ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

展示「平塚らいてう没後50年特別展 らいてうの軌跡展」@田端文士村記念館

北区田端の田端文士村記念館で、平塚らいてうの展示を見てきた。

平塚らいてう没後50年特別展 ~らいてうの軌跡~ : 北区文化振興財団

 

以前観た芥川龍之介の展示がとてもよかったので、田端に行くときは必ず立ち寄るようにしている。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

田端は、明治中期より若い芸術家たちが集うようになり、やがて"芸術家村"を形成しました。「創作」と「日常」という二つの環境を共有した芸術家たちの間には、絵画・彫刻など、表現方法の枠を声、豊かな交流が育まれていきます。(記念館HPより)

ということで、田端ゆかりの芸術家たちの人生、作品、暮らしぶり、交友関係などについて、毎回テーマを決めて展示をしてくれている。ちなみに入館料は無料(!)。

 

今回の「平塚らいてう没後50年特別展 らいてうの軌跡」の展示は、常設展示スペースの半分を使って行われている。

「元始女性は実に太陽であった」という、今も語り継がれる名文を残した 平塚らいてうは、今年で没後50年の節目を迎えました。 本展では、らいてうが田端で過ごした時代を中心に、その社会的な活動から家庭的な一面までを様々な資料でご紹介します。

チラシ(PDF)

https://kitabunka.or.jp/wp/wp-content/uploads/%E6%94%B9%E8%A8%82%E3%83%81%E3%83%A9%E3%82%B7%E5%B9%B3%E5%A1%9A%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%86%E6%B2%A1%E5%BE%8C50%E5%B9%B4%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%B1%95_compressed.pdf 

 

わたしが平塚らいてうに関心を持ったのは、フェミニズムの側面と、実は自分の小さい頃に、平塚らいてうの子孫の方と交流を持っていた時期がある、という二つの文脈がある。けれども、どちらも今回の展示をみるまで詳しく分かっていたわけではないし、常にらいてうのことを調べて回っていたわけでもない。

この展示に、偶然出会えたことに感謝したい。

 

 

 

▼鑑賞メモ

平塚らいてうについて
国立国会図書館平塚らいてう | 近代日本人の肖像
日本女子大学

女性・平和運動のパイオニア 平塚らいてう | 時代を切り拓く卒業生 | 日本女子大学

夏目漱石の弟子・森田草平と心中未遂事件を起こす。森田は『煤煙』でその経緯を小説にした。そこに夏目漱石森鷗外も解説(?)文章を寄せている。それだけ聞くと、よくそんなこと世に出すなぁとか、そこに乗っかるなぁと思うだけで、理解はしづらい。もう少し詳しく知りたい。

漱石山房記念館でも、このことは、森田草平の心中事件の後始末をしてやった面倒見のいい人という感じで紹介されていたような気がする。思い違いかもしれないので、また次回行ったときに見てみる。

・台湾の映画『悲情城市』の中で、次のような話が出てくる。

「日本人は桜の花をめでる。花開き、最も美しい時に、枝を離れて土に落ちるからだ。人生とは、そうあるべきだと言うのだ」

「明治時代に、女性が多岐に身を投げた。厭世自殺でも失望でもなく、輝かしい青春を目前にして、これを失ったら、すべてが無意味だと。桜の花になぞらえて、生命が光り輝いている。その時に、風に乗り枝を離れた。彼女の遺言は、当時の若者の共感を呼んだ。明治維新のころで、時代は情熱と気概に満ちていた」
(パンフレットのシナリオ採録より)

映画を観たときにはここのくだりがよくわからなかったが、展示に出てきた

愛し合う男女が死へ突き進むダヌンツィオの小説『死の勝利』に強い影響を受け

というくだりに時代背景としてつながるものを感じた。

・『青鞜』の社員でバーでカクテルを飲む、吉原を見学するなど、「男性しか行かない(行けない?)場所」で女性が遊興したと叩かれる。これは、ヴァージニア・ウルフの『ある協会』に出てくるメンバーのさまざまな"活動"にも似て、やはり女性の制限を取り払おうとする動きだったのだろう。

・奥村博史との結婚や事実婚へ向けての話し合いが垣間見える手紙(共同生活への質問状)の展示もある。これに対する奥村の返信もよい。

「今の制度がどうあろうと、それはもともと人間が作ったものですからどうでも好いのです。もし結婚が嫌ならこのままでいましょう。」

・娘の曙生(あけみ)さん

父・奥村博史は、「お母さんはお母さんでなければできないことをしたほうがいいんだよ」と言っていたと。

母に対して世の夫のように「主婦」を要求しなかったことが母への最大の強力ではなかっただろうか。

・そもそも、自分は女性のための活動をしていたのに、いざ自分が出産するとなると恐怖があるという告白。

・子育てとライフワークの両立の悩み、夫婦別姓としたことによる「私生児を生んだとの非難の声」などから、「個人的立場では解決できない女性、母、子どもの社会的問題を痛感」

・いわゆる母性保護論争。与謝野晶子が、「経済的自立をしない女性が国家に保護を求めることの依頼主義」と論じていたのに対し、「特殊な労働能力を持つ者以外は、現時点では経済的自立は不可能」「国家が育児を支援しない限り、女性が経済的に独立を果たすことはできない」と対抗している。これって「母性保護」というタイトルだから感情的なやりとりに見えてしまうけれど、展示を見ている限り、らいてうの主張もかなり真っ当で、「女性を取り巻く環境の改善」や「女性の政治的参画が必要」と唱えて、運動を起こしていく経緯を見ても、現代もなお解決されていないイシューでもあり、興味深い。

与謝野晶子 自立訴えた子だくさんの母 ヒロインは強し(木内昇)|NIKKEI STYLE

魂を形成する権利を男に委ねるな 疑うことは私たちの自由 生誕130周年の山川菊栄(2)(47NEWS) - Yahoo!ニュース

羽仁もと子と母性保護論争 ―与謝野晶子平塚らいてうとの接点― 林 美帆(PDF)https://www.jstage.jst.go.jp/article/jiyu/3/1/3_1/_pdf/-char/en

大正8年の治安警察法第五条の改正。女性が政治集会に参加することや政党に加入することを禁止する内容。これに反発。『青鞜』第3巻第1号にて、男女平等を揶揄する人たちや、女性の権利について、社員がそれぞれの考えを示した。

・『青鞜』1915年9月号では、女性が抱える性の悩みなども取り上げていて、画期的。

 

らいてうが、夫婦別姓事実婚のスタイルをとっていたことも、女性の政治運動の自由を求める運動をしていたことは全く知らなかった。

今回の展示で、平塚らいてうにぐっと近づけた。ぜひいろんな方に見ていただきたいと思う。わたし個人としては、今期のメイン展示よりもおもしろかった。

 

文京区小石川に「らいてうの家」という記念館もあるようだ。ここにもタイミングを見て足を運んでみたい。もっと彼女について知りたくなった。

平塚らいてうの会 -トップページ-

 

▼関連書籍

『新編 激動の中を行くー与謝野晶子女性論集』与謝野晶子/著、もろさわようこ/編(新泉社, 2021年) 

 

平塚らいてうに関する本も探したい。

 

※追記(2021.8.16)

「本を探したい」と書いたのがよかったのか、たまたまツイッターのタイムラインに流れてきたこんなツイート。

こんなことが書いてあるんですね!『平塚らいてう評論集』読みたい! 

展示「聖徳太子と法隆寺」展 @東京国立博物館

東京国立博物館で「聖徳太子法隆寺展」を観てきた記録。

www.tnm.jp

tsumugu.yomiuri.co.jp

 

展覧会を観に行く前に予習するとしたら、HPもですが、トーハク内のブログを読むのもおすすめ。

東京国立博物館 - 1089ブログ

 

宝物の話もすごいんですが、今年が聖徳太子の1400年遠忌に当たるとのことで、

「一般にはごく丁寧な場合でも50回忌が限度であるのに対し、高僧や聖徳太子のような人物に対しては、100年、500年、1,000年といったように、節目節目で大きな法要が開かれます」
とか、
聖徳太子の場合、没後1,399年目の2021年が1,400年遠忌という計算です」
とか、

「そんなメモリアルイアーだからこそ、まさに100年に一度と言ってよい最大規模の法隆寺展を開催することができました」

とか、

担当学芸員さんはサラッと書いておられますが、この時間のスケール感がすごい。

 

いや、そもそも、

「遠忌」って言うんですね。
「おんき」って読むんですね。

そもそもそこから初めて知りました。

 五十年忌、百年忌など、没後に長い期間を経て行われる年忌
 仏教諸宗派で、宗祖や中興の祖などの五十年忌ののち、50年ごとに遺徳を追慕して行う法会。

デジタル大辞泉小学館

 

聖徳太子、ほんとはいなかった説」もあるらしいですが、この展示に行ったら、紛れもなく「いた前提」だから、わたしはとてもうれしくなりそうだなと楽しみにしていました。いた前提で付けられた名前ゆえ。

 

www.instagram.com

 

 

 

いやー、これやっぱり奈良博物館で観たかったな!

先に奈良博で開催後に東京国立博物館に巡回しているのですが、奈良博で観て、そのまま法隆寺を訪ねるコースしたかったなぁ。または法隆寺に行ってから奈良博に行く、どちらでもいいけど、とにかく奈良で観る意味がめちゃくちゃある企画展。ほんとうは時間を見つけて奈良まで行こうとしていたのだけれど、都合がつかず断念でした。展示品には法隆寺献納宝物も多いので、実際は東京国立博物館に「帰宅」という感じなのが、ちょっと不思議というかおもしろいというか。

 

この時間のスケールがどーんと伝わって来て、そのおかげで、今日明日を綱渡りのように生きている自分を俯瞰して、心を落ち着けることができた。今はこのような「持っている時間の長いもの」に身を寄せると良さそうだな、と思っている。

「七種宝物」も聖徳太子に由来する宝物に、なんとかその片鱗を見出そうとする人々の切ない願いや、泰平への祈りを見て取れる。舎利にまつわる伝説もすごくて、「2歳のときに東を向いて"南無仏"と唱えたその手から舎利(釈迦の左目の骨)がこぼれた」とか、ええええーーというものも含めて、聖徳太子に特別なものとしていてほしくてたまらなかった思いのようなものを感じる。

もしかして本当にスーパーな人だったのかもしれないけれど。それは誰にもわからない。ロマンだな......そうか、そういうロマンも背負っているのか。

 

奈良時代のものって、大陸から渡って来たばかりの生の感じや、オリジンな感じがダイレクトに伝わって来て、どきどきする。

瓦の柄や、仏像や仮面や顔のついている調度品の造作など。中国のその向こうのインド、ペルシャ、アラブ、ギリシャなどの雰囲気もある。

 

仏前で使う香炉の展示があって、そういえばこの頃の「香」ってどんなものだったんだろう?と興味がある。お香の歴史を調べたらいいんだろうな。これはまた宿題になった(楽しい)。

 


正倉院展の話。法隆寺献納宝物の話などしてます。

youtu.be

 

Prince Shotoku!!

