ひととび〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する鑑賞の場づくりを通して考えることなど。

NTLive『スカイライト』@シネリーブル池袋 鑑賞記録

NTLiveのアンコール上映で『スカイライト』を観てきた記録。2021年9月。

 

youtu.be

 

デヴィッド・ヘアー作、スティーブン・ダルドリー演出の3人芝居。
主演:ビル・ナイキャリー・マリガン、美術:ボブ・クロウリー

2014年 ウィンダムズ劇場での公演を収録。こんな劇場→https://www.wyndhamstheatre.co.uk/

1996年以来の再演で、当時もビル・ナイが主演だったので、どうしてもビル・ナイでいきたいとのことだったらしい。また、NTLiveで収録・配信するのが再演の条件だったとも、幕間のインタビューでデヴィッド・ヘアが言っていた。

 

以下、まとまらない感想をつらつらと。
 
※内容に深く触れています。未見の方はご注意ください。
 
すごい舞台で、忘れがたい鑑賞体験になった。
NTLiveのラインナップの中でも5本の指に入るぐらい好き。
ちなみに他に好きなのは、『リチャードII世』、『ハンサード』、『戦火の馬』、『リーマン・トリロジー』、『フリーバッグ』、『ジェーン・エア』......あれ、5本じゃ全然足りなかった!
 
先に観た友人たちの話では、トム(ビル・ナイ)とキーラ(キャリー・マリガン)の歳の差がありすぎて、ちょっと感情移入しづらいとのことだった。確かに観てみると、キーラのほうはいいんだけど、トムがやや歳くいすぎてる感が否めない。スレンダーなので、余計に老いて貧相に見えてしまう。エネルギッシュな成り上がり実業家の役所なのだけど。
でもそこはお能の鑑賞で培った「見立て力」を発揮して、なんとか脳内修正して観ていた。(お能では高齢の恰幅のいい男性の能楽師が、「儚い雰囲気をまとった若い女性」を演じることが当たり前だったり、「作り物」と呼ばれるシンプルな舞台装置で、ほとんど竹で組んだ枠を持ってきて「家」や「舟」と見立てたりするので。)
とはいえ、俳優は観客が物語を信じられるための入口なので、キャスティングは大事だと思う。
 
3人芝居だが舞台上にいるのは常に2人だけ。トムの息子・エドワードとキーラ、キーラとトムのどちらか。凄まじい会話の応酬で物語が進んでいく。これをセリフとして記憶し演技をつけながら出力できる俳優って本当にすごいと思う。
演出のスティーブン・ダルドリーは、『リトル・ダンサー』や『めぐりあう時間たち』、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』の映画監督でありプロデューサー。彼らしい繊細で微妙な関係性の浮かび上がらせ方。うまい。
 
イギリスの階級と経済格差、伝統的家族システムと、マチズモの解体、フェミニズム
『ドライブ・マイ・カー』に見た「深い喪失と底を打ったあとの回復の過程」なども重なる。年齢差が目についたトムも、ここでは老生に入った男性であることに意味が見出せる。
1996年の初演当時のイギリスの社会風潮と文化背景が強い影響を与えているが、2022年の日本にも言える内容だ。幕間のインタビューでデヴィッド・ヘアは、「社会にとって大切なのは企業家。医者、看護師、教師を大切にしていない。政権が変わっても同じだ」
その企業家の象徴がトムで、教師の象徴がキーラ。
 
スクリーン中の観客のウケ方を見ると、格差社会に対する皮肉を好んでいるように感じられる。NTLiveでは「なぜそこで笑う?」「笑いのツボがようわからん」と思うことが多いが、今回は、「いやそこで笑ったらレイシストだろ」というようなシーンで笑いが起きていたので、やっぱり異文化だし、理解できない領域があるなと感じる。NTLiveは観客の反応が舞台進行中にダイレクトに伝わるので、オペラやバレエのライブビューイングとはまた違う発見がある。
 
並行してパスタ料理が進むのも時間の流れ方としておもしろい。食べ物の中でも、舞台の上で少しずつ進行していく。コンロが置かれて、ほんとうに調理している。火を使っている。パスタを茹でたり、玉ねぎを炒めたり、トマトソースを煮込んだり、パルメザンチーズをすり下ろしたりしている。でも会話に夢中で触らない時間もあって、焦げつくんじゃないかと心配になる。それも含めてライブ感がある。
 
 「個人的なことは社会的なこと」「政治が人を分断する」という点では、『ハンサード』の双子みたいな作品かもしれない。 自分の過去の傷を修復してもらったような感覚もある。自分の意志で選んでいるから人生なのだけれど、それもこうして客観的に眺めてみると、社会背景や時代背景に翻弄されて選ばされている面がある。そういう宿命にあっても、足かいて、どれだけ自分として生きて抜けるかということなのかな。個人は小さいけれど。命は大きい。
 
『スカイライト』で資本主義が食らわしてきた分断の図って、『ノマドランド』にもたくさん出てきた。 特に主人公がお姉ちゃんの家に立ち寄るシーン。細かいセリフは忘れたけれど、姉や義兄やその友人たちとの世界の違い、見え方の違いに愕然としたり、「あなたはいいよね」と言われたりする。それぞれの切実さがある。ある一時期近くにいた関係でも、どうしても理解しあうのが難しいことがある。
 
昨年夏頃のNTLiveのTwitterでこの作品は人気1位に挙がっていた。私も好きだしいい作品だと思うけど、これが選ばれるのはちょっと意外な気もしている。人によって「いいと思う」理由は少しずつ違いそうで、一つひとつ聞いてみたくなる。
 
 
ああ、書いても書いても感想書きたりないな!!
順を追って、印象的だったシーンについてまだ書きます。
※ほんとうにまだ見てない人が読んでしまうとつまらないと思うのでご注意ください。
 
