ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

本『同志少女よ、敵よ撃て』読書記録

小説『同志少女よ、敵を撃て』を読んだ記録。

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身内で読書会をすることになったので読んだ。ちょうどその時期に『高橋源一郎飛ぶ教室』でもこの作品が取り上げられていたので、聴いて読書および読書会の参考にした。書評と逢坂さんの出演とで2回あり、「飛ぶ教室」にしては異例の扱いではなかったかと思う。

 

読んでみて、思っていたのと違ったというのがまず第一印象。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』の語りのような、過去を振り返る証言のような内容を想像していた。フィクションの物語であり、小説だった。そりゃそうか。

読み始めたらおもしろくてぐいぐいと最後まで連れて行かれた。独ソ戦とはなんだったのか、史実の解説と現場からの中継、レポート。この小説を手がかりに、今のウクライナーロシア間の戦争に何がつながっていったのかを考えることができる。

戦時性暴力についても触れている点が画期的。それだけに読み終わって残るのは重い感覚。

文中で使われている用語からも、巻末の参考文献リストからも、さらに関心を広げて行くこともできる。

10代にもおすすめしたい。

 

本屋大賞の逢坂冬馬さん「絶望することはやめる」ロシアへの思い語る(2022/4/6)

www.asahi.com

 

※以下は内容に深く触れていますので、未読の方はご注意ください。

 

読書記録 

・ドイツ兵の日記や手紙が章ごとに挿入されることによって「あちらからの景色」が共有される。決してロシア万歳でもなく、どちらが正義でもない戦争の実相を表現しようとしている。

・家族が皆殺しにされる場面から物語が始まるところは、『鬼滅の刃』を思い出した。「鬼滅」は復讐の物語ではないということなので少し違うが、そのとき声をかけてくれた人について行くしかない状況に追い込まれたり、もともとその戦い方の特性があるところなどは似ている。戦っている相手が「鬼」と思っていたら、自分だって「鬼」だと気付くところも。

・女性同士の関係は、思い当たる感覚もあるようで、やはりどこか作り物っぽくもある。イリーナと少女たちの関係は女子校の部活の部長と部員のよう。女子校に通った経験はないので、あくまでもイメージだが、私のイメージというより誰かが作ったイメージの踏襲という感じ。イリーナとセラフィマの関係は、『風の谷のナウシカ』のクシャナナウシカに近い。イリーナからセラフィマへの「お前」呼び。陰のあるイリーナはクシャナ。こんな過酷な状況下でも常に精神が安定しているセラフィマはナウシカ。イリーナとリュドミラの関係はタカラヅカの同期生っぽい。

・「女性には女性の、狙撃兵には狙撃兵に最適化された訓練」(p.56)なんだろう、こことても怖い。「機能のみを追求した髪型になるということは、大げさに言えば、自らが兵器化することのように感じられた。」(p.61)つい、学校における意味不明な校則のことを思い出してしまった。

・「起点を持てと私は言った。そしてそれを戦場では忘れろとも言った」(p.75)「狙撃兵にとっての射撃が単に主要な構成要素の一部であり、引き金を絞る瞬間はその他に費やした全ての結果を出す『極』に他ならない」(p.86)冷酷な殺人者ではなく、職人というかアスリートということ。一方で「楽しむな」(p.264)という戒め。こういう立場、こういう職業がある。すぐ近くにある。

・「迫撃砲の周囲では観測手が地図と方位磁石を頼りに照準を調整していた。その隣に重機関銃が配置されていて、あたりに睨みをきかせている」(p.234)戦場での分業の様子もよくわかる。つまり戦争というものが、いかにシステマティックに行われるものかということ。

・「つまり誰かが動物を殺さなければならない。それは自分がやるのは、別に残忍なことではない」(p.92)猟銃を持って害獣を駆除したり、食糧としての動物を獲っていたいた頃の話。動物を殺すことと人間を殺すこと、必要であるかどうかを迷うこと、可哀想だと思う気持ちをどうするか。というテーマが繰り返し現れる。

・犬との交流。生き物を飼っている人には辛い場面がある。

・「なぜソ連は女性兵士を戦闘に投入するのか」(p.75)この問いに挑んだことが、この小説のすごいところ。「男女が同権であるということ」(p.109)「戦わない男は、女未満と見なされる」(p.182)などでも言及。「なぜか敵は女を殺す姿を見方に見せたがらない」(p.427)どういうことか。戦場と女。まだわからないことが多い。「生きて帰った兵士は敬遠され、特に同じ女性から疎外された」(p.468)この語りは『戦争は女の顔をしていない』でも明らかになった。

・セラフィマが「ドイツ語を学んで外交官になり、ドイツとソ連との友好の架け橋になりたい」と願うところは切ない。実際、語学を志すときに先生方がおっしゃっていたこと。言葉とは、そういう温かな感情のわくものでもあり、一方で敵の言葉が解することが身を助ける、生死を左右することにつながるような武器や防具にもなる。またもう一つの観点は「意思疎通可能な人間であると分かるため」(p.423)相手の言葉をわかろうと努めることは、相手を人間扱いするということと同義。言葉を学ぶ意味の一つ。

・「女への暴行は軍規に反する」「占領地で性病にならないための決まり」(p.31)
これは「慰安婦」問題を調べているときに出てきたこと。女性の人権や、人道的なことではなく。

・男性が大多数の土木建設や運輸などの業界の現場で働く女性の気持ちが少しわかるような。「イワン」と「フリッツ」という俗語からも、ここは基本男性のいるところ。

・用語や時代背景など簡単に説明してはいるが、さらに興味の湧いたことを自分で調べる「余地」も残されていたのがよかった。「ヒーヴィ」「督戦隊」「ピオネール」「ケーニヒスベルク」「国民突撃隊(Deutscher Volkssturm)」「スタフカ(Stavka)」など。ソ連国民必須の軍事基礎訓練、フセヴォーブチ」についてはわからなかった。

・「防衛戦争であるということが、これほどまでのポテンシャルを発揮するとは……」(p.237)セラフィマのこの分析は、今のウクライナが重なる。

・「子どもが遊ばなくなったら、きっとそれは子どもとして生きることを諦めたときでしょうね」(p.229)どんな状況下でも子どもは遊ぶ。禁じられてもも遊ぶ。それをしなくなったとき、子どもは生きる意欲をなくす。大人と同じことをさせようとすること、遊びから徹底的に疎外すること、様々な方法で絶望させることで。子どもたちとの交流の場面はしんどい。

・「恐ろしい共産主義者の魔手に落ちれば皆殺し」(p.280)は、アジア・太平洋戦争での「生きて虜囚の辱を受けず」に通じる。

・「売春宿に連れて行かれた」(p.316)「その体験を共有した連中の同志的結束を強める」(p.355)(p.441-448)戦時性暴力。これに言及することが一つ画期的だったし、まさに今の時代の小説なのだと思う。「異様としか言いようのない生き方」(p.318)性を使って生き延びざるを得ない人間に言及されている。遠い国の話を思いながら読んでいると、これは「ここの話」だと気づける仕組みになっている。

・「戦争を生き抜いた兵士たちは、自らの精神が強靭になったのではなく、戦場という歪んだ空間に最適化されたのだということに、より平和であるはずの日常へ回帰できない事実に直面することで気付いた」(p.466)
どの戦争でも、戦場に赴き、帰ってきた人は多かれ少なかれこれを持っていて、直後には語ることができず(自分の精神的な苦しみと、社会からの抑圧とで)何十年か経ってようやく語れる人もいれば、語れないまま亡くなった人もいる。子孫や関係者が掘り起こす動きもある。

・生理とトイレと風呂と食事についてはどうなっていたのか。衣食住。事実というよりも、セラフィマの物語の中でもっと知りたい。「ついに女性用下着の導入を実施した」(p.338)はあっさりとしか触れられていない。

・「狙撃兵に好意的な歩兵は少ない」(p.342)狙撃兵と一般兵科についての違い、狙撃兵の孤独については何度も出てくる。同じ戦場にいても、専門や任務の違いで見える世界が違う。

・(p.354)セラフィマがプロパガンダを冷静に読み解くのは当時を生きている人として現実味がないような気もするが、現代に生きる者としては解説としてありがたいと思う。

・「一時間話し続けても延々と技術論だけが続き、少しも精神に関わる事柄が登場しないことに、多少の驚きを感じた」(p.362)この箇所、何か非常に気になる。

・「自らの被害を内面に留保することで、彼らは自らの尊厳を取り戻したようだった」(p.476)どの国にも語れない歴史がある。しかしその傷はなくなったわけではない。

・ちょうどこの本を読んだ前後にアウシュヴィッツ生還者からあなたへ: 14歳,私は生きる道を選んだ』 (岩波ブックレット NO. 1054)を読んだ。

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リリアナ・セグレさんは、「撃たない」を選択することで生き延びた。その話を引きずりながら『同志少女よ〜」を読んだので、セラフィマの決断もリリアナさんと同じなのかと思ったらそうはならなかったのでちょっと驚いた。小説の最初のほうで「撃たないぞ」という物語にも触れていたのに。何よりタイトルが『敵を撃て』。だからきっと「撃つ」か「撃たない」かはこの物語にとって重要な何かがあるのだ。今は浅くしか受け取れていないが、そのうちハッと気づくときが来るかもしれない。

 

*追記* 2023.6.16

〈対談〉戦争文学で反戦を伝えるには  逢坂冬馬×奈倉有里

『岩波』2022年6月号

https://www.iwanami.co.jp/book/b607796.html

岩波書店の #図書 6月号に逢坂冬馬さんと奈倉有里さんの対談発見。

逢坂さんと奈倉さんはごきょうだい。
高橋源一郎飛ぶ教室』でもお二人でゲスト出演されていた。

奈倉さんが翻訳したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『亜鉛の少年たち-アフガン帰還兵よ証言 増補版-』は今月末に出版。アフガン侵攻に従軍したソ連兵の語りを記録したもの。これもまた封殺されてきた歴史なのか。

そしてまた今も日々それが続いているのだ。つらい。でもこのつらさが対談で扱われていることがせめてもの救い。

奈倉さんのエッセイ『夕暮れに夜明けの歌を』も読みたい。

 

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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年

映画『国葬』『粛清裁判』『アウステルリッツ』『夜と霧』鑑賞記録

早稲田松竹で『国葬』『粛清裁判』『アウステルリッツ』『夜と霧』を観た記録。

セルゲイ・ロズニツァ監督の群衆三部作に加え、アラン・レネ監督の『夜と霧』の特別上映がセットになっている。

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2020年11月にイメージフォーラムで公開されていて話題になっていたが、タイミングが合わず観ることができなかった。早稲田松竹で再上映してもらってほんとうによかった。

観た順は、1日目『国葬』『粛清裁判』、2日目『夜と霧』『アウステルリッツ』。


国葬』のチケット販売の列が途切れず、上映開始が2 ,3分押すほどの人気ぶり。モノクロの淡々としたドキュメンタリーなのに。「スターリン」というワードに反応している年配の方がいらっしゃるのだろうか。

いつも思うが、早稲田松竹の客層は読めない。ああ、やっぱこういう人が観るよね!という勘が当たらない。毎日現場にいてお客さんと話している劇場の人だとピンとくるんだろうか。

 

この3作品はドキュメンタリー映画の中でも、記録映像を再構成して作るアーカイヴァル映画と呼ばれている。素材はモノクロなので、制作も何十年も前のようについ錯覚してしまうが、制作年は2016〜2019とごく最近。『アウステルリッツ』もモノクロだが撮影自体も近年。

