ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

本『加害者家族を支援する 支援の網の目からこぼれる人々』読書記録

『加害者家族を支援する 支援の網の目からこぼれる人々』を読んだ記録。

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どれも自分がもし加害者になったら、加害者の、家族になったら起こるだろうことが書いてあった。

経済的負担、仕事への影響、裁判への対応、更生の支え手としての重責、報道被害など、家族に連帯責任が問われるこの社会なら、こういう状況に追い込まれてもおかしくないと思うことばかりで、戦慄した。

サポートも重要だし、世間の加害者家族に対する「眼差し」を変えていくことも重要とあった。眼差しが変わればサポートもしやすくなるし、サポートがしやすくなれぱ眼差しも変わる。

 

森達也の著書『虐殺のスイッチ 一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか』に、北欧のある国では(確かノルウェーだったと思う)事件が起こると加害者家族にもケアやサポートが当たり前のように入るんだと書いてあったのを思い出した。

本書にも海外の事例が紹介されていて、参考になる。

加害者家家族の周りにいる人たちも読むといいのではないだろうか。接し方やサポートの仕方が見出せると思う。

本を読むことで、異なる立場を一時的にでも擬似的に経験できるなら、いくらでも読もうと思う。岩波ブックレットはこういうときに助けになる入門書として、いつも活用させてもらっている。ありがたい。

 

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〈お知らせ〉6/21 開催します:2022 夏至のコラージュの会(オンライン)

恒例のコラージュの会、今回は夏至の日に開催します。
今回もオンラインでの開催です。
12歳からご参加いただけます。
 
一年の半分まで来て、振り返りたいこと、展望したいこの先。
自分の感覚を頼りにつくっていくと何かが見つかるかも。

 

詳細、お申し込みはこちらからどうぞ。

https://collage2022midsummer.peatix.com/

 

前回春分の会のレポート

https://hitotobi.hatenadiary.jp/entry/2022/03/22/111318

 

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〈お知らせ〉5/28(土) 第30回 ゆるっと話そう『ピアノ -ウクライナの尊厳を守る闘い-』w/ シネマ・チュプキ・タバタ

ほぼ毎月開催の感想シェアの会〈ゆるっと話そう〉
第30回は『ピアノ -ウクライナの尊厳を守る闘い-』です。

 
〈ゆるっと話そう〉は、映画を観た人同士が感想を交わし合う、アフタートークタイム。
映画を観て、 誰かと感想を話したくなっちゃったこと、ありませんか? 印象に残ったシーンや登場人物、ストーリー展開から感じたことや考えたこと、思い出したこと。他の人はどんな感想を持ったのかも、聞いてみたい。 初対面の人同士でも気楽に話せるよう、ファシリテーターが進行します。
 
第30回は『ピアノ -ウクライナの尊厳を守る闘い-』をピックアップします。

ukraine-piano.com

 
今般のロシアによるウクライナ侵攻にはいくつもの経緯がありますが、その中でもウクライナの人々にとって特に重要だったのが2014年のユーロ・マイダン革命です。
 
この紛争に関する作品はいくつも制作されていますが、ピアノ・音楽・人を中心に編んだドキュメンタリー映画が、本作『ピアノ―ウクライナの尊厳を守る闘い―』です。
40分の短い映像ですが、奏でられる音楽が、観る者の感情を強く揺さぶり、関わった人の語りが、想像し、思考することを求めてきます。
 
本格的な侵攻が始まってから2ヶ月以上経ち、なかなか先が見えない現地の状況と、直接的、間接的に影響が生じている日常生活との狭間で、誰しも感じること、考えることがあると思います。
 
今回の〈ゆるっと話そう〉は、この映画を観た後に感想を分かち合う時間を持つことで、人間同士の温かなつながりを感じていただけたらと思っています。語り合うことで望みも分かち合えたら。
 
人によって知識量に差が出やすいテーマですが、その複雑で膨大な背景知識を教える・教えてもらうのではなく、お互いの感想を聴き合う中で、「わからない」や「知らない」を安心して口にできる場を目指します。
ご参加お待ちしています。
 
※本編には市民と機動隊との衝突、殴る蹴る、発砲等のシーンがあります。不安な方には音量調節が可能な親子鑑賞室のご利用もおすすめします。ご利用の問い合わせ、申し込みはシネマ・チュプキ・タバタまでお電話、またはメールにてご連絡ください。
 
 
詳細・ご予約はこちらから

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ゆるっと話そうとは?

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本『毛布 あなたをくるんでくれるもの』読書記録

4月上旬に読んだ安達茉莉子さん の新刊『毛布』。

今回もひるねこBOOKSさんで購入。安達さんが初めて個展を開いた書店で、私もそのときに訪れたので、思い入れがある。

 

発刊記念ペーパーをいただいた。まずはこれから読む。

「すべてを袋に入れるのよ」

安達さんがもらって今も覚えている大事な言葉のひとつ。

そうそう! 私もずっとそうしてきたんですよ! これらはぜったいぜんぶ何かになると信じて。

今もそう、これからもそう。

ペーパーの言葉に浸って、この日は終了。

 

何日か経ってから、なんとなく今読み始めるといいような気がして、『毛布』本体を読み始める。

ページをめくっていたら涙が止まらなくなった。

そうだ、平気な顔をして生きているけれど、私はたくさんの大切なものを失くしてきて、そしてそのことを忘れたことはないのだ。

何一つ忘れることができない。忘れられないまま、これからどうやって生きていけばいいんだろうと思っていた、その気持ちを大事な箱に入れてしまっていたのだ。

もう傷つきたくないというのが正直なところだ。

はぁ。 本という、分かち合える場所があってよかった。

 

これはぜひ多言語、他地域で翻訳出版されるとよい作品だと思う。もうお話が出ているかもしれないけれど。

この感覚、このエネルギーは、言語を超えて分かち合えるものだと思う。いや、むしろ積極的に分かち合いたい。同じ読者として感想を交換してみたいと思う。

この作品を必要としている人は今地球上にたくさんいると思う。

安達さんご自身のあり方としても、いろんなボーダーを超えておられるので、伝わることと思う。

 

不思議なことに、読んでしばらく経って気になってきたのは、ブライトンという街について、安達茉莉子さんとブレイディみかこさんとは全然違うように見えているという点だ。安達さんも『毛布』の中でそのことに触れておられた。

単身学問のために「他所」から来て一時期を過ごしている人(の過去の記憶)と、現地の人と結婚して子どもを通じて地域コミュニティとつながっている人とでは、同じ街にいても違う世界が見えていることは、それは当然あるだろう。

居住地域も違ったりするのかもしれない。そうすると同じ街でも全然違う暮らし方になる。世界ってこういうところだよな、と印象深く心に残っている。今後ブライトンという街について見聞きする機会があれば、また違う印象が重なっていくんだろう。

 

これからも「ふと気になってくる」箇所が出てくるだろう。あの感覚、あのエネルギーに触れたいときにいつも本棚にいてほしい。そういう本の一冊となった。

 

 

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展示「読み継がれる鷗外」@文京区立森鷗外記念館 鑑賞記録

森鷗外記念館で特別展「読み継がれる鷗外」を観た記録。

moriogai-kinenkan.jp

 

2022年は、鷗外生誕160年・没後100年・開館10年記念というスペシャルイヤー!

ということで、大変気合が入っている森鷗外記念館。「鷗外百年の森へ」と題し、様々な企画が目白押しだ。

 
 
 
 
 
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今期の作家の平野啓一郎さんが企画協力しての展示は、8人の作家や研究者による、鷗外の魅力を再発掘する試み。

平野さんがもともと鷗外好きということは、展示室の映像コーナーの中で語られていたので知っていた。だからこんなふうに全面的に関わっておられてうれしい。

このビデオコーナーでは他にも加賀乙彦さん、安野光雅さん、森まゆみさんがそれぞれ鷗外の魅力を語っていてとてもよいのだ。このおかげで、私も鷗外に興味を持つことができた。今回の展示はこの映像コーナーの良さをさらに拡張してくれている感がある。

 

選者の蔵書から鷗外本が出されて展示されている。付箋がついていたり傍線が引かれていたり、多くは絶版本だったりして、本当に書架からそのままやってきた感じがあっていい。

 

すでに読んでいる人には新たな視点と他作品への関心を喚起し、初めて鷗外作品に出会う人には最初の一冊との出会いを作る。人から人へと手渡される、人を介して読み継がれていく作品。作品を通して知る鷗外という人間、鷗外が生きた時代。

今回の展示のコンセプトになっている「読み継ぐ」という言葉は、とてもいい。

 

『雁』。青山七恵さんの紹介を見てまんまと読みたくなったので、売店で購入。

f:id:hitotobi:20220507192710j:image

 