・トムの息子のエドワード、キーラに会いにくる。ギャップイヤーで高校を卒業して、大学に入るまでスタジアムでソーセージを販売するアルバイトをしている。母が亡くなって父を心配して、キーラに「会ってほしい」と頼みにきている。エドワードのトムに対する愛情が泣ける。愛しているが、同時に軽蔑もしている。「親父は職場の人に自分のことを尊敬させたがるらしい」。話しぶりからキーラが姉のような、おばのような、年上の友人のような存在だったことがわかる。会話の端端に共に過ごした幸福な時間を感じさせる。
エドワードにはトムが「おやじは気持ちを語るとか絶対にできない」、でも、「全部表に出さないと大きな代償を支払うことになる(感情を抑え込むとあとでツケがくる)」と理解していて、それを忠言する。しかしトムは怒りをぶつけることはするが、受け取れない。エドワードからの又聞きの状態だが、自分が庇護してきた息子に言われたくないのだろう。息子が自分を超えていくこともまだ受け入れられないように見える。
エドワードはキーラと暮らしていた頃の3年前より成長していて、自分で考え、自分の思いをキーラに伝えるために、一人でキーラに会いに来ることもできる。成長している。エドワードにより過去の扉が開く。同じ夜にエドワードとトムが別々に訪ねてくる。3年会わなかったのに、突然動き出す時間。起こるときには一気に起こるのが人生か。エドワードはキーラとトムとの間に何があったか知らない。キーラを慕っていて、キーラもまたエドワードには家族の情愛を抱いている。
・キーラの今の住まいと地区の様子やキーラの職場での様子を聞き、自分が恵まれている社会階層にいることをあらためて知る。そしてその違いに正直に驚いたり、羨ましがったり、そういう自分が「お坊ちゃん」として見られていることの恥ずかしさや苛立ちも持っている。ごく健全な10代の若者。
エドワードの「(お父さんの世界で)恋しいものは?」と聞いて、「ちゃんとした朝食」と答えたキーラ。(エドワードは、2幕の終わりにその願いを叶える。キーラの家を出てから、この朝食を運んでくるためにアレンジしたエドワードの行動。トムとの山のような会話をする中で「言葉じゃなくて行動」を叫び続けたキーラに対し、エドワードがそっと示した「行動」は、キーラがほしかったものだ。見栄からではなく、組み敷くためではなく、ただ相手のために動くこと。トムとキーラの「違いを埋められなかった男女関係」よりも、キーラとエドワードの「血のつながっていない家族間の温かな関係」が希望として、朝の光の中でそっと描かれる。これもSkylight。)
エドワードが去った後にトムがやってくる。男が語る仕事の話、仕事の愚痴、聞いてられないが、笑って聞いてあげるキーラ。苛立ちが次第にキーラに向く。「自分の狭い世界に閉じこもっている」ようなことを言ってくる。キーラは「売られた喧嘩」を買う。調理しながら会話のバトルの応酬。母が3歳で亡くなり、父とうまくいかず、家を出るチャンスを探していた18歳のキーラに居場所を与えたアリスとトム。
・キーラはトムとの関係を「純粋な愛」や「お互いの信頼だけで成り立つ愛」や「3人でいることが幸せだった」と6年の不倫関係を形容する。ここはかなり自分勝手でアリスの気持ちは完全に軽視されている。ぐつぐつ煮えてくる音がよい効果を出している。「煮詰まってくる」。
・晩年のアリスにとっては斜めの天窓から見える風景がすべて。スカイライトを見ていた。「スピリチュアルな世界。私が嫌いな"自分は感受性が強い人間"がしたがる主張だ」。亡くなった妻の悪口をかつての不倫相手に話す。ここはアリスの立場に立つとしんどいし、キーラはどう受け止めているのだろうと気になってくる。同じことが運転手のフランクへの態度にも見える。他者に対する態度に不信感を覚えるやり取り。
・キーラ、「あなたへの八つ当たりがあの子(エドワード)を苦しめてる。あの子はあなたの痛みに気づいていた。父親が必要。雑に当たったらかわいそうよ」と。これをきっかけにトムから溢れ出る怒り、言えなかった本当の思いを出せば出すほど明らかになる二人の決定的な違い。この老いた男が怒りと悲しみを爆発させている様に意味を感じながら見ていた。トムは『マチズモをけずりとれ』(武田砂鉄/著)を読むといいのでは。
・二人は抱き合う。2幕。一夜明けて途中だったパスタを食べながら、会話が再開する。今度はキーラの仕事についての話が始まる。1幕はトムの仕事についての話で対照的。1幕ではトムの愚痴をキーラは微笑みながら聞いてあげていたが、2幕ではキーラの問題意識をトムは終始興味がなさそうに受け答えし、茶化す。キーラの勤める学校は、低所得者層や移民が多いことが会話の中からわかる。次第に苛立つトム。「こんなところに(トムの差別と偏見)いるべきじゃない」と説教がはじまる。
・上層階級出身のキーラが手応えのある人生や意義ある仕事のために「降りて」、庶民階級出身のトムが成功や社会的地位を目指して「上がった」図になっている。そこに女性差別や年齢差別が絡まって、トムのキーラに対する態度や、キーラのトムに対する態度がつくられていく。
・「今の暮らしをはじめてから価値観が変わった。あなたは私の決断を尊重しなければならない」とキーラ。たくましさと同時に、こういうときの人にありがちな少し恍惚とした表情に危うさも感じる。キーラが自分の埋められない心の穴を、あえて過酷な住環境や(「高速道路沿いの」たぶんうるさい、「倉庫のような家」はすごく寒そう)、教師の職で埋めているのか、観客には判断できない。ただ成り行きを見守っている。
・「人を見下しちゃだめ」と今度はキーラが説教するのに、トムも反撃していく。「他は抜け出そうと必死なのに、わざわざ選んで住んで悲惨な地区に住んでいるのはきみだけ」「彼らを愛するのは一人に向き合わなくて済むからだ」社会構造に関心をもって動きはじめたパートナーに水をさしたり妨害しようとするってあるあるだなと思いながら見ている。NPOで働いたり、社会運動をしている女性に対して、あるいは一人で暮らしている女性に対して、世間がよく投げかけるものでもある。こういう、親密な間柄でしか出てこないようなやり取りがこの脚本のすごいところ。 「Female?」からはじまる一連の「演説」は腹が立ったときにスクリプトを何度も読み返したい。
・とことんすれ違う様子が延々と展開される。特徴としてはトムは「君は」で、キーラは「私は」について言っている。トムの糾弾には「自分を必要としていてほしい、自分より輝いていて確かな人を見て焦っている、自分より弱い立場を見つけて自分の生存を確認したい、さみしい、帰ってきて欲しい」という思いがほとんど絶叫のような形で出されるが、言葉は裏腹。言えないのがトムの弱さ。なぜならトムには罪悪感があるから。最初から詫びることができればよかったのに、即座にできなかった。トムはキーラの手紙を使って、自分の口でアリスに言わなくていいように仕向けた。それが不注意ではなく故意だったことが
・愛とは、執着や依存でできているのだろうか。キーラも途中まではそうだったが、トムの裏切りにより離脱した。「今も愛しているけれど、もう信頼できない」というのは、わかるなぁ。友人同士でもよくあることかも。人間関係のすべてで起こることかも。
・あらためて最後にエドワードが友達に頼んでリッツホテルの朝食を届けてくれるシーンは沁みる。氷つきのバター皿、香り付きのナプキン。「ただの朝ごはんだってば」とエドワード。いい子!次世代の希望をここで感じる!キーラは自分の仕事の話をする。自分に言い聞かせるように、エドワードの前で宣言するように。
 
ああ、こうしてまた振り返ると、舞台を観たくなる!
今度は違うキャストで観てみたい。ぜひ日本でも再演してほしい。
 
 
脚本を読みたくなる作品。友達に教えてもらってKindleで購入してみた。
キーラの演説のようなくだり「あなたのいう成功って何?」「助言はいいから、私たちと一緒にやってみなさいよ。時間と労力を捧げる気はないなら引っ込んでなさい」で、客席が一瞬静まって(スクリーンの中で)、その後大きな拍手が起きてた。

 

この記事よかった。

note.com

 

キャリー・マリガンの演技、とてもよかった。映画『わたしを離さないで』『未来を花束にして』『華麗なるギャツビー』『プロミシング・ヤング・ウーマン』など、観たい映画にたくさん出てらっしゃる!がしがし観ていきたい!!

pyw-movie.com

 

ビル・ナイは、映画『MINAMATA』に出演している。LIFE誌の編集長役。インタビューで「演じる上で難しかったのは?」と聞かれ、「アメリカ人の役を演ること」と答えていて笑ってしまった。

youtu.be

 

『スカイライト』を観たあとに関係ありそうな気がして、ブレイディみかこさんの『子どもたちの階級闘争 : ブロークン・ブリテンの無料託児所から』を読んだら、やはりそうだった。キーラの勤めていた「底辺校」と社会背景などが理解できる。

hitotobi.hatenadiary.jp

 
『ハンサード』もよかった。
 
 
主演二人のインタビュー。アメリカの番組のよう。
 
 
日本でも2018年に新国立劇場で上演されていたらしい。ああ、今やっていたら絶対観に行くのに!舞台ってほんと一期一会、「出会いのもの」だなぁ。キーラは宮崎あおい蒼井優がいいなと思っていたので、このキャスティングは当たったみたいでうれしい。
 

spice.eplus.jp

 

戯曲『スカイライト』日本語でフルテキスト読める。図書館でぜひ。

『悲劇喜劇 2019年1月号』(早川書房

 
 
 
 

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 2020年12月著書(共著)を出版しました。

『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社

 

映画『東京自転車節』@オンライン配信 鑑賞記録

オンライン配信イベントで映画『東京自転車節』を観た記録。2021年9月3日。

tokyo-jitensya-bushi.com

 

ネット配信ではなく、リアルタイム配信のイベント。

手持ちカメラやGoProでの撮影がめちゃくちゃ揺れるので、映画館で観ていたら多分画面酔いして気持ち悪くなっていたと思う。明るい中で音量調整しながらPCの小さな画面で観られるのもよかった。オンライン配信、ありがたかった!

最初は他の人たちと一緒にわいわい観ている感じがして楽しかったが、わりと早い段階で笑えなくなり、コメント欄をオフにした。

映し出されている姿に考え込んでしまった。

 

※内容に深く触れていますので、未見の方はご注意ください。

 

今記憶に残っている印象的なことは2つ。

 

1つめは、奨学金のこと。

監督は大学の奨学金を返さねばならない借金として抱えている。大学卒業と同時に借金を負わされている。しかしコロナの直前にしていたのは、非正規雇用の仕事だ。そしてこの映画の中では東京に「出稼ぎ」に来て、Uber eatsの仕事をしている。借金を抱えてまで通った大学は、彼の社会的身分を安定化するようには働かなかった。それでも無情にもかかってくる催促の電話。返済どころか生活費も底をつくという状況なのに。

それは彼が奨学金(という名の借金)を定期的に支払えるだけの収入を得られる仕事についていないからとも言えるし、彼がそれを選択しなかったからなのかもしれないが、だから仕方がないということではなくて、つまり、「そもそも大学に行くために500万円も学費がかかるのはなぜなんだ」「どうして若者に丸のせしているのか」「そういう仕組みになっているんだ」ということだ。監督の場合は20年に分割して返済しようとしていて、利子がついて700万円という状態になっている。しかし全く返済できていない。

私たちの社会は、学びたい人が学ぶことを応援できない。「学ぶことも自己責任」になっている。あるいは、「生まれ育った家庭の経済的環境によって得られる・得られないが決まる」とも言える。

今や半数の学生が奨学金を受給している。
https://www.jili.or.jp/lifeplan/lifeevent/761.html

学費が払えないから奨学金を得て、そして学んで卒業しているのに、思うように収入が得られない若者がいる。こんなことでいいわけがない。こんなシステムをいつまで継続するのか、支持するのか。

参考図書『経済的徴兵制をぶっ潰せ!戦争と学生』(岩波書店, 2017年)

