ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

「心の声と体の声はちょっとだけずれている」を読んで

吉本ばななさんの有料メルマガ(note)を購読している。
最新の配信を読んで、思い出したことを書いてみたい。

 

 

先日の競技かるたの大会で、めでたくC級初段に昇段することができた。

大会というのは不思議なもので、今までわからなかったことや努力してもなかなかできなかったことが急にできたりする。一気に成長させてくれる、ありがたい機会なのだ。

 

今回も不思議なことがいろいろと起きた。そのうちのひとつ。

 

試合がはじまって読手の声がよく聴こえない、ということが起きた。

 

序歌を詠んでいる時点で、「おや?なんだか声が小さいぞ、よく聴こえないぞ」となり、一枚目が詠まれて、「うわっ気のせいじゃない、ほんとに声が小さい」となった。思わず対戦相手と「聴こえにくいですね」と交わす。周りの選手たちも少しざわついている。

わたしが座っていたのは読手から一番遠い場所。とはいえ、マイクを通して詠んでいるので、場所による有利不利があるのか、実はあまりよくわからない。

 

二枚、三枚と詠まれる。取ったり取られたりしているが、わたしも相手もお互いに聴こえづらいために、いつもよりだいぶ遅いタイミングで取っている。

 

今、手を挙げて、運営スタッフの方に「聴きづらいです」と訴えようかな、と一瞬思った。

既に流れはじめている場に介入するって、なかなか言い出しづらい。でもわたしは場における数少ない大人なので、「子どもたち」に代わってそういうことを引き受けたほうがいいのかもしれないと思った。もちろんリクエストを出すこと自体は許されているし、そのことが受け入れられなくても、批判されることはないはずだ。

最悪、「詠みが聴こえなかったせいで負けた」という形にはなりたくなかった。それならば早めにその状況を改善するほうが、前向きで正当なように思えた。

でも同時に、今ここでリクエストを出したら、会場にいる600人ぐらいいる選手や引率の方たちが一斉にわたしのほうを見る。聞き入れられてもそうでなくても、そういう大きな波紋を起こす動きをしたことに、わたしは絶対に激しく動揺するだろう、と想像した。まして聞き入れられない場合はどんなに恥ずかしい思いをするだろう、とも。

 

そのときハッと気づいた。

普通に取っている人もいる!!


聴こえないねと動揺する人たちに混じって、取っている人が確かにいる。しかも数人ではなくてたくさんいる。

取っている、ということは、その人には聴こえているということだ...。

 

反射的に、「その人は特別に耳がいいので聴こえるのであって、わたしはそれほど耳もよくないから聴こえなくて当たり前なのだ」という言い訳が心をよぎる。「読手の声が小さくて、よく聴こえなくて負けた」という人の話も聴いたことがあった。

もしわたしが同じように言ったら、「不運だね、そういうのあるよね」と同情してもらえたり、「なにそれ、運営ちゃんとやってるの?」と恨みの感情を一緒に燃やしてもらえたり、するかもしれない。「自分に嫌なことをしてくる何か」を据えるという道を歩いたこともあるので、容易に想像できる。

 

でも、そのときわたしはそちらにも行かなかった。

何をしに来たかといえば、試合だ。試合をしに来たのだ。

畳の上に座ったら言い訳はしないと決めている。

 

わたしは切り替えた。

聴こえている人がいるということは、わたしにも同じ音が届いているということだ。

わたしにも聴こえるはずなのだ。

 

わたしは「こんな音がこんなふうに聴こえるだろう」と待っていたから聴こえないのだ。

その想定や予測を外したところで、受け身ではなく、自分から音をつかみにいかないといけない。聴きにいかなくてはいけない。

 

よし、聴こう!

