男性による男性のための支援について、2本記事を書いて、いろんなフィードバックをもらって、また書きたくなりました。
男性による男性のための支援と場について - ひととび〜人と美の表現活動研究室
「同性」の共感と応援によってしか行けない場所 - ひととび〜人と美の表現活動研究室
しかし、考えをまとめて一本の記事にするのが今どうしてもできなかったので、自分のコメントをばらばらとまず貼ってみて、最後にまとめを書きました。
女同士の付き合いは共有共感もばっちりで快適なので男も同性同士でつながるのはおすすめって話のようにも読めるなぁと思えてきたのだけれども、これ書いた発端がリスニングママ・プロジェクトなのよね。今のわたしの人間関係が、精神的自立と心地よい境界線があった上での共感ということが抜けてる。。
— せいこ (@seikofunanok) October 15, 2018
自分がすごく狭い世界に生きていることや、一人ひとり見えている世界が全然違うことはよくよくわかっているんだけど、それはそれで人間社会のある面の縮図だと思うし、その狭い世界のおもしろさ味わい深さを実感と共に表現して、誰かとどこかで一瞬交差できたらおもしろいなと思っているのです。
— せいこ (@seikofunanok) October 15, 2018
あえて社会的な男性、女性とくくっているのは、それがあるという前提の社会の中で生きるときのズレや違和感があるから。
もし社会的な男性が男性を支援したり、そのズレや違和感の認識を共有する場がもっと増えたら、
いつしかどちらからも、「ほんとうに男性とか女性とか曖昧な区分けでしかないよね?多様だよね?」ってとこに至れるのではないか。
なるほどなー
"女性が「同姓の中で共感する」ことが強いことで、その輪から外れた人たちの「場」が少ない"
そうかー。あるのかもしれないですね。
うーん、うーん、、、
わたしは場をつくるということをテーマに生きているので、どうしてもこの発想になりますが、
もし、ある人が、生きていてズレや違和感をもっていて、それが耐え難く苦しい(阻害されていると感じる)のであれば、わたしはこうだ!と旗を立て、場をつくることで、あるいは場の一員になることで、人と出会って、自分と出会って、共感と応援を得て、顔を上げてspeak upしたら、希望をもって生きていける可能性が大きい。ぜひそうなったらいいのにって思うのです。これをSisterhoodっていうのかな。
言いたいのは結局そこで、それはどんな性であれ、なんですよね。ただわたしが見えている範囲では、「男性性」(ややこしいなぁ、性...)、左脳的っていうのかな...のほうが不得手で不慣れなように見えるし、思考・判断・裁定が激しい、ように思える。そういう傾向があると、恥や罪悪感や劣等感は押し込められ、怒りが蓄積され、どこかで爆発する。
感情的な安全性がもてる場を自分の手でつくれたらすごくいいですよ、とか、ジャッジなしに、思考判断や編集を交えずただ聴いてもらうのは良いものですよ(それは訓練で身につけられる)、ともわたしは言いたいかな。
「性を扱いながら、軽々とそれを超える」をわたしも見たいんだよなー
「支援」というものの解釈が人によって、あまりいいイメージがないのかもしれないと思った。
わたしはSupportとして使ってたんだけれども、アドバイスされるとか、内側に踏み込まれるとか、脅威だったり、大きなお世話だったりしているのかもしれない。
そもそもこのことを書き出した発端が、リスニングママ・プロジェクトで、その活動は「20分ただ聴く」で子どものいる女性をエンパワーしているんです。ジャッジなし、アドバイスなしで聴いてる。相談というのとも違う。心療内科的なカウンセリングでもない。
それはすごく支援的Supportiveなんだけど、この感じが伝わりにくいんだろうなぁ。難しいなぁ。
記事が読まれてうれしいけれども誰かを傷つけたり、もやもやさせたりもするんだろうなぁとも思う。
まぁでもわたしの書いたものが意図通りに伝わることっていうのはないと思っているので(わたしも本当に何を書いたのかは自分ではわかっていないし、、)、これによってなにか考えることがあったり、誰かと話すことがあったら、そういう踏み台としてあるのは、本望です。
「支援」というキーワードで語るならば、例えば、マドレボニータやリスニング・ママプロジェクトを通じて知り合ったり、ご近所さんだったり、自分がひらいた場に来てくれて知り合ったり、の女性の友人たちといるとき、おしゃべりするとき、一緒に何かをするときのこの気持ちよさといったら!という感じ。この出会いがわたしにとっては宝。
核をもった個としていて、精神的な自立があり、ユニークで、感受や感情がたくさんで、それでいて共有できるところもあり、お互いの境界を守りながらも愛にあふれていて。