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▼青い日記帳さんの記事

tsumugu.yomiuri.co.jp

 

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次は、「聖林寺十一面観音」展だ!

www.tnm.jp

 

運搬の様子も観られる。すごい。。

東京国立博物館 - 1089ブログ

 

※追記(2021.8.18)

ジェンダーの観点から観ると、どうだったのか。宿題。

 

 

 

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鑑賞対話イベントをひらいて、作品、施設、コミュニティのファンや仲間をふやしませんか?ファシリテーターのお仕事依頼,場づくり相談を承っております。

 2020年12月著書(共著)を出版しました。

『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社

映画『不即不離』@わすれな月 鑑賞記録

『不即不離』は、マレーシアのヤスミン・アフマド監督を追悼する会「わすれな月」の企画で観た映画。 このような機会でもなければ、観ることもなかった作品だから、貴重だった。

不即不離とは、「二つのものの関係が深すぎもせず、離れすぎもしないこと。つかず離れず、ちょうどよい関係にある」ことを表す四字熟語。

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不即不離―マラヤ共産党員だった祖父の思い出(Absent Without Leave)

ラウ・ケクフアット監督/台湾・マレーシア/2016年/84分/日本語字幕

ラウ監督の自伝的なドキュメンタリー。祖父の思い出が全くないラウ監督は、マラヤ共産党員だった祖父が植民地政府に射殺されたことを知る。マレーシアでは現在でもマラヤ共産党について公に語ることが憚られ、関係者の家族・親戚はひっそりと暮らしている。今も祖国を思いながら中国や香港、タイで暮らす元マラヤ共産党員の証言を通じて、これまで語られなかったアジア現代史の一端を明らかにする。

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詳しい解説>http://yama.cseas.kyoto-u.ac.jp//film/report/2017awtl.html

 

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※以下は映画の内容に詳しく触れています。未見の方はご注意ください。

 

▼鑑賞メモ

・「僕」も家族の記録映像がほしかった。父も写っている写真は一枚だけ。父は写っているがどこか遠くを見ていて、ここにはいない感じ。しかし、「父にも父がいなかった」ことが判明する。僕と父、父と祖父の関係を通して、遠い祖父とその時代を訪ねる中で、マレーシアでもあまり知られていない「マラヤ共産党」の姿が見えてくる。

・時代背景については、わたしが書いていることより、こちらの解説のほうが詳しいし、正確だと思います。

・1930年代のマラヤ。イギリスの植民地支配下でも、華人たちは故郷を離れた身でも、中国の抗日戦線を援護しようとした。「マラヤ共産党抗日隊員」紙の花を作って売って、お金を募金して支援した。その頃の花売りの歌を歌う女性。

・1941年に真珠湾攻撃ののち、日本軍は14万人の兵力でマレーシアを60日で陥落させた(1942年)。そして、抗日支援への報復として華人を虐殺した。シンガポールでは華僑の粛清を行なった。華人たちは「マラヤ防衛のため」に蜂起し、イギリス植民地政府(ここの関係も複雑だった)、マレー人、インド人と共に革命に参加した。

・1945年に日本が降伏。しかし監督の祖父は、党の幹部で、戦争が終わっても家には帰れなかった。日本のあとイギリスが再び植民地として支配しようとし、それに抵抗して、イギリスに殺された。マラヤの独立と民主を求めたが大勢が捕まって、中国に送還された。(弾薬が湿っていたから中華鍋で炒めて乾かしたという「武勇伝」がすごい)

・タイの祖父の元マラヤ共産党の戦友が暮らすエリアにあるお墓。工場の一角。抗日の集会をしていたときに日本軍に殺された18人。遺骨はジャングルに眠る。

・香港で暮らす元マラヤ共産党の男性。マラヤ警察に捕まって死刑判決を受けた。20年服役して釈放し、中国へ「追放」された。「命がけで国を守っても(マラヤの)国民扱いされない。民主化を求めても、命を落としても忘れ去られた。どうすればこの国で国民として認められるか」

・1950年〜1957年に2,3万人が中国に送還される。折しも文化大革命の頃、スパイ容疑がかけられ、収容所へ入所させられる。女性の中には小さな子どもを持つ人もいて、中国に渡ったらいつ死ぬかわからないからと、子どもを親戚や知人に託して帰った人も。後年、シンガポールで(マレーシアではない場所で)あったが、「親の自分に親しみを感じないと。これが娘を捨てた罪。娘は悪くない」

・戦争中に党員が生んで育てられなかった「ゲリラっ子」たち200人以上が養子に出されたすべてを犠牲にしてマラヤに命をかけた結果、家族離散......。台湾映画『超級大国民』でも、「理想を追った結果、家族をこんなふうにして」となじる娘が出ていた。これも普遍的なテーマ。。あとから自分の子にしたいと思ったが、タイ語しか話せない子、タイ語が話せない自分は親子にはなれなかった夫婦、「わたしたちは生涯を革命に捧げた。だから若者を自分たちの子のように思っている。歴史の巡り合わせだと考えるようにしている」

・中国・広州での集まり。23,4才で中国に「帰還」させられた人たち。すっかり老いてしまったが、今もマレーシアに帰りたい。夢でしか帰れないと嘆く。アイデンティティは中国人であり、中国は祖国だが、生まれ育ったのはマレーシア。わたしには想像するしかないこの複雑さ。しかし追放されているから足を踏み入れることができない。。

・ゲリラ活動の中でも、バドミントンやバスケ、盆踊り(これは日本の風習の?)などで楽しむ若者たちの姿が胸を打つ。

 

日本軍がアジアで行ったことの加害のひとつの面。今回初めて知って言葉もない。日本がマラヤに侵入しなければ、この人たちの家族間、民族間、市民間の分断もなかったかもしれないのに。

現在、マラヤ共産党を肯定する作品は、マレーシア国内では上映することができないという。省みられることがないため、今も当事者や遺族含め、排斥の悲しみや分断の苦しみを抱えている人がいる。

つくづく戦争のもたらす悲劇には果てがない。

 

ラストに戻ってくるのは、監督と父との関係だ。冒頭のぴりぴりと緊張した雰囲気に比べ、ずいぶんと穏やかでリラックスしている。子によって理解されること、父と息子の間で「和解」が起こること、それもまた平和への一歩。個人的で小さな働きかけが、時間をかけてさまざまに伝播し、さまざまな個人や家族に影響を与えていくのではないかと期待を抱かせるラストだ。

監督のルーツを探る旅は、思わぬ事実を明らかにした。大きな枠組みの中で語り直されていくことには時間がかかるだろうが、地域によっては次第に、個人の物語としてなら語れる時代になってきた。テクノロジーの発展もある。

個人のナラティブを通じて歴史を幾重にも辿り直す。その束によって、歴史の認識は変わっていくだろうか。変わりようがないと思えたことも、非暴力の手段で変えていくことができるだろうか。

 

 

▼関連資料

交錯する国歌、反転する望郷の歌 映画『不即不離』に見る歴史的記憶とマレーシア華人アイデンティティ/村井寛志(『マレーシア研究7号 2019年』)

http://jams92.org/pdf/MSJ07/msj07(012)_murai.pdf(PDF)

 

 記憶がつなぐ社会の亀裂と家族の離散 映画『不即不離―マラヤ共産党員だった祖父の思い出』の制作と上映をめぐって ラウ・ケクフアット/編集委員会訳(『マレーシア研究7号 2019年』)

http://jams92.org/pdf/MSJ07/msj07(004)_lau.pdf (PDF)

 

マレーシアの歴史のタブーについては、ラウ監督の第二作も。(やはりこういった映画は、マレーシアにいるほうが制作が難しいのかもと思わせる切り込み方。。)

『斧は忘れても、木は覚えている』(The Tree Remembers/還有一些樹)

2019年/制作国:台湾(撮影地:マレーシア)/上映時間89分
◎監督:ラウ・ケクフアット(Lau Kek Huat 廖克発)
◎言語:華語、英語、マレー語、オラン・アスリ語
◎日本語字幕付き
◎受賞歴:台北金馬映画祭(2019)金馬奨ドキュメンタリー賞ノミネート、台北映画祭(2019)ドキュメンタリー賞・音楽賞・音響デザイン賞ノミネート

http://www.cinenouveau.com/sakuhin/thetreeremembers.html

 

映画『ムアラフ -改心』@わすれな月 鑑賞記録

2009年に亡くなったマレーシアの監督ヤスミン・アフマドを追悼する会、「わすれな月」にオンラインで参加した。

この会はいつもはオフラインで京都で行っているそうだが、感染症流行の現状を考慮して、今年はオンラインでの開催となった。そのおかげでわたしも参加することができた。

今回は、事前に日本のマレーシア映画を鑑賞して、それを土台に当日はゲストを招いてトークセッションがあり、視聴者もそこに質問やコメントの形で参加するという流れ。

yama.cseas.kyoto-u.ac.jp

 

2本のマレーシア映画のうち、一本はヤスミン・アフマド監督の『ムアラフ-改心』。ヤスミン監督にとっては5作目の長編となる。6作目が遺作となった『タレンタイム』。

2003年『ラブン』◎
2004年『細い目』◎
2005年『グブラ』
2006年『ムクシン』
2007年『ムアラフ -改心』◎
2009年『タレンタイム〜優しい歌』◎

並べてみると、ほぼ1年に1作のハイペース。すごい。(◎はわたしが鑑賞済みの作品)


