ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

映画『風櫃(フンクイ)の少年』(台湾巨匠傑作選)鑑賞記録

5月〜6月、台湾巨匠傑作選2021侯孝賢監督40周年記念 ホウ・シャオシェン大特集を追っていたときの記録。

 

※内容に深く触れています。未見の方はご注意ください。

 

15本目は、侯孝賢監督『風櫃(フンクイ)の少年』1983年制作。
原題:風櫃來的人、英語題:The Boys from Fengkuei

日本では1985年のぴあフィルムフェスティバルで『風櫃から来た人』の邦題で上映された後、1990年に『風櫃の少年』の邦題で劇場公開された。

あらすじ・概要:風櫃〈フンクイ〉の少年|映画情報のぴあ映画生活

 

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パラパラと感想と記録。

 

▶︎侯孝賢にとっての記念碑的な作品と言われているのが、よくわかる。

制作当時、36歳ごろか。思春期から青年期へ移行するときの人間の、荒々しさと瑞々しさが溢れている。勢い。若者をテーマに撮るには、やっぱり若い時が一番いいのかもしれない。

 

▶︎古い映画だが、デジタル化してあるので、観るときの負担が少ない。

 

▶1980年代の台湾。初めて見る離島。成長著しい台南の街並み。目に映るものが、なんでも楽しい。映画として残っていなければ、誰もわざわざ記録しないようなものが映っている。その時代に、たまたまあったものたち。変化は少しずつ起こっているが、渦中で生きて暮らしているとわからない。ある程度時間が経ってから変化として捉えられるようになる。

 

▶︎『風櫃の少年』は、わたしの中では、「男友達映画」。侯孝賢の作品で、真正面から男友達について描いているのは、意外とこの作品しかないかもしれない。

『恋恋風塵』は「少年期の終わり」、『憂鬱な楽園』は「チンピラの兄貴と子分愛」。どちらもテーマは近いようだけれど、ちょっと違う。


▶︎地元ではバカばっかりやってる少年たち。たぶん同い年で幼なじみ。毎日のバイク、ビリヤード(ビリヤード台が小さい!?)、イジリ、ケンカ、冷やかし、ジャンケン飲み......。やれやれだ。

少年たちの世界には基本男しかいない。その他、「口うるさい」母親と、「陰の薄く社会的に弱い立場の」父親と、時々女(「おい、女だぜ」)が出てくる。そうそう、初期の侯映画の感じ。

つるんでいるようで、実はそれぞれに家庭の事情は違い、性格も違うので、人生の道は分かれていく。地元に残れる奴は残って、うまく馴染んでいくし、居場所のなかった奴らは、半ば家出のように出ていく。ある日、港でまずは一人目の男友達との別れがある。

初めて降り立つ大都会、高雄にまごまごしながら、友達の姉を頼って、なんとか住まいを確保する。姉にバカにされつつも、工場での仕事を見つけ、彼らなりに自立しようとしていく。都会は波の代わりに車の音が始終している。

借りた家の向かいには、夜間部の学生ジンフーと、その恋人シャオシンが暮らしている。(「同棲、いいなぁー」と言うあたりにも若さが)

この頃の映画には「夜間部に通う学生」がよく出てくる。どういう教育制度や社会背景だったのか、気になる。恋人である女性と一緒に買い物に出るシーンがあり、そこではじめて、同年代の女性との体格差を比較して、彼らが身体の成長著しい男性であることに気づく。しかしみんな細いな。

 

向かいの男は、イライラすると椅子を蹴ったりするし、会社の品物を盗んで売り捌いたりする。そういう男をちょっとどうかと思いながら、彼女に惹かれているために言えないアチン。

一緒に出てきた友達は、最近悪い奴らと付き合っているようで、そのことにキレたりもする。「東亜日本語180の時間です。あ い う え お」と、突如流れ出す日本語講座。日本語の勉強をはじめるアチン。(ということは、この頃に日本語ができると仕事上有利などがあったんだろうか?) なんとか現状打破しようとしているのが見えて、このあたりからもう彼がただのチンピラには見えなくなる。

 

一方で、ジンフーは、「進学しない。稼ぐのが遅れるだけだ」と言い、船に乗る仕事を選ぶ。

これは、この時代の、ある地方の、ある社会階層の人たちのリアルなのだろうか。学ぶこと、稼ぐこと、そして近い将来やってくる兵役。貴重な若い時間を何に使うかは、彼ら自身には、ほとんど選べないように見える。

一方、少女であるシャオシンは働いていないようだし、学校にも行っていないようで、かなり謎な存在だ。彼女がどのように社会とつながっているかはわからない。このことは、ジェンダー格差と関係しているのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。

 

そうこうしているうちに、都会に出てきた3人のうち1人には彼女が出来そうになり(失礼な扱いをしたために振られるが)、1人は仕事を辞めて、違法コピーのカセットテープか何かを露店で売るようになる。

「いつまでも一緒にはいられない」が、どんどん現実化していく。

 

追いうちをかけるように、アチンの父が亡くなる。父はアチンが幼いときにスポーツ中の事故で障害を負い、意思疎通もできなくなっていたが、亡くなるという決定的な出来事は、アチンにとって故郷とのつながりや心の拠り所を失い、一つの時代が終わったことを意味した。

父が亡くなっても誰も悲しまないし、悼む気配もない。やりきれないアチン。やはりここには居場所はないのだと悟る。

高雄に戻ったアチンはシャオシンの存在も失う。台北行きの高速バスを見つめ、呆然とする。

帰り道に2人の友達の露店に寄る。まだ完全に一人ではない。しかし、その片方の友達にも兵役の招集がかかっていた。「兵役記念セールだよ!」と声を張り上げて呼び込みをするアチン......。

 

▶︎こうして振り返ってみると、少年たちの日々は実に危うく、社会の波に飲まれそうになる小舟のように頼りなげだ。努力でもない、運でもない。特別不幸でもないが、安泰でもなく。何かが完全に詰んでいるわけではないが、未来は見通しにくい。

その一瞬の時期を閉じ込めている。のちの作品に影響を与える記念碑的な作品。それがわかるのは、30年後、40年後の今なのだが、撮られた当時はそんなことはわかるわけがない。ただただ、現状打破していこうとする一人の映画監督、台湾映画の新しい波を起こす人たちの気概がそこにある。

ああ、そうか。やっぱり、その時その時で自分がやりたいことを、ただただ夢中でやるに限るんだな。そして、どんなに先を見通せない時代に生きていたとしても、どうにかみんな大人になってほしい。

侯孝賢作品にいつも共通している、「そして人生は続く」も、この映画がはじまりだったのかもしれない。

 

▶︎一つ、ものすごくカッコいいシーンがあった。
まだ阿清たちが島にいる頃。

夕暮れ。画面右から、道なりにカーブを描きながらバイクがやってくる。

画面奥には空、海、島。門の前で飛び降りた阿清。バイクはそのまま画面手前を右に消えていく。カメラは門を入り、シャツを捲り上げて脱ぎ捨て、灯の眩しい家の中に入っていく阿清を追う。ポーチには、椅子に座った父親、食事をする家族たちの姿が、家の中から漏れ出る明かりに対して半身が暗く映っている。

何が起こるわけでもない、この一続きのカット、カメラワークがむちゃくちゃカッコよくてしびれた!

『風櫃(フンクイ)の少年』と聞いたら、まずこのシーンを思い出しそう。

たぶん4人が海岸で踊っているところや、廃墟ビルの上から観る、「カラーでワイド」なまちの風景のほうが有名なシーンだと思うのだけれど、それと同じぐらい強い印象。

 

▶︎後日ふと、「風櫃って今もあんな感じなのかな?」と疑問が湧いて、Googleストリートビューで検索してみた。すると、映画に出てきた、屋根の形状が独特な古い民家の街並みも少し残っていた。外階段から屋上へ上がる、中東か北アフリカに似た家もあったし、石積みの塀も見られる。

楽しくなって、夢中で島中を走り回ってしまった。ああ、飛行機も使わずに瞬時に現地に飛んでいけるなんて、なんて良い時代だ。

 

▶︎そういえば、映画の中で、台所が外にあるのもおもしろかった。以前、こんなポッドキャストを配信したが、いろんな文化圏の台所を見るのが好きだから、ついつい目がいってしまった。

 

▶︎澎湖(ポンフー)諸島はおもしろい形をしていて、筆で珍獣の絵を書いたように見える。風櫃はその最後の「はね」のような部分。

大小併せて90の島々から成るが、人が住んでいる島はそのうちの19島である。また、かつて「澎湖」の名を冠した日本海軍の艦艇があった。Wikipediaより

そうだったのか。「馬公」という地名が何度か出てくるが、馬公は島の行政の中心。澎湖県馬公市。

 

 

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本『焼き肉を食べる前に。絵本作家がお肉の職人たちを訪ねた』読書記録

図書館のヤングアダルトの本コーナーが、近頃たいへん充実している。

先日も良い本を見つけた。

 

『焼き肉を食べる前に。絵本作家がお肉の職人たちを訪ねた』(解放出版社, 2016年)

 

 

食肉業で働いている人たちを、絵本作家の中川洋典さんが訪ねて、話を聞いていくインタビュー集。

食肉市場で働く8人と、代々の家業の精肉店で働く1人の計9名。

どの人も屠畜(とちく)に携わっている。

「屠畜というのは、牛や豚、馬などの家畜を絶命させ、解体し、食肉や皮などに加工をすること。」(本文 p.6)

 

読み始めてまず思うのは、生きている牛の姿(のイメージ)と、スーパーでのパック詰めの間に何が起こっているのか、知ろうとしなければなかなか出会うことがないということだ。わたしはお肉屋さんで買うことが多いので、途中の小分けにしていく作業はかろうじて見ることもある。とはいえ、その程度だ。

生き物を食べ物(「お肉」)にする過程。

食べられるようにする作業。

現実に存在する誰か、人を通じて届けられている。

 

これは、「世の中にたくさんある普通の仕事の一つ。生計を立てるための労働」ではあるが、「どちらかというとイレギュラーでオープンにされていない仕事」でもある。それは、生き物を殺すという仕事の性質から、誤解されたイメージや差別や偏見を持たれることがあるから。このインタビューでも名前を出さない人もいるし、普段から仕事の内容を人に語ることがほとんどなかった(身内にさえも)という人も出てくる。

「必要以上にほめられる」や「殺す」「いただく」「誇り」という言葉の使い方など、とてもひと言では説明できない背景や実際は、たとえ知識としては持っていても、限界がある。

当事者に話を(しかも複数人から)やりとりを通して聞くことで、はじめてわたし自身と繋がって得られるものだ。わたしの代わりに語りを聞いてもらえることや、本の形にして流通してくれているから、目に入る。

南港市場で働くキャリア17年のTさんと、横浜市場のキャリア30年の大ベテラン、鈴木正敏さんのお話は、とても一度読んだだけでは咀嚼できず、何度もページを繰り直した。

 

仕事への思い、魅力、人と仕事するときの姿勢、技術を磨くことなどは、他の仕事でも当てはまることが多い。

「自分が100%以上の仕事をして次へ渡す」
「自分の分まで仕事をしてもらったら、何度も感謝の言葉を伝える」
「技術を身につけることを絶えず意識して仕事をする」
「仕事を完璧にするには、人と人とのつながりが欠かせない。そのつながりを支えているのは、仲間意識や助け合い」(筆者注※少しのズレが商品の価値や価格に影響してしまうから、その作業の前後にいる人たちのことを考え、完璧を目指しているということなのだと思う)

「自分が教わった方法は厳しくてしんどかったから、教える立場になったときは、自分なりのいい伝え方をしようと思った」

「新人さんや若い人の成長を助けることも大きな役割だけど、その人のやる気が一番大事」

などなどの言葉が、インタビュアーの中川さんとのやり取りの中で、自然に出てくる。

いつも大切にしていることが、問われてスッと出てくるところに、誰もが本物さを感じるだろう。鍛えられた肉体から発せられる言葉だ。わたしも自分の仕事を考えて、背筋が伸びる。(もちろん書籍にする上で、言葉の「加工」もされているだろうけれど!)

逆に言えば、だからこそ、「どこにでもある一般的な職業」なのか。わたしにとっては身近ではないから、正直そのフレーズはすぐにはピンと来なかった。けれども、この本を読み終えた今は、何人もの人が口にしているこのことを、忘れないように、覚えておこうと思う。

 

最初に話を聞くのは、大阪市貝塚市にある北出精肉店というお肉屋さんで、2013年公開の『ある精肉店のはなし』というドキュメンタリー映画の舞台になっているお店だ。今はもう屠畜作業はしていないというので、この映画はとても貴重な記録になっている。

公式サイト ある精肉店のはなし

www.huffingtonpost.jp

 

 

人に話を聴きに行くことの面白さも伝わってくる。

大きな括りで言えば同じ職業についている人たちでも、地域も、仕事に就いた経緯も、仕事での立場も、キャリアも、大事にしているものも、話し方も全然違う。

中川さんがどうしてこの人たちに話を聞くことにしたのか、話を聴きながら、頭の中でどんなことを考えていたのか、心がどんなふうに動いていたのかも、合間に書いておいてくれるから、自分もその場にいるような感覚で読める。

これは、中川さんが絵を描く人で観察眼に優れていることと、「中川さんその人」として話を聞いているから、信頼が行き交って、出てくる言葉があるからだと、わたしは思う。

 

どの順番でインタビューされたかはわからないが、なんとなく後半にいくに従って、これまでのインタビューでの蓄積出てきて、質問の質感が変わってきていて、より突っ込んだ話が交わされているように感じられる。そして次第に、この本の核心へと迫っていく、その躍動、迫力。

わたしはいろんな人の話を聞く仕事をしているので、インタビューの教科書としても読んでもいた。わたしもこんなふうに聴けたら、書けたら、仕事ができたら.......と思う。

127ページの小さな本の中に、想定以上に発見が多いことに驚く。

 

 

食糧危機や地球温暖化抑止、動物愛護などの理由で、肉を食べないようにしている人の話も、身近でちらほら聞くようになってきた。わたし自身も、若い時ほど積極的に肉を食べていない気がする。(これは加齢によるものか......。)

食肉をめぐる事情はこれからも変わってきそうではあるけれど、今回本を通じてお話しを聴かせてもらったことで、この仕事をしている人たちのことを時々思い出すだろうと思う。

 

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映画『憂鬱な楽園』(台湾巨匠傑作選)鑑賞記録

新宿K's Cinemaで上映中の台湾巨匠傑作選2021侯孝賢監督40周年記念 ホウ・シャオシェン大特集を追っている。

 

※内容に深く触れています。未見の方はご注意ください。

 

17本目は、侯孝賢監督『憂鬱な楽園』1996年制作。
原題:南國再見,南國、英語題:Goodbye South, Goodbye

あらすじ・概要:憂鬱な楽園|映画情報のぴあ映画生活

 

実はこちらは劇場では観ていない。事情があって劇場まで行けなかったので、同じ時刻にネット配信で観た。観るはずだった時刻に合わせて再生したら、集中できた。

 

▼予告編(日本での上映時の予告編は見あたらなかった)

youtu.be

 

たぶんこの予告編を観て、「観てみようかな!」と思う人はそれほど多くはないだろう。(いや、いるかな?)