今回の展示で特に見られてよかったと思ったのが、幸徳秋水の自筆の手紙だ。

2通あって、1通は国民新聞社宛に出した葉書。湯河原の旅館に逗留して原稿執筆中であることが書かれている。このあと検挙されている。

もう1通は弁護人の平出修宛の書簡。刑死の2週間前に出されたもの。平出への感謝や、鷗外作品の絶賛、事件に対する思いなどが綴られていて、鳥肌ものだ。こちらは展示期間が6月17日まで。入れ替わりで展示されるのが、平出修自筆の『刑法第七十三条に関する被告事件弁護の手控』。

二兎社の舞台『鷗外の怪談』を観た人なら、この実物の迫力がより伝わるだろう。

 

今回の展示でまた新しい事実を知った。

「危険なる洋書」に認定された中に、ヴェーデキントの著作があった。鷗外はヴェーデキントの日本における最初の紹介者なのだそう。

ヴェーデキントと言えば、私が昨年夢中になっていたオペラ《ルル》の元になった『悪霊』の著者だ。

 

また、鷗外随一の問題作『ヰタ・セクスアリス』のせいで、掲載誌『スバル』は、発禁となったが、これは平出修の自宅が発行所となり、鷗外を指導者として発刊された文芸誌だった。このことは『鷗外の怪談』の台詞でもあったような気がするが、なにせ情報量が多くて記憶から抜け落ちていたと思う。今あらためて確認できてよかった。

舞台上での鷗外と平出とのやり取りが鮮やかに立ち上がってくる。

 

ちなみに『鷗外の怪談』は2,500円で買い切りでいつでも視聴できる。素晴らしい舞台だったので、本当におすすめだ。

演劇動画配信サービス「観劇三昧」: 二兎社 / 鴎外の怪談



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森鷗外に近づく100選】

このブックリスト最高です。来館したらぜひもらっていただきたい。

鷗外文学5つのポイント、鷗外作品を楽しむための副読本として、テーマ別!鷗外作品を含むアンソロジー森鷗外を探して、鷗外と海外文学、舞姫エトセトラ、森家の遺伝子、文豪の暮らし、森鷗外を感じる……の9テーマに分けて100冊を紹介している。

このリスト一部で、読書の楽しみがぐんぐん広がる!


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知れば知るほど鷗外のマルチタレントぶりや射程圏の広さに驚くけれど、そういえば私の知り合いのお医者さんにもこういう人いたわ。

地域医療に携わりながら医学部教員もして、研究して論文も書き、一般書も書き、NPOの代表も務め、自宅では畑を耕し、映画を撮り(えっ?)、Youtuberでもあり(はっ?)……という人。

 

 

図録は買うべし!!! 展示解説パネルよりもテキストが大ボリュームで掲載されている。細かな年表や資料類も充実している。

信販売も対応しているそうなので、遠方で来館が難しい方も、ぜひ図録だけでも取り寄せて読んでほしい!!!

高校時代の国語の教科書で『舞姫』を読んでウンザリした方は、平野啓一郎さんの寄稿文を読んでいただけたら!!!

 
 
 
 
 
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6月には舞台『鷗外の怪談』の脚本家・永井愛さんの講演会がある。しかも演題は「鴎外と大逆事件」。これは必聴!早々と申し込んだので、なんとか抽選通ってほしいな!

 

ここまでの鷗外を訪ねる道のり。

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本『クララとお日さま』読書記録

カズオ・イシグロの『クララとお日さま』を読んだ記録。

※重要な内容や結末に深く触れています。未読の方はご注意ください。

 

読んだ後に残る、圧倒的な美となんとも言葉にし難い寂寞感。

カズオ・イシグロの主人公は皆、宿命を受け入れて読者に淡々と別れを告げ、物語を閉じていく。なぜ取り乱さずにいられるんだろう。

 

AIが感情や意思を持つとはどういうことか、どのように世界を認識、認知するのか。AIが学習していく過程をクララの内側からリアルに体験できる。

特に、視界や認知領域が「ボックス」に分割された表現は非常に印象に残った。ああやって世界を認識するのかと納得した。自分がほんとうにクララの中に入って動いているような感覚さえあった。今更ながら、小説ってすごいな。


観察、知覚、認知、分析、判断、行動までは私の貧困な想像力でカバーできていたが、クララはもっと先を行っていた。非常に複雑な感情を読み取り、判断して行動する。言語化しながら学習を重ねていく。

相手の緊張やリラックスを感知する、場の空気を読む、印象を持つ、気を遣う、違和感を抱く。期待し、失望を抱く。驚く、恐れ、混乱、躊躇。「不安が大波になって襲ってくる」、「心に怒りが湧き上がってくる」……。

クララの内面は鮮やかで豊かだ。むしろ人間たちは失っていっているものが多いのではないかと思えてならない。

 

「思いやり、ありがとうございます」

「信頼してくださって感謝します」

「プライバシーを尊重してあげたい」

「いま起こったことの意味を考えました」

「わたしは母親のやさしさが染み通ってくるのを感じました」

「心が呆然となる」

「心が幸せでいっぱいになる」

AF=Artificial Friendということなのだろうけれど、友達というよりも、クララのあり方はまるでカウンセラーのようだ。客観と主観を同時に持ちながら、冷静さと温かみを持って寄り添う。

人間が根源的に欲する望み(ニーズ)の言葉を多用していることにも気づく。希望、安心、信頼、思いやり、意味、尊重……。

 

驚くことに、クララは信念や信仰を持つ。最も原初的な太陽信仰を自ら持つ。

そして、自分を犠牲にしてまでジョジーを助けようとする。そしてそのことを「秘密」にして自分の中にしまっている。

人間は、このように穏やかで慈愛に満ちて、殉教者のように居てくれる存在を欲しているのだろうか? 自分だけのために「特別の助け」や「特別の栄養」を願ってくれる誰かの存在を。「人間はさびしがり屋」だから?

最後にクララは「本質はその人の中ではなく、関わる人が受け取り、育むものなのだ」と学びを言語化する。精神性すらも深く理解してくれるクララ。しかし、人間はその理解者を省みない。

 

高度な技術を作り出しても、利己の目的にしか使えず、そこからこぼれ落ちる存在を救えない人間。

「27年前の5年間」に固執する「旧式人間」。

倫理を超えても可能性をどこまでも追究したい科学者。

唯一無二の存在ではなくなる恐怖に慄く人間。

「過渡期」を生き伸びたあとの人間は疲弊していて、他人に対する温かな関心が持てなくなっている。

 

10代の人たち同士のヒリヒリするようなやり取りは、イシグロの『わたしを離さないで』を思い出す。

ちょうどこの本は、今年のGWに実家に帰ったときに読んでいた。きょうだいの子どもたちもやってきて、いつの間にか大きくなったことに驚いた。若い勢いとエネルギー溢れる人たちの存在感に気圧されると同時に、世代の変わり目を感じた。

私はもうあのようではない。もう交代していっているのだ。

では私は今何をするのか、ここから死ぬまでどう生きるのか。そういう立場から、この物語の親世代に強く共感した。

 

香川市の本屋ルヌガンガさんのこちらの投稿を読んで、なるほどと思った。

 
 
 
 
 
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”人間が、特に大人が、そういった「他者のために生きる」態度を失いつつある事も照らしてしまう。”

私にも10代の子がいるので、この箇所にはぎょっとした。子を生き延びさせるために、どこか「非人間的」な言動をしているときがあった、いや、今もあると思う。それは愛ゆえにしている行為であっても、優生思想的で、能力主義的で、権威主義的なこの社会の構造に加担してしまっている。自覚なく。(このあたり、映画『ガタカ』の世界を思い出す。)

だから私は、そこから逸脱したヘレンとリックの親子に注目した。葛藤したり何度も後悔しながらも、心身の調子を崩しながらも、他人から奇異な眼差しを向けられながらも、それに耐え、選んだ道を行くしかないかれら。そこからコミュニティを形成し、連帯して生きる道を選ぶ人たちもいる。

かといって、クリシーとジョジーの親子が何か間違っているわけでもない。そこには生命倫理の危うさや怖さはあるが、正誤はない。生きることに必死だ。時代についていこうとして、もがいている。そして決定したことをどうにか自分を主語にして引き受けようとしている。一個人ができることは常に小さいことを痛感させられる。

 

二人の若者の道は、「不親切さのぶつかり合い」を経て、決定的に分岐していく。「本当に愛し合っている二人なら宿命を退けられるはず」という、『わたしを離さないで』のあのテーマが再び登場する。いや、イギリスで生まれた『ロミオとジュリエット』のあのテーマと言ってもいいのか。その古典の悲劇的結末ではなく、リックの言葉がまた示唆的だ。「競わない。相手の最善を願いながら、別々の道を行く」。

ヘレンとクリシーの間に生まれる母親同士の心の通い合いにも、そういったものが見られる。私自身も日常生活で度々経験している「あの感じ」だ。違う人生を生きていても、子の親であるとか、離別を経験した女性であるという中に含まれる「あの感じ」をほんの一瞬だけ交換できるような関係。