 

 

2つめは、デリヘルのこと。

監督はUber Eatsで働く日々の中で、27歳の誕生日を迎える。せめてきょうくらいはと安宿に泊まる。そして「人肌が恋しい」というナレーションに続き、デリヘルを呼ぶ監督。この宿にスタッフが派遣されてきて、客である監督に性的サービスを行う、という流れなのだ。

いや、そんなところまで撮るのか、見せられるのか、と一瞬ギョッとする。

しかし結局、請求額に対して持ち金が足りないことが明らかになる。しかもキャンセルもできない。せめて払った分は、来るはずだった女性の手に渡るように頼む電話をかける監督。

私はここのくだりで愕然としてしまった。デリヘルが「コロナで割引サービス中」となっていたのだ。ほとんど労働力の搾取じゃないのかと思ってしまうような対価設定の業態で、朝から晩まで身を粉にして、心も体もヘトヘトに疲れ切った男性が、別の産業で働く女性の労働力を安く買おうとしている図がある。

いや、もちろんここでは誰もが同意の上で働いてはいる。同意の上で契約が結ばれ、対価が行き交っている。それに対して個別にいちゃもんをつけたいのではない。

ただ、「コロナで割引サービス中」ということは、そこで働く女性の報酬も、通常より割引かれているのではないかと懸念するのだ。しかもコロナ流行中ということは、普段よりもリスクが高いのだ。感染するかもしれない怖さもあるだろう。その労働を「割引ラッキー」とばかりに購入する男性が現れる。こちらもまた「なけなしの稼ぎ」を握りしめた人だ。その二者間で契約が成立してしまう。その「構図」に胸が痛くなった。

しかも男性は外で体を張って戦うのが仕事になり、女性はその戦って疲れきった男を体を張って慰めるのが仕事になるという「構図」にも見えて、やりきれない思いがした。社会では一体何が起こっているんだろう。くどいが、これは監督個人の行動を非難しているのではなく、構図に対して複雑な感情をおぼえた、という話だ。

 

 

映画を通してみていると、Uber Eatsの仕事は相当に過酷だ。この映画で初めて知った。細かな件数と売り上げの数字は忘れてしまったが、それだけの距離と時間配達し続けて、その売り上げなのかと驚く。相当体力がないとできない仕事だ。誰でもできるわけではない。働きたくても仕事がなかなか見つからない人にUber Eatsがあるじゃん、とはとても言えないような内容だった。監督すごかったな。

2020年のあの月この月に、私も同じまちで生きていたし、その頃監督は自転車をこいで配達をしていたのか。貴重な記録だ。

人々はあのときを、そして今を、ほんとうはどんなふうに生きているのだろう。

一人ひとりがあまりに違っていきすぎて、会わない、合わないことに、心の深いところで自分もものすごく孤立を深めていると思う、たぶん。

 

都会の人間は消費してくれる者たちとして都合がいい。東京に暮らす自分も、都会の消費者の一部だとみなされているということに気付いてハッとする。

しかし監督は「食でお店とお客さんと繋ぐ」「お客さんに喜んでもらう」などを胸に、ある日、「一件一件のお客さんへの対応を考えなおそう」と決める。ギリギリの状況でも人間性と誇りを保とうとする気迫に押された。この映画の中で一番救われたシーンだったかもしれない。「システムに操られるだけじゃない、システムを利用してやる」というたくましさもユーモアも人への思いやりも、ぜんぶ使ってこの映画は撮られていた。

 

今、もっと状況は悪くなっていて、働きたくても働ける仕事がない人が、明日の食べ物にも困る状況になっている。

映画のクライマックスでは、監督なりの批判と皮肉を込めたシーンが続く。

きょうも東京は焼け野原が拡大している......。

 

 

 

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2020年12月著書(共著)を出版しました。

『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社

映画『COLD WAR』鑑賞記録

映画『COLD WAR』を観た記録。

coldwar-movie.jp


f:id:hitotobi:20220104234017j:image

 

※内容に深く触れています。未見の方はご注意ください。


公開当時はちょっとしんどそうな映画だなという印象で避けていた。けれど、友達からイチオシとのことでわりと度々勧められていて、DVDを持っているというので借りてみた。


いやはや、これは!観てよかった!

もっともっと話題になってもよかったんじゃないのかな〜と思うような素晴らしい作品だった。

 

まず、冒頭のシーンが、『耳に残るはきみの歌声』を彷彿とさせる。音楽や歌が映画の背骨になっているところが似ている。夢の中のような世界観も。

文楽の心中物を思い出した。

現代の私達から考えれば全然死ぬ必要のない二人が、当時の時代背景の中では選べない設定の中で、かれらにしか分からない理由の中で、音楽と共にあれよあれよと運ばれて、道行きを演じていく。むせび泣く三味線とあの「やむを得ない」感。(「最後に心中する」ってことではないです!)

全編モノクロ。ヨーロピアンビスタ。
現代の技術で撮影したモノクロってこんなにも美しいのか。
モノクロが一番冴え渡るように計算して撮られていることを感じる。

不思議と色鮮やかに感じられる。心で感じる色。
たぶん音楽と舞踏も影響している。そう、音楽がいい。
音楽も舞踏も、時代も国も言語もくるくると変わっていく。

東側と西側、社会主義と民主主義、あちらとこちらの行き来も。

 

1949年ポーランド、1952年東ベルリン、1955年ユーゴスラビア、1957年パリ、1959年ポーランド......1989年まで社会主義体制が続く、その最初の時期のほんの10年の出来事。

時代や国の体制が違えば、かれらはここまで惹かれあっただろうか。体制なんのそのと蹴散らし、どんな手を尽くしても何度も出会っていくかれらだが、しかしこの社会背景があったから、対立が起こったり、超えなければならない壁が出現していたわけで。人の行動と社会の動向は、どんなふうに関係していくのだろうか。そう考えると、この作品は時代や運命の流れに抗う人間たちの生き様ともとれるだろうか。

 

映画の中で、彼女らしさを強く感じて好きなくだりが、『2つの心』のフランス語訳をヴィクトルの元恋人に書かれ、ヴィクトルのコネでレコードデビューするも、気に入らず、ポーランドに帰ってしまうところ。ヴィクトルに御膳立てされることも、元恋人の書いた詩も気に入らなかったと見える。これは想像だが、ポーランドの民俗音楽をいかにもフランス流の洒落た恋愛ソングに書き換えられてしまったことが、ズーラにとってすべてをキャンセルするほどの屈辱だったのではないだろうか。

外国人との結婚という手段を使って国を出たはずなのに、あっさりと国に戻ってしまう。どこにいても彼女は強い。東にいようが西にいようが、彼女は自由だ。だからなぜあのラストに至ったのか、少し意外に思える。

 

音楽芸術が国策に利用されていくのが恐ろしい。民俗音楽が共産体制の歌に駆逐されていく。「純粋なスラブ人」という言葉に、結局ナチスによるホロコースト後も、純血主義や排外主義は終わらないことを感じる。


この季節に観るといいよ、と言われた意味もよくわかった。
雪が降っていたり、寒かったり。夏のシーンもあるのだけど、圧倒的に寒い。

次どうなるんだろう?どこに連れて行かれるんだろう?と二人に翻弄されていく。
自分では制御できない夢を見ているような。


ポーランド映画ってアンジェイ・ワイダクシシュトフ・キェシロフスキしか知らなかったけど、今回新たにパヴェウ・パヴリコフスキが加わった。

 

機会があればパヴリコフスキ監督の前作『イーダ』も観たい。『COLD WAR』が両親をモデルにしたと聞いて驚いたが、『イーダ』は祖母がモデルになっているそう。なんという一族......。でも、考えてみれば、他の人間がどんなルーツを持っているかなんてほんとうには知らないんだから、どんな現実だってあってもおかしくない。

mermaidfilms.co.jp

 

とにかく大好きなキェシロクフスキの『デカローグ』。

www.ivc-tokyo.co.jp

 

hitotobi.hatenadiary.jp

 

『COLD WAR』を観ていると思い出す『耳に残るはきみの歌声』。戦争に翻弄され、引き裂かれる人たち。分厚い壁によって隔てられる愛。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

 

▼関連サイト、関連記事

 

モデルとなった舞踏団。マゾフチェ。

www.mazowsze.waw.pl

 

ファッションとアイデンティティ。自由、開放。

www.cinematoday.jp

 

監督の家族についての言及も。

globe.asahi.com

 

ポーランド広報文化センター

https://instytutpolski.pl/tokyo/

 

ポーランド映画

http://www.polandfilmfes.com/

NTLive『夜中に犬に起こった奇妙な事件』@シネ・リーブル池袋 鑑賞記録

NTLive『夜中に犬に起こった奇妙な事件』を観た記録。観たのはだいぶ前。2021年8月23日。

 

