ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

映画『明日をへぐる』@シネマ・チュプキ・タバタ 鑑賞記録

映画『明日をへぐる』を観た記録。

palabra-i.co.jp

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前日『阿賀に生きる』を観て、そのときにチュプキのスタッフさんに勧められて、同時上映していたこちらの『明日をへぐる』も観た。

私はチュプキのスタッフさんの「舟之川さんに観てきただきたい!」にたいそう弱い。そして実際、観て後悔したことは一度もない。いつもお勧めありがとうございます。

 

まとまらない感想をバラバラと。

 

・久しぶりに音声ガイドを聴きながら観た。とてもよかった。特にドキュメンタリーでは、音声ガイドの存在がありがたい。見落としていたところを教えてもらえる。本来そのためにあるわけではないんだけど。一緒に観ている人(ナレーターさん)がいる。いてくれる感じもなんだかいい。

 

スティールパンの音が心地よかった。4年前に秋田の上小阿仁村に行ったことがある。マタギ発祥の地と言われるとても山深いところ。山のエネルギーにやられそうな、凄い土地だった。そのときに廃校になった学校でスティールパンのコンサートを聴いた。ポァンという音を聴くとあのときの体験を思い出す。

 

・ここでもまた、戦後高度経済成長の影響の話。最近見るもの聞くもの、いろんなことがこの時代に集中している(と個人的な印象)。木材が大量に必要になり、楮を育てて紙原料に加工して売るよりも、木を植えるほうが補償金がもらえて現金収入があった。そうして杉や檜の人工林が増え、楮を栽培する農家は減っていった。若者は集落を出てゆき、継ぐ人も減っていった。

・効率はよくない。でもその工程の中に大事なものがたくさんある。副産物がすごい。余すところもない。現金収入がないと生きていけない構造のほうがおかしいんじゃないかという気がしてくる。土佐和紙の中でも極薄の修復紙を使った作業の様子が繊細で。

 

・記録や保存もまた効率や換金の文脈じゃない。だけど、どうしても大きな力、貨幣、資本主義に巻き込まれていってしまう。それでも、この映画を通じて、「はじめて自分の記録作業は『未来のためにある』と思えるようになりました」と監督。諦めずに続けていくことで、何かにつながっていくだろうか。

 

・人工じゃない山ってどんなだろう、と想像がつかないでいたら、ちゃんと映画の中で見せてくれた。

 

・楮の木は初めて見た。赤い実がつくのもかわいい。映画の中でクローズアップされる枝が刈られまくったあとのボコボコになった切り株も愛おしいし、そこから生えてくる新芽もまた可愛らしい。これを観た12月はちょうど楮の収穫の季節。これを書いている今は楮をへぐる作業の頃。

 

・紙にお世話になって生きている身として、この貴い手仕事の文化を損なわず、循環の中にいながら、どのように自分の創作や生活を幸せに続けていけばよいのか。紙にとどまらない話ではある。「農業は産業であり文化」という言葉を最近別のところで聞いた。「産業であり、文化」。まさにそのことがこの映画に込められていた。効率だけではない、この「美」をなんとか持ち続けていけないだろうか。

 

・高知の人たちが話していると、母の出身地の中国地方の言葉にどことなく似ていて、親しみを感じる。この映画を観て、急ににしんそばが食べたくなった。祖父母との思い出の食べもの。

 

・監督や被写体となった方々の寄稿文およびインタビュー。映画の背景が詳しく書かれている。もっと知りたい人はぜひ入手されたし。

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東北大学名誉教授で森林生態学の清和研二さんの言葉が重い。戦後20年の間に山林の樹木が略奪ともいうべき規模で伐採されたことに触れ、「この、醜悪とも言うべき欲の深さはどこからくるのだろう。数十年で巨木を伐り尽くす欲の深さの起源、これを解明しない限り、地球上で人類が長く生き延びて行くのは無理であろう」と述べる。

ウルグアイ大統領のホセ・ムヒカさんも国連のスピーチで同じことを言っていた。「水不足や環境の悪化が今ある危機の原因ではない。本当の原因は私たちが目指してきた幸せの中身にある」(参考記事

 

https://kamihaku.com/

 

 

▼和紙での修理過程に「かけじく展」での表装の手順を思い出す。実際、映画に登場していた文化財修理技師の繁村周さんは本来は掛け軸の修理がメインとのこと。「『修理』と『修復』は違う」ことがパンフレットで強調されていた。覚えておこう。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

◎追記(2022.3.7)

岐阜県飛騨市では山中和紙が作られているのだそう。同じ楮だけれど、雪の上に楮をさらして天日干しにするなど工程が違う。

mainichi.jp

 

 

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 2020年12月著書(共著)を出版しました。
『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社

本『学びの本質を解きほぐす』読書記録

『学びの本質を解きほぐす』池田賢市/著(新泉社, 2021年)

 

紹介文(新泉社ウェブサイト)

www.shinsensha.com

 

1周目は買ってすぐにざっと読んだ。

半年経っての2周目は精読。  

長い時間をかけて生活の中で咀嚼しながら読んだ。ただ目で追うだけでは足らず、赤ペンで傍線を引き、書き込み、付箋に書き出しながら進めた。ここまで徹底的に「汚した」本もなかなかない。  

 

ここ半年ほど、何を見ても読んでも誰と話しても、教育はこれでいいのか、社会がこれでいいのかをテーマに話したときに、なにか伝わらないものを感じてきた。相手の話も受け取ることができない。忸怩たる思いでいたところに、人間というものへの根本的な態度を問うているこの本が、「対話の相手」として現れた。

こういう話をしたかった!と思った。

しかし著者の言葉について行くと、すぐに葛藤や痛みが出てきた。自分の生い立ち、ここまでの子育て、今の自分との対話になった。読みながら、自分が何に疑問を持ち、何を変えたいと思っているかに必死に向き合った。

2周目の読書は「汗だく」だった。

 

学校教育。そこに凝縮されている社会の構造、歴史、国家の思惑。政治、経済、産業、社会保障、生活……。

あまりに問題提起が続くと、「じゃあ具体的にどうしたらいいのか?!」と著者に問い正したくもなる。  けれど、この本においての具体は中で十分に語られている。あとは自分の本質に根ざした具体と、どうつなげて言動するか反映するか、したいか、なのだろう。  

 

「そうじゃなくて」という違和感を抱き続けたり、考え続けるには体力が必要だし、表現する言葉の試行錯誤も必要。またある時期には「俗世を離れて」内に籠って自分とじっくりと対話する時間も必要だとも学んだ。

 


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帯をつけたままでは中身を見誤るので外して撮った。 

いや、でもこの表紙イラストも違うんじゃないか。右の「男子」が左の「女子」に対して怒りをあらわにしているように見えしまう。男女が向き合うんじゃなくて、目線の先は学校とか、大人とか、社会とかなのでは。全面に描かれるべきは問われている大人なのでは。

本文中のイラストはよいものが多いのだけど、表紙はちょっと残念。

 

昨年、Readin' Writin' BOOKSTOREで刊行記念イベントがあり、3回とも参加した。

第1弾 その校則、本当に必要ですか? 不登校の原因は子どもにあるのですか?
https://readinwritin210606.peatix.com/view

第2弾 学力っていったい何? なぜ障害児には特別な教育が必要なのか?

https://readinwritin210821.peatix.com/view

第3弾 道徳教育は必要なのか? そもそも、個人の「心のもち方」を評価できるのか?
https://readinwritin211031.peatix.com/view

 

参加するだけでは足りず、同じく参加していた友人達とオンラインでアフタートークの場を持った。ありがたいことに、アフタートークがあると聞いてわざわざこのイベントに参加してくれた人もいた。

トークを聞いていて思ったこと、考えたこと、理解したこと、わからなかったこと、もやもやしたことなどを自分の日常や現場でのエピソードを交えながら共有していった。

大事なことだからじっくり考えたいのだけれど、問題提起を聴くだけで終わると苦しい。こうして開放して場に出して、行動する勇気やエネルギーを融通できると、ホッとするし、続きも考えていける。

様々な表現物とそこから起こる対話を足がかりに、1ミリでも自分が望む社会のために、動いていけたらと思う。

 

 

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映画『偶然と想像』@ル・シネマ 鑑賞記録

Bunkamura ル・シネマで映画『偶然と想像』を観た記録。

guzen-sozo.incline.life

 

youtu.be

 

評判通り、非常によかった!

 

『ドライブ・マイ・カー』、『寝ても覚めても』、『不気味なものの肌に触れる』と観てきて、濱口作品めっちゃおもしろいがちょっとしんどいとこある。持ってかれる感じあると思っていて、正直警戒して、すぐには飛びつかず、見た人の反応などをチラチラ見ていた。特に、『寝ても覚めても』がキツかった。

今回はそのあたりの緊張がいい感じにとけていて、安心して観られた。

外からは見えない、一対一の親密な関係の中での、ギリギリとした深いところのやり取りはありつつ、行きすぎない。踏みとどまる登場人物たち。これは新しい。

それで何かが薄れたりもしない。生きることは、「きれいだけどきたない」「きたないけどきれい」は変わらず、でも「現実を生きていくにはこれが必要だよね」をやってくれる。

想像を使って踏みとどまる。
偶然に力を得て勇気を発揮する。

第三の選択の模索が新鮮。

知るよしもない他人の人生を覗き見る。1話目の冒頭に現れる「あの第三者」の立ち位置で、狭い空間の中で立ち聞きしてる感覚で、観客は最後まで乗せられていく。
これが実に気持ちいい!