 

なんだか漫画みたいなのだけれど、ほんとうにそういう対話が2,3秒のうちに花火のようにわたしの中に起こった。

わたしの思考と精神と身体が全員一致の上で、「聴こう!」と決めた。

 

そう決めて構えると、不思議なことに、その次の札からいきなり音が聴こえるようになった。何枚か連取して、「ああ、やっぱりそうだったのか、自分から聴きにいかなくてはダメなんだ」と決断を喜んだ。

 

集中が切れそうになったり、試合が進むにつれて決まり字が変化していくと聴こえなくなって、取られる札もあった。

その微調整をひたすら繰り返したり、もし1音目が聴こえなくても2音目で反応できるように暗記を正確に回しているうちに、相手がお手つきをしたり、わたしのほうが早く反応できたりして、どんどん戦局はわたしのほうが優勢になり、最終的に10枚差で勝った。

 

「大きな相手」を変えられないときに、できることは自分が変わることしかない。

どういう変え方をするかは、そのときそのときで違う。

 

自分が無力な被害者になる道を選ぶのは楽だ。もちろん、ほんとうに暴力の被害を受けているときや嫌な目にあっているときは別として。(こちらはこちらで戦い方がある)

仮置きで一旦誰かのせいにすることで、からくりが見えて、理解しやすくなるときもある。ほんとうにわからない問いのときや、感情があふれてどうにもならないとき、誰もいないところで一旦そうしてみるのも効果がある。

 

でも、今そっちの流れに乗りたい?乗り続けたい?と自分に問うてもみる。

 

ばななさんのメルマガの中では、よくない思考回路のことを

「思いグセ」

と表現している。

 

さらに、

「思いグセ」と「それを叶えてくれる役者」がいつまでもそろっているとエンドレスループになるが、この例のようにどちらかがなにかでそれを抜けちゃうと、肩すかしになって世界が簡単に変わってしまう(略)

ともあり、つまりわたしが大会で経験したことは、「思いグセ」を抜かしたことで、別の流れを生み出し、すかさず乗ったということなんだろうと思う。

そしてそれをひたすらやり続けたことで、勝ち上がって昇段できた。勝因は他にもいろいろありそうだが、わたしにとって一番大きかったのはこれだ。

 

それから2週間のあいだにも、「思いグセ」と「それを叶えてくれる役者」のループに乗りそうになるときが何度もあった。

でもかろうじて乗っていない。

 

そっちは嫌だ、ということがわかっている。

対処しなければいけないこと、不満に思っていること、心にひっかかっていること、などなどがたまってきて目盛りいっぱいにはなりそうだ。でもよくない流れが出現してきそうになったら、早めに人前で泣いて嘆きまくったり、美味しいものを食べたり、さっさと風呂に入って寝たりしている。

 

それでどう状況が好転するかはぜんぜんわからない。

 

しかし少なくとも、わたしの尊厳は保たれている。

わたしはわたしのかるたをしている。

人の流れを悪化させてもいないと思う(たぶん)。

 

嫌な流れに乗るとリカバリーがキツい。その瞬間は楽だけど、結局あとからリカバリーが必要になる。そこに時間やエネルギーを投入している場合じゃないという切実さのほうが今は強い。

 

自分の中にある、そして人が今までに分け与えてくれた、たくさんの善きものの力を使いまくり、なんとしてもそっちには行かないのだ。

 

でももし行ってしまっても、気づいたらだいじょうぶ。

リカバリはできる。

人間は生きているかぎり回復する。

 

 

そんなことを今回のメルマガを読んで思った。

 

 

最近読んだ、「吉本ばななが友だちの悩みについてこたえる」という本もぐさぐさきて、「ほんまそれ」と何度もつぶやいてしまった。www.amazon.co.jp

 

もちろん中には、「これはようわからんなぁ」「これは言い過ぎでは」と思うものもある。でも「今後わかるときがくるかもしれない」とも思う。

 

ともかくどちらも、ハードな人間関係をわたり歩いてきた、一人の人間の実感の言葉として読んだ。

 


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