 

いろいろレビューを読んでから観たけれど、なんのことかさっぱりわからなくて、自分で観てはじめて、「ああ〜なるほどそういうことか〜」とわかる。そういう類の映画。

まず起承転結のあるドラマ性のあるものを観たい方は、きれいに裏切られるだろう。

雰囲気で見る映画。そう言うと中身がないみたいだな。うーん、あらすじがあるわけではない。しかし、ないわけでもない。事前に抑えておくとすごくよく映画が理解できるかというと、たぶんそうでもない。

今どこのまちにいるのか、この人は誰なのかさっぱりわからない。名前もわからないし、引きで暗い中撮ってるから、判別がつかない。かといって、置いてきぼりにされているわけでもない。ぬるま湯に浸かって気持ちよく観ていられる。

一見わかりにくいもの、ふつうでないものから、自分だけのおもしろさを見出したい人に向いているかも。何かに偏愛のある人は、世界を見るメガネや物差しがあるので、それを使って焦点を合わせて観てみると、これほど痛快な映画もない。

 

 

まず、オープニングでガッとつかまれる。

電車の最後尾車両から線路が後ろに流れていく。一瞬、『世界の車窓から』っぽいし、『恋恋風塵』を思い起こさせるのどかな田舎の風景なのだが、鉄錆のような赤色のフィルターのかかった画面に、流れているのはメタル系の音楽だ。地獄で流れているダウナーなお経みたい。最高。

現れたチンピラ同士の会話もいい。

「車じゃないのか」
「電車だよ」
「ロマンチックだな」
「久しぶりに乗ってみたら意外といける」

ちょっとかわいい。

とにかくこれでもかというほどチンピラが出てくる。

『ナイルの娘』では少し品のいいチンピラ役だった高捷(ガオ・ジエ)に、ほんとに"絶壁頭"の林強(リン・チャン)、伊能静の3人組が、ほんとーにガラの悪いチンピラを演じていてすごい。

観客の印象としてもチンピラだが、劇中でも実際に「チンピラになんかなりやがって!」というセリフが出てくる。

チンピラのくせに(すいません!)、「このお茶は香りがいい」「甘い」などと評しているのは、さすがお茶の国の人! というギャップの可笑しさがある。

 

侯孝賢映画を見慣れていると、「ほんとうにこの人はチンピラの世界が大好きだな!」とつくづく思うが、オリヴィエ・アサイヤス監督の『HHH:侯孝賢』を観ると、また理解が深まる。

南部の鳳山に暮らしていた10代の頃の侯孝賢は、まさにチンピラだったらしい。インタビューでは「台湾の雄的なところが大好きで。雄の勝った負けた、誰が一番か争うみたいな世界が俺はやっぱり好きだ」と言っている。そして、そのあとカラオケでマイク離さず長渕剛の『乾杯』を熱唱......。ぜひ観てほしい。

 

かといって、おっさんの戯言に付き合って、我慢して観てあげている感じも一切ない。楽しい。ただただ楽しい。ずっと観ていられる。コッポラが夢中になったのもわかる。

 

乗り物好きも炸裂していて、電車、バイク、車が繰り返し出てくる。

山道をバイクで走るのを長回しで撮るシーンは、やはりスクリーンで観るべきであった。

なぜかいろんなウェブサイトで、「ラストの」と紹介されているが、違う。ちょうど中ほどの時間帯に出てくる。このシーンがラストに出てくるのは、『台湾新電影(ニューシネマ)時代』だと思う。

侯孝賢にはたぶんあまりなかった、手持ちカメラで揺れ揺れのシーンなどもあり、フィルターの多用も珍しい。

 

侯孝賢らしさといえば、やはり生活の表現。食って寝ては大事。

中でも食事のシーンは繰り返し出てくる。ご飯に肉をのせたどんぶり、オープンテラスに出したテーブルに山盛りのおかず、レストランで作った炒めもの。

クローズアップされているわけではない。食卓も口元もろくに映らない、わかりやすく美味しそうではないのに、「あ、あれぜったいおいしいやつ!」とわかる。

 

 

ロケ地的に『恋恋風塵』や『風櫃の少年』をなぞっているようで、写っているのは明るい(それぞれに過酷さはあれど)、未来にひらけた10代の少年少女ではなく、入れ墨をガッツリ入れた冴えない中年のおっさんだ。腐れ縁の女にはいい加減去られようかというところ。甘酸っぱくもなく素敵でもない。どん詰まりの青春。思秋期もまだいかない、実に中途半端なところに、ぽっかりと落ちてしまっている。

人に迷惑もかけるし、短絡で浅はかだし、夢見がち。野望はあるけれど、目先のことに飛びついては行き詰まる。決定的に酷いことは起こらないけれど、大していいこともない。

ガオの「恋人はレストランをやれというけれど、占いで前途多難だからできない」と言って泣く姿はかなり情けないが、中華鍋をふる姿は実際なかなかキマっていて、これ本業にできるんじゃない?とわたしも思った。繰り返すが、ごはんがとにかく美味しそう。

 

音楽の使い方がこれまでにない感じ。ジャンルも、メタル、タンゴ、ポップス、フォーク、演歌などいろいろ。映っている画面とのミスマッチ加減が、逆にいい。侯作品を観ていてはじめて、「サントラ」という言葉が浮かんだ。サントラが出てたらほしいな。

 

歌詞に上海が出てくる「ナイトライフがなんとか〜」という挿入歌は、『風が踊る』や『ナイルの娘』のリベンジ的な意味合いも感じる。あれらの2作は唐突すぎるし、曲もダサいし、意図が見え見えで笑ってしまったが、『憂鬱な楽園』での入れ方は、めちゃめちゃカッコいい。「こういうのがやりたかってん!」という侯の声が聞こえてきそう。

 

そう、全体的に自由にのびのびと撮っている感じがすごくいい。乗り物、チンピラ、歌(カラオケ)、音楽、酒、タバコ、ハッパ、博打......。侯の好きなものをいっぱい詰め込んだ感じ。

だから見ているこちらも、何も特別なことは起こらないシーンでも、ああこの音、このシーンのつなぎ、雨、乗り物!!などニヤニヤするところが多い。

「俺を神格化するんじゃねえ!」「俺の映画を芸術とかいって持ち上げんな!」「わかったように批評してんじゃねぇ!」という声が聴こえてきそう。

 

どうしようもない奴らの、どん詰まりの日々を観ていると、だんだんと自分のイタかった時代を思い出す。

1996年ごろの時代の空気、あんなふうだったかもしれない。日本の東京を舞台にした映画(パッと出てこないけど......)も、あんな感じで気怠い感じがあった。すごく覚えがある感じ。あの中にわたしもいた。

 

「雄の世界」の話だけれど、情婦のアインとマーホアが存在感を出していて、好き。スレてる感じがファッション、喋り方や、仕草の隅々まで現れていて良い。野生の勘で動いているような人たち。

アインの「台湾で子育てしたら受験戦争が酷すぎる。考えたことある?」というセリフ。それに対して、ガオの子どもとか教育とか絶対なんも考えてなかったやろ!というような表情が最高によかった。このやりとりはよかった!あるとないとで全然違う、このシーン。アインのほうが人生を先に進んでいる感じ。残酷だけど、よくある、わかる。

 

物語としては、けっこう救いがないとも言えるし、「鬱映画」と書いていたレビュアーさんもいたぐらいだけれど、このダウナー感がなぜかクセになる。

 

ラストがまたすっごくよくて。また地獄のお経へとループしていくのですよ。ああ、どこまでもどん詰まりよ......。なのに、これが南国の湿度と暑さ、山岳地帯っぽい植生に包まれている中にあると、なぜかそれほど深刻にならない。むしろ野性を刺激されるところがあって、元気になる。ディープな台湾を感じられる。不思議な映画だ。

それで言うと、日本語題が『憂鬱な楽園』なの、ほんとうにぴったり!つけた人すごい!

 

観終わってからさらにじわじわくる。

いやー、どうやってこんな世界をつくりあげられるのか。

全然期待していなかったのに、うわー、かなり好きかもしれない!

 

『HHH:侯孝賢』と共に、おすすめします!

 

 

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映画『雨月物語』鑑賞記録

4月の終わりごろからずっと10代〜20代前半で観ていた映画のデジタルリマスター・リバイバル上映が続いている。時代がひとめぐりしているような、20年や30年ぶりに出会う作品たちを懐かしく思うと共に、その背景になっている社会の変化や、わたし自身の人生のターンとも絶妙に絡まりあっている。その上で、時間というものが示してくれる、不思議な体験......時間を激しく行き来しているうちに、SF的な感触を映画を通じて得ているようだ。大変言葉にしづらいのだが、なんだかそんな中にいる。

 

そのうちの一本がこちら、溝口健二の『雨月物語』だ。

たしか中学か高校のときにBS放送で観て、「なにこれ、すごいな」と思った記憶がある。大学に入って、映画のことをいろいろ調べたり、詳しい人の話を聞いているうちに、それが小津安二郎黒澤明と並ぶ「世界の溝口健二」の作品だったと知る。

そして数十年して今、森雅之が主演俳優だったと知ったところだ。(『羅生門』の!)

 

あの頃観て、「すごい」と思ったのはなんだったのか、今の自分として観たらどうなのか知りたいと思い、観に行った。

なんといっても、この古典を美しく蘇った映像で、劇場のスクリーンで観られるのはうれしい。

劇場は、小学館が運営している「神保町シアター」。はじめて行く劇場だ。よしもと漫才劇場の東京拠点「神保町よしもと漫才劇場」が併設されている、ちょっと不思議なコンプレックス施設になっている。

 

 

観た。

デジタル処理してあるので、映像も音もとてもきれい。

フィルム映像もそれはそれで味わいがあるが、きれいな映像を見慣れている身からすると不鮮明で不明瞭というのは、鑑賞時の集中力に影響が出てくる。この感じ何かに似ているなと思ったら、古民家だ。日本家屋、古い民家は雰囲気はとてもよいけれど、現代人にとって住むにはなかなか厳しい面がある。そんな感じ。

当時、モノクロ映画もガツガツ観ていたが、ものによっては耐えられなくて途中で寝てしまったものも多い。あれはもしかすると不鮮明だったから(よく見えない、聞こえない)からだったのでは?(いや、言い訳かもしれないが)

 

思いがけず、近江の国、湖北(琵琶湖の北部)が舞台で驚いた。わたしはそのあたりにもルーツを持っているのだ。一気に親近感が湧く。

 

貨幣経済社会に絡めとられていく男、侍になりたい、と取り憑かれていく。「わたしはあなたさえいてくだされば」と引き止める女を振り払って行ってしまう。「世の中は万事金」と言い切る男。戦は人まで変えてしまう。

食うにも困り、余裕がなく、傷が癒えぬまま奪い合い、生き抜こうとする時代、決まって犠牲にな、おんなこどもだ。

制作は1953年。敗戦から間もない頃。時代に対する批判的な鋭い眼差しを感じる。

 

とはいえ、今の自分としては、もう平常心で見ていられないところがある。

それは物語の設定として、女の身体や精神が犠牲になることを、あまりにも気軽に扱いがちであるところに憤りを覚える。この創作行為が、決して昔の話ではないという絶望もあるので、余計にそう感じる。

結局最後は、「女は男を赦す」という描き方も納得がいかない。もちろん「男」の「アホらしさ」も目一杯描いてはいるのだけれど(「俺が立身したら褒めてくれると思った」とか)、どこか「仕方ががない」「許してネ」という感じがあるのだ。女の苦労は全然報われない。酷い。

時代には批判精神はあるが、社会における女性の扱われ方への批判の態度はない、というか。

 

「世界の溝口」の表現の凄さよりも、そちらが目についてしまった。「女性映画の監督」と言われてもなぁ......という。その評価をつけていたのは女性ではないでしょう、おそらく。制作現場での逸話もいろいろある人のようだ。

評価すべき点と、再考すべき点は大いにあるだろう。

巨匠と手放しで称賛できる時代は終わった。

 

「若狭様」とのシーンは、明らかに作り物とわかっているのに、やっぱりむちゃくちゃ怖い。若狭様も怖いが、お付きの老婆も怖い。怖くて、ほんとうに鳥肌が立っていた。

 

わたしは、「森雅之トニー・レオンは似てる」説を唱えているが、主人公・源十郎のキャラクターは、1990年代のトニー・レオンが演ってもけっこう良い味が出そうだ。

 

想定と異なる、後味の悪さが残ったまま、劇場をあとにした。

 

 

▼親切な方の解説動画。わかりやすい。

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映画『アニメーションの神様、その美しき世界 Vol. 2&3 川本喜八郎、岡本忠成監督特集上映(4K修復版)』

渋谷のシアター・イメージフオーラムで、『アニメーションの神様、その美しき世界 Vol. 2&3 川本喜八郎岡本忠成監督特集上映(4K修復版)』を観てきた。


公式サイト:https://www.wowowplus.jp/anime_kamisama2-3/

 

youtu.be

 

国立映画アーカイブでの展示を観て、映画を楽しみにしていた。(会期は2021年3月末で終了)

hitotobi.hatenadiary.jp

 

 

まずは、子どもの頃から『人形劇三国志』で大好きな川本作品が!ムック本の写真でしか観たことなかった作品が!動いている!ということで、もう大興奮である。生きてるうちに映画館で観られることがうれしい。

 

本編はすべてが想像以上だった。こんな色なのか、こんな音、こんな動き。

いつもならメモをとりながら観ているのだが、途中からもうのめり込んでしまって、ペンも紙も片付けた。

一昨年の早稲田大学演劇博物館での『人形劇ヤバい』展や、1979年のサンリオの人形アニメ映画『くるみ割り人形』を思い出す「ヤバさ」、怖さ、妖しさに、ぐいぐいと引き込まれた。わたしの大好きな人形劇の魅力が溢れまくっている。