旧ソ連はどのような時代だったのか、何を経て今のロシアになってきたのかを知りたいと思って観た。

また「群衆」というテーマについては、仕事柄、あらためて考える必要があると思っていた。例えば一対一の関係ではバランスが取れていた関係が、3人以上の集団になるとパワーバランスに偏りが出て、不均衡から暴力につながることがある。集団化、群衆化したときの暴力性には気をつけねばと常々思っている。「群衆」をテーマにした作品で、「群衆」の姿をじっくりと観察することで、また考えが進むことを期待した。

早稲田松竹の特集ページにも書かれているが、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻に関わり、ロズニツァの映画人としての立場が批判されたというタイミングでもあった。

 

以下は鑑賞メモ。※内容に深く触れていますので、未見の方はご注意ください。

 

国葬(2019年)

・淡々としていて眠くなるかなと覚悟したが、まったくそんなことはなかった。ただ記録されたものが流れているわけではなく、「群衆」というテーマに沿って、意図的に編集されている。とにかく量。量が伝えてくるものの凄まじさを感じる。

スターリンが1953年当時のソ連でどのような存在だったのか。人々が"同志スターリン"の死を悲しむ姿、打ちひしがれる姿が、これでもか、これでもかと映し出される。

・大量の花、一様にデザインされた花輪。3月上旬、あの寒い地域にあってあれだけの花を栽培できるものだろうか。温室栽培なのか、南のほうから運んでくるのだろうか。花輪以外にも鉢植えをレーニン像の下へ子どもが運んでいる姿もある。このフィルムに写っている当時子どもだった人たちは、今どうしているのだろう。共産党のシンボルカラーの赤と花輪の葉の緑を見ていると、まるで楽しいクリスマスのよう。

ソ連各地に撮影隊が出向き撮られたフィルム。たとえばコーカサス中央アジアの顔立ちや民族衣装。いや、衣装というかそれを日常の衣服として着ている。死因と死に至るまでの詳細な報告が村のスピーカーから流れる。病状や進行をじっと黙って聴く人たち。その人たちを素通りしていく人もいる。人々の吐く白い息、泣く姿、鳥の声。アゼルバイジャンの油田、ウラジオストクキルギスリトアニアウクライナリヴィウ、ドンバスの炭鉱。

・街角で新聞を求め、その場で読みふける人たち。号外のようだが購入しなくてはいけないらしい。それぞれに悲しみを堪えているように見える。会話もない。新聞の見出し「ソビエトの人々は働き続けなければ」。大通りが信じられないぐらいの広さ。車が20台ぐらい並びそう。

ソ連と関係のある社会主義国の政府の要人、または共産党関係者らが専用機で次々と降りてくる。寒いからみんな帽子をかぶっている。チェコポーランドフィンランド、モンゴル、中国、ブルガリアルーマニアハンガリー、ドイツ(旧東)……。

・「天才的頭脳」「国民のために尽くしてきた偉大な英雄」等、語られている言葉も初めて聞くと衝撃。工場労働者が手を止めて集まる。「ヨシフは私たちソビエトの家族でもっとも愛しい人」女性のスピーチに泣きだす女性たち、悲痛、鎮痛な面持ち。様々な場よで追悼のスピーチが行われる。そして「堅く団結せよ」と呼びかける。

労働組合会館の柱の間に設置されたレーニンの遺体を見るために(祈るとか別れを惜しむというより見にきたという感じがする)おびただしい数の人々が列を成す。これは自発的な行動なのだろうか。

・本編最後に流れるテキストでは、2700万人以上の粛清、1500万人の餓死とある。あれだけの人びとがスターリンの影響下で亡くなっている中で、群衆の中にもまさか知らない、無関係だという人はいないのではないか。この中にも被害者の家族や友人、あるいは自分がそうなりかけたという人もいるのでは。そういう人は遺体を見に来たり、葬儀に参列したりはしないのだろうか。あるいは、被害者という意識ではなく、悪いのは逸脱行為を働いたほうという認識になっている可能性もあるのか。あるいは自分の身の安全のために表向きは他の人と同じように振る舞いながら、心中はさまざまなことを考えているのか。そうかどうかもわからないほどに、あとからあとから映る、顔顔顔……。

・なんとか一人ひとりが個別の人間として見ようとする、名前のある個別の人間だと任指揮しなければという義務感のようなものが立ち上がってくる。実際に顔立ちも背格好も違う、性別も年齢も、社会階層も、子どもを連れていたり、階段を登っていてよろけそうになったり、倒れそうなほど泣いている人もいる。頭巾、スカーフ、帽子、毛皮、首回りが分厚いコート。ただ無表情な人が多い。感情が読み取れない。呆然としているのかもしれないが、わからなくて怖い。ものすごく悲しそうな表情を浮かべる男性がいて、少しほっとする。

・どんどんどんどん人が入ってくる。たくさんの部屋を通り抜けて、執拗に映される人を見ていると、同じ行動をし、同じように振る舞うこと、それ自体が恐ろしいと感じる。個別化が難しいほどの数の人が集まると、「塊でとらえないとこちらの身が持たない」という気分になってくる。列や波や群と表現したりする。この感覚はよく知っている。だんだん何を見ているのかわからなくなる。もういいよ、もう勘弁してくださいという気分になってくる。夜になっても途切れない列、持ち込まれ続ける花輪。

・ほとんど誰も祈らない。見て通っていくだけ。見せ物のようになっているスターリンの遺体。上野公園のパンダの前の行列を思い出す。合唱隊が歌い、感傷的な音楽が流れる。政府高官たちも次々にやってくる。家族もいる。聖職者もいる。この中にもたくさんの思惑があるのだろう。覇権争いがあるのだろう。スケッチする人、水彩で描く人、彫像を作る人は政府の指示で行っているのだろう。

・出棺。レーニン廟の前の追悼集会。何万人もの人々が集う。国民がここまで参加する、させられることの異常さ。人の死を悼むというこの場の感情は本物だということはよくわかる。ただ、一人の人間をここまで神聖視、神格化することがただただ怖い。個人崇拝の権化、「御真影」のようなものが運ばれる。スターリン以外の人の数の多さを見続けているので怖い。こんな環境で自分の軸を持つのは困難だと感じる。情報もない、知りようがない、一定の価値観で染まっている。それ以外を知らないと求めようがない。棺の重さによろける姿。くしゃみをする他国の要人、砲音が鳴り慌てて脱帽する工員。やっている方も、やらされている方も生身の人間なのだと、フィルムが言う。

スターリンだけが悪だったのではなく、スターリンを英雄にするフィクションを支えた無数の群衆がいた。

・国家への信頼と国民の団結を呼びかける中に、「ソビエト国家の敵に対して警戒を強めなくてはならない」という言葉が入る。外側の敵に対する強い怖れ、憎しみ。これが今のロシアにもつながっているのだろうか。・ちなみに早稲田松竹は今年開館70周年。ということは、1952年。スターリンが亡くなる1年前だ。

 

 

『粛清裁判』(2018年)

 ・壮大な葬式の後の『粛清裁判』を観るという流れ。時代的には遡っている。あれだけ悲しまれて送り出されたスターリンが、実際にやっていたことは粛清。しかもでっちあげの裁判で銃殺刑を言い渡し、その後恩赦を出すという一連の茶番劇。技師団体同盟「産業党」が反革命組織、破壊分子と見做され、一人ひとりの罪状を明らかにし、裁く場という設え。

・ここまでした人間があのように悼まれる。しかも『国葬』でスターリンの遺体が置かれていた「柱の間」が、まさにこの裁判が行われている。くらくらする。ドキュメンタリーとは思えないよくできた設定、できすぎている!

・ロシアがこういう史実を持った国であると知ることは、今を読み解く上でも重要だと感じた。今だけ見ていても「なぜそんな必要があるのか?」というところで止まってしまう。知らずに平和を願うことはもちろん可能ではあるが。

・英題は"THE TRIAL"。「裁判」と「試み」の両方の意味を掛けているのかもしれない。こういうでっち上げ裁判が成立するのかどうかやってみているという意味合いに取れなくもない。

・ベルが鳴り、駆け込んでくる傍聴人。2階席もあり超満員。見ようとして腰を浮かせる人々。公開裁判。しかし裁判というよりお芝居を観に来ているような雰囲気。豪華なシャンデリアもその演出を手伝う。実際これは茶番劇なのだからその感覚は当たっている。人々は何を見に来ているのだろうか。何を見たがっているのだろうか。

・ライトを向けられ、眩しそうにする群衆の姿が映るシーンが何度か挿入される。これが意味するもの。ライトを向けているのは、今見ている私であるような錯覚。ライトを向けられて眩しそうにしているのもまた私であるような錯覚。

・合間に挿入されるデモの映像。「ボリシェビキに死を!破壊分子に死を!」「プロレタリア革命の敵」「打倒ポアンカレ、銃殺を要求する、国家に対する裏切り」等々シュプレヒコールを上げながら、でっちあげ裁判にのって死刑を求める人々。のせられていることに気付いていない。いや、気付いていたとしても、鬱憤を晴らすために、攻撃できる何かを求めている集団、それが群衆なのかもしれない。国家によって犬笛が吹かれる。仮想的を作って攻撃する。恐ろしい。同じデモの場面は、それを印象付けるように何度か挿入される。権利を求めているのではなく、不満の吐口にしている。粛清といえば、知識層が言論の自由を掲げた「世迷言」で人々を扇動するから行われたのだと思っていたが、それ以外の理由、特権階級にあった技術者たちをスケイプゴートにして大衆をコントロールしやすくする目的でも行われていたと知った。

・被告人たちの供述と「裁判官」とのやりとりの中で、西側諸国の脅威が何度も何度も語られる。その怖れの強さはただ事ではない。「干渉」という言葉も何度も出てくる。「干渉の主目的はソビエト政権打倒」「外国の武力侵攻」「資本主義の復活」それなりに歳を重ねた人たちが、ここまでのでっち上げ裁判を本気で作り出し、遂行している。他の国、外国、違う民族、違う人種、違う社会体制はすべて自分たちの安定を脅かす存在で、今がうまくいっていると思いたい力。ロシアは2022年、またこれに近い状況になっているのだろうか。

・紙を見ながら読み上げているが、だんだんと演技にも熱がこもってくる。台本も個別の立場や人格を踏まえてよく練られているように感じられる。作られたシナリオと思えないほど生き生きしている。陰謀論も強く思い込めば本当にそうであるかのように表現できるということを思い出す。「被告」の供述の中には、アドリブで話して、その芝居の成立を助けているように感じる振る舞いもある。

・誘導質問されて、新しく事実を作らされる。闊達なやり取りに見える。それを群衆は真実と思い込む。その他、淡々と記録している係の女性たちや、警備係などの姿も映る。かれらにはおそらく「加担している」という意識は薄いだろう。みんなが共犯で虚偽を作り上げる。片方は政治的な意図で、片方は自分の安全を確保するため。

・別の場所を写すときに切り替えしではなくカメラ自体が振られるのも特徴だ。少ないカメラ台数で撮影されていたのだろうか。他の撮影カメラも写り込んではいる。

・何で読んだか忘れたが、「日本はお上主義。お上がちゃんとやっていないと文句を言うけれど、お上がすげ変わると言うことをきく」というフレーズを思い出した。まさに群衆だ。