そうなのだ、殺伐としているようで、不思議な温かさと力(Strength、Resilience、Empathy)にも満ちている物語だ。

 

そして、起きたことをただ受け止め、大切に聴き、どれも記憶し、人間の営みを見つめるクララ。

今この世界にも、クララのような存在がいるのかもしれない。私たちの生をすぐそばで見つめている者がいるのかもしれない。それはもしかしたら人間が自ら拵えたり、手懐けた物かもしれない。そしてその多くは気づかれていない。これほど渇望しているにもかかわらず、省みられていない。人間がコントロールすべき存在だと思い定め(凌駕される恐れから)、下位に位置付けたようなものこそが、常に真理を知っているのではないか。

 

相変わらずイシグロの文章は精緻に設計図を引いていく。

読者がこの物語世界を信じられるように。

未来や過去の話ではなく、この世界の別の位相、あるいは別の世界線として読者が想像することで、複雑な今を生きる力になるように。

 

おまけ。

この一年余り、『わたしを離さないで』を原書"Never Let Me Go"と比較しながら読んでいることもあり、今回は翻訳にも注目しながら読んだ。

『わたしを離さないで』でも気になっていたが、性別や年齢や社会的立場を「口調」で表すのには、やはり度々抵抗を感じた。

「らしさ」を強調する「役割語」は、今後どのように展開していくのだろうか。注視したい。

▼参考記事 毎日小学生新聞 2022/2/8 mainichi.jp

 

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映画『チョコレートドーナツ』鑑賞記録

鑑賞記録を書いていなかった映画。ふと思い出して書いてこうと思った。

原題 "Any Day Now" 

bitters.co.jp

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2回観ていて、1回目は2014年4月28日だった。この映画の公開年。

友人2人と観に行ったこと、売店で買ったばかりのコーヒーを帆布製のバッグにぶちまけてて、「またやっちゃった、てへ」と笑っていたとか、終わってからダクシン八重洲店で南インド料理を食べたこととか、思い出す。映画館で観るとそういう記憶も一緒に連れてきてくれるので楽しい。

 

私は気づいていなかったが、公開当時、シネスイッチ銀座が「ご要望にお応えして箱ティッシュ貸し出し」という演出企画をやっていたらしい。その頃「涙活」というものを提唱していた人もいたことも手伝ってか、「感動!泣ける!」という宣伝文句が多く飛び交い、SNSの投稿も「泣いた」が溢れ、それはそれで本当なのだろうが、何の涙かまで書ききれていないそれらは、どうしてもネタ消費的な印象になり残念だという話もしたのを覚えている。

 

私は泣いた記憶よりも、シビアな映画の展開に心がヒリヒリした。ラストへ向かう10分ぐらいの持っていき方も厳しかったが、主人公のルディとポールが行く先々で差別や偏見を食らい続ける姿や(もちろん理解者も若干2名いるが)、それに乗じた、立場を利用した攻撃を受ける姿、ダウン症のマルコが要らない子のように扱われる様などもつらかった。マルコの母親がドラッグ依存症(セックス依存症も?)、育児放棄という問題を抱えているなど、1979年の時代背景、アメリカ、カリフォルニアの社会背景を考えた。

特に母親のことは、ドキュメンタリー映画『トークバック 沈黙を破る女たち』(2013年, 坂上香監督)で、薬物依存を抱えて生きる女性たちの人生を観てきたこともあり、彼女の人生の背景を考えたいと思った。『チョコレートドーナツ』ではルディとポールの側から見える画になっているので、そこまで気にかけられていないのか、あるいは当時、制作サイドではまだそこまでスタディされていなかったのか、それはわからないが描かれていなかった。

ソーシャルワークという概念もまだ乏しく、優位な階層を設けて社会の規範から締め出し、懲罰的に当たる社会。

1980年代にはここに"AIDS"による同性愛者への差別と偏見が重なる、もっと暗い時期に入っていくのだよな……と想像するとさらにつらい。現在はHIVと呼ばれ、感染しても薬で発症が抑えられるようになった。

 

今の2012年制作のこの映画、今の時代ならまた違う描き方になりそう。そのぐらいここ10年でいろんなことが変わったと思う。

ただ、日本の社会においてはなんとも言えない。セクシャルマイノリティや多様な性を自認する人の存在は少しずつ知られているが、地域や世代、組織より差が激しい。同性のカップルの法律婚は認められておらず、異性愛カップルよりも不利な立場に置かれている。裁判は繰り返されているが、法制化に至っていない。市民レベルでの周知もまだ乏しい。差別と偏見がある。「かれら」がこの映画のような立場に追い込まれることもあるかもしれない。

一緒に行った人たちは皆子どもがいて、自分の子が性自認性的指向のことでカミングアウトするかもしれないので、そのときにどう受け止めたり、結婚や子どもを持つことについてどういうサポートができるか、ということを当時話した記憶がある。

 

日本で2014年当時に公開する時に難儀したと聞いて驚く。

www.entameplex.com

 

実話をもとにしたというよりも、実話からインスピレーションを受けて、という方が正しい。詳しいエピソードはこの記事に。

itsconceivablenow.com

 

 

最後に一つ、『チョコレートドーナツ』という邦題はよかったな!

ナカグロ(・)はないのが正しい表記でした。

 

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METライブビューイング《ナクソス島のアリアドネ》鑑賞記録

METライブビューイングのR・シュトラウスナクソス島のアリアドネ》を観た記録。

www.shochiku.co.jp

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この日は気圧低下に直撃されて体調ふらふらだったけれど、他は予定が合わないので、がんばって行ってきた。そしてやっぱりところどころ寝落ちてしまった……。

序幕はまだばっちり起きていたのだけれど、オペラはけっこうしっとりしていたからか、気持ちよく包まれていった。(今回のオペラは、一幕、二幕というカウントではなく、「序幕」と「オペラ」に分かれる形式)

なぜかつらかったトラウマティックな過去の経験が次々とよみがえってきて、苦しくなった。オペラのあらすじとも中身とも全く関係がないのに、なぜ今思い出すんだろう、忘れていたかったのに、というものばかりで、一つ思い出せばそういえばという感じで芋づる式に出てきた。出てくるままに放っておいて、オペラの舞台に酔いながらうとうと眠って、起きるとまた美しい画面が広がっていて……という具合。アロママッサージの施術を受けているときのあの覚醒と睡眠の間みたいな感じ。

先に観た友達が「セラピー効果がある」って言っていたのはこのことだったのかなとぼんやり思いながら。

 

楽しみにしていた序幕のイザベル・レナードは、なんとなく役に入れていない、キャラクターが造形できていない感じがあった。展開が早くてドタバタしている(レナード談「同じ感情にとどまらずにどんどん進む」)というのもあったかもしれないけれど、練習不足なのか、プライベートでなんかあったのか、体調が悪いのか? 幕間のインタビューではやけにハイだったのもなんだか気になった。

作曲家の役だったので、R.シュトラウスに共感して「この仕事に人生をかける!と思う日もあれば、辞めたいと思うこともあれば、向いてないと思うこともある」と幕間のインタビューで話していたのはよかった。

 

リーゼ・ダヴィドセンのソプラノは力強くて最高。体格の良さから発せられる声を「こっちまで飛んでくる。映画館でこれだから、生で聞いたらさぞや」と言っている人もいた。なんとなく高校のときのALTの先生に似ている。似ているというか……自分とは全然違う体格やエネルギーを持つ「族」に出会った経験、というかなんというか。

2019年に《スペードの女王》でMETデビューしたそう。彼女のリーザ、観てみたい! 来シーズンのMETで、《薔薇の騎士》の元帥婦人役が予定されているそう。しかも相手のオクタヴィアンはイザベル・レナード! 楽しみ。

 

わたしはブレンダ・レイがやっぱり好き。チャーミングな役どころが似合う。つい深刻になりがちな私のところにも妖精みたいに現れてほしい。クヨクヨしているときに彼女のツェルビネッタを思い出せば元気になれそう。

高音の集中力がすごい。幕間のインタビューでは「観客を不安にさせないように、自然な表現を心がけている」と答えていた。

ダンスの要素もあって、キレのある彼女の動きによく似合っていた。性行為を示す演技はちょっと浮いていたので、そこまでやる必要あるかなと思った。ヘンデルの《アグリッピーナ》ぐらい全体的に「下世話」感があると気にならなかったのだけど。

今回は女性役がメインの作品で、男性役はほとんど脇役の扱いになっていた。華がありすぎない歌手がキャスティングされていた印象。

 

「真面目なオペラとボードビル( Vaudeville:歌と対話を交互に入れた通俗的な喜劇・舞踊・曲芸)を同時に」という趣向の作品だったのだけれど、私はもっとゲラゲラ笑ったり、わくわくとじーんのアップダウンがあるかと思っていたので、なんだかつかみどころのないまま終わったなという感じ。音楽や歌唱は美しかったけれど。

