去年から鑑賞対話の場「ゆるっと話そう」もあって、シネマ・チュプキ・タバタに通うようになって、田端に急にご縁ができた。
駅前のコメダ珈琲に寄ったとき、同じビルの1階に田端文士村記念館という施設があるのに気づいた。北区の博物館のようだ。
いつか訪れたいと思っていたところに、芥川龍之介の死に迫る特集との町内会の看板を見つけ、これは絶対に行くぞ!と決意。
ちょうど芥川賞の発表があったのもきっかけになり、ふらりと寄ってきた。
《企画展》芥川龍之介の生と死~ぼんやりした、余りにぼんやりした不安~
https://kitabunka.or.jp/tabata/news/3611/
入口すぐの展示ルームは、田端文士村にどんな芸術家たちが暮らしていたのか、活動年表、交流などの概要がまとまっている。
真ん中の吹き抜けの展示スペースには常設のビデオコーナーと企画展その一、奥の展示スペースに企画展その二、という配置。こじんまりとしているが中身は濃い。
文士や芸術家たちが田端近辺に暮らしていたということをわたしは知らなかった。なんとなく大森近辺にはそのイメージがあったが、田端もそのような土地だったのだ。しかも芥川龍之介、室生犀星、萩原朔太郎、菊池寛、堀辰雄、佐多稲子など超有名文人をはじめとして、歌人や画家や工芸作家なども数多く住んだという。こちらに芸術家一覧がある。錚々たる顔ぶれだ。
1945年終戦近くの大空襲で焼けて、この文士村は「解体」してしまうが、かつてこの地に培われた芸術の都が確かにあったという痕跡を、各々の芸術家の作品や遺品や記録資料に見ることができる。それらが展示されている館があるのは貴重なことだ。
ちょうど先日友人と「蜘蛛の糸」の話になり、「芥川龍之介っていじわるだよね」と意気投合したところだった。あの話、教訓話なのかと思いきや、そういうわけでもないような、何か後味が悪いような、薄ら寒い感触があるなぁと思っていた。
どの作品も彼にしかない完璧な美学で貫かれている。わたしは彼の作品を好きや嫌いの判断が未だにつかない。
ただ、どうしても惹きつけられてしまうところがある。
芥川龍之介の写真はどれも出来過ぎだ。カッコよすぎるほどカッコいい。
高校の国語便覧の中でも際立ってカッコよかった。
けれども甘さはない。神経質で洞察力鋭く斬られそうだ。
一番言ってほしくないことを言う。当たっているだけに痛い。
そんな意地悪さを感じていた。
怖い人だなという印象をずっと持っている。
龍之介と藝術論を戦わせた谷崎潤一郎、龍之介が人生と作品に多大なに与えた影響を与えた室生犀星、龍之介が創作を励ました堀辰雄、死を知らせる記事や友人たちの言葉、遺書、弔文の数々によって、龍之介の死の前後の日々が描き出される展示になっている。
誰もがある種の思い入れを持たずにはいられない人。
龍之介と親交のあった芸術家一覧を見るとざっと700人はいようか。さしずめFacebookの友達一覧のようだ。師の夏目漱石に倣い、毎週サロンをひらいていたという。
場をつくっていた人。
「あれほど人とつながっていた人であっても、相談する相手がいなかったとは...」という死後の友人の言葉が胸に刺さる。もちろんそうかどうかはわからない。相談をしたのかもしれない。それでも、そういう度合いを超えていたのか、という気もする。
本人にしかわからないことがあるのは、いつの時代の人間も同じ。
親友への遺書には、近親者との関係について触れているくだりもあるが、展示の中では解説されていない。謎めいた死。
もしかするとこれだけ時が経っても、語れないことがあるのかもしれない。
二つあらためて思ったことがある。
一つは、この時代に夭逝した芸術家は芥川龍之介のほかにもいた。急激に西洋化した近代日本の大きな時代のうねりの中で、繊細な感受性を発揮しながらも、それがために翻弄され苦悶する人たちの姿が、またここでも見えてくる。
もう一つは、生い立ちや、人間関係や、心身の病が人間の生涯に与える影響が大きいことを、わたしは芸術家の人生を通して学んできたところがある。その表現作品、作品の変遷、日記や写真や手紙など遺したものによって、精緻に知ることができる。同じようなことを、科学者や経営者や政治家からも学ぶ人もいるだろうと思う。わたしの場合は、芸術家から。
館内に置かれていたこの本は、「家族」一人ひとりの言葉を通して、また新たな龍之介の人柄に触れることができる。不思議と自分も龍之介に近い立場の者になったような、そこはかとない悲しみと優しさと癒しに出会うような一冊だ。
ロビーのビデオ視聴コーナーでは、芥川龍之介が自宅の庭で子どもたちとくつろぐ2分ほどの動画を見ることができる。
ほいほいと木に登り、屋根をすたすた歩いていく。
子どもからつばの広い帽子をばさりとかぶせられ、一瞬驚くが、すぐに目線をこちらに向けて、タバコに火をつける。
世が世なら、と思わずにはいられない。