 

何人か、あの人に似てる!私かも!という人も思い浮かんだり。
会ったことはないのに、いかにもいそう!と思う人ばかりで。

 

会話劇で、ただただ人がしゃべっているのを聞くから、声の良い人が選ばれているのかな。耳が心地よかった。

 

この日は三連休の最終日で、満席だったので、みんなで一斉にどっと笑うのも一体感があった。映画館ならではの体験。そう、笑いが随所にある。深刻な場面もどこか可笑しい。エンディングも幸せだったし。よい後味でした。

 

演劇と映画の融合というか、なんにせよ新しい手法をさらに確立している。

客観的で冷静な観察眼を持ちつつ、人間を愛おしく描く。すごいなぁ、間違いなく、世界の映画史に名を刻む方ですね、濱口監督は。

 

女友達と二人で観に行ったので、雰囲気満点!「偶然と想像ごっこ」してみたりして。

いつものようにお茶しながら1時間がっつり感想を話しました。


ドゥ・マゴのホットチョコレート。マシュマロ入っていた。

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▼ パンフレット、気合入ってます。過去作品の解説がついているのもありがたい。
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英題は、"Wheel of Fortune and Fantasy" 

海外の人はどんなふうに観たのかしら、といくつかレビューサイトを見てみたら、多くは絶賛!「濱口がまたやってくれた!」「心の深いところが反応した」とか。

もちろんイマイチだった人もいるようで、実はこちらのコメントがおもしろい。「1話がもう全然受け付けなくて残りは見なかった」とか、「1話目、2話目は退屈だったけど、3話目はめっちゃおもしろかった」とか。

 

 

▼舞台挨拶。こぼれ話がいっぱいでよかった!

youtu.be

 

▼映画監督の想田和弘さんの一連のツイート、そう、これ!!

 

▼この記事もよかった。濱口作品をいろんな人が語るのを聞くのもおもしろい。

eiga.com

 

▼後半の質疑応答で話されていたこと。「観ると作る」「取り返しのつかないこと」について、おもしろかった。ハワード・ジョーンズも観てみたいなぁ。このイベントに参加できた人、うらやましい。

youtu.be

 

 

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映画『寝ても覚めても』鑑賞記録

2021年9月15日、映画『寝ても覚めても』鑑賞。

www.bitters.co.jp

 

youtu.be

 

2日前に『ドライブ・マイ・カー』を観て、あまりにも衝撃を受けて、やっぱり今これも見とかな!と思って、駆け込んだ。

当時のメモを頼りに感想を記録。


いやーすごかった、これも。
お能で観たいと思った。物狂い、修羅物。
魅入られる、破滅に巻き込まれる。

踏みとどまれるかどうかをずっと試されていて、結局当人たちは踏み止まれない。
当人たちにしかわからない理由で、踏み外していく。

ホラーかよ!と突っ込みたくなる場面も多々。

いやはや、あの二人、どう生きていくんだろう。

これは終わりのない呪い? それとも壮大なラブストーリー? よくある出来事?

いやーようこんなん撮るわ!

ハラハラ、ヒリヒリ、ずっと緊張しながら観ていたので、終わったときに、はああああと思わず息をついた。

怖い。人間怖い。けど、この感じ知ってる。よく知ってる。
人を裏切りながら、傷つけながら生きている自分を指さされている感覚。

『ドライブ〜』もだけど、「あなただってそうでしょう? "ある"んでしょう?」と登場人物が「こちらを向いて」言ってくるようなシーンが多々あって、その度にギョッとする。


・『ドライブ〜』へ連なる系譜がてんこ盛りなので、勝手に関連づけていくのもおもしろい。チェーホフの『三人姉妹』が出てくるけれど、『ドライブ〜』ほどの食い込みはなし。でも演劇と映画の行き来や融合はやはり濱口世界になくてはならないもののよう。

・NTLiveで観た『シラノ・ド・ベルジュラック』のテーマにも通じる。人は人の何を愛していると言えるのか、何に惹かれているのか、それは恋愛なのか、それとも執着や依存なのか。どこからがヤバくてどこまでがセーフなのか。

・冒頭の大阪・中之島国立西洋美術館での牛腸茂雄の「SELF AND OTHERS」展で、いきなりここで私は心をわしづかみにされた。とても好きな写真家なのに、なぜかいつも逃してしまい、行けないでいた展覧会。この映画で行けるとは! このチョイス。私は監督と同世代なので、感覚的に近いものを感じた。(恐れ多くも)

・車道で笑いながらキスする二人は、デヴィッド・クローネンバーグの『クラッシュ』を彷彿とさせる。

・一瞬の波にさらわれる。抗えない力が、コツコツと築き上げてきた信頼関係をいとも簡単に、決定的に破壊する。「病みたいなもの」というのか。予防とか対処とか支援とか教育とか政治とか......そういう現実的で具体的な手段のことで外側構造を支えつつも、スピリチュアリティに接続して作用する芸能や芸術、宗教などの存在もまた、人間にとって不可欠なのかもしれない、と思ったりした。こういう作品もそういうものの一つ。

・朝子の東京の友達の鈴木マヤ役の山下リオさんは、『あのこは貴族』にも出演されてましたね。美紀の地元の友達の平田里英役で。「友達」の役が上手すぎる!

東日本大震災にまつわるシーンが挿入されていて、劇場内が揺れたり、大波が映るところがあるので、トラウマ体験がある方には、見る時少し注意されたほうがいいと思います。

シネマ・チュプキ・タバタの5周年記念月で、スタッフさんの一推し映画を上映するラインナップにこの映画が入ってました。サイトに掲載されていたコメントを転載させていただきます。

【スタッフコメント】

原作&監督が好きで、夏にコートを着てエキストラ参加もした思い出の作品。 映画を語る会に緊張しながら初参加して、 どうしても納得できないシーンについて初対面の人たちに打ち明けたりもした。 (そのとき隣に座ってた人ともうじき結婚します) 人を傷つけた、傷つけられたことがあると思っている人 つまりみんなに観てほしい (暗) 

エキストラ参加しただけでこんなことが起こるんだから、主演の二人に起こったこともまぁ、あり得るよなと思ったりもして......。

 

『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』チェーホフ(光文社)

 

 

原作『寝ても覚めても柴崎友香河出書房新社

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映画『ドライブ・マイ・カー』鑑賞記録

2021年9月13日に鑑賞。『ドライブ・マイ・カー』

dmc.bitters.co.jp

 

youtu.be

すごかった。評判よりずっとすごかった。

すごすぎて、朝10時の回を観たのに、気づいたら夜になっていた。映画の世界からなかなか帰って来れなくて、一日中ぼーっとしてた。

観賞後に友達が駆けつけてくれて、カフェで1時間ばかり感想を話したので、とりあえず人心地はついていたけれど。映画の力がすごかった。

どうしてここまで吹っ飛ばされちゃったんだろうと思ったら、なるほど、わかった。これはまずはセラピーの面が浮いてくるのだな。

だから他の人と話しても、いまいちずれる感覚が湧いたり、「いやそうじゃなくて」と言いたい感じが出てくるんだろう。自分の人生で経験してきたことが詰まりすぎている。固有の体験をしている。たぶん一人ひとり違うものを観たはず。

けれど、私たちが失ったたくさんのもののことを暗い中で共有している感覚もあった。

いやはや、まずはそこがすごかった……。

カズオ・イシグロの白熱教室の冒頭で提示されていた「人はなぜ小説を書いたり読んだりするのか?」を思い出す。 わたしにとっての答えは「ある種の小説はセラピーの働きをする。傷つきと喪失が抱えられるように」。今、英語の原書で読んでいるカズオ・イシグロの"Never Let Me Go"もそうだし、村上春樹の作品もそう。

 

映画を観ているときは、小説を没頭して読んでいるときのあの緊張感や集中がずっと続く。もちろん映画を観ているときも没頭して観るんだけど、いつものとはちょっと違っていて、「あの集中は小説を読んでいるときのやつだ!」と思い当たった。

 

観終わって、友達とラストシーンについての意味を交わし合うのもおもしろかった。

 

この作品が、コロナの時代に公開されたことで、ずいぶんと助けられた人はいたんじゃないかと思う。

誰にも話したことのない、暗い、深い喪失、孤独に連れこむ、向き合わせる。見ないふりをしてきた数々の痛み。

 

蓋が開いたあと、底に残っていたのは希望。

 

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俳優にはこういうふうに、自分がかかわっている作品と日常がリンクしていくことはあるんだろうか?

わたしは、鑑賞対話の場づくりで一つの作品にかかわるとき、日常で関連するものがどんどん飛び込んでくる感覚があるけれど、似たようなことが起こるんだろうか。あまりそれに振り回されないことが大事なんだけど。

 

劇中劇が他言語で行われているところも魅力だった。この頃、『28言語で読む「星の王子さま」』を読んでいたのもあって。違う言語でも伝わるものがあったり、同じ言語でも全く伝わらなかったりする。

 

広島でコーディネートをしてくれる韓国出身の「ユアンさん」の笑顔。

韓国出身の俳優「イ・ユナ」と中国出身の俳優「ジャニス・チャン」のやり取り。韓国語、日本語、中国語の混じり合い。

俳優たちの戸惑い。

 

西島秀俊は映画『風の電話』でも車で女性と北に行く。広島から宮城まで。あのときのかれらの深い深い喪失感も重なる。

www.kazenodenwa.com

 

高槻の破滅的な人格は、ダンス・ダンス・ダンスの五反田くんを思い出す。抑えられない衝動。陰で行われる暴力。

 

 

岡田将生の演技は、TVドラマ『昭和元禄落語心中』の八雲の「死神」を彷彿とさせる。

www.nhk.or.jp

 

 

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そんなふうに、この映画から派生する作品もいくつかあった。

原作も読んだ。一度読んでいたけれど、うろ覚えなところもあり。

ああ、このお話をこんなふうに取り込んだのか、と脚本の力に驚く。

『女のいない男たち』村上春樹集英社

 

劇中劇として出てくる『ワーニャ伯父さん』。俳優で演出家である主人公の人生に、戯曲の台詞が重なってくるのが印象的だった。

『ワーニャ伯父さん』チェーホフ(光文社)

 

主人公の西島秀俊は、市川準監督の映画『トニー滝谷でナレーションをしていたのを思い出したと友達に聞き、Amazonの配信で見てみた。『トニー滝谷』も原作は村上春樹

youtu.be

 

濱口竜介監督の過去作も気になって、寝ても覚めてもを観た。感想は別途。

www.bitters.co.jp

 

 

西島秀俊さんインタビュー

www.banger.jp

 

三浦透子さんインタビュー
 
舞台挨拶
 
 
 
(追記)※内容に深く触れているので未見の方はご注意ください。
 

音は「きのうの話」を忘れたふりをずっとしてきたのかもしれない。家福に気づかせるために。

何を? 彼女の中にある暗い穴の存在を。彼女が子を失った喪失、それを本当には分かち合えないことの痛み。どうして失ったのかは明らかにされていないけれども、音のほうが遥かに傷ついていることが感じられる。あるいはもっと他にあるもの?