あ、でも、「オペラのあとに娯楽劇をやるなんて」「度を超えて下衆な大衆に」「オペラの荒廃した貧相な舞台」など、真面目にゲージュツをやろうとしている人とそれを茶化す人、あるいは大衆を馬鹿にして見下す人と笑いがないと生きていけないだろ?と真理をつく人の対比がよかった。自分の中にも両方がある感じ。

音楽っていうのは、いろんな志が集まるところで、どんな芸術より神聖なものなのです。

と作曲家が歌い上げるシーンはよかった。

また、

人生にはつらく悲しいことが起きるが、一歩外に出れば新しい出会いがある。向き合うしかない。

つまり「喜劇も悲劇も同じ一つの人生」ということを人を変えて何度も言われている気がして、共感があった。

「もう終わり」と打ちひしがれているアリアドネに、「苦しむのはあんただけじゃない(私もそう、みんなそう)。友達はいないの?」というツェルビネッタの介入。こういうお節介な存在に救われて生きている私たちなのかも。

新しい出会いで終わるところはとても希望がもてる。一旦絶望しても、だいじょうぶよ!と背中を押される。

いや、ハッピーエンディングなのかどうかはわからないが……人生悲喜交々だし……神々の仲間入りしたらしたで大変そうだし(アドリアネの遍歴:参考ページ )

 

ニンフの「人ではない」存在感を出すのに、車輪付きの櫓(やぐら)のようなものを使っていたのがおもしろかった。メインビジュアルの、長ーいドレスを着た3人のあれは、最初竹馬かと思ったけど、高さ5mあるそうなので、そんな竹馬はありえんな!

幕間のインタビューで小道具係の人が出ていて、これを「妖精カート」と呼んでいた。「実際に乗ってみてどう?怖い?」と歌手に話しかけると、「怖くはないけど、予測できない揺れがあるから声が途切れないようにするのが大変」との答え。

いやー私なら高いところ苦手だし、一番上に固定されて動けないのも怖いし、揺れて声が途切れないようにとか、何重もプレッシャーで無理だわ。しかも高いところにいるから、客席への声の届き方も違うだろうし、そのあたりも工夫をしていそう。

櫓は中に人が入って動かすらしい。スカートで隠れて見えないから大丈夫なのだけど、本編を観ていると、自然な動きを出すためか、かなり細かく動くので、これ歌手の人ほんと大変だったろうなと想像できた。プロすごい。オペラ歌手って本当にいろんなこと「させられる」からタフだなと思う。

ここの場面は、浜辺に倒れているアリアドネに向かって、声が上から降ってくる形になるので、字幕が画面左に縦に出ていて、字幕を作っている人の工夫を感じた。

 

冒頭にピーター・ゲルプ総裁から、ウクライナの人たちへの連帯と、ロシアの人たちへの「同情」を寄せると挨拶あり。こうやって舞台公演をやっているのは、芸術と音楽の力を信じているからで、起こっていることを軽んじているわけではない、思いは一緒だ、というようなことも。

その後、ウクライナ支援の特別イベントのときの、MET合唱団による国歌をフルコーラスで流すなど、かなりの時間を割いていた。

 

▼公式ウェブサイト:見どころ

https://www.shochiku.co.jp/met/news/4427/

 

▼字幕翻訳(ドイツ語→日本語)された方によるスペース。METライブビューイングを一度でも観たことのある人ならおもしろいはず。

上記のまとめ。ありがたい!
http://michikusa.plus-career.com/theatre/opera/met_translation


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今シーズンのラインナップがとてもよいので、あとあと振り返るとき用にシーズンブック(プログラム)を買ってみた。

ほぼ公式ウェブサイトに掲載されている内容だが、まとまっているのは助かる。

A5サイズでポータブルなのがうれしい。そして表紙はアリアドネ


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今シーズン、残るは《ドン・カルロス》、《トゥーランドット》、《ランメルモールのルチア》、《ハムレット》、どれも楽しみだ!

 

おまけ。「ナクソス島」関連。

 

おまけ、もういっこ。

友達が、リーゼ・ダヴィドセンに、2019年の国立新美術館で観た、エミーリエ・フレーゲの一人芝居を演ったマキシ・ブラーハを思い出したと言っていた。体格のよさ、どっしりとした存在感、確かに通じるものがある。

▼レポート:演劇公演「エミーリエ・フレーゲ 愛されたミューズ EMILIE FLÖGE – GELIEBTE MUSE von Penny Black」 https://artexhibition.jp/wienmodern2019/news/20190523-AEJ81657/

▼映像もあった。
https://youtu.be/wcvU14JFAE8

 

おまけ。さらにもういっこ。

これを観たあとに行ったつきぞえなおさんの個展。1階に展示されていたのはこの3人のシリーズ。

3人のニンフたちとつながって、歌が聴こえてきた!

 
 
 
 
 
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*追記(2022.5.1)

字幕翻訳の庭山由佳さんのスペース。アーカイブがある。ありがたい。

 

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鑑賞対話イベントをひらいて、作品、施設、コミュニティのファンや仲間をふやしませんか?ファシリテーターのお仕事依頼,場づくり相談を承っております。

 
共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年

「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ:澤田知子 狐の嫁いり展」参加記録

2021年3月に参加した、「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ:澤田知子 狐の嫁いり展」の記録。

開催概要(視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップFacebook投稿)
https://www.facebook.com/kanshows/posts/3948178988610223

開催概要(東京都写真美術館公式ページ)
https://topmuseum.jp/contents/workshop/details-4059.html

 

対象作品
2F 展示室 澤田知子 狐の嫁いり 2021.3.2(火)—5.9(日)

視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップにはかなり前から一度参加してみたいと思っていた。申し込みをしたこともあったが抽選に漏れた。募集が10名以下で、人気が高いので毎回抽選になるようだ。でも、人数が少ないほうがじっくり語れるのでよいと思う。

私はシネマ・チュプキ・タバタさんとつくっている「ゆるっと話そう」で、視覚障害のある方と映画の感想を話し合う場は経験している。
視覚障害のある人は、映画自体から出る音や声と、イヤホンから聞こえる音声ガイドを通して作品を鑑賞している。
だが、美術鑑賞では静止している作品が中心だ。どうやって一緒に鑑賞するのか、興味津々だった。
3時間という長さも参加の決め手になった。おそらく少人数でじっくりと深めていく場なのだろうと想像した。そして実際その通りだった。
 
残念ながら、この会の公式のレポートは出ていない。あるのかもしれないが、見つけられなかった。
1年前のことなので記憶が曖昧だが、だいたいこういう感じだったかなと掘り起こしながら、以下に大雑把に紹介してみる。
 
Zoomミーティングを使ったオンラインのイベント。
展示作品から何点か選ばれたものが、一点ずつ画面共有で投影され、それについて参加者が視覚障害のある方に向けて描写したり、感想を話す。また次の作品に移り、描写と感想を繰り返していく。合計で何点見たか忘れたが、「たくさん、じっくり見た」という印象がある。
基本的に解説は最小限で、まずは鑑賞者の好奇心を目一杯に引き出したのちに、情報を少し場に提供するという進め方。
質問があれば回答する。でもあえて回答しないというときもあったかも。鑑賞者の体験が尊重されていた。
発言はランダムに出す形式。リピート参加している人もいるので、しーんとなったり、遠慮しあって発言が止まるということもあまりなく、活発に発言が出ていた。発言しなくても居づらいこともない。聞いているだけでも楽しいと思う。
私は感想を言いたいほうなので黙っていられずガンガン発言してしまったが、ファシリテーターの方がよい感じに交通整理をしてくださるので、発言が偏ることもあまりなかった。

その場で感じたことはたくさんある。メモを元に振り返ってみる。
 
まずは、他の人と話すことでどんどんインスピレーションが湧いて、言葉にしてみたくなる、わくわくしたという感覚があった。メモを取る間も惜しいほど夢中になった。他の人の感性や観察眼に触れることはやはり楽しい。
しかもそれが自分の感性や言葉と交差するのが楽しい。自分の出した感覚の言葉が場に貢献している実感がある。それは視覚障害の方がいるから余計にそう思った。
 
視覚障害のある方は、見える人の言葉を手がかりに作品を観ている。自分以外の人たちの感覚器官を使って観ている。「中央に5:3の長方形の写真があって、人のバストアップの顔が写っている。それが4枚あって……」という具合に描写し、その後その人の主観を聞く。
モノクロのポートレイトが中心のため、「だんだん犯罪者みたいに見えてきた」「女子刑務所に入っている人の人生を感じてしまう」など妄想っぽい感想も出てくる。他の参加者も一人ひとりが、自分の人生の経験をすべて使って鑑賞していた。
 
