ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

本『タゴール・ソングス』読書記録

佐々木美佳著『タゴール・ソングス』を読んだ記録。

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映画『タゴール・ソングス』は、公開されてかなり早いうちに観た。

2020年の6月、ちょうど今頃だ。

梅雨独特の気温はそこまで高くないが湿気があって、ベタベタと空気が肌にまとわりつく気候が続く。やたらとインドやベトナムの料理が食べたくなる。この時期が終われば、それはそれで半端なく暑い夏が待っているので、どっちがいいかと言われるとよくわからん……そういう時期。

さらに2020年の6月といえば、感染症が世界的に拡がっていた頃。

あのときに『タゴール・ソングス』を観てまず思ったのは、「遠くに行けた」という気持ちだった。行きたくても行けない、移動が心理的に制限されている中で、遠くの全然違う言語、音楽、食べ物、人々の営みに触れられたのはうれしかった。

自分の触れる世界がとても小さくなってしまったように感じていたけれど、そうだった、世界は広いのだった、と思い出せた。ありがたい映画だった。

 

この本は監督の佐々木美佳さんが、取材のために訪れたインドとバングラデシュにまたがるベンガルの土地と、人と、タゴールの詩について綴った文学作品だ。

映画本編に出てきたタゴールソングの詩も載っている。というか、もともとこの本はタゴールの詩を紹介するという企画だったらしい。それが転がって今の形になっているけれど、タゴールの詩で貫かれていることで、散文詩のような文学の趣になっているのか。

贅沢なことに詩、詩はすべて佐々木さんが原文から翻訳したとのこと。大変な作業だったかもしれないけれど、言語を学ぶ者にとってこれ以上ない喜びでもある。うらやましい。

 

映画を観ながらも、きっとこの前後にはいろんな経緯ややり取りやハプニングがあったんだろうなと想像していたので、これが読めてうれしい。

映画では構成上、編集上、あるいは観客や被写体への影響を考えて落とさざるを得ない小さなエピソードや、監督の主観的な手触りのことも綴られている。

映画の中で「この人にもきっといろいろあるんだろうな」と思っていたことを思い出して、2年越しに、ああ、そういうことだったのかと納得する感じがある。答え合わせのような単純なことではなくて。そして今は皆さんどうしてはんのかな〜とも思う。佐々木さんが愛おしく思うあの人たちを私も作品を通じて近くに感じている。

 

読めば読むほど気になるのは、佐々木さんの努力や度胸のことだ。おそらく生来のものだと思うけれど、大学の学部で4年学んだとはいえ、ここまでの語学力を身に着けられることがすごいし、どうやって異国でここまでの思いきった行動に出られるのかも、それがどうがんばってもできない私には、ただただ憧れしかない。

 

タゴール・ソングス』佐々木美佳(三輪舎, 2022年)

 

映画『タゴール・ソングス』

tagore-songs.com

 

タゴール・ソングがYoutube動画付きで流れてくるbot。映画で出てきた歌に会えるとうれしい。

twitter.com

 

たとえばこんな。

 

youtu.be

 

関連記事

hitotobi.hatenadiary.jp

hitotobi.hatenadiary.jp

 

最近観た『メイド・イン・バングラデシュ』の登場人物たちも、タゴールソングを聞いたり歌ったりしながら生きてきたのかな。

hitotobi.hatenadiary.jp


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展示『近松半二 奇才の浄瑠璃作者』@早稲田大学演劇博物館 鑑賞記録

早稲田大学演劇博物館で『近松半二 奇才の浄瑠璃作者』を観た記録。

www.waseda.jp

うーん、楽しみにして来たけど、本(正本)の展示がメインで、文楽人形や珍しい文楽の錦絵、興行ポスターや舞台の写真パネルは観られてよかったけど、近松半二の「奇才」ぶりはあんまり展示からはわからなくて残念だった。

人形浄瑠璃作品を60余りも作った時点で「奇才」なのかもしれないが。

本人についてはあまりわからないことが多いらしいが、それならそれで、作品分析から見えてくることなどについて知りたかったな。当時の大衆演芸としての文楽とか、カテゴリー、時代背景、作風、など。

そういえば最近あまり文楽を観に行っていなかったので、少し予習をしてから観に行ってみようかな。また違うものが見えるかもしれない。

これも行ったことだし。

hitotobi.hatenadiary.jp


常設展示をパトロール

京マチ子の部屋では市川崑の『鍵』を上映中。時間合わせて全部観たかったなぁ。
スピルバーグの『ウエストサイドストーリー』のポスターが追加になっていた。NTライブの『ロミオとジュリエット』パンフレットもあった。3F廊下ではワヤンの展示。

橙子猫(orange cat)のドライカレーとアイスコーヒー美味しかった。

orangecat-wihl.com

 


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*追記*  2022.6.21

これを読むとよさそう!

『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』大島 真寿美/著(文藝春秋, 2021年)

books.bunshun.jp

 

大島真寿美さんの小説の書き方の話がメインだったけど、おもしろかった。高校生からの質問に答えていく形式。

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映画『私のはなし 部落のはなし』鑑賞記録

ユーロスペースで映画『私のはなし 部落のはなし』を観た記録。

buraku-hanashi.jp

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3時間25分あるが、劇場で鑑賞しているときは間に10分休憩がある。撮影、音、編集の効果が一体となって、一定の緊張感で連れて行くので、少しも長いとは感じない。

 

鑑賞直後の感想、当日のツイートより。

ティーチインの回でよかった。監督がこの作品を作った動機と立場について質問があったが、私が映画から感じたのは「出会っちゃったから」ということかなと思う。出会いの話。だからこそ途中から「私のはなし」が突然始まる。忘れられない出会いであり、並々ならぬ覚悟があったんだろうと想像する。

個人的に非常に胸がざわつくシーンが何度かあった。そういうものも含めて、映画館という公共の場でこのテーマが取り扱われたことの意義は大きい。この作品で出会っちゃった人たちがそれぞれに議論を広げていけたらいい。 日本語・英語字幕、音声ガイドでより多くの人が観られる作品になってほしい。

これは「私のはなし」でもあったと思う。あらためて作品として出会えてよかった。近さ遠さの違いはあるにしても、そう感じた人は多いのではないか。またそのようにも作られている。

しかしとても分かち合いにくいことでもある。自分自身を振り返っても、これを一切傷つかずに、傷つけずに済ませることは難しいだろうと思う。作品を経由することで少しずつ取り組めるといい。

語る人たちの眼差しが印象深い。語る内容だけでなく、その人がそこにいる「感じ」をカメラが絶妙にとらえている。ナレーションは黒に白、白に黒。音声はなし。監督自身も映り込むが、観客が監督の立場になってしまわないよう抑制されている。映像にしかできない表現。2022.6.4 @seikofunanok 

 

歴史、変遷、地域ごと・個人ごとの個別具体。

寄ったり引いたりしながら、主に語りの力によって、部落差別という「見えにくいもの」を人の存在を前面に出して描き出していく。語りを糸として織りあげていく。

 

女性の語りが入っているのがよい。20代前半の若い人たちの語りもあるのもよい。今とこれからの話でもあるから。

そういう声は見過ごされがちだからこそ、地域も複数箇所選び、人の属性も多様であることを意識的に含めたのだろう。だからこそ、顔も名前も出せない女性の語りや子どもの語りは、もっともっとあるだろうと想像できる。

被差別部落出身の女性の話や、差別が家族に与える影響については、映画を観てしばらくして読み始めた坂上香監督の著書『プリズン・サークル』にも書かれていた。

読む前に、先に『私のはなし〜』を観ておいてよかったと思った。

www.iwanami.co.jp

 

「つくられた差別である」ということが、今回の鑑賞で持ち帰った中でも一番重要だった。

パンフレットの中の、黒川みどりさんの寄稿、
「差別を欲する人びとによって作られた生得的な徴(しるし)」
「差別の徴を探し求めている人びと」
という言葉にハッと胸を突かれた。

人間は「自分より下に見てもよい存在」を作り出す生き物で、それを権力が利用した結果、つくられた差別。

つくられた差別なのだとわかっても、なにかのうまみ、優位性、特権があれば人は手放さない。降りない。むしろ差別すればするほど特権を与えられてきた可能性がある。

ありもしない壮大なフィクションだとわかっていても、自分がそれを支える歯車のひとつに自分がなっている可能性に気付いても、やめられない、やめどきがわからない。広がっている闇が怖い。だからタブーにされてきたのかもしれない。

だとすれば、これは「私のはなし」でもある。

関西地方出身で、1980年代〜1990年代に学校の道徳の時間に同和教育を受けた私にはとても身近なテーマだからという理由と、この作品が差別の構造に斬り込んでいくものだから。

 

私は子どもの頃からずっとこのような作品を観たいと思ってきた。
このテーマで、この描き方で。提示されて初めて気づいた。
誰もこんなふうに教えてくれなかった。こんなふうだったらもっと考えられた。

「差別はいけない」とただ唱えたり、人間性や心根の話ではなく、ほんとうのことを知りたかったし、こういう複雑さを複雑なままに見たかった。

自分とどういう関係があるのか、自分で考えたかった。

監督が投げ出さずにこうして作りきってくれてほんとうにありがたい。

そう思っている人たちと、安心安全な場でもっと突っ込んだ感想を話してみたい。

対話が必要な映画だ。そして作品も対話の場を求めていると感じる。

 

これはまだ仮説だが、全員が全力で見えないフィクションを支えているうちに真実のようになってしまうのだとしたら、見えるようにして、支えることから降りる人を増やせば、フィクションを成り立たせなくすることはできるのではと思う。

 

多くの人に見てもらいたい作品だ。

 

・・・

ティーチインの回を狙って鑑賞してよかった。満席の客席の熱気がすごかった。

客席から、「この映画が差別を助長したときに(注※出演していた人やその地域に住む人に何らかの不利益があったときにという意味だと思う)責任を引き受けられるのか。差別の歴史はそんなに甘いもんじゃない」と語気強めに質問していた方がいた。

f:id:hitotobi:20220607132324j:image

その方が何に感情を波立たせていたかはわからない。差別の実態についての言及が足りないと言っているのか、当事者性が薄い人(その人から見て)が作る資格はないといいたいのか、製作者が不勉強だと言いたいのか。

その場での応答、パンフレットの寄稿、そしてこのインタビュー動画が答えになっているので、私としては今は納得している。

youtu.be


映画を観ても、制作チームが被写体と地域とコミュニケーションを重ねながら撮影されていたことはよく伝わってくるし、語る人たちが覚悟をもって出ていることもわかる。

ただ、全員が必ずしも好意的に観るわけでもないし、基本的に映画は作品として一人歩きしていくものだ。それを考えれば、観客が観て抱きそうな懸念は、もう少し映画の中に盛り込んでおいてもよかったのではないかという気もしなくもない。立場が違えば見え方も違うだろうから、違う感想が出るのは当然だろうし。

一方で、観た作品が既に完成されているようにも見えるので、あれ以上なにか説明を加えるのも蛇足のようにも感じられる。まだ答えは出ない。

当日のティーチインの場では怖くてフリーズしてしまったが、いろいろ考えるきっかけにはなったので結果オーライと受け止めている。

 

パンフレットの「ストーリー」は全てのシークエンスを記載し、あとから思い出したり、じっくり振り返るようになっている。

製作者や出演者による寄稿も、映画を観たタイミングでしか受け取れないものが詰まっていて、必読。

f:id:hitotobi:20220607132342j:image

 

webronza.asahi.com

dot.asahi.com

 

制作サイドのトーク

youtu.be

 

youtu.be

 

レビュー。打越さんの指摘、なるほどだった。それは言われないと気づかなかったかも。

youtu.be

 

youtu.be

 

2018年の記事。『にくのひと』と『私のはなし 部落のはなし』の間も満若監督は動き続けていたことを知る。

www.vice.com

www.vice.com

 

関連資料

www.asahi.com

www.pref.nara.jp

www.nhk.or.jp


『結婚差別の社会学』齋藤直子著(勁草書房, 2017年)

 

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展示『邂逅する写真たち モンゴルの100年前と今』@国立民族学博物館 鑑賞記録

国立民族学博物館で企画展『邂逅する写真たち モンゴルの100年前と今』を観た記録。

www.expo70-park.jp

 

youtu.be

 