▼参考サイト

moviola.jp


今回のオンライン上映で観た『ムアラフ』は、マレーシア映画としては初めて宗教を正面から取り上げた映画と評価されているそう。これは今まで以上にタフそうだな......と思いつつ、「そこはヤスミンだから、きっと愛のある方法で描くんだろう」と、彼女の作品に自分が絶大な信頼を寄せていることを喜びながら、鑑賞した。

 

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ムアラフ(Muallaf)
ヤスミン・アフマド監督/マレーシア/2008年/97分/日本語字幕
カトリック学校で教える華人キリスト教徒のブライアンは、子ども時代に心の傷を抱えて信仰と家族から遠ざかっている。マレー人イスラム教徒のアニとアナの姉妹は父親の虐待から逃げて地方都市イポーで暮らしている。アニたちとの付き合いのなかで、ブライアンは信仰と家族に対して閉ざしていた心を開き始める。(わすれな月2021ウェブサイトより)

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※以下は、映画の内容に深く触れています。未見の方はご注意ください。

 

▼鑑賞メモ

・最初は設定や人物関係がよくわからないし、説明もされないのだが、じっくりと観ていくと次第に事情が見えてくる。マレーシアの人にとっては既知なので説明する必要がないということかもしれないし、異文化の人間にとっては、いきなりその世界に飛び込まされることで、先入観なく出会える。

・ブライアン。英名だが見た目は華人系、英語を話す。玄関マット"WHAT DO YOU WANT" は警戒心の強いブライアンの性格もあらわしてもいるし、観客への問いかけのようなタイミングでも映る。

・アニとアナはよく似ているから実際も本物の姉妹とわかる。見た目はマレー系、マレー語を話す。「土足禁止」「ムスリムなのに酒場で働いている」。タンクトップとホットパンツとハイヒール。イメージとのいろんなギャップ。

・姉妹が父から逃げているという事情。壮絶な虐待。他にも父親に殴られて植物状態で入院している子に聖書を読み聞かせるためにときどき病院を訪ねるシーンもある。驚くブライアン。父親は逃げて、母親は行方知れずという。これは今までのヤスミン映画にはない踏み込み方だった。親から子の他、男性から女性への暴力についても描かれる。この描写はつらかった。ヤスミンの重要な社会への問題提起だったのだろう。

・次第に明らかになる、ブライアン自身も父から性的虐待を受けた過去を持っていた。「宗教」が人を傷つけることがある。それは変えられないのか?それを止めなかった母親を恨んで、きつく当たっている。もしかすると母も父から暴力(身体的か精神的か)を受けていたのではと想像される。

・「人は知らないものを怖がる」

・「今日自分を傷つけた人を許す?」これはヤスミン自身の習慣だったとか。特定の宗教を超えた、自分自身との対話。これもまた信仰ではと思わされる。ムスリムだけれど、キリスト教も学んでいる姉妹。こういったことはおそらく通常では考えられない?

・ブライアンの孤独に対して、アニ「人はなぜ他人に希望を求めるのかしら?」彼女が境界線は守っていることが観客を安心させる。

・「悪いのは父じゃない。酒よ。酒は多くの人を傷つける。なのに誰も禁止しない」それ!わたしも禁止まではいかずとも(禁止するほうが脱法しやすいから)規制をもっとかけられないのかと思う。

・暴力の深刻さを提起しつつ、単純に善人と悪人に分けないところもまたヤスミンらしい。でもやっぱり女性や子どもへの暴力については、これを観た社会が、正面から受け止めてほしい、と個人的には思う。

・インド系のシバ先生「だれもが自分の神を求めている。それぞれの方法で」

・アニに惹かれていくブライアン。家事と猫の世話を頼まれて、いそいそと出かける。アニを通して他者を知っていくブライアン。同時に自分の求めてきたものも知る。人とのつながり、家族のぬくもり。怒ること、許すこと、癒えること、愛すること。

・父親が倒れたことによって、アニはシンガポールで学ぶことを一旦諦め、父の介護に専念すると言う。これは「逃れられない血縁」とも言えるし、観ていると「もったいない」と言いたくもなるが、他の見方をすれば、「アニなりの尊い決断」とも言える。「学ぶことはその方法でなくてもできる」や「何歳になっても学び直せる」という提起かもしれない。彼女のことだから、「何を最優先するべきか」をいつも瞬時に熟考して決断するんだろう。頼もしくて、眩しい。

・二人は民族的ルーツと宗教が違うから、法律的に婚姻しようとすると、現実の世界では「どちらかが改宗する」しか選択がない。そして多くの場合、ムスリムではない人が、イスラム教に改宗することが多いのだそう。そうすると、ハレもケも生活習慣が変わり、冠婚葬祭のしきたりも変わり、参加することができなくなる。

・この先のストーリーは、わたしの想像では、アニとブライアンは、結婚という形式をとらずに、一緒にいる方法を探っていくのではないかと思う。結婚とは、夫婦とは何かを小さな存在なりに、切り拓いていくのではないか。自分の願望も込めて、そう想像する。

 

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映画を通して、他の文化を知り、人間の多様さを知り、美しさと醜さを知る。

人と共に生きるのは難しいけれども、過去の痛みが癒えるには時間がかかるけれど。

きょうも人は生きているし、音楽や歌が一瞬でいろんなものを超えることも、人間は知っている。

ヤスミンの作品にはこういう希望がいつもいつもある。別の世界線へそっとズラしてくれる。それは現実から外れすぎない理想の物語。いつもありえるのではと思わせてくれる。人々が願えば、行動すれば、きっと変わっていくよと教え続けてくれる。

 

ヤスミン・アフマド映画と人とを知るためのこれ以上ない充実の参考書。

『マレーシア映画の母 ヤスミン・アフマドの世界――人とその作品、継承者たち』(英明企画編集, 2019年)


タレンタイムのDVDに書籍や解説冊子付きスペシャルパックもあり。

英明企画編集の本 | eimei-hp

 

書籍の編者で、混成アジア映画研究会主宰の山本博之さんのオンライン講座も見応えあり。ヤスミン・アフマドの映画思想や世界観についてもっと知りたい方に。

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映画『幸福路のチー』鑑賞記録

映画『幸福路のチー』をネット配信で観た。

台湾。2019年11月日本公開。

『台湾、街かどの人形劇』を観に行ったときにトレイラーを観て、気になっていた。

 

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アメリカで生きていたけれど、なんだかもやもやして疲れる日々。おばあちゃんの死をきっかけに台湾に一時帰国して、懐かしい街や、可愛がってくれた親に会って、幼い頃の自分とも出合い直して、だんだん自分らしさを取り戻していく......というような、全体的にほっこりふわふわした物語なのかと思っていた。

いや、全然違った。骨太。違っていてよかった。

 実際は、一人の女性の半生に台湾のここ40年の歴史をめいっぱい詰め込んだ、奇跡のような物語だ。その中には苦い記憶もたんまりとある。

 

主人公のチーは1975年生まれ。わたしと同年代だ!

そこからもう他人事と思えない。地域は違えど、大きなスケールでの時代の波は、国境を超えてわたしたち個人の日常をさらっていたのだから。

 

※以下は映画の内容に深く触れています。未見の方はご注意ください

 

蒋介石の亡くなった日(1975年4月5日)というメモリアルデーに生まれたチー。

テレビアニメの影響で、白馬に乗った西洋人風の王子様に憧れる。

小学校に行くと、台湾語は禁じられ、北京語を学ばされる。

アメリカに憧れる。

階級格差がある。市長の子は教わる前から北京語(台湾華語)を話せる家柄。おそらく二世としてのキャリアが生まれた時から決まっているのだろう。方や家が貧しくて働かなくてはならず親から小学校を退学させられる子もいる。

教科書には蒋介石への賛美があふれ、チーも自然とヒーロー視する。

従兄のウェンは、読書会に参加していたことから警察に逮捕された。おそらくは反体制的な内容の本を読む会だったのだろう。これは「白色テロ」だ。おそらくそのときの暴行や拷問によって色覚を失いかけている。それがきっかけとなり、アメリカに旅立つ。

ウェンの話を北京語のスピーチで使ったチーは、教師から「その話はもう誰にもしないほうがいい。あなたのためだから」と言われる。(戒厳令下では、大人は誰でも知っていても口にすることはタブーだった。)

チーも9.11をきっかけに、ウェンに誘われてアメリカに渡る。ニューヨークの大停電をきっかけに、夫と親しくなる。

......などなど、台湾の歴史を大まかにでも知っていれば、一つひとつのシーンをより深く物語を味わうことができる。台湾だけでなく、中東やアメリカの出来事も、ちょこちょこ入ってくるのも、時代を丸ごと駆け抜ける感覚になる。逆にこのアニメーションをきっかけに歴史を知りたくもなると思う。知識があってもなくても、楽しめる映画だ。

 

わたしがあらためて感じたのは、こうして一人の人生を追う事で、一通りの台湾社会の動きを肌で感じられると、年表上の一つひとつの出来事が、一市民にはどうにもできない大きなものだったのだということだ。

自分の悩みや苦しみは、あとから時代の影響だったとわかるが、それが起こっているときには「個人的な事」としてとらえて生き抜いていくしかない。もちろん一つの拳となって(デモに参加するとか、投票に行くとか)できることも多いが、結局は今ある手札の中で決めていくしかない。手札とはいえ、使い方の限界を決めてしまうのはいつも自分で、それは取っ払える。

子どもにとっては、より使える手札は少ないように見える。それでも、おばあちゃんはいつも「お前が何を信じるかで、自分の人生が変わる」とチーに言い聞かせる。それが後々彼女を助けていく。

 

この大人のチーと、亡きおばあちゃんとの対話がいい。亡くなってもこうしていつまでも心の中でお話する限り、その人は死んでいないんだよとそっと教えてくれるようでもある。

おばあちゃんは原住民のアミ族で、シャーマンだ。不思議なまじないで、チーを助けてくれる。

ビンロウを嗜むため、チーは学校で「野蛮人」などと呼ばれたりする。ここに漢民族から原住民族に対する差別の意識も見え隠れする。

台湾の原住民族文化(台北駐日経済文化代表処HP)
https://www.roc-taiwan.org/jp_ja/post/202.html

台湾原住民分布図と人口
https://www.nikomaru.jp/taiwan/taiwan/indigenous

ビンロウ
https://www.pharm.or.jp/herb/lfx-index-YM-201012.htm

 

物語は、子どもの頃に幸福路で暮らすチーと、妄想や夢の中のチーと、アメリカから戻ってきた大人のチーの3つの世界を行ったり来たりする。

妄想や夢の中のチーの描写はとてもインパクトがある。子どもの頃のちょっとした出来事から、喜びや恐怖が増幅されて大きくなって、自分を飲み込みそうになる感じをよく表している。監督は日本のアニメーション監督、今敏さんから影響を受けているとインタビューで答えていた。納得!