印象の話だけではなく、作家の意図や、社会の実情と照らし合わせて考察するような深まりも、後半に行くにしたがって出てきた。その前に見た作品と今見ている作品との関連についても語られていった。

見た目の印象「〜に似ている」等は、先天失明の方だとわからないこともあっただろうが、そのわからなさや戸惑いも含めて楽しんだり、他の鑑賞者の話し方、言葉の選び方からもたくさんの情報を受け取っている様子だった。
 
最後の振り返りで、視覚障害者の方から、「視覚からの情報量はやっぱりすごいんだなとあらためて思った。皆さんの一つずつの言葉をメモしていた。それを私の知識にしていける感覚があった」という言葉があった。とても新鮮に感じたし、一緒に場を共にできたことがうれしかった。
そうか、そんなふうに感じるんだ!とお互いに思っている、その確信がある。
良い場に立ち会ったときに現れる、「お互いに」「同時に」「よかったと思う」、あの感じが訪れた。
 
他の方からは、「皆さんの感想にへえ〜と言いっぱなしの贅沢な時間だった」「1つの作品にここまでこだわりを持って話していく体験は初めてでよかった」「何か意味付けをしないと不安になるのだという発見があった」などが出ていた。
 
私が自分の番に話して特によく記憶しているのは、「私も何にでもなれるかもと思えた」ということだった。この大切な感覚をつかめたのは、3時間じっくりと他の人たちとの対話を重ねてこられたからだ。一人ではとてもここまで行き着けなかったと思う。
単なる「視覚障害者と美術鑑賞した」という外側の「売り」のようなものに反応したわけではなく、本質をつかめたことがうれしかった。つまり、鑑賞体験としてとても豊かで、自分の核に触れるところまでいけたということだった。
 
写真美術館で作品の実物を見てみたいと思ったが、残念ながらタイミングが合わず、現地には足を運べなかった。澤田さんのお名前はいろんなところで聞くので、また展示の機会があれば次回は必ず行こうと思う。
 
参加者がオンラインでの鑑賞にもかかわらず、このようにのびのびと参加し、充実した時間が持てていたのには、場をつくる人たちのあり方や進め方の力が大きかった。
冒頭に丁寧な前振りがあった。たしかこんなことだったと思う。違っていたらご指摘ください!(問い合わせ
・常時ミュート解除でOK。発言にならないつぶやきや音も大切にしたい。
 発言のタイミングがぶつかってもいい。
・見える人同士でも「見えていない」ものがある。
・この場における見える・見えないものを定義する。(具体例と共に)
・自分にしかわからないバラバラの主観を集めたら別のものが見えてくる。
・語りの2つのモード(まっすぐモードとぶらぶらモード)
・わからないものに出会って迷子になるのは大事!

私はなんだかもうこのパートで既に心を鷲掴みにされてしまっていた! 

あまり他では聞いたことがないアプローチだ。この部分だけでも参加して本当によかったと思ったし、きっとこの先の時間はもっと素敵なことが起こりそうだという予感がした。(だから冒頭のこの場の前提の共有の時間はとても大切なのだとあらためて思った)

実際、その後の鑑賞対話の時間も、場を運営されている方々は経験の深さが伝わってきた。言葉の選び方、間の取り方、問いかけ方や問いかけるタイミングなど、すべてが一つひとつ練られていて、素晴らしかった。おそらく毎回ふりかえりの時間がもたれ、準備があり、トレーニングがあるのだろう。9年間の積み重ねがしっかりとした土台になっていることが感じられる場だった。とても勉強になった。

今回はオンラインだったが、対面で鑑賞したらまた違うよい体験をしそうだ。またぜひ参加したいと思った。

【「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」とは】
2012始動。スタッフ10名(視覚障害者5名、晴眼者5名)。月一回のペースで全国の美術館や学校で目の見える人、見えない人が言葉を介して「みること」を考える鑑賞プログラムを企画運営している。
Facebookページより)


もちろん場は一期一会なので、同じ団体が開催する場でも「よい体験」を自分がするかはわからない。でもこのときの実感は身体に残っていて、忘れがたいものになっている。自分の血肉になっている感覚がある。

これからも何回かに一度はそういう場に出会いたいし(この場に限らず)、もちろん自分もつくっていきたいと思った。

 

今、チラシの裏を見てみたら、こんなことが書いてあった。

初公開の初めてのセルフポートレイトから証明写真機で撮影したID400のオリジナルプリント、最新作のReflectionまで複数のシリーズを《狐の嫁いり》という新作として構成しました。

私が化かしているのか、皆さんが勝手に化かされているのか。

狐の嫁いりに遭遇したら良きことがあると言われるよう、私の作品と出会うあなたに良きことが訪れますように。(澤田知子

 

まさに! いいことありましたよ! 

 

 

話題になったこの本はまだ読んでいないのだけど、私が体験したことと近いことが書いてある予感がする。近々読みたい。


おまけ。私の本は音声図書化されています。ぜひご利用ください。

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本『当事者は嘘をつく』読書記録

『当事者は嘘をつく』小松原織香/著を読んだ記録。

タイトルでギョッとなる。が、もちろん「当事者」に対して喧嘩を売っているわけではない。

カバーを見ればすぐわかる。

これこそ私が待っていた一冊である
──信田さよ子

『私の話を信じてほしい』

哲学研究者が自身の被害体験をまるごと描く

 

2022年1月に刊行され、話題になった本。

性暴力の経験を綴った本なら、私はちょっと辛くて読めないのではないかと思い、スルーしていた。手に取るきっかけになったのは、ライターの太田明日香さんによる書評(『週刊金曜日』2022.3.25 1370号掲載)を読んだこと。いろいろな期待が持てるような文章だった。

 

もしかしたら私の身に起きたこともこの語りに含まれているのかもしれないし、もしかしたら「救われる」ように感じられるかもしれないと思った。

ほかには「あえてこのタイトルにすることの意味を知りたい」ということもあった。というのは、ドキュメンタリー映画『主戦場』を観て、その中で元「慰安婦」の女性が「証言が揺れているから彼女は嘘をついているのだ」と非難される場面が出てきたことが強く心に引っかかっていたからだ。何か関係があるのではないかと直感した。

また、太田さんがツイートに添えられていた言葉にも、「被害当事者の心中を知ってほしい」というだけではないものを受け取る可能性を感じた。

そう、私も「自分を許したいし、憎しみから解放されたいし、加害者に対して全く無関心になりたい」と思った。

 

実際に読んでみて、発見したことは多かった。うまくまとめられないので、箇条書きで挙げていく。

※引用も多くて詳細になるので、読了後にご覧ください。本を読んでつらい感想を持った方は読まないでください。


f:id:hitotobi:20220427224909j:image

・まずは実名でカミングアウトされて、さらに本という形にまとめられたことに敬意を払いたい。本というどこまでも流通するもの、何十年も残る可能性があるものを作ろう、自分の言葉を世に出そうと思われた決意に。

・のたうち周りながら、次々にやってくる苦しみや課題をあの手この手で生き抜いていく小松原さん。めまぐるしい日々を過ごしてきたのだろうか。毎回転機をとらえて、「こっちかもしれない」、「いや、もうこれじゃない、次はこれだ」と感知し、行動していく姿。ご自身の言葉で格闘が語られていくのは、読み手にとって喜びがある。

・たぶん周りではご本人が苦しんでいたことに全然気づくこともなく、着々とキャリアを重ねて、眩しく見えていた人もいたのだろうと想像する。そのぐらい人のことはわからないものだと思う。

・カッコ悪い、情けない姿も、怒り狂う内面も、すべて同等に扱って書いていってくれるので、読みながら私も自分の尊厳に触れる感じがする。

・わくわくする展開もある。海外の研究者や学生とのディスカッションの中で、気後れしながらも自分の意見を述べ、場に気づきを与えて貢献し、次第に居場所を作っていく様子はやった!と私もうれしくなる。

・本の趣旨からは外れた感想だが、人文系の大学院生のキャリアの築き方や、院生としての過ごし方、学術研究とそうでないものの違いなどについて、私は知ることができた。実はあまりよくわかっていなかったところ。

ウーマン・リブ水俣病などにおける社会運動にも触れられているのが興味深い。内部での人間トラブル、支援者、研究者のそれぞれの立場。また、『主戦場』でも私が感じていた、当事者の周りに集まってくる人の様々な思惑に利用されて、勝手に対立軸を持ち込まれて、当事者が困惑する様子などは共通している。

・「一度、カミングアウトしてしまうと元には戻れません。差別や偏見、バッシングに晒される危険はもちろん、過度に持ち上げられたり、社会運動のシンボルに祭り上げられたりすることもあります。カミングアウトすることで、当人が背負う荷物は軽くありません」(p.201-202)「よきことをなす人」による暴力はある、ということとつながる。