 

「鬼」や「道成寺」は、文楽お能に親しんでいてよかったと思った。もともと文楽は川本作品の影響で好きになったのだったが、文楽が川本作品に与えた影響を自分自身の実際の鑑賞経験とともに理解できたことがうれしい。この抑制の効いた、隅々まで一定の緊張を行き渡らせる表現よ。

風の表現は、扇風機を回しているのではなく、髪の毛一本一本を動かしていると知り、アニメーターのその忍耐強さには、言葉を失う。

今回は選ばれなかった『犬儒戯画』『蓮如とその母』『いばら姫またはねむり姫』も観たい。『死者の書』ももう一度観たい。公開時に観たが、今観たらまた違う体験になりそうだ。

 

もちろん岡本作品もすばらしかった。国立映画アーカイブの展示をじっくり見てきてから観ている『注文の多い料理店』だったので、「こういう感じだったのか!」とずっと心の中で叫びながらだった。とにかく怖い。本気で怖かった。子どもの頃に見ていたら泣き出したと思う。セリフはしゃべらないのに、音が緻密でリアルで、本気で鳥肌が立った。

家帰って子に『おこんじょうるり』の話したら、ぼろぼろ泣いちゃった。「泣いた赤おに」級の切ない話。劇場で、同じ列に座ってた男の人も嗚咽してた。。

川本人形よりずっと素朴な感じのつくりなのに、表情や仕草が、ドキッとするほど、ギョッとするほど命を宿していた。岡本さんは監督、演出をするが、「描く」「創る」は別に作画担当の方がいるので、人形師でもある川本さんとは違い、一見して「岡本さんの作品」と判別するのが難しい。しかも毎回素材、題材、作法、時代、地域などを変えているので、一体どれだけ好奇心や探究心旺盛なのだろうと思う。

川本さんも毎回挑戦はされているだろうが、どちらかというと、「一つの道に分け入り、突き詰める求道者」のような感じ。二人は全く違うタイプ。だからこそ、パペットアニメーショウのようなコラボレーションもできたのだろう。

ちょうど今、侯孝賢特集の台湾映画を見まくっているところなので、台湾ニューシネマの一時代を築いた、侯孝賢楊徳昌エドワード・ヤン)の関係を思い浮かべてしまう。

 

二人の作品を合わせた全体を通して流れていたのは、不条理、ままならなさ、不運。川本喜八郎の「不条理三部作」だけではなく、岡本忠成作品にも共通している。明確に制裁を受けたようなものもあって、「それは果たして悪なのか?」と言いたくなるものもあった。苦い。心にジリっと棲みつくものがある。これは時代の空気なのだろうか。

ややホッとする作品もあるものの、深く根付いている「勤勉さ」「自己犠牲(身を投げうって尽くす)」のようなものも強く感じられて、こういう指向、精神性のようなものの出元が知りたくなる。

 

別冊太陽『川本喜八郎 人形ーこの形あるもの』に寄稿されている、能楽師観世銕之丞さんの文章が、今回の鑑賞でわたし受け取ったものと近いと感じるので引用する。

人間は原則的にはいきいきと明るく生きたいのだが、結果的には色々な挫折や、別れ等の悲しみに出会うことになる。それが悲劇の基本的な原形で、いきいきと生きていた人間なればこそ、死や別離に出会うことが、最も普遍的な「人の悲しみ」になってゆく。しかし演技としてのその「人の悲しみ」をいきなり悲劇の表現として説明的に行うと舞台が浅薄なものとなってしまう。その時点でリアリティを失い、格調がなくなる。その説明的演技を防ぐのが「型」なのだ。「型」を守ることによって演技者に客観的な眼を与えられる。(p.64)

今回の演技者というのは、人形師でありアニメーターになるだろうか。人形がいかに命を得ているか。わかりやすくすることではなく、いかに観客が感じ取れるか。

そういえば、先日観た、『台湾、街かどの人形劇』の伝統布袋戯にも通じる話だ。「揺らしすぎる。人間はそんなふうに動かない」という言葉が印象に残っている。

 

こうした素晴らしい作家の作品を見ていると、創作の追求と商業の関係についても考える。商業にのって作品を発表すると、制作には自ずと制限がかかることになり、作家性を十分に発揮できない場合もあるだろうが、商業にのったことによって、保管、保全、継承の可能性が高まるということもまた事実だろう。そのせめぎ合いの中で表現者たちは制作を重ねているのだろうと想像する。

 

今回修復に関わったみなさま、上映してくださったみなさま、ありがとうございました。おかげで後世に作品が遺ります。誰かの「遺さなきゃ!」という切実な思いが実ることがうれしい。

 

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▼パンフレットを買ったらおまけでついてきたポストカード。
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▼3分ミニ動画。国立映画アーカイブの展示も見られます。映画の公開と同時に開催できたらよかったですね。感染症のためにスケジュールが変わってしまったようです。わたしももう一度観たいよ。残念。

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▼ラジオアーカイブ(ゲスト:WOWOWプラス 山下さん)

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映画『ノマドランド』鑑賞記録

4月9日、『ノマドランド』の鑑賞記録。

 

▼公式HP。あらすじ、見所など。

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大変よかった。

主演のフランシス・マクドーマンドは好きな俳優だ。『ブラッド・シンプル』1987年日本公開時にはおそらく観ていなくて、1996年の『ファーゴ』のときのリバイバル上映で観たのだと記憶している。とにかく好き。『スリー・ビルボード』もよかった。(当時の感想

フランシスであることを忘れて観ようと思って、前情報なしで行ったが、無理だった。フランシスだから良いのだ、この役は。

実際に、並々ならぬ思い入れがあっての出演で、フィクションとノンフィクションが交錯するのも当たり前の作品だったとわかった。

 

トレイラーを観ていて、これは大きな喪失と悼みの物語だと感じたので、何か良いタイミングで観られるとよいなと思っていた。鑑賞当日は特別に記念日というわけではなかったが、春ならではの出会いと別れ、隠から陽へ切り替わる時期特有の喪失感いっぱいの気分だったので、この日この映画に会えてよかった。

前情報といえば、「酷い目に遭ったりしなくてよかった」というツイートは見かけて、それが鑑賞の大きな決め手になった。「『ブラッド・シンプル』が好き」と言っておいてなんだが、女の人が一人で旅をしていて酷い目に遭う(多くは性暴力の)映画を散々観せられてきて、ウンザリしていたから。実際、過酷な環境のときもあったけれど、誰かから暴力をふるわれたシーンはなかったので、ホッとした。

 

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ただただ、鎮魂、祈りに満ちた、優しい映画だった。観終わってずっと優しい気持ちが残っている。経済や政治や時代など大きな力の前に、一人の人間の無力さを思い知りつつ、必死に生きる、今ここを生きる人間への柔らかい眼差し。

かれらへの期待や、過剰な称賛も、もちろん非難もない。ただ人を見つめている。

 

人の営みの、その外側にある何重もの時間の層と、壮大な山や海。

数百年の時を生きる木。

明日も昇る朝日と、明日も沈む夕日に、それぞれの現実が浮かび上がり、季節がめぐる。

言えなかった気持ちを話せることもあるし、言えないまま別れることもある。それでもいつも「じゃあまたね」と言って別れたい。

 

止まっている時間が少しずつ動き出す。長年の確執が解ける。「あのこと」があってからはじめて涙が出る......。模索、葛藤、グリーフの物語。

迫りくる老いを感じながら、終末までを自分の納得のいくように生きたい。
そんな主人公ファーンの思いが伝わってくる。共感する。

 

自分の老いについてもとくと考えた。
この先、もし一人で老いを生きるとしたら、どうなるか。
最愛の人に先立たれたらどうなるか。
仕事や収入が尽きたら何をして生きるか。
社会の周縁に生きるとはどういうことか。

わたしだったら、一時期一緒に過ごした人と別れることはできるだろうか。「いかないで」「一緒にいて」と言ってしまいそう。

10年後に観たら、どんなことを思うだろう、受け取るだろう。

 

資本主義とグローバル経済の勝者と敗者。埋めようのない階層間、地域間の格差。

リーマン・ショックの影響の一つを知る。人生を狂わされた人(そこから生き直した人)、むしろチャンスを得た人との対比も残酷。そしてどちらも現実。

わたしの知らないアメリカの現実がまたここにも広がっている。

 

今この瞬間もきっといろんな朝があるんだろう。息を呑む美しいシーンが、そこかしこに。大きな自然であったり、雪融けの音であったり、人と人との小さな交歓であったり。

 

ああ、それにしても、この社会の構造よ。
やりきれない気持ちも強い。重さがある。

 

見終わって、なんとなく思い立って親に電話をかけた。

もしもし元気?またね。といういつもの言葉のやり取りが、いつもよりも温かかった。

 

▼パンフレット。鑑賞日にはなかった。4月30日に発売。映画のパンフレットも公開に間に合わないってことあるのね。

www.kadokawashop.com

  

▼すぐの感想。

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▼配給サーチライト・ピクチャーズが配信している『ノマドランド』の特別映像。撮影、サウンドスケープ、演出など。

www.youtube.com

 

ヤマザキマリさんへのインタビュー

nwp.nikkei.com

 

 ▼このような素晴らしいレビューを読んでしまうと、自分が書き散らしたフワフワした感想など、一体何の価値があるのだろうかと思ってしまう......。

note.com

 

▼原作

ノマド: 漂流する高齢労働者たち 単行本』ジェシカ・ブルーダー/著、鈴木 素子/訳(春秋社、2018年)

 

読めていないのだけれど、これもずっと気になっている本。関係あるだろうか。

 

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映画『ナイルの娘』(台湾巨匠傑作選)鑑賞記録

新宿K's Cinemaで上映中の台湾巨匠傑作選2021侯孝賢監督40周年記念 ホウ・シャオシェン大特集を追っている。

 

※内容に深く触れています。未見の方はご注意ください。

 

13本目は、侯孝賢監督『ナイルの娘』1987年制作。
原題:尼羅河女兒、英語題:Daughter of the Nile

あらすじ・概要:ナイルの娘|MOVIE WALKER PRESS

 

▼4Kリストア インターナショナル版トレイラー

youtu.be

 

▼台湾リバイバル上映『ナイルの娘』トレイラー(こちらのほうが好き)

youtu.be

 

もともと観るつもりはなかったのだが、理由がいくつかあり、急遽観ることにした。

・『恋恋風塵』(1987年)と『悲情城市』 (1989年)の間の時期に制作された作品ということで、2作品を観たあとでは、ここをどんな作品がつなぐのか俄然興味がわいてきた。

・侯が中央電影公司という国民党系の半官半民の映画会社を出た後の第一作。台湾ニューシネマは、中央電影があったからこそ成立し、軌道に乗ったが、トップの交代により情勢が変わったことが要因、と公式プログラムにある。ここからスターを起用する路線に舵を切っていったこともあり、レコード会社の出資を受けて制作し、楊林(ヤン・リン)というアイドル歌手を起用したという、節目にあたるこの作品には興味がわく。

・『風が踊る』(1981年)以来、6年ぶりのアイドル映画。『風が踊る』と比較してどのような違いや変化があるか観たい。この6年の間に、『坊やの人形』(1983年)、『風櫃の少年』(1983年)、『冬冬の夏休み』(1984年)、『恋恋風塵』(1987年)と勢力的に制作を続け、侯とそのチームの美学が確立された後での、新たな一歩ということもある。

・先日のライブトークで、「台北の夕暮れから夜にかけての印象が強い」という話が出ていたので、観たくなった。

 

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侯作品の中では、新しいというよりもそれまでを感じさせ、その後の作品を予感される、まさに「はざま」の作品となっている。そのため、後の世に観ている今のわたしとしては、どうしても切り貼りされたものに見えてしまう。また、観ている最中に映画の構造が組み立てるのが難しい。

 

暁陽(シャオヤン)が『ナイルの娘』を読み耽り、一つひとつを現実の世界に重ねて見立てていくという大筋はおそらくあるのだろうが、読んでいるシーンは1度しか登場しないのと、『ナイルの娘』の物語設定のようなものがナレーションと共に冒頭と終焉に出るのだが、あまり詳しくは語ってくれない。

『ナイルの娘』は、日本の漫画家、細川智栄子の『王家の紋章』という作品のようだ。ただし、劇中で登場するのは細川の絵柄ではなく、台湾の漫画家が描いたものに差し替えられている。いろいろと混乱する。あらすじを読んでようやく構成を理解した。

また、これがレコード会社の出資を受けた企画ということで、楊林のものと思われるナイルという歌詞の出てくる挿入歌が3度ほど流れる。そこで、「あ、そうかそういう趣旨の映画だっけ」と思い出すのだが、前後は完全に「台湾ニューシネマ的な侯孝賢作品」になっているので、唐突さを感じてしまう。挿入歌以外にももう一曲、インストゥルメンタルの音楽も数回出てくる。

 

あれこれ書いてしまったが、これらのツッコミどころは置いておいても、アイドル映画と言いつつも、楊林の存在感はとてもいい。侯孝賢世界の住人として、役を生きながら彼女らしさが引き出されている演技や佇まいが随所にある。

また、一人ひとりのキャラクターが生き生きとしている。兄、父、祖父、叔母、同級生、シャオヤンの想い人であるサン、ほとんどセリフのない兄の舎弟、まったくセリフのないヤクザの情婦や、サンの車を襲撃しに来て一瞬映るだけのチンピラですら、存在感がある。

特に祖父役の李天祿(リー・ティエンルー)はとても良い。『恋恋風塵』よりいいんじゃないか?兄の暁方(シャオファン)役の高捷(ガオ・ジェ)も良い。(約10年後、1996年にも『憂鬱な楽園』に主役で出る)

 

一人の女性を物語の中心に置き、彼女にとっての「重要な他者」であるきょうだい、親、親戚、友人や、彼女の居場所(夜学、バイト先のケンタッキー、兄のレストラン"ピンクハウス")、それらがある台北の街。

侯らしい固定カメラやロングショット、少ない切り返し、バイク、車、幹線道路、ケンカ、ごはんもたっぷりと盛り込まれている。

夏の暑さ、吹き抜ける風、夜の雰囲気。どれも心地よい。

主人公のモノローグは、その後の『悲情城市』へのつながりを予感させる。

 