 

宝くじにのめり込む父、確実に稼げる仕事につくために勉強に駆り立てる母、受験を勝ち抜け、医者や弁護士や会計士になれという圧力。能力主義、拝金主義、成功、手塩にかけた子に楽をさせてもらうのが夢......日本にもこういう時代があった。

また、子孫を残していくことが尊ばれるコミュニティで、結婚や妊娠・出産への口出しもものすごい。こういう会話が当たり前のようにあった時代。(今もあるところにはある)

久しぶりの帰郷で見たのは老いた両親。言い争いが絶えず、宝くじに生活費をつぎ込むのは変わらず、母は「リサイクル」に情熱を見出そうとする。しかし精神のバランスが崩れてしまって、家はゴミだらけ、店で無意識に窃盗してしまう。

 

彼らの夢とはなんだったのか。それを叶えられなかったのではと罪悪感を抱くチー。これも、日本の家族関係でも、とてもとてもありそうだ。親は親の人生で、子は子の人生と、そう言い切れないのは、結局のところ社会が家族での相互扶助を前提に組み立てられているからでもある。でもそんな構造がわかったところで、現実の血縁、地縁をそう簡単に捨てることもできない。

ベティとの再会がチーを励ましていくところもとてもいい。ベティは複雑な生い立ちで、絶望して死を選ぼうとした瞬間もあったが、子どもの存在が彼女を前に向かせていった。「子どもを育てるのに自信がない」と思わず打ち明けられる、この女性同士の関係がとてもいい。Sisterhood

冒頭に出てくるウェンとウェンの娘との短いシーンもあとあとになると印象的だ。彼女は中国語を話せないし、台湾の食べ物も受け付けない。故郷を離れても、ルーツには変わりなく、アイデンティティの重要な部分を占めていたとしても、それが受け継がれていくかはわからない。移住者には移住者の複雑さがある。

 

個々のシーンについてだけでも、いくらでも話したいところが出てくる。これは1970年代生まれの日本(台湾に比較的近い)わたしだからだろうか。
他の人が観たらどのように感じるのだろうか。

いろんな人の感想を聞いてみたくなる。

 

▼関連記事

wedge.ismedia.jp

 

www.huffingtonpost.jp

 

realsound.jp

 

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追記(2022.5.16)
読みたい。

今日の1冊:『いつもひとりだった、京都での日々』宋欣穎/ソン・インシン、光吉さくら訳(エッセイ/早川書房/2019)|太台本屋 tai-tai books 本でつなごう台湾と日本。

taitaibooks.blog.jp

 

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鑑賞対話の場づくり相談、ファシリテーション、ワークショップ企画等のお仕事を承っております。

 

WEB STORE

hitotobilab.thebase.in

 
共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年

展示〈Walls & Bridges 壁は橋になる〉@東京都美術館 鑑賞記録

東京都美術館で〈Walls & Bridges 壁は橋になる〉展を観てきた記録。

 

www.tobikan.jp


今のわたしたちの持つ苦しみを理解し、各々に寄り添ってくれるような作品に出会えそう。または、苦しみとの向き合いを促されるかもしれないけれど。いずれにせよ、作品との対話を通じて、生の実感を得られるのではと想像。

長めの会期がありがたい。

増山たづ子さんの作品は、Izu Photo Museumで観たことがある。
2014年の「すべて写真になる日まで」展。
あれから時間が経って、この展覧会ではどんなふうに見えるのか、楽しみにして行った。

 

 

www.instagram.com

 

▼鑑賞メモ

・編集は橋をかける作業

・分断に橋をかける

・権力に対する声なき強い抵抗

増山たづ子

写真に写っている子どもたちは、時期的におそらくわたしと同年代。実際にわたしの子どもの頃の体験とも近い。それも相まって、特別な感情が湧く。

撮られることに慣れている。家族を撮るように。大きな家族。家族の写真を保存するようなアルバムに勝手に愛を感じる。

性犯罪の被害に遭い、生きることに絶望していた人が、写真に出合い、撮ることで少しずつ生きられるようになったという話をしていたのをふと思い出した。インパール作戦で出征した夫を亡くした増山さん。

10万カットという途方も無い物量を想像させる展示内容。

・東勝吉

83歳から絵を描き始める。美術の教育は受けたことがない。

5メートルほど離れて観ると、何を描こうとしたのかがとてもよくわかる

・静けさに触れるだけでも、異なる世界に橋がかかる

 

・人間にいつ発現するかはわからない。何がきっかけになるかもわからない。人生の早い段階でできる限り多くを与える努力には、あまり意味がないように感じる。まして幸せとの関連は、もっとわからない。

 

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映画『ブラックパンサーズ』『壁画・壁画たち』『ドキュモントゥール』鑑賞記録

早稲田松竹でのアニエス・ヴァルダを観たのに続き、横浜シネマリンに巡回していた〈特集カンヌ国際映画祭とフランスの女性監督たち〉のアニエス・ヴァルダの3作品を観てきた。はじめての横浜シネマリン。映画の舞台になっているロサンジェルスダウンタウンの雰囲気と近い。

ブラックパンサーズ』(1968)
『壁画・壁画たち』(1980)
『ドキュモントゥール』(1981)

cinemarine.co.jp

 

この3作品は、テーマがどれも違うが、『顔たち、ところどころ』のエッセンスを感じる。

アメリカという地に来ても、やはりアニエスが関心を寄せるのは、現実に生きている人の生活で、現実の人間関係で、その人を特徴付ける何かなのだと感じる。

 

 

www.instagram.com

 

 

▼壁画で思い出した、サルデーニャ、オルゴーゾロ村の壁画。

 

www.instagram.com

 

・マイノリティの歴史

・男性による男性の搾取

・告発、ストライキ、困難、夢、発明、インスピレーション、苦痛と不安、思想、歴史

・「標識とゴミしかない。美が必要。良いアートに飢えている」

 

ロサンジェルスの壁画は今はどうなっているのだろうか?と

〈mural los angeles〉でGoogle画像検索してみたら、たくさん出てきた!

 

 

また2006年と少し前だが、研究紀要も見つけた。映画の中でも触れられていたメキシコ系住民との関連について特に詳しく触れられている。

https://core.ac.uk/download/pdf/15921011.pdf (PDF)

 

ブラックパンサーズに関するページ。動画もある。

nmaahc.si.edu

 

・「拳をかため、ダンスする」

・「攻撃はしないが、身は守る」

・「丸腰なのに、撃たれた」

・「本を持てるようにしてほしい」「執筆は気をつけないと取り上げられる」

・「黒人コミュニティについて学べば、自分たちで行動を起こすようになる」

・「ナチュラルだと誇りが持てる」

 

▼ドキュモントゥール

・喪失の悲しみがひたひたと押し寄せてくる。やるせない気分

・郊外のキラキラしていないロサンジェルス。移民が多く、貧困やDVなども垣間見る。

・母と息子の組み合わせは、まるで自分のことのようでえぐられる。「ママと一緒に寝たい」と息子が言うのを頑なに「一人で寝て」と言ったり、学校からの帰宅に合わせて帰宅できなかったときの(物思いに耽っていたため)息子の反応など、あるあるならぬ、あったあった。

 

映画を観たら、また読み返したくなる、『シモーヌ

 

来週(2021/8/15)発売になるらしい書籍!

 

映画『軍中楽園』鑑賞記録

映画『軍中楽園』を観た記録。 

 

2014年台湾製作、2018年日本公開。

監督は『風櫃(フンクイ)の少年』の主役だった、ニウ・チェンザー

gun-to-rakuen.com

 

今年6月の侯孝賢監督特集上映で、侯のプロデュース作としてラインナップしていたが、わたしはどうしても観る気がしなかった。

軍中楽園とは、台湾の金門島に設けられた慰安所だ。女性に対する性的搾取を公的に容認する施設で、日本軍の慰安所から、発想から運営まで学んでいる。

これを美麗な映像で、恋愛や青春の物語として見せるのは、果たしてどうなのだろうか、出来事の重大さが無視され、美化されているのではないか、と抵抗感があった。

しかしwam(女たちの戦争と平和資料館)を見学して、どんな感想を抱くにせよ、やはりこれは見ておかねばと思った。

幸いタイミングよくネット配信で観ることができた。

 

※ここからは、映画の内容に詳しく触れています。未見の方はご注意ください

 

観てみて、この映画は、問題作と言ってもいいのではないかと思った。

「特約茶室」の全貌の解明もされておらず、台湾社会でもまだ議論の俎上に載っていないテーマを、加害者の追及も被害者の救済も十分にされてない(かもしれない?)中で、「ロマンス」や「青春」に向けてしまっている。

これが「誰の」「どのような目線」で描かれているかを何度も考える内容だった。

「タブーとされた触れにくいテーマを扱いやすくするために、あえてこのようにした」としても(実際に台湾では大ヒットし、国民党時代に秘匿されていた事実がまた一つ明らかになったようだ)、それでもなお歪である。

結局のところ、この軍中楽園のような施設や性的搾取のためのシステムが生まれる「理由はいつも同じ」ということが実によくわかる作品だった。

 

軍中楽園の背景が、映画の公式サイトからでは不十分なので、別の資料から引用する。

軍中楽園」「特約茶室」という名の慰安所

一方、日本軍の慰安所に酷似した兵士用の遊郭が作られ、戦後40年間も運営されてきたことがわかってきました。国民党軍は中国人民解放軍の攻撃に備えるため、中国大陸から数十万の青年を軍隊に投入し、1949年からは金門島に5万を超える兵を派遣。法律によって結婚を禁じられていた兵士たちは、島民とのトラブルや性暴力事件を引き起こします。そこで中華民国国防部は1952年、兵士の性欲を解消するために「軍中楽園」を金門島や馬祖群島、台湾本島の軍施設周辺に作り、「特約茶室」と呼びました。台湾本島では1974年に廃止されましたが、金門島では1992年までありました。