・「私が、関心があるのは当事者の声だけだった。『私(たち)がどうやって生きてきたのか」を知ってほしかった。社会現象となった社会運動は、それに対する第三者たちの喧騒ばかりに焦点が当てられ、かまびすしいおしゃべりが続く。私は苛立っていた」(p.177)ここ、映画『牛久』の出演者の声を思い出した。製作者の認識と食い違っているようだが、この記事を読むと、「私たちがどうやって生きてきたのかを知ってほしかったのに」ということが何を言っているのか知る手がかりになると、私は感じた。(→参考記事

・溝を溝として認識し、葛藤しながらもそこに必死で橋を架け続けようともしている。そのエネルギーはどこからくるのだろう。

・「同意していたが、あれは性暴力だった」そう言っていいのだ!という驚き。どうして私はそれには当たらないと思っていたんだろう。「同意の罠」。自分が暴力だと感じたら暴力なのだ。「私の経験は『性暴力』と呼ばれるものであり、外から見える被害の大小にかかわらず、深く心に傷を残すものだと学んでいった」(p.56)こう思えたことが最大の救いだった。

・読みながらふいに、自分(私)が人から失望されることへの怖れってあるなと思った。自分の中にある怖れを隠すための虚勢。責任転嫁。引き受けている表現者の顔を何人か思い浮かべた。

・「性暴力は密室や人目につかない場所で実行されることが多く」、そうだ、これが「当事者は嘘をついている」と言われる所以。ただ、人目につかない場所で行われるだけではなく、公共の場であっても人目につかないやり方で行われることもある。あまりにも振る舞いが自然すぎて気づかれないこともある。精神的暴力を伴っていると、たとえ屋外でも、人前でも、関係性としては密室になっていることがある。

・「性暴力は単独で存在している社会問題ではなく、あらゆる差別や暴力、経済的な問題が折り重なって構成されていくことに、私は直面していくことになった」(p.53)

・「性暴力被害の当事者として語るのは『社会を変える』ために訴えたいからであり、自己のトラブルの対処方法を知りたいのではなかった。その点において、『当事者研究』はそれぞれの当事者が直面する問題を個人化、内面化しており、自己や個人的な知り合いといった小さな人間関係に矮小化していると、私には思われた」(p.92)これこれ!これ!ここ数年わたしが考えていることだ。『妊娠と出産のスピリチュアリティ』を読んだときにもこれだ!と思ったこと。まだ言葉になりきらないが、再確認した。(→読書記録

・「センター(※ノルウェーオスロにある国立メディエーションセンター)の職員によれば、修復的司法が法制度に導入されたの一九七〇年代であり、学校や刑務所、病院などの制度改革が進められる機運のなかで実現したらしい。いまの時代に改めて修復的司法を導入するのは大変だろうという見通しを語ってくれた」(p.105)

ノルウェーの刑務所はとても刑務所には見えないような施設であり運用ルールなのだが(→参考記事)やはり刑務所だけが突出して行なっていることというよりは、社会の土台に通底しているものがあるのだな、と納得した。

・「私にとって、大学院修士課程は支援者と闘うための言葉を身につける場所だった」(p.111)「闘うための言葉を身につける」という箇所を声に出して反芻した。

・「目の前に積み上げられた『資料』と、自分の内側から湧いてくる『問い』をどのように結びつければいいのかわからなかったのである」ここも!!私が今まさに立ち止まっている壁だ!この本で示されているヒントとしては、「挑戦」「自分のテーマを持って新しい場に飛び込んでみる」や「とにかく書く、書き続ける」などだろうか。この「突然できるようになった」(p.138)までの箇所はときどき読み返して勇気をもらいたい。

・当事者と支援者、研究者との関係の見直しも提起されている。人によってはここが一番響いているかもしれない。

・「自分の声がいつもと違い、弱々しく自身のないものだが、はっきりと学生や、自分よりキャリアの若い研究者に向けて発せられているのを自覚した。それは自助グループの仲間たちや、サバイバーに向けて発する声と同じだった。闘うためでもなく、励ますためでもなく、繋がるために発する声」この心境、フェーズ、覚えがある。つながるために発する声だったのか。

・「ワイドショーも、週刊誌の中吊り広告も、性暴力は『お色気のネタ』だった」(p.193)短いが、本当にしんどい一行だった。2017年になるまでの私の人生は、ほぼこの性暴力を食らい続ける日々だったからだ。社会から物として扱われた眼差しを内面化し、私のとった数々の行動に影響を与えた。2017年でいきなりゼロになったわけではないが、「それは暴力」だと自分が認識し、それを避けたり、声をあげたり、異を唱える人と連帯できるようになった。ゼロになったわけではない。

・太田さんのツイートにもあったが、「声をあげなくていい」は大切なことだと、あらためて実感した。「言葉をもとう」とセットで「声をあげなくていい」は言っていかなくては。

・「カミングアウトとは、自己をひとつのカテゴリーに当てはめる行為でもあります」(p.202)そう、人間の内面は複雑だから、あるひとつの軸で語るとこうなったけれども、別の軸で語れば違う人生の物語になる。歴史とはそういうものだ。たとえひとつの物語で編まれたものを読んだとしても、別の面があるであろうと想像力を働かせることが大切。他者の複雑さを複雑なままに受け取る。そのためには自分も自分の物語を語ってみることが有効だ。ひとつの軸で語ってみると、削ぎ落とされるもののほうが多く、残した一握りのものを組み合わせて語っただけになることに気づく。修復的司法を理解するには、このことを実感する必要がありそうだ。

 

編集の柴山さん。(いえ、知り合いではありませんが、よくお名前を拝見します)

shueisha.online

 

漫画家ペス山ポピーさんによる書評。ワカル!

www.webchikuma.jp

 

直接関係はないが、こういう話題が出ていた時期だという記録としても。

s-scrap.com

人間個人を賛美したり、一旦自分が持ったイメージ(多くは誰かの良き推薦によって)が固定して一面的になることの危うさを思った。「よきことをなす人」が力を持つこと。そういえばある番組で「左派リベラルだからという理由だけで信用するのは危険」という話を聞いた。いろいろと理解が進む。

一旦しんどくはなるが、十分に休んでエネルギーを取り戻して、しんどさの壁を抜けるとまた社会がどういう構造になっているのか理解が進む。学び続ける。

 

闘いや赦しについて考えようとして、こんな本も読んでいたな。記録として。

 

 

修復的司法については、これから読む『プリズン・サークル』もヒントをくれそう。

 

小松原さんの最近の記事。

www.moderntimes.tv

 

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『漫画 サピエンス全史 人類の誕生編』読書記録

ユヴァル・ノア・ハラリ著、『漫画 サピエンス全史 人類の誕生編』を読んだ記録。

 

単行本が2016年に出たときに、友達が、「もーめちゃめちゃおもしろいから絶対読んで!」と言っていた『サピエンス全史』。
6年越しでようやく意味がわかった。

なーるーほーどー。

人間一個体にとってものすごく早く感じられる変化も、長い物差し、人類全体でとらえるとほとんど変わっていない。

とか

今のサピエンスの身体は狩猟採集時代を引きずっている。

とか

150人までなら直接の付き合いと噂話だけで、共同体やネットワークを維持できるけれど、150人を超えたとき、言語をつかって神話を作り出し、それを信じる他人と協力しあう。概念をあやつれる。それがホモ・サピエンスの強さの秘密。

とか

平和と戦争は、物語を受け入れられるか、納得できないかで説明できる。

など。

 

いったん自分をホモ・サピエンスという種として、めいっぱい引いたところから眺めてみると、そんなにクヨクヨしなくていいんじゃないかと思えてくる。

根本からメタで見る瞬間って日常を生きるのに必要だと思う。同様に宇宙から見た地球、その中にいるちっぽけな自分、なども有効。

サイエンス、学問研究のありがたさ。

 

しかし、人間は自分たちが作ったモノや環境に適応している最中だけど、適応しきって成熟する前に滅びる可能性がある。ここまでマクロにとらえると仕方なくも思えるけれど、ミクロ(一個人)としては幸福追求のためにあがきたい。

この本の最後には、

「理解しているのに何ら手を打とうとしない」

という記述があった。そこがこれまでのホモ・サピエンスと全く異なる点だ。

 

理解しているのに、何ら手を打とうとしない。

 

ホモ・サピエンスの凶暴さ、残虐さには我が事といえ、参る……。

 

続きも読んでみる。

 

しかしバンド・デシネって大きいし、紙が厚くて重いですね。日本版だからというわけではなくて、オリジナルもこんな感じなのかな。

 

youtu.be

 

post.tv-asahi.co.jp

 

『21 Lessons』も気になる。

youtu.be

 

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本『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』読書記録

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読んだ記録。

これが出版されたのが2019年とは思えないほど、ずいぶん前に感じられる。

売れに売れて、表紙がイエローで目立つこともあり、どこでも平積みで、私の周りでも多くの人が感想を口々に述べていた記憶がある。

私はそのときのブームには乗り遅れ、3年後の今、ようやく読むタイミングが巡ってきた。

 