それでも、その暗い喪失の沼から音を救えるのは家福だけだった。家福は何の理由からか気づかないふりをして、「きのうの話」を語って聞かせるごっこをずっとやってきた。理解し合えている夫婦の芝居をしてきた。シエラザードで置き土産をする少女の話を聞かせてもみた。けれども、ダメだった。

家福が「きのうの話」を初めて「忘れた」と言ったときに、もう引き延ばせないと「今夜話がある」と切り出した。

音は、追い詰められて、死にものぐるいで助けを求めていたんだろうと私は見た。

このことはまたいろんな作品で感じることになると思うので、まとまらないけれど、置いておきます。

 

 

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展示『聖徳太子』展@サントリー美術館 鑑賞記録

サントリー美術館で『聖徳太子 日出づる処の天子』展を観た記録。

聖徳太子千四百年 御聖忌記念特別展&サントリー美術館開館60周年記念展

ちなみに英語のタイトルは、

Special Exhibition Prince Shotoku: 
In Commmemoration of his 1400th Grand Memorial

www.suntory.co.jp

 

夏のトーハクの聖徳太子法隆寺展もよかったが(鑑賞記録はこちら)、こちらも良かった。こちらは太子が建立したもう一つの有名寺院、四天王寺をフィーチャーした展覧会。

今回も思ったのは、やっぱり、とにかくみんな聖徳太子が大好き!ということ。

(この日も平日昼間にもかかわらず、たくさんの人が来場されてました)


亡くなってから1400年ずーーっと忘れずに命日を大事にしてきたり、
聖徳太子ゆかりの7つの宝物とか、
聖徳太子が着たかも知れない服の切れ端とか(ぼろぼろ)
聖徳太子が踏んだかも知れない布の切れ端とか(ぼろぼろ)
大事にとってある。

幼少期、少年期、青年期、壮年期といろんな絵姿、いろんな彫像がある。
伝記漫画(聖徳太子絵伝)も描いて、亡くなってからもガンガン推しまくった。

マリアの受胎告知さながらの誕生秘話とか、
中国の高僧の生まれ変わり説とか、
救世観音の生まれ変わり説とか、
死後につくられた伝説がいっぱい。ばんばん神格化。

いやはや、人々はなんでそんなに太子を愛したのか? 
日本史においてここまで愛されてる人いないよね?なんでだろ? 
といったあたりが、トーハクの展示に加え、今回の展示も観たことでだんだん見えてきた。

律令と宗教の両方で国づくりを目指した人。
行動力もあり、人格者でもある。
宗教家でもあり政治家でもある。
バランスがよくてパーフェクトな人。

みんな憧れと願いをかけてきたではないかと。国内だけではなく、国外、外交にも積極的に乗り出していくあたりも頼もしいし。
理想のリーダー像。
なのではないか。


6階会場で流れていたテレビ大阪制作の映像番組によると、「ここから100年くらいかけて国家としての基盤が整っていく。その国づくりを始めたのが聖徳太子」なのだそう。
性差の日本展を思い起こすと、こうして仏教や律令制が中国から入ってきたことで、最初の政治や社会の第一線からの女性の排除が始まるということかな。

百年単位の聖忌が自分の生きている時間に重なるってほんとうに稀なことだと思う。

ありがたく特別な思い。

 

▼その他鑑賞メモ

・宗派を超えて崇敬される。慈円親鸞も。比叡山でも太子信仰があった。天台宗とバッティングしない。親鸞の弟子の夢に太子が現れて、親鸞を礼拝し、「親鸞阿弥陀仏の化身」と言ったからとか。
・遠忌700年に向けて書かれたと思われる鎌倉時代聖徳太子絵伝も展示。100年ごとの記念に製作するという慣例はずっと昔からあったのか!
・「聖徳太子絵伝」を観るのに双眼鏡を持っていったらよかった。忘れた。。
・緋色が太子のトレードマーク。絵伝の中でも見つけやすい!覚えておくと今後便利かも。(何かに。きっと)
・絵伝に書かれている亡くなるまでのあれこれもすごい。「48歳のとき近江国から人魚が献上され、禍の前触れを予言」「49歳、自らの死期を悟る」「50歳死去」
・太子は中国の高僧、慧思の生まれ変わりと言われたりする。「37歳で中国の衡山に魂を飛ばして、前世に所持していた法華経を持ち帰った」という伝説もある。
・十七条憲法は、為政者や役人が守るべき道徳的規範を記したもの。意外と内容を知らなかったかも。。
四天王寺蔵の「菩薩半跏像(試みの観音)」は、年に一度、5月のみ御開帳される秘仏らしいが、なぜここに2ヶ月近くもおこかれているのか?
・太子=観音説が盛り上がって、如意輪観音を太子と同体とみなす時期もあったそう。
・そういえば太子のお墓って?大阪府太子町(奈良との県境)にあるそう。磯長廟(しながびょう)。
https://www.town.taishi.osaka.jp/kanko/rekishi_shiseki/syotokutaishi_haka.html



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聖徳太子といえばやはりこれ。原画が展示されていました。

1巻しか読んだことがなく。いつか一気読みしたい。

日出処の天子山岸涼子

 

よくある太子+2人の像《聖徳太子二王子像》

左が弟の殖栗皇子(えぐりのみこ)、右に長男の山背大兄王(やましろのおおえのおう)と言われている。


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その像にまつわる話
www.yomiuri.co.jp

 

▼キッズ向けのワークシート。子どもが雑に触ってもだいじょうぶなように厚い紙でつくってある。右下は、2021年に四天王寺で作られたばかりに今最も新しい聖徳太子像。《聖徳太子童形半跏像》「100年に一度の儀式でお披露目される特別な像」とのこと。これもまた100年後の人が見て、「100年前の太子の解釈か〜」と思うのかな。


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四天王寺といえば、お能「弱法師」の舞台!

www.the-noh.com

 

百万塔陀羅尼

ちょうど同じ頃に印刷博物館の公開レクチャーを聞いたので。奈良時代に関係あるものとして、メモ。
https://www.printing-museum.org/collection/looking/33154.php

https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kouko/hyakuman.html

 

 

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『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社

オペラ《ルル》@新宿文化センター 鑑賞記録

2021年8月28日、新宿文化センターで二期会のオペラ《ルル》を観てきた記録。

 

変革の風をごうごう感じる。わたしたちの中のルルを響かせながら観る舞台。
構造を変えていこうよ。みんなでせーのーで、で降りようよ、と思う。
余韻が冷めないままに、ついに年を越してしまった。

わたしがどうしても知りたい、人間にまつわることを教えてくれる大切な作品になった。

 

二期会の公式ページ。グルーバーへのインタビュー動画前後編がとてもよかった。

http://www.nikikai.net/lineup/lulu2020/


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ツイッターの記録より。全然まとめなおせないので、このまま掲載。

(観る前)

二期会のオペラ『ルル』楽しみ。カロリーネ・グルーバー版。ファムファタル、異質で脅威の存在としてではなく、背景にある社会構造を痛烈に批判し、ルルを人として再考してくれそうな演出?映画『軍中楽園』(2014)でモヤモヤしたところにストレートに応えてくれそうで期待。希望が見えるか?!

普段あまり観ない類のコワい音と、女性が幼い頃から性的に搾取され続けたり、人がばたばた殺されたりするようなエグい話なのに、METのストリーミングでなぜかハマってしまった。ウィリアム・ケントリッジ版。

ケントリッジ版を観た感想を話したら、友達が手塚治虫の『奇子』っぽいと言っていて、まさにそんな感じだった。本人のファム・ファタール性よりも、狂言回しのようなところがあり、奇子やルルの周りの人物の運命が変わっていく、明暗がくっきりしていくところがある。

中学生のときに切り裂きジャックについて調べていたことがあったので、気になっているという理由もある。

2021年1月にチューリヒ歌劇場の配信で観たチャイコフスキーの《スペードの女王》やメトオペラの《マーニー》も似たところがあった。「救いはないがなぜか観ちゃう」という類の。社会通念上あまりよくないこととされているものや、人には絶対見せない内にしまっている感情をこうやって芸術として表現されると、やはり魅入る。

 


(観た後)

ルル、いやーすんごかったーーーー 。舞台から強い引力が出て吸い込まれそうになる瞬間があって、両脚で踏ん張って座っていたぐらい。

2幕版だったことで、観客にとってはより自由な解釈が可能になった。三幕版も見たから顛末は知っている。顛末だけ頭の隅っこに入れつつ、新しい演出を楽しんだ。

お能を観ているようだった。舞に心情を見る。

乖離していたルルの統合された瞬間が死というのが哀しい。

 

1幕の背景パネルにはLULU、2幕1場はLUST(欲望)。なんて直接的な。でもそれを常に視界に入れながら人物たちを見ていると、滑稽で、そしてやはり哀しい。規範により抑圧されたLUSTが歪んだ形で暴力となって出てくる。どこかで見た光景。

誰も彼も、特に男たちがとにかくつらそうで、苦しそうで、勝手に破滅していくのだけれど、ああ、やっぱりこの構造は誰にとっても幸せになれないものなんだとわかる。

 

「これまでほとんど描かれることのなかったルルの出生と、彼女の内面、魂に焦点を当てようとしている」というグルーバーの演出プラン。

ケントリッジ版との比較しかできないけどやはり全然違った。ダンサーの動きと「肖像画」やマネキンの使い方が効果的。独特の音空間が心地良い。叫びのような高音を聴き続ける中に、悲しみ、憎しみ、虚しさが噴出する。人間として「理解」をすごく感じた。無数のルルへの「鎮魂」でもあった。

一つひとつの歌詞に意味があって、繊細な演技と共に発せられる声、一つひとつのフレーズにハッとさせられる。ルルはいつもほんとうのことしか話していない。それなのに周りが勝手に見たいように見、聞きたいように聞く。というか、聞いてもいない。行き来はするけれど、成立しない関係。

演出家が演者を大事にしている感じもよかった。「奔放」や「自堕落」や「狂気」は強い表現になりがちだけど、そういう眼差し(特に性的な)を受ける役はマネキンやそこから派生する映像に負わせていたから、安心して観ていた。それもあって登場人物たちが人生のある人間であることに度々気づかされた。