1987年の台湾はどのような社会だったのだろう。映画の中では、日本やアメリカは身近な国のようだ。英語、ファストフード、音楽、ファッション......アメリカ文化がどんどん入ってきている。それでもまだ兵役はあり、男の子たちにとっては「青春の終わり」を意味している。親の世代とも、祖父母の世代とも全く違う時代に青春を過ごしているかれら。青春が終わったら次に自分はどうなっていくのだろうか。行く先はあるのだろうか。変わらないでいると思っていた夜学の教員も、学校の経営難で解雇され、明日から無職だと聞かされる。

 

観賞後に滲んでいる感覚としては、「行き場もなく呆然と立ち尽くしている」が近い。

圧倒的な存在である親(あるいは親世代)からの自立をどう果たせばよいか、揺れている若者たちの姿。外遊びは楽しいが、帰るところは家しかない。先を生きているはずの兄世代も、真っ当な道ではない。このように生きるしかないのか。

社会はスピードを上げて変わってきている。でもどのように変わっていくのか。置いていかれはしないか、若者たちの存在は、その流れから疎外されてはいまいか。

若者たちの姿は、台湾の立場の複雑さを表しているようでもある。

 

祖父と妹、生き物(金魚、仔犬、ウサギ)の存在や、バイクでの疾走の気持ちよさ、焚き火の熱さや、花火の興奮が、完全に絶望には落ちないように辛うじて支えてくれてはいるが、身近な人を亡くしていくばかりのシャオヤンを見ていると、状況としてはなかなかにキツイ。父も老いていて、今回の傷は癒えるだろうが、いずれ介護が待っているだろう。

なんとなく、バブル崩壊後(1991年〜)の日本の空気にも似ているような。ディスコのシーンはバブルっぽいが、皆それほど羽振りがいいわけでもないところが、バブル後のような。

 

それまで田舎との対比による都会を描いてきた作品があったが、正面から都会だけを描いてみているようにも見える。先に『台北ストーリー』や『恐怖分子』を制作していたエドワード・ヤンの影響があったのだろうか。

時間が経てばまた、いろいろ発見が出てきそうな映画だ。

 

ああ、もう一つ。

とにかくタバコ、タバコ、タバコ......タバコを吸いまくりだが、初めてぐらいに、「タバコの吸いすぎはよくない」というセリフが出てくる。ようやくタバコの健康被害も社会的に言われるようになってきたのだろうか。

 

 

わたしが一人の監督の作品をここまで追いかけるのは常にないことだ。

数作品なら追ってみることはあるが、かかるものはほとんど全て観て、自分だけの鑑賞体系の構築に挑戦しているのは今回が初めて。

上映期間中に観たいのは、『珈琲時光』『風櫃の少年』『あの頃、この時』『憂鬱な楽園』『黒衣の刺客』の5本。

楽しみだ!

 

展示『観潮楼の逸品 〜鷗外に愛されたものたち』@文京区立森鷗外記念館 鑑賞記録

 

4月某日、鷗外記念館で、『観潮楼の逸品 〜鷗外に愛されたものたち』展を観てきた。

moriogai-kinenkan.jp

 

鷗外記念館は、2012年に森鷗外生誕150年記念を節目に、元鷗外邸宅、通称「観潮楼」の跡地に開館した個人の文学館だ。

観潮楼は、鷗外がひらいていた文化サロンの名称でもある。名の由来は、かつては文京区千駄木のこの高台から東京湾まで見晴るかせたということから。不忍通りから短く急な坂を登る。千駄木駅からは2、3分なのだけれど、高低差がきつい。昔ここは海だったか、川だったかと、地形を身体で感じる。

 

鷗外が大切に使ったり、愛でていたりした逸品たちが展示されている。

購入したものも、贈られたものも、美術品や書画、文房具など、一つひとつに思い入れがありながら、どこか統一感があって、お互いに馴染んでいる。

一つひとつの物に由来や作り手との縁がある。その解説と共に鑑賞するのがまた良い。観潮楼にお招きいただいて、主から「これはね、かくかくしかじかの経緯で……ここのこれが良くてね……」など案内を受けているような気分になる。

元々が名家の後継ぎで、さらにドイツ留学中に文化芸術の知識を蓄え、自分でも執筆以外の創作活動も行っていた鷗外は、美術界で批評や審査などにも携わっていた。審美眼は相当なものだが、金銭的に価値の高いものというよりも、師、友人、仲間、後進の作家など、作者や送り主との関係や、手元にきた経緯や状況に価値をおいていたようだ、と解説にある。

 

長男の森於菟によれば、鷗外は、

真物は高いから、富豪が蔵していて、我々は見たい時に見られればそれでよい。

と言っていたらしい。

森家の子どもたちは日記を遺している人が多いが、その中には、座敷、応接間など、子どもたちの日常の中、暮らしの一部として、観潮楼の逸品があったそうだ。

常設スペースの模型(今回はなかったかも?)と見比べながら、あそこに飾られていたのか、ここに置かれていたのかと想像を巡らすのも楽しい。

一点一点、静けさと穏やかさ、鷗外の精神の奥行きを感じる。

 

印象に残ったもの

大正11年(1922年)当時の物価がわかる一覧

 キャラメル 10粒1箱 5銭
 コーヒー1杯 10銭
 帝国博物館入場料 大人10銭 子ども5銭
 外国郵便 書状20銭 葉書8銭
 天丼 40銭
 レコード 1円

(天丼、レコードが高い!)

・煙草入箱、葉巻切りなどは、たばこと塩の博物館の体験があると、つい見てしまう。一つの博物館をじっくりと訪ねると、その後にテーマに出会ったときの印象が変わる。

・蔵書印、落款印、篆刻などの展示も。人生の節目に印章を作ったようだ。願いや覚悟などを込めたのか。

・様々な場所に書棚が作られ、妻の志げが「宅では本がたんすを飛び出てます」とこぼしたとか。本はやはりそうなりますよね!没後、形見分けしたあとは、東京大学総合図書館へ寄贈されたとか。

漱石『彼岸過迄』大正元年、春陽堂。装丁は橋口五葉。 漱石『門』明治44年春陽堂漱石春陽堂のこと、もう少し知りたいと思い、春陽堂のページを訪ねる。

・書家・中村不折の書もある。こちらも比較的最近、書道博物館を訪ねたばかり。

山種美術館で去年出会った竹内栖鳳の画もある。

 

そして今回ブログに記録を残そうと重い腰を上げて書き始めて、あっと思ったのがこの事実。

長男・於菟は、当時日本統治下にあった台湾の、台北帝国大学(現・台湾大学)の医学部教授を務めた。赴任した際、鷗外の遺品を戦局厳しい東京から避難させていた。

戦後も同大学で働いていたが1947年に帰国。その際、教え子に遺品を託している。日本帰国後はすぐに受け取れず(おそらくは国交の問題か)、最終的には朝日新聞社を通じて台湾省政府に返還願いを出し、1953年に6年越しで受け取ることができた。

観潮楼は、1945年1月の空襲で、鷗外の胸像、門の敷石、庭の石、銀杏の木を残して全焼してしまうが、於菟の働きのおかげでこれらの逸品たちは難を逃れた。

わたしは5月に入ってから、台湾映画を通じて台湾と日本との関係について学んできた。もしや於菟の1947年の帰国というのは、『悲情城市』で描かれていたような二・二八事件の影響だったのでは......?今ここで台湾との関連を見るとは。

作品と史実、自分なりに調べてきたこととの交錯が起こり、鳥肌が立った。

 

 

今回も大変よかった。

一人の作家を毎回の企画展で少しずつ知っていける。それが個人美術館・個人文学館などのミュージアムの醍醐味。

年間パスポートがあるらしい。ここ3回続けて来ているし、これからもきっと来るから、購入しようかな。

......と思った矢先、緊急事態宣言が発出されて、4月25日から臨時休館となった。現在もまだ休館中。

 

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記念館の中にある「モリキネカフェ」。

カフェだけの利用も可。
単に「カフェが併設されている」というだけでなく、鷗外の写真が飾られていたり、メニューにプレッツェルがあったりして、さりげなく鑑賞後の味わいが続くような雰囲気になっている。

天井が高くて広々している。

窓の外には空襲を免れたイチョウの木。

何をいただいても美味しい。この日はかなりガツンとした甘味をいただいた。冬のマサラチャイもよかった。

 

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映画『悲情城市』(台湾巨匠傑作選)鑑賞記録

新宿K's Cinemaで上映中の台湾巨匠傑作選2021侯孝賢監督40周年記念 ホウ・シャオシェン大特集を追っている。

※内容に深く触れています。未見の方はご注意ください。

 

9本目は侯孝賢監督『悲情城市』1989年制作。
原題:悲情城市、英語題:A City of Sadness

あらすじ・概要:悲情城市|MOVIE WALKER PRESS 
        ぴあ映画生活

  

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悲情城市』は、わたしにとって、今回の連日の鑑賞の本丸だ。高校生の頃にレンタルビデオで借りて観て、しかし全くわからず、その後はふりかえることもなく、この30年弱を過ごしてきた。

この特集期間中、8本の台湾映画を観てきて、わたしなりに台湾の歴史をざっと抑えたので、少しはわかるようになっているはずだ。少なくとも30年前よりは。

自分が何を見るのか、どんな感想を持つのか、どんな映画体験なのか。この日を本当に楽しみにしていた。

平日にもかかわらず、チケット予約は5分で完売となっており、わたし以外の人にとっても関心が相当高いことがうかがえた。

 

とはいえ、一体何から書けばよいのか。10日経ってもまだおさまらない興奮を引きずりつつ、今回の感想をいくつかに分けて記録してみる。まとまらないので箇条書きで。

 

1.  「日本人」であるわたしにとって

まずはとにかく、これを書かねばと思う。日本に生まれ育ち、日本の国籍を持ち、今も日本に暮らし続けるわたしとして、これは自分に関係がありすぎる作品だ。

・映画は、玉音放送ではじまる。1945年8月15日。これほど長く玉音放送を聞いたのは初めてかもしれない。日本にとっては「終戦の日」だが、台湾にとっては、1895年の日清戦争後の下関条約締結以来、51年続いた統治の終わり。祖国中国復帰の日。しかしこれは新たな苦難のはじまり。

・写真を撮る掛け声は日本語「笑ってよ、撮りますよ」。人々は日本語混じりで話す。「写真」「きれい」「大丈夫」「しばらく」など。

・林家の2番目と3番目は日本軍として徴用された。2番目の文森は軍医。ルソン島で行方不明に、3番目は通訳。上海から復員したが、精神錯乱の状態で一時病院にいる。

・呉寛栄(ウー・ヒロエ)、寛美(ヒロミ)のきょうだいは日本名。(1937年に台湾の皇民化運動開始。日本語の強制使用、日本式姓名への改名など)

・林家の4番目文清が寛栄と住んでいる写真館は、日本家屋。襖、障子、畳、床の間。

・バイオリンの奏でる「ふるさと」が流れる。

・小川静子。台湾で生まれ育った静子にとって、引揚船で帰国しなければならない先の日本は異郷。

・病院での北京語の授業。日本の撤退によって、日本語から北京語へ言語が変わる。『恋恋風塵』でも「おれたちの言葉も日本語から北京語に変わって、勉強は全部むだになっちまった」という台詞が出てくる。

・「九・一八、九・一八、あの悲惨な日から」の歌詞。柳条湖事件の起きた日、満州事変のはじまり。日本が満洲を侵略した。

・学校の教室で「赤とんぼ」をピアノを弾きながら歌って教える静子。

・静子と日本語で話す寛美。

・「日本人と桜」について語る寛栄。

・日本軍が撤退時に始末しきれなかった日本紙幣がヤミで出回る。

・「日本時代は戦時中でも米は配給された。陳儀が来て1年で米の値段は52倍、月給はわずかしか上がらない」(大陸を追われた中国国民党が台湾人を抑圧している)

・長男・文雄と三男・文良を軍が逮捕しにくる。漢奸(かんかん、ハンジェン)の嫌疑の密告。漢民族の裏切者・背叛者。この映画の状況では「対日協力をした売国奴」となるが、51年も支配下にあった台湾では、戦時中に日本国民として生きていた台湾の人たちは、誰もが罪になってしまう。

二・二八事件が勃発し、台湾人(本省人)により外省人への憎しみが噴出。文清は「あんたどこの人か」と日本語で尋ねられる。(日本語がわかるかどうかで本省人外省人かを判断して、わからなければ外省人として殺そうとしていた)

 

ドキュメンタリー映画『台湾新電影(ニューシネマ)時代』で、「ヴェネツィア映画祭で金獅子賞をとったものの、西欧の人間には背景がよくわからない」というインタビュイーが登場していたのを思い出した。確かにこの作品は、歴史的背景の予習をしてからでないと難しい。

さらに、欧州の人にとってアジア系の顔立ちは似て見えるだろうから、引きのショットの多いこの映画の登場人物を見分けるのは、かなり難しいことだろう。名前も馴染みがない。言語や文化の違いも知らなければ読み取れない。(そのような難しさはあっても、世界から評価されたことがすごいと思う)

しかし、「わたしは」、同じように感じていてはいけない。

「日本」や「日本語」「日本人」と語られる場面に、わたしはいちいち驚き、台湾で起こったことと、日本との関連についてあまりにも無知であることに気づいた。

もちろん『悲情城市』は反戦反日の映画ではない。そのような政治やイデオロギーについて語る映画では全くない。台湾の人たちにとっても、戒厳令が敷かれていた1987年(この映画公開のたった2年前)までの38年間に起こった語れないままだったこと、所在なさのようなものが詰まっている。かといって、「台湾の人たちのアイデンティティ確立のため」と閉じてもいない。ある時期の、ある場所の、ある家族の、ある人間の物語を通じて、普遍性を描きだしている。

 

今の自分たちがどのような歴史の上に立っているのか。

歴史を学び、新しい説が出たり、新しい事実が発掘されたり、新しい表現が出るたびに、学び直しながら、今とこれからをどのように生きるかの糧にしている。

一方で、日本の関与した重要な事柄について、このように偶然出会わなければ、知らないで過ごせてしまえる。こんなにも近い隣国なのに。見落としているものや視界に入れていないものがどれだけ多いのかと思う。

2021年の今、一体このことをどう考えたらいいのだろう?