軍中楽園」では管理・運営のほとんどを日本軍の慰安所に学んでいます。少なくとも5万人以上はいたと言われる女性の徴集は民間に委託して人身売買、就業詐欺、強迫なども行われ、本島で逮捕された私娼も"島流し"として送りこまれました。今ではかつての「特約茶室」が展示館として公開されていますが、全貌が明らかになるのはこれからです。

※以下は写真のキャプチャ

金門島軍中楽園は、今では特約茶室展示館になっている。金門島では政治工作要員が250人の女性を管理していた。女性たちは15歳〜30歳で、通常は1日に30〜40人の兵士の相手をした。50人を超えると爆竹を鳴らして祝福を受けたという。/『中国文化とエロス』李敖 著/土屋英明 訳(東方書店, 1993年)

p.29『台湾・「慰安婦」の証言 日本人にされた阿媽(アマー)たち』(アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)編集・発行)

 

映画に描かれていたこと、そのままだ。こういう背景があった。

 

 

映画の主人公、ルオ・バオタイ(羅保台)は、純朴でコミカルな仕草をする青年として描かれている。過酷な訓練と先輩からの熾烈ないじめのある精鋭部隊からは、泳げないという理由で「幸運にも」外してもらえ、831部隊が管轄する「特約茶室」へと異動になる。

本来なら、女性たちに対する短時間の行為のために、男性たちが列を成しているという図自体がおぞましいはずだが、ここでバオタイが、何もわかっていないように振る舞うことで、映画の観客は"安心して"観続けることができる、できてしまう。

女性がどのような酷い目に遭っても、バオタイが関与せず、ただぼんやりとして、むしろ勤勉にチャーミングに業務をこなすことで、「これはこの世界では当たり前のこと、仕方のないこと」と思えてしまう。百歩譲って、「それこそが異常な感覚だ」という裏のメッセージがあるとしたら、成功しているが。

もちろん男性も酷い目に遭う。理不尽に連れ去られ、故郷に帰ることはなく、軍隊で苛め抜かれ、脱走して海へ逃亡せざるを得ない。緊張状態にある対岸との間で、砲弾の飛び交う中を日々生きなければならない。しかし彼らの辛さは、特約茶室の女性が受け止めてくれる構図になっている。そのために設置したのだから当然といえば当然ではあるが。

女性は受容し、慰安する。ケア役割として存在させられることに、作り手の批判は一片も感じられない。当時がどうであったにせよ、批判の姿勢がないことはやはり問題ではないのか。女性の"事情"も人によっては明かされるが、バオタイは、そこには「無知なままで」「何ら感知も関与もせず」に存在することができる。

女性が男性によって、身体の所有権が奪われ、身体的な安全が常に揺らぎ、その命すら大きく左右させられる一方で、男性は女性に対して何の責任も負わされないで済んでいる。免除されている。身体的な痛みや精神の苦しみも描かれはするが、美化されたり、笑いや美的なもので矮小化されているため、実感として何も伝わってこない。避妊具を使わない兵士がいることで、妊娠させられた女性がおり、ラスト近くで出産するシーンがある。出産は歓迎され、831のメンバーによって赤ん坊は可愛がられる。ここも異常な状況なのに、笑顔と明るさに包まれていて、感覚がおかしくなる。

むしろ女性を嫌悪の対象とすることすら、許容している節がある。ニーニー(妮妮)の過去を知ったバオタイは、彼女に嫌悪感を抱き、避けるようになる。"小悪魔的な" 阿嬌(アジャオ)の役を物語に置き、彼女を利用しながらも嫌悪し、暴力の果てに殺害するという蛮行にさらす。殺害した老張(ラオジャン)は逮捕され、何らかの刑を科せられただろうが(おそらくは死刑?)、観客の脳裏に残るのは、彼の故郷や母への強い思慕と、それを"小悪魔的に"嘲笑し、"裏切った"アジャオへの怒りではないだろうか。アジャオの死を女たちが悲しむ姿は一瞬映るが、それ以上ではない。このような描き方には、恐怖すら覚える。

この物語は、監督のニウ・チェンザーが、かつて金門島で兵役についていた読者が寄せた新聞投稿を目にしたことをきっかけに生まれたそうだ。

百歩譲って、どんな過酷な状況にあっても、人々が生き抜くために心の交流を持ったとして、それを語っているのは「誰」なのか? 語り手の属性や立場に大きな偏りがあるのではないか?そこは抜け落ちてはいないか?

 

 

バオタイが831を去るシーンも、「『軍中楽園』は、いろいろ辛いことはあったけれど、最後に去るときには、文字通り軍中の楽園だった!青春の一ページだった!」という雰囲気になっているのだ。

 

エンドロールの「あり得たかもしれない世界線」も寒気がした。「感動」は当然なく、蛇足とも違う。なぜなら、その「夢」は、男性たちが語っていたもののみだったから。男性たちの側が女性を巻き込み、勝手に思い描いた夢だからだ。女性たちがどんな「夢」を持っていたのかには、一切触れられていない。一人ひとりにあったはずの物語が、すっぽりと抜け落ちている。これは「監督が男性だから仕方のないこと」なのだろうか?ほんとうに?

 

映画は最後に、

父と祖父と、全ての時代に翻弄された人々へ

と捧げられている。

ここまで「百歩譲って」を心中で幾度となく繰り返しながら見ていたが、ここに来てやはり「完全に無視されている」と感じて、重苦しい気持ちで映画を終えた。

 

2014年は、2017年の#MeToo以前だ。百歩譲って(そればかりだが)まだ認識が不足していたとして、しかし今は変わっているだろうか。

中華民国国防部が参考にしたという、太平洋戦争中の慰安所のことも、日本軍が女性たちにしたことも省みられていない、話題にすることが忌避されがちな日本で、この映画は公開されている。果たしてこれを「エンターテインメントに昇華されている」と文字通り受け取っていいものだろうか。いや、考えていかなくてはいけないと思う。なぜなら、まったく過去のことではないからだ。

 

いくつかこの映画のレビューを探してみたが、わたしの読みたい内容のものはなかった。それどころか、驚くような反応のほうが多かった。

こちらのレビューは、わたしにはなかった視点を興味深く読んだ。

medium.com

 

 

繰り返すが、愛や青春の物語の「舞台」にするには、早すぎた。

現段階ではそうとしか思えない。

 

※追記

一旦書いてみて、わからなくなってきた。

物事はある側からしか描けないのだろうか。

女性たちが可哀想な人ではなく、彼女たちなりにそれぞれに誇り高く生きていると描かれていると称賛すべきなのだろうか。

 

映画『私たちの青春、台湾』鑑賞記録

映画『私たちの青春、台湾』を下高井戸シネマで観てきた。

ouryouthintw.com

youtu.be

 

昨年の公開時にはまだ台湾に注目しておらず、見逃していた。

今年の初夏に台湾映画を20本ほど観て、ようやく台湾の民主主義まで辿り着けた。ここでこのドキュメンタリーを観られたのは、とてもタイミングがいい。たまたま日程を合わせられたのもラッキーだった。

 

www.instagram.com

 

 

 

ひまわり運動 "sunflower movement" について(7:21から)

youtu.be

 

この本よかった。こういう人が大臣の国......。その国で生きる若者たちの記録が、今回の映画、か......。

『自由への手紙』オードリー・タン/著, クーリエ・ジャポン編集チーム/編(講談社, 2020年)

 

 

充実のパンフレット。今はここで買えるみたい。

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▼監督インタビュー「権力やウイルスへの最大の防御は利他的であること」

最後の質問への答えが非常に重要だと感じた。

www.vogue.co.jp

 

 

▼メモその他( ※内容に深く触れています。未見の方はご注意ください

・台湾の民主化への道のりを 客観的に撮ったらそれはそれでわかりやすいだろうけど、それを台湾社会はどう受け止めたのかを知りたいとき、今回のドキュメンタリーにあるようなものは、たぶん映らない。まずはこの作品を通して知ることができてよかった。

・どんな運動にも変革にも、一人ひとり人間がいて、背景があって、思惑があって、違う大きさのエネルギーの持ち寄りがあって、思いもよらぬ展開がある。

・『私たちの青春、台湾』の中にも出てきたし、『香港画』の予告もあって(下高井戸で7/2まで)、『乱世備忘』(7/1まで)のチラシもあって、「普通選挙」を切望する人たちの姿を見ていたら、普通選挙のある国に暮らしている人間として、やはりこみ上げるものがあった。学生たちが声を上げて、集まって、社会を変えようと動く。日本では学生運動がトラウマなのか、学生が活動することに対する社会の視線が冷たいように感じる。もちろん批判の仕方も、運動の仕方も教えないからと言い訳しようとしていたけれど。でも教わらなくてもやる人たちの姿を見ていて、何が違うんだろう?と何度も思った。いい子すぎる?飼い慣らされてしまった?何かが人質にとられている?