▼予告編

youtu.be


全世界で一千万部を超えるベストセラー小説を舞台化

並外れた頭脳をもつ15歳のクリストファーは、その才能を活かして隣人シアーズさんの犬を殺害した犯人を探そうとする。2013年のオリヴィエ賞で作品賞を含む主要7部門(最優秀プレイ賞、最優秀演出賞(マリアンヌ・エリオット)、最優秀主演男優賞(ルーク・トレッダウエイ)、最優秀助演女優賞(ニコラ・ウォーカー)ほか)を独占し、ブロードウェイ公演では第69回トニー賞プレイ部門最優秀作品賞や最優秀演出賞などを受賞した。(NTLive Japan公式ウェブサイトより)

 

NTLiveの名舞台『戦火の馬』のマリアンヌ・エリオットが演出を手掛けている。

 

今予告を見ると、めくるめく映像に目眩がしそうだけど、実際の舞台はここまで激しくなかった。冒頭にぎゅおーーんという大きめの音がしたり、途中光の点滅などもある。主人公のクリストファーから見えている世界を描く目的で、映像効果が入っている。心配な方は耳栓とかあると安心かも。特に冒頭はけっこう音が大きかった。

 

※ここから先、内容に深く触れています。未見の方はご注意ください。

冒頭のインタビューで、クリストファーの人物設定の説明があり、「自閉症スペクトラム症」で、「表情から感情を読み取ったり、想像したり、気持ちを理解することが難しい」ということだった。そういう前提で見てしまったけれど、劇中でも原作中でも、明確に「自閉症スペクトラム症」という単語は出てこなかったように記憶している。

クリストファー自身の説明や、周りの人の対応などを見ていて、彼にとってどういうことが難しいのか・つらいのかを舞台を見て段々と知っていく。「こういう人なんだ」と自然と理解していく。中には、「自分と似ている部分がある」「周りのあの人と似ている」などの心当たりも出てくる人もいるかも。

この「クリストファーから見えている世界」の描き方がすごくて、自分の身体が拡張したような、使ったことのない身体機能を使っているような気持ちになってくる。自分は普段どんなふうに世界を知覚しているのか。一旦解体し、一から点検していくような感覚をおぼえる。絶妙なカメラワークで観ているせいもあるのだろう。劇場で固定した視界で見ているときとどんな違いがあるのか、生の舞台を観てみたいと思ってしまう。

 

「お隣さんの飼っている犬を殺した犯人をつかまえる」を軸にした冒険物語なのかと思いきや(タイトルもそんな感じだし)、事態は思わぬ方向へ転換していき、隠されていた家族の秘密が暴かれていく。これがなかなか衝撃だったけれど、物語が進むにつれて、「ああ、あるだろうな」と思った。あり得るし、聞いたことはあるし、つまりこれはとても微妙な話題だ。それを物語の形で綴っていくところに唸る。

 

自分にも10代の子がいるからか、親との関係にどうしても目がいってしまう。

親が子の特性を受け入れられなかったり、あるいは思わず言いすぎてしまったり、対処がわからず追い詰められてしまったりしている様子は、見ていてつらかった。理解やサポートが足りなくて、家族で抱えてしまったところがあったのではと思えてならない。

我が子に触れられない、抱きしめられないことに苦しんだ経験のある親の人は多いのではないか。「ハグの代わりに五本指を合わせる」という習慣は、お互いに譲歩しながら「こうしようね」と決めていった道のりがあったんだろうなと想像すると、愛おしいような、切ないような気持ちになる。家族の関係は短期間の間にぐんぐん変わっていく。最後は希望をもって終わるので、とても温かい気持ちになった。

 

クリストファーがパニックになったときに先生が言っていたことを思い出して「使う」シーンにもグッときた。先生が心の中にいて支えてくれる。だからいつまでも親や先生がつきっきりじゃなくても、一人でもできることは増えている。そういうクリストファーの自立心が少しずつ育っていく様子が描かれているのが頼もしかった。反抗心が芽生えていくのがイイ。

 

「合理的配慮」という言葉がある。

合理的配慮とは、障害のある人が障害のない人と平等に人権を享受し行使できるよう、一人ひとりの特徴や場面に応じて発生する障害・困難さを取り除くための、個別の調整や変更のことです。日本では、障害者差別解消法や改正障害者雇用促進法において、事業者に対して合理的配慮の提供義務が課されました。https://snabi.jp/article/30

『合理的配慮』の「配慮」が「特別な親切」や「思いやり」という意味も含んでいるため誤解されやすいが、アメリカで生まれたこの概念を表す言葉はもともとは"Reasonable Accomodation"で、Accomodationは、「調整」「調節」を意味する。思いやりではなくて、片方が我慢したり、優遇したり、「負ける」ことではなくて、単なる「調整」なのだという話をとある講座で聞いたのを『夜中犬』を観ていて思い出した。

 

「障害」がある人は特殊な能力を持っている人と解釈されないといいなと思う。そういうふうに描かれてきた映像作品もよくあったので。

クリストファーの場合は、自分の好きな数学で周りの人や社会とつながるきっかけを得ている。それが彼を幸福にしているといいなと思う。

また、これが転がって、「何かができるから居ていい」とか、「能力があるから社会から存在を認められる」というふうにはなってほしくない。何かの力によってそちらに寄せられないように、自らも寄らないようにしたいと思った。

 

見る人によって共感する人物が変わってきそうだし、抱く感想も違いそう。

数学が得意な人が観たらどう思うんだろう。

 

金沢での上映チラシ。高校生(15歳〜18歳のユースを含む)は500円で観られるのがよい。金沢21世紀美術館の企画。
f:id:hitotobi:20220107071014j:image

 

翻訳『夜中に犬に起こった奇妙な事件』

 

翻訳を通らず、原文に当たってみてもいいかも。たぶん10代ぐらいの若い読者向けに書かれていると思われ、少々わからない単語があっても、ぐいぐい読める。(Kindleなら辞書機能もついている)

 

たまたま同じ時期にこの記事を読んだので、クリストファーの「想像」の難しさについて想像することができた。

inthevillege.com

 

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 2020年12月著書(共著)を出版しました。

『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社

展示『民族衣装 ー異文化へのまなざしと探求、需要 ー』@文化学園服飾博物館 鑑賞記録

文化学園服飾博物館で開催の『民族衣装 ー異文化へのまなざしと探求、需要 ー』展を観てきた記録。

museum.bunka.ac.jp

 

世界では、それぞれの地域で多様な民族衣装が着られています。それは現代では誰もが知る感覚ですが、情報が少なく世界が隔てられていた時代には、自分たちと異なる民族がどのような生活をし、どのような衣服を着ているのかは容易に知ることはできず、それを知ることは人々の好奇心を満たし、また重要な情報のひとつとなりました。
展示では、民族衣装が描かれた書物や、民族衣装の研究、フィールドワークなどに焦点を当て、ヨーロッパや日本において、アジアやアフリカの民族衣装がどのようにとらえられてきたのかを探ります。またデザインやカッティングなどに民族衣装の影響を受けたヨーロッパのドレスを、元となった民族衣装とともに紹介します。(文化学園服飾博物館公式ウェブサイトより)

 

民族衣装の展示かなと思っていたら。それだけじゃないことを青い日記帳さんのブログで知った。「文化の盗用」まで踏み込んだ、意欲的な展示だ、と。

http://bluediary2.jugem.jp/?day=20211117

 

それは観ねば、と行ってきた。


f:id:hitotobi:20220101100539j:image

 

異文化の衣服、風俗、ファッションを人類はどう取り扱ってきたのか。主に支配する側、取り扱いに有利な側からのまなざしで辿る。

1章:未知の世界への好奇心(〜19世紀末)

世界を知ることが難しかった時代の憧れ、空想も含む微笑ましい時代から、

2章:より正確な情報への欲求(20世紀前半)

植民地主義や交通技術の発達に伴う学術的、商業的な眼差し、

3章:民族衣装のさらなる探求(20世紀後半)

を経ての、

4章「民族衣装の模倣、受容(ヨーロッパの流行への影響」での「文化の盗用」の問題提起。民族衣装の影響を受けた衣服(デザイナーの手によるものを含む)を、元となったアジアやアフリカの民族衣装と並べて紹介しているところが画期的だった。


民族衣装そのものも美しいが、背景をじっくり読み込みながら展示を見ていくと、ただ「素敵ね」だけでは終われないものがある。自分の用い方にも突きつけられるものがある。私は民族衣装が好きなので、そのエッセンスを普段のファッションに取り入れることがある。

そんな後ろめたさもあったので、今回の鑑賞の目的として、「民族衣装の文化盗用の何が問題かを自分の言葉で言えるようになること」があった。

今の私としてこんなふうに説明できるだろうか。

民族衣装には、それぞれの文化に根ざした特別な意味を持つものが多い。信仰、祈り(吉祥、魔除、五穀豊穣、子孫繁栄)、階級、儀式、性別、未婚/結婚、部族、イエ......などなど。それらには長い時間をかけて受け継がれてきた伝統があり、人々のアイデンティティや誇りが蓄積している。