 

 

2.  映画作品として

・2時間39分は長いと感じなかった。むしろ、次から次へと起こることに集中していたので、あっという間だった。

・一定のテンションで観客を最後まで連れて行ってくれる。これは「基調」の効果だろう。長らく侯作品の脚本を書いている朱天文さんが、著書『侯孝賢と私の台湾ニューシネマ』 で紹介している張愛玲の言葉を思い出す。

「人生の穏やかさを基調にして人生の高揚感を描く。この基調無くしての高揚は浮ついた飛沫でしかない。多くのパワフルな作品は人々に興奮をもたらすが、啓示をもたらすことはない。その失敗は、基調を把握するすべを知らないことにある」(中略)『フラワーズ・オブ・シャンハイ』が撮ろうとしたのは、まさにこのことでしょう。つまり、日常生活の痕跡、時間と空間が創り出すその瞬間の、人物の生き生きとした様子、その輝きを撮りたいということなのです。(p.216より引用)

『フラワーズ〜』以前からも侯作品にはこの基調があり、『悲情城市』にもいかんなく発揮されていると、わたしは感じた。

・歴史劇ではあるが、TVの大河ドラマのように全く説明的ではない。わからないから、画面の中で起こっていることから、必死に理解しようとする。画面外で起こっていることへの想像も広がる。経緯やここからの経過。能動的であればあるほど応えてくれる映画。そのときどきで必要なものを受け取れる装置。

・「まるでそのようにすべてが生きていたように」作り込まれた侯孝賢とそのチームの映像世界は、情報量が多く、奥行きがある。濃い。本物だと信じられる。すべてにおいて。そのようにつくっている。強度がある。だから古びない。古びないように風雪に耐えるように強く作ってあるのかもしれない。

・時代の空気を取り込みながらも、今この時代の人とだけ共有できればいい、「ウケればいい」というものは作っていない。このようなものの作り方は主流にはなりにくい。けれども決して保守には陥らず、毎作、彼(かれら)としての新しい試みに挑戦しており、排他的ではない。観客が能動的であることは常に求められるが、それは「アート」だからだろう。

・35mmフィルム上映で公開当時の画を感じられたことは意味があった。観ながら、1990年にトリップし、さらに劇中の1947年にトリップする。フィルムならではの光と影の質感。もちろんデジタルリストアされれば、また分かってくることも多いだろうし、受け取るものも変わりそうだ。

・フィルムならではのこととして、チェンジマークの出る前後の揺れが懐かしかった。この呼吸、間合いを含めて、編集というのはかつてなされていたのかもしれないと思う。また、映画終了後に数秒、真っ黒なコマに傷か埃のあとがチラチラと映る時間があって、まるで宇宙で小さな星が誕生する最初のはじまりのような、電子の光のように見えて、美しかった。

・文清が聾唖で、寛美が寡黙であることが、この物語に落ち着きと静寂をもたらしている。筆談で語り合うシーンは、サイレント映画のような叙情がある。寛美が豆の筋取りをしているときに文清が帰ってきて、二人が筆談をする円卓のシーンは、もしかしたらこの映画の中で一番と言えるほど印象深い。

・おびただしい人が犠牲になったことが、林家とその身近な人々を写すことを通して、容易に知れて胸が痛む。

・個人の力ではどうしようもない流れの前に、抗い、もがき、立ち尽くす人たちの姿。このような「悲情」は背景を知らないとしても(前述と矛盾するようだが)、どの人にも共感できるものだ。

・わたしが高校生で観たときの記憶はほぼ失われているが、どこかしら印象深い映画ではあったはずで、だからこそ今、こうして出会い直せている。たとえ前提がわからなくても、なぜか気になる、惹かれる、観てしまう。映画の力だろうと思う。

・そのときはわからなくても、後年、必要なタイミングでまた出会える。出会えるようにしてくれているのは、この文化を継いでくれている人たちがいるおかげだ。

・侯の映画が、観客を非日常の精神世界に導きこそすれ、絶望に陥れないのは、どんな状況にあっても人々が「生活」をしているからだ。作り、食べ、繕い、掃き、営む。山があり海があり、見晴るかす場所に立っていると、人生は続くと思える。

トニー・レオン森雅之に似ている。(最近『雨月物語』を観たので思い出した)

・『春江水暖』(グー・シャオガン監督, 2019年, 中国)は台湾ニューシネマの遺伝子を受け継いでいる。あちらも4人兄弟、『悲情城市』も4人兄弟。時代に翻弄されていく人たちを雄大な山河のように、ただ見つめるように描く。批判も過度な感情の煽りもなく。

・林家の4人の男子は、時代と暴力の犠牲になった。「男子が産まれるように」と願われる文清の結婚式のシーンとオーバーラップして、悲壮である。

・お茶を飲む、ご飯をつくる、給仕する、食べる、繕ものをするなどの日常の生活に人の生きる痕跡を見ようとするのが、やはり侯孝賢の目だ。人によっては「そんなん写して何がおもしろいんだ」という反応もあったかもしれない。そういうものにこそ、撮る価値がある、映画という形で作り、記録することの大切さを教えてくれるアーティストの一人だ。

・チンピラや上海やくざとの取引についてのやり取りや、小競り合いのくだりはよくわからなかったので、公開当時のパンフレットを取り寄せた。インタビュー、解説とシナリオ再録を読んでやっと理解した。充実の記録。

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3. 1989年当時の台湾のこと。 わたしの10代。現在の日本社会と世界。

・映画が完成した1989年当時の台湾をふりかえると、1987年に38年間続いていた戒厳令が解かれたばかり。体制と価値観の転換が起きている激動の時期だろう。

ドキュメンタリー映画『台湾新電影(ニューシネマ)時代』の中で、香港の映画人が、「1980年代に台湾の映画人たちがどのような状況下にいたのか、あまり知らなかった」というような発言をしている。後になってわかることがある、ということと、同時代では見ようとしなければ見ることのできない、伝えようとしなければ伝えられない事実があり、伝えることも見ることも禁じられる事態が社会には起こりえるということを思う。

・わたしも今回、映画を通じてでなければ、当時の台湾社会に関心を寄せることはできなかっただろう。文化や芸術によって人類はつながりをもてる。文化では分断しない。

・1947年、二・二八事件の年に生まれた侯孝賢が、自分の知る由もないあの時代を撮ろうとしたのは、なにか背負うものがあったのではないだろうか、と想像する。

・1989年といえば、天安門事件ベルリンの壁崩壊(と東欧の社会主義体制の崩壊、冷戦終結)だ。日本では昭和天皇崩御(昭和の終わり)。32年前。激動の年だった。その意味がわかるのはずっと後になってからだ。つまり、今。

(参考記事 https://globe.asahi.com/article/12468872

・1980年代はわたしが物心ついてから10代を生きていた真っ只中だ。1989年は中学生だった。わたしの10代は、日本は戦後ではあったが、世界にはまだ戦争があった。冷戦、内戦、粛清。

・今もある。戦争は形を変えているだけだ。香港、ミャンマー新疆ウイグル自治区パレスチナ。そして一旦民主化したはずの国の排外主義、極右化。

・中国の一定以下の世代は、天安門事件を知らない。厳しい言論統制の元、海外へ逃亡した人たちもいまだ危険を感じながら生きている。人々の口にのぼらず、記録されたものも目に入らなないようになっていれば、知りようがない。

https://www.businessinsider.jp/post-192035
https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20190815/index.html

・「知識人」、表現と言論の自由。映画の中でも描かれていたが、まずはここから弾圧されていく。映画を作り続けることの意味、本を書き続けることの意味、対話の場をひらくことの意味。

 

 

 

▼K's cinemaのロビーに飾られていた写真。

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4.  映画から展開して知りたいこと

台湾語と中国語の違いについて

言葉が重要な鍵になっている映画でもある。日本語はもちろんだが、台湾語、北京語、広東語、上海語が混じるが、お互いの言葉がわからないという場面が出てくる。

www.ntctaiwan5.com

▼共通語は北京語、台湾の複雑な言語事情(2010年の記事)

10年以上前の記事だが、現在はどのような状況なのだろうか。

www.afpbb.com

 

▼台湾 日本語の勉強会も(2021年の記事)

台湾の方々が、「美しく正しい日本語を残そう」と活動されているのは不思議で驚きで、でもうれしいつながりでもある。

この世界はそんなに単純ではない、ということだろうか。「自分たちを支配していた言語だから忌み嫌う」という面ももちろんあるだろうが、言葉や衣食住など生活や日常に食い込んでくるものだ。白黒つけられないと感じた。

mainichi.jp

 

パラオに赴任した中島敦が、現地の人に日本が教育をするのはおかしいんじゃないかと苦悩していたことを思い出して、こんな記事や論文を読んだ。日本の植民地政策についてもっと知りたい。

moriheiku.exblog.jp

 

『旧南洋群島における国語読本第5次編纂の諸問題 ―その未完の実務的要因を中心に ―』橋本正志(立命館大学)発行年不明

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/594PDF/hasimoto.pdf

 

▼25年目の『悲情城市』(2016年の記事)

cinefil.tokyo

 

▼台湾の歴史的事件を記録した、侯孝賢の初期集大成(2021年の記事)

news.yahoo.co.jp

 

▼『悲情城市』の歴史的背景のまとめがわかりやすい

taiwan-gyunikumen.style

 

▼こちら買ってみたのだけど、つらくて読みきれなかった。

books.rakuten.co.jp

 

白色テロを題材にした2019年の台湾映画。歴史の問い直しは新世代に引き継がれている。

台湾では、『悲情城市』(1989年/監督:侯孝賢)や『スーパーシチズン 超級大国民』(1994年/監督:萬仁)以降、二二八事件や戒厳時代の白色テロをきちんと描写した映画作品が20年以上現れなかった。(中略)台湾でも「韓国はできるのに、どうして台湾は二二八事件や白色テロをテーマにした商業映画が作られないのか」という議論が巻き起こった。そうした指摘に対し、今回の『返校』は、台湾映画が得意のホラー路線で大いに応えたといえそうだ。

www.nippon.com

 

▼映画の中に出てくる紙のお金?ってなんだろう?に答えてくれているブログ

taiwangohan.blog.fc2.com

 

▼台湾で今でも慕われる八田技師 ダム建設で緑の大地に。

八田さん、金沢人にはお馴染みの方だろうか?「慕う」以外の統治時代の話も最後に書かれている。

mainichi.jp

 

▼舞台になった九份

今は観光地。下の方に『恋恋風塵』にも出てくる坂道の写真が出てくる。

tabi-mile.com

youtu.be

 

 

『台北・歴史建築探訪ー日本が遺した建築遺産を歩く』片倉佳史(ウェッジ, 2019)

この映画を観た直後にお会いした方から、今のわたしに必要な本を譲り受けた。関心を表現し続けることで、つながる、出会う、広がる。

www.instagram.com

 

今回の再会をきっかけに、これからもまだまだ出会って行けそうだ。

かつての台湾にも、現在の台湾にも。

 

台湾巨匠傑作選は、あと6本観る予定だ。

台湾映画の歴史を「中から」観たドキュメンタリー、『あの頃、この時』を見れば、また新しいことがわかるかもしれない。

悲情城市』ももう一度観るつもりだ。

www.ks-cinema.com

 

 

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本『侯孝賢(ホウ・シャオシェン)と私の台湾ニューシネマ』読書記録 

 

*追記 2023.7.9

台湾在住の文筆家、栖来(すみき)ひかりさんによるコラム

note.com

__________________________________

鑑賞対話イベントをひらいて、作品、施設、コミュニティのファンや仲間をふやしませんか?ファシリテーターのお仕事依頼,場づくり相談を承っております。

seikofunanokawa.com


初の著書(共著)発売中! 

 

 

シブヤ大学×きみトリプロジェクトのコラボ授業をひらいて

先日、シブヤ大学さんときみトリプロジェクトのコラボ授業、「みつけよう!いまのわたしが踏み出せる一歩 ~きみトリプロジェクトから学ぶ、対話と場~」に講師として参加した。


▼授業詳細

www.shibuya-univ.net


▼きみトリからのレポート

note.com

 

きみトリプロジェクトは、わたしも共著者の一人である『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』の出版と普及のために立ち上げた活動で、来年3月までの予定で、この一年、集中して取り組んでいる。

本を通じてアイディアを届けることも一つ、そこからさらに、本を通じて対話の場をつくり、一人ひとりが自分の人生のために、だれかと共に生きる社会へ一歩を踏み出してもらいたいと意図している。

 

今回ご縁のあったシブヤ大学は、数年前に授業を受講したことがあるだけだったが、市民の学び場となるべく確固とした軸を持ち、活動を続けていらっしゃる様を常に目の端で追ってきた。一度、「本をテーマにした授業を作らないか?」とお話をいただいたこともあるが、いろんな事情で実現しなかった。それから4年、まさかこんな形で叶うと思っていなかったので、とてもうれしい。

 

この授業は、コーディネーターの槇さんが、ご自身の問題意識から企画してくださったのだが、「講師の先生に中身はお願いします」という形ではなく、同じく共著者のライチさんとわたしと3人で、何度もやり取りを重ねて、共につくっていけたことがうれしい。

槇さんは『きみトリ』のクラウドファンディングにサポートしてくださり、本も読み込んで読者として「良い」と感じてくださったのだが、そこからさらに「自分の関わっている現場で、自分の活動と掛け合わせて、新たな機会がつくれる。それがわたしにとっての一歩だ」と動いてくれた人。

きみトリプロジェクトは、まさにこのような現場を持って動く「人」、経験はないけれどやってみたい!と一歩踏み出してくれる「人」の働きかけで広がることを期待している。名も無き市民による活動も、このような縁がつながることで、展開していける。

 

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当日の講座は、「それぞれの想いから手の届く範囲の社会へとみなさんが一歩踏み出す」ことを目指して組み立てられ、槇さんがメインで進行しながら、ボランティアスタッフさんのきめ細かいサポートを受けながら、

・10代の感覚を掘り起こすシェア

・一歩踏み出した例を講師たちから聞く

・踏み出すときの「会話」や「場」をつくるレクチャー

・やってみたいことのシェア

と進んでいった。

 

わたしの感想としては、とにかく楽しかった。もっと皆さんとお話したかった。「人と何かをしたい」「こんな場・活動をつくりたい」と思っている人たちと一緒にいるのはやっぱりいい。幸せだ。参加者の方々の、シブヤ大学さんのつくる場への期待と意欲を感じる。

初めて会う人に聴いてもらえるのが、まずは第一歩になった方もいるかもしれない。いるといいな。

温かな関心をもって、共感して聴いてもらえる場で、まずは口にしてみる。それができる場が貴重。そのときはわからなくても、あとあと振り返ったときに、「思えばあれが」という一歩になっている。

 