 ・映画の中ではりんご日報が取材していて、香港の黄之鋒(収監中)や周庭(6月に出所)が活動していて、写っているだけでなく、ひまわり運動の学生たちと同世代の運動家として横からの関係を当事者目線で描いていて......。これは過去の話というより、パラレルワールドにいるみたいだった。

www.cnn.co.jp

 

・1989年6月3日 天安門事件のフィルムを見る学生たち。台湾では見ることができる?中国の中では情報統制されている。しかし中国の外に出た人たちは知ることができる。知ったときにどう感じるのか、自分の国に対する思いや考えはどのように変わるのか。そのことは語られていなかったように思う。

・「弱者にも夢見る権利を!」

・2012年 反メディア独占運動。中国による台湾メディアの自由への挑戦。サービス貿易協定の強行採決。大陸資本が入ってきたら、台湾の民主的言論が守られない。台湾はこういう脅威にさらされてきたのか。「両岸関係」。

・日本で今同じようなことがあって、「民主的な言論が守られない」ことの脅威を実感して立ち上がれる人たちはどのぐらいいるだろうか。。

 

 

・陳為廷:「死んだ母への侮辱は絶対に許さない」「ぬいぐるみを抱いて寝ていた」「帰る家がなく、居場所がほしかった」「社会とのつながりを感じたかった」という。社会を変えるという情熱の下にあった、あっけないほどごく当たり前のニーズ。「自分の国は自分で守る」も決して嘘ではなかっただろうけれど。

・陳為廷が性暴力の常習犯だった過去が発覚。。まさかの展開。しかし「カウンセラーに相談してようやくやめられた」というのもよかった。カウンセラーを頼るという発想が映画を通じて発信されたと思う。ここの犯罪者の心境まで語るところを映画におさめたところが凄かった。「相手を人とも思わない」自分勝手な言い分が続くが、真実なんだろう。吐き気がする。

・蔡博芸:中国をよくしたいと願い台湾で学ぶ留学生。中国から台湾に留学に来るのはレア?と知る。「台湾にきてはじめて政治とは何かを体験した。草の根からはじめるというのがどういうことなのか知った」ない社会にはない、許可されていない国にはない、という衝撃。「中国人が罵られるのは、わたしのことみたい」この難しい立場にあえている彼女の勇敢さ。学生代表選挙で国籍を理由に拒否される。差別という言葉は使われないが、これは明らかに差別。

 

・50万人にものぼるデモ隊への警察の介入で、多数の怪我人が出る。「この現場を見るのはつらい」わたしも辛い。いまだに香港の映像が見られない。

・政府による土地収容反対運動は、金馬奨史を描いた映画『あの頃、この時』で紹介された映画にも出てきた。

・どの文脈だったか忘れたが、「有名人が話すのを見ても時間の無駄」というセリフがあった。「有名人が話すのを見ているだけで何も行動を起こさないなら意味がない、そんなことをしている間に現場に行け」というような意味だったかと記憶。わかる。

・2013年中国に取材に行く。上海の学生との懇談。「学生の社会運動にどんな圧力がかかる?」の質問に「いつも圧力を受けている」と回答。中国における学生の社会運動を垣間見る。これはまた別の場所で知りたい。

 

・二人を呼び出して、またあれを一緒にできないかと問う監督。蔡博芸の落ち着いた態度に大物さを感じる。。「ドラマみたいにはいかない。劇的な変化は無理。自分が重要だと思い、出来そうなことをインタビューや文章に書く。「個人は変化していくから、期待されても困る」ときっぱり。しっかりした線引きがあり、でも信頼もある?健やかさに救われる。「人物に焦点を当てていた」個人を崇拝するのは危険。人は変わるから。「人生の目標があるから。決定待ちになっていない?独立思考が大事。超人が来るのを待っていてはダメ。当時の大衆と同じ」。

・監督の理想はなんだったのか、が結局よくわからなかった。「国が敵対していても、相互に理解しあう関係。中国、香港、台湾の公民社会」が監督の目指す理想?最後の最後に監督の決意。「二人に期待を押し付けたりしない」「真に自分の力で目標に進むために」。

・「この人がいないとできないと思っていた。でも、これは一人でもやることだ。引き受けるのだ」と腹を括る話だな。そこに至るまでの葛藤。みっともなさもぜんぶさらけ出す。一人のようでいて、決して一人ではない。必ず一緒にやってくれる誰かがいる。何か成したいことがあるとき、信念を形にしたいとき、人が必ずといっていいほど通る道。だから「青春」。

・この映画を観ているわたし自身、出版して、モードを変えて、「社会、社会」と言い出して、熱くなりすぎて失敗もした。まるで傳楡監督のような「イタい」半年間を過ごしてきた。人に期待しては勝手に裏切られたと騒いでいた。恥ずかしい。「人は変わっていく」「関心は変わっていく」「自分がやりたいなら一人でやる」

・それも必要なプロセスと思えば愛おしい。

「失敗してもかまわない、それも一つの選択なのだ」

アレハンドロ・ホドロフスキー

 

・青春物語の体を取りつつ、込めているテーマは重い。そしてこの一本で、自分の国の政治体制と自分のごく身近な人間関係の両方を同時に考えさせる力がある。こういう映画が世に出せるのがすごいし、賞を出す金馬奨がすごい(第55回金馬奨最優秀ドキュメンタリー映画賞受賞)

 

 

書籍化されている。まだ読めていないけれど!読みたい!ああ、積読だらけ......。

『わたしたちの青春、台湾』 傳楡/著(五月書房新社, 2020年)

 

この映画を観たあと、都議会議員選挙だったので、民主主義についてより切実さをもって考えることができた。

 

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展示「郵便創業150年記念企画展 日本郵便の誕生」@郵政博物館 鑑賞記録

6月終わりか7月初めに行った展示。

緊急事態宣言が出されて、しばらく休館していたが、宣言明けから会期を延長してくれていたので、行くことができた。よかった。

www.postalmuseum.jp

―今から150年前、日本に「郵便」が誕生しました―

今や国民にとってなじみの深い「郵便」ですが、その始まりの経緯については、意外に知られていません。日本の「郵便」はどのような経緯で誕生し、その実態はどのようなものだったのでしょうか?
2021(令和3)年は、日本に「郵便」が創業してから150年目にあたります。そこで本展では、幕末から明治前期までの時期を中心とし、日本に「近代郵便」が確立するまでをストーリー仕立てで紹介していきます。(公式HPより)

 

 

今回の訪問の動機。 

今年の春に開催されていた二つの展示を観に行って、郵便事業のはじまりや、軍事郵便のシステムなどにさらに興味を惹かれた。

2013年まで大手町にあった逓信総合博物館(ていぱーく)には一度行ったことがある。大規模な切手コレクションを見た記憶がある。

hitotobi.hatenadiary.jp

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原爆の悲惨さ伝えた「はがき」

https://www.postalmuseum.jp/column/collection/post_1.html 


制服の移り変わり

https://www.postalmuseum.jp/column/transition/postman.html

 

▼メモ

前島密(1835-1919)は「日本郵便の父」として知られているが、他にも偉業は多数。遷都、国字の改良、海運、新聞、電信・電話、鉄道、教育、保険など。こちら(日本郵政HP)も。

前島密没後100年記念展の資料(PDF)
https://www.postalmuseum.jp/publication/description/0329_Yu_Maejima_Panf.pdf

・近代国家に欠かせない交通、通信制度の整備が必要。当初は宿駅の機能を活用し、飛脚制度を再編するのが前島密の構想。他の業務命令が出て動けなくなった前島のあとを引き継いで実践したのは、杉浦譲。制度の説明、用品の準備、切手の製造等、開業に向けての準備を担う。(発案した人の名は「超有名人」として残り、現場でメインで作業した人の名は残りにくいものだ。。杉浦譲について

1871年4月20日新暦:この頃はまだ旧暦と新暦のはざま)東京ー大阪間の郵便を試験的に実施。

・会場で流れていたフィルムが詳しくかった。江戸時代の飛脚制度の再現映像がよくでてきていてびっくり。飛脚の頼み方、受け取り方、運搬の仕方がよくわかる。当時飛脚屋専門店があった。東京ー大阪間は、飛脚で8日間。1日75〜100kgを走る。ある地点からある地点へパスするリレー式飛脚もあった。ちなみに、1889年(明治22年)に東海道本線が開通したときの東京ー大阪間は20時間。

・幕府公認の尾張紀伊の藩独自で雇う飛脚は、葵の御紋を笠に着ての傍若無人ぶりが酷かったそう。

・郵便制度ができたときも最初はまだ郵便屋さんが「走って」いた!リレー式で東京ー大阪は3日。汽車が通っていないところも多かった。自転車もない?車もまだない?(『山の郵便配達』という映画を思い出す)

・東京ー大阪や都市から都市への郵便が整うにつれて、市内郵便も展開。多いときは一日19回の集配。電話より先に発達していた。

・最初は参勤交代時の宿場電馬制を郵便にも展開していたが、宿場のある村や、人馬を供給する助郷村の負担が大きくなりすぎたことと、民間に委託しているとコストが高くつくということから、国の事業とすることになった。(これが何年ごろだったか?)

・1867年〜1871年ごろまでいろんな人が試行錯誤している。当たり前だが物事とは急にはじまったり終わったりするわけではなく、いろんな準備があり、導入があり、改良があり、発展がある。衰退して、終焉もある。

・今は当たり前にある郵便の制度も、人が走って(!)運ぶという時代があり、国全体の大きな変化に伴って「近代国家として西洋に追いつくために必要なインフラ」という目的を据えた時代があり、スピードアップしてきた時代があって、そして今はどんな時代にあるのか。

・はじまった頃は時計もまだ一般的ではなかった。時刻を決めて集配するシステムのため、時計が必要になった。こちらの資料、こちらの資料参照。(この頃の人々の時間感覚はもっとゆるやかだったのかも)街灯が少なく、配達の回数も多いので、日が暮れると灯火器(ランタン)をもって家々の表札を確認していた。郵便屋さんが携帯する銃の展示もある。(治安が悪かったのだろうか?)

・情報量が多かったので、あとで図録で確認したかったのだが、制作はないとのこと。残念。

・郵政博物館の歴史。
 郵便博物館として1902(明治35年)に開館。190万点の資料を所蔵。日本で唯一の通信の伝道を行う。もともと逓信博物館(ていぱーく)が建てられたのは、1964年の東京オリンピックを見据えていたそう。体験型の機能を持った博物館。2013年閉館、移転。

・現在は押上のスカイツリーの中にある。ただ、かなり外れたところにあり、周りは、塾、英会話スクール、大学の展示ルームなどで、通りがかりにフラッと入るようなところではない。駅から一番遠いビルで、エレベータの細かい乗り換えもあって、目的をもってここを目指してこないと辿り着けない。展示内容はいいだけに、知られにくくて残念。切手のコーナーは健在。膨大な量。

 

f:id:hitotobi:20210807120839j:plain

 

▼参考になりそうな資料

『日本における近代郵便の成立過程』井上卓朗(郵政博物館)(PDF)https://www.postalmuseum.jp/publication/research/docs/research_02_03.pdf

郵便局の歴史とその役割
http://www.postmasters.jp/index.php?a=role

 

日本郵便創業の歴史』藪内 吉彦/著(明石書店, 2013年)

 

『郵便の歴史』井上卓朗, 星名定雄/著(鳴美, 2018年)

 

これ買いました。保存用!

www.post.japanpost.jp

 

こんなんやってた。郵便配達バイク......いいな。

www.shop.post.japanpost.jp

wam (アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」)訪問記録

7月上旬、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)を訪ねた。

ずっと来なければと思いながら、5年?6年? 