・「被告全員を銃殺刑」と聞き、大喜びする群衆。拍手と笑顔。この時を待っていた!と言いたげな。怖い。「みんなが頑張っているのに足を引っ張ったり秩序を乱す奴は憎い、脅威になる」という発想が行き着く先はここになってしまうのかもしれない。いじめの発端は一見正しそうな理屈、同感してしまいそうになる情熱。「資本主義の復活論者に銃殺刑を」と熱に浮かされたように叫ぶ群衆たちは、おそらく資本主義が何なのかよくわかっていないのではないだろうか。

・最後に示される衝撃の事実。「群衆」を形成していた一人ひとりはスターリンの死後、それを知ってどうしただろうか。自分がデモに参加したり、傍聴席で拍手したことなど忘れて、今度は軽々と批判の言説にのったのではないかと想像してしまう。そしてそれは別にこの人たちに限ったことではなく、自分の人生にも思い当たることばかりであることに気づいて苦しくなる。

 

 

『夜と霧』アラン・レネ監督(1955年)

・なぜアラン・レネの『夜と霧』のタイアップ上映があるのかは、単に『アウステルリッツ』の「群衆」強制収容所」のモチーフに沿っただけでなく、その手法の対比や時代のズレも意図していたのではないか。『夜と霧』もドキュメンタリー記録映画だが、当時のニュースフィルムや写真などの映像に、1955年近辺当時の荒廃した収容所跡地のカラー映像をモンタージュしている。つまりこれは、1955年当時と1955年から見た過去(『夜と霧』)、それらを見る2010年代の眼差し(『アウステルリッツ』)さらに2022年の今(2022年3月末から4月初旬)から全てを見渡すことによって、何が浮き彫りになるのかを問う。そういう意欲的な企画上映だった。

・とても32分とは思えない長い時間。人間の残虐さをひたすら突きつけられる。私自身はこれまでも様々な資料で見てきたものが多いが、それでも直視できない映像もあった。それでも観てよかったと思う。35mmフィルム上映だったのもよかった。公開当時の人々の観たものに近づけるように思えた。

・流麗な音楽。詩のようなナレーション。現代に慣れ親しんだドキュメンタリー映画のつくりではない。カラー映像で映される荒野、鉄条網、監視塔。1955年の頃には、アウシュヴィッツがあんなに廃虚になっていたとは知らなかった。今や「ダークツーリズム」の筆頭にあげられるような一大観光地と化しているアウシュヴィッツだが、誰も近づこうとしない、近づけない時期があったということ。それを知れただけでもこの映画を観た価値があった。

・1935年の映像。機械と化した人間。喜ぶ群衆。建設に業者が群がる。このことを忘れてはいけない。特需と喜んだ人間がいた。「労働力」を使った人間もいた。

・連行、検挙された人々の中には手違いでリストに載ってしまった人もいる。ふつうの市民だった人たちの絶望的な表情。締められていく貨車の扉。私はこの人たちがどうなるか知って観ている。そしてこの記録映像が誰の手で作られているのか、想像しながら観ている。それは30分のあいだずっと続く。直接的な暴力の跡よりも、このことが、『夜と霧』を観る中で今もっともしんどいことかもしれない。

・映像と写真にキャプションをつけるように映画は進んでいく。「ホロコースト」や「アウシュヴィッツ」という単語で目にしたり、耳で聞いたときには立ち上がってこないような種類の物事の細部が提示されていく。記録だけを使ってここまでできるのかという感想が湧くやいなや、「映像で表現できるのか、この恐怖を」というナレーションが釘を刺してくる。

・「これが人間か(Se questo e un uomo)」」というプリーモ・レーヴィの著作のタイトルを思い出す。およそ思いつくかぎりの人間の蛮行が次々に展開されていく。あまりにも苦しくなるのか、時折セットや劇映画のように見えてくる瞬間もあり、我ながら驚く。しかしこの感覚は非常に重要だった。このあと観る『アウステルリッツ』に生かされた感覚。

・連合軍が到着し、解放のときが来る。SSが出てくる。(女性のSSがいたのか!)場所からの解放はあるが、元囚人たちの真の解放は果たされているのだろうか?という問いがナレーションで投げかけられる。さらに、「我々の誰が次の戦争を防げるのだろうか」との声。今は虚しく響く。

自国の歴史を知る権利を剥奪されたか、あるいは操作されたことで、これはある国の特別な話と自分に言い聞かせている人もいるのだろうか。

 

 

アウステルリッツ(2016年)

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・タイトルの『アウステルリッツ』は地名ではなく、W・G・ゼーバルトが2001年に出版した小説『アウステルリッツ』の主人公の名前。このひねりについてはパンフレットを読んだがまだよく理解できていない。

・現代のザクセンハウゼン強制収容所を訪れる人々を定点カメラで場所を変えながらただただ映している映画。何も知らなければ公園に家族連れが遊びに来ているのかなと思いそうな冒頭。

・全編にわたり、意識的に音を取り込んで聞かせてくる。葉ずれの音、鳥の声、ごうごういう風の音、携帯電話の着信音、教会の鐘の音、遠くで行われている工事の音、飛行機のエンジン音、窓が開閉する音、子どもたちが走り回る音、虫の羽音。

・長細いバータイプのオーディオガイドを耳に当てて聴いている人たちの姿が映り、ようやくここが史跡のようなものであることがわかる。

・来場者の数がとにかく多い。「1945年……」の声がする。これもおそらく意図的に入れられた音。ゲートの "ARBEIT MACHT FREI" の前で自分たちを入れて撮影する人たち。つまり「記念撮影」。ここでようやく本当に何の場所なのかがわかる。とにかく人が多い。人人人、後から後からやってくる。パッと見だが白人が多いように見える。中南米や中東の人もいるのかもしれないがよくわからない。目が慣れてくるとアジア系の人も見つかる。アフリカ系の人はほとんど見ない。

・場所を変えて、来場者が所内を見て回る様子がひたすら映る。一つの場所に5分〜10分留まって、かれらの様子を観察する。見ているうちにだんだんと「自分自身が強制収容所になった」ような気がしてくる。この人たちは何をしに来たんだろうという眼差しで見始める。

スペイン語ガイドの声。英語ガイドの声。立ち聞きしている感覚。ときどきこのガイドの声が入ることで、映画の観客も、なるほど、ツアーではそういう話を聞くのか。ここでなければ聞けない新しく知ることに耳を側立てている。しかしツアー客の反応は薄い。メモを取る人は誰もいない。一人だけ頷いている女性を見た(全編通してその人しか確認できなかった)。無表情で、聞いているのかどうかもわからない。ショックを受けているようにも見えるし、面倒くさそうにも見える。だだっ広い場所をひたすら歩き続けるので疲れているのかもしれない。暑いのかもしれない。ガイドが「質問ある人は?なし?それも一つの答えね」と言う場面もある。

・いろんな見た目や特徴の人たちがいるが、例によって次第に群衆化してくる。「ダークツーリズムに大挙して押し寄せる人たち」に見えてくる。連れだって来ている人たちは何を話しているのだろう。たまにこちらと目が合う人もいて、どきっとする。

・タバコを吸ったり、ペットボトルを頭に載せておどけたり、レプリカの絞首台でつるされたポーズをとって写真に収まったり、カップルが微笑みながら軽いキスをしたり。「不謹慎」という言葉が浮かぶ。

・タイル地の台のところでポーズをとって撮影する人たちにはさすがにのけぞった。真ん中に排水口がついているところを見ると、おそらく解剖か何かに使われたのではないか。あとで調べたら病理研究室とのことだった。それでも現場にいればおおよそ検討がつくこれらの施設にあって、楽しく撮影できるのはなぜなのか、このあたりから深く考えはじめる。

・見学者というより観光客。20代でドイツのダッハウ強制収容所に見学に行ったことがあるので、そのときの記憶を重ねながら観ると、とてもそんなにはしゃいだ気持ちにはなれなかった。もしもあのとき誰かと見に行っていても、ほとんど言葉を交わせなかったと思う。自分が何に苛立っているのだろうか。そこにふさわしい振る舞いがあると言いたいのか。でも、自分は別の場でそうしなかったかというと自信がない。あのように振る舞っていたと思う。「不謹慎に」写真を撮ったり、「キャー」と嬌声をあげたことはなかったか。

・再び門に戻ってくる。最後の最後で、よりによって自撮り棒で記念撮影をする。距離を変えて3回。撮りましょうか?と声を掛け合うグループ。白い鳩と地球が描かれた揃いのTシャツを着て楽しげに笑い合う若者たち。

・カメラに写り込んでしまった人はこれを見たらどう思うだろうか。撮ることの暴力性、あばくという行為であることは百も承知で撮られている。残酷な作品ではある。

・ドイツにルーツのある人はこういう作品は撮れないだろうと思った。強制収容所を舞台にこんなに淡々とした、突き放した、事実を伝えていないような作品は撮りにくいだろう。もっと何か残虐的な面を描いたり、観る側にも向き合いと反省を促すようなことを描くのではないか。

・『アウステルリッツ』を観てとても複雑な気持ちになるのは、これは本当に歴史を知ることや、歴史を学び、今を省みる機会になりえるのか、疑問がわくからなのだと思う。開かれた施設に知る機会が置かれ続ける。そのことは重要だ。場所や物が語ることは大きい。ただ、何かが引っかかる。目の前にあっても真剣に受け取らないで済ませられることが。遺すこと、語り継ぐことの意味、そこから何を、なんのために学ぶのかが揺らいでいるように感じて、焦る、怖い。

 

ザクセンハウゼン強制収容所

www.sachsenhausen-sbg.de


ダッハウ強制収容所

www.kz-gedenkstaette-dachau.de

 

cinefil.tokyo

 

早稲田松竹のロビーのチラシ棚にはロズニツァの2018年の作品『ドンバス』が置かれていた。

f:id:hitotobi:20220613103952j:image

5月にこの映画が公開される頃には世界はどうなっているのだろうか、私は何をしているのだろうかと思っていたが、現在2022年6月、状況はほとんど変わっていないように見える。

 

サニーフィルムチャネルで配信中の池田嘉郎さんの解説でさらに理解が深まる。予習、復習にぜひ。

youtu.be

 

 

 

文学者、研究家、批評家によるレビューや論考も満載で、パンフレットというより本。早稲田松竹の上映時には売り切れていたので、イメージ・フォーラムへ買いに行った。

 

群衆といえば。『群衆心理』

www.nhk.or.jp

 

 

収録作の『沈黙』。何度も読書会を試みたが、まだ実施できていない。重いテーマ。

 

本「ファシズムの教室:なぜ集団は暴走するのか」読書記録

hitotobi.hatenadiary.jp

 

本『他者の苦痛へのまなざし』読書記録

hitotobi.hatenadiary.jp

 

戦争記憶の継承について最近よく考えている。

 

 

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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年

本『アイスプラネット』読書記録

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子が、国語の教科書におもしろい小説が載ってるよと教えてくれた。

椎名誠さんの『アイスプラネット』。

学校の宿題をきっかけに、子と感想をいろいろ話したのが楽しかった。

宿題のテーマは、「この手紙でぐうちゃんがゆうくんに伝えたかったことはなんでしょう」だった。話しながら子から出てきたこともなかなかよかった。

・ほらね、ほら話じゃなかったでしょ?