今回の演出は、ふだん男性中心社会に対してあまり疑問を持ったことがない、辛さを感じない(ようにしている等も含め)という観客に対しても開かれていて、見ればわかるようになっているところがとにかくすごい。分身が"雄弁に"語る様は、無意識にでも必ず印象に残っているはず。

はぁ......やっぱりオペラ、イイ......。これだけのものを一気にどーんと受け取れる時間。至福。

お客さんがオシャレで、そのまま舞台に上がれそうな方がいっぱいいた。わたしももっとオシャレしていけばよかった。。。

《ルル》を観ていて、映画『軍中楽園』のわたしのモヤリと怒り(こちらが鑑賞記録)は救済された。よかった。

わたしにとってはアニメーション映画『マロナの幻想的な物語』を思い出すところもある。巻き込まれたり、立ち会ったり、いろんな名前で呼ばれたり。出会う人が皆、何かしらの苦しさを抱えているところが。主人公を描いているようで、周りの人を描いている構図も。

ドイツ語学んできてよかったなと思った。むっちゃ細々とだけど。よかった。

打楽器がピットに入りきらず舞台横の張り出し?にズラリ。打楽器よかった。。

 

 

▼関連記事など

www.nikikai21.net

 

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チェルニアコフ版・ミュンヘン歌劇場の配信で3幕版が観られます。

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いろいろな演出

84679040.at.webry.info

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『哀しみの女たち』(NHK出版, 2021年)

第12回:さまざまな名をもつ女ルル ーヴェデキント『地霊・パンドラの箱』(一)
第13回:女と男の希望へ ーヴェデキント『地霊・パンドラの箱』(二)

 

原作戯曲『地霊・パンドラの箱』ヴェデキント/著(岩波書店

 

展示『リバーシブルな未来/宮崎学《イマドキの野生動物》/山城知佳子《リフレーミング》』@東京都写真美術館 鑑賞記録

久しぶりに東京都写真美術館に行ってきた。目的は映画『父を探して』を観ることだったので(鑑賞記録はこちら)、他の展示はやや駆け足での鑑賞になったが、それぞれに思うことがあったので、ひと言ずつ記録しておく。

 


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Reversible Destiny

https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-4027.html

時間の感覚を揺さぶられる。起こってしまった後、生まれてしまった後、知ってしまった後の事件、事故、物事、事象などの証としての写真。不可逆に変化し続ける世界で、それをどう見るのかを促してくる。いつ起こったのか、何のことなのか、どれも意味深く何かを訴えているが、私にはそれを読み取るだけの力がないため、居心地はあまりよくない。

 

 

山城知佳子《リフレーミング

https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-4023.html

チケット購入のときに、「映像作品がありますがよろしいですか?」と聞かれて、「いいです」とつい答えてしまったが、どういう種類の映像なのか、なぜ確認するのかを尋ねればよかったと思った。大きなモニターに動きが大きく早い映像、大きな音など、生理的に受け付けなかった。観たかったのだけれど、表現や展示の形式が合わず、残念だった。

そんな中でも印象の強い作品は、《あなたの声は私の喉を通った》。

戦争中の痛切な記憶を語った男性の語りに、山城の声で同じ語りが重なる。語る山城の顔におじいさんの顔が重なり、映り込みながら語りは進む。話の中身は凄惨で、私が聞いていた箇所は、自決の崖(suicide cliff)の話だった。語りながら、山城の目からは涙が流れ、洟も垂れていく。

解説には、山城が「戦争体験」をいかに継承することができるかというテーマに取り組んでおり、「声」や「語り」を通した継承のありかたについて、考察を重ねていること。「いかに他者の経験を理解し体感することが可能か、あるいはそれがいかに困難か、を顕わにした」とある。

戦争体験者の話や、語り部の話を聞くことはとても貴重な機会だが、行った、知った、感情が動いたという経験だけで果たして継承につながるのだろうかということや、何を継承するのかということについて考えていた。個人の記憶の中に留まっていてよいのだろうかということ。

忘れたくないこと、遺したいこと、共有したいことがあれば、対話の場をつくるところまでがセットなのではないかと、主に作品を鑑賞して対話する場をつくってきたが、何か足りない気がしていて、昨年、語りを聞いて、記録することに挑戦してみた。今年はそれを形にして残してみたいと思う。

たとえば、映画『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』の中で、夜間中学に通う年配の方々と一緒に沖縄戦の経験を元にしたミュージカルを作り上演するというシーンがあった。たとえばあのようなことも一つ可能性のあることだと思う。

自分の身体を通過させること、身体を使って知ること。

《あなたの声は私の喉を通った》は、一度観たら忘れられない作品で、非常にインスピレーションが湧く。思い出すことも多い。

文字起こしをしているとき、最近音声入力をするのが早くて、AIの反応が悪い時は、耳で聴きながら、流れてくる語りを自分で発声して入力していく。そういうとき、自分がその人として語っているような一体感を覚える。あの作業とすごく似ている。演じるというか、憑依するというか。人は人の話を実はちゃんと聴いていなくて、自分の言葉で勝手に要約して解釈してしまうことが多い。聴くのは難しい。そういう解釈を挟まずに、言葉が言葉のままに入ってくるような経験が擬似的にできる作品。

bunshun.jp

 

 

宮崎学《イマドキの野生動物》

https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-4025.html

動物写真でも見てほっこりしようと思って入ったら、想像していたのと全然違う世界が広がっていた。

特に驚いたのが「死」がテーマのコーナー。1月に発見された雪に埋もれたニホンジカの死体が、他の動物や鳥に食べられ、微生物に分解され、骨も残らなくなった5月ごろを経て、鳥の巣材になった体毛もなくなった8月までを撮った12枚の写真。うじまみれになったタヌキの死体。まるで九相図。

rekihaku.pref.hyogo.lg.jp

 

動物が死んだ動物を食べる。死が他の命を育んでいく。

人間は誕生のきれいないところを見て、美味しいところだけ感謝しているけれど、ほんとうはそうやって生きている。もしかしたら人間同士もそんなところがあるのかもしれない。そして命の終わりかけや、終わったあとのところは、目を背けがち。

「アニマル黙示録」のコーナーにも同じことは言える。人間の出したゴミや廃墟、野山を壊して占有した土地にも動物は入り込んで生きている。人間の勝手な都合で動物は「自然」と呼ばれたり「害獣」と呼ばれたりしているんだよな、など思い出す。

 

▼展覧会と同じながれで、日曜美術館で特集があった。とてもよかったので、オンデマンドで観られる方はぜひ。

www.nhk.jp

 

東京都写真美術館ニュース別冊「ニァイズ」128号:宮崎学(PDF)

https://topmuseum.jp/contents/extra/nya-eyes_pdf/2021_08.pdf

 

 

 

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鑑賞対話イベントをひらいて、作品、施設、コミュニティのファンや仲間をふやしませんか?ファシリテーターのお仕事依頼,場づくり相談を承っております。

 2020年に著書(共著)を出版しました。

『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社

映画『カルメン故郷に帰る』鑑賞記録

木下恵介監督の映画『カルメン故郷に帰る』を配信で観た記録。

movies.shochiku.co.jp


youtu.be

 

きっかけは翌日に木下恵介脚本、田中絹代監督の映画『恋文』を観るため。木下恵介ワールド、どんなかな?と思って予習がてら観ようと思った。

2021年早稲田大学演劇博物館で開催の《映画文化とLGBTQ+》展の、順路の最初のほうで、木下恵介と『カルメン〜』が言及されていたことが印象に残っている。

www.waseda.jp

hitotobi.hatenadiary.jp

 

木下作品を観たことがなかったので、キュレーションで示される「木下恵介クィアな視点」と言われてもあまりピンと来ていなかったのだけれど、このときになぜか『カルメン〜』の印象が強く残った。

その後訪れた国立映画アーカイブの常設展示でも『カルメン〜』のポスターに出会った。これはもう観ないとアカンやつかなと思っていたところだった。

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ようやく映画の感想。

1951年公開。松竹。
国産初の「総天然色(カラー)映画」とのことで話題だった。
1945〜1952年の日本は連合国占領下にある。

浅間山の麓、軽井沢の高原に、リリィ・カルメンこと「おきん」が帰ってくる。都会で「芸術」で成功したので故郷に錦を飾りたいと、同僚のマヤ朱美も連れてくる。

ただでさえ小さな村は人の行き来があると目立つのに、ファッションがド派手な彼女たちはあっという間に村中の注目の的になる。

父は娘を不憫に思っている。姉はリリィの味方で、芸術をやっていると信じている。村の人を楽しませようとリリィと朱美が企画するのが「裸踊り」。色めく男たち。

並行して進んでいるのが、戦争で視覚を失った元教師の田口春雄と妻とオルガンのエピソード。運送会社の社長の「丸十」に借金のかたにオルガンを巻き上げられてしまったために、小学校が持っているオルガンを弾きに/聴きに来ている。弾いているのは自作の曲。カルメンの「裸踊り」の公演騒動を経て、最終的にオルガンは田口の元に戻ってくる。

 

※内容に深く触れています。未見の方はご注意ください。

不思議な映画だ。

タイトルバックで流れる「田口春雄がつくった曲」である「わが故郷」がめちゃくちゃ暗い。深刻で陰鬱。一緒に流れている絵には楽しそうな人や行事が描かれているので、ギャップが大きい。田口の弾くオルガンに合わせて、子どもたちが踊るのだが、全然楽しそうではない。

当時は高峰秀子が歌う「カルメン故郷に帰る」がヒットしたらしいし、映画を観る際の構えとしても、ポスタービジュアルの印象で「楽しい映画なんだろうな!」と観に来た客は「あれ?」と感じる仕掛けが最初にある。

今の時代から観る映画の印象としては、圧倒的にこちらの暗さだ。それでも劇中ではこの田口春雄の曲は「芸術」と呼ばれており、小学校の校長も田口を引き立てている。

最初に「この映画のテーマはギャップや対比である」ことが示されていたのかもしれない。

全体的に村の風景は茶色い。人々の身なりも地味だ。そこに目も覚めるような派手なファッションとヘアメイクの女性二人が現れる。今から見るとレトロでカワイイし、ヴィヴィッドな色合いと、パッキリした柄は、元気が出るような、爽快な気分になる。カルメンのテーマソングと田口春雄の曲が聴覚的な対比なら、こちらは視覚的な対比だ。

