれ、社会的であれ、性嗜好的であれ、「性別」によって背負っているもの、抱えているものが違っているとわたしは感じています。

 

自分の性を生きる中での、ズレ、ギャップ、違和感、コンフリクト、悩み、困り事が起きたときに、「異性」の理解や支援も非常に大きい力になるのだけれども、「同性」同士の分かち合いや委ね合いや頼り合いの場(関係や機会)によって、エンパワーされ、人が希望を持って生きていくことに、ずっと関心があるのだと思います。

 

特に社会的な「男性」「女性」のギャップに関しては、「男性」が「男性」を「共感をもって支援する」という残されたフロンティアの耕作に着手しないと、どうにも埋まらないんじゃないかと思っています。

女性から女性

女性から男性

男性から女性

はあるけれど、「男性から男性」がまだ耕されていないように思うのです。

 

 

 

きのう参加したのは、リスニングママ・プロジェクトという団体の会でした。

リスニング・ママ プロジェクト(リスママ)は、妊婦さんや、乳児〜未就学児・小学生を子育て中の母親を対象とした子育て支援プロジェクトです。

 

子どもと過ごす毎日の中で、煮詰まったり、くじけそうになったり、逃げ出したくなったり、自分の力を信じられなくなった時、ふと誰かに自分の話を聞いてもらいたくなったことはありませんか?

 

リスママでは「聴く」の専門的なトレーニングを受けたママが、プレママから小学生の子どもを持つママの話を20分間寄り添って聴きます。

 

聴き手からジャッジされず、アドバイスされず、話が漏れることもなく、安心して気持ちを話せる20分。どんな話でも大丈夫。一度体験してみませんか?

 

寄り添って20分、「ただ聴く」を提供している。その聴き手も出産し、子育てをしている女性。

女性が女性を支援する。

そのことによって女性だけではなく、彼女がかかわる子どもたちも育まれる。

家族が育まれる。彼女の生きる世界への影響がある。

そこに喜びがあり、よき循環があります。

 

 

 

きのう男性から男性への「支援は皆無」というようなことを書いてしまったのだけれど、

・医療、福祉

・カウンセリング、セラピー

・コミュニティづくりを支援する団体

・ホームレス支援

・DV加害者向けプログラム

ピアサポートグループ

・コミュニケーションを学んだり、対話を目的とした場

などは友人たちが挙げてくれたり、わたしも思いついたりしました。

 

ただ、それらの場は女性への支援とはちょっと違っていて、もしかすると、

  • 「困り事が話せる場」と掲げず、趣味やアクティビティで仲を深めることからはじめて、次第に悩みを話しあう関係になる
  • それが「男性」特有の困り事だと明示しない(人間ならあること、会社員ならよくあることだ、的な)

という特徴があるのかもしれない。

 

そういう間口の広いアプローチもある。

行きやすいのはいい。

 

違いといえば、女性による女性のための支援は、困り事を明らかにし、「女性」特有の困り事やしんどさであることを認めるところからはじめているところも多いと感じます。

 

でも数やアプローチのバリエーションやアクセスのしやすさでいえば、男性向けの比ではない。

 

 

わたしは男性の友人の悩みも聴くことがありますが、「男性の友人にこんなこと話したことはない、話せない」ともしばしば聞きます。信頼していて、話はするけれども、気持ちを話したり、本当に困っていることは開示できないと。

 

それは、女性が友だち同士でお茶をしながら、気持ちや悩みをじゃんじゃん話したり、お母さんの支援をしたい!働く女性の役に立ちたい!と明るく話すのとは対照的な世界に見えます。

 

何がストッパーになっているのか、ハードルになっているのかはわからないのですが、女性には話せるが男性には話せないというその枷は、どこから来ているのでしょうか。

 

本当に困窮するところまでいかなくても頼り合える場(関係)がもっと気軽に生まれてほしいし、動きがもっと起こってもいいのにな、と思う。

 

それは場の設えなのか、個人のあり方の問題なのか、両方なのか、、

 

 

女性が女性に対して関心を持つように。

男性が男性に対して関心を持ち、共感や寄り添いを持って支援する。

男性の人生がよりよきものになるように貢献する。

そして「困っていることをどうにかしたい」という場(機会や営み)を男性の手でつくる。

さまざまなテーマでつくる。

 

 

それでしか、「男性」のしんどさや苦しみや自己嫌悪をどうにかすることはできないのではないか、というところに、今わたしは考えがたどり着いたところです。

 

 

「同性」の共感と応援によってしか行けない場所があると思うんです。

それは「別の性」がお膳立てしてくれて行けるところともまた違う。 

 

 

わたしが女性たちと見てきた景色の美しさや、「同性」だからマジあったかい心のつながりを、男性が当たり前のように持てたらなぁと思うのは、大きなお世話かな。

 

 

 

「男性は共感は要らなくて、論理的な解決方法を最短で知りたい生き物だからしょうがない。そういう脳だから」という言説も見聞きするのだけれど、それはわたしはちょっと疑わしい。

 

 

共感も共有も支援もとても必要としていると感じます。

人はみんな必要としている。

 

 

ただ、もしかしたら、生物学的な脳のつくりや、育ってきた社会環境や、受けてきた教育や、「男性」社会からの圧力による難しさもあるのかもしれなくて、「男性」が自己共感や他者共感でつながる関係をつくっていくには、「女性」よりも意識的な訓練が必要なのかもしれない、ということは考えられます。(もちろん「女性」が全員、自己共感や他者共感にとても優れているということではない)

でも「性別」と共感力がほんとうに関係してるのかは謎。

 

 

なんにせよ、どの場もどの動きも、現象の分析や解説だけして放置したり、自己嫌悪を煽るのではなく、勇気づけるものであってほしいと願う。

 

 

 

実は子どもたちのほうがずっと進んでいるのかもしれない。

男の子だから、女の子だからということに全然とらわれていなくて、共感的で繊細で優しい。そんな子どもたちを受け入れる準備を大人がむしろできていなくて、悪いことには潰しにかかっている。それもどうにかしたい。

 

 

 

今読んでいる本、「虐待・親にもケアを」のあとがきに書いてある文章が、なんとなくこのことと関係があるように思うので、引用します。

 

出会っていくという回復のプロセスの中で、人は自分に正直にならざるを得ません。自分に正直になるとは着込んでいるたくさんの不要な服や鎧を脱ぐことです。そのプロセスには恐れと苦痛が伴いますが、人と人とが優劣で競い合うパワーゲームの中で生きている虚しさに気づかせてくれます。他者との比較、他者への優越感によってしか自分の価値を自覚できない競争社会にあって、では自分ではどう生きたいのかという多くの人が避けている課題に向き合わせてくれます。持ちすぎているものを手放し、着込みすぎている服を脱いで、地に根を張って立つ木のように素足で土を踏みしめれば、自分の存在の輝きが姿を表すという真実に気づかせてくれます。

 

 

 

性別のことについては、まだもやもやしてうまく書けていないと思うし、がさっとしたくくりにどうしてもなってしまう。 もっと丁寧で的確な言葉があると思います。

 

 

しばらくこのテーマで探求の旅を続けます。

 

 



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