今回観たかった企画展示の一つ。

100年前のヨーロッパや日本からの探検家が撮った写真と、現代のフォトジャーナリストが撮った写真とを比較しながら、ここ100年のモンゴルの歩みと、そこから見えてくるグローバルな価値観や環境の変遷について考察する展示。変わったもの、変わらないもの。

頭を殴られたみたいなショックと、そりゃそうだよなという納得と。遊牧民大自然、相撲だけじゃない。ロマンと現実は別。エジプトのスフィンクスを観に行って、振り返ったらケンタッキー・フライドチキンがあるみたいな感じに近いかな。


世界は広いからいったんステレオタイプで認識するのはしょうがないかもしれないけれど、多くの場合、虚構であること。たまに実情に触れて、認識を破壊され続けることが大切。一番いいのはその国を訪れたり、その国の人と出会うこと。

それができなくてもこういう展示で知ること。ステレオタイプは写っていない。見たことのないモンゴル。「思ってたんと違った」のはおもしろいし、グローバル・新自由主義・資本主義について考え込むところもある。

人口の約半分がウランバートルに住み、高層ビル群が立ち並ぶ都心部と、過密して住居が立ち並ぶゲル地区とのギャップ。牧畜の移動生活をする人もいるけれども全国民の9%に過ぎず、乗っているのは馬ではなくてオートバイ。

100年前は人間らしい営みがあったとか、今のほうが便利で幸福そうとか、全然そういう判断をするようなものではない。

100年前は探検家という外からの眼差しを向けられるだけの側だったけれど、100年後の現代は内側からの発信になっている点も注目したい。時代も違うし、写真の技術や表現方法の違いもあるが、それらから受ける印象はけっこう違う。ガイドブックで見ることのできないモンゴルの今を知ったことで、身近に感じられる。

日本もこんなふうに比較して見てみたらおもしろいかもしれない。失われたものを確認することで、今とこれからをどういう社会にしていけばよいのかのヒントが見つかるかもしれない。歴史や伝統と言っているようなものが、けっこう最近に人為的に作られたことを知るかもしれない。

また、この100年の変化はどこの国にとっても急速で、今それをどう取り扱ったらいいのか、誰もわからないで立ち尽くしてしまっているようにも感じるので、振り返るのもよい機会なのかも。

写真と物品、映像などを使って、100年の差をくっきりと対比させつつも、細部を見たい向きにはとことん解説してくれる展示は、さすがみんぱく。担当した方はこれをずっとやりたかったんだろうな〜という熱量も伝わってきた。

いっこいっこに「怖さ」を感じる。はかり知れなさという意味の。
でもそれでいいんだと思う。わかった気にならないのが大事で。圧倒されてみること。

はるばる行ったかいがあった。図録も買って帰った。モンゴルと聞くたびに開きたい。

 

 
 
 
 
 
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jocr.jp

 

バックナンバーがPDFで読める。太っ腹すぎる!

2022年3月号 特集 新たなモンゴルとの出逢い――モンゴルの100年前と今
(第46巻第3号通巻第534号 2022年3月1日発行)

www.minpaku.ac.jp

 

図録はオンラインショップで購入可能

https://www.minpaku.ac.jp/post-goods/31583


f:id:hitotobi:20220616174028j:imagef:id:hitotobi:20220616174041j:imagef:id:hitotobi:20220616174054j:image

 

担当学芸員の島村さんの著書。図録を読んだ後に、これでもっと深く知りたい。

『憑依と抵抗 ――現代モンゴルにおける宗教とナショナリズム』島村一平著(晶文社, 2022年)

https://www.minpaku.ac.jp/post-goods/31177

 

みんぱく友の会講演会 第523回……! すご。アーカイブ残してくださってありがたい。前後編あります。

youtu.be

 

文化人類学は"国際社会"というものさえ疑っていく」「人それぞれにとって最大の財産は時間」が個人的にハイライト。モンゴルの話とそこでつながるのか!という想像していたのと違う対話の展開。ノマドとモンゴルの人のあり方。

youtu.be

 

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展示『空間博物学』@東京大学総合研究博物館 鑑賞記録

東京大学総合博物館

www.um.u-tokyo.ac.jp

 

 
 
 
 
 
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空間博物学という企画展を開催中で、担当した研究者による解説があるというので、その回を予約した。

博物館が所属するのは基本的に物であり、空間は保存の対象にならない。

ここで空間を模型という形で制作し、選抜または分類し、収集し、保存することを通してわかったことなどを展示している。

展示を見てアッとなった。

私が思い浮かべていたのはもっと別のことだったのだ。空間「体験」の保存について知りたかった。たぶんこのブログでひたすら書き綴っているような、体感や感触や記憶に結びつくようなもののこと。だから正直なところ、一瞬がっかりした。

3DVRももちろんあるが、私が想定しているものとはだいぶ違うのだ。

東京大学 総合研究博物館 小石川分館 アーキテクニカ
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/3dvr/koishikawa_annex.html

メタバースという手もあるかもしれない。

"参加した12歳の児童は「仮想空間『メタバース』であれば建物も残せると思う。芝居小屋としても使った建物を見られる貴重な体験だった」と話した。"

ryukyushimpo.jp

 

ただ、模型はもともと見るのは好きだし、有名建築の模型がユニークな切り取られ方と詰められ方をしているのはおもしろかった。建築という素材に編集をかけて集合させたような作品は初めて見る。

何より解説してくれた松本教授の、情熱や興奮を含みながらもてきぱきと要点を抑えた説明や、共に探究している学生さんたちへの尊敬の念や愛情のようなものも端々に感じられてよかった。

たぶん模型とキャプションを見ていただけでは全然わからなかっただろう。というか、松本さんの存在があって展示が完成していると言ってもいい。(私の感想)

 

展示や制作物の意図、20世紀の建築がそれまでと大きく変わった点、ル・コルビュジエの果たした最も大きな役割、住宅を構成する要素とは、寺社建築の特徴、模型化することの意味など50分ほどでコンパクトにたっぷりと聴けた。

 
 
 
 
 
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メモを取りながらこれが無料で受講できるとはなんとありがたいのだ!と興奮していた。学びの機会は至るところにある。自分のために使おうと思い、その気になれば見つかる、出会える。貪欲にいこうとあらためて思った。

常設コーナーもコレクション、アーカイブということに熱のある方にはおもしろい場所だと思う。剥製や標本、土器など、なんだか怖い感じがするところもいい。呪術的な怖さや、ロマンが取り去られた後の物として淡々と分類、分析されていくような冷たさのようなもの。
学術、学問というのはそういうことか、とここでもハッとなる。

 
 
 
 
 
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映画『教育と愛国』鑑賞記録

映画『教育と愛国』を観た記録。

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私は当事者(義務教育対象年齢の子の保護者)でもあり、日々の実感があるだけに、観たら胃が痛くなりそうで、最初は観るかどうか迷った。いろいろ考えてみて、自分なりに調べ、学んだ土台もあることと、ここでまた新たな要素、物の見方がほしいと思ったので、最終的に観ることにした。

3週目の平日。映画の日だったこともあって、席は4/5ほど埋まっていて盛況だった。

私が観ていた回は、思わず隣の人としゃべっちゃっている人がいた。最近あまり映画館に縁のない人が、わざわざこの映画のために来ているのかもしれず、それはそれですごいことかもと思ったのと(勝手な解釈)、ヤジではなく驚きのつぶやきだったので、苛立たなかった。むしろ分かる。そこ、ざわつきますよね。

 

観てみて、やはり胃が痛んだ。

「誰のための教育、何のための教育」と問いかけても、返ってくる答えはわかっている。インタビュー中の監督のように、「ハァー……」となるようなことが繰り返されてきたから。個人的に抗っても通じない強大な壁を感じているから、厳しい現実を突きつけられているように感じた。

教科書検定制度、道徳の教科化、教育勅語従軍慰安婦問題、つくる会、元徴用工、領土問題(北方領土尖閣諸島竹島)、辺野古基地問題森友学園問題、加計学園問題、学術会議任命拒否問題、表現の不自由展、歴史修正主義憲法改正……もっとあったと思う。

 

教育や教科書に直接関心が持てなくても、これらの用語を聞いたことがあったら、つながりをもって提示される映画なので、理解の助けになると思う。これで全ての説明がなされるわけではないが、いったんつかめるようになるというか、取っ手が付けられたというか。

 

国民のための国家ではなく、国家のための国民という前提で回るロジック。ここが根本的に違っている。そもそも国家と個人とを同一視すること自体に驚くのではあるが。

ただこういった傾きは、自分の中にもある。「〜を代表して」などという発言をするときに顔を覗かせることは否めない。個人が国を代表する、「〇〇旗を背負う」オリンピックも最たるものではないか。個人と国の関係も再考する必要はないか。

 

生きていれば誰しも誇れることばかりではない。それは国も同じではないのか。歴史に向き合うことは振り返ることであり、自虐ではない。

外国人記者クラブでの斉加さんのトークの中で、「どの国にも暗い歴史がある」というくだりにハッとした。ほんとうにそうだ。どの国にも暗い歴史があり、その影を引きずって今がある。どの国も格闘している。

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そして今や国の単位を超えて協力して考えていかなくてはならないことがたくさんある。現代の社会課題は一つの国だけで引き受けられるものではなくなっている。国と国とが政治、経済、文化、民間交流と様々な網目で関係を持っている。何より一つの地球の上にあって、影響を与えたり、受けたりすることは免れない。

受ける被害だけでなく、起こす加害もある。加害の中には性暴力もあれば、人種差別もある。それが戦争というものの姿だ。その事実を受け止め、二度と再び起こさないようにするにはどうすればよいのかを考えることは、繰り返しになるが、自虐ではないと私は思う。

 

本編で最も驚愕したのが、ある分野での権威と名誉と実績を重ねてきた人たちの、「歴史から学ぶ必要はない」「中身は読んでいない」「授業は見ていないが」とあっけらかんと語る姿だった。啞然とする。編集された映像とはいえ、よほどの善意を持って解釈したとしても、あの言葉や態度は隠せないものがある。しかも実証主義の権威と言われてきた人が、「(あなたの言う)"ちゃんとした日本人"とは?」に対してあの答えというのには、のけぞった。学府を構成する人間が反知性主義に傾くということがあるのか……あるんだろうな。

 

その道の先駆者と呼ばれ、学問の一分野を確立した人が、ある時期からセットされた時限装置が作動したかのように、突然偏りある言動を始めたという別の例を思い出した。つまりこれはある個人の特有なことではなく、避けがたい人間の性質なのだろうか。何がかれらをそうさせるのだろうか。

仮説だが、「また同じことが起こってもいいと思っている、次はもっと"うまく"やれると思っている、多少の犠牲は仕方がないと思っている」ということなのだろうか。

わからない……。私が知らないことがまだたくさんある気がする。

 

映画は、耳目を集めるために、ややセンセーショナルに描かれている部分もあると思う。問題提起は重要だが、不安になりすぎることなく、批判的に見る姿勢も持っていたい。

その流れで、この映画を観た人におすすめしたいのは、教科書の実物を自分で見てみることだ。

教科書を使っている子が身近にいない人も、各自治体の教育委員会では市民の閲覧が可能。もしかしたら都市部に限られるかもしれないが、教科書を小売している専門店もある。

また、東京都江東区には教科書図書館があり、戦後から今までの検定教科書、教師用指導書など、研究者や学生など調査・研究のための利用が可能。外国の教科書も所蔵している。https://textbook-rc.or.jp/library_jp/

 

映画で取り上げられていた箇所はもちろん、その他のページも見るとよいし、歴史の教科書だけではなく、道徳や国語の教科書も見られる。今は学校でこんなことを教わっているのか(全部扱わないまでも、あるいは先生により使い方は様々であるにせよ)と、アップデートされると思う。意外と自分の人生経験の範囲内で考えていることに気づくかもしれない。

実際に見てみたら、映画の印象の通りかもしれないし、少し変わるかもしれない。今回は教科書が映画のど真ん中に取り上げられているので、「ほんとうかな?」「実際はどうなんだろう?」と自分の目で確認することには大きな意味があると思う。


ちなみに私は教科書販売店に行って、学び舎の『ともに学ぶ 人間の歴史〈中学社会 歴史的分野〉を購入してみた。個人でできることは小さいが、学びと教育と学校と教科書と歴史のことは引き続き学んでいこうと思う。時代や社会の影響を受けて生きざるを得ないちっぽけな人間だが、そのときそのときでなるべく自分の頭で考えたことで決断していきたいから。

f:id:hitotobi:20220615155430j:image

パンフレットはシナリオ採録や用語解説がついているのでありがたい。考え事をしているうちに飛んでしまった会話があったので、あとでおさらいができる。

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▼関連資料

youtu.be

 

こちらは見逃し期間なので会員限定、有料になってます。

youtu.be

 

『何が記者を殺すのか』著者に聞く!

youtu.be

 

近現代史研究者の辻田真佐憲氏による伊藤隆氏へのインタビュー。ここでもやはり噛み合っていないように読める。

bunshun.jp

 

科研費裁判についての雨宮処凛氏の記事。

maga9.jp

 

『主戦場』とセットで観ると尚良いと思う。「慰安婦」問題と教科書、政治の関係についてまた別の角度、別の表現で確認できる。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

映画の軸からはズレるかもしれないが、学校教育のことでいえば、私が保護者としてずっと感じてきたのは、学校の思想に加担させられているという感覚だ。
子どもを「指導」や「評価」の対象と眼差すことを誘導される。本編冒頭の道徳の授業で見られた、「いい」か「わるい」かの2極で評価させられる。
そのため学校から発信されるものには、「〜させてください」という言い方、書き方が多い。まるで保護者が指導されているような気分になる。家庭という私的領域にまで学校が侵食していると捉えて抗えればよいが、真面目な保護者ほどちゃんとしなければとがんばるし、だいたい人を思い通りにさせることはできないので、そのしんどさのしわ寄せは最終的には子に向いていくのはではないかと、いつも私は懸念している。

また、抗うことで被る不利益を考えて、何も言わない、しないことのほうが多い。
当事者であっても、気づいていても、変えることの困難さをいつも思う。
そして、当事者(子ども、保護者、教員、教育関係者)以外は介入しづらい隔離された領域にもなっているので、社会問題化しづらい。
ブラック校則や今回のような映画をきっかけに、知る、考える、政治に注目する人が増えてほしい。
 
以下は、東京都台東区在住の市民が、情報公開制度を使って台東区教育委員会から入手した区内中学校の校則、生活のきまりなどの文書を公開しているブログ記事だ。

note.com

これを初めてみたとき、本当につらい気持ちになった。なぜここまで禁止事項が多いのだろうか。なぜここまで画一的なのだろうか。こういう環境の中で過ごすことが、本当に人の自立につながるだろうか。
学びは誰のものか。教育はなんのためか。
今一度、この問いに向き合ったほうがいい。
 
*追記* 2022.6.21
こういうの、関係ありそう。2011年の記事。
 

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映画『メイド・イン・バングラデシュ』@岩波ホール 鑑賞記録

映画『メイド・イン・バングラデシュ』を岩波ホールで観た記録。

pan-dora.co.jp

 

youtu.be

 

本作を含め、あと2本で閉館となる岩波ホール。前回の上映作品『金の糸』を観に来たときから、あと残り2本とも来ようと決めていた。

まとまらない感想をバラバラとメモ。

 

※内容に深く触れていますので、未見の方はご注意ください。

 

・当日は何を着て行くか迷って、顔の見える人が作った服と、店員さんと楽しいやり取りをしながら買った服を選んだ。私はこの映画が作られた意味を大切にしたかった。

・何度見てもこのポスタービジュアルは最高。
グローバル資本主義と女性下位男性上位社会への告発。

・ロードー(労働)ムービーでもあり、シスターフッドムービーでもある。

 

f:id:hitotobi:20220527061835j:image

 

・今自分が着ているものすべて、誰かが、人間が縫い、アイロンをかけて、できているという事実。ノートや耐熱強化ガラスのコップなどの工業製品のようには機械化されてはいないのだ。そう考えると、人の手がこんなにかかっているものをなぜこの値段で買えるのか、あらためて考えるとおかしい。

「人件費が安い国で生産しているから安く提供できる」という説明をそのまま自分に流し込んでいた。それはつまりどういうことなのか、ちゃんと考えたことはなかった。2013年のバングラデシュのラナプラザでの事故で、目が覚めた。やはり搾取されている人たちがいた。

・「これだけ苦労して働いて作っている商品は、よほど高く売られているんだろう」、そうあってほしいという主人公・シムの姿に胸が痛む。

「いや、そうではなく、あなたのTシャツ2、3枚分があなたの月給に相当する」という説明。その意味するところ。こんなんじゃ暮らしていけないと思っているその金額の1/3しかしない1枚の服。それを1日そんなもののために働かされている。

そして、さらに買い叩こうとされている。

驚いていたシムに、「まさか一人の人間がTシャツを1日に1,650枚も作らされているなんて(そんなことができるなんて)、まさか納期に間に合わせるために泊まり込みまでやらされているなんて、買って着て使い捨てている側は思いもしなかった」……この驚きを伝えたらどうなるのだろう。実際劇中には、同じ色の服を大量に作るようすが描かれる。ある日はピンク、ある日はグリーン、ある日はイエロー……。

・暴動を起こすのではなく、正当な手続きで組合を組織し、権利を主張するために行動するのも非常に重要だと感じた。劇中世界は、業界団体からの圧力に政府が屈するような、法があってないような国だ。コネやワイロがものを言う。しかしそれでも、正当な手続きを経て承認させることが大切なのだと食い下がる姿に心打たれた。

どんなに腐っていようと法治国家である限り、それに則っていかなければ真の変化は起こらない。つまりこれは単にいち業界の変革の話ではなく、国家に対する批判でもあり、なんなら国家をまともに育てようとする国民による重要な社会運動なのだ。

その姿勢には、民主主義の国であり、選挙権を持つ国民は学ばねばならないと思う。

 

・「私」「私たち」がつらいのは女性だから。女性を下位に位置づけ、搾取する社会構造があるから。その構造を握っている者たちがいるから。

これが個人的な話に留まっていれば、リーダーが悪い、経営者が悪いということで終わっている。しかしシムは、社会の構造として学んでいく。知る喜びに満ちるシムの瞳の輝き。本当の相手がわかったときに立ち上がってくる闘志。

 

・監督が当事者国にルーツを持つからこそ描ける映画。それと共に重要なのは、監督は上の階層だから、この主人公とまったく同等の立場ではないということ。監督がそこに自覚的だから観られる。監督はナシマと同様、オフィスに飾られたポスターにある"Say NO To Violence against women"と言える、言う権利があることを知っている側にいる。撮影監督が女性であることにもこだわりがあることが伝わってくる。

・映画を見ていてもインタビューを読んでいても、だんだん途上国の話なんかではなく、日本の話じゃないかと思えてくる。なんだこれ。ファストファッションとか言ってる場合じゃない。「ファストファッション」と名付けることそのものが差別の構図だ。弱い者がさらに弱い者を叩く。知らず知らずのうちにこの構図に加担してないか。

 

・この映画にはバングラデュの社会課題が凝縮されている。そしてバングラデシュの話だと思っていたら、日本の話だということにも気づく。

・ここでは子どもの権利が守られていない。シムは13,14歳のときに40歳の男と結婚させられそうになり、故郷を逃げ出した。それからすぐに働き、縫製工場に務めている。ここが3軒目。働かざるをえなかったから学びの機会も奪われた。ナシマから渡されたスマホで写真を撮り、写真を撮ること、表現することの純粋な喜びを覚える様子に、学問としてだけでない学びの機会を彼女が求めていることが感じられる。

大家さんの娘も12,13歳に見える。児童婚だ。TVでロマンティックな映画を見ている。恋愛もきっと知らない。でも嫁に出される。そうでないと大家の女性が生きていけないから。TVに映るグローバル企業の商品のCMを見つめる。当日はクラブのような喧騒の結婚式。正装した娘は本当に幼かった。隣にいる新郎はシムが結婚させられそうになったぐらいの年齢。何も知らない子どもたちが大人の女性と同じように腰をふり、性的な歌を歌うのにはグロテスクだった。

・女性が単身で生きることの難しさ。「結婚する」「結婚しても同じよ」というやり取り。「結婚しても解決にもならない」というのはシム自身の実感。しかし「独りの辛さを忘れたの?どんなに悲惨か」とうダリヤの言葉もまた重要な実感。どちらも根は同じ構造にあるはずが、表面的に対立させられてしまう。

・工場の上司から手を出されて不倫関係になったダリヤは、男から裏切られ、住んでいた家も追われ、おそらく性産業に携わっている。生き延びるための性になっていくと、それまでいた人とのつながりが途切れてしまう。しかし、一度「貞操」に傷がつくと異なる目で見られる。宗教的、倫理的な感覚が根深いことがわかる。

権利を主張すると、愛を失うという板挟みに苦しむダリヤの心情も描かれていたところがよかった。シムを信じて組合立ち上げの書類に署名した同僚たちの話す言葉の端々にも、置かれた複雑さが方々に滲み、一見シンプルな物語を複雑で奥行きあるものにしている。

・冒頭の火事の事故で亡くなったシムの同僚の母親は、娘を亡くした悲しみと同時に、おそらく稼ぎ手を失い困窮に陥っていることと両方で絶望しているのだろう。あの手を握って、おそらく形見の腕輪を渡した、無言で見つめ合う老いた女性と若い女性を横から写したシーン。非常に印象的。

・女性には妊娠、出産が期待されている。シムの夫は「妊娠か?」と軽口をたたく。けれど生活が苦しければ子育てなどできない。それを考え、解決することもなぜか女性に押しつけられている。

・「誰のおかげで儲けてんのよ」「給料があるだけマシ」
「やめたらどうだ」「やめません」「何も知らないくせに何がリーダーだ」
いや、そうじゃない。そうじゃないのに、言いくるめられてきた。雇い主からもそうだし、社会通念からも。抗い方を誰も教えてこなかったし、抗わないように知識を伝えてこなかった。

・夫は自分が無職で妻に頼らざるを得ないが、妻が学び、主張する言葉を持ち、自分より社会とつながりを太くすることを恐れて阻止しようとする。自分の立場がなくなるから。どこにでもある家父長制社会の図。出てくる男がだれもかれもクズだったが、特に夫がどこまでもクズだった。。

・全方位から詰められて立場が厳しくなっていくシム。守ろうとした同僚を守れなかったくだりが一番きつい。何もしてくれないと詰められ、そんなことをしても意味がないと詰められる。法律があるからといって行使できるわけではないという矛盾にも苦しむ。でも諦めない。労務省にいる受付係も、窓口の女性も構造の一部と化している。ここにはシスターフッドはなかったが、無理やり風穴を開けたのはすごかった。ちなみにこの労務省の廊下に静かに座っているだけの人たちもとても怖い。

 

・ひと昔前は、「かわいそう」か「たくましい」という表現で流されてきたこれらの訴え。今は違う。

あんたはどうなの? あんたにもあるんでしょう?

と問いかけてくれる。うれしい。ハイタッチしたくなる。Stand up, sisters!


・ラストシーンのなだれ込みと、ラストカットもいい。ほんとうの闘い、ほんとうの解決まではまだ長い。シムはこれからもっと根の深い問題にぶち当たっていくだろう。道は果てしないけれど、諦めない。諦めなくていい。そのことを教えてくれる作品。

 

・私の母くらいの年代、70才前後と思しき方々が、「ああいうのは気が強くなきゃできないよね」と話しているのが聞こえた。

かれらに私はこう話しかけたかった。

「いや、そうではないんですよ。すごい人だからやっているのではない。もちろん資質はあるだろうけれども。それを上回るほどの苦難があり、尊厳がかかっているんですよ。あなた方にもきっと、女性であること、結婚にまつわることで自由や尊厳が奪われていると感じたことがあるはず。

『私たちは女だから、結婚前もあとも自由はない』ってセリフに心当たりありませんでしたか。無視できない状況に置かれた人があのように動いているだけなのですよ。自分のためだけじゃなくて、仲間のため、自分より若い人たちのためでもあるからがんばれるんです。覚悟を決めるたびに強くなっていったんですよ。」

 


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▼こっちのビジュアルもいい。シム役の俳優、リキタ・ナンディニ・シムさんがほんとうに生き生きと演じている。

パンフレットにも「丸顔」に言及されていたけれど、そこも注目すべきところ。主人公をグローバルな価値観における「美形」に近づけようとすると造作も似通ってくる。その中に丸顔はない。ああ、これもルッキズム

「私たちはここにいる」というキャッチコピーが、時間が経てば経つほど鮮やかさを増してくる。
これは悲惨さの暴露ではないのだ。
私たちには力があるということの表現。f:id:hitotobi:20220527061729j:image

 

▼タイトルやリードが似ていて区別がつきづらいが、4回の連載インタビュー。

主人公シムにはモデルがいて、10代半ばからバングラデシュの労働運動に関わってきた人。彼女の魅力についてもインタビューで語られている。彼女のように他の女性たちのために労働組合を立ち上げ、組合長になる人はバングラデシュでは珍しくないのだという。

news.yahoo.co.jp

news.yahoo.co.jp

news.yahoo.co.jp

news.yahoo.co.jp

 

安いファッションが抱える搾取の構造 日本も「他人事ではない」理由(朝日新聞

一行一行が重要事項。

「字幕は、南出さんが教える学生たちが手がけたそうですね」
「アパレルは完全な機械化が難しく、人の手が必要とされる産業なのです」
バングラデシュでも、縫製工場は、長時間労働の割には賃金が低く、できれば『働きたくない場所』です。働くのは、他に選択肢のない貧困層の女性たちです」

www.asahi.com

 

2015年公開のこの映画が、世界に問題提起した。私は中身は観ていないが、トレイラーを観て概要を知って、衣服についてあらためて考えるきっかけになっている。

『ザ・トゥルー・コスト ~ファストファッション 真の代償~』

vimeo.com

 

上記にも関連するが、この問題も深刻。「私たちのファッションが途上国にしわ寄せ!?」

www.nhk.or.jp

 

対局にあるもの。イタリアのアパレルブランド、ブルネロ・クチネリの哲学。

www.brunellocucinelli.com

 

そもそもの「私たちが頭の中で描いている幸福の形」を変えるときではないか。

パラグアイの前大統領、ムヒカ氏の国連スピーチも思い出す。刺激を受けるままに欲しがって、そのために犠牲になっているのは、誰なのか、何なのか。

この30年、50年が異常だったのではないか。世界は今までと同じではない。自分自身の発想を変えるときではないか。

『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』

『世界でいちばん貧しい大統領からきみへ』

 

 

ファストファッション」は、私たちが全体的に貧しくなっていることの証でもある。

私も、安くないと買えない生活状況に陥ることは何度となくあった。そんなとき、安いけれど個性的なファッションができて、いろんなアイテムから選べる「ファストファッション」はありがたかった。ああ、でももうこの言葉は使いたくない。

私は今は考え方や購買行動は変わっているが、買った「ファストファッション」の服はどれも気に入っていて、擦り切れるまで着たり、直しながら着たりしている。ささやかすぎるけれども、そういうことは一つできるだろうか。

「買わないことが解決につながるわけではない」という監督の言葉が重く残る。

ミシンをかける彼女たちが、安全な職場環境で、自分の心身を大切にできる就労環境で、仕事に誇りを持ち、適正な報酬を受けてほしい。

私も私の身体を包むものに愛と信頼を感じたい。

 

次回の上映が最後の作品になる。必ず来るとの約束の気持ちを込めて、前売り券を購入した。映画自体も良さそうで楽しみだ。

歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡 | 岩波ホール


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岩波ホールから徒歩7分ほどのところにある千代田図書館で、ミニ展示を開催中。

第I期は、「岩波ホールのはじまり」

1968年の開館から1974年の「エキプ・ド・シネマ」立ち上げまでの多目的ホール時代の活動を取り上げます。映画、音楽、伝統芸能、演劇などの公演や、それとセットで行われていた講座などの様子を、当時の写真や資料、支配人・岩波律子氏の思い出と共に紹介します。(千代田区立図書館ホームページより)

www.library.chiyoda.tokyo.jp

資料の中の岩波ホールは、ロビー、場内、証明、ステージの感じなどは今とあまり変わらない。

戦前、岩波書店の創業者、岩波茂雄には、「古書店街で働く若者たちが無料で学べる市民大学」の構想があったという。

ああ、だから今も岩波ホールの最終回は「学割(大学生、大学院生、専門学校生)」の設定があるのか。通常は1,500円のところ、最終回のみ1,200円。

総支配人高野悦子さんが立ち上げ、育てた岩波ホールのおかげで私も10代、20代に特に多くの恩恵に預かってきた。岩波ホールがなければ、あの映画もこの映画も埋れてしまっていたと思う。日本の映画文化の裾野を広げ、芸術文化としての映画を守り、多くの人に社会的遺伝子を渡して行った。

私自身は、直接岩波ホールに出向くことがそこまで多かったわけではなかったのが悔やまれる。いや、その分、他の文化施設にはお金が落ちていたと思うけれど。

 

岩波ホールの歩みの中では、映画に関する講座も多数開講されており、そのすべてが記録されている。音源と文字起こしで残されている。一つひとつの場の唯一無二性を自覚し、後世に価値あるものとなることを意図し、アーカイブが当時から行われていたことにも、岩波ホールが背負っていた社会的使命を感じる。


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アニエス・ヴァルダの『落ち穂拾い』ここで観たかったなぁ。
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忘れがたい、川本喜八郎の『死者の書』!

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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年

本『同志少女よ、敵よ撃て』読書記録

小説『同志少女よ、敵を撃て』を読んだ記録。

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身内で読書会をすることになったので読んだ。ちょうどその時期に『高橋源一郎飛ぶ教室』でもこの作品が取り上げられていたので、聴いて読書および読書会の参考にした。書評と逢坂さんの出演とで2回あり、「飛ぶ教室」にしては異例の扱いではなかったかと思う。

 

読んでみて、思っていたのと違ったというのがまず第一印象。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』の語りのような、過去を振り返る証言のような内容を想像していた。フィクションの物語であり、小説だった。そりゃそうか。

読み始めたらおもしろくてぐいぐいと最後まで連れて行かれた。独ソ戦とはなんだったのか、史実の解説と現場からの中継、レポート。この小説を手がかりに、今のウクライナーロシア間の戦争に何がつながっていったのかを考えることができる。

戦時性暴力についても触れている点が画期的。それだけに読み終わって残るのは重い感覚。

文中で使われている用語からも、巻末の参考文献リストからも、さらに関心を広げて行くこともできる。

10代にもおすすめしたい。

 

本屋大賞の逢坂冬馬さん「絶望することはやめる」ロシアへの思い語る(2022/4/6)

www.asahi.com

 

※以下は内容に深く触れていますので、未読の方はご注意ください。

 

読書記録 

・ドイツ兵の日記や手紙が章ごとに挿入されることによって「あちらからの景色」が共有される。決してロシア万歳でもなく、どちらが正義でもない戦争の実相を表現しようとしている。

・家族が皆殺しにされる場面から物語が始まるところは、『鬼滅の刃』を思い出した。「鬼滅」は復讐の物語ではないということなので少し違うが、そのとき声をかけてくれた人について行くしかない状況に追い込まれたり、もともとその戦い方の特性があるところなどは似ている。戦っている相手が「鬼」と思っていたら、自分だって「鬼」だと気付くところも。

・女性同士の関係は、思い当たる感覚もあるようで、やはりどこか作り物っぽくもある。イリーナと少女たちの関係は女子校の部活の部長と部員のよう。女子校に通った経験はないので、あくまでもイメージだが、私のイメージというより誰かが作ったイメージの踏襲という感じ。イリーナとセラフィマの関係は、『風の谷のナウシカ』のクシャナナウシカに近い。イリーナからセラフィマへの「お前」呼び。陰のあるイリーナはクシャナ。こんな過酷な状況下でも常に精神が安定しているセラフィマはナウシカ。イリーナとリュドミラの関係はタカラヅカの同期生っぽい。

・「女性には女性の、狙撃兵には狙撃兵に最適化された訓練」(p.56)なんだろう、こことても怖い。「機能のみを追求した髪型になるということは、大げさに言えば、自らが兵器化することのように感じられた。」(p.61)つい、学校における意味不明な校則のことを思い出してしまった。

・「起点を持てと私は言った。そしてそれを戦場では忘れろとも言った」(p.75)「狙撃兵にとっての射撃が単に主要な構成要素の一部であり、引き金を絞る瞬間はその他に費やした全ての結果を出す『極』に他ならない」(p.86)冷酷な殺人者ではなく、職人というかアスリートということ。一方で「楽しむな」(p.264)という戒め。こういう立場、こういう職業がある。すぐ近くにある。

・「迫撃砲の周囲では観測手が地図と方位磁石を頼りに照準を調整していた。その隣に重機関銃が配置されていて、あたりに睨みをきかせている」(p.234)戦場での分業の様子もよくわかる。つまり戦争というものが、いかにシステマティックに行われるものかということ。

・「つまり誰かが動物を殺さなければならない。それは自分がやるのは、別に残忍なことではない」(p.92)猟銃を持って害獣を駆除したり、食糧としての動物を獲っていたいた頃の話。動物を殺すことと人間を殺すこと、必要であるかどうかを迷うこと、可哀想だと思う気持ちをどうするか。というテーマが繰り返し現れる。

・犬との交流。生き物を飼っている人には辛い場面がある。

・「なぜソ連は女性兵士を戦闘に投入するのか」(p.75)この問いに挑んだことが、この小説のすごいところ。「男女が同権であるということ」(p.109)「戦わない男は、女未満と見なされる」(p.182)などでも言及。「なぜか敵は女を殺す姿を見方に見せたがらない」(p.427)どういうことか。戦場と女。まだわからないことが多い。「生きて帰った兵士は敬遠され、特に同じ女性から疎外された」(p.468)この語りは『戦争は女の顔をしていない』でも明らかになった。

・セラフィマが「ドイツ語を学んで外交官になり、ドイツとソ連との友好の架け橋になりたい」と願うところは切ない。実際、語学を志すときに先生方がおっしゃっていたこと。言葉とは、そういう温かな感情のわくものでもあり、一方で敵の言葉が解することが身を助ける、生死を左右することにつながるような武器や防具にもなる。またもう一つの観点は「意思疎通可能な人間であると分かるため」(p.423)相手の言葉をわかろうと努めることは、相手を人間扱いするということと同義。言葉を学ぶ意味の一つ。

・「女への暴行は軍規に反する」「占領地で性病にならないための決まり」(p.31)
これは「慰安婦」問題を調べているときに出てきたこと。女性の人権や、人道的なことではなく。

・男性が大多数の土木建設や運輸などの業界の現場で働く女性の気持ちが少しわかるような。「イワン」と「フリッツ」という俗語からも、ここは基本男性のいるところ。

・用語や時代背景など簡単に説明してはいるが、さらに興味の湧いたことを自分で調べる「余地」も残されていたのがよかった。「ヒーヴィ」「督戦隊」「ピオネール」「ケーニヒスベルク」「国民突撃隊(Deutscher Volkssturm)」「スタフカ(Stavka)」など。ソ連国民必須の軍事基礎訓練、フセヴォーブチ」についてはわからなかった。

・「防衛戦争であるということが、これほどまでのポテンシャルを発揮するとは……」(p.237)セラフィマのこの分析は、今のウクライナが重なる。

・「子どもが遊ばなくなったら、きっとそれは子どもとして生きることを諦めたときでしょうね」(p.229)どんな状況下でも子どもは遊ぶ。禁じられてもも遊ぶ。それをしなくなったとき、子どもは生きる意欲をなくす。大人と同じことをさせようとすること、遊びから徹底的に疎外すること、様々な方法で絶望させることで。子どもたちとの交流の場面はしんどい。

・「恐ろしい共産主義者の魔手に落ちれば皆殺し」(p.280)は、アジア・太平洋戦争での「生きて虜囚の辱を受けず」に通じる。

・「売春宿に連れて行かれた」(p.316)「その体験を共有した連中の同志的結束を強める」(p.355)(p.441-448)戦時性暴力。これに言及することが一つ画期的だったし、まさに今の時代の小説なのだと思う。「異様としか言いようのない生き方」(p.318)性を使って生き延びざるを得ない人間に言及されている。遠い国の話を思いながら読んでいると、これは「ここの話」だと気づける仕組みになっている。

・「戦争を生き抜いた兵士たちは、自らの精神が強靭になったのではなく、戦場という歪んだ空間に最適化されたのだということに、より平和であるはずの日常へ回帰できない事実に直面することで気付いた」(p.466)
どの戦争でも、戦場に赴き、帰ってきた人は多かれ少なかれこれを持っていて、直後には語ることができず(自分の精神的な苦しみと、社会からの抑圧とで)何十年か経ってようやく語れる人もいれば、語れないまま亡くなった人もいる。子孫や関係者が掘り起こす動きもある。

・生理とトイレと風呂と食事についてはどうなっていたのか。衣食住。事実というよりも、セラフィマの物語の中でもっと知りたい。「ついに女性用下着の導入を実施した」(p.338)はあっさりとしか触れられていない。

・「狙撃兵に好意的な歩兵は少ない」(p.342)狙撃兵と一般兵科についての違い、狙撃兵の孤独については何度も出てくる。同じ戦場にいても、専門や任務の違いで見える世界が違う。

・(p.354)セラフィマがプロパガンダを冷静に読み解くのは当時を生きている人として現実味がないような気もするが、現代に生きる者としては解説としてありがたいと思う。

・「一時間話し続けても延々と技術論だけが続き、少しも精神に関わる事柄が登場しないことに、多少の驚きを感じた」(p.362)この箇所、何か非常に気になる。

・「自らの被害を内面に留保することで、彼らは自らの尊厳を取り戻したようだった」(p.476)どの国にも語れない歴史がある。しかしその傷はなくなったわけではない。

・ちょうどこの本を読んだ前後にアウシュヴィッツ生還者からあなたへ: 14歳,私は生きる道を選んだ』 (岩波ブックレット NO. 1054)を読んだ。

www.iwanami.co.jp

リリアナ・セグレさんは、「撃たない」を選択することで生き延びた。その話を引きずりながら『同志少女よ〜」を読んだので、セラフィマの決断もリリアナさんと同じなのかと思ったらそうはならなかったのでちょっと驚いた。小説の最初のほうで「撃たないぞ」という物語にも触れていたのに。何よりタイトルが『敵を撃て』。だからきっと「撃つ」か「撃たない」かはこの物語にとって重要な何かがあるのだ。今は浅くしか受け取れていないが、そのうちハッと気づくときが来るかもしれない。

 

*追記* 2023.6.16

〈対談〉戦争文学で反戦を伝えるには  逢坂冬馬×奈倉有里

『岩波』2022年6月号

https://www.iwanami.co.jp/book/b607796.html

岩波書店の #図書 6月号に逢坂冬馬さんと奈倉有里さんの対談発見。

逢坂さんと奈倉さんはごきょうだい。
高橋源一郎飛ぶ教室』でもお二人でゲスト出演されていた。

奈倉さんが翻訳したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『亜鉛の少年たち-アフガン帰還兵よ証言 増補版-』は今月末に出版。アフガン侵攻に従軍したソ連兵の語りを記録したもの。これもまた封殺されてきた歴史なのか。

そしてまた今も日々それが続いているのだ。つらい。でもこのつらさが対談で扱われていることがせめてもの救い。

奈倉さんのエッセイ『夕暮れに夜明けの歌を』も読みたい。

 

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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年

映画『国葬』『粛清裁判』『アウステルリッツ』『夜と霧』鑑賞記録

早稲田松竹で『国葬』『粛清裁判』『アウステルリッツ』『夜と霧』を観た記録。

セルゲイ・ロズニツァ監督の群衆三部作に加え、アラン・レネ監督の『夜と霧』の特別上映がセットになっている。

wasedashochiku.co.jp

youtu.be

 

2020年11月にイメージフォーラムで公開されていて話題になっていたが、タイミングが合わず観ることができなかった。早稲田松竹で再上映してもらってほんとうによかった。

観た順は、1日目『国葬』『粛清裁判』、2日目『夜と霧』『アウステルリッツ』。


国葬』のチケット販売の列が途切れず、上映開始が2 ,3分押すほどの人気ぶり。モノクロの淡々としたドキュメンタリーなのに。「スターリン」というワードに反応している年配の方がいらっしゃるのだろうか。

いつも思うが、早稲田松竹の客層は読めない。ああ、やっぱこういう人が観るよね!という勘が当たらない。毎日現場にいてお客さんと話している劇場の人だとピンとくるんだろうか。

 

この3作品はドキュメンタリー映画の中でも、記録映像を再構成して作るアーカイヴァル映画と呼ばれている。素材はモノクロなので、制作も何十年も前のようについ錯覚してしまうが、制作年は2016〜2019とごく最近。『アウステルリッツ』もモノクロだが撮影自体も近年。

旧ソ連はどのような時代だったのか、何を経て今のロシアになってきたのかを知りたいと思って観た。

また「群衆」というテーマについては、仕事柄、あらためて考える必要があると思っていた。例えば一対一の関係ではバランスが取れていた関係が、3人以上の集団になるとパワーバランスに偏りが出て、不均衡から暴力につながることがある。集団化、群衆化したときの暴力性には気をつけねばと常々思っている。「群衆」をテーマにした作品で、「群衆」の姿をじっくりと観察することで、また考えが進むことを期待した。

早稲田松竹の特集ページにも書かれているが、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻に関わり、ロズニツァの映画人としての立場が批判されたというタイミングでもあった。

 

以下は鑑賞メモ。※内容に深く触れていますので、未見の方はご注意ください。

 

国葬(2019年)

・淡々としていて眠くなるかなと覚悟したが、まったくそんなことはなかった。ただ記録されたものが流れているわけではなく、「群衆」というテーマに沿って、意図的に編集されている。とにかく量。量が伝えてくるものの凄まじさを感じる。

スターリンが1953年当時のソ連でどのような存在だったのか。人々が"同志スターリン"の死を悲しむ姿、打ちひしがれる姿が、これでもか、これでもかと映し出される。

・大量の花、一様にデザインされた花輪。3月上旬、あの寒い地域にあってあれだけの花を栽培できるものだろうか。温室栽培なのか、南のほうから運んでくるのだろうか。花輪以外にも鉢植えをレーニン像の下へ子どもが運んでいる姿もある。このフィルムに写っている当時子どもだった人たちは、今どうしているのだろう。共産党のシンボルカラーの赤と花輪の葉の緑を見ていると、まるで楽しいクリスマスのよう。

ソ連各地に撮影隊が出向き撮られたフィルム。たとえばコーカサス中央アジアの顔立ちや民族衣装。いや、衣装というかそれを日常の衣服として着ている。死因と死に至るまでの詳細な報告が村のスピーカーから流れる。病状や進行をじっと黙って聴く人たち。その人たちを素通りしていく人もいる。人々の吐く白い息、泣く姿、鳥の声。アゼルバイジャンの油田、ウラジオストクキルギスリトアニアウクライナリヴィウ、ドンバスの炭鉱。

・街角で新聞を求め、その場で読みふける人たち。号外のようだが購入しなくてはいけないらしい。それぞれに悲しみを堪えているように見える。会話もない。新聞の見出し「ソビエトの人々は働き続けなければ」。大通りが信じられないぐらいの広さ。車が20台ぐらい並びそう。

ソ連と関係のある社会主義国の政府の要人、または共産党関係者らが専用機で次々と降りてくる。寒いからみんな帽子をかぶっている。チェコポーランドフィンランド、モンゴル、中国、ブルガリアルーマニアハンガリー、ドイツ(旧東)……。

・「天才的頭脳」「国民のために尽くしてきた偉大な英雄」等、語られている言葉も初めて聞くと衝撃。工場労働者が手を止めて集まる。「ヨシフは私たちソビエトの家族でもっとも愛しい人」女性のスピーチに泣きだす女性たち、悲痛、鎮痛な面持ち。様々な場よで追悼のスピーチが行われる。そして「堅く団結せよ」と呼びかける。

労働組合会館の柱の間に設置されたレーニンの遺体を見るために(祈るとか別れを惜しむというより見にきたという感じがする)おびただしい数の人々が列を成す。これは自発的な行動なのだろうか。

・本編最後に流れるテキストでは、2700万人以上の粛清、1500万人の餓死とある。あれだけの人びとがスターリンの影響下で亡くなっている中で、群衆の中にもまさか知らない、無関係だという人はいないのではないか。この中にも被害者の家族や友人、あるいは自分がそうなりかけたという人もいるのでは。そういう人は遺体を見に来たり、葬儀に参列したりはしないのだろうか。あるいは、被害者という意識ではなく、悪いのは逸脱行為を働いたほうという認識になっている可能性もあるのか。あるいは自分の身の安全のために表向きは他の人と同じように振る舞いながら、心中はさまざまなことを考えているのか。そうかどうかもわからないほどに、あとからあとから映る、顔顔顔……。

・なんとか一人ひとりが個別の人間として見ようとする、名前のある個別の人間だと任指揮しなければという義務感のようなものが立ち上がってくる。実際に顔立ちも背格好も違う、性別も年齢も、社会階層も、子どもを連れていたり、階段を登っていてよろけそうになったり、倒れそうなほど泣いている人もいる。頭巾、スカーフ、帽子、毛皮、首回りが分厚いコート。ただ無表情な人が多い。感情が読み取れない。呆然としているのかもしれないが、わからなくて怖い。ものすごく悲しそうな表情を浮かべる男性がいて、少しほっとする。

・どんどんどんどん人が入ってくる。たくさんの部屋を通り抜けて、執拗に映される人を見ていると、同じ行動をし、同じように振る舞うこと、それ自体が恐ろしいと感じる。個別化が難しいほどの数の人が集まると、「塊でとらえないとこちらの身が持たない」という気分になってくる。列や波や群と表現したりする。この感覚はよく知っている。だんだん何を見ているのかわからなくなる。もういいよ、もう勘弁してくださいという気分になってくる。夜になっても途切れない列、持ち込まれ続ける花輪。

・ほとんど誰も祈らない。見て通っていくだけ。見せ物のようになっているスターリンの遺体。上野公園のパンダの前の行列を思い出す。合唱隊が歌い、感傷的な音楽が流れる。政府高官たちも次々にやってくる。家族もいる。聖職者もいる。この中にもたくさんの思惑があるのだろう。覇権争いがあるのだろう。スケッチする人、水彩で描く人、彫像を作る人は政府の指示で行っているのだろう。

・出棺。レーニン廟の前の追悼集会。何万人もの人々が集う。国民がここまで参加する、させられることの異常さ。人の死を悼むというこの場の感情は本物だということはよくわかる。ただ、一人の人間をここまで神聖視、神格化することがただただ怖い。個人崇拝の権化、「御真影」のようなものが運ばれる。スターリン以外の人の数の多さを見続けているので怖い。こんな環境で自分の軸を持つのは困難だと感じる。情報もない、知りようがない、一定の価値観で染まっている。それ以外を知らないと求めようがない。棺の重さによろける姿。くしゃみをする他国の要人、砲音が鳴り慌てて脱帽する工員。やっている方も、やらされている方も生身の人間なのだと、フィルムが言う。

スターリンだけが悪だったのではなく、スターリンを英雄にするフィクションを支えた無数の群衆がいた。

・国家への信頼と国民の団結を呼びかける中に、「ソビエト国家の敵に対して警戒を強めなくてはならない」という言葉が入る。外側の敵に対する強い怖れ、憎しみ。これが今のロシアにもつながっているのだろうか。・ちなみに早稲田松竹は今年開館70周年。ということは、1952年。スターリンが亡くなる1年前だ。

 

 

『粛清裁判』(2018年)

 ・壮大な葬式の後の『粛清裁判』を観るという流れ。時代的には遡っている。あれだけ悲しまれて送り出されたスターリンが、実際にやっていたことは粛清。しかもでっちあげの裁判で銃殺刑を言い渡し、その後恩赦を出すという一連の茶番劇。技師団体同盟「産業党」が反革命組織、破壊分子と見做され、一人ひとりの罪状を明らかにし、裁く場という設え。

・ここまでした人間があのように悼まれる。しかも『国葬』でスターリンの遺体が置かれていた「柱の間」が、まさにこの裁判が行われている。くらくらする。ドキュメンタリーとは思えないよくできた設定、できすぎている!

・ロシアがこういう史実を持った国であると知ることは、今を読み解く上でも重要だと感じた。今だけ見ていても「なぜそんな必要があるのか?」というところで止まってしまう。知らずに平和を願うことはもちろん可能ではあるが。

・英題は"THE TRIAL"。「裁判」と「試み」の両方の意味を掛けているのかもしれない。こういうでっち上げ裁判が成立するのかどうかやってみているという意味合いに取れなくもない。

・ベルが鳴り、駆け込んでくる傍聴人。2階席もあり超満員。見ようとして腰を浮かせる人々。公開裁判。しかし裁判というよりお芝居を観に来ているような雰囲気。豪華なシャンデリアもその演出を手伝う。実際これは茶番劇なのだからその感覚は当たっている。人々は何を見に来ているのだろうか。何を見たがっているのだろうか。

・ライトを向けられ、眩しそうにする群衆の姿が映るシーンが何度か挿入される。これが意味するもの。ライトを向けているのは、今見ている私であるような錯覚。ライトを向けられて眩しそうにしているのもまた私であるような錯覚。

・合間に挿入されるデモの映像。「ボリシェビキに死を!破壊分子に死を!」「プロレタリア革命の敵」「打倒ポアンカレ、銃殺を要求する、国家に対する裏切り」等々シュプレヒコールを上げながら、でっちあげ裁判にのって死刑を求める人々。のせられていることに気付いていない。いや、気付いていたとしても、鬱憤を晴らすために、攻撃できる何かを求めている集団、それが群衆なのかもしれない。国家によって犬笛が吹かれる。仮想的を作って攻撃する。恐ろしい。同じデモの場面は、それを印象付けるように何度か挿入される。権利を求めているのではなく、不満の吐口にしている。粛清といえば、知識層が言論の自由を掲げた「世迷言」で人々を扇動するから行われたのだと思っていたが、それ以外の理由、特権階級にあった技術者たちをスケイプゴートにして大衆をコントロールしやすくする目的でも行われていたと知った。

・被告人たちの供述と「裁判官」とのやりとりの中で、西側諸国の脅威が何度も何度も語られる。その怖れの強さはただ事ではない。「干渉」という言葉も何度も出てくる。「干渉の主目的はソビエト政権打倒」「外国の武力侵攻」「資本主義の復活」それなりに歳を重ねた人たちが、ここまでのでっち上げ裁判を本気で作り出し、遂行している。他の国、外国、違う民族、違う人種、違う社会体制はすべて自分たちの安定を脅かす存在で、今がうまくいっていると思いたい力。ロシアは2022年、またこれに近い状況になっているのだろうか。

・紙を見ながら読み上げているが、だんだんと演技にも熱がこもってくる。台本も個別の立場や人格を踏まえてよく練られているように感じられる。作られたシナリオと思えないほど生き生きしている。陰謀論も強く思い込めば本当にそうであるかのように表現できるということを思い出す。「被告」の供述の中には、アドリブで話して、その芝居の成立を助けているように感じる振る舞いもある。

・誘導質問されて、新しく事実を作らされる。闊達なやり取りに見える。それを群衆は真実と思い込む。その他、淡々と記録している係の女性たちや、警備係などの姿も映る。かれらにはおそらく「加担している」という意識は薄いだろう。みんなが共犯で虚偽を作り上げる。片方は政治的な意図で、片方は自分の安全を確保するため。

・別の場所を写すときに切り替えしではなくカメラ自体が振られるのも特徴だ。少ないカメラ台数で撮影されていたのだろうか。他の撮影カメラも写り込んではいる。

・何で読んだか忘れたが、「日本はお上主義。お上がちゃんとやっていないと文句を言うけれど、お上がすげ変わると言うことをきく」というフレーズを思い出した。まさに群衆だ。

・「被告全員を銃殺刑」と聞き、大喜びする群衆。拍手と笑顔。この時を待っていた!と言いたげな。怖い。「みんなが頑張っているのに足を引っ張ったり秩序を乱す奴は憎い、脅威になる」という発想が行き着く先はここになってしまうのかもしれない。いじめの発端は一見正しそうな理屈、同感してしまいそうになる情熱。「資本主義の復活論者に銃殺刑を」と熱に浮かされたように叫ぶ群衆たちは、おそらく資本主義が何なのかよくわかっていないのではないだろうか。

・最後に示される衝撃の事実。「群衆」を形成していた一人ひとりはスターリンの死後、それを知ってどうしただろうか。自分がデモに参加したり、傍聴席で拍手したことなど忘れて、今度は軽々と批判の言説にのったのではないかと想像してしまう。そしてそれは別にこの人たちに限ったことではなく、自分の人生にも思い当たることばかりであることに気づいて苦しくなる。

 

 

『夜と霧』アラン・レネ監督(1955年)

・なぜアラン・レネの『夜と霧』のタイアップ上映があるのかは、単に『アウステルリッツ』の「群衆」強制収容所」のモチーフに沿っただけでなく、その手法の対比や時代のズレも意図していたのではないか。『夜と霧』もドキュメンタリー記録映画だが、当時のニュースフィルムや写真などの映像に、1955年近辺当時の荒廃した収容所跡地のカラー映像をモンタージュしている。つまりこれは、1955年当時と1955年から見た過去(『夜と霧』)、それらを見る2010年代の眼差し(『アウステルリッツ』)さらに2022年の今(2022年3月末から4月初旬)から全てを見渡すことによって、何が浮き彫りになるのかを問う。そういう意欲的な企画上映だった。

・とても32分とは思えない長い時間。人間の残虐さをひたすら突きつけられる。私自身はこれまでも様々な資料で見てきたものが多いが、それでも直視できない映像もあった。それでも観てよかったと思う。35mmフィルム上映だったのもよかった。公開当時の人々の観たものに近づけるように思えた。

・流麗な音楽。詩のようなナレーション。現代に慣れ親しんだドキュメンタリー映画のつくりではない。カラー映像で映される荒野、鉄条網、監視塔。1955年の頃には、アウシュヴィッツがあんなに廃虚になっていたとは知らなかった。今や「ダークツーリズム」の筆頭にあげられるような一大観光地と化しているアウシュヴィッツだが、誰も近づこうとしない、近づけない時期があったということ。それを知れただけでもこの映画を観た価値があった。

・1935年の映像。機械と化した人間。喜ぶ群衆。建設に業者が群がる。このことを忘れてはいけない。特需と喜んだ人間がいた。「労働力」を使った人間もいた。

・連行、検挙された人々の中には手違いでリストに載ってしまった人もいる。ふつうの市民だった人たちの絶望的な表情。締められていく貨車の扉。私はこの人たちがどうなるか知って観ている。そしてこの記録映像が誰の手で作られているのか、想像しながら観ている。それは30分のあいだずっと続く。直接的な暴力の跡よりも、このことが、『夜と霧』を観る中で今もっともしんどいことかもしれない。

・映像と写真にキャプションをつけるように映画は進んでいく。「ホロコースト」や「アウシュヴィッツ」という単語で目にしたり、耳で聞いたときには立ち上がってこないような種類の物事の細部が提示されていく。記録だけを使ってここまでできるのかという感想が湧くやいなや、「映像で表現できるのか、この恐怖を」というナレーションが釘を刺してくる。

・「これが人間か(Se questo e un uomo)」」というプリーモ・レーヴィの著作のタイトルを思い出す。およそ思いつくかぎりの人間の蛮行が次々に展開されていく。あまりにも苦しくなるのか、時折セットや劇映画のように見えてくる瞬間もあり、我ながら驚く。しかしこの感覚は非常に重要だった。このあと観る『アウステルリッツ』に生かされた感覚。

・連合軍が到着し、解放のときが来る。SSが出てくる。(女性のSSがいたのか!)場所からの解放はあるが、元囚人たちの真の解放は果たされているのだろうか?という問いがナレーションで投げかけられる。さらに、「我々の誰が次の戦争を防げるのだろうか」との声。今は虚しく響く。

自国の歴史を知る権利を剥奪されたか、あるいは操作されたことで、これはある国の特別な話と自分に言い聞かせている人もいるのだろうか。

 

 

アウステルリッツ(2016年)

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・タイトルの『アウステルリッツ』は地名ではなく、W・G・ゼーバルトが2001年に出版した小説『アウステルリッツ』の主人公の名前。このひねりについてはパンフレットを読んだがまだよく理解できていない。

・現代のザクセンハウゼン強制収容所を訪れる人々を定点カメラで場所を変えながらただただ映している映画。何も知らなければ公園に家族連れが遊びに来ているのかなと思いそうな冒頭。

・全編にわたり、意識的に音を取り込んで聞かせてくる。葉ずれの音、鳥の声、ごうごういう風の音、携帯電話の着信音、教会の鐘の音、遠くで行われている工事の音、飛行機のエンジン音、窓が開閉する音、子どもたちが走り回る音、虫の羽音。

・長細いバータイプのオーディオガイドを耳に当てて聴いている人たちの姿が映り、ようやくここが史跡のようなものであることがわかる。

・来場者の数がとにかく多い。「1945年……」の声がする。これもおそらく意図的に入れられた音。ゲートの "ARBEIT MACHT FREI" の前で自分たちを入れて撮影する人たち。つまり「記念撮影」。ここでようやく本当に何の場所なのかがわかる。とにかく人が多い。人人人、後から後からやってくる。パッと見だが白人が多いように見える。中南米や中東の人もいるのかもしれないがよくわからない。目が慣れてくるとアジア系の人も見つかる。アフリカ系の人はほとんど見ない。

・場所を変えて、来場者が所内を見て回る様子がひたすら映る。一つの場所に5分〜10分留まって、かれらの様子を観察する。見ているうちにだんだんと「自分自身が強制収容所になった」ような気がしてくる。この人たちは何をしに来たんだろうという眼差しで見始める。

スペイン語ガイドの声。英語ガイドの声。立ち聞きしている感覚。ときどきこのガイドの声が入ることで、映画の観客も、なるほど、ツアーではそういう話を聞くのか。ここでなければ聞けない新しく知ることに耳を側立てている。しかしツアー客の反応は薄い。メモを取る人は誰もいない。一人だけ頷いている女性を見た(全編通してその人しか確認できなかった)。無表情で、聞いているのかどうかもわからない。ショックを受けているようにも見えるし、面倒くさそうにも見える。だだっ広い場所をひたすら歩き続けるので疲れているのかもしれない。暑いのかもしれない。ガイドが「質問ある人は?なし?それも一つの答えね」と言う場面もある。

・いろんな見た目や特徴の人たちがいるが、例によって次第に群衆化してくる。「ダークツーリズムに大挙して押し寄せる人たち」に見えてくる。連れだって来ている人たちは何を話しているのだろう。たまにこちらと目が合う人もいて、どきっとする。

・タバコを吸ったり、ペットボトルを頭に載せておどけたり、レプリカの絞首台でつるされたポーズをとって写真に収まったり、カップルが微笑みながら軽いキスをしたり。「不謹慎」という言葉が浮かぶ。

・タイル地の台のところでポーズをとって撮影する人たちにはさすがにのけぞった。真ん中に排水口がついているところを見ると、おそらく解剖か何かに使われたのではないか。あとで調べたら病理研究室とのことだった。それでも現場にいればおおよそ検討がつくこれらの施設にあって、楽しく撮影できるのはなぜなのか、このあたりから深く考えはじめる。

・見学者というより観光客。20代でドイツのダッハウ強制収容所に見学に行ったことがあるので、そのときの記憶を重ねながら観ると、とてもそんなにはしゃいだ気持ちにはなれなかった。もしもあのとき誰かと見に行っていても、ほとんど言葉を交わせなかったと思う。自分が何に苛立っているのだろうか。そこにふさわしい振る舞いがあると言いたいのか。でも、自分は別の場でそうしなかったかというと自信がない。あのように振る舞っていたと思う。「不謹慎に」写真を撮ったり、「キャー」と嬌声をあげたことはなかったか。

・再び門に戻ってくる。最後の最後で、よりによって自撮り棒で記念撮影をする。距離を変えて3回。撮りましょうか?と声を掛け合うグループ。白い鳩と地球が描かれた揃いのTシャツを着て楽しげに笑い合う若者たち。

・カメラに写り込んでしまった人はこれを見たらどう思うだろうか。撮ることの暴力性、あばくという行為であることは百も承知で撮られている。残酷な作品ではある。

・ドイツにルーツのある人はこういう作品は撮れないだろうと思った。強制収容所を舞台にこんなに淡々とした、突き放した、事実を伝えていないような作品は撮りにくいだろう。もっと何か残虐的な面を描いたり、観る側にも向き合いと反省を促すようなことを描くのではないか。

・『アウステルリッツ』を観てとても複雑な気持ちになるのは、これは本当に歴史を知ることや、歴史を学び、今を省みる機会になりえるのか、疑問がわくからなのだと思う。開かれた施設に知る機会が置かれ続ける。そのことは重要だ。場所や物が語ることは大きい。ただ、何かが引っかかる。目の前にあっても真剣に受け取らないで済ませられることが。遺すこと、語り継ぐことの意味、そこから何を、なんのために学ぶのかが揺らいでいるように感じて、焦る、怖い。

 

ザクセンハウゼン強制収容所

www.sachsenhausen-sbg.de


ダッハウ強制収容所

www.kz-gedenkstaette-dachau.de

 

cinefil.tokyo

 

早稲田松竹のロビーのチラシ棚にはロズニツァの2018年の作品『ドンバス』が置かれていた。

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5月にこの映画が公開される頃には世界はどうなっているのだろうか、私は何をしているのだろうかと思っていたが、現在2022年6月、状況はほとんど変わっていないように見える。

 

サニーフィルムチャネルで配信中の池田嘉郎さんの解説でさらに理解が深まる。予習、復習にぜひ。

youtu.be

 

 

 

文学者、研究家、批評家によるレビューや論考も満載で、パンフレットというより本。早稲田松竹の上映時には売り切れていたので、イメージ・フォーラムへ買いに行った。

 

群衆といえば。『群衆心理』

www.nhk.or.jp

 

 

収録作の『沈黙』。何度も読書会を試みたが、まだ実施できていない。重いテーマ。

 

本「ファシズムの教室:なぜ集団は暴走するのか」読書記録

hitotobi.hatenadiary.jp

 

本『他者の苦痛へのまなざし』読書記録

hitotobi.hatenadiary.jp

 

戦争記憶の継承について最近よく考えている。

 

 

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鑑賞対話の場づくり相談、ファシリテーション、ワークショップ企画等のお仕事を承っております。


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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年

本『アイスプラネット』読書記録

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子が、国語の教科書におもしろい小説が載ってるよと教えてくれた。

椎名誠さんの『アイスプラネット』。

学校の宿題をきっかけに、子と感想をいろいろ話したのが楽しかった。

宿題のテーマは、「この手紙でぐうちゃんがゆうくんに伝えたかったことはなんでしょう」だった。話しながら子から出てきたこともなかなかよかった。

・ほらね、ほら話じゃなかったでしょ?

・やっぱり旅は楽しいな。

・今いる世界がすべてじゃない。世界にはひろい。自分の目でみてほしい。

・ゆうくんが一生懸命聞いてくれたから、ほんとにアイスプラネットを見る旅に出よう、自分の目で確かめようと思えたよ。

・こんな生き方もあるよ。

・みんなからは居候とかダメ人間みたいに言われてるけど、自分では自分のことを、そう思ってない。誰から何を言われても自分は自分としていればいいんだよ。

 

親でもない、先生でもない、こういう「斜めの関係」の大人が身近にいるのっていいよねということなども話した。そう、このお話はやっぱりそこがいいんだよなぁ。愛があって、慈しんでくれているけれども対等で、相手がただいてくれることが成長や挑戦のきっかけになるような。

友達とのLINEの会話で「ぐうちゃん」の話が出てくるのもいい。授業のあとに授業であったことをあーだこーだ話すのは、同級生のいる醍醐味。たっぷり味わってほしい。

 

課題になると途端に思考が固まってしまうのはわかる。

「考えを書きましょう」という設問に一人で向かうのは最初は難しいけど、こうやって友達でも親でも、誰かと感想を話し合いながら、アイディアを出しながら考えてみる経験を何回かすると、自分と相談しながら言葉にしていけるようになる。

これもミニ鑑賞対話の場と言っていい。

 

『アイスプラネット』について調べてみたら単行本もあるらしく、図書館で借りて読んでみた。教科書のほうが先で、単行本のほうは続きでもなく、あの物語から膨らました物語という位置づけだった。ぐうちゃんが世界を旅していろんなものを見聞きしてきたことを、悠くんにおすそわけしている。

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bookclub.kodansha.co.jp

 

教科書のほうは二人の関係性の変化や、悠くんの内面の成長にスポットが当たっていたが、単行本のほうはぐうちゃんの話の中身に「へええ」となるつくり。単なる土産話でもホラ話でもなく、わりと自分が当たり前だと思っていることは、一歩外に出ると当たり前ではないんだよということを、国を変え、テーマを変えて教えてくれる本。

 

どちらがどうと比べられないけれども、教科書のほうの中2の国語の教科書という目的を与えられた短編のほうが詰まっている願いとしては熱いような気がする。

学校に通って国語の授業を受けたら必ず通る時間、そのときに手渡される物語として何がよいかと考えて作られていると感じる。

 

国語の教科書に載っていて好きだった物語、初めて知って驚いた物事のことは、大人になってもけっこう覚えているものだから、子には一つでもそういうものに出会ってくれるといいなと親としては願う。

 

去年の西加奈子さんの『シンシュン』もよかった。

『アイスプラネット』も『シンシュン』も教科書の一番初めのページに掲載されている。しかも書き下ろし!いいなー子ども!

note.com

 

https://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/archives/14971

 

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能『道成寺』@国立能楽堂 鑑賞記録

觀ノ会「道成寺国立能楽堂にて鑑賞した記録。

tomoeda-kai.com

 

道成寺』を観るのは今回が初めて。お能は好きだけれど、まだまだ初心者の域なので、有名な曲でも観ていないものはまだまだたくさんある。むしろ観たほうが少ないので、そちらを数えたほうが早いぐらい。

道成寺』もいつか、いつかと思いながら日々が過ぎていたが、觀ノ会のこのチラシを見たときに、「今かな」という気がした。作品との出会いはいつもインスピレーションだが、お能の場合は特にそれが強い。これまで然るべきタイミングに然るべき曲に会ってきたので、今回も勘を信じることにした。

観能仲間も2人、行くことになった。

「精神力、体力の強さと均衡が求められる本曲」とチラシには書いてあるし、「道成寺は観る方も心身が削られるので体調を整えて。鐘入りの場面では心拍がえらいことになってぐったりします」というアドバイスをもらった。

そんなに!?

緊張してチケット取るだけでぐったりして、厄が落ちた気がした。(実際はそこから当日までの約3ヶ月は厄まみれだったので、むしろチケットを取ったことで厄がついたのかもしれない……)

本や動画で予習をしていたらようやく、ああ、こういう感じかとわかってちょっと気持ちが落ち着いた。ビビリすぎ!

ダイジェストだし、流儀は違うし、本物とは受け取るものが全く違うけれど、一端を知るという意味で確認できてよかった。

youtu.be

 

最初に解説トークがついていた。

・「道成寺物語をめぐりて」「あの「乱拍子」はいったい何か」

「乱拍子は身体の使い方、踊りの基本。舞台の上で身体をどこまで存在させられるか」「乱拍子は《檜垣》でもある」

「鐘は竹で組んだ籠状のものに布がかけてあって、下は鉛の輪っか。80kgあるので、落ちて下敷きになったら死ぬ。だから舞台ではあるけれど、やる方も見る方も命がけ」

「なぜ女ばかり蛇になるのか?非力だから。今も社会的立場は低いけれど、昔はもっとは低かった。女のままでは思いは遂げられない。欲望を遂げるには姿を変える必要があったこと。さらに生態がよくわからない、手も足もない、存在自体が武器になるような威圧感と不気味さを持ったもの、それが蛇」

「感情に訴えかけるものを排して、すべて乱拍子に緊張感を持たせるために徐々に構成されていった」

 

 

これから大曲に向かうのだという緊張感に満ちて、奏者や演者が出てくるのだけれど、シテが橋掛りを渡るときはもうまったくまとっている気のレベルが違った。

ああ、なんという孤独!

これを演るのにある程度の修行が必要で、技術だけでなく、精神も達していなくてはいけないという理由が、この時点で既に分かる。

 

そして鐘を吊ったあたりで地震が起こった。そのあと特に何事もなくてよかったから言えるけど、まるで演出の一部みたいだった。怖。もちろん舞台上は何も起こっていないかのように進む。鐘が落ちたときに能力たちが「雷か地震かと思った」という場面があるので、そこにつながっているような気もする。そんな前振り要らんけど。

 

いつもの能は、演者が皆自分の身体を役に全て預けて、舞台に従事してくれているので、観客の私はどんな感情も舞台に投げ込めて、観たいように観ることができる、という体験だった。

道成寺はこれまでに観たそれらの能の体験と違っていて、安易な感情移入や自己投影を許さない、理解させないところがある。これは『戦場のメリー・クリスマス』を観たときの感じに似ている。

 

注目の乱拍子。乱れる程に激しく速く大きく身体を動かすイメージが字面から浮かぶが、実際は真逆で、ほとんど動かないし、間合いも長い。「せぬひまがおもしろき」の究極の形かもしれない。謡が少ないのも特徴。

コンテンポラリーダンスみたいだった。急ノ舞への突然の転換は、「わかる」感じがした。多くの物事は水面下で動いている。何も起こっていないように見えて、ギリギリのバランスでかろうじて保たれているものやいつ爆発してもおかしくない動きがあり、それに気づいている人はいる、みたいな。

最中は、舞台以外からはほとんど空調の音しかしなかった。あんなに人間がたくさんいるのにな!観客が皆息を詰めて見守るような。凄まじい時間だった。終わってから思わずふぅ〜とため息が出た。あそこは30分もあるそうだけれど、体感では長いとか短いとかがよくわからなくなる。そもそもお能を観ていると時間の感覚がわからなくなるのだが。

いやしかし、能楽師の身体能力ほんますんごいですね。毎回思うけど、今回は特に。
どうやって鍛えてはるんでしょうか。

 

狂言(アイ/能力)の台詞が多く、動きも転がったり押し問答したりで笑いがあって、人間味がある。強い緊張のある舞台、人間でなくなったかのような人物たちの中で、親近感を持てる存在はありがたい。観客との架け橋になっている。

 

あらすじの方に注目してみる。

妄執の対象は自分が殺した男ではなく鐘。そうならば「女の情念」の話じゃなくなる。「純粋な念だけがある」ということを事前解説でも話されていたけれど、そうなると性の別関係なく、いろんなものが当てはまってくる。

目的はとうになくなっているのに、「鐘が吊られる」という形が生まれると、自然に起動する何か。カミュの『ペスト』に"ペストは何回でも現れる"というようなことが書いてあった、ああいう感じに近いかもしれない。

一人の人間の持ち時間じゃ到底足りないような、長い時間をかけて潜伏している「あれ」。予感だけは山ほどあるのにどうしても止められない「あれ」。能力(のうりき)が一旦結界を張ったのに、女をアッサリ入れちゃうようなあの感じ。

100年もの間、鐘を釣れなかった人々の苦しみがあるというふうにも読める。受けた打撃の強さがそれほどまでに深かった。話題にすることもできなかったのかもしれない。100年という時間の長さが必要なのかもしれない。そういうことって歴史の中である。

 

事前解説で「蛇が執心してるのは男じゃなくて鐘。鐘が重要。しかも鐘は落ちていればOKだけど、吊ってあるのはNG。吊らせたくない」ということをどなたかがおっしゃっていたのが気になっていた。

それについての仮説。

私はプーチンまたはロシアのことを思いながら観ていた。

ウクライナがほしい、そこにいる人間はどうでもいい、ウクライナを奪還する」みたいな外側、形、器への固執。ロシアとウクライナとの長い長い歴史は、けっこうな妄執を生んでいるのではないか。

そんなふうに、寂しさや傷つきから自分自身とのつながりを手放すと、漂っている念に付け込まれる。乗っ取られる。そういう「虚無」との闘いは、『風の谷のナウシカ』や『はてしない物語』でも出てきた。

私たち人間は、それらの物語や演劇の力でかろうじて現世に踏みとどまれているのかもしれない。 あるいは、踏みとどまらせることが、人間が創作することの目的なのかもしれない。

 

道成寺》は、父親が娘の自立を父親を阻んだ("愛"の歪み)末の悲劇とも見ることができて、オペラの《リゴレット》を思い出す。

あるいは、同意なき性行為に及ぼうとした上に、認知の歪みからストーカーと化し、呪い殺すまで支配しようとした犯罪者にも思える。そしてその念に触れた者が、次々に加害に手を染め、今に至るまで犠牲者を出し続けている……そんな物語にも読める。

「若い僧の美しさに愛欲を覚えて強引に契りを交わそうとする」という物語だとしたら、『薔薇の名前』も思い出す。いずれにしても「男性」が作った物語ではある。

 

ジェンダーといえば、解説者は5人中3人が女性。お客さんには馬場あき子さんのファンの方も多くいらしていた模様。お能の客層としても女性が多いものね。演者は男性が多いけれど。そういうジェンダーを意識したキャスティングや内容にしたのかもしれない。伝統文化の分野にも波が来てると感じる。

 

会誌『觀 - Ⅴ』500円相当と、番組(プログラム)がお土産でついてくる。

番組のほうは、一般的な演者やあらすじ、見所解説の記載だけではなく、道成寺の特異性を成立過程や装束などで説明している。特に舞台進行表が貴重。これは永久保存版。

 

このおまけにさらに、前段として60分、2種類の解説トークがある。これでこのチケット代はほんとうにお得だった。リーズナブル。納得がある。

中正面は鐘後見のがんばりも見られた。中正面の後ろのほうでスタジアムっぽい画角で全体を俯瞰するのも迫力があって好きだが、今回の3列目あたりの近さもよい。

 

冊子や解説トークもそうだし、こういうイメージビデオをつくるところにも、『道成寺』という曲へ向かうための強い覚悟を感じるし、觀ノ会という能会が共有したい価値や進もうとする方向の一貫性も見える。伝わってくる。

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*追記* 2022.6.21

片付けものをしていて見つけた。これだ〜

橘小夢(たちばなさゆめ)《安珍清姫》(大正末頃, 弥生美術館蔵)


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映画『ニュー・シネマ・パラダイス』鑑賞記録

シネマ・チュプキ・タバタにて『ニュー・シネマ・パラダイス』鑑賞。黒板絵すっごい!

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もうなんべん観たかわからない。
15回は観たと思う。
中学か高校のときに初めて観て、私が大学でイタリア語を学ぼうと思うきっかけになった映画だった、ということをきょう思い出した。忘れてた。

Qualunque cosa farai, amala!
何をするにせよ、それを愛せ!
Come la magra cappella del Paradiso, quando eri piccino.
子どもの頃に映写室を愛したように。

テーマ音楽が流れただけでもう自動的に涙出るよね。こういう映画はもういいとかわるいとかわからない、自分の人生の一部、自分の身体の一部になっている。

私の斜め前に座っていた人もたぶんおんなじ感じで、もう「ウウッ」と声あげて泣いてはりましたね。隣に座ってたら背中ぽんぽんし合いたいような気持ち。その人が泣くから私ももらい泣きするような場面も多々あり。同じものを今共有している感じがすごくあった。

お母さんと小学生ぐらいの娘さんと思しき関係のお客さんもいらしたり。いいなぁ親子でこの映画を共有できるのは。ちょっと手渡していく感じもあるよね。映画の中のテーマとも呼応して。

そんなふうに客席が温かい雰囲気なのもよかった。


4年くらい前に感想シェア会をやったときにもフルで観たけれど、そのときと今とでもまた体験は違っていた。きょうは大人のトト、トトのお母さん、神父さんや劇場のオーナーやアルフレードに共感したりで、気持ちが忙しかった。(そしてうれしいことに、4年前に観たときよりもイタリア語が聞き取れていた。去年から少し勉強し直しているのだ。)

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10代の頃はサルバトーレとエレナの恋物語として見る中に、時を経て変化していくことがあるというふうに見ていた気がする。

今は、老いること、病や傷を持つこと、死ぬこと、無くなること、喪失や悼みを抱えること、長く果てしなく愛が続くことなどに心が動く。ガンガン元気なものより、儚く消えてゆくものを美しいと思う。老いだなぁ。

何歳の人でも見て何か感じられるところがこの映画の良さ。


しかしこれをジュゼッペ・トルナトーレは33歳で撮ったんよな。そこがすごい。
『春江水暖』のグー・シャオガン監督もそのくらいの年齢で撮っていたはず。
サラッと老成したものが作れる若い人たちはいるんだなぁ。

 

国内の地域の経済格差、貧富の差、共産党員の迫害、マフィアの闘争など社会情勢が見える。教員の生徒への行き過ぎた教育(いや、あれは暴力だ)は笑いの場面になっているが、共産党員の息子でのちにローマへ引っ越していくペッピーノが終始一人顔を覆っている様子は何事か伝えている。映画を見せろと劇場に押しかける群衆を「何をするかわからないのが群衆」と批判して見せるアフレードの姿もある。

甘く切ない物語の端々に、人間社会への冷静な観察がある。またそういうことに今頃になって気づいている自分に驚く。

イタリア(シチリア)からソ連まで出征していたとか、戦後兵役があったなど、実はイタリア近現代史があまりわかっていない私。一度学んだはずだけど忘れている。学び直したい。

イタリア語ももっと学びたい。スクリプト(脚本)がほしいなと思って探しているんだけど、見つからなかった。

 

今見ると、エレナの家の下に毎夜通うサルバトーレの御百度参り(?)は小野小町深草少将の伝説のようだ。この話は、お姫様に対して身分違いの恋に落ちる男の話としてアルフレードがサルバトーレに聞かせる伝説からアイディアを得て、サルバトーレが実際にやってみているのだが、世界のいろんなところで深草少将のような伝説はあるのかもしれない。

 

そうそう、シネマ・チュプキ・タバタの音声ガイドは素晴らしかった。今回のために20年ぶりに改訂されたそう。言葉の選び方がやはりよくて、倍増しでよかった。ディスクライバーとしての経験と、個人の人生の経験と、重なってより心に沁みる映画になっていた。

音声ガイドで観ている視覚障害者の方と感想を交わしてみたいな。

 

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エンドレスで流す。

youtu.be

 

トルナトーレ監督は、子役のトトがそのまま大きくなったみたい。2008年のイベント動画。サムネイル左。

 

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6月、7月のチュプキは岩波ホール特集。

当館の前身となるバリアフリー映画鑑賞推進団体City Lightsは
岩波ホールで音声ガイド付き上映会を行なっていました。
大変お世話になってきた岩波ホールに感謝の気持ちを込めて、
思い出深い作品をセレクトした「ありがとう、岩波ホール」特集上映 を行います。 

ホームページより)

6月前半 スケジュール
 『ベアテの贈りもの』
 『宋家の三姉妹  』
7月 スケジュール
 『ハンナ・アーレント
 『終りよければすべてよし』


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追記)

後日、10代の子を誘っておかわり鑑賞。

---

ほとんど話もしたことがないのに、100日参りするのはどうなのか。あのお話を真似てみたかっただけでは。思春期っぽい。恥ずかしくて見ていられないところがあった。でもあれば1954年当時の話ではあるので、古風ではあるのかもしれない。

---

など感想を話せてよかった。

 

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玉堂美術館 鑑賞記録

5月21日、新緑の候。青梅まで行く予定があり、近くにどこか寄れるところはないかなと探していたら、グーグルマップに玉堂美術館が現れた。

www.gyokudo.jp

そういえば、去年、山種美術館川合玉堂展を見たときに「晩年は青梅で過ごした」とあったなと思い出した。美術館があるらしいことと、行ってみたいけれどちょっと遠いからまたいつか機会があればなと思っていたことが……ここでつながる!(楽しい)

そのときの鑑賞記録。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

山種美術館の没後60周年記念展の図録。たぶんまだ同館で販売していると思う。

コンパクトでよくまとまっている。今回のように、どこかで川合玉堂の作品に出会ったときに真っ先に参照する一冊として手元にあるとよい。おすすめ。

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実際に来てみると、疎開がきっかけではあったが、その後もここで画業に集中したいと思った気持ちがよくわかる。

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天井が高く広々とした室内には、10代の頃の練習帖から、晩年の作品、愛用の画材まで幅広く展示されている。

風景の中に働く人びとの姿も写されているのが玉堂らしさではないかと思う。人間讃歌であったり、人間を通じてあらためて知る自然の美しさや厳しさだったり。


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虎の絵は山種美術館川合玉堂展でも印象深かった。出征する男性たちやその家族に頼まれて描いたもの。あるいは面識のない人にも贈ったとか。
「虎は千里走って千里帰る」という言い伝えから。
無事の帰還を願う思いと、そうさせられる時代の流れを思う。玉堂の虎は人気があったという。


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写生は日課だったとか。
何を観ていたのか、何に興味を持っていたのか、どう捉えていたのかが感じ取れるよう。


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アトリエの再現。絶筆となった未完成作の複製。
窓に緑が写り込む。この時期だけの色と光。

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美術館があることが、その土地を訪れるきっかけになるというのは、いいな。小さな旅もいい。

 

ちょうど滋賀で山元春挙展を観たところだったのもよかった。

玉堂が担当した《悠紀地方風俗屏風》、このときの悠紀は滋賀県。主基は福岡県。
でも主基のほうを生まれも育ちも滋賀県である山元春挙が担当するってちょっと不思議ではある。

それともあえての人選だったのかな。玉堂のも当然素晴らしいんやろうけど。

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川合玉堂といえば、横山大観川端龍子の仲を取り持った人として個人的にアツい。ミュージアムを巡ったり、本などで調べていると、人間関係が次々につながっていくのが楽しい。自分だけの人物相関図が出来上がっていく。

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映画『桃太郎 海の神兵』鑑賞記録

映画『桃太郎 海の神兵』を観た記録。

www.shochiku.co.jp

 

この映画を知ったきっかけは何だったか定かでないが、日本のアニメーション映画史上、非常に重要な作品としてうっすらと知っていた。たまたま仕事で映画を観る必要があり、Amazonの「プラス松竹」というサブスクに加入していたところ、ラインナップされているのに気づいた。

手塚治虫が、焼け野原に立つ道頓堀の大阪松竹座の、ガラガラの劇場で観て涙を流すほど観劇し、これでアニメ製作を強く志したという、そういう作品でもある。

同じ道を歩む者なら興奮を覚えないわけにいかない、高度な技術と感性の素晴らしさを嬉々として語る様子。素人の私が見ても、「あの大戦末期にこんな映画があったのか!」と驚く。でも仕事の最終的な目的を考えると、一つひとつのコマ、シーンにいちいち寒気を覚える。

 

冒頭で示される「兵隊さんは戦地で何をしているの?」という素朴な疑問がキーになっていて、全編がそれに答えるような内容になっている。それを言葉でくどくどと説明するのではなく、自然で滑らかな動きで、役割を持っててきぱきと働く姿や、生活を見せることによって示していく。どのように日々を送っているのか、戦っているのか。中には本当にそうしていたこともあるだろうし、美化している部分もあるだろう。モノクロだし、動物なのだが、リアリティがある。

敵が誰なのか、誰と戦っているのかをわかりやすくするために、子どもが知っている桃太郎の物語に置き換えるという手口(と言っていいだろう)は残酷だ。自分たちが日頃大人たちから聞かされていることと、このアニメーションで扱われていることは一致している。それによってまた「信じる」根拠が増える。多層的になっていく。

動物で子どもの声であるだけに、うっかり親しみが湧いてしまいそうになる。自分が親になって、子が小さい頃にたくさんのどうぶつが出てくる絵本や物語をたくさん見せてきたことを思い出すと、胸が苦しくなる。「