リリィと朱美はストリップダンサーなのだが、「ストリッパー」という単語は出てこない。まだなかったのかもしれないし、GHQの検閲があったのかもしれない。

劇中で別の呼び方もしていない。当時の人たちにとっては、「見ればその出で立ちでわかる」という暗黙の共通理解があったのかもしれない。中盤からは「裸踊り」という表現になっている。

 

リリィと朱美が浅間山や草原地帯を背景に踊り回る様子は、ストリップの淫靡さは一切なく、むしろ健康美を感じる。踊りの最中に「裸の」牛や馬がカットインするのも心憎い演出だ。ここは思わず笑ってしまう。

「本公演」の裸踊りも謎で、二人はほとんど仏頂面といっていい表情で、淡々と踊る。実際のストリップは行わず、水着とパレオをまとって踊っているのみだが、おそらく露出の多い服装が見慣れない当時の人としては新鮮だったのだろう。客は男性がほとんどな中に、女性が二人写っていて、おにぎりを食べながらつまらなそうに見ている。(ここにも対比がある)仏頂面で淡々としていて面白味がまったくない二人の踊りを見て、男性たちが静まり返って見入っている様子は、今の時代だからかもしれないが、笑ってしまう。また、別の見方をすれば、戦時下での慰問公演も彷彿とさせる。

 

とても「芸術」とは呼べないが、リリィと朱美はそれを「芸術」と呼ぶ。彼女たちはそれを誇りにしているが、どう考えても芸術からはほど遠い。なのに丸十が走らせる宣伝カーには、「裸芸術」と書かれた横断幕がかかっている。この撮り方はリリィと朱美に対して残酷と言っていいほどだ。どういう意図なのだろうか。誰からも「芸術」が「勘違い」して受け取られているような時代、ということだったのだろうか。

リリィは父からは憐まれ、村人から馬鹿にされたり、性的な眼差しを向けられているのに、それを「小さい頃に馬に頭を蹴られた影響で」「頭が弱くなって」(ここもちょっとあとで触れたいところ)「勘違いしている」という設定のまま、誰もそのことを指摘もせず、ねじれたまま、物語は進み、終わっていく。

ここには「芸術」に対する木下恵介アイロニーが込められているのだろうか。世俗的な映画が、もしかすると芸術からはいくつも下に見られていたとしたら、その目線に対する反発のようなものを、リリィに込めたのかもしれない。田口の音楽のように何か難しげな顔をして、考え込むようなものが芸術のすべてか? 人々の心を掴み、見たいと思わせるのは芸術の本質ではないか?......とでも言いたげだが、どうだろう。評論などをちゃんと読んでいるわけではないので、私の仮説にすぎない。

 

彼女たちが憐まれたり、馬鹿にされたりしているが、あからさまに蔑まれる様子を描いていないのも、不思議なところでもある。敬遠する、嗤う、無視するなどはあっても、軽蔑する人物があまり出てこない。同時代でもっと激しい差別を受けている作品もあるので、『カルメン〜』の描き方は不思議に感じる。もしかしたら、そういったすでにある差別に対する批判を込めているのかもしれない。

憐まれたり、馬鹿にされても、リリィたちはまったくそれを受け取らない。その様子はたくましくも見えるのだけれど、同時にそんなことってあるのかな?とも思えてくる。それは、自分たちの身体が性的な眼差しを向けられていることを気づかず、理解せず、「みんなが私たちの芸術を見に来ている」という解釈をしている様子にも思う。ただ、彼女たちも一方的に馬鹿にされたり搾取されているわけではなく、「田舎の男たち」と逆に馬鹿にする態度でもいるのが、この映画のポイントだと思う。「故郷に錦を飾る」とか「父を安心させてあげる」など言っているが、けっこう「田舎」や「田舎者」を馬鹿にしていて、「あなたたちには都会の最先端のことなんてわからないでしょう」という態度をとりながら、様々な場所に乗り込んでいく。村は平穏を脅かされて騒然とするが、彼女たちはそれを楽しんで見ている。こういう構図をどう読んだらよいのか。一つに、受け取らない&差別し返すことで、彼女たちへの差別は無効化されているとも考えられるが、それだけではないものも感じる。

 

リリィの「奇抜な」行動は、父によって「田舎から出てきた頭の足りん子」というセリフやで説明されている。現代の感覚や社会通念ではあり得ないため、一瞬ギョッとする。前の時代の表現を見ているといかに当たり前に出てくることかと思う。当時の描き方はそうであっても、現代では差別に当たる。作品紹介や解説を(ネットで検索した範囲だが)見ていると、映画に出てきたそのままの言葉を使ってしまっているのが気になる。現代の視点から見ての補足が必要ではないだろうかと思う。

 

木下恵介映画の特徴として「弱い男」が描かれていることをLGBTQ+展で見たが、『カルメン〜』でもやはり弱い男性が出てくる。

田口春雄は教師だったが、出征して失明したことを理由に教師を辞めざるを得ず、一家は妻の働きで生計を立てている。借金のかたにオルガンも奪われる。周りは貧しくとも戦後の日本で新しい暮らしを始めているのに、自分だけがどこか取り残されているような悲しみを抱えている。弱い。

リリィの父・青山正一は、家出した娘が性産業に従事しているらしいことは薄々気付いていたが、それを認めることができなかったともらす。不憫には思うが、怒鳴りつけて追い出したり、勘当したりするような強い男の振る舞いができない。「裸踊り」をすると聞いても、せめて観に行かないように頼むしかできず(「娘の恥ずかしいところなんかみたくねえだ。校長さんも見ねえでくだせえ」)と泣き崩れる。「踊りたいなら踊らしてやろう」愛しているが何もできない男。丸十に文句を言いにいくが、「みんなあいつの裸を見て笑いにくるんだ」とどこかズレている。ここにもねじれというか悲哀がある。

笠智衆演じる小学校の校長は、「100円とって裸踊りを見せるのは教育者としてやめてもらいたい」が、「踊りたいのをやめさせるのは人権の蹂躙だ」(戦後突如現れた「人権」のこの馴染まない感じ!)など自分の意見が揺らぎやすい人で、権威が薄い。この正一と校長のやり取りは笑ってしまう。笠智衆は小津映画の印象が強いから、このコミカルな役が珍しいのもあって、余計に笑ってしまう。

結局、校長と正一と何人かの男たちは、「裸踊りは観に行かずに自宅で酒を飲む」という選択をする。男たちが弱さや情けなさ、つらさをきっかけに連帯する図は新鮮に写る。少なくともわたしの知っている1950年代の日本のイメージにはなかった。

 

この物語の中で新鮮な女性の像としてあるのが、リリィの姉・青山ゆきだ。リリィを理解し応援する「アライ」的な存在としている。リリィの服を借りて運動会に来て行ったり、リリィが裸踊りをすると聞いても眉をひそめたりすることがない。それはそれでリリィがやりたいならやればいいじゃないかという感じ。父親のリリィに対する思いには共感するが、ゆき自身はリリィを恥ずかしく思ったりはしていないように見える。普通、家族の誰かが狭い村のコミュニティの中で、そこまで目立つ行動をしようものなら、今後どんな白い目で見られるかわからないと思いそうなのに。ゆきというキャラクターはどういう意図で描かれていたのだろう。

 

最後は田口春雄の元にオルガンが戻り、例の陰鬱な音楽が中断され、呑気なブギウビで終わる。こちらはいろいろかき乱されてぼんやりしている。非常に複雑な観賞後。

非常に語るポイントの多い映画だった。有名な作品なのでまたどこかで出会うと思う。

 

この予習の後に見た田中絹代監督の映画特集でもいろいろな発見があった。

1950年代〜1960年代の日本映画、やはりおもしろい。

 

(追記)

さらに穿った見方。「女性が元気だと場が活気づく」という方向で「活躍を期待」されるが、「やることの中身」に対しては蔑みがある……そんな構図にも見えてくる。

 

映画とは関係あるようなないような話だが、おもしろかった。

bunshun.jp

 

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新宿山ノ手七福神めぐり

あけましておめでとうございます。

あまり季節感のない、主に日々の鑑賞記録を書きつけたブログですが、今年もどうぞよろしくお願いします。


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今年も帰省が叶わなかったので、元旦から新宿山ノ手七福神めぐりをしました。
御朱印をいただきながら、七福神にゆかりのある神社やお寺をルートに沿ってめぐります。

今回は、新宿御苑前東新宿〜若松河田〜牛込柳町〜神楽坂に抜けていくルートで、約2時間かかりました。

ぜんぶ歩こうと思っていましたが、あまりの寒さにいつもより疲れるのが早く、若松町牛込柳町牛込柳町牛込神楽坂は地下鉄に乗りました。

近所のお寺のメダカの水槽も凍っていました。メダカごと凍っちゃうんじゃないかと心配になるほどの寒さでした。

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新宿区も、牛込のあたりまで来るとだんだんと土地勘が出てくるのですが、その前まではさっぱりわかりません。「新宿区ってこうなってたんか!」と発見があって楽しいです。

新宿7丁目まであるんだとか、新宿と聞いて想像する繁華街のエリアはごくわずかで、すぐに住宅地なんだなとか、幹線道路はこう走ってるのかとか(車に乗らないから全然わからない)。

 

犬公方、徳川綱吉。10万匹はやばいですね。一箇所に集めたら犬が子を生みまくって増える一方? 大変だったのでは。


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若松町の駅の上に現れた瀟洒な洋館。旧小笠原伯爵邸とのこと。

今はスペインレストランが入っているそう。

www.ogasawaratei.com


小笠原長幹(ながよし)。小倉藩藩主の長男。もともとここは小倉藩下屋敷があり、その家督を引き継いで、スペイン風の邸宅を建てたのだそう。


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2020年は谷中七福神
2021年は下谷七福神
2022年は新宿山ノ手七福神