・やっぱり旅は楽しいな。

・今いる世界がすべてじゃない。世界にはひろい。自分の目でみてほしい。

・ゆうくんが一生懸命聞いてくれたから、ほんとにアイスプラネットを見る旅に出よう、自分の目で確かめようと思えたよ。

・こんな生き方もあるよ。

・みんなからは居候とかダメ人間みたいに言われてるけど、自分では自分のことを、そう思ってない。誰から何を言われても自分は自分としていればいいんだよ。

 

親でもない、先生でもない、こういう「斜めの関係」の大人が身近にいるのっていいよねということなども話した。そう、このお話はやっぱりそこがいいんだよなぁ。愛があって、慈しんでくれているけれども対等で、相手がただいてくれることが成長や挑戦のきっかけになるような。

友達とのLINEの会話で「ぐうちゃん」の話が出てくるのもいい。授業のあとに授業であったことをあーだこーだ話すのは、同級生のいる醍醐味。たっぷり味わってほしい。

 

課題になると途端に思考が固まってしまうのはわかる。

「考えを書きましょう」という設問に一人で向かうのは最初は難しいけど、こうやって友達でも親でも、誰かと感想を話し合いながら、アイディアを出しながら考えてみる経験を何回かすると、自分と相談しながら言葉にしていけるようになる。

これもミニ鑑賞対話の場と言っていい。

 

『アイスプラネット』について調べてみたら単行本もあるらしく、図書館で借りて読んでみた。教科書のほうが先で、単行本のほうは続きでもなく、あの物語から膨らました物語という位置づけだった。ぐうちゃんが世界を旅していろんなものを見聞きしてきたことを、悠くんにおすそわけしている。

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bookclub.kodansha.co.jp

 

教科書のほうは二人の関係性の変化や、悠くんの内面の成長にスポットが当たっていたが、単行本のほうはぐうちゃんの話の中身に「へええ」となるつくり。単なる土産話でもホラ話でもなく、わりと自分が当たり前だと思っていることは、一歩外に出ると当たり前ではないんだよということを、国を変え、テーマを変えて教えてくれる本。

 

どちらがどうと比べられないけれども、教科書のほうの中2の国語の教科書という目的を与えられた短編のほうが詰まっている願いとしては熱いような気がする。

学校に通って国語の授業を受けたら必ず通る時間、そのときに手渡される物語として何がよいかと考えて作られていると感じる。

 

国語の教科書に載っていて好きだった物語、初めて知って驚いた物事のことは、大人になってもけっこう覚えているものだから、子には一つでもそういうものに出会ってくれるといいなと親としては願う。

 

去年の西加奈子さんの『シンシュン』もよかった。

『アイスプラネット』も『シンシュン』も教科書の一番初めのページに掲載されている。しかも書き下ろし!いいなー子ども!

note.com

 

https://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/archives/14971

 

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能『道成寺』@国立能楽堂 鑑賞記録

觀ノ会「道成寺国立能楽堂にて鑑賞した記録。

tomoeda-kai.com

 

道成寺』を観るのは今回が初めて。お能は好きだけれど、まだまだ初心者の域なので、有名な曲でも観ていないものはまだまだたくさんある。むしろ観たほうが少ないので、そちらを数えたほうが早いぐらい。

道成寺』もいつか、いつかと思いながら日々が過ぎていたが、觀ノ会のこのチラシを見たときに、「今かな」という気がした。作品との出会いはいつもインスピレーションだが、お能の場合は特にそれが強い。これまで然るべきタイミングに然るべき曲に会ってきたので、今回も勘を信じることにした。

観能仲間も2人、行くことになった。

「精神力、体力の強さと均衡が求められる本曲」とチラシには書いてあるし、「道成寺は観る方も心身が削られるので体調を整えて。鐘入りの場面では心拍がえらいことになってぐったりします」というアドバイスをもらった。

そんなに!?

緊張してチケット取るだけでぐったりして、厄が落ちた気がした。(実際はそこから当日までの約3ヶ月は厄まみれだったので、むしろチケットを取ったことで厄がついたのかもしれない……)

本や動画で予習をしていたらようやく、ああ、こういう感じかとわかってちょっと気持ちが落ち着いた。ビビリすぎ!

ダイジェストだし、流儀は違うし、本物とは受け取るものが全く違うけれど、一端を知るという意味で確認できてよかった。

youtu.be

 

最初に解説トークがついていた。

・「道成寺物語をめぐりて」「あの「乱拍子」はいったい何か」

「乱拍子は身体の使い方、踊りの基本。舞台の上で身体をどこまで存在させられるか」「乱拍子は《檜垣》でもある」

「鐘は竹で組んだ籠状のものに布がかけてあって、下は鉛の輪っか。80kgあるので、落ちて下敷きになったら死ぬ。だから舞台ではあるけれど、やる方も見る方も命がけ」

「なぜ女ばかり蛇になるのか?非力だから。今も社会的立場は低いけれど、昔はもっとは低かった。女のままでは思いは遂げられない。欲望を遂げるには姿を変える必要があったこと。さらに生態がよくわからない、手も足もない、存在自体が武器になるような威圧感と不気味さを持ったもの、それが蛇」

「感情に訴えかけるものを排して、すべて乱拍子に緊張感を持たせるために徐々に構成されていった」

 

 

これから大曲に向かうのだという緊張感に満ちて、奏者や演者が出てくるのだけれど、シテが橋掛りを渡るときはもうまったくまとっている気のレベルが違った。

ああ、なんという孤独!

これを演るのにある程度の修行が必要で、技術だけでなく、精神も達していなくてはいけないという理由が、この時点で既に分かる。

 

そして鐘を吊ったあたりで地震が起こった。そのあと特に何事もなくてよかったから言えるけど、まるで演出の一部みたいだった。怖。もちろん舞台上は何も起こっていないかのように進む。鐘が落ちたときに能力たちが「雷か地震かと思った」という場面があるので、そこにつながっているような気もする。そんな前振り要らんけど。

 

いつもの能は、演者が皆自分の身体を役に全て預けて、舞台に従事してくれているので、観客の私はどんな感情も舞台に投げ込めて、観たいように観ることができる、という体験だった。

道成寺はこれまでに観たそれらの能の体験と違っていて、安易な感情移入や自己投影を許さない、理解させないところがある。これは『戦場のメリー・クリスマス』を観たときの感じに似ている。

 

注目の乱拍子。乱れる程に激しく速く大きく身体を動かすイメージが字面から浮かぶが、実際は真逆で、ほとんど動かないし、間合いも長い。「せぬひまがおもしろき」の究極の形かもしれない。謡が少ないのも特徴。

コンテンポラリーダンスみたいだった。急ノ舞への突然の転換は、「わかる」感じがした。多くの物事は水面下で動いている。何も起こっていないように見えて、ギリギリのバランスでかろうじて保たれているものやいつ爆発してもおかしくない動きがあり、それに気づいている人はいる、みたいな。

最中は、舞台以外からはほとんど空調の音しかしなかった。あんなに人間がたくさんいるのにな!観客が皆息を詰めて見守るような。凄まじい時間だった。終わってから思わずふぅ〜とため息が出た。あそこは30分もあるそうだけれど、体感では長いとか短いとかがよくわからなくなる。そもそもお能を観ていると時間の感覚がわからなくなるのだが。

いやしかし、能楽師の身体能力ほんますんごいですね。毎回思うけど、今回は特に。
どうやって鍛えてはるんでしょうか。

 

狂言(アイ/能力)の台詞が多く、動きも転がったり押し問答したりで笑いがあって、人間味がある。強い緊張のある舞台、人間でなくなったかのような人物たちの中で、親近感を持てる存在はありがたい。観客との架け橋になっている。

 

あらすじの方に注目してみる。

妄執の対象は自分が殺した男ではなく鐘。そうならば「女の情念」の話じゃなくなる。「純粋な念だけがある」ということを事前解説でも話されていたけれど、そうなると性の別関係なく、いろんなものが当てはまってくる。

目的はとうになくなっているのに、「鐘が吊られる」という形が生まれると、自然に起動する何か。カミュの『ペスト』に"ペストは何回でも現れる"というようなことが書いてあった、ああいう感じに近いかもしれない。

一人の人間の持ち時間じゃ到底足りないような、長い時間をかけて潜伏している「あれ」。予感だけは山ほどあるのにどうしても止められない「あれ」。能力(のうりき)が一旦結界を張ったのに、女をアッサリ入れちゃうようなあの感じ。

100年もの間、鐘を釣れなかった人々の苦しみがあるというふうにも読める。受けた打撃の強さがそれほどまでに深かった。話題にすることもできなかったのかもしれない。100年という時間の長さが必要なのかもしれない。そういうことって歴史の中である。

 

事前解説で「蛇が執心してるのは男じゃなくて鐘。鐘が重要。しかも鐘は落ちていればOKだけど、吊ってあるのはNG。吊らせたくない」ということをどなたかがおっしゃっていたのが気になっていた。

それについての仮説。

私はプーチンまたはロシアのことを思いながら観ていた。

ウクライナがほしい、そこにいる人間はどうでもいい、ウクライナを奪還する」みたいな外側、形、器への固執。ロシアとウクライナとの長い長い歴史は、けっこうな妄執を生んでいるのではないか。

そんなふうに、寂しさや傷つきから自分自身とのつながりを手放すと、漂っている念に付け込まれる。乗っ取られる。そういう「虚無」との闘いは、『風の谷のナウシカ』や『はてしない物語』でも出てきた。

私たち人間は、それらの物語や演劇の力でかろうじて現世に踏みとどまれているのかもしれない。 あるいは、踏みとどまらせることが、人間が創作することの目的なのかもしれない。

 

道成寺》は、父親が娘の自立を父親を阻んだ("愛"の歪み)末の悲劇とも見ることができて、オペラの《リゴレット》を思い出す。

あるいは、同意なき性行為に及ぼうとした上に、認知の歪みからストーカーと化し、呪い殺すまで支配しようとした犯罪者にも思える。そしてその念に触れた者が、次々に加害に手を染め、今に至るまで犠牲者を出し続けている……そんな物語にも読める。

「若い僧の美しさに愛欲を覚えて強引に契りを交わそうとする」という物語だとしたら、『薔薇の名前』も思い出す。いずれにしても「男性」が作った物語ではある。

 

ジェンダーといえば、解説者は5人中3人が女性。お客さんには馬場あき子さんのファンの方も多くいらしていた模様。お能の客層としても女性が多いものね。演者は男性が多いけれど。そういうジェンダーを意識したキャスティングや内容にしたのかもしれない。伝統文化の分野にも波が来てると感じる。

 

会誌『觀 - Ⅴ』500円相当と、番組(プログラム)がお土産でついてくる。

番組のほうは、一般的な演者やあらすじ、見所解説の記載だけではなく、道成寺の特異性を成立過程や装束などで説明している。特に舞台進行表が貴重。これは永久保存版。

 

このおまけにさらに、前段として60分、2種類の解説トークがある。これでこのチケット代はほんとうにお得だった。リーズナブル。納得がある。

中正面は鐘後見のがんばりも見られた。中正面の後ろのほうでスタジアムっぽい画角で全体を俯瞰するのも迫力があって好きだが、今回の3列目あたりの近さもよい。

 

冊子や解説トークもそうだし、こういうイメージビデオをつくるところにも、『道成寺』という曲へ向かうための強い覚悟を感じるし、觀ノ会という能会が共有したい価値や進もうとする方向の一貫性も見える。伝わってくる。

youtu.be

 

*追記* 2022.6.21

片付けものをしていて見つけた。これだ〜

橘小夢(たちばなさゆめ)《安珍清姫》(大正末頃, 弥生美術館蔵)


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映画『ニュー・シネマ・パラダイス』鑑賞記録

シネマ・チュプキ・タバタにて『ニュー・シネマ・パラダイス』鑑賞。黒板絵すっごい!