2020年の年末に10代向けの本を出版したが、そのときもあまり参考にせずにいた。

今月になって、この一年ほど関わっていた神戸のオルタナティブスクールでの授業づくりのふりかえりイベントの準備にあたって、なんとなくこの本を読んでおくと良さそうだなと思い、手に取った。

ウェブ記事やテレビ番組でよく紹介されていたのが、「他人の靴を履いてみること」というエンパシーについてエピソードや、制服を買い替えられない友人にそっと修繕したおさがりを渡したときの「君は僕の友達だからだよ」というエピソードだった。

詳しく聞いてしまったので、実際にそこのページを通りかかったときはあまりなにも思わなかった。

それよりも全体的にどーんときたのは、あからさまで手加減なしの差別や偏見、経済的格差、暴力にふれるエピソードが日常のよくある光景として描かれていること。「外国人」として生きるということのリアルが一つひとつ共有される。多様であることがいかにめんどくさく、いかに答えのない問いに始終直面することなのかを疑似体験できる。

これは一週間かそこら観光で滞在するだけでは見えてこない世界だ。私も日本以外の国で、外国人として、あるいはアジア人として、日本人として明確に差別された経験は何度もあるが、やはり暮らしていて遭遇することや、子どもを通して地域に入っていくことで見えてくる現実には到底及ばない。

そう、子どもを通して学校や地域社会に入ると、ほんとうに根の深いところに行き着く。日本の東京にいる私としては想像するしかないが、読んでいて「あの感じ」がすごくする。子どもの置かれた立場を見て、この国の教育への姿勢を知って愕然とするし、学校の中での政治にも触れてギョッとするし、保護者同士のやり取りの中で、価値観が合わなくてスルーしてきた人たちとガチで接したときに違和感を覚えるし……という「あの感じ」だ。

たとえばこんなところに。

学校は社会を映す鏡なので、常に生徒たちの間に格差は存在するものだ。でも、それが拡大するままに放置されている場所にはなんというかこう、勢いがない。陰気に硬直して、新しいものや楽しいことが生まれそうな感じがしない。それはすでに衰退がはじまっているということなんだと思う。(p.230)

あるいは、ドキッとするこんなところも。

その春巻きを売っている店の子が、元底辺中学校の生徒会長に選ばれたというのは、個人的に胸がすくような思いがした。が、すぐその後で考えたのである。この胸がすくような思いというのはどこから来ているのだろう。というか、これはどういう感情なのだろう。

親子での会話、うちも子とよく話すので、親近感が湧く。そうかいくつになってもこういうやり取りができるといいな。

「これって、そういう勝ち負けの問題なの? いじめって、闘いなの?」

「闘いにしたほうが、一方的にやられているよりも屈辱的じゃない、っていう考え方じゃないかな」

わたしが言うと、息子はため息をついた。

「母ちゃんもそう思う?」

一番はげまされたのは、「はじめに」のこの部分かもしれない。

しかし、ぐずぐず困惑しているわたしとは違って、子どもというものは意外とたくましいもので、迷ったり、悩んだりしながら、こちらが考え込んでいる間にさっさと先に進んでいたりする。いや、進んではいないのかもしれない。またそのうち同じところに帰ってきてさらに深く悩むことになるのかもしれない。それでも、子どもたちは、とりあえずいまはこういうことにしておこう、と果敢に前を向いてどんどん新しい何かに遭遇するのだ。(p.4-5)

ここを読みながら、昨年度一年間の神戸での子どもたちや、自分の子のことを思い出し、大変共感した。

きみトリ × ラーンネット・グローバルスクール|きみトリプロジェクト|note


いつものことながら、イギリスの政治、経済、社会情勢についても知ることができるのがありがたい。ブライトンというまちに密着して、そこから見えるイギリスと、そこで会ういろんなルーツや思想やアイデンティティを持った人々との出会いを描いてくれる。一人称で書かれているけれど、エッセイというのともちょっと違うし、ルポでもないし、評論でもない。

ブレイディみかこさんが確立した独自のジャンルという感じ。いろいろ課題はあるし、モヤっとすること、ムカつくことも多いけれど、地べたで生きる人の実直さが伝わってきて、私は彼女の作品がとても好きだ。

 

ブレイディみかこ「多様性はややこしい。でも楽ばかりしてると無知になる」(2019.10.4)

globe.asahi.com

 

続編が出ているそうなので、こちらも近々読んでみようと思う。

 

以前読んだ『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』もとてもよかった。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

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映画『アートのお値段』鑑賞記録

映画『アートのお値段』を観た記録。2018年の公開。

artonedan.com

youtu.be

 

映画『見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界』を観たときに、「彼女の作品はアート市場にはフィットしない」というような言葉があった。

そういえばアート市場ってどんなんだっけ? 
そういうことがわかる映画なかったっけ?

と思い出したのが、こちらの『アートのお値段』だった。

 

観てみて、まあ、なんというか、「いい役者揃ってんな!」という感じ。

これってほんとにドキュメンタリー?

ギラッギラの、わかりやすく欲望を丸出しにしたコレクター、オークショニア、キュレーター、ギャラリスト、アーティスト。

アーティストの中でもギラギラしていない人もいて、「アートと金に、本質的なつながりは何もない」と言いつつ、しかしやはり展覧会で人が集まるとうれしい、「サクセス」の手応えに酔う姿もある。

 

「芸術が生き残る道は商業的価値を持つこと」「売れなければ守ってもらえない」と堂々と口にされる。

現代アートの市場は挑発的であればあるほど喜ばれ、高値がつき、投機の対象になっていく。錬金術と言ってもいいのかも。

ゲルハルト・リヒターだったかな? 「美術館で展示されるほうがいい」と言う。コレクターに高値で落札されると、二度とお目にかかれなくなる。転売目的で買われるから、コレクターの自宅に飾られもせず、倉庫の中で眠る作品も映る。切ない。

アーティストたちももちろんエネルギーを注いで制作はしているけど、結局その共犯関係の中で回しているだけという感じがする。

「長期スパンで考えている。私が飽きられても、50年、70年、150年後に評価されたらいいな」と言うアーティストも。うーん、アートってそういうこと?

 

何度も映るニューヨークのコレクターの自宅がすごい。どの部屋も所狭しと作品が展示されていて、どれをいくらで買って、今はいくらの価値が出ているのかをパッと口にできる。倫理的にどうかと思うような作品もある。それでもその人なりに人生の時間を使って何かを達成しようとしている。

シカゴ美術館に42点もの作品を寄贈して、一つのコーナーをかれらのコレクションとして名前がつけられ、感謝される。この一連の営みを愛と呼んでいいのか、かなり微妙。

現代アートの持つ暴力性のようなものと闘っている、レンブラントを愛するキュレーターもいて、その人が映るとホッとする。

ちょっと覗いてみて、あらためてアフ・クリントの文脈とは「違う」の意味が明瞭になった。

 

観終わったときの気分は……「食傷気味」。

でもなかなか覗けない世界だからおもしろかった。

 


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オークションやマーケットといえば……。

クリスティーズ
https://instagram.com/christiesinc?igshid=YmMyMTA2M2Y=

サザビーズ
https://instagram.com/sothebys?igshid=YmMyMTA2M2Y=

Art Basel
https://instagram.com/artbasel?igshid=YmMyMTA2M2Y=

こういうのが商品になっているのだなー

 

現代アートのコレクションといえば、この映画もあったな。『ハーブ&ドロシー』

www.herbanddorothy.com

www.herbanddorothy.com

 

2014年にこういう展覧会もあった。《現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展 ヤゲオ財団コレクションより》

「生き馬の目を抜くようなビジネスの第一線で活躍している実業家は、同じように現代の社会情勢を感性でとらえるアート作家の作品に強いシンパシーを感じていて、それでコレクションしているという人もいるのだ」的な解説があったような気がして、当時はなるほどそういうことだったのかと納得していたけれど、それは私が勝手に湧き立たせた妄想だった可能性もある。

archive.momat.go.jp

www.museum.or.jp


 

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鑑賞対話イベントをひらいて、作品、施設、コミュニティのファンや仲間をふやしませんか?ファシリテーターのお仕事依頼,場づくり相談を承っております。

 
共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年

映画『見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界』鑑賞記録

ユーロスペースで映画『見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界』を観た記録。

trenova.jp

 

youtu.be

 

忘れられた巨人ヒルマ・アフ・クリント。
ヒルマの作品、ヒルマの生涯、現代アート界の受け止め、そして残された問い……。

ヒルマ・アフ・クリントの作品を通して、この映画が問題提起および批判しているのは、権威主義であり、父権主義であり、差別と偏見であり。

#MeTooを皮切りに始まったここ数年の「いないことにされていた者たちの権利を求める声」とも関係がある。


観た日はトークがあり、理解が深まった。
こういう映画は、専門家や識者の言葉が噛み砕きやすくしてくれる。できるだけ狙っていくべし。

 