東京の七福神、思ったよりたくさんありますね。来年はどこをめぐろうかな。

▼東京の七福神巡り 2022年におすすめ27選
https://iwalkedblog.com/?p=4744

お正月期間だけでなく、通年で御朱印がいただける社寺もあるので、暖かくなってきたら散歩がてら歩いてみてもいいかも。

見慣れた東京の街も、歩いたり、自転車に乗ったり、バスに乗ったりしていると

 

寒くてヘトヘト。熱いお風呂に入って早めに寝てすっきりした元旦でした。
来年は実家に帰れますように。 

展示『小林清親【増補】サプリメント』展 @練馬区立美術館 鑑賞記録

練馬区立美術館の『小林清親【増補】サプリメント』展を観た記録。

www.neribun.or.jp

www.fashion-press.net

 

最後の浮世絵師と呼ばれた小林清親

2015年の小林清親展を機に寄贈等で新規に収蔵した作品、遺品を【増補】として公開している。

下図や写生帖、肉筆画が多くて、戯画、戦争画など、私は初めて見るものばかり。

・ゆるっとした絵は漫画、図案、デザインにも通じるものがある。

・戦争がは取材せず、参考図もなく描かれているそうだけれど、その割にはめちゃくちゃくズレてはいないように見える。どうやって描いたんだろう。写真を見たんだろうか。

・もう一人の「最後の浮世絵師」月岡芳年も真っ青の迫力の物語画。

・ポスタービジュアルにもなっているアラビアンナイトの模写。1883年(明治16年)に刊行された『全世界一大奇書』というアラビアンナイトの訳本の挿絵を清親がしているらしい。こちらも見たい。

・写生帖と錦絵の下図が並べて展示されていたのもよかった。写生帖で描いた要素を分解したり、他と組み合わせたり、昼夜・天候を入れ替えたりして下図が描かれているのがよくわかる。写生帖と下図だけでも十分に「作品」としてすばらしい。

江戸から明治へと変わりゆく東京の風景や事件など、ジャーナリスティックななまなざしの作品を多く観てきて、それが「清親風」と自分の中でイメージがついていたので、今回の展示は意外の連続だった。

下の階ワンフロアだけの展示だけど非常に満足。

逆にこのくらいコンパクトに、クイックに見られる展示があってもいいよね。
しかも無料。太っ腹!

寒い日に春の桜などの暖かい季節の絵を見るのは、思いがけず穏やかな気持ちになれた。

 

練馬区立美術館のtwitterで見どころをツイートしてくれています。

 

 

 

 

 

 

 

2015年のときの図録/書籍

 

きのう練馬区立美術館で観たようなものも載っていたので、おさらい。

もともと一箱古本市に出してみたら人気ですぐ売れてしまい、急に惜しくなって自分用に買いなおして今、手元にある。
何をやっとんねん、ということが一箱古本市ではよく起こる。起こるんだよ……たぶん。

 

太田記念美術館のnote記事。なるほど!な視点。

 


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 2020年12月著書(共著)を出版しました。

『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社

パリ・オペラ座バレエ・シネマ『シンデレラ』@新宿ピカデリー 鑑賞記録

パリ・オペラ座のバレエ公演を映画館で見られる番組で、『シンデレラ』(2018年)を観てきた。映画館で観られるバレエ公演。カメラは固定ではなく、左右の寄りと引きで見どころを示してくれる&迫力なのでバレエ未経験者でも楽しめる。

www.culture-ville.jp

 

youtu.be

 

METライブビューイングやロイヤルオペラハウス シネマが解説やインタビューなどに力を入れて上映してくれるのに対して、パリ・オペラ座の番組はただ舞台を流しているだけで、そこが物足りなかった。予習なくてもだいたい教えてくれるんだろうなと決め込んで行ったのもよくなかったかもしれないが。

全体としては久しぶりにバレエ番組を見たのもあったし、ハッピーエンドがわかっているお話なので、きらびやかななバレエの世界は楽しかった。コミカル多めのロマンティック、キラキラ、この時期ピッタリの華やかさかなと。

ダンス自体、身体の動きや表現のバリエーションが多くて、これも初心者が楽しめるポイントかも。群舞もよい。四季を表していたところなど。

エトワール、カール・パケットの引退公演とあって、客席の熱気も半端なく伝わってきた。登場と同時に割れんばかりの拍手。映画スターの役は彼にぴったりだった。ちょっとデビッド・ボウイを彷彿とさせるところがある。

自分を救い出してくれる王子様ではなく対等な俳優同士の出合い。腐らず諦めず、チャンスが来たらつかみ、自分の仕事で自立する女性の像は爽快。

鉄とガラスのアールヌーヴォー風の美術は、『ディリリとパリの時間旅行』を思い出して、あの時代のゴージャスな雰囲気を感じた。

 

ただ、もやっとするところも多々。

・全体的にシンデレラの本来のお話と、演出として入れた1930年代のハリウッドでプロデューサーをきっかけにデビューし、映画スター(王子)と結ばれるという設定が噛み合わない。挿入されるたくさんの映画へのオマージュの小ネタもバラバラしていて唐突で、わかる人にしかわからない(だから冒頭に解説入れてほしかったな)。「どうして12時のタイムリミットがあるのか」「どうしてスターはシンデレラを探すのか」が飲み込めないつくりになってしまっている。

せめて、スターとシンデレラの間には、個人的なロマンスがもう少し見えたらよかったのにな。

・お姉さん二人の「コミカルさ」にはちょっと笑えない域までいっていた。動きやヘア・メイクなども誇張されていて、しんどいときがある。「良い子のシンデレラをいじめるお姉さんや継母さんはいかにもいじわるそうな体だし、悪く描いてもいいんだ」というのがこれまでだったんだけど、確かに酷いんだけど、今やそうそう勧善懲悪にはのれないよね......というところがある。源氏物語に出てくる近江の君みたいな感じ。「みっともない」「ヤバイ」人として描かれた女性を見るのもややしんどい感じがある。実夫?はアルコール依存症にも見えて、家庭内の不健全さ、機能不全な様子が際立つ。強権的な母に乗っ取られる家庭、無力な父......微妙に現代的な要素が入っている。

・一歩館の外に出ると巨大なピンナップガールのネオンサイン。付け鼻に牛乳瓶底メガネ、劇中劇の『キングコング』(未開の地、女性のいけにえ)、中国風のファッションにアヘン吸引......ちょっとステレオタイプだったり、文化への敬意に欠けているとこあるか?

・シンデレラはハリウッドでの俳優の仕事をゲットして(契約書らしきものにサインするシーンがある)、王子様にリフトされて、まるで『タイタニック』の二人みたい。王子様がかなり踏み台にされている印象があって残念。引退公演なのにこれでいいのか。

・私は気づいていなかったが、「映画界でプロデューサーに手引きされて俳優としてデビューするって、2017年のワインスタインへの告発と#MeToo運動が興った直後にこれをやるのはちょっと受け入れられない」という感想を聞いて、なるほどと思った。

森英恵の衣装は正直なところ......ウーン。新しさを感じないもの、奇抜さに驚いたもの、ダンサーに似合っていないもの、ステレオタイプすぎるもの......とあまりいいことが書けない。唯一、シンデレラの灰かぶり時代のグレーのドレスは素敵だった。切り返しのデザインと素材の質感がよかった。同じグレーでも微妙な違いがあり、品がありました。着てみたくなる。うしろで結わえてる腰紐がアッという変化を見せるのも楽しい。

 

 

ちょうどこんな記事を見たところでした。『灰かぶりのための3個のハシバミの実』は、ドイツでカルト人気を誇るクリスマス映画なのだそうです。「王子を全く頼らない自立したシンデレラ」っていうところが気になる。

young-germany.jp

 

新宿ピカデリーからDUGへ、1時間ガッツリ話すいつものコースでモヤモヤもいっぱい話した。鑑賞仲間、ありがたし。


f:id:hitotobi:20220107122423j:image

 

 

本『選挙活動、ビラ配りからやってみた。「香川1区」密着日記』読書記録

本『選挙活動、ビラ配りからやってみた。「香川1区」密着日記』和田靜香/著(左右社)

 

映画『香川1区』を観たあと、本屋に寄って帰り、一気に読んだ。

和田さんの選挙日記はnoteで毎日読んでいたし、小川淳也さんの青空対話集会もインスタライブもぜんぶ追いかけていたけれど、こうして一冊の本になることで、何度でもあのときのエネルギーに触れられるのはとてもありがたい。

もちろんそのまま本になったけではない。加筆修正されているし、写真も増えているし、なにより本としての編集が入って、意味づけが加わっている。

「あれはなんだったのか?」に一人ひとりが読みながら考えられるようになっている。

取り組むと決めるから対話を欲するし、対話するから共に作りたくなる。

和田さんは「これは民主主義の記録だ」とおっしゃっていた。そう思う。私達がまだ見たことのなかった民主主義の一つの形。

 

 

▼選挙日記の元はここでも読めます。本は大幅に加筆されています。

note.com

 

▼和田さんの前作。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

▼『香川1区』初日初回に観たけれど、まだ感想が書けない。(あら、なんとなくビジュアルが『水俣曼荼羅』と似てんな......。)

www.kagawa1ku.com

 

 

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鑑賞対話イベントをひらいて、作品、施設、コミュニティのファンや仲間をふやしませんか?ファシリテーターのお仕事依頼,場づくり相談を承っております。

 2020年12月著書(共著)を出版しました。

『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社

NTLive『スカイライト』@シネリーブル池袋 鑑賞記録

NTLiveのアンコール上映で『スカイライト』を観てきた記録。2021年9月。

 

youtu.be

 

デヴィッド・ヘアー作、スティーブン・ダルドリー演出の3人芝居。
主演:ビル・ナイキャリー・マリガン、美術:ボブ・クロウリー

2014年 ウィンダムズ劇場での公演を収録。こんな劇場→https://www.wyndhamstheatre.co.uk/

1996年以来の再演で、当時もビル・ナイが主演だったので、どうしてもビル・ナイでいきたいとのことだったらしい。また、NTLiveで収録・配信するのが再演の条件だったとも、幕間のインタビューでデヴィッド・ヘアが言っていた。

 

以下、まとまらない感想をつらつらと。
 
※内容に深く触れています。未見の方はご注意ください。
 
すごい舞台で、忘れがたい鑑賞体験になった。
NTLiveのラインナップの中でも5本の指に入るぐらい好き。
ちなみに他に好きなのは、『リチャードII世』、『ハンサード』、『戦火の馬』、『リーマン・トリロジー』、『フリーバッグ』、『ジェーン・エア』......あれ、5本じゃ全然足りなかった!
 