それを異なる文化圏で異なる用い方をすることが、元の民族に対する尊重を欠く可能性があるということだと思う。たとえば、男性しか着ない衣服を女性のファッションにする、女性が肌の露出を避ける民族の文様を肌の露出を強調するファッションに文様として採り入れるなど。

エキゾチック、オリエンタリズム、フォークロリズムへの憧れ、異国情緒だけで反射的に飛びつくのではなく、誰がどのように用いてきた衣装なのか、文様なのか、知ろうとすることが大切なのでは。また、購入、着用することで文化の盗用に加担している可能性も常にあるということも頭に入れておきたい。

日本の着物も本来とは異なる使われ方をしてきたし、KIMONOを矯正下着のブランド名に使われそうになったという「事件」もあった。(関連記事

 

何が文化を毀損する態度なのかは、これといって正解があるわけではないと思うので、これからも都度考えていきたい。

 

その他鑑賞メモ

・世界が隔てられていた頃の人々の好奇心の強さ。エネルギーを感じる。西洋にとっての東洋、東洋にとっての西洋。誇張も想像もあるのが微笑ましい。異国趣味。行き過ぎると趣味が悪くなる。やはり上から目線も多分にある。その境目って難しい。

・中国と日本の混同は昔も今も変わらないらしい。

・18世紀〜19世紀にイギリスの舞台芸術の分野で、演者が着要する衣装において、地域考証に目が向けられるようになったという起こりが興味深い。

・1922年にツタンカーメン王の墓が発掘されたことで西欧に「エジプトブーム」が起こり、ファッションに取り入れられた。(オリエント風のフォルチュニィのドレス!)

・軍服類を調査、補給していた陸軍被服廠の外郭団体である「被服協会」が、民族衣装の表現や形状の調査を行なっていたそう。戦前に収集していた物品類が戦後文化学園に引き継がれている。そのような機関が陸軍にあったことが驚き。今回の展示には、台湾の原住民のパイワン族タイヤル族の衣服もあった。植民地支配下に置いた地域の服飾を調査していたらしい。

陸軍被服廠に関連の記事。(服飾調査への言及なし)

陸軍被服廠と関東大震災
https://smtrc.jp/town-archives/city/honjo/p07.html

広島旧陸軍被覆支廠
https://www.oa-hiroshima.org/buildings/buildings05.html

・1927年(昭和2年)に三越で世界風俗博覧会という催しが行われている。ジオラマとマネキンを展示。古本屋さんのブログに写真があった> https://kogundou.exblog.jp/239858177/

大東亜共栄圏を目指し活動していた日本が、大正から昭和の戦前期に現地の民族の風俗や暮らしぶりをかなり詳しく調査し、写真と文章で綴って書籍として出版している。担っていたのは、商社駐在員や公的機関の調査員。植民地支配の

・戦後、民族衣装の調査は、失われゆく民族の独自性、技術、材料などの記録や伝承としても行われてきた。小川安朗(元陸軍被服廠)、田中千代、松島きよえ、道明三保子、野口文子、岡崎真奈美。

 

会期は2022年2月7日まで。

 

文化学園が出版しているこちらの本、学びが深まる。

『世界の民族衣装図鑑』文化学園服飾博物館/著(ラトルズ, 2019年)

 

 

▼関連記事

hitotobi.hatenadiary.jp

 

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本『押井守監督が語る映画で学ぶ現代史』『映画の声』『アナーキー日本映画史』記録

昨年から加速度的に1950〜1960年代の映画に出会うことが増えた。
この3冊は仕事の準備のために読んだ。

 

 

印象深かった箇所引用『押井守監督が語る映画で学ぶ現代史』より。

「忘れたいものがある」から、そのためにテレビをみよう、映画を見よう、という人が多いんだろうけど、見る側はともかく作る側がそれじゃダメなんだよ。

観客には「自分が抱えている不安を、具体化、形象化してほしい」という気持ちがどこかに必ずあるからだよ。(p.13)

 

(※『世界大戦争』について)だけど今観ると、当時の日本人がどういう生活意識を持っていたのか、どんな願望を抱えて生きていたのか、すごくいろんなことを思い出す。かつてそういう時代があったんだっていうことだけじゃなくて、実は今もたいして変わってねえじゃん......というのが、僕のとりあえずの結論。(p.33)

 

そういう現代ヤクザものという映画シリーズで何をやったかというと......当時の批評家たちがよく語ったんだけど、要するにヤクザの世界を借りて「日本の戦後」を語ったんだよね。

「戦後日本の近代化路線と、それについていけない人間たち」という構図だよ。どんどん近代化していく日本の中で、行き場を失った人間たちの生き様みたいなもの。(p.137-138)

 

 

1950年代〜1960年代の日本映画を見るのは、タイムカプセルを開ける感覚に似ている。私の知らない日本。けれど、今もある何かを観に行く感覚。

そこでは日本の戦後が様々な形で語られている。暴力、性、貧困、格差、差別。

「今、問題になっていることは、すでにこの時代に提起されていたのか」と驚くことがある。

 

大きな価値転換のあった後に、それを人々がどう受容したり、拒絶しながら生きてきたのか。人間をどう分類し、どう扱ってきたのか。何を笑い、何に興奮し、何にときめいたのか、映画が示してくれている。

私が今これらを観ることは、当時の人々に出会うことでもあるし、自分がどんな時間の延長上に立っているかを確認することだし、今の社会を再考することにつながることでもある。

また、これをリアルタイムで観ていた人たちが上の世代にいて、社会の構造を作ってきたのと理解することでもある。

相互理解のために、共生のために、対話のために。

 

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展示『川端龍子 vs. 高橋龍太郎コレクションー 会田誠・鴻池朋子・天明屋尚・山口晃 ー』@大田区立龍子記念館

大田区立龍子記念館に『川端龍子 vs. 高橋龍太郎コレクションー 会田誠鴻池朋子天明屋尚山口晃 ー』展を観に行った記録。写真多め。

bijutsutecho.com

 

高橋龍太郎とは、現代アートのコレクターで、精神科医。祖父の代から大田区に住んでいた。現在は自宅は港区に移っているが、クリニックは大田区にある。祖父が龍子と同時代とのこと。(この方にも名前に龍の字が!)

年間100件の貸出がある。キャプションに「個人蔵」と書かれているのはこういう方からお借りしている作品なのだな。

《マインドフルネス!》という現代アートの展示を名古屋市美術館で観たが、あれは高橋コレクション展だったと今知る。そうだったのかー!

f:id:hitotobi:20211009200616j:image

 

日の丸や船尾の朱が、神社の朱色と同じ。画面の真ん中に置かれた日の丸は標的のようにも見える。誇らしさと危うさが同居して見えるのは今の時代だからなのか。

 
 
 
 
 
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鑑賞メモ

・大画面の作品がたくさん観れて気持ちがいい。「映画ってやっぱり映画館で見るのがいいよね」という感じに似ている。やはりここの広々した感じは大画面の作品を見るのにぴったり。

・ガラスがないので、より近くに感じられるのがこの記念館の良いところ。

現代アートとのコラボは、違和感なし!よかった!現代に独自の道を切り開いてきた作家たちの作品と、横山大観と袂を分かって青龍社を興した龍子の作品が並ぶ。挑戦者たち。

・《越後(山本五十六元帥像)》(1943年4月)今回この作品が気になった。『香炉峰』『紐育空爆之図』の次にあり、『水雷神』『爆弾散華』と続くので、このコーナーは戦争を目一杯感じさせて不穏。学芸員さんの解説→https://www.youtube.com/watch?v=LjMdf39FXDw

・《十一面観音菩薩立像》東京国立博物館寄託されている仏像がこの会期中に里帰りしていた。もしかしてトーハクに行った時に観たりできるんだろうか?と思ったが、寄託ものはあまり展示に出ることはないかもとのことだった。残念。

・《百子図》(1949年)象を真ん中に遊ぶ子どもたちの図。「上野動物園に再び象がほしいと願う子どもたちが行動し、周囲の大人たちを巻き込んで実現した出来事」とある。台東区で「子ども会議」なるものが開かれていたらしい。図書館に調べに行くことにする。

 

龍子公園ももちろん訪問。

今回知ったこと。

・通常アトリエといえば、安定した北側の採光を求めるものだが、龍子のアトリエは全方向から採光。さすがに西日は避けるため、軒を深くしている。

日本画は顔料が流れるため、床に置いて描き乾いたら立てて仕上げる。そのため、床面も壁面もそれなりに面積や高さが必要になる。

・公園内の多くが高床になっているのは、昔この辺りが湧水の流れる湿地帯だったため。今は水脈が変わったのか、涸れているそう。

・雨戸がついていない。(理由は聞き忘れた)自分の寝室だけは雨戸がついている。朝から晩まで描いていたので、夜はよく眠れるように雨戸を締めて暗くする必要があったとのこと。

 
 
 
 
 
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今回は展覧会もよかったのだけど、記念館から池上本門寺へ行けたのもよかった。龍子の絶筆と言われる天井画を見るため。

龍子記念館から池上本門寺へ。坂を登りきった中央五丁目の辺りがこんもりとした山になって、四方からここを目がけて坂になっている。左方は海に通じる。汐見坂の由来そのまんまだ。スリバチ学会の人とか詳しそうだな。

 
 
 
 
 
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池上本門寺まで徒歩15分。20年ぶりに来た。当時は龍の絵のことなどは知らなかった。

(堂内は写真撮影不可のため、天井画はウェブ検索して見つけてください)

未完成だそうだけれど、没後に「目」が入ったからか、これで完成している、抽象画のようにも見える。鬼滅の刃で、殺られた鬼が消滅していくときのような、なにやら凄まじいものを感じる。日蓮上人の入滅の地にこの画があるのは当然のように感じられる。

ちょうどお経をあげてもらっている方がいて、その音と共に見るとなにかこみ上げてくるものがあった。お経は遠くから聞くとグレゴリオ聖歌のようでもある。

 
 
 
 
 
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記念館の展示が続いてきたような体験。

これは皆さん行かれるといいと思います。

しかし絶筆が池上本門寺の天井画ってとこがどこまでもかっこいいな、龍子!!