#MeToo、沖縄、台湾と経てきて、ようやくタイミングが訪れた。

 

wam-peace.org

 

入ってすぐ、wamのエントランスには、証言した元「慰安婦」の女性たちのポートレイトが壁一面に貼られている。一人ひとりの存在、それらがまず胸をえぐる。

白い花の印は故人ということだろう。そして、訪れる度にこの花の数は多くなっていくのだろう。

 

展示スペースは、思ったよりもこじんまりとしているのだが、パネル展示を見てみると、情報量が多く、はじめて知る内容ばかりだ。メモを取りながら見ていると、2時間近く経っていた。

 

現在の特集展示は、今までどこでも見たことのない(少なくともわたしは)ものがテーマになっている。そういえば不思議だ。なぜこのことが取り扱われてこなかったのか。

 

 

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慰安婦」と括弧付きである意味......。

その名称は、制度を組織的に作り、容認し、参加した人間が勝手につけたものであり、彼女たちが自分たちを自ら呼んだものではない。そこが非常に重要だと思った。

 

2000年12月に「日本軍性奴隷制の責任者を裁く女性国際戦犯法廷」が東京で開かれていたそうだ。

archives.wam-peace.org

社会でそんなことが起こっていたなんて、わたしは全く知らなかった。いや、他のどんなことにしても考える余裕がなかった。仕事に時間やエネルギーを奪われ、生きているのがやっとだった。食べる時間があればいい方だった。まったく働き方は社会への関わり方に直結する。

 

 

台湾について、台湾と日本との関係についてわたしなりに学んできた流れも、ここへつながった。一人ひとりの証言が重い。しかし、このようにまとまっていなければ、なかったことになってしまう。

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誰もが一度は訪れるべき場所だと思う。
「日本」にルーツを持つと自覚している者は特に知らなければならない。知ることから。

過去にあったこと。それらの延長上に今があること。戦争は終わっていないこと。

無視した、逃げた、追及しなかった。癒えていない傷の果てが今......。

見落としていること、知らないできてしまったこと。

戦争の話をするときに、必ず抜け落ちているもの二つ。

それが生き延びた人たちは、今を生きる人たちも苦しめ続けている。

 

何をシェアしていきか、何を伝えていくか。

考えなければならない。

 

 

▼「東京裁判は、ジェンダー植民地主義への認識が欠如していた」この点、『東京裁判』のBlu-rayを買ったので確かめる。 

 

▼こちらも読書中。

『「慰安婦」問題を子どもにどう教えるか』平井美津子/著(高文研, 2017年)

 

▼『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』松井久子/編(岩波書店, 2014年) 

本書には「強姦救援センター・沖縄(REICO)」を設立した高里鈴代さんのインタビューもあり、読み直す。初夏から追いかけてきた沖縄ともつながった。

 

ドキュメンタリー映画『何を怖れる』公式HP

http://feminism-documentary.com/

  

池田恵理子さん出演動画

youtu.be

 

まだわたしは観られていない映画『主戦場』。ここにwamの方が出演されているそう。

www.shusenjo.jp

 

時間が経つごとに、進展するのか、後退するのか......。すべてはこれからのわたしたちにかかっている。

jp.yna.co.kr

 

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展示『川端龍子の院展時代』@大田区立龍子記念館 鑑賞記録

6月下旬、大田区立龍子記念館に『川端龍子の院展時代』展を観に行った記録。

 

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▼鑑賞メモ、

・自分を見出し、育ててくれた横山大観院展、そこからの脱退の決意、覚悟にふれてみたくて観に行った。わたし自身の現状になにか通じるものがあるような気がして。

・30代はじめ、アメリカからの帰国の2年後、1915年 第2回院展で初入選。

・西洋画から転向するといっても、日本画の師にもつかず、日本美術史も知らず。「まずパステルでやってみた!」というその発想と勢いがイイ。パステルを砕いて、膠で溶いて。これはこれで味がある。やったことないけど、やってみるという思い切りの良さ、若々しさ。

1917年に院展同人に推挙され、「一にも川端、二にも龍子」と徴用される。1928年に院展脱退。その後20年関係断絶。こういうことって人生あるよね。「庇護と自立」って語りたいテーマだ。

・「同人」「院友」「会員」は違うものらしい。どのように?

・「積極的未完成」っていい言葉だな。アレハンドロ・ホドロフスキーみたい。

・洋画/日本画の境界を超える。異端児。大観も異端児、龍子も異端児。ルネサンスを彷彿とさせる。

・「洋画教育には立派な橋がかけられているけれども、日本画にはないのでは」という問題意識。

1920年 自宅を建て、画室ができる。喜びに溢れた一枚>https://twitter.com/ota_bunka/status/1385481006749143042?s=20

当時の建築中の家の写真、棟梁たちが屋根に上がっている?誇らしげな感じが伝わってくる。

・「会場芸術(会場で目立つだけの絵」と揶揄された龍子、「展覧会における芸術が広く大衆と結びつけばつくほど、それはよい意味の会場芸術となる」。1921年「火生」

・1923年 10回院展 会期中に関東大震災が起こり、会場で避難者の救護に奔走する姿が新聞に掲載されている。このことが「関東大震災の経験が龍子に、民衆と芸術との関係を考えさせた。(1924年「龍安泉石」)芸術を探究するというのは個人的なことではなく、誰のための芸術か、ということへの目配りがあってこそ、ということなのだろうか。「偉く」なると見えなくなりがちなことかも。

・「役行者役小角(えんのおづぬ)に、院展の中で突出した「影響力」を持ちすぎてしまった自分を重ねた?大作主義を異端視されたとか。作品が大きくなったのは、展覧会会場で、多くの人が立ち止まっても見やすいようにという、配慮もあったと何回か前の企画展で見た。役小角って懐かしいですね。『宇宙皇子』を思い出す......。

・「民衆のための美術行動としては、小さく凝り固まるものではなく、大きくひらけて民衆の美的興味に訴えるものを」「健剛なる芸術の実践に情熱を傾けていった」

・大観や院展との目指すべき芸術の方向性の違いが顕著に。(あるあるですね。)1928年院展から脱退(同人を辞める)。この年に発表した「神変大菩薩」は、モチーフは日本的だけれど描き方が革新的だったのか。今の目から見れば、これも「日本画」に見えるけれども、当時の流れからは亜流、異端だったのか。

・1929年44歳で青龍社を創立。自分に目をかけてくれ、こちらも敬愛していた師をある地点から超えてしまった驚きと、ある意味ではもう目指しているもののベクトルが全く違うことに気づく。尊敬はしているけれども、自分はもうそっちではないとわかったとき、この場にはそぐわない、貢献できない、挑戦したい、、、なにかいろんな思いがあったのではと、作品から読み取る。(自分の話かもしれないけれど)

・青龍社創立して最初の公募展を院展と同じ会場で同じ期間中に開いたのは、たまたまなのか、挑戦状なのか。わざとだとすれば、大観が「君、嫌なことをするね」と激怒するのも仕方がないかなと思う。

・後年、川合玉堂のとりなしで和解して、ほんとうによかった。またこの一件を山種美術館川合玉堂展で確認できたこともよかった。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

三人で展覧会を開いたときの写真をテキトーにスケッチしたもの。左から玉堂、龍子、大観。楽しそうだった。

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・140点以上を所蔵している。毎回違うものを見ているし、同じ作品でも企画展のテーマ、切り口や編集が違えばまた違って見える。一人の作家を自分の変化と共に毎回追えて、作品に新たに出会い、出会い直し続けられるのは、個人美術館の醍醐味。

・わたしは龍子記念館に来る時は、それ専用に設られた、落ち着く広々とした空間で、大きな絵を観て堪能したい〜!と思う。そういう体験を龍子は鑑賞者に提供したかったのだろうな。それが龍子式会場芸術。自分が信じているものを、信じているように作る。その気概を今回の企画展ではさらに感じた。

・企画展の作品が並んでいる逆サイドの壁際には、11歳〜13歳の学校で描いた作品が並んでいて、これがめちゃくちゃ上手い。墨一色でさらりと描いた玉ねぎ、茄子、牡丹、瓢箪などなど。評価が思いっきり作品の上に書いてあって、たいてい中か上。上のほうが多い。

・学級委員タイプで、成績優秀、後輩に勉強を教えていたそう。

・和歌山から先に東京へ行っていた父のところには他の女が一緒に暮らしていた。実の母と離れて暮らすという、少々複雑な生い立ち。

 

 

敷地は広いのだけれど、運営としてはおそらく小規模な部類に入るであろうこの美術館で、とても熱心にやっておられるのが、Youtube解説。

遠方の方もこのチャンネルをチェックして、【ズバリ解説】を楽しんでいただきたい!

今回のポスタービジュアルになっている〈阿吽〉の他にも、この企画展示分だけで10数本の解説動画がUPされています。すごい......。こちらにも動画へのリンクがあります。

youtu.be

 

 

  

龍子公園(旧邸宅&アトリエ&庭園)も緑でいっぱい!

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いろんな人におすすめしているのだけれど、ほんとうにいい場所なので、一度訪れてもらいたい。大森駅からバスと聞くと、ちょっとひよるかもしれないけれど、バス停もわかりやすいし、本数も多いし、慣れれば楽です。

入館料がたったの200円!この満足感で!