先に観た友人たちの話では、トム(ビル・ナイ)とキーラ(キャリー・マリガン)の歳の差がありすぎて、ちょっと感情移入しづらいとのことだった。確かに観てみると、キーラのほうはいいんだけど、トムがやや歳くいすぎてる感が否めない。スレンダーなので、余計に老いて貧相に見えてしまう。エネルギッシュな成り上がり実業家の役所なのだけど。
でもそこはお能の鑑賞で培った「見立て力」を発揮して、なんとか脳内修正して観ていた。(お能では高齢の恰幅のいい男性の能楽師が、「儚い雰囲気をまとった若い女性」を演じることが当たり前だったり、「作り物」と呼ばれるシンプルな舞台装置で、ほとんど竹で組んだ枠を持ってきて「家」や「舟」と見立てたりするので。)
とはいえ、俳優は観客が物語を信じられるための入口なので、キャスティングは大事だと思う。
 
3人芝居だが舞台上にいるのは常に2人だけ。トムの息子・エドワードとキーラ、キーラとトムのどちらか。凄まじい会話の応酬で物語が進んでいく。これをセリフとして記憶し演技をつけながら出力できる俳優って本当にすごいと思う。
演出のスティーブン・ダルドリーは、『リトル・ダンサー』や『めぐりあう時間たち』、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』の映画監督でありプロデューサー。彼らしい繊細で微妙な関係性の浮かび上がらせ方。うまい。
 
イギリスの階級と経済格差、伝統的家族システムと、マチズモの解体、フェミニズム
『ドライブ・マイ・カー』に見た「深い喪失と底を打ったあとの回復の過程」なども重なる。年齢差が目についたトムも、ここでは老生に入った男性であることに意味が見出せる。
1996年の初演当時のイギリスの社会風潮と文化背景が強い影響を与えているが、2022年の日本にも言える内容だ。幕間のインタビューでデヴィッド・ヘアは、「社会にとって大切なのは企業家。医者、看護師、教師を大切にしていない。政権が変わっても同じだ」
その企業家の象徴がトムで、教師の象徴がキーラ。
 
スクリーン中の観客のウケ方を見ると、格差社会に対する皮肉を好んでいるように感じられる。NTLiveでは「なぜそこで笑う?」「笑いのツボがようわからん」と思うことが多いが、今回は、「いやそこで笑ったらレイシストだろ」というようなシーンで笑いが起きていたので、やっぱり異文化だし、理解できない領域があるなと感じる。NTLiveは観客の反応が舞台進行中にダイレクトに伝わるので、オペラやバレエのライブビューイングとはまた違う発見がある。
 
並行してパスタ料理が進むのも時間の流れ方としておもしろい。食べ物の中でも、舞台の上で少しずつ進行していく。コンロが置かれて、ほんとうに調理している。火を使っている。パスタを茹でたり、玉ねぎを炒めたり、トマトソースを煮込んだり、パルメザンチーズをすり下ろしたりしている。でも会話に夢中で触らない時間もあって、焦げつくんじゃないかと心配になる。それも含めてライブ感がある。
 
 「個人的なことは社会的なこと」「政治が人を分断する」という点では、『ハンサード』の双子みたいな作品かもしれない。 自分の過去の傷を修復してもらったような感覚もある。自分の意志で選んでいるから人生なのだけれど、それもこうして客観的に眺めてみると、社会背景や時代背景に翻弄されて選ばされている面がある。そういう宿命にあっても、足かいて、どれだけ自分として生きて抜けるかということなのかな。個人は小さいけれど。命は大きい。
 
『スカイライト』で資本主義が食らわしてきた分断の図って、『ノマドランド』にもたくさん出てきた。 特に主人公がお姉ちゃんの家に立ち寄るシーン。細かいセリフは忘れたけれど、姉や義兄やその友人たちとの世界の違い、見え方の違いに愕然としたり、「あなたはいいよね」と言われたりする。それぞれの切実さがある。ある一時期近くにいた関係でも、どうしても理解しあうのが難しいことがある。
 
昨年夏頃のNTLiveのTwitterでこの作品は人気1位に挙がっていた。私も好きだしいい作品だと思うけど、これが選ばれるのはちょっと意外な気もしている。人によって「いいと思う」理由は少しずつ違いそうで、一つひとつ聞いてみたくなる。
 
 
ああ、書いても書いても感想書きたりないな!!
順を追って、印象的だったシーンについてまだ書きます。
※ほんとうにまだ見てない人が読んでしまうとつまらないと思うのでご注意ください。
 
・トムの息子のエドワード、キーラに会いにくる。ギャップイヤーで高校を卒業して、大学に入るまでスタジアムでソーセージを販売するアルバイトをしている。母が亡くなって父を心配して、キーラに「会ってほしい」と頼みにきている。エドワードのトムに対する愛情が泣ける。愛しているが、同時に軽蔑もしている。「親父は職場の人に自分のことを尊敬させたがるらしい」。話しぶりからキーラが姉のような、おばのような、年上の友人のような存在だったことがわかる。会話の端端に共に過ごした幸福な時間を感じさせる。
エドワードにはトムが「おやじは気持ちを語るとか絶対にできない」、でも、「全部表に出さないと大きな代償を支払うことになる(感情を抑え込むとあとでツケがくる)」と理解していて、それを忠言する。しかしトムは怒りをぶつけることはするが、受け取れない。エドワードからの又聞きの状態だが、自分が庇護してきた息子に言われたくないのだろう。息子が自分を超えていくこともまだ受け入れられないように見える。
エドワードはキーラと暮らしていた頃の3年前より成長していて、自分で考え、自分の思いをキーラに伝えるために、一人でキーラに会いに来ることもできる。成長している。エドワードにより過去の扉が開く。同じ夜にエドワードとトムが別々に訪ねてくる。3年会わなかったのに、突然動き出す時間。起こるときには一気に起こるのが人生か。エドワードはキーラとトムとの間に何があったか知らない。キーラを慕っていて、キーラもまたエドワードには家族の情愛を抱いている。
・キーラの今の住まいと地区の様子やキーラの職場での様子を聞き、自分が恵まれている社会階層にいることをあらためて知る。そしてその違いに正直に驚いたり、羨ましがったり、そういう自分が「お坊ちゃん」として見られていることの恥ずかしさや苛立ちも持っている。ごく健全な10代の若者。
エドワードの「(お父さんの世界で)恋しいものは?」と聞いて、「ちゃんとした朝食」と答えたキーラ。(エドワードは、2幕の終わりにその願いを叶える。キーラの家を出てから、この朝食を運んでくるためにアレンジしたエドワードの行動。トムとの山のような会話をする中で「言葉じゃなくて行動」を叫び続けたキーラに対し、エドワードがそっと示した「行動」は、キーラがほしかったものだ。見栄からではなく、組み敷くためではなく、ただ相手のために動くこと。トムとキーラの「違いを埋められなかった男女関係」よりも、キーラとエドワードの「血のつながっていない家族間の温かな関係」が希望として、朝の光の中でそっと描かれる。これもSkylight。)
エドワードが去った後にトムがやってくる。男が語る仕事の話、仕事の愚痴、聞いてられないが、笑って聞いてあげるキーラ。苛立ちが次第にキーラに向く。「自分の狭い世界に閉じこもっている」ようなことを言ってくる。キーラは「売られた喧嘩」を買う。調理しながら会話のバトルの応酬。母が3歳で亡くなり、父とうまくいかず、家を出るチャンスを探していた18歳のキーラに居場所を与えたアリスとトム。
・キーラはトムとの関係を「純粋な愛」や「お互いの信頼だけで成り立つ愛」や「3人でいることが幸せだった」と6年の不倫関係を形容する。ここはかなり自分勝手でアリスの気持ちは完全に軽視されている。ぐつぐつ煮えてくる音がよい効果を出している。「煮詰まってくる」。
・晩年のアリスにとっては斜めの天窓から見える風景がすべて。スカイライトを見ていた。「スピリチュアルな世界。私が嫌いな"自分は感受性が強い人間"がしたがる主張だ」。亡くなった妻の悪口をかつての不倫相手に話す。ここはアリスの立場に立つとしんどいし、キーラはどう受け止めているのだろうと気になってくる。同じことが運転手のフランクへの態度にも見える。他者に対する態度に不信感を覚えるやり取り。
・キーラ、「あなたへの八つ当たりがあの子(エドワード)を苦しめてる。あの子はあなたの痛みに気づいていた。父親が必要。雑に当たったらかわいそうよ」と。これをきっかけにトムから溢れ出る怒り、言えなかった本当の思いを出せば出すほど明らかになる二人の決定的な違い。この老いた男が怒りと悲しみを爆発させている様に意味を感じながら見ていた。トムは『マチズモをけずりとれ』(武田砂鉄/著)を読むといいのでは。
・二人は抱き合う。2幕。一夜明けて途中だったパスタを食べながら、会話が再開する。今度はキーラの仕事についての話が始まる。1幕はトムの仕事についての話で対照的。1幕ではトムの愚痴をキーラは微笑みながら聞いてあげていたが、2幕ではキーラの問題意識をトムは終始興味がなさそうに受け答えし、茶化す。キーラの勤める学校は、低所得者層や移民が多いことが会話の中からわかる。次第に苛立つトム。「こんなところに(トムの差別と偏見)いるべきじゃない」と説教がはじまる。
・上層階級出身のキーラが手応えのある人生や意義ある仕事のために「降りて」、庶民階級出身のトムが成功や社会的地位を目指して「上がった」図になっている。そこに女性差別や年齢差別が絡まって、トムのキーラに対する態度や、キーラのトムに対する態度がつくられていく。
・「今の暮らしをはじめてから価値観が変わった。あなたは私の決断を尊重しなければならない」とキーラ。たくましさと同時に、こういうときの人にありがちな少し恍惚とした表情に危うさも感じる。キーラが自分の埋められない心の穴を、あえて過酷な住環境や(「高速道路沿いの」たぶんうるさい、「倉庫のような家」はすごく寒そう)、教師の職で埋めているのか、観客には判断できない。ただ成り行きを見守っている。
・「人を見下しちゃだめ」と今度はキーラが説教するのに、トムも反撃していく。「他は抜け出そうと必死なのに、わざわざ選んで住んで悲惨な地区に住んでいるのはきみだけ」「彼らを愛するのは一人に向き合わなくて済むからだ」社会構造に関心をもって動きはじめたパートナーに水をさしたり妨害しようとするってあるあるだなと思いながら見ている。NPOで働いたり、社会運動をしている女性に対して、あるいは一人で暮らしている女性に対して、世間がよく投げかけるものでもある。こういう、親密な間柄でしか出てこないようなやり取りがこの脚本のすごいところ。 「Female?」からはじまる一連の「演説」は腹が立ったときにスクリプトを何度も読み返したい。
・とことんすれ違う様子が延々と展開される。特徴としてはトムは「君は」で、キーラは「私は」について言っている。トムの糾弾には「自分を必要としていてほしい、自分より輝いていて確かな人を見て焦っている、自分より弱い立場を見つけて自分の生存を確認したい、さみしい、帰ってきて欲しい」という思いがほとんど絶叫のような形で出されるが、言葉は裏腹。言えないのがトムの弱さ。なぜならトムには罪悪感があるから。最初から詫びることができればよかったのに、即座にできなかった。トムはキーラの手紙を使って、自分の口でアリスに言わなくていいように仕向けた。それが不注意ではなく故意だったことが
・愛とは、執着や依存でできているのだろうか。キーラも途中まではそうだったが、トムの裏切りにより離脱した。「今も愛しているけれど、もう信頼できない」というのは、わかるなぁ。友人同士でもよくあることかも。人間関係のすべてで起こることかも。
・あらためて最後にエドワードが友達に頼んでリッツホテルの朝食を届けてくれるシーンは沁みる。氷つきのバター皿、香り付きのナプキン。「ただの朝ごはんだってば」とエドワード。いい子!次世代の希望をここで感じる!キーラは自分の仕事の話をする。自分に言い聞かせるように、エドワードの前で宣言するように。
 