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もうなんべん観たかわからない。
15回は観たと思う。
中学か高校のときに初めて観て、私が大学でイタリア語を学ぼうと思うきっかけになった映画だった、ということをきょう思い出した。忘れてた。

Qualunque cosa farai, amala!
何をするにせよ、それを愛せ!
Come la magra cappella del Paradiso, quando eri piccino.
子どもの頃に映写室を愛したように。

テーマ音楽が流れただけでもう自動的に涙出るよね。こういう映画はもういいとかわるいとかわからない、自分の人生の一部、自分の身体の一部になっている。

私の斜め前に座っていた人もたぶんおんなじ感じで、もう「ウウッ」と声あげて泣いてはりましたね。隣に座ってたら背中ぽんぽんし合いたいような気持ち。その人が泣くから私ももらい泣きするような場面も多々あり。同じものを今共有している感じがすごくあった。

お母さんと小学生ぐらいの娘さんと思しき関係のお客さんもいらしたり。いいなぁ親子でこの映画を共有できるのは。ちょっと手渡していく感じもあるよね。映画の中のテーマとも呼応して。

そんなふうに客席が温かい雰囲気なのもよかった。


4年くらい前に感想シェア会をやったときにもフルで観たけれど、そのときと今とでもまた体験は違っていた。きょうは大人のトト、トトのお母さん、神父さんや劇場のオーナーやアルフレードに共感したりで、気持ちが忙しかった。(そしてうれしいことに、4年前に観たときよりもイタリア語が聞き取れていた。去年から少し勉強し直しているのだ。)

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10代の頃はサルバトーレとエレナの恋物語として見る中に、時を経て変化していくことがあるというふうに見ていた気がする。

今は、老いること、病や傷を持つこと、死ぬこと、無くなること、喪失や悼みを抱えること、長く果てしなく愛が続くことなどに心が動く。ガンガン元気なものより、儚く消えてゆくものを美しいと思う。老いだなぁ。

何歳の人でも見て何か感じられるところがこの映画の良さ。


しかしこれをジュゼッペ・トルナトーレは33歳で撮ったんよな。そこがすごい。
『春江水暖』のグー・シャオガン監督もそのくらいの年齢で撮っていたはず。
サラッと老成したものが作れる若い人たちはいるんだなぁ。

 

国内の地域の経済格差、貧富の差、共産党員の迫害、マフィアの闘争など社会情勢が見える。教員の生徒への行き過ぎた教育(いや、あれは暴力だ)は笑いの場面になっているが、共産党員の息子でのちにローマへ引っ越していくペッピーノが終始一人顔を覆っている様子は何事か伝えている。映画を見せろと劇場に押しかける群衆を「何をするかわからないのが群衆」と批判して見せるアフレードの姿もある。

甘く切ない物語の端々に、人間社会への冷静な観察がある。またそういうことに今頃になって気づいている自分に驚く。

イタリア(シチリア)からソ連まで出征していたとか、戦後兵役があったなど、実はイタリア近現代史があまりわかっていない私。一度学んだはずだけど忘れている。学び直したい。

イタリア語ももっと学びたい。スクリプト(脚本)がほしいなと思って探しているんだけど、見つからなかった。

 

今見ると、エレナの家の下に毎夜通うサルバトーレの御百度参り(?)は小野小町深草少将の伝説のようだ。この話は、お姫様に対して身分違いの恋に落ちる男の話としてアルフレードがサルバトーレに聞かせる伝説からアイディアを得て、サルバトーレが実際にやってみているのだが、世界のいろんなところで深草少将のような伝説はあるのかもしれない。

 

そうそう、シネマ・チュプキ・タバタの音声ガイドは素晴らしかった。今回のために20年ぶりに改訂されたそう。言葉の選び方がやはりよくて、倍増しでよかった。ディスクライバーとしての経験と、個人の人生の経験と、重なってより心に沁みる映画になっていた。

音声ガイドで観ている視覚障害者の方と感想を交わしてみたいな。

 

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エンドレスで流す。

youtu.be

 

トルナトーレ監督は、子役のトトがそのまま大きくなったみたい。2008年のイベント動画。サムネイル左。

 

youtu.be

 

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6月、7月のチュプキは岩波ホール特集。

当館の前身となるバリアフリー映画鑑賞推進団体City Lightsは
岩波ホールで音声ガイド付き上映会を行なっていました。
大変お世話になってきた岩波ホールに感謝の気持ちを込めて、
思い出深い作品をセレクトした「ありがとう、岩波ホール」特集上映 を行います。 

ホームページより)

6月前半 スケジュール
 『ベアテの贈りもの』
 『宋家の三姉妹  』
7月 スケジュール
 『ハンナ・アーレント
 『終りよければすべてよし』


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追記)

後日、10代の子を誘っておかわり鑑賞。

---

ほとんど話もしたことがないのに、100日参りするのはどうなのか。あのお話を真似てみたかっただけでは。思春期っぽい。恥ずかしくて見ていられないところがあった。でもあれば1954年当時の話ではあるので、古風ではあるのかもしれない。

---

など感想を話せてよかった。

 

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玉堂美術館 鑑賞記録

5月21日、新緑の候。青梅まで行く予定があり、近くにどこか寄れるところはないかなと探していたら、グーグルマップに玉堂美術館が現れた。

www.gyokudo.jp

そういえば、去年、山種美術館川合玉堂展を見たときに「晩年は青梅で過ごした」とあったなと思い出した。美術館があるらしいことと、行ってみたいけれどちょっと遠いからまたいつか機会があればなと思っていたことが……ここでつながる!(楽しい)

そのときの鑑賞記録。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

山種美術館の没後60周年記念展の図録。たぶんまだ同館で販売していると思う。

コンパクトでよくまとまっている。今回のように、どこかで川合玉堂の作品に出会ったときに真っ先に参照する一冊として手元にあるとよい。おすすめ。

f:id:hitotobi:20220607132823j:image

 

実際に来てみると、疎開がきっかけではあったが、その後もここで画業に集中したいと思った気持ちがよくわかる。

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天井が高く広々とした室内には、10代の頃の練習帖から、晩年の作品、愛用の画材まで幅広く展示されている。

風景の中に働く人びとの姿も写されているのが玉堂らしさではないかと思う。人間讃歌であったり、人間を通じてあらためて知る自然の美しさや厳しさだったり。


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虎の絵は山種美術館川合玉堂展でも印象深かった。出征する男性たちやその家族に頼まれて描いたもの。あるいは面識のない人にも贈ったとか。
「虎は千里走って千里帰る」という言い伝えから。
無事の帰還を願う思いと、そうさせられる時代の流れを思う。玉堂の虎は人気があったという。


f:id:hitotobi:20220607132912j:image

 

写生は日課だったとか。
何を観ていたのか、何に興味を持っていたのか、どう捉えていたのかが感じ取れるよう。


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アトリエの再現。絶筆となった未完成作の複製。
窓に緑が写り込む。この時期だけの色と光。

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美術館があることが、その土地を訪れるきっかけになるというのは、いいな。小さな旅もいい。

 

ちょうど滋賀で山元春挙展を観たところだったのもよかった。

玉堂が担当した《悠紀地方風俗屏風》、このときの悠紀は滋賀県。主基は福岡県。
でも主基のほうを生まれも育ちも滋賀県である山元春挙が担当するってちょっと不思議ではある。

それともあえての人選だったのかな。玉堂のも当然素晴らしいんやろうけど。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

川合玉堂といえば、横山大観川端龍子の仲を取り持った人として個人的にアツい。ミュージアムを巡ったり、本などで調べていると、人間関係が次々につながっていくのが楽しい。自分だけの人物相関図が出来上がっていく。

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映画『桃太郎 海の神兵』鑑賞記録

映画『桃太郎 海の神兵』を観た記録。

www.shochiku.co.jp

 

この映画を知ったきっかけは何だったか定かでないが、日本のアニメーション映画史上、非常に重要な作品としてうっすらと知っていた。たまたま仕事で映画を観る必要があり、Amazonの「プラス松竹」というサブスクに加入していたところ、ラインナップされているのに気づいた。

手塚治虫が、焼け野原に立つ道頓堀の大阪松竹座の、ガラガラの劇場で観て涙を流すほど観劇し、これでアニメ製作を強く志したという、そういう作品でもある。

同じ道を歩む者なら興奮を覚えないわけにいかない、高度な技術と感性の素晴らしさを嬉々として語る様子。素人の私が見ても、「あの大戦末期にこんな映画があったのか!」と驚く。でも仕事の最終的な目的を考えると、一つひとつのコマ、シーンにいちいち寒気を覚える。

 

冒頭で示される「兵隊さんは戦地で何をしているの?」という素朴な疑問がキーになっていて、全編がそれに答えるような内容になっている。それを言葉でくどくどと説明するのではなく、自然で滑らかな動きで、役割を持っててきぱきと働く姿や、生活を見せることによって示していく。どのように日々を送っているのか、戦っているのか。中には本当にそうしていたこともあるだろうし、美化している部分もあるだろう。モノクロだし、動物なのだが、リアリティがある。

敵が誰なのか、誰と戦っているのかをわかりやすくするために、子どもが知っている桃太郎の物語に置き換えるという手口(と言っていいだろう)は残酷だ。自分たちが日頃大人たちから聞かされていることと、このアニメーションで扱われていることは一致している。それによってまた「信じる」根拠が増える。多層的になっていく。

動物で子どもの声であるだけに、うっかり親しみが湧いてしまいそうになる。自分が親になって、子が小さい頃にたくさんのどうぶつが出てくる絵本や物語をたくさん見せてきたことを思い出すと、胸が苦しくなる。「鬼ヶ島」が「鬼」に乗っ取られた顛末を描く影絵のクオリティも高い。普段は禁じられている異文化への憧れも、ここでは惜しみなく提供される。TVもない時代、同種の目的を持ってつくられた創作物を子どもたちは食い入るように見たことだろう。そして男の子は「お兄さん」に憧れただろう。

そもそも全編が子どもの声でできているところが怖い。声を当てているのは職業声優なのか、子どもなのか、あるいは子どものような声を出せる大人なのかは不明。

 

海軍省が巨額の費用を投じて作らせたプロパガンダ映画、国策映画。昭和19年12月に完成し、昭和20年4月に公開。ちょうどアメリカ軍が沖縄本島に上陸しているとき。

冒頭には、これが国策映画であること、日本のアニメーション映画史にとって重要な作品のため残し、公開していることが松竹によって示される。

映画のターゲットであった子どもたちは疎開して都市部にはいなかったし、映画館も空襲に遭い上映するところがなかったりもして、リアルタイムで観ていた人はそう多くなかったという。それはよかったのか、皮肉めいているのか、なんなのか、なんとも言えない気分になる。

 

製作の苦労はあったのだろうが、全編にわたってつくることの喜びに満ちていると感じる。多くの技術的な工夫があり、感性の表現があり、能力の深化がある。作家にとっての活躍のチャンスだったのだろうと、そこは非常によく伝わってくる。むしろ自分にしかできないことで貢献できるという喜びさえあったのかもしれない。戦時にはそういう情熱や野心が多く利用されたことだろう。

 

取材のために落下傘部隊に体験入隊したというだけあって、子ども向けのアニメーションとは思えないほどにリアリティがある。今のCGでつくるリアリティとは全く違う質の表現。従軍カメラマン、映像技術者、画家とはまた異なる表現で現場を克明に記録している。そういう意味でも貴重な作品。絵もすごいが、音もすごい。どのように録ったのだろうか。海軍から素材の提供があったのだろうか。