 

 

▼関連動画

龍子記念館に行けない方も、Youtube学芸員さんが解説してくれてます。このチャンネルの中の【ズバリ解説】の動画です。

www.youtube.com

 

高橋龍太郎さんてこんな人。

youtu.be

 

 

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『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社

本『The Booyoo Tree(モチモチの木:英語版)』読書記録

9月の記録。

モチモチの木の英語版が図書館の新着図書コーナーに並んでたから借りてきた。

www.iwasakishoten.co.jp



岩崎書店から9月に出たばかりのほやほや。岩崎書店の本、好きです。

本の後半に原文が絵とともに縮小されて載っているので、見比べて、「あーこの原文をこんなふうに英訳したんだな」とわかる。

訳はアーサー・ビナードさん。

「イシャサマオ、ヨバナクッチャ!」が
"I'll get the doctor!" になる。ねんねこバンテンは"warm kimono"。

だいぶ違う。雰囲気が変わる。でも伝わる。

ただ日本語を英語にしただけではなくて、英語のリズムと話の進行、絵の展開が合うようにテキストが組み込まれている。

すべてがこの英語版のために調えられているのを感じる。

そしてとにかく美しいです。
こんなに美しい絵、美しい本だったんだ!とびっくりします。

英語で読む方にたくさん届きますように。

NTLive『フォリーズ』鑑賞記録

NTLiveのアンコール上映で『フォリーズ』を観てきた記録。

www.ntlive.jp

 

www.nationaltheatre.org.uk

 

音楽を担当したスティーブン・ソンドハイム氏が2021年11月に亡くなったそう。今回のNTLiveの冒頭には、ソンドハイム氏が上演前に舞台上でインタビューに応じている様子が挿入されている。

www.bbc.com

 

1971年にブロードウェイで初演され、トニー賞最優秀楽曲賞に輝いたスティーヴン・ソンドハイム作詞作曲のミュージカル。取り壊しになるレヴュー劇場に集った往年のスターたちの姿を、現実と回想を交錯させながら描く。ドミニク・クック演出のもと、イメルダ・スタウントンやジャニー・ディー、トレイシー・ベネット、フィリップ・クワストら豪華ベテラン勢が集結。(NT Live Japan公式HPより)

 

※内容に深く触れています。未見の方はご注意ください。

今回の映像は2017年のNT公演のもの。1987年に上演されて以来、久しぶりとのこと。

NTLiveでは珍しいミュージカル。セットは大きいし、演者も多いし、衣装や着替えもあるし、生演奏だし......とにかく豪華!こういう作品は、本来はミュージカルやオペラなどをやる大きな劇場で上演されそうなのだけれど、NTでやるというのは何か意図があったんでしょうかね。

 

在りし日のショービジネスへの回顧も最初はボリューム満点、ムードたっぷりで楽しかったんけど、だんだん露出多めの衣装を着た「ショーガール」たちの、ねっとりした踊りに疲れてくる。ああ、2時間36分が長く感じられる。セクシーな女の人たちを見て、楽しんでいた劇場も、もう過去のものなんだなという実感する。彼女たちが "Weisman's Follies" (訳ではワイズマン・ガール)と呼ばれていたのも、今の感覚からするとノーサンキューと言いたくなる。

「ほんまもうそろそろええわ......」と食傷気味になってきたところで、突然舞台側から思わぬ形で流れをぶった斬られて終わるのがびっくりで、気持ちよかった。「こういうこと」を出せる勇気が、中高年には必要だと思う。みんな『フォリーズ』を観て、真似してやったらいいと思う。弱さや情けなさを出したらいいと思う。

 

老いること、若さを生きることについて、自分の人生と重ねながら観た。
2組のカップルが30年前の「ほれたはれた」を再燃させる様子は、あまりにも剥き出しで、ちょっと見てられないようなところもあった。そもそもタイトルが「Follies(愚か者)」だから、そこを見せているのではあるが。
ちょっとむせそうな感情が去ったあとには、心残りだったことや、胸につかえていたことにケリをつけるって、大事なのかもなぁという共感もわいてくる。
夫婦ってだてに時間を共にしてない、因縁の深いものらしい。やけぼっくいに火が付いたぐらいで揺るがないんだな、だから別れるのが難しいということもあるのか、なども思ったりして。
 
演出のおもしろさとしては、今の老いたかれらと、若かりし日のかれらが舞台上で交差したり、交錯しながら進んでいくところ。青春時代を過ごした場所に行くと、自分から若い日の自分が抜け出て走り回ったり、走り回っている映像がフラッシュバックするのだけど、あの感じと似ている。(そういう映像効果に感化されている可能性も大)
若い自分とのデュエットでハモったりするのもよかった。
 
昔のことだけど、昨日のことのように思い出せるあの情熱。苦さもあるけど、やっぱりあの熱が今まで自分の人生を押し進めてくれたのかもしれない。「あのとき選ばなかった道」は、選ばれなかったからこそ美しく見える。
 
「チクショウ、去年も生き延びたし、私はまだいける!」と歌う人もよかった。一人ひとりに人生があって、生きてきた30年があることが感じられて。
 
「若い」と「老いている」は何かと比較して価値づけられがちだけど、『フォリーズ』の描き方はよかった。一人の人生の若い日を今の自分として愛おしく見ていたり、若い日から未来の自分を憧れをもって見ていたり、つながっているし、同時にそこにあるという感じがよいのだろうな。
 
「取り壊される劇場に昔の仲間が集って別れを惜しむ」という設定は、『ニューシネマパラダイス』を思い出す。夢の時間は終わって、最後に現れるのは廃墟の劇場。でもそれが今の現実。「あのとき選ばなかった道」は、選ばれなかったからこそ美しく見える。
 
若き日の思い出を大切に胸にしまって、また今日を生きる。生き延びたから。
 
一つ覚えた成句は、"The Folly of Youth" で、意味は「若気の至り」。
 
 

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本『あのこは貴族』読書記録

『あのこは貴族』山内マリコ/著(集英社)を読んだ記録。 

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読み終わってポツンと涙が出た。

なんの涙だ。

年末年始でナーバスになっているからなのか。

東京と「地方」、「学歴競争」、階級社会、『ディスタンクシオン』、『香川1区』から見えてきた政治の世界もチラつく。


ああ、原作の力よ、文字でしか表せない小説の世界よ、すばらしい。

11月に映画を観て(鑑賞記録)、感想シェア会《ゆるっと話そう》もやって(レポート)、個人的にも深く影響を受けている作品。原作のイメージがかぶりそうで、ファシリテーションしづらいと考えて、あえてそのときは読まなかった。

年末年始で時間ができたので読み始めたら、一気に最後まで連れて行かれた。小説の良さを久しぶりに味わった。

 

人と人との間で「なぜ話が通じないのか」の根本的なところを突いている。SNSのエコーチェンバーという現象が、人がいかに狭い世界の中で生きているのかをあらためて教えてくれたが、みんな本当はとうに気づいている。幼い頃から、繰り返し気づかされてくる。ふるいにかけられ、態度で示され、居心地の良し悪しから勘づき......。

「世界が違う」「階層が違う」「持てるもの・持たざるもの」小さな違いをうまく組み合わせて、受容したり排除したりしながら、どうにか自分の居心地の良さを確保している者としては、身につまされる。その構造を物語にのせて、他人の人生として眺めることで、自分の人生についても少し見られるようになる。

どこに生まれて、どこで暮らしていても、生まれたときから日本以外の国だったとしても、これはかなり、どこにでも存在する構造のような気がする。そこに対する思い入れが、具体的な固有名詞「東京」や「慶應大学」や「新丸子」などで強く出てくるかどうかの違いで。

 