鑑賞メモ

・独自の法則

・科学者の態度と現実を見る冷静さ、父によって授けられた、数学、天文学、航海術も土台。

・恵まれた環境

・不運では片付けられない「妨害」(今もあるある、私にもあったあった)

・美術史は誰が作る? 権威とは? 誰の恐れ? 排除の可能性、存在そのものが問いを投げかける、だれが「美術史」をつくってきたのか。正史に乗らない存在。特に女性はそうされがち。

・不遇な女性の悲劇話よりも、成果や野心や社会背景に注目する流れが女性から起こる。樋口一葉しかり、尾崎翠しかり。

・映画がはじまってすぐ、尾崎翠の『第七官界彷徨』を思い出した。この映画を観た影響。

ヒルマの言葉?「恐怖を無視するべき。己を信じる意識がないと良いことは起こらない」、映画『DUNE』を思い出す。

・「今の美術史が確立して50年」、ずっと変わらない真理のように思われていたことは、実はそうではない。たかだか50年!人類全史から見ればほんの50年!変わる可能性大。

霊性、神秘的なものはアートではないという反論があるとしたら、「カンディンスキーがよくてなぜアフ・クリントが認められないのか?」という問題提起だったと思う。そうすると自然と湧いて出てくるのは、「何がアートか?」。「アウトサイダーアートではなく美術史に加えられるべき」ということが、「アフ・クリントは正規の美術教育を受けていた」が理由だとしたら、アートとアートでないものを分ける線があるということだし、正規の美術教育を受けているものだけがアートということになる。これは差別的なことでは? 誰かにとっての区分に過ぎない? そういう意味でもControversialな存在? アートとは何かは変わっていく!

・「死後20年経ったら公開していい」の理由。ヒルマが亡くなったとき、シュタイナーは亡くなっていて、既に19年経っていた。そのことと関係あるのか?

1862年スウェーデン王立美術院に入学したとき、ヒルマは女性としては3期生にあたる。つまりその前から女性で学校で美術を学んでいた人はいた。フィンランドの女性作家をフィーチャーした西美のモダン・ウーマン展を思い出した。デンマークのスケーエン展も西美だったなそういえば。スウェーデンも女性への美術教育が早いうちから始まっていた。なぜ可能だったのか図録を読み返そう。

・男性モデルをデッサンすることは許されなかった。独自にやったヒルマ。(たしかこの頃、女性は見られる対象であり、見る主体ではなかった)

・「当時結婚していない貴族の女性が多かったから、良い教育を受けて、仕事を持ち、自立してもらう必要があった」その時代にしてはかなり進んだ考えでは。

・「神智学。女性解放の進学。女性も宗教者になれる。反権威主義的な面があった」

・「シュタイナーはヒルマの作品の写真を持っていた。何人かが彼女の絵を見て、パリに持ち込んだ可能性がある」パクリ?!ミステリー。。嫉妬はあったんじゃないかなー。

・作品を生で観たいな〜日本でも展覧会やってほしい。 グッゲンハイムのような螺旋構造を持つ館ってどこだろう。螺旋が難しくても、せめて曲線、連続を作れるといちいち空間で分断されない展示方法を望む。

・トレイラーにも出てくるけど、「女性作家を紹介してポリコレ的にOK、さあ次っていうんじゃなくて、美術史に加えてほしい」ってほんとそう。「美術学校と市場との間に何があるのか考えてほしい」もそうだし。「本当に取り組むべき問題だと思う」それに対して素直に「YES」と言えない感じがあるとしたら、それ自体をまず見つめたほうがいい。

森美術館のアナザーエナジー展も思い出したな。作り続けていくこと。あのエナジーと呼応するものがある。もちろん野心だってあるし、悔しい思いをすることもたくさんあるけど、彼女たちの作りたいものを作りたいように作るのだ、という声に励まされる。

・同時代の気になる人

ヒルマ・アフ・クリント 1862-1944(82歳)

カミーユ・クローデル 1864-1943(78歳)

尾崎翠 1896-1971(75歳)

樋口一葉 1872-1896(24歳)

ルドルフ・シュタイナー 1861-1925(64歳)

ワシリー・カンディンスキー 1866-1944(78歳)

ピエト・モンドリアン 1872-1944(71歳)

・色彩、色、構図。2万5千ページに及ぶメモ。合理的で緻密な仕事。

・湖、海、水のシーンが多く出てきて心地がよい映画。

・「絵の所蔵先を探していて、キーパーソンを見つけようとした」現実的。


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荒木夏実さん(キュレーター)×野中モモさん(翻訳者)のアフタートークのメモ

 -ヒルマと学友アンナ・カッセルとの生涯の友情。社会との繋がりが地縁、血縁のみになりがちだった女性。教育の場でできた関係によって創作活動が支えられた。教育の重要性。

 -カミーユ・クローデルも同時代。才能と性の搾取 ・今の時代、ヒルマの言葉に共感する人は多いのでは

 -ヒルマが世界をどのように見ていたのか、それは混迷を深める今の時代に必要な感性ではないか。

『社会を変えた50人の女性アーティスト』

 

 
 
 
 
 
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novellieren.com

 

 

女性と美術史に関しての参考資料

シモーヌ VOL.2 ――特集:メアリー・カサット――女性であり、画家であること』

 

『絵画の政治学』リンダ・ノックリン

 

ジェンダー分析で学ぶ 女性史入門』

 

ヒルマの作品を現代アートとして組み込むのは難しい。今の現代アートの市場システムは「どれだけ稼げるか」でできていて、ヒルマの作品はそことは相容れない」

というくだりを聞いて、映画『アートのお値段』を見ようと思っていたことを思い出した。このタイミングで見るの、良さそう。

artonedan.com

 

ヒルマの世界、なんとなくこういう世界観とも関連するのでは。

オンドマルトノ

オンド・マルトノ (Ondes Martenot) とは、フランス人電気技師モーリス・マルトノによって1928年に発明された、電気楽器および電子楽器の一種である。

youtu.be

 

テルミン

youtu.be

 

*追記 2022.5.7

キュレーターの藪前さんの評。

https://www.facebook.com/1280391740/posts/10219557362866254/

 

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本『赤い魚の夫婦』読書記録

メキシコ出身の作家、グアダルーペ・ネッテルの短編集『赤い魚の夫婦』を読んだ記録。

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どの物語も、もともと危うく保たれていた人間関係が、動物や虫や菌などの生き物が突然第三者的に入ってくることで、決定的に破綻する。その過程が読んでいてハラハラする。

ハラハラするのに、淡々としている。

スタイリッシュなのに、ずしんと心に重く残る。

リアリスティックだけれども、どこか現実離れてしている。

その相反するものが同時に味わえる、稀有な読書体験。

宇野和美さんの訳が素晴らしい。言葉の選び方や文章の流れ。

もともとのネッテルの文章もよいのだと思う。土着性もほのかに感じつつ、都会的。世界的に通用するような普遍さで書かれる日常。村上春樹の小説が世界で受け入れられている理由にも通じそう。

 

関係が破綻するまでの経緯は、起こっているときはもちろん、後日談としても、「人に話してもうまく説明できない、理解してもらうのが難しい」ような出来事で満たされている。現実と妖怪の世界を行き来するような不思議な感じは、杉浦日向子の『百物語』を彷彿とさせる。

かといってまったく現実にはあり得ない空想話かというとそうでもない。こういうことって現実に起こるよなと思わせる。

「わたし」とその生き物の境界が溶けるような感覚。身に覚えがある。

 

わたしは3話目の『牝猫』が気に入った。全5話の中で、一番明るさを感じる物語だと思った。途中主人公に起こることはとても辛いことだったかもしれないが、人生を失いきらないところはホッとする。

 

ほかの読者が言っていて、そうそれ!と思ったことの一つに、全話を通して、「暴力的なことが起こりそうで起こらないハラハラ」がある。とはいえ、「気持ち悪くなって読み進められなかった」という人の話もあり、それもよくわかる。

 

あんまり書くと面白味がないので、このへんで。

ぜひご自身で確かめていただきたい。

 

原書はKindleもある。試し読みで表題作の『赤い魚の夫婦(El matrimonio de los peces rojos)』が数ページ読めるので、音読してみた。一文が短くてテンポが良い、楽しい。

 

このお芝居を思い出したという話も聞いた。内容はわからないけれど、キーワードを拾うと近い感じがする。

theatercommons.tokyo

 

Guadalupeという作家の名で思い出すのは、先日見た、Malasangueというダンス。

LA LUPEと呼ばれたキューバの歌手、グアダルーペ・ビクトリア・ヨリ・レイモンドへのオマージュとして作られた作品。

www.sdballet.com

 

youtu.be

 

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