徹頭徹尾、非の打ちどころがない国策映画。初めて実物を全編通して観ることができてよかった。実物として残る、アーカイブされていることには大きな意味がある。

 

とはいえ製作者の側に立って観ると、戦後いかに活躍したとしても、自分のこの仕事が「存在するべきではなかった」と見做されるというのは、どのような気持ちなのだろうか。想像もできない。

と書いてみて、いや、フィクションのためのフィクションを作るという仕事はいつの時代にもあり、後世から見れば「加担した」と判じられることも多いことにも気づく。加担したつもりはなかったとしても、それが直接的、間接的に人を殺すことだってある。

かといってどんな責任が取れるのかということも、ひと言では断じられない。自分が仕事を通じて過去にしたことを思い返しても、難しいと思う。

こういう無数の人の物語がまだ語れずに埋もれているのだろう。語られることなく亡くなっていった人も多いのだろう。

 

資料

・焼け野原の国策アニメ『桃太郎 海の神兵』/週刊金曜日7/9号(2021年)

図書館で読ませてもらった。"製作時、徴用などで若いスタッフが抜ける困難な状況下、監督らは落下傘部隊への体験入隊など取材を重ねたという"(本文引用)


・「海の神兵」を知っていますか? (2011年5月30日)

www.asahi.com

 

・『戦争と日本アニメ  「桃太郎 海の神兵」とは何だったのか』佐野明子, 堀ひかり著(青弓社, 2022年)

イムリーにこんな本も出たので、読んでみる。

www.seikyusha.co.jp

 

・瀬尾監督の前作に、真珠湾攻撃を題材にした中編映画『桃太郎の海鷲』(ももたろうのうみわし)がある。当時の国産アニメは10分程度までしかなかったので、37分もの作品は快挙だった。

これも見てみると、『桃太郎の海鷲』でやり残したことを『海の神兵』で実現したり発展させたりしたことが見えるのかもしれない。機会があれば観たいが、なかなかエネルギーを使うものでもある。

 

ここ数年追っているテーマの一つに、「アジア・太平洋戦争中のプロパガンダに協力した芸術人・文化人」がある。

たとえばこの映画で表されたようなこと。

hitotobi.hatenadiary.jp


たとえば展示で見たようなこと。

note.com

 

あるいはこのような「語られてこなかったこと」「未だ直視できないでいること」

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アニメーションや人形劇を使ったメディアコントロールを調べたくて入手したところ。

 

引き続き探究していく。

 

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映画『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』@岩波ホール 鑑賞記録

岩波ホールで『歩いて見た世界』を観た記録。

www.iwanami-hall.com

youtu.be

 

2022年7月29日に閉館する岩波ホールの最後の上映作品。

最後は必ず観にくるという自分への約束として、前作『メイド・イン・バングラデシュ』を観に来たときに前売り券を買っておいた。

 

原題は"Nomad: In the Footsteps of Bruce Chatwin"

一つの人生を振り返りながら、世界との繫がりを結び直す、詩的で穏やかな作品。重々しさと神聖さが漂う。霊性、Spirituality。

過剰に美しく仕立て上げられているのではないかとか、植民地主義的な眼差しはなかったのかとか、いろいろ気になるところはありながらも、呼吸も穏やかになり、今観ているものが確かに心身に作用するのを感じながら過ごした。

 

最近流行りの矢継ぎ早の伝記ドキュメンタリーとは一線を画す、作家の芸術作品になっている。チャトウィンへの個人的な友愛。これがなくては撮れなかった映画。そして監督自身の人生哲学。長いキャリアの末に到達した場所へと観客を誘ってくれる。

ちなみにヘルツォークは多作。2020年までに劇映画、ドキュメンタリー、短編・中編・長編合わせて計67本!フレデリック・ワイズマンにも驚いたが、ヘルツォークも凄かった。

 

ヘルツォークの作品は『アギーレ/神の怒り』(1972年)のギラッギラのイメージが強かったので、年と重ねると人はこんなにも穏やかになっていくのかと驚いた。

そんなに単純に評せるものではないだろうが、知らずに見たら同じ作家の作品とはとても思えないだろう。『アギーレ』の場合は、やはりクラウス・キンスキーの存在感がありすぎるし、ヘルツォークも若かったし、なにより時代が違う。1972年は冷戦の真っ只中で、ベトナム戦争もある。世界は相変わらず戦時下にあった。

今は? 今はどうなのだろう。

この50年でいろんなことが起き、いろんなことが急激に進み、人類は今どこにいるのだろう。その大きな流れの中にあって、自分はどのように生きていけばいいのだろう。私を支えてくれる「神話」はあるのだろうか。

 

死を前提とした生の哲学が「旅」というキーワードと共に語られていく。自分の死生観にもゆっくりと触れていく時間。映画の音、歌の効果。

死そのものも怖いが、死に至るまでに何が起こるかわからないところが私は怖い。
一瞬なのか長いのか、不慮なのかある程度回避ができるのか、苦しむのか苦しまないのか、他者から傷つけられるのかそうではないのか。

そうして怖がりながらチャトウィンの晩年から最後の日々を見ていると、単に今の場所から次の場所への移行(transition)なのかもしれないとも思う。死からは免れない。

それにしても、人間の命というのはなんと儚く短いんだろう。

 

「人間にとって最も大切な資産は時間」とは、ある文化人類学者の言葉。

カタカナで「ノマド」と書くと、働き方に関する一過性のムーブメントのイメージが強い。原題をそのまま使わないのはよかった。

この苦しい時代の中で観た『歩いて見た世界』が、後の私を支えてくれるかもしれない。

岩波ホールの最終上映作品に立ち会ったということと、この映画を体験した時間と、映画のタイトルを覚えているということが。

 

チュプキさんの6月のチラシが岩波ホールへのオマージュになっていたことにようやく気づいた。6月、7月は岩波ホールミニ特集とのことです。

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最後の作品だから、予告編はないんだよなと寂しく思っていたら、本編の前にスライドショーが始まった。文化ホールとして始まり、エキプ・ド・シネマ(映画の仲間たちの意)として274作品、66の国と地域の映画を紹介してきた。

この場所に降り積もってきた「映画の時間」や人の気配や建物の歴史を感じて、胸がじわっとする。アーク状の壁の照明が消えて本編へ……。ああ、最後なんだなと思う。

今回は、『ハンナ・アーレント』を観に来たときに座っていたあたりに着席した。ここで一番印象深い映画。

www.iwanami-hall.com

hitocinema.mainichi.jp

https://www.tokyo-np.co.jp/article/154150

 

歩いて7分ほどのところにある千代田図書館では、「ありがとう 岩波ホール」の第2期を展示中。過去の上映作品を年代ごとに2本ずつ選んで、スタッフのエピソードと共に紹介。「長尺でも客が入る」という自信は、何十年もやってきた蓄積の上にあったのだなとあらためて気づかされる。小さなコーナーだが、足を運ぶかいがある展示。

www.library.chiyoda.tokyo.jp

 

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本『プリズン・サークル』読書記録

本『プリズン・サークル』を読んだ記録。

www.iwanami.co.jp

 

『プリズン・サークル』は、この本でようやく作品として完成したのかもしれない。

映画としては描けなかった経緯、編集に載らなかった数々のエピソード、監督が主語になるからこそ見えてくる現場の景色。

映画の中に確認できずもやもやしていた事柄が、この本でははっきりと用語として取り扱われている。女性差別、人種差別、DV、性犯罪、支援員の立場など。文章だからこそ可能になっている観察、分析、問題提起。

各章は問いかけで終わる。読みながら頭をはたらかせるが簡単に答えを出せない。ともかく読み進めるしかないとなんとか食らいついていく。

最後まで読みきると、坂上監督が想像を絶する状況と立場の中でこの映画を作っていたことがわかり、信じられない思いがする。本書は彼女のドキュメントでもある。

 

映画を観ていても驚いたが、あらためて被害者に対する反省や謝罪の気持ちが出てくるのにはほんとうに時間がかかるのだと思った。

本で書かれている範囲ではあるが、かれらの多くは自分が本当に何をしたのか、なぜ自分が裁かれたのかを言語化できていない。認識できていない。記憶が抜け落ちている人もいるし、言語化できないほど人間性が損なわれている人もいれば、納得もいっていないし、反省している「フリをさせられてきた」ことに恨みすら持っている人もいる。そんな姿を見ていると、厳罰化はやはり犯罪の抑止力にならないのでは、と思わずにいられない。

 

かれらがそうなるまでには、警察や裁判所や刑務所の構造があり、かれら一人ひとりの成育過程があり、それを作り出した社会環境があるのかもしれない。(もちろんだからといって犯罪として社会のルールを逸脱した行為であったことには変わりないが)

だからTCでは、反省の前にまず、その犯行に至った人生の経緯や、世界の見え方、価値観、自分について・自分の歴史を知ることを徹底して行っていた。語ること。聴くこと。その繰り返し。

かれらの回復プロセスを坂上さんの「カメラ」を通して見てくると、更生を「為す側」の教育観として、「したことに向き合えば、自ずと反省の気持ちが湧くものである」とか、「厳しくすれば、正しいことをするようになる」などの、人間に対する幻想のようなものが根底にある気がしてならない。

 

映画に出ていたシーンの背景、同時に起こっていた細かな出来事、誰のどのエピソードが、かれらにとっての回復段階のどこのタイミングで出てきたものなのかが、本書では解説されていて、より理解が深くなる。

かれらの親や近親者の抱える問題も、より鮮明に見えてくる。深刻な課題を抱える家族たち。一人の加害者の周りにいる人たち。社会的に、経済的に、精神的に困窮している。かれらが出所した後、関係はどうなったのだろう。(一部は描かれているが)

また、直接は書かれていないが、被害者に対する支援の不足もうかがわせる。だから、一人を罰したら関係者が救われるようには全くなってはいない。なのに継続されている従来の手続き。

 

映画のあとのエピソードも綴られているのがありがたい。出所後のかれらとの交流の様子や、立ち上げ当時にかかわった人たちが去った後の「島根あさひ」のTCの姿など。映画のほうは都合5回は観ているので、写っている一人ひとりに対して、他人のような気がしないのだ。そういう人は多いと思う。

 

坂上さんが後半に行くにつれ繰り返し語っているのは、かれらにTCの経験があったことは重要だが、「その型があればどうにかなるということではない」ということだと思う。

重要なのは一人ひとりにとって心理的に安全な環境や、TCの授業とTC以外の生活の中で培われた相互に影響を与え合い、学び合った者同士の信頼関係が生まれ、出所したあとも継続している点。

効果を説明することは本当に難しい。確かにあるし、こうして映像や証言で証明もできる。ただ時間がかかる。そして「わかりにくい」。わかりやすさに飛びつく衝動の強い世の中で、この営みを広げていくことは本当に難しい。不可能ではないが難しい。難しいが不可能ではない。そんなとき巻末の参考文献リストはありがたい。次にタイミングがきたとき、ここから学びをさらに進めていくことができる。

 

最近、ドキュメンタリー映画『私のはなし、部落のはなし』も観て、タブーについてあらためて考えている。

山内昶の『タブーの謎を解く―食と性の文化学』(筑摩書房, 1996)によると、タブーとはポリネシアの言葉 "tapu"に由来しているのだそうだ。"ta"が「徴(しるし)」、"pu"が「強く」。

神聖化されていて清浄を保持するために禁忌とされるものと,不浄であってその不浄を回避するために禁忌されるものの両義を持つ。境界を引くことで違いを明確にし、周縁化する。そして境界に位置するもの(どちらでもない場所、者、人)を特に徴をつけて注意を促す。