実際、そのように小さくつくった場のことを紹介した。2014年〜2016年にひらいていたブッククラブ(読書会)。今思えば、「生きるためにつながる」切実で大事な一歩だった。

▼ブッククラブ白山夜

hakusan-yoru.jimdofree.com

 

授業の冒頭に、コーディネーターの槙さんからの、「目指す”べき”目標を追ったり、正しい答えを探すのではなく、自分にとってこれが大事を見つけられたら」という前提の共有が印象深い。いつでも立ち止まったり、振り返ったりして(またそれを自分に許可して)、「今の自分」を起点に見出したい。

 

そのときに、「10代の頃の自分が感じていたこと」のシェアのように、10代の自分に相談しにいくのもおすすめだ。感受性鋭い10代の頃の自分は、どういうことに関心や疑問を持っていたんだっけ?大人になった自分がそれに答えるとしたら?と問いかける。

これをテーマに友人と話してみるだけでも、大きな一歩。(会話のトリセツも参考に)

また、『きみトリ』を読むだけでも、10代の頃の感覚を思い出したという大人も多い。ぜひ手にとって、気になるテーマ一つだけでも拾い読みしてもらえたらと思う。

 

だれからも頼まれていない、ひたすらに自分たちの切実さからつくった本。

『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』稲葉麻由美、高橋ライチ、舟之川聖子/著(2020年、 三恵社)

 

当日の様子を見ていると、たくさん話したい方にとっては、物足りないなかったかもしれないし、勇気を出してこの講座に来た方にとっては、前段があるからこそ話すハードルが下がったかもしれない、その両方を感じた。

いずれにしても「自分の中に話したいことがある」に気づいていただけたならうれしい。この場をきっかけとして、明確に言葉にならなくても、必ず何かは進んでいる。発見している。

そして「もっと話したかったのに!」は「自分の切実さ」なので、この衝動から「自分で場をつくってみる」「自分で旗を立ててみる」にもぜひ挑戦してみていただけたらと思う。そのときに、レクチャーでも使ったこんなイメージも活用してもらえたら。

 

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小グループの部屋では、
「所属している場はいろいろあるけれど、自分発で場をつくったことがない」
「こういうやり方でやってみているけれど、人を集めるのが難しい」
「仲間がほしい」
......など、いろんな段階のいろんな「切実さ」を聴かせてもらった。

まずはどなたにも、「今、口にしたからきっと叶いますよ!」と言いたい。

 

とはいえ、思っていたよりも、実現に向けて動いている方がいらっしゃるようだったので、ぜひこちらの連載記事を読んでいただけたらうれしい。

お寺の方向けのウェブサイトだが、どんな活動の人にも参考になるように書いている。また、感染症流行のため、「オンラインでやるとしたら」という発想の転換は必要だが、何かしらのヒントがあると思う。

 

寺子屋学:場づくりを成功させるための5つの鍵

terakoyagaku.net

 

個別のご相談もぜひご活用いただきたい。ヒアリングの上、具体的な提案、アドバイスもできる。わたし自身が場をつくる上で、「こんな相談ができる人がいたら!」と思ったことがきっかけになっている。相談に来られた方に寄り添いながら、納得のいく道を見つけられるよう、サポートしている。

▼サービスメニュー:場づくりコンサルティング

seikofunanokawa.com

 


普段の会話を対話的にするコツ(会話のトリセツ)

イベントや会の形にして、もっと会いたい人に会い、話したいことを話せる関係をつくる(場のトリセツ)

『きみトリ』を使ったこの流れのレクチャーが作れたのも、わたしにとって収穫だった。今後、他でもぜひ活用していただきたい。

note.com

 

 

(2021.6.19追記)

シブヤ大学さんからもレポートが出ました。簡潔&温かみのあるレポート。

www.shibuya-univ.net

 

映画『フラワーズ・オブ・シャンハイ』(台湾巨匠傑作選)鑑賞記録

 新宿K's Cinemaで上映中の台湾巨匠傑作選2021侯孝賢監督40周年記念 ホウ・シャオシェン大特集を追っている。

※作品の内容に深く触れています。未見の方はご注意ください。

 

12本目は、侯孝賢監督作品『フラワーズ・オブ・シャンハイ』。

原題:海上花、英語題:Flowers of Shanghai

1998年、日本・台湾合作

あらすじ・概要 https://www.ks-cinema.com/movie/taiwan2021/

 

youtu.be

 

youtu.be

 

これは、演劇? それとも夢?

 

黒字に赤のタイトルが鮮烈。このフォント、このタイトルクレジットにまずぐっと掴まれる。

続いて、きらびやかな娼館の室内、調度品、衣裳をまとった人たちの物憂げな仕草、大敗的なムード、そこにたゆたうように流れる音楽......。あっという間に、非日常の時間と空間に放り込まれる。

 

じゃんけん酒飲み、ごはん(美味しそう)、水タバコ、アヘン、おしぼり、お茶、言い合い、噂話、愚痴......。これが延々と繰り返されながら、トレイラーのような耽美な世界観が2時間弱、ずーーーっと続く。

切り返しなしで、左右にゆったりと振れるカメラ。じっくりと撮っているが、クローズアップもなく、一定の距離感を保ちながら、質感を映し出している。画面に映るものすべてが「ほんもの」。どのシーンを切り取っても、画になる。

画になるが、俳優を撮っているというわけでもない。人間が作った美の中にいる、美しい人間。その造作だけでなく、醸し出す雰囲気、存在感、すべてが観る対象になっている。どこに目を移しても発見があるし、美を感じられる。

美を表現するのに、これほど贅沢に盛り込まれ、これほど抑制的に撮れるというのは、すごい。だからこそ2時間も飽きずに、いつまでも観ていたいと思わせるのかも。

 

聴き慣れない言葉も耳に心地好い。

実際は、上海語がメイン。主役のトニー・レオン上海語が話せないため、母語の広東語で。羽田美智子は日本語で同じ長さのセリフを話し、そこに広東語で吹き替えという複雑さ。言語の違いが分かれば、もっと味わいが違うんだろうなぁと悔しい。

 

あらすじや見所はあるような、ないような感じだが、まったくわからないと、それはそれで見るとっかかりがなく、何が起こっているのかわからなくなりそうなので、予習しておいてよかったとは思う。

 

映画を通して、ドラマ的な起伏も少ない。トニー・レオンが嫉妬に狂って、室内の調度品を破壊する場面や、妓女が客と心中しようとする場面あたりが一瞬そういうものではある。前者の場面も、その引き金になっている羽田美智子が演じる妓女の浮気と思われるシーンも、一瞬のことで、今の感覚から言うとあまり明示的ではないので、何が起こっているのかわからない。

まるでお能のような奥深さだ。確かに「男女の愛と葛藤」なのだが、こちらが能動的に観にいかなければ、その機微を感じることが難しい。会話と画面に映っているものがすべて。断片的な情報しかないため、妄想で補う。いや、むしろ補うことが推奨されている映画だ。放置されていると考えると不親切だが、どのように妄想してもいいと言われると心地好い。観たいように観てよい。

 

仄暗い中で、蝋燭の明かりが消えたり点いたりするような、瞼を開いたり閉じたりするような場面転換が何度も行われるが、常時同じ建物の、限られた部屋が映るだけで、外の世界のことはほとんどわからない。

ごくたまに朝や昼間の光が差し込むシーンがあり、それはそれでまた美しい。それ以外はずっとランプや蝋燭の光が室内をぼんやりと照らしている。たぶんそういう時間帯は夜なのだと思う。そのぐらい外のことがわからない。外からは、雨の音、虫の声や蛙の声、鳥の声などが聞こえてくるだけ。

この点、閉鎖的で観ていて苦しくなるかなと心配したが、演劇の舞台のようなので、思っていたような心理的圧迫は感じなかった。

 

男が女の元に通う、あなただけだよと言いながら他の女とも関係する、待っているしかない女。「あなたに捨てられたら生きていけない」という女。男は女に気に入られようとあの手この手を尽くすが、社会的立場としては女のほうが圧倒的に弱い。男から贈られる装束。お付きの女性が取り次ぐ、もてなす......。なにやら平安時代の貴族の館、和歌の世界、女房の日記文学の世界のよう。

 

 

美を追求しつつも、映っているのは、日常の生活。

人とすれ違うときの何気ない仕草、水タバコを取り扱う所作。完璧に使い慣れた道具のように扱う。どこに何があるのか、十分把握しているような馴染み方。

どんな場所にも、どんな時代にも、日々の生活がある。営みがあるということを思い出す。

お皿の片付け方、おしぼりの絞り方、椅子の座り方、お茶の飲み方......。お粥の湯気、タバコの煙、衣装の艶や刺繍の繊細さ。ディテールが細かく、正確。

 

 

先日の記事で紹介した朱天文さんの本『侯孝賢と私の台湾ニューシネマ』から、引用する。

『フラワーズ・オブ・シャンハイ』が撮ろうとしたのは、(中略)日常生活の痕跡、時間と空間が創り出すその瞬間の、人物の生き生きとした様子、その輝きを撮りたいということなのです。(p.216)

自分の手にあるもの、水タバコでもアヘンを吸うキセルであっても、道具という存在を意識しないほど慣れることにより、生活のリズムに近いものになっていること。そうすれば暮らしの中で、話をする姿ひとつにしても、すでに一部分となります。(p.218

脚本を書くときによく人物を立ち上げると言いますが、立ち上げるのではなくて、肝心なのはその人物が登場したとたん、その人物を信じることができるかどうかなのでしょう。(p.220)

長回しについて) 一つのシーンを一つのアレンジで見せるため、そこに何があるかは観客が自分で選択して見ることになる。映像からもたらされる情報は多元的で、複雑であり、これが長回しの系統ということです。(p.224)


このくだりを読んだときに、ああ、これは絶対に『フラワーズ・オブ・シャンハイ』を観なくては!と思った。この映画が気に入った方は、ぜひこちらの本も読んでほしい。

 

 

美しさに呑まれながら、映画として観てみると、娼館だから性的な描写があるのか?と思いきや、全くない。皆無。それを匂わせる寝所は映っているものの、どちらかというとごはんを食べているシーンのほうが印象に残る。そもそも客と娼婦が身体を寄せたり、積極的に抱き合ったりする場面も、数えるほどしか出てこない。(ふりかえってみると、もう少し王と小紅の仲睦まじい様子も見てみたかったな。)

 

男たちは昼間から娼館に入り浸り、ごはんを食べたり、酒を飲んだり、妓女とたわいもないおしゃべりに興じている。どういう身分、どういう仕事の人たちなのだろう?どういうところから金を得ているのだろう?そもそも租界なのに、「外国人」の出入りが全くない。租界の妓楼とは?調べたくなる。

 

断片的な会話を通して知る、この妓楼のヒエラルキー、規範、花街のしきたりが徐々に見えてくる。「7歳で女の子を買ってきて、10年かけて一人前にする」「商売に向いていない子は嫁がせる」。見受け話。遊女に正妻は無理、嫁ぐといっても妾になるのか?

映っているのは娼館だけだが、遊女たちは客と外出したりはできるようだと会話から知る。娼館で働いて家族を養っているらしい。借金もあるようだ。置屋の女将にぶたれたという訴え。売り上げのほとんどを女将が持っていってしまう。(性差の日本史展での、遊郭の経営者に酷い目に遭わせられていた遊女の日記などを思い出す)

遊郭という閉鎖的な空間。女たちの人生が少しずつ垣間見える。ここで生きるしかない女たちの悲哀のように見ようとすれば見える。すごく美しいのに、こんなに作り込まれて完璧なのに、一皮むけばもしかしたら、はりぼて......。

かりそめの関係と言いながら、男たちはもう何年も通っていて、妓楼の事情に精通している。また、ここだけで完結する深い情のようなものでつながっているようにも見える。

 

 

 

どうして毎作こうも違うんだろう。

通底しているものはあって、侯孝賢らしさはあるのだけれど、同じことはやらないと決めているのか、いろんな大人の事情でこうなるのか。ぜんぶ違うという印象。一つ一つが強烈な個性を放つ作品。

やはり全部観たい、観なければ、もっと知りたい、もっと創作の奥深さに触れたいと思わせる。

  

映画館の暗闇の中で、画と音に包まれながら鑑賞できる幸せ。

デジタル処理によって、ますますその美しさを発揮している。

 

これは良い夢をみた。

 

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2019年TOKYO FILMEX上映時、オリヴィエ・アサイヤス監督のトーク。映像とテキスト。

『フラワーズ・オブ・シャンハイ』 Flowers of Shanghai | 第20回「東京フィルメックス」

 

youtu.be

 

メインテーマ。ここを流しているだけでうっとりする。

youtu.be

 

半野喜弘さん、その後映画音楽をたくさん作り、ご自身も監督をされている。

『フラワーズ・オブ・シャンハイ』での抜擢の経緯はこちらの記事にあった。

 

(追記 2021.6.7)

『フラワーズ・オブ・シャンハイ』は、中国の小説家、張愛玲(チャン・アイリン 1920〜1995)が清代の小説を現代語に翻訳した『海上花列伝』を原作としている。

張愛玲は、脚本を担当している朱天文の師である胡蘭成と深い関わりがあり、一時期結婚もしている。張愛玲と胡蘭成の関係をもう少し調べてからこの映画を見ると、また何か違うものが見えてきそうだ(下世話かもしれないが)。

そうしないまでも、この映画に流れ込んでいた支流について、また一つ知ったことで、わたしにとってのこの映画の存在が、また立体的になったと感じる。

 

さらに追記。

まさにこの二人の恋愛を描いた香港映画があったようだ。

『レッドダスト』原題:滾滾紅塵、英語題:Red Dust 1990年

レッドダスト : 作品情報 - 映画.com

『侯孝賢と私の台湾ニューシネマ』刊行記念のライブトーク:視聴メモ

誠品生活日本橋プレゼンツ、『侯孝賢と私の台湾ニューシネマ』刊行記念のライブトーク、とてもよかった。

seihin0523newcinema2.peatix.com

 

登壇者は、樋口裕子氏(翻訳家)、小坂史子さん(映画プロデューサー)、江口洋子さん(台湾映画コーディネーター)。
 
それぞれの立場から見た朱天文さんや侯孝賢監督の印象やエピソード、作品に対するご自身の感想など、惜しみなくシェアしてくださった。
 
5月に入って、侯作品を含む台湾映画を10本以上観てきて(明日も行く予定で)、パンフレットも熟読して、もちろんこの本も読んで、感想も書いてきた。
 
こういうわたしのような観客&読者にとって、きょうのライブはまるでご褒美のような時間だった。(今回は、メインのほうを中心に見ているので、「江口洋子スペシャルセレクト」まで手が回っていない。江口さん、ごめんなさいッ)
 