泣きつくときもあるし、みっともないところもいっぱい見せて、助けてもらうときもあるけれど、すごく対等で相互的。
支援というといかついイメージがあるけれど、わたしの身近にあるのはこういうものです。
あとは生物的性の別があり、やはり「同性」同士でも話したほうがいいと思うのは、息子の性教育のことを考えはじめてからです。「男も、女も、カテゴライズできない性も、違いはないよね」と、ここは言えない。
うん、そうだろうなぁと思います。そうだろうなぁというのは、女性男性という二分された何かでつながりたくなかったり、つながりたくないテーマがあったりすることや、既存の場や関係の中に合うものがないことや、これまでそのことで嫌な経験をしてきたこと。わたしにもあるので。警戒などもあると思います。
頼んでないのにずかずか入って来るお節介とかアドバイスや人をカテゴリでくくるのが「支援」なのではなく。
直面している課題が自分一人で考えても、自分のこれまでの経験や全能力を投入してもどうにもならなくて、他者の力が必要なときに、個人としての核や精神的自立や境界線は確保され尊重されたまま、ジャッジされずただ聴いてもらえたり、自分が選ぶこと・自分の力で道をひらいていくことを応援してもらえる、感情的に安全な場や関係をわたしは「支援」と呼んでいます。当然ながら「弱者を助ける」というのでもない。
もしその直面している課題が、なぜわたしが理不尽な目に遭ったり違和感を覚えているのか--> Because I am a girl/woman や Because I am a boy/man というフレーズにつながるものであるならば、それは同じように【切実に苦しさを感じている者同士】でしか真にエンパワーできないのではないだろうか?という仮説です。
そして今わたしがどの立場から言っているかというと、
・Because I am a girl/womanと感じることが人生の中でほんとうにしょっちゅうあった。
・girl/woman同士の自立しつつ共感を伴う心地よい「支援」の中にわたしはいる。
・boy/manから助けを求められる。場というものに興味があり仕事にしている。
そのような立場から見て、boy/man同士の「支援」の数やバリエーションが少ないことが問題で、それはgirl/womanの側からいくらお膳立てしてもどうにもならない、切実に感じている人たちが立ち上がらないとどうにもならないのではないか、と思っている感じです。
友人たちと言葉を交わしてきて思ったのは、ほんとうに聴いてもらえてきてなくて、ジャッジや評価やアドバイスやマウントされてて、場で嫌な思いをしていて、「支援」という言葉にもういいイメージがない人もいるのだということ。
そもそものところで、精神的自立、境界線、尊重、感情的な安全性が人間関係の中で薄いまたはない、のではないかというのを、場をつくる仕事をしていても、日々生活していても、ひしひしと感じています。「ここでは何を言っても大丈夫と思える」という感想もよくいただきます。
自分も未熟だから、できない、わからないことも、もちろんあります。
わたしが長い時間をかけて辿り着いた関係や場は、もしかしたら特別なことなのかもしれない。わたし自身、時間もかかったし、、
でも、「あると信じたいけどほんとうにあるのかなぁ?」と思っている方がいるとしたら、「あるよ!」と大声で言いたいのです。
今はないところにも育める。
そのとてもよい関係性がどのようなものなのかを、バシッと書くというのがとても難しくて、この通り抽象的にしか表現できてなくて悔しいです。
精神的に自立し、他者との心地よい境界線を持つことと、共感でつながることは対立しないのです。
「聴く」とか「聴いてもらえる場」を増やしていきたいなぁ。
聴けるプロフェッショナル(カウンセラー、コンサルタント、サポーターとか)ももちろん増えてほしいし、そのお仕事でなくても聴ける人。もっともっと。
そして今回の記事で書きたかったのは、それはわたし個人にとってはとても快適な関係だけれども、感情的な安全性や、他者からの共感は必要としていなかったり、「なぜこのように理不尽なのか-"Because I am a girl/woman, boy/man"」と感じたことがない方もいると思う。その方にはわたしが書いてきたことは、的外れだと思います。
あくまでも「違和感や苦しさを感じていて、それがジェンダーギャップに起因するなら」という仮説を書いてみたものです。
誰かの生き方やあり方を批判するものではないです。
わたしもあなたも、お互いに「そうでないと生きていかれない」人生を生きていると思ってます。
そして「場をつくる」ということにおいては、わたしは力になれます。
うん、そんな感じだな!