 

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映画 アニエス・ヴァルダ特集『ラ・ポワント・クールト』『5時から7時までのクレオ』『ダゲール街の人々』『落穂拾い』鑑賞記録

7月。早稲田松竹アニエス・ヴァルダ特集を観てきた記録。

 

スタッフ・すみちゃんさんによるレビュー。きりっとした短文に凝縮された魅力。こんなレビューが書けるようになりたい。どうしても冗長になるわたし......。

wasedashochiku.co.jp

 

シモーヌ VOL.4 特集:アニエス・ヴァルダ』 (現代書館, 2021年)をきっかけにヴァルダに出会い直している。

 

 

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▼特集上映を観る前に、こちらのイベントを視聴したのもよかった。(イベントは終了)

readinwritin210704.peatix.com

 

▼その後の感想ツイートから。

トークイベント〈フェミニズムと出版 〜「女性史」の可能性〜〉のアーカイブを視聴。『新編 激動の中を行く―与謝野晶子女性論集』の編者であるもろさわようこさんの言葉を信濃毎日新聞記者の河原さんがご紹介くださった。

「生きている限りは自分を新しくしていかなければならない。自己解体しないで言葉だけ新しくしても、ちっとも歴史は動かない。一人一人が自分を新しくしていくときが、歴史が新しくなるときだと思う」

「30代、40代は煉獄。煉獄を抜けたからこそ見えるものがあり、出会えるも人がある。それを祝福しよう」

90代のもろさわさんからのメッセージ。ああそうか、わたし今、煉獄中なんだな。

「もろさわさんの評伝を河原さんに、書いていただきたい!」というコメントが入っていたけれど、わたしも同感です!

 

2冊の本をめぐる対話。主に話されているお二人以外にも、新泉社の高橋さん、与謝野晶子アニエス・ヴァルダ、もろさわようこさん、石川優実さん、『新編 激動の中を行く』の編集さん、リアルの参加者さんなど一人ひとりの声が聞こえてきて、想像以上にみっちりと思いを聴き合う時間だった。よかった。

「先人たちの活動や言葉から元気や勇気をもらっている」というお話もほんとうにそう! わたしは晶子からいてうかの比較で言えば(まぁする必要あるんかわからんけど)、個人的なご縁かららいてうに関心があって、田端文士村記念館で公開されている小さな特集展示にとても勇気づけられました。

独立した個人同士で、いろんな言葉を集めて分かち合って、連帯しながら状況をよくしていきたいなと思う。 

 

そうそう、わたしも出版の末席で小さく声をあげてみたんだった。

その誇りを胸に、『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』で引き続き対話の場、行動のきっかけをつくっていきます。


よろしくお願いします。

kimitori.mystrikingly.com

 

展示『夢二デザイン1910-1930  ー千代紙から、銀座千疋屋の図案までー』@竹久夢二美術館

4月のはじめ、まだ緊急事態宣言に入る前、根津の竹久夢二美術館に行ってきた。

夢二デザイン1910-1930  ー千代紙から、銀座千疋屋の図案までー

https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/exhibition/past_detail.html?id=1788

 約100年前の日本で“可愛い”というキャッチコピーを使用し、自らデザインしたグッズを売り出した画家・竹久夢二(1884-1934)。
 伝統と近代、和と洋の美術様式を交差させて、暮らしに身近な日用品から商業図案まで、夢二は洗練されたデザインを幅広く展開しました。
 本展では、1910年から1930年の間に夢二が手掛けた千代紙、絵封筒、雑誌表紙、楽譜表紙、本の装幀、双六、銀座千疋屋のための図案、ポスター、レタリング等を展示紹介し、グラフィックデザイナーの先駆けともいえる、夢二の美の世界を考察します。(公式HPより)

 

夢二と言えば「夢二式美人」ですよね!という人もいるかもしれないけれど、わたしにとっては断然「図案の人」。

 

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▼鑑賞メモ、感想

・1900年頃 絵葉書が登場する
 →1904年〜1905年の日露戦争で大流行
 絵葉書の歴史 | 絵葉書資料館

 →1905年(明治38年)夢二、絵葉書図案でデビュー
・1914年 港屋絵草紙店、オープン(この背景や顛末がすごい......)
 港屋絵草紙店 竹久夢二専門画廊 港屋

 可愛い(かあいい)という言葉で宣伝。もしやニッポンの"Cawaii"はここからはじまった??

・少女向け雑誌の中で書いていた夢二の言葉。(確か裁縫の図案?か何かのページだったような、うろ覚えですみません)

 「身のまはりの衣服調度は、なるべく自分で工夫して気持ちよく便利にそして、簡素にしてゆきたいと思ひます。流行を追ふといふことは、自分で自分の生活を工夫することの出来ない人か、物を所有してゐることを見得にする人のことです。」

「日毎に緑が深くなってゆく麦の葉にも、ひと雨ごとにふくらむでゆく桐の花にも、来るべき夏を用意している自然の美術館の営みが見られます。」

「色調の仕方はコントラスト(対比)とハルモニイ(調和)とがあります。

身近な人以外の大人から、こんなふうに声をかけられた少女たちは、どんなふうに受け止めたんだろう。ちょっと説教臭くもあるけれど、目線を上げてほしいという願いも感じられる。

・ブックデザイナーとしての夢二は、自著含め、300以上の装丁を手掛けている。雑誌の表紙絵や本の装丁からは、夢二式美人や少女像に見える「かわいくてふわふわ」ではない夢二が見られる。幾何学的なデザインや、動物、植物、虫などをモチーフにした図案は、今見てもカッコいい。怪しさや怖さもあって魅力的。

・大正後期から昭和初期に起こった童謡運動(鈴木三重吉北原白秋が創刊した児童文芸雑誌「赤い鳥」がきっかけであり活動の舞台にもなった)によって生まれた、童謡や唱歌の楽譜の挿画を夢二がてがけている。これがまた美しい!これを手に取った子どもたちはわくわくしながら歌を歌ったのではないだろうか。

・レタリングやアール・デコ風の図案、扉、カット、タイトル字など展示物たっぷり。いせ辰でみかける図案もある。

・同時代のデザイナーに、津田清風、杉浦非水、橋口五葉、恩地孝四郎武井武雄などがいる。

 

めくるめく図案の世界はとてもよかったけれど、わたしはどうにも夢二の女性遍歴の話や、なよっとしてぼんやりしている美人画の感じが好きになれない。

そんなのは好き嫌いだから別に放っておけばいいのだけれど、なにか気になるところがある人でもある。

何かまた他の切り口で展示があれば、観に行きたいと思っている。

 

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展示「はじめまして、かけじくです」@板橋区立美術館 鑑賞記録

7月上旬、板橋区立美術館で『はじめまして、かけじくです』を鑑賞した記録。

www.city.itabashi.tokyo.jp

 

全然注目していなかったが、青い日記帳さんがイチオシの展示ということで、慌てて終了間際に駆け込んだ。

bluediary2.jugem.jp

 

行って、ほんとうによかった......!!!

 

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今回行ったのは、実は昨年あたりから、かけじくが気になっていたから。

掛け軸の表装の世界というのは、西洋画の額縁とは全然違うものなんだろうなぁ、知りたいなぁと思っていた。

ここにもメモしてあった。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

だから今回は、願ったり叶ったりの展示だった。

疑問が湧いたり、仮説を思いつくのはギフト。それを持ったまま、かといってずっとそのことばかり考えているのではなく、一旦忘れてしばらく日常を過ごしていると、ある日ふとアンテナに引っかかってくる。

ひっかかりやすくするために、わたしの場合はこうやってブログに書いたり、SNSで発信しておいている。探していたものに出会えたときは、めちゃくちゃうれしい。

 

▼「こんなに変わるの!? 新しい表装に仕立て直すまで(PDF)」
かけじくってこんなふうにできてたんだ!がわかる資料。繊細!職人さんすごい!

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/artmuseum/_res/projects/project_artmuseum/_page_/004/001/474/kakejiku_hyoso1.pdf

 

▼メモと感想

・掛け軸のはじまりは、文字や絵を記した布を吊り下げる行為から。人間ってやっぱりきれいなものを飾りたいという気持ちがあるんだろうなぁ。タペストリーのようなものだったんだろうか。

室町時代、書院造が生まれて、かけじくを床の間に飾る風習が生まれる。茶の湯でさらに発展。この頃、かけじくはまだ貴族のもの。

・もし床の間がなければ、かけじくはこんなに長細いものではなかったかも?

・色紙を飾る習慣とも

・江戸時代には一般の武士や豪農や町人の間でも流行る。でもそれ以下の身分の人たちはかけじくなんて買えないので、大津絵のようなものを飾っていたのかな??庶民が家の壁に絵を飾るようになったのって、明治に入ってから?このあたりの歴史も知りたい。

秋田県藩主佐竹氏の依頼で、などの解説が出てくる。秋田県知事って確か佐竹さんですよね。今も藩主の家系が首長として続いているということなんでしょうか。

・縦長、横長、小さい、大きい。2幅でセット、4幅でセットなどいろいろ。かけじくはそのままで中身の絵を入れ替える短冊方式もある。数え方の単位は「幅」。

・セットにするときの組み合わせやつながり方も見所。花鳥風月など、1幅でもめでたいけど、4つ飾るとめでたさが倍増したりする。

・襖や屏風、巻物や画帖の形態のものを、かけじくに仕立て直すこともある。かけじくにして愛でたい気持ち、イイですね!

・かけじくをひらいていくときの、だんだん見えてくるときのわくわくも考えて描かれたような(ほんとかわからないけど)作品もある。

・こんなに楽しいかけじくなのに、図録になると絵だけになってしまうのがとても残念。

・最近イベントの告知ページ用にヘッダー画像を工夫して入れることがあるけれど、何か作品にまつわる対話のイベントのようなときに、作品のチラシをどう配置して、作品の魅力をつたえつつ、どのように場の雰囲気を伝えるか考えながら、作っているのだけれど(そんなすごいもんじゃなくて、それ用のアプリケーションを使っているだけですが)、あの作業と表装って似ている気がした。

 

・かけじくにすることの効果を自分なりに考えてみた。
 -作品をきわだたせる。コントラストの強い色や模様を使う
 -作品の雰囲気を伝える。
 -文様に意味を込める。作品の出自や所属を表す。
 -入れ子にして遊ぶ。
 -作品の世界を広げる。作品の外側の世界とのつながりをつくる

 どうでしょう?かけじくに詳しい人がいたら、今度聞いてみようと思います。


うちにはかけじくはないしな〜と思っていたけれど、季節のてぬぐいをかけるのも、かけじく的な楽しみ方なのかも!

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いろいろ難しく考えなくてもよくて、高尚なものと腰が引けなくてもよくて、

要はこういうことかなと思います!!

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