まずは、本にしようと思った樋口さんの思いが、ご本人の口から聞けたのはよかった。
「通訳には守秘義務があるから話せないけれど、これをわたし一人が知っていていいのかな......いや、なんとか日本の人たちにも知ってもらいたい!朱天文さんのことも知ってもらいたい!」「この本を時間の玉手箱みたいにしたい」。
この思いには、ビデオレターで登場された朱さんも、「樋口さんの翻訳に対する情熱や妥協を許さない新鮮さがこの本を完成させた。とても感謝している」とおっしゃっていた。
 
 
樋口さんと小坂さんは20年のお付き合いとのことだけれど、侯さん、朱さんとの付き合いの長さや濃さ、関係性はそれぞれに違う。「わたしとはこうだったな」「わたしから見たあの人はこういう面がある」とお二人から違う話が聞けることで、侯さん、朱さんの実存や人柄が立体的になってくる。遠い人ではなく、より近く感じられる。
 
 
・朱さんは、文学者でもある。漢文の引用も多く、幼い頃からの素養がある。言葉が優雅で奥深い。実際のご本人は、イメージの通り、品のある、知的で賢い、言うことは言うけれど、余計なことは言わない人。
・「どうしてこんな昔のものを翻訳しようって思ったの?」と朱さん。「宝石のようなエッセイを日本の人が知らないのはもったいないから」と答えた樋口さん。朱さんからのリクエストは特になく、一任されていたと。ひとえに樋口さんの熱意。
・朱さんの小説世界は本人から受ける印象とは違う。
・監督のインタビューは、荒っぽい翻訳にさがちだけど、知的で文学の好きな人。通訳には優しく、穏やか。懐の広い人。クリエイター同士では厳しい面も出るが。
・監督は孤独。自分の考えを聴いてまとめて、一緒に議論してくれる仕事のパートナーはありがたいはず。
・監督はファッションにはこだわりがないけれど、スタイルは持っている。日本でショッピングに付き合ったことが一度もない(通訳として)。
・今や世界の巨匠が、大久保のビジネスホテル(甲隆閣)を好む理由を、朱さんがミレニアムマンボと合わせて文章を書き下ろしてくれた。これは貴重。
 
その他、
・小坂さんの結婚式に侯監督と朱さんが出席されたとか、
ツァイ・ミンリャンが珈琲通とか、
・監督がCDを出してその中で自分の歌も入れていたとか、カラオケに行ってマイクを離さないとか(ちなみに小坂さんと朱さんはカラオケには付き合わない)
 
 そうそう、そうそう、こういう話が聞きたかったのよ!
 
映画の評価、映画の作法や技術、作家論、業界の話などではなく、親交のある人たちが語る、大切な人の話なのがよかった。

なによりこれは朱さんの本なので、1982年からはじまり、39年間、侯孝賢監督とずっと一緒に仕事をしてきた朱さんがどのような人なのか、朱さんが映画や監督とどのような関わりをしたのか、監督がどんなことで悩んでいたのかを朱さんを通して知る本になっているので、やはり人物を中心に話をしてもらえるのが、とてもうれしい。
 
1980年代ぐらいに遡って行ったり来たりしながら話していたのもあって、時間のことを考えた。わたしもみなさんと1980年代を生きて、今も2021年を生きていて。
この人たちを同じ時代を生きている、この巨匠たちがまだ生きているということのありがたさを思う。
 

 

視聴者からの質問もよかった。

 

●侯作品で一番好きなのは?

・樋口さん:『童年往事』ディテールがすごい(たとえば箸を洗っているシーンなどああいう細かいところまで作り込みがある)

・小坂さん:『風櫃の少年』

・江口さん:『黒衣の刺客』監督が記者会見で「『黒衣の刺客』はよくわからないと言われる。一度見てわからなかったら、二度みてくれ、二度見てわからんかあったら三回みてくれ、わたしはこれが完成品だと思っている。」と言っていたのを見て、三回見てみたら、発見があった。

 

侯孝賢作品を知って日が浅い人にどの作品がお勧め?侯作品に足を踏み入れるならどこから?

・『冬冬の夏休み』『恋恋風塵』わかりやすくて心に沁みる

・映画業界の中で、『憂鬱な楽園』が好きな人は多い。変わった映画。自由さがある。

4年前に来日したときに、「監督自身はどの作品が好きですか?」と聞いたら、『憂鬱な楽園』とのことだった。「すごく自由に撮れた。楽しかった」コッポラも好きな映画に挙げている。
 

●台湾の人は侯孝賢監督をどのように捉えているか?

・日本の監督でもそうだと思うが、知っている人は知っているが、知らない人は全然知らない。台湾でも有名な人ではあるが、一般の商業映画を観る人にとっては名前しか知らないという人もいるかも。ただ、時代が巡ってくるので、若い人たちが見直し始めているところはあると思う。

 

わたしも質問してみた。

●小坂さんの後ろに映っている竹製のものはなんですか?

四川省で作られている暑いとき用の抱き枕とのこと。130cmぐらいはある。

よくぞ聞いてくれましたと言ってくださった。わーい!質問してよかった!

 

 

終始、御三方が、にこにこと穏やかに、時折熱く、楽しくお話されている様子に気持ちが暖まった。居心地のよい時間だった。

わたしより少し上の世代の女の人たちが、自分の好きや得意をいかして仕事をしてきて。(どなたも、翻訳家、映画プロデューサー、映画コーディネーターという肩書には収まらない仕事の幅と深さがある。)その仕事を通じた長いお付き合いがあって(樋口さんと小坂さんは20年来)、今回のお仕事があって、今ここにいらっしゃる。

50代、60代の女性で素敵な方に会えると、わたしもこの先が楽しみだなと思える。

 

 

 

小坂さんと喫茶店。言葉はわからないけれど、たぶん映画『珈琲時光』になぞらえて、小坂さんが台北のまちを歩きながら、お気に入りの喫茶店と書店を案内してくださっている、のだと思う。

 

youtu.be

 

そうそう、こんな話もされていた。

朱さんの手元にある貴重な写真のうち、半分ほどがこの本に収められているという。(いや、渡されたうち、載せられたのが半分だったか?どっちだったかあいまい)

刷り上がった本が台湾に到着した頃、侯監督と朱さんは、毎日喫茶店に行って、二人でページをめくりながら、写真を見ていたのだそう。侯監督にとっては初めて見る写真ばかりだから、朱さんがキャプションを説明してあげているとのこと。

 

エドワード・ヤン侯孝賢は、小坂さんが一緒に仕事をするようになった頃には既に付き合いがなくなっていたそう。

「彼らが一番お互いを必要とし、あれだけお互いを支え合った日々は、朱さんにとってもあのときしかなかった時間。そこがとても大事な本。」

との小坂さんの言葉を最後に聞けてよかった。

そういえば『HHH: 侯孝賢』の中でも、陳國富(チェン・クゥオフー)だったかが、「あの頃に戻れるなら、自分の作品を全部売り渡してもいい」というようなことを言っていた。

だからこそ、この特別な写真が表紙になっている。いろんな人にとっての、言葉にできない事情も感情もたくさん含んだ、特別なとき。

 

人生のある時期。終わる関係。続く関係。そして人生は続く。

かれらの人生自体が、まるで一本の映画のようにも見えてくる。

 

 

style.nikkei.com

 

www.cinematoday.jp

 

台北市内にある古き良きロシア、「明星咖啡館」(2019.10)

ロシア料理が食べられる珍しいレトロ・カフェ「明星珈琲館 (Cafe Astria)」 | 歩く台北(台湾)

イベントでも話題に出ていた、ロシアンマシュマロが気になる。

映画『あこがれの空の下〜教科書のない小学校の一年〜』鑑賞記録

4月のはじめ、チュプキさんで、映画『あこがれの空の下〜教科書のない小学校の一年〜』を観てきた。今月の〈ゆるっと話そう〉の候補に、まずは観てみようということで。

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youtu.be

 

いやもう、すごくよかった。ちょっと斜に構えていた自分が恥ずかしい。

想像していたのと違うものをみた。

子どもの自分がみんなと笑ったり考えたり、大人の自分がかかわりや学びについて感じ考えたり、ずっとそれが混ぜこぜになっていて、頭も心も忙しかった。

観終わって、すぐに誰かと語りたくなった。

また、共著『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』に通じるものがあった。これはチュプキさんときみトリでコラボイベントができるのではないかと考え、執筆メンバーに「ぜひ観て!」と声をかけたら、すぐに予約してくれた。

話はとんとんと進んで、ちょうど明日4月28日、イベントの開催となった。(こちら

 

冒頭で「斜に構えていた」と書いたのは、「ふん、どうせ素敵な小学校の素敵な教育の話なんでしょ?よかったね!」という気持ちが湧いてしまったから。

自分の生育過程や教育の中で受けた傷つきや痛み、そして大人になって、自分の子を取り巻く学校教育の中で、現在進行形で受けている違和感や傷がうずく。今回の映画に限らず、しょっちゅうこう「なる」。

でも『あこがれの空の下』を観ているときは、自分も一緒に子どもや先生と一緒にいて、一緒に考え、感じ、表現して生きることにただもう夢中だった。圧倒されて、幸せな時間。

観終わってから、あれこれ考えた。

 

編集された映画という表現形式で観る範囲ではあるが、とても印象深いのは、ここがいわゆるオルタナティブスクールやフリースクールや私塾ではなく、見たところ普通の学校だということ。(まぁ普通って何って感じだが……。)

「教科書を使わない」「チャイムがない」というと、もうそこから勝手に妄想が始まって、独自の尖った教育哲学や手法が強固にあるイメージや、創設者やリーダーにカリスマ性があるとか、イメージが膨らむ。けれど、実際はどの先生も、教育業界で名が知れ渡っている大先生ではなく、ただただ一人の先生、一人の人間を感じる人たち。

 

1933年創立時からの一貫した理念「子どもたちが学校の主人公」。

これをほんとうに実践されている場ということを映画は記録しながら進む。
人が変わっても受け継がれるのはどうして可能なのか?
1933年に親たちが理念を建て、校舎を建て、先生を集めたという成り立ち?(お上が設置したわけではないというところ?)組織運営に秘密が?

 

 

 

浮かんだキーワード

主体的、対等性、自立、選択、見てくれているところ、手渡す、体験、失敗しながらでも大丈夫、「つまづく」は宝、感受性、自治、責任を引き受けること、大人の役割、大人が助け合う、時間をかける、葛藤上等、年間プログラム、準備-当日-ふりかえり、準備に時間をかける、「普通」を持ち込まない、愛のあるほうを選択する、自分らしさを発揮する......。

 

「和光だから、私立だからできる(それに比べてわたしの現場は......)」だけだと辛くなっちゃう。それも嘆きつつ、「じゃあ学校って何?」「教育の大切なことって何?」を皆さんで語りたい気持ちがある。

とにかく映画を観てもらいたいし、対話の良さを実感してもらいたい。「あ、これってもしかして和光小でやってることじゃない?」って、ふとつながるといいな。学校じゃなくてもできるからこそ、学校でもできる。

 

対話会が楽しみ。

 

▼【対話付き特別上映】(日本語字幕あり、音声ガイドなし)
映画『あこがれの空の下』× 書籍『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』
〜「子どもが教育の主人公」はどうしたら実現できるか〜

chupki.jpn.org

 

 

▼関連記事

"増田監督の中では「公立校でもできないことはない」との思いがある。「いつかこの映画の内容が(どの学校でも)普通になって『つまらない』といわれる社会になるのが理想」"

小学校に1年密着 映画「あこがれの空の下」 いつか、こんな教育が普通の社会に:東京新聞

www.tokyo-np.co.jp

 

 

▼ちょっと脱線

本の学校教育の歴史を調べてみたら、1933年当時の日本の社会に和光小学校が生まれたのも、もしやこの流れがあったからでは?と思えるものが見つかった。

1933年周辺の出来事としては、1931年に満州事変、1932年犬養毅首相暗殺、1933年国際連盟脱退、1936年2.26事件、1938年国家総動員法......戦争の足音が大きくなっている頃。

その少し前、1924年に「児童の村小学校」が東京池袋にできる。

大正「新学校」とは異なる徹底した自由が主張されている。”村”の名称が暗示するように伝統的共同体精神の再興を基調にして、一切の管理、支配を否定し、子どもに教師を選ぶ自由、時間割を選ぶ自由、勉強する場所を選ぶ自由などを謳っている。実際にはこのプランは次々に挫折するのであるが、それでも本気に実行しようとした経緯と経験は教育実践史上の基調な遺産となる。(『教育の歴史』p.58 横須賀薫/監修、横須賀薫、千葉透、油谷満夫/著、河出書房新社、2008年)

 
こちらの論文もおもしろい。ネットで論文タイトルで検索すると出てくるはず。

『池袋児童村小学校における教育課程づくりと保護者の参加 「緑会」 と 「母の会」 の活動を中心として』/水崎富美(東京大学大学院教育学研究科 教育学研究室 研究室紀要 第29号, 2003年6月)

 

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映画『私をくいとめて』鑑賞記録

チュプキさんで #私をくいとめて 観た。雑に記録。

※以下、映画の内容に深く触れているので、未見の方はご注意ください。

 

kuitomete.jp

 

のん×林遣都すんごかったね。俳優さんってほんとすごい。橋本愛、『桐島、部活やめるってよ』も『リトル・フォレスト』もよかったけど、迫力が増していた。わたしは『あまちゃん』は観てなかったのでわからないけれど、のん×橋本愛のコンビも久しぶりなんだそうで。ファンにとってはうれしいでしょうね。

 

お話は思ってたのと全然違った。

#MeTooを彷彿とさせる傷つきや痛みや怒りがあって。わたしも自分の痛みが出てくる。臓物引きずり出された感じさえした。

途中ではたと気づく。そうだった、大九明子監督の前作もコミカルと見せかけて、ぐいぐいくるんだった。なんといっても原作が綿谷りさだものね。

でも後悔してももう遅い。

 

手持ちカメラで画面酔いしそうになったり、音も辛かったり、叫んだり、いろいろ身体的にくる刺激が多い。みつ子の内側の世界に引きずり込まれる。ひっつかまれて洗濯機で洗われる。終始、居心地がわるい。わたしにも思い当たることがまだらに出てくる。

画面だけではなく、ストーリーの進行にも酔いそうになる。

みつ子は一体なんのことを言っているの?
辻褄が合わないのはなぜ?
過去に何があったの?