この二つの映画を思い返すと、強く徴をつけ、場所を分け、隔離し、排除し差別する目的が見えてくるようだ。「自分たち」を清浄で正常であるとし、その立場を守ることで得られる利益を確かにするためと、生きる上でのあらゆる不安や不満を入れ物をつくってその中にすべて投げ込むことで解消しようとする衝動のために。そしてときおり犬笛が吹かれ、一斉にそこにヘイトが投げ込まれる。

なんのためにそうするのかと言えば、維持したい「聖」「清」の顔をした権威、権力、ヒエラルキーがあるからだろうか。

 

映画を観なかった人にも、本の形であればもっと届いていく可能性がある。書店や図書館やSNSで、もしかしたらふと目にするかもしれない。

システムを強化する側にいる人、システムに違和感を覚える人、あの場にいたけれど撮影には「不同意」だった人、出所後に連絡のつかない人、犯罪の当事者の人……いろんな人に届く本であってほしいと願う。


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貼り付けた付箋をもとに、この記事とは別に読書記録をつけていたら、5500字を軽く超えた。受け取ったものが多い。

そういえば、出版後すぐにNHKラジオ「高橋源一郎飛ぶ教室」で本書を扱っている回があり、高橋さんが語っていた次の言葉が印象に残った。

「この社会という大きなTCの中で物語をつくる役割が小説家」

私がファシリテーションをした映画『プリズン・サークル』の鑑賞対話の場で、「社会の中にTCがもっとあれば」という感想が多く聞かれたことを思い出す。もちろん安心して語れる集いや関係性を作っていくことも重要だろうと思う。

ただ、ここでの高橋さんの言葉はそれとは少し違っていて、「この社会が既にTCだとする」という捉え方だ。安心や安全を感じられない人にとっても、ここを真のTC、サンクチュアリにしていくために、大きく捉えて働きかけていくこともできる、ということかと解釈した。私も個人で、あるいは仕事を通して、そういう役割を担う一人でありたい。

 

個人的には、ニ度も感想シェア会をやらせてもらったチュプキさんで購入できたのがうれしい。

映画をご覧の際にぜひ。在庫状況はチュプキさんにお問い合わせを。

chupki.jpn.org

 

映画『プリズン・サークル』に関する記録。

hitotobi.hatenadiary.jp

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参考図書:『ぼくらの時代の罪と罰森達也著(ミツイパブリッシング, 2021年)

参考図書:『こころの科学 188 特別企画:犯罪の心理』

藤岡淳子さんと毛利真弓さんの寄稿あり。

参考図書:『反省させると犯罪者になります』岡本茂樹(新潮社, 2013年)

 

関連記事。

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展示「生誕150年 山元春挙」展 @滋賀県立美術館 鑑賞記録

滋賀県立美術館で山元春挙展を観た記録。

www.shigamuseum.jp 

1872年に大津県膳所中ノ庄村(現、滋賀県大津市)に生まれた山元春挙は、近代京都画壇を代表する画家のひとりです。円山四条派の伝統を踏まえながらも力強く壮大な画風を創始し、明治、大正、昭和の画壇で華々しく活躍しました。特に、当時としては珍しい、カメラを活用した取材から生み出された風景表現は、春挙芸術の真髄と言えるでしょう。生誕150年を記念する本展では、館蔵作品のほか各地の春挙の代表作を紹介し、その画業を一望します。(滋賀県立美術館ウェブサイトより)

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滋賀県立美術館はリニューアル後に初めて訪問した。というか、前回は2008年の「アール・ブリュット〜abcdコレクション」だから……14年ぶり?なんと時間の経つのの早いことよ。

山元春挙、滋賀の大津にこんな画家がいたとは知らなかった。

 

写真や油彩なども採り入れて新しい技法を試している人なので、古典的な画題であっても今の時代にしっくりくるのかも。ロッキー山脈を日本画で描いているのはカッコよかった。吉田博もアメリカの山脈を思い出す。しかも意外と同年代。

 

今回知って驚いたのが、ポール・クローデルが1926年に膳所にある春挙の別荘を訪問していたこと。

ポール・クローデルは、カミーユ・クローデルの弟。詩人で劇作家で外交官。1921年〜1927年はフランス大使として日本にいた。外交官として最も昇進し、日本でキャリアの最後を過ごしていた。

それはちょうどカミーユを精神病院に入院させた直後の時期。男たちは歴史の表舞台で伸び伸びと活躍し、女たちは才能を生前は十分に(男によって!)認められることもなく葬られた。なんとも言えん。。

 

膳所の別荘「蘆花浅水荘」は見学可とのこと。琵琶湖畔の別荘なんて最高だな。今はごちゃごちゃしているのかもしれないけど。見てみたい。

otsu.or.jp

 

河野沙也子さんの漫画冊子もいただいた。るんるん

 

屋外は新緑、屋内も新緑。

展示室内のベンチに座って、屏風に広がる海の青を眺めるのが最高だった。近づいたり、遠ざかったり、じっくり観ていて、時間の経つのを忘れた。


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ここは常設展もとてもよい。安田靫彦の《額田女王》があるのよ。大津出身の小倉遊亀も開館時に22点も寄贈していたり。ロイ・リキテンスタインカンディンスキージャクソン・ポロック、サム・フランシス、私にとって美術鑑賞の土台を作ってくれた大切な場所。

リニューアルはしたが、「らしさ」はちっとも変わっていなくてうれしい。

 

東京の山種美術館で観た竹内栖鳳展、川合玉堂展の鑑賞記録。

hitotobi.hatenadiary.jp

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栖鳳とは京都画壇での付き合い、玉堂とは昭和天皇大嘗祭のための悠紀主基地方風俗歌屏風の相方。主基の福岡を春挙が担当、悠紀の滋賀を玉堂が担当。春挙は滋賀の人なのにね?

 

春挙の弟子、小早川秋聲展の鑑賞記録。ここ数年辿ってきた画家たちの関係がつぎつぎに繋がる。

hitotobi.hatenadiary.jp

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*追記* 2022.7.16


京都市京セラ美術館(京都市美術館

特別展《綺羅めく京の明治美術―世界が驚いた帝室技芸員の神業》で山元春挙の作品が展示されているのを受けて、河野沙也子さんによる(https://twitter.com/aaoaao5)漫画が公開されている。Facebookアカウントある方はぜひ。

https://www.facebook.com/kyotocitykyoceramuseum/posts/pfbid025Asxg2egaF2Zs7nnjxfWYEHxd5GYVv4K7sXwdPcE9sogs1MaPGvryk6wP92hHTt2l

 

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映画『距ててて』@ポレポレ東中野 鑑賞記録

映画『距ててて』を観た記録。

hedatetete.themedia.jp

youtu.be

 

今年2月、主演、脚本な豊島晴香さんにインタビューをしていただいたご縁で観てきた。

先に見た友達から「あんまりなにも考えずにただぼーっと味わえばいい」と言われていたので、気楽に観た。でも癖でメモは取りながら。


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短編・連作・劇映画。

ポスタービジュアルやトレイラーから、『春原さんのうた』みたいな感じかなと想像していたけれど、全然違った。

日常と非日常、現実と非現実との間のエアポケットのような、非日常が日常に重なるような食い込むような。ちょっと間違うとショボくなったり、シラけたりしそうなところ、ギリッギリの可笑しさと不可思議さを攻めていて、よかった。

距離の近い人間同士に起こりがちな境界線の揺らぎや、遠慮と本音の漏れ具合、距離感、関係性を派手ではないのにハッとさせるやり方で描いている。登場人物から自分の周りの実在の人を思い出すこともしばしばだった。

 

思い出した関係として一番大きかったのは「フーちゃん」。

私が大学生のときの友だちでフーちゃんという人がいて、話し方も着ているものも振る舞いも雰囲気も、映画に出てくるフーちゃんのような、本当にああいう感じの人だった。正確に言うと、わたしは別の名前で呼んでいて、その人は家族からフーちゃんと呼ばれていると言っていた。そこもかなり合致している。お互いの下宿先に入り浸って漫画の話したな〜。もう20年くらい会っていないけれど、映画の中では元気そうでよかった。ナンノコッチャ。

 

アコとサンの、境界踏みそうで踏まない、踏んだ、踏み越えたみたいな関係性も身に覚えがある。友達やきょうだいとああいう感じになる。近すぎるから言いすぎちゃう感じ、でもそれが人生のブレークスルーになることもあったり。

一緒に住んでるアコより、私たち観客のほうがサンの別の顔を知っているというのもおもしろい。作品を観るってそういうことなんだけども、あらためて考えてみるとおもしろい。作品を通して日常を俯瞰して見ることで、いろいろとインスピレーションが湧いた。

自分で広げた妄想話や、思い出したエピソードを誰かに聴いてもらいたくなる作品。そして、たぷん他の人は全然違うところに注目したり、思い出したりしているはず。

最近ギリギリ歯噛みするようなドキュメンタリーを観ることが多かったので、なんだかホッとした。楽しかった。

レイトショーがぴったりの作品だったけれど、お誘いがなければたぶん行かなかったな。最近夜はお休みモードで、夜に出かけることがほぼなくなった。かなりドキドキしながらの行き帰りだった。

 

それで思い出したのは、90年代のミニシアターブームのときにこういう小さな映画(表現が適切でないが、便宜的に)を良く観ていたこと。あの頃の映画は、当時の若かった私が観ても、気分だけの危うさや、何が言いたいねんと言う突っ込みどころが多かった気がする。

『距ててて』は、作り手の若さや完成後に観ている場所や時間帯などは似ているけれど、映画の作法や技術の前提が「当時の人」とは全然違う感じがする。一定の成熟した状態で作っているという感じ。どちらに対してもなんだか偉そうだけれど、すいません、でも一観客としての正直な実感かな。

世代が違うし、時代も違う。それは、吸収した文化やテクノロジーの常識が全然違うということなんだなとあらためて感じる。


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映画『距ててて』のパンフレットは作られていない。
その代わりに監督、脚本などのメンバーで作るZINEの第1号の特集が「距たり」となっている。

撮影日記や、映画にまつわること、派生したことなどがテキスト、漫画、写真などで表されている。

作ること、表現することの好きな人たちなのかなと想像する。

映画をより理解してもらおうというのでもなく、映画の世界観をより拡張しようというのでもなく。

気張った感じがなくて、いいですね、こういうの。


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バレエ『不思議の国のアリス』@新国立劇場 鑑賞記録

新国立劇場の賛助会員向けの直前稽古見学会にお誘いいただき、観てきた記録。

www.nntt.jac.go.jp

 

稽古とはいえゲネプロなので、基本中断はなく、本公演の通りに進む。ただ、本公演ではないので、完全に仕上がっているわけではない、そこを念頭に置いて見てね、という事前通知がある。はい、了解です。

 

不思議の国のアリス』ってあらすじはざっくりで、細部が荒唐無稽なのに(だから?)めちゃくちゃ怖いシーンの連続という印象がある。どんな舞台なんだろうと楽しみだった。

直前に送ってもらったインタビューを行きの電車の中で確認。

balletchannel.jp


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舞台は可愛さと皮肉とグロさが盛り盛りでとにかく観ていて楽しい、飽きない。映画『デリカテッセン』や『コックと泥棒、その妻と愛人』を思い出す。

 

あっちでもこっちでも小芝居が繰り広げられていて、目や耳にノイズが走る。物語世界のあの混乱した感じが五感に訴えかけつつ、スタイリッシュに表現されていて、たまらない。