私自身は大学は東京ではないし、強い連帯感を持つような雰囲気のところではなかったので、大学への思い入れや「人生のサクセス」と結びついた話題になると、一歩引いてしまうところがある。そこに人を惹きつけて止まない何かがあるんだろうということはわかる。お正月に行われる箱根駅伝にも特に思い入れがなく、私以外の全員が夢中でTVを見ている場にいた時は地獄のようだった。なんてことをふと思い出したりする。けっこうずるずると辛いことも出てくる。

たとえば映画でも原作でも出てくる「お雛様」の話題。私にとってはこれが地雷だったりする。ちなみにお正月の「おせち」や「お雑煮」もけっこう地雷。のれない話題。だからこの時期は憂鬱なのである。そんなときに『あのこは貴族』を読んで余計にナーバスになったのかもしれない。一人ひとり「ぐうう」となるポイントがありそう。性別にかかわらず。

もしかしたらこの物語は、社会への告発なのかもしれないと思う部分もある。「みんな一緒」じゃないんだよ、という。多様性とかいうけど、違いを知りながら生きていくのはけっこうタフだよ、と。

 

いやしかし、これを映像にしようとして、一体どれだけの作り込みがあったんだろうと想像し、ちょっとくらくらします。ほんの数秒のカットも観客が「信じられるもの」にするために。それを生身の人間、役者さんが演じてくださることの有り難さよ。それぞれの人でなければ出せない存在感があるから。

脚本になったときに追加されたもの、採り入れられなかったものもある。話者の入れ替えや語られるタイミングのズレなども映画を観た後だから気づくが、それが読書を妨げるものではなかった。むしろその改変が映画としての魅力を高めていたと思うし、原作の偉大さも痛感させる。どちらもそれぞれの表現形式に相応しい作品として、またそのタイミングを考慮して、世に出されている。

どちらかといえば、映画のほうが出てくる人たち皆それぞれの「世界」や「事情」などが透けて見えてくるところだ。きめ細かく作り込まれている。それは映画が画面を読む必要があるからでもある。

原作のほうは、華子や美紀の心情が豊富に綴られている。映画を思い出しながら、彼女たちの内面ではこういうことが動いていたのかと想像したり、「どちらでもある自分」を発見したりする。小説には言葉で物語を彫り出していくようなところがあり、自分の内側もまた彫られて何かが形作られていく。

原作の相楽逸子さんが私は好き。そこで近松門左衛門の『心中天網島』を出してくるか!というシーンがよい。語りも熱い。それにつられて美紀も美紀らしさが出てくる。マンダリン・オリエンタルでの会話は、やはり新しい女性たちの関係を表していた。

 

原作は2016年11月30日に刊行されている。初出の「小説すばる」での連載が2015年10月からだ。そこから今までの5年、6年を思うと、なんと自分は変わったのかと思う。

そしてゆっくりではあるけれど、社会も、世の中も少しずつ変わってきている。

それが仮にある「極小のコミュニティ」の中だけのことだとしても、私自身が息がしやすくなってきたことが有難い。まずは自分を中心に考えて、これがあることがうれしい。

この物語が原作でも映画でも伝えてくれるのは、「人生には自分にはどうしようもできなかったことと、自分で選んで変えていけるよ」という力強いメッセージだと思う。

 

▼関連記事

gendai.ismedia.jp

 

 

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『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社

本『祝祭と予感』読書記録

『祝祭と予感』恩田陸/著(幻冬社)を読んだ記録。

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蜜蜂と遠雷』のスピンオフ短編小説集。

本編が二段組500ページ超えだったけれど、こちらは会話メインの一段で186ページ。短編が6本。気楽に読めた。

ナサニエルと三枝子の出会い、ホフマンと塵との出会い、コンクール課題曲《春と修羅》誕生の過程などのサイドストーリー。『蜜蜂と遠雷』の世界が再び立ち上がってくる。

映画の公開が2019年10月か。このくらい時間が経っていると、熱も引いて落ち着いて読める。実際、本編でも、コンクールの緊張から解き放たれた登場人物たちがのびのびと生きている。国を越えて縦横無尽に行き来する姿も、コロナ下の暮らしには眩しい。

 


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蜜蜂と遠雷』の単行本は、映画公開時に図書館で借りて読んだ。その後リサイクルコーナーに置かれているのを見つけて、ついレスキューしてしまった。本を開けばいつでもあの世界に飛び込めるのはうれしい。夢中で一気読みした時間が蘇る。そういえば、これを行きつけのカフェで読んでいたとき、私の後ろに座っていたお客さんも読んでいて、思わず、「今、どのへん(を読んでるん)ですか?」と声をかけてしまった。分厚い本を読んでいると勝手に「同志」という感じがしてくる。

 

コミック版も最近古本屋で見つけて読んだ。漫画にしかできない形で、あの世界観を補完してくれる。これもまたよい。1巻が出ただけで止まっている。続き、待ってます。

 

私は小さい頃にピアノを習っていたが、辛くて小学校の5年生か6年生の頃にやめてしまった。母は自分が幼少期にピアノを習いたかったのだが、家計が許さなかった。そこで自分の子たちに夢を託したわけなのだが、残念ながら私はその願いに報いることはできなかった。ごめんなさい。戦中、戦後生まれの親を持つ人は当時はそういうことよくあったと思う。

それでも実家に帰るたびにピアノに触ったりはしていたが、まだ小さい頃の苦手意識が強くて、「好き」というまでにはいかなかった。

本格的に再会したのは、2014年公開のイーサン・ホークの『シーモアさんと、大人のための人生入門』だった。やっぱりピアノっていいなぁと思った。珍しくDVDも買った。その後の、この『蜜蜂と遠雷』は音に言葉を与えてもらえて、もっとぐっと近づいていけた。

結局私は映画だの本だのから影響を受けることが多い。(ありがたい)

 

そういえば最近、小学生の頃に習っていたピアノの先生の息子さんと電話で話した。ピアノではなくバイオリンの道に進まれて、ドイツで長く活動していた。たまたま20年前にフランクフルトの空港で会ったこともあった。今は日本に戻って大学で教鞭をとっているとのこと。

音楽と楽器と人間。自分のあれこれも思い出しながら読める物語でもある。

 

  

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鑑賞対話イベントをひらいて、作品、施設、コミュニティのファンや仲間をふやしませんか?ファシリテーターのお仕事依頼,場づくり相談を承っております。

 2020年12月著書(共著)を出版しました。

『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社

本『ファシズムの教室:なぜ集団は暴走するのか』読書記録

ファシズムの教室:なぜ集団は暴走するのか』田野大輔/著(大月書店, 2020年)を読んだ記録。発売されてわりとすぐ買って読んだのだけれど、記録をつけるのが遅くなってしまった。

 

 

(帯より)

ファシズムの「魅力」とは?

ウェブ上で話題沸騰のナチスを体験する授業を通して、
ファシズムの仕組みに迫る。ナチスの大衆動員の実態から、
ヘイトスピーチなど身近な問題まで論じる、
民主主義のための新たな入門講義。

 

ナチスが行ったことを知ったときに多くの人々が抱く、「なぜ当時の人々はナチズムに染まってしまったのか、なぜ気付けなかったのか、止められなかったのか」という問いに構造や仕組みの面から答えてくれる本。

「体験学習」についてはとても慎重に扱っている。中身について紹介する前に、「なんのために行うのか」をまず第2章で抑えている。

そしていよいよ第3章。以前ウェブ記事で授業の概要について読んだことがあったが、こうやって一つひとつ「懇切丁寧に」説明されると、とても複雑な気持ちになる。

実際にこの授業を受けてみたいかと聞かれたら、私はNOだ。

とても怖い。読んでいるだけで十分だ。つまりこの本の目的は達成されている。この授業を全員が受けなくても、読者が擬似体験を通して学ぶことができているから。

体験後のデブリーフィング(被験者への説明)が何よりも大切だとして、本書でも第4章でページ数を割かれている。

 

とはいえ読みながら心配になってしまった。この授業を受けた人や、役を演じた人たちが、いくら同意しているとはいえ、心になんらかの傷を負っていないかという点。

もちろん体験授業の説明は十分に行い、学生は内容に同意して履修するし、タームの途中で離脱することも自由だ。とはいえ、学生には単位取得という目的があるから、途中離脱はしにくいのではないか、我慢してしまうのではないかと思ってしまうし、いくら同意して履修しても、いざ体験してみたら思っていたより辛かったということもあるのでは。メンタルケアが必要なレベルではないかとまで想像してしまった。実際に受講した人たちはどうだったのだろう。

 

よくコミュニケーションの講座で、「よくないコミュニケーションの例を実践して、そこから気づきを得よう」というワークが行われることがある。以前はなんとも思わず参加していたのだが、あるとき2回ほど立て続けに失敗の実践例に参加して辛くなったことがあった。それを経験してから、自分の講座ではわざわざよくない例を練習するようなことは決してするまいと決めた。