ああ、こうしてまた振り返ると、舞台を観たくなる!
今度は違うキャストで観てみたい。ぜひ日本でも再演してほしい。
 
 
脚本を読みたくなる作品。友達に教えてもらってKindleで購入してみた。
キーラの演説のようなくだり「あなたのいう成功って何?」「助言はいいから、私たちと一緒にやってみなさいよ。時間と労力を捧げる気はないなら引っ込んでなさい」で、客席が一瞬静まって(スクリーンの中で)、その後大きな拍手が起きてた。

 

この記事よかった。

note.com

 

キャリー・マリガンの演技、とてもよかった。映画『わたしを離さないで』『未来を花束にして』『華麗なるギャツビー』『プロミシング・ヤング・ウーマン』など、観たい映画にたくさん出てらっしゃる!がしがし観ていきたい!!

pyw-movie.com

 

ビル・ナイは、映画『MINAMATA』に出演している。LIFE誌の編集長役。インタビューで「演じる上で難しかったのは?」と聞かれ、「アメリカ人の役を演ること」と答えていて笑ってしまった。

youtu.be

 

『スカイライト』を観たあとに関係ありそうな気がして、ブレイディみかこさんの『子どもたちの階級闘争 : ブロークン・ブリテンの無料託児所から』を読んだら、やはりそうだった。キーラの勤めていた「底辺校」と社会背景などが理解できる。

hitotobi.hatenadiary.jp

 
『ハンサード』もよかった。
 
 
主演二人のインタビュー。アメリカの番組のよう。
 
 
日本でも2018年に新国立劇場で上演されていたらしい。ああ、今やっていたら絶対観に行くのに!舞台ってほんと一期一会、「出会いのもの」だなぁ。キーラは宮崎あおい蒼井優がいいなと思っていたので、このキャスティングは当たったみたいでうれしい。
 

spice.eplus.jp

 

戯曲『スカイライト』日本語でフルテキスト読める。図書館でぜひ。

『悲劇喜劇 2019年1月号』(早川書房

 
 
 
 

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 2020年12月著書(共著)を出版しました。

『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社

 

映画『東京自転車節』@オンライン配信 鑑賞記録

オンライン配信イベントで映画『東京自転車節』を観た記録。2021年9月3日。

tokyo-jitensya-bushi.com

 

ネット配信ではなく、リアルタイム配信のイベント。

手持ちカメラやGoProでの撮影がめちゃくちゃ揺れるので、映画館で観ていたら多分画面酔いして気持ち悪くなっていたと思う。明るい中で音量調整しながらPCの小さな画面で観られるのもよかった。オンライン配信、ありがたかった!

最初は他の人たちと一緒にわいわい観ている感じがして楽しかったが、わりと早い段階で笑えなくなり、コメント欄をオフにした。

映し出されている姿に考え込んでしまった。

 

※内容に深く触れていますので、未見の方はご注意ください。

 

今記憶に残っている印象的なことは2つ。

 

1つめは、奨学金のこと。

監督は大学の奨学金を返さねばならない借金として抱えている。大学卒業と同時に借金を負わされている。しかしコロナの直前にしていたのは、非正規雇用の仕事だ。そしてこの映画の中では東京に「出稼ぎ」に来て、Uber eatsの仕事をしている。借金を抱えてまで通った大学は、彼の社会的身分を安定化するようには働かなかった。それでも無情にもかかってくる催促の電話。返済どころか生活費も底をつくという状況なのに。

それは彼が奨学金(という名の借金)を定期的に支払えるだけの収入を得られる仕事についていないからとも言えるし、彼がそれを選択しなかったからなのかもしれないが、だから仕方がないということではなくて、つまり、「そもそも大学に行くために500万円も学費がかかるのはなぜなんだ」「どうして若者に丸のせしているのか」「そういう仕組みになっているんだ」ということだ。監督の場合は20年に分割して返済しようとしていて、利子がついて700万円という状態になっている。しかし全く返済できていない。

私たちの社会は、学びたい人が学ぶことを応援できない。「学ぶことも自己責任」になっている。あるいは、「生まれ育った家庭の経済的環境によって得られる・得られないが決まる」とも言える。

今や半数の学生が奨学金を受給している。
https://www.jili.or.jp/lifeplan/lifeevent/761.html

学費が払えないから奨学金を得て、そして学んで卒業しているのに、思うように収入が得られない若者がいる。こんなことでいいわけがない。こんなシステムをいつまで継続するのか、支持するのか。

参考図書『経済的徴兵制をぶっ潰せ!戦争と学生』(岩波書店, 2017年)

 

 

2つめは、デリヘルのこと。

監督はUber Eatsで働く日々の中で、27歳の誕生日を迎える。せめてきょうくらいはと安宿に泊まる。そして「人肌が恋しい」というナレーションに続き、デリヘルを呼ぶ監督。この宿にスタッフが派遣されてきて、客である監督に性的サービスを行う、という流れなのだ。

いや、そんなところまで撮るのか、見せられるのか、と一瞬ギョッとする。

しかし結局、請求額に対して持ち金が足りないことが明らかになる。しかもキャンセルもできない。せめて払った分は、来るはずだった女性の手に渡るように頼む電話をかける監督。

私はここのくだりで愕然としてしまった。デリヘルが「コロナで割引サービス中」となっていたのだ。ほとんど労働力の搾取じゃないのかと思ってしまうような対価設定の業態で、朝から晩まで身を粉にして、心も体もヘトヘトに疲れ切った男性が、別の産業で働く女性の労働力を安く買おうとしている図がある。

いや、もちろんここでは誰もが同意の上で働いてはいる。同意の上で契約が結ばれ、対価が行き交っている。それに対して個別にいちゃもんをつけたいのではない。

ただ、「コロナで割引サービス中」ということは、そこで働く女性の報酬も、通常より割引かれているのではないかと懸念するのだ。しかもコロナ流行中ということは、普段よりもリスクが高いのだ。感染するかもしれない怖さもあるだろう。その労働を「割引ラッキー」とばかりに購入する男性が現れる。こちらもまた「なけなしの稼ぎ」を握りしめた人だ。その二者間で契約が成立してしまう。その「構図」に胸が痛くなった。

しかも男性は外で体を張って戦うのが仕事になり、女性はその戦って疲れきった男を体を張って慰めるのが仕事になるという「構図」にも見えて、やりきれない思いがした。社会では一体何が起こっているんだろう。くどいが、これは監督個人の行動を非難しているのではなく、構図に対して複雑な感情をおぼえた、という話だ。

 

 

映画を通してみていると、Uber Eatsの仕事は相当に過酷だ。この映画で初めて知った。細かな件数と売り上げの数字は忘れてしまったが、それだけの距離と時間配達し続けて、その売り上げなのかと驚く。相当体力がないとできない仕事だ。誰でもできるわけではない。働きたくても仕事がなかなか見つからない人にUber Eatsがあるじゃん、とはとても言えないような内容だった。監督すごかったな。

2020年のあの月この月に、私も同じまちで生きていたし、その頃監督は自転車をこいで配達をしていたのか。貴重な記録だ。

人々はあのときを、そして今を、ほんとうはどんなふうに生きているのだろう。

一人ひとりがあまりに違っていきすぎて、会わない、合わないことに、心の深いところで自分もものすごく孤立を深めていると思う、たぶん。

 

都会の人間は消費してくれる者たちとして都合がいい。東京に暮らす自分も、都会の消費者の一部だとみなされているということに気付いてハッとする。

しかし監督は「食でお店とお客さんと繋ぐ」「お客さんに喜んでもらう」などを胸に、ある日、「一件一件のお客さんへの対応を考えなおそう」と決める。ギリギリの状況でも人間性と誇りを保とうとする気迫に押された。この映画の中で一番救われたシーンだったかもしれない。「システムに操られるだけじゃない、システムを利用してやる」というたくましさもユーモアも人への思いやりも、ぜんぶ使ってこの映画は撮られていた。

 

今、もっと状況は悪くなっていて、働きたくても働ける仕事がない人が、明日の食べ物にも困る状況になっている。

映画のクライマックスでは、監督なりの批判と皮肉を込めたシーンが続く。

きょうも東京は焼け野原が拡大している......。

 

 

 

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