みつ子は、いつも何かに助けを求めている。どこかに突破口を探している。

「自分と相談」「自己対話」を実践している。脳内にいる相談役のAのことを「あなたはわたし」と理解していている。

みつ子は「うまくやっている」「うまくやってきた」。けれど、こうじゃない気がする。寂しさは拭えない。

考え方次第でどうにかする。自分で設定を作っていく。自分で自分の守り方や楽しみ方はわかる。自分を変えてみようともしてきた。だけど押し込めていた怒り、癒えていない傷、そこに対してなす術がない。その自分にまた苛立ちがある。

イタリアに行ってしまった皐月との関係も、「親友」だけれど話せていないことがある。皐月もまた言い出せないでいるものをたくさんもっている。

Aとの関係も複雑だ。頼りにしたり、責任転嫁したり、一体感を持てたり、他人のように感じたり。それでも、多田との関係を機にAとの関係が大きく変化していく。

 

『私をくいとめて』は、「傷つきや寂しさと人間はどう付き合っていくのか」という話だったのだなと思う。前作『勝手にふるえてろ』も、恋愛的な感情や生身の人間の登場により殻というか膜を破る話だった。

この二つ、主人公の二人を対比させると何か見えそう。

 

......と一気に書いてみたけれど、こうでもない感じがする。
原作を読むとまた違うのかな。

 

 

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映画を観終わってぐったりとなっていたら、チュプキの代表平塚さんが『もぎりさん』も観ていけば〜と言ってくださって、「30分だし観てみようかな」と気軽な気持ちで観てみたら、とてもよかった。

ttcg.jp

 

いやこれ、観てよかったな!

まず35mm映写機が懐かしかった。わたしは以前映写室で働いていたことがあるから。きっとキネカ大森で現役なんだよね。うれしいな。

エピソードの中で、フィルムが切れる映写事故が起こる話があったけれど、あれは本当に焦る。片桐はいりのあの間のつなぎがよかった。さっき観た『私をくいとめて』に出てきたときは「仕事デキる上司」役だったのに、あっというまにカワイイもぎりさんに。

 

いや、よかったー、ほっこりして家路につきました。

 

最近、台湾映画の、「引きのロングショット、カット割最小限、静かで感情移入があまりない」という作品ばかり見ていたので、なかなか刺激が多かった。

 

▼関連記事

hitotobi.hatenadiary.jp

 

 

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〈レポート〉4/28【対話付き上映】映画『あこがれの空の下』✖️書籍『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』〜「子どもが教育の主人公」はどのように実現できるか

2021年4月28日、シネマ・チュプキ・タバタさんと映画の感想シェアの会、第20回〈ゆるっと話そう〉をひらきました。(ゆるっと話そうについてはこちら

映画『あこがれの空の下』✖️書籍『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』〜「子どもが教育の主人公」はどのように実現できるか

https://chupki.jpn.org/archives/7586

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今回は、いつものゆるっと話そうから趣向を変えて行いました。

・わたしも著者の一人である、書籍『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』とのコラボ企画。共著者の稲葉麻由美さんと高橋ライチさんも参加。
・オンラインで映画を観て、そのままオンラインで感想を話す。
・「子どもが主人公の教育はどのように実現できるか」というテーマを設定して話す。(いつもは場にテーマは設定せず、感想を話すのみ)

といった初めての試みを盛り込みました。

 

 

当初はチュプキ劇場内で対面での開催を考えていたのですが、3日前に東京都に出た緊急事態宣言の影響で、急遽、オンラインに切り替えることになりました。

お知らせにほとんど日数がない中でしたが、「オンラインなら参加したい」という方々が、首都圏はもちろん、富山、兵庫、熊本からもご参加くださり、定員20席が満席となりました。

また、急遽、和光小学校の先生方や、監督お二人も駆けつけてくださり、共に対話の輪を囲んでくださいました。

 

 

▼映画『あこがれの空の下』公式サイト 
http://xn--v8jxcq2f151q1vam0mt0xyuukq6d.jp/#/

youtu.be

 

『あこがれの空の下』は東京都世田谷区にある私立の和光小学校の子どもたちと先生たちの学校生活の一年間を追ったドキュメンタリー映画です。

『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』は、10代の人たちに向けて、「この社会は与えられたものではなく、自分の手でつくれる」と伝え、一緒に取り扱い方を見つけていこうと呼びかける本です。
https://kimitori.mystrikingly.com

これら2つに共通しているものはなんだろうかと考えたとき、「自分を大切にしながら、他者と共に社会をつくる、そのやり方を学び続ける」というフレーズがわたしの中に浮かびました。そこから生まれたのが、「子どもが主人公の教育はどのように実現できるか」というイベントテーマでした。

2つの作品の世界観を掛け合わせることによって、この映画が伝えようとしていたメッセージがより伝わりやすくなり、一人ひとりが必要な学びを得やすくなるのではないかと考えました。また、このような機会で、鑑賞者が映画体験をより深めることは、映画文化への再評価や、映画のポテンシャル拡大にも貢献できます。

ファシリテーターとしてはそのように考えて、当日の場を進めていきました。

 

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オンラインで映画を観てもらったあと、休憩をとってから再び集まり、対話の時間をはじめました。

冒頭で、この日の趣旨、スケジュールやこの場での話し方のルールなどを共有したあとは、みなさんにはさっそくオンライン上の4つの部屋で少人数のグループに分かれて、観たばかりのほかほかの感想を話してもらいました。

その後、メインルームに戻って、どんな話が印象的だったか、話してみて思ったことなどをシェアしてもらいました。

 

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みなさんの感想が一通り出たところで、『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』との共通項を 子どもたちへのエール、シチズンシップ、場づくり(環境づくり、関係づくり)、心と身体のケア・ヘルプを出せる力 と分類した図を見てもらい、さらに湧いてきた思いを交わしていきました。

【共有資料】上映対話会『あこがれの空の下』@シネマ・チュプキ・タバタ

 

 

特に話題になっていたのは、次の3つでした。


1.  子どもがどんな体験をしてきたのか、聞き出さないでほしい

6年生の沖縄へ体験学習旅行のときに、担任の先生が語る場面。

「どんな体験をしてきたのか、保護者の方にはまずは聞き出さないでもらいたいと言っています。すぐに言葉にできる子なんてあまりいない。タイミングがある。中学生、高校生、大人かもしれない。すぐ結果を求めない。その子にとっての3泊4日は、事実として必ず何か残っている」

・つい子どもに聞きたくなってしまう。
・安心したい、目に見える形で成長の結果を知りたくなる。
・自分の有用感がほしい
・聞きたくなるけど、形や安心のためではなく、待つ
・大人の自分にもその時は言葉にならなくても、あとからわかる、言えるようになることってある。それを思い出せればいいのかも。
・「結果がすぐには出ません」と先生に言ってもらえることの清々しさ。

不安なのは、それだけ保護者としての責任を負っていることの現れなのかもしれません。でも「待つことのほうが子どもは育つ」のだとすれば、その負担の重さを減らすことができる。そして、これは保護者だけではなく、どんな「先生」にも言えることなのかもしれません。

 

2. どこまでいってて、どこが "はてな" ? 

5年生の算数の授業で、問題を解いていくときの先生の進め方。はてな(わからない)を子どもたちにできるだけたくさん出してもらい、黒板で共有し、それらの「はてな」を本人に話をしてもらうことを起点に授業を組み立てていくという場面。

はてなって言える授業づくりがすごい。はてなが価値。
・「わからない人いる?」という聞き方だったら絶対に手を挙げられない(はてなの人?という聞き方が秀逸)
・わからないことを学びに行っているのが学校。
・どんな答えも受け入れる姿勢が生徒を安心させる。
・恥をかかせないのは大切

はてなが出せる、何がわからないのか自分で言える、自分がそれを言えるようになると、多様な考え方を出してよいと思える。それは、他の活動にも影響してきます。そして実際にこの学校では、算数だけではなく、どの教科でも、どの学年でも、どの先生でも、同じ信念と価値観をもって子どもたちと授業や学校生活をつくっている様子が映されています。そこにみなさんは感銘を受けておられました。

 

3. 先生と子どもたちが対等

先生が子どもたちの話に一つひとつ耳を傾けたり、思いを語ったり、子どもからも先生に聞いたり、提案したり、共有したりと、映画全体を通して、両者が対等である様子が描かれています。

・やってあげなきゃいけない弱い存在ではなく、子どもは自分で育てることを大人たちが信じている
・存在をリスペクトしている。上下関係ではなく、同じところにいる。
・あるべき姿を求めるのではなく、その人そのものを見てくれている
・先生同士など、先生と保護者など、大人同士の関係性が対等だから、子どもたちとも対等になれる。
・呼び名に関係性が現れている。距離の近さを感じる。
・先生方の、生徒に対して、同僚に対してのガチンコさ加減が半端なくて、あれだけの本気を見せられると、本気で応えるしかなくなる。

先生が指示して何かをやらせるのではなく、生徒に丸投げして放置するのでもない。目指しているもの、大切にしたい軸はぶらさず、大人の責任を引き受けながら、自分と目の前にいる人の今この瞬間の関心や意欲、気持ちを大切にしながら、かかわる。「対等性」とは何か、もっといろんな言葉で表現したくなります。

 

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向日葵と芍薬にはこんな思いを込めて。

 

 

会の最後に、この日のテーマ 「子どもたちが教育の主人公」はどのように実現できるか? への自分なりの答えをチャットに書き込んでもらいました。

・子どもの力を信じて、対等な立場なんだ!と自分に言い聞かせ続けたい。
・大人も子供と共に生きている。
・親である自分が、自分の人生を生きる。そこからスタートする。
・大人の不安を減らす。
・教員の"待つ余裕"と、教員自身が安心して自己主張できる職場づくりがあると、子どもも主体的に安心して話ができるかもしれない。
・子どもの生きる力や学ぶ力を大人がどれだけ信じて見守り続けるか。
・共に学び会える環境を職員室から作っていく。
・まずは大人が自分で立つ。自分の望んでいることを表現していく。
・共にありのままを見せられる関係性を作るために、なにかを一緒にやってみる機会があるといいのかな。
・大人と子どもであれ、地位や歳がちがう大人同士であれ、お互いを尊重して人と人として接していく。
・教育の目的を「子どもへの情報の伝達」としないこと。自分の人生を自律して楽しく生きることを目的とする。
・これまでの教育や社会は「恐怖感」「責任感」が大きなベースになっていた。立ち行かない今、どう手放すか。大人も含め、一人ひとりの安全と安心をどう作るかがヒントになるのでは。
・聴く力を、自分自身にも、大人同士にも、子どもにも。
・我が子は学校に行っていませんが、知りたいことは自分から学んでいます。和光小の様子は見ていてとても幸せな気持ちになりました。
・先生も親も、大人の側が待つ余裕を持つこと。そのために国に教育予算をもっとつけさせたい。
・先生自身も自分の意見を聴いてもらった経験が少なく、どうしたらいいかわからない様子でした。そのため、わたしは「聴く」をさらに学びたいと思っています。
・不安や心配も無視せず、その都度、対話で解消する。かっこつけず、自分もそのままでいられることで、子ども達の存在も受け止められるのではないか。
・大人は子どもたちがのびのびできる環境を提供し、あとはナビゲーター、伴走者のように寄り添う、見守るという姿勢が大切だなと感じました。
・学校に行かないと就職できないという思い込みや恐れを手放し、子の可能性を信じます。
・校長先生が入学式で話されていたことが、大人のわたしたちも立ち返る原点だなぁ。「なぜかな、不思議だな、を大切に、心も体も賢くなっていきましょう」

 

まずは大人から、自分から、小さく変容していきたい。子どもを尊重し、自分を尊重し、みんなが尊重し大切にされる社会を。そんな願いが聞こえてきました。

 

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この場をふりかえって

感想を話す中では、お子さんのことや、ご自身の子ども時代の経験や、職場としての教育現場などを思い、痛みや嘆きが出た方もいらっしゃったようです。それを温かく抱きながら、そこから、「子どもが主人公の場で大切なことはなんだろう?」 「わたし・わたしたちにできることは何だろう?」と語りあえたことをとてもありがたく、うれしく思っています。

それぞれの背景や切実さから語り、大切な思いを場に出してくださって、ありがとうございました。それぞれに必要なことを持ち帰ってくださっていることを願っています。

和光小学校の先生方はみなさん、「特別なことはしていない、特別な人間ではない」とおっしゃっていました。実際にやり取りをしていても、抜きん出たカリスマ性を持つリーダー格のような方はいらっしゃいません。どなたもとても誠実で、聴く姿勢を持っていらっしゃいますが、ごく普通の方々です。

ブログ:4月11日 増田先生トーク@チュプキ
ブログ:4月17日 山下先生トーク@チュプキ

こんなふうに自然に、当たり前に、のびのびと、ありのままに、その方らしく、すべての先生がお仕事に愛と自信と誇りを感じてほしいとも思いました。

わたしたちがこの場で対話して感じ取った「和光小学校で大切にしていること」を日本の学校教育全体に広げていきたいですし、それぞれの学校がそれぞれに模索できるような余裕が社会全体にほしいと切に願います。

まずは、このような教育の場が実在しているということ、それを今日もぶれずに進めておられるという事実を希望の光にして、このテーマで対話ができる人たちも確かにいるということに勇気をもらい、それぞれの日常で小さく進めてゆけたらと思います。光は増やしていけることを実感しています。

そして、なんといっても、映画という表現があるからこそ、この社会のどこかで起こっていることを身近に知ることができたり、いろんな人と価値観を共有できるのですよね。作ってくださる方、それを届けてくださる方に、ありがとうございます。

 

♪ あこがれの空の下 雲が流れ 自由のあかりが ゆく手をてらす和光小学校校歌

 

またこのようなオンラインで観て話す会、テーマを設定して語る会も企画していきたいです。引き続き、チュプキさんとの〈ゆるっと話そう〉や、きみトリプロジェクトの活動にご注目ください。

ご参加くださったみなさま、先生方、監督のお二人、きみトリのメンバー、チュプキさん、ありがとうございました。

 

 

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シネマ・チュプキ・タバタで追加上映!
5月19日(水)、26日(水)10:30〜

coubic.com

 

『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』

 \ シネマ・チュプキ・タバタでも販売中 /

 

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Amazon他、全国書店で発売中。取り寄せ可。 

 

 

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seikofunanokawa.com