 

踊りはバレエだけでなくタップダンスもある!衣装、映像、道具類も目が楽しい、興奮。

 

音楽がまたこんな音初めて聞いたな!という体験の連続で、特に打楽器が大活躍。さぞかし張り切っているんだろうと思ったら、打楽器だけで43種類使っているとか。この常ならぬ感じがもう異次元、異世界だった。

spice.eplus.jp

 

ハートの女王は、ドレス型のカートに乗っていて、下半身固定されて囚われている風なのがサンリオピューロランドのショウで見た夜の女王(だっけ?)に似ていたが、彼女のように弱さを見せることはなく、あっさりカートから出てきて、最後まで暴腕ふるいまくりなのが痛快だった。

 

トランプの群舞やキレがあって見ていて気持ちいいし、衣装!それはすごい発明!と思った。公式ページのバナービジュアルに設定されているので、ぜひご覧いただきたい。

 

アリスは三幕ガッツリ出ずっぱりでキツそうだけれど、もちろんそんなことはおくびにも出さず、悪夢のワンダーランドを軽やかに案内してくれる。

 

会員向けの見学会なので客席はずいぶん少なくキープされているのだけれど、本公演に負けずとも劣らぬ盛り上がりっぷりで、期待の高さを感じさせた。むしろ熱烈に新国バレエを応援している人に混ざれて、私は個人的によかった。ありがたし。

 

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こんな展覧会もまもなく開催される。アリスってそういえばなんなんだろう? 当たり前にあるもの、でもよく知らない。灯台下暗し。ちょっと気になってきた。

www.fashion-press.net

 

不思議の国のアリスがなければ、こういうPVもなかったかもしれない。

youtu.be

 

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映画『海角七号 君想う、国境の南』鑑賞記録

映画『海角七号 君想う、国境の南』を観た記録。

2008年台湾公開、2010年日本公開。

 

youtu.be

 

公開当時、台湾映画史上最大のヒットを記録するなど社会現象となり、第45回台湾金馬奨で主要6部門を制覇。低迷していた台湾映画界を窮地から救った作品としても有名。

が、2010年前後は映画自体あまり見ておらず、話題になっていたことも知らなかった。去年、台湾映画に再会してあれこれ見ているうちに、こんな映画があったのかと知ったぐらい。

 

第一印象は、懐かしさと恥ずかしさのようなもの。日本の80年代〜90年代のドラマや、カラオケBOXの背景映像のような撮り方で、突っ込みどころも多い。

前半はけっこうコミカル。おっさんたちのドタバタや、変顔で笑いを取る芸もなんだか久しぶりに見た。後半は舞台の本番に向けて深刻になっていく。準備が進んでいないとか、ハプニングとか、恋愛のあれこれも出てくる。

 

ドラマとしては古典的だが、台湾にしかない事情や背景にあるかつて生き別れになった二人の物語などがだんだん食い込んできて、メリハリがあって飽きない。「海角七号」にまつわるエピソードの肝心なところはそれでいいのかというのが最大のツッコミだったかも。

 

よかったのは、全編に音楽が溢れているところ。いろいろなジャンルの音楽が聞ける。そして若者の反骨エネルギーを感じる。「その気になればなんだってできる」「諦めずに頑張ればチャンスがある」「夢の舞台に立つ」となかなか今思えないかもなーと。今の日本が疲れすぎているのか、いや私ももちろんそう。

中孝介がミュージシャン・中孝介本人として出演して、その本物さや実存感が、映画全体をリフトアップしていて良い。

 

日台の俳優、ミュージシャンを起用し、日本語、北京語、台湾華語も?、台湾語、英語が入り乱れる。手紙の朗読が日本語で入る。客家人先住民族の人も入っているので、かれらの言葉ももしかしたらちょっとずつ違うかもしれない。なんともマルチリンガル、マルチレイショナルな映画。

これは吹替版も配信で出ているのだけど、絶対に字幕版で見るべき作品。

同じ人物でも、たとえば主人公の友子は日本人で日本語ネイティブ、台湾で仕事をしていて、北京語で話す。けれど腹が立ったときなど感情ダダ漏れになるときは日本語が出る。郵便配達員の茂(ボー)爺さんは、普段は台湾語だが、日本統治下時代の台湾で日本語教育を受けたので、友子に日本語で話しかける場面がある。

という具合に、言語の切り替えにも一つひとつ意味があるので、ぜひ字幕版で見てほしい。台湾語は、それとわかるように、字幕の最初に「・」の印が出るので北京語(または台湾華語?)との違いがわかる。

 

母語公用語、かつての公用語。それらが意味するものは一個人の人生遍歴でもあるし、歴史の流れと大きな関係がある。映画のテーマそのものだ。それぞれの歴史と事情を抱えて今ここに一緒にいる、という事実。

しかしそのことを深刻に受け止めるのではなく、時に笑い、時にときめきながら、楽しくエンタメとして見られるところがよい。

もちろんこの映画で日本と台湾とのかつての関係を初めて知った人がいたら、ここをきっかけに調べていくこともできる。

 

海角七号』を機に台湾映画の潮目が変わったという話。

観客が戻ってきた!――台湾映画復興運動/6月 2012

https://www.taiwanpanorama.com.tw/Articles/Details?Guid=0f3c0e65-e03a-4fcd-ba94-7bd85c1753e8&langId=6&CatId=8

 

2009年と言えばリーマンショックの直後で世界中が沈んでいる時期のはずだが、映画の世界は明るい。その頃台湾はどんな時期だったのだろう。

この本やっぱり読んでみよう。

『台湾を知るための72章』(明石書店, 2022年)

 

台湾語の使用頻度が増えているという話。

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主演の田中千絵。並々ならぬ覚悟で臨んだ仕事だとか。劇中の友子のキャラクターと重なる。売れないモデル役というのがなかなかキツい設定。

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2017年の最新作まで常連に。過去に遡って、彼女の物語を追っていくとまた感慨深い。

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映画『ばちらぬん』鑑賞記録

映画『ばちらぬん』を観た記録。

yonaguni-films.com

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4月に「国境の島に生きる」と冠された2本の映画のうち、『ヨナグニ〜旅立ちの島』を観て、もう1本も必ず観ようと決めていた。

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「ばちらぬん」とは、与那国語で「忘れない」という意味。

監督は与那国島出身の東盛あいかさん。

東盛さんと異なるルーツを持つ私には、東盛さんと同じ強さで「与那国語」を思うことはできないけれど、母語やルーツとなる文化が自分を形成している感覚はとてもよくわかる。ノスタルジーではない危機感。

人間が、地球のどこかの地に固有の精神的つながりを作って生きる動物だとしたら、その地が変化したり、消滅してしまうことはとても怖いことだ。つらい、いてもたってもいられない感覚を覚える。

私もそう。毎日暮らす街の姿がどんどん変化する。帰るたびに故郷の風景が変わる。

そう考えると、まして故郷が今戦禍に包まれている人たちは、立つ地を失ったような、身体が千切れたような、そんな感覚を持っているに違いない。つらいことだ。

 

ノンフィクションとファンタジー、沖縄と京都を行き来する不思議な進行。ファンタジー世界の部分は観ているときはやや蛇足のように感じられたり、唐突すぎる挿入が多いように感じたが、見終わってしばらく経つと、あれがないと映画として成立しなかったかもと思う。深いところに残っている。

説明もなく不思議な人や物が登場するのもいい。見た人の何かを喚起してくれる。

私が与那国島与那国語を記憶する外部装置になったような気分。

 

そしてひしひしと感じるのは、均質化を迫る世界に対する、彼女なりの抵抗。

なくなってほしくないと思う風景や言葉、自分の愛したあの島に彼女自身がなることで抗う。物語の中の主人公として映画の一部になることもそう。

映画の中の二つの世界を行き来する制服姿の東盛さんは、「時をかける少女」のように走り、跳び、映画と現実を行き来して、何かをつなごうとしている。

 

帰り道にいくつも更地になった住宅跡を見かけた。こんなに近いのに気づかなかった。

残念なことに、前にどんな家が建っていたのか、どうしても思い出せない。

人間は次々に新しい状況に順応してしまうから、仕方がないのだとわかりつつも、自分の記憶力の曖昧さにがっかりする。

記録して、心を震わせ、体験して、強く印象づけないと記憶できないのかもしれない。

忘れたくないと思うこと。

忘れたくないという思いを動力に新たに作り出すこと。

それもまた人間ならではの営為。

 

私自身の今後の生き方を考える中で、大切な映画に出会った。


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youtu.be

 

 

https://transit.ne.jp/2022/05/001615.html

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日本最西端、与那国島の映画2作品を全国公開: 日本経済新聞 

www.nikkei.com

 

審査講評

pff.jp

 

消滅の危機にある言語。与那国語も含まれる。

www.bunka.go.jp

 

説明はないが、

「ヤシの実と入れ墨」

www.toibito.com

 

ハジチ

ryukyushimpo.jp

 

東京国立博物館琉球展でもハジチを見つけた。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

与那国島」と聞くと気になるようになった。

www.okinawatimes.co.jp

 

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わたくし、つまりNobody賞『海をあげる』『まとまらない言葉を生きる』読書記録

わたくしつまりNobody賞、受賞の2冊を読んだ記録。

『海をあげる』上間陽子/著(筑摩書房, 2020年)

『まとまらない言葉を生きる』荒井裕樹/著(柏書房, 2021年)

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今を生きている私の尊厳を守る。

抗う。

無遠慮に踏み越えようとする力に対して、「ここに一線がある。踏むな」と全身を使って示す。

言葉で線を引く。

警告を発する。

それは相手を人間扱いしているからだ。

相手が私を人間扱いしないときでさえ。

 

詩人・茨木のり子の「自分の感受性くらい」を思い出す。

どうか今、本質に語りかける言葉を。

 

言い得ない。だから言葉を探す。

苦しみから作りだされる言葉もある。

弱々しくてもよい。

私だけは少なくとも聴いている。

耳を澄ませている。

 

 

Yahoo!ニュース|本屋大賞 ノンフィクション本大賞2021 のときの上間さんのスピーチが動画と全文起こしで掲載されている。

www.chikumashobo.co.jp

 

第15回 わたくし、つまりNobody賞 受賞時の荒井さんのスピーチ全文起こしが掲載されている。

note.com

 

 

わたくし、つまりNobody賞

https://www.nobody.or.jp/

 

上間陽子さんの『海をあげる』の帯の〈わたくし、つまりNobody賞〉ってなんだろう?と思っていた。(そこで特に調べなかった)

別ルートで同時期に100分de名著 2021年3月 『災害を考える』を観た。録画だけして放置していた。

第4回が池田晶子さん。

「思う」と「考える」の違いについての話がおもしろかったので『14歳からの哲学―考えるための教科書』を読んでみた。

そうしてようやく、〈(池田晶子記念) わたくし、つまりNobody賞〉ということに気づいた。


f:id:hitotobi:20220526234650j:image

 

『14歳の哲学』はこの記事で紹介した。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

*追記* 2022.6.24

普天間飛行場のある宜野湾市の市役所のホームページにはこんなにページがある。

基地被害110番

https://www.city.ginowan.lg.jp/soshiki/kichi/2/1/1/1/9642.html

実際に寄せられた声を見ていると、自分のいる場所、自分の現実とのあまりの違いに言葉をなくす。このようなところからも見ることができる。

知ろうとすることはとてもシンプルな方法でできる。

 

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