ひととび〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する鑑賞の場づくりを通して考えることなど。

新年度にあたり

きのうから息子の学校がはじまった。

年度が改まる感覚は、学校に行っている子どもがいると特に強く感じられる。そこにはコントロール不可なリフレッシュ感があって、所属する団体のないわたしとしては、とてもありがたく感じる。

 

登校してすぐ、クラスを聞いて、仲のいい子の行き先を確認して、そのあとに大好きな先生が今年も変わらず担任だと聞いて、思わず涙が出ちゃったの......と息子。

よかったねぇ。わたしもうれしかった。

担任の先生が誰か、どんな人かは、子にとってもちろん重要だけれど、保護者にとっても大変重要だということを、保護者をやってよくわかった。

対話できるかどうか。

 

 

3月の1/2成人式があった翌週に、先生に時間をもらって、1時間ほどお話した。

この学校の1/2成人式は、趣旨や内容や進め方に、保護者としても個人としても看過できない部分があり、申し入れをした。話し合いの末、子もわたしも欠席した。

欠席できてよかったと心から思っていること(でも穴を開けて申し訳なかったこと)、それまでの2年間、先生に担任をして、日々みてもらって、ほんとうに感謝していることなどを伝えた。

こちらが見ている風景や実感を一生懸命伝えたら、先生からの風景も伝えてくれて、その交換がフラットにできてよかった。自分の話を聴いてもらえたこともうれしかったし、先生の話を聴かせてもらえたのがありがたかった。率直で素朴で真摯で。

それで最後には、「息子もわたしも来年も先生に担任になっていただきたい気持ちがあります」と告白(!)できた。

話に行くか迷って、友だちに相談したり、ぐずぐずしながら、結局最後は息子の「大事な気持ちは伝えたほうがいいよ!どうだったかあとで教えてね!」という言葉に背中を押してもらった。

 

それまでの先生との関係もあるけれど、1/2成人式をきっかけにした対話があったからの、よりよい時間だったなぁと思う。立場をわきまえながら、可能な限り、勇気をもってひらいてゆくことができた。

式自体は、結果的には欠席で終わったのだけれども、自分が声をあげたことで、先生や学校とよい関係ができてよかったと思っている。

 

自分の中で、「既存のものはどうにも動かなくて、オルタナティブ路線をいくしか生き延びる方法はない」という怖れからくる信念があったのだけれど、それがするするとほどかれていったような出来事だった。こういう経験ができてほんとうによかった。


今ふりかえって思うのは、自分にとって切実なことが出てきたときに、対話の機会を持つという行動は、すごく勇気の要ることだなぁということ。個人的で個別的なことで、意見を出していいのかな?クレームって思われないかな?と迷うし、そもそも切実であればあるほど、それを言語化することが辛いので引っ込めたくなる。

でもやっぱりその切実さは理解してほしいし、信頼している相手だからこそ、一緒に考えてもらいたいという気持ちがある。それを認める。

あるいは一緒に格闘してもらいながら、信頼が高まっていくことに期待する。

 

リクエストは出せる(クレームではない)。
中には断れることもある。お互いに。

そして望んでいる通りに事が動かなかったとしても、石は置ける。薪は投下される。(薪はいずれ時期が来れば着火される)

 

伝えることで世界に自分の居場所がふえる、広がる、かかわる領域がストレッチされる、さらに息がしやすくなる、世界と自分とのつながりが強くなる、自分と世界への信頼が高まる。

短期的にどうにかならなくても、お互いに中長期的に影響を与え合えることにつながると、という希望がある。

このエネルギーの磁場を発生させるということが、次につながっていく気がする。

循環させるエネルギーを自分からつくり出す。

 

相手の可能性も自分の可能性も信じて、両者で作っていく関係やビジョンに希望を持ち続けていたい。

お互いに自立しながらも必要としあう、愛と信頼をベースにした成熟した関係を、自分の中とまわりに作って、自分を生きやすくしていきたい。

 

 

昨年度、PTAの委員として企画し、高橋ライチさんを招いてひらいた「子どもの話の聴き方講座」にも先生は出てくださって、すごく勉強になったとあらためて伝えてくださって、ありがたかった。(関連記事

小さな石だけれど、結晶を手渡している。かがやきの、命の長いものを手渡したり、ほうぼうに転がしたり、これからもしてゆこうと思う。

 

わからない、知らないから教えて!
知らなかったよごめんなさい!
じゃあ一緒に考えようか!

と言えるって、人として大切なことだなぁと、先生から教わった。

 

教え合う、教わり合う。関わる、関わりあう。

子の時代の、自分が親である時代の、学校公教育は、相互的で共感的で、ほんとうは自由度が高いものなのではないかと思えてくる。

友人たちがシェアしてくれることもありがたい。

「学校って場としてすごく可能性あるところだと思うから、せーこさんの存在が光になると思う」
「遠い人だとこちらが思うと、遠くなってしまうけど、本当はこちらからどんどん近づいた方がいい存在だな」

うん、ほんとうに、そう。

 

そう思えないときもあるし、実際の過程はぎしぎしざりざりどろどろした感情にもまみれるし、そっちが優勢な世界があることも知っている。

でも、自分の生きている現場では、日々、よい実感の話をコツコツと積んでいこうと思う。

誰かのためというより、なにより、自分がそこに希望を持って生きたいから。

 

 

巡る春。

 

 


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