この「ファシズムの教室」の体験授業は、なんとなくあれに似ているところがある。その心理的負担の感触として。

恐ろしさを知るために実際に体験してみるという意図は理解できるが、本当に体験してみないとわからないのか、そこまでやらないといけないのか、という気持ちがわいてくる。平気な人もいるから大丈夫なのかもしれないが、このあたりがとてももやもやしている。

今はこの授業は行われていないそうなので、もう心配しなくていいのかもしれない。この本が出たことで、擬似体験できるようになってホッとしている。本で読んでいるほうが安全だから。多くの人が想像力を使って、ファシズムの「ヤバさ」を実感できるといい。

 

私たちは容易に集団心理に巻き込まれる。いや、既に巻き込まれている。知らず知らずのうちに加担している。ファシズムはいつも私たちの中にある。それに気づけるか、立ち止まれるか、踏みとどまれるか、引き返せるか、引き止められるか。

 

(本書・はじめにより引用)

ファシズムは決して抑圧的なものとは限らず、愛国心大義への献身を鼓舞しつつ、人びとを積極的な行動に駆り立てる力をもっている。そうした危険性に目を開かせることが今、求められているのである。

 

 

著者の田野さんの記事。

gendai.ismedia.jp

 

▼この本の内容に関連していると思われる本と映画。

NHK 100分de名著 ル・ボン群衆心理』

 

セルゲイ・ロズニツァ〈群衆〉ドキュメンタリー3選

国葬』『粛清裁判』『アウステルリッツ

www.imageforum.co.jp

 

 

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映画『にごりえ』鑑賞記録

映画『にごりえ

今井正監督

1953年 新世紀映画・文学座

『十三夜』『大つごもり』『にごりえ』のオムニバス形式。

 

図書館で映画のDVDを探していて見つけた。そういえば映画化されたものは観たことがなかった。

今年は神奈川近代文学館で特別展『樋口一葉展―わが詩は人のいのちとなりぬべき』を観られたこともあり、また樋口一葉については継続的に探求したいと思っているので、偶然の出会いを大切にし、借りて観ることにした。

f:id:hitotobi:20211230184200j:image

 

古い映画だから感情移入できないところもあるかもな、という前提で、あまり期待しないで観始めたら、予想を超える作品の魅力に、ぐいぐい引き込まれて一気に最後まで観てしまった。

俳優も撮影も照明も演出も美術も素晴らしい。想像していた「古い映画」ではない。スター役者は出ているがアイドル映画ではない。一人ひとりが必要不可欠という感じでそこにいる、生きている。新鮮な驚き。あの樋口一葉の物語の登場人物たちが生きている。

細かな表情や仕草、この時代を生きた人にしか出せない、描けない映像。
あの世界観を映像にしたいという熱意と愛が伝わってくる。

そうか、考えてみれば今より少なくとも70年ぶんは明治時代に近いのだ。この人たちの親や祖父母にはこの時代の名残がある。その肌感覚の違いを思う。

 

今の時代からは考えられないような家族のやり取りや、男女関係、雇用関係も出てくる。が、しかし、いや待てよ、とも思う。これって今もあるところにはあるよね。生き延びることに必死な姿。本質は変わっていないのでは、と。それはつまり家族制度の縛りであり、女性差別であり、経済格差、階級格差、貧困である。このことに根ざした物語だから、言語も含め文化や風俗が違っていても、異なる国や地域で共感を得るのではないかと思う。

 

身近な市井の人々の観察から得た血肉でできたストーリー展開、自分について綴ることで照らし、耕した感情や内面の描写力、王朝文学から受け継いだ美と詩情の質感。その合わさったところに生まれた普遍性こそが樋口一葉の文学の魅力なのだ。

 

晦日の前に『大つごもり』が観られてよかった。

この三作品が選ばれていることもよいし、この順番なのもなおさら良い。

ぜひ図書館などで探して観てみてほしい。

付録の解説書がまた良い。

 

 

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映画「毎日映画コンクール 大藤信郎賞 受賞短編アニメーション全集 5 川本喜八郎・岡本忠成」鑑賞記録

1月と3月に小学生向けの授業を担当することになり、川本喜八郎の作品を取り上げようと思い、図書館に何か資料がないかしらと探していて、このDVDを見つけた。


毎日映画コンクール 大藤信郎賞 受賞短編アニメーション全集 5

f:id:hitotobi:20211230184215j:image

毎日映画コンクールとは。

"1946年(昭和21年)、日本の映画産業の振興に寄与し、国民に映画の楽しさを広く 伝えることを目的に、毎日新聞社スポーツニッポン新聞社によって創設された国内最高峰の映画賞です。" 1946年が第1回で、2021年は第76回。戦後の日本映画を見つめてきた映画賞なのですね。

screenonline.jp

 

その毎日映画コンクールにおける《大藤信郎賞》とは、日本のアニメーションの先駆者である大藤信郎氏を称え、1962年に創設された賞。1989年にアニメーション映画賞も設けられたが、大藤賞は「実験的な作品」を対象として、アニメーション映画賞は主に長編作品を対象としているそう。

 

そういうことだったのか、とまず納得して、あらためて作品を鑑賞。

このディスクに収められているのは、以下の作品。

川本喜八郎『鬼』(1972年)

http://chirok.jp/product/content2/demon.html

川本喜八郎『詩人の生涯』(1974年)

http://chirok.jp/product/content2/shijin.html

岡本忠成『南無一病息災』(1973年)

岡本忠成『水のたね』(1975年)

 

川本の2作品は今年の4K修復版上映で観た。岡本の2作品は今回が初めて。

4話で約65分なので1話あたり15分の短編だ。

いずれの作品も生きることの現実と不条理が詩的に普遍的に描かれていて、複雑な感情が湧いてくる。予定調和はなく、展開がひとつも読めない。

私が観ていると、「何観てんの〜?」と子が寄ってきて、ひと目見るなり引き込まれていた。今見慣れているアニメーションとは違う世界があるからかもしれない。

「びっくりするし、怖い感じもあるけどつい観ちゃう」とのことだった。

たまたまYoutubeで『チコタン ぼくのおよめさん』を観たことがあるらしい。こちらは岡本忠成の作品。かなりの衝撃作だ。「あの感じがまた蘇った」と言っていた。

正確には「チコタン ぼくのおよめさん」はもともと1967年の「こどものための合唱組曲」として作詞作曲されたもので、その後、1971年に岡本忠成脚本・演出で短編映画化されている。

これらの共通しているのはやはり圧倒的に「重い」ということ(今の時代から見れば)。喜劇から悲劇への凋落、救済のない結末。当時の時代の感触が伝わってくる。高度経済成長の元で見過ごされているものの叫び、何かの権力的なものへの抵抗のように思えるが、そう考えるのは短絡的すぎるだろうか。

「生きることは素晴らしい」だけじゃない、虚しさや愚かさの面もある。それらは等価だ。

 

同じDVDの全集に、川本喜八郎の第29回大藤賞受賞作『ねむり姫またはいばら姫』(1990年)が入っていたので観てみたのだが......、

http://chirok.jp/product/content2/rose.html

これにはほんとうに度肝を抜かれた。DVDで所蔵している図書館があれば、ぜひ借りて観ていただきたい。アニメーションは子ども向けではない、一つの芸術なのだという気概が全編に込められている。

思春期の子と見るときには、解説が必要。でも見ること自体はよかったと思う。性にまつわる芸術的表現にふれることと、それについて語りあうことは大事だと私は思う。

 

ということで、授業では『鬼』が一番良さそうだということにスクールの担当者とも話て、決定した。他にも別の作家、別の表現形式の作品も考えたが、今回はまずこれでやってみようと思う。10〜12歳の人たちがどのようにこの作品を観るのか、楽しみだ。

 

 

▼オフィシャルHP

www.wowowplus.jp

 

▼4K修復にまつわる話

note.com

 

▼私の感想

hitotobi.hatenadiary.jp

 

▼2022年3月にDVD/Blu-ray発売

発売が楽しみ!

 

 

 

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展示「深堀隆介展 『金魚鉢、地球鉢。』」鑑賞記録

上野の森美術館深堀隆介展 『金魚鉢、地球鉢。』を観てきた記録。

www.kingyobachi-tokyo.jp

 

 

 
 
 
 
 
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「ほんとの金魚を閉じ込めたとしたら」と想像したときの、そこはかとない残酷さもあいまって、魅力です。

「器の中に樹脂を流し込み、絵具で金魚を描く技法(2.5D Painting)」の作品だけではなく、様々な技法やジャンルの作品があります。「"だけじゃない" 深堀隆介展」と言い換えてもよいかも。

 

上野の森美術館に関しては、フジテレビがやってる私立美術館ぐらいのイメージしかなかったのですが、こちらのインタビュー記事を読んだりして、新人の発掘や、文化芸術へのライトな橋渡しを行っている場所でもあることを知りました。

museum-start.jp

 

きのう金目鯛を買ってきて煮付けを作ったときに、金魚展のことを思い出しました。赤い魚......。

じろり。


f:id:hitotobi:20211231105714j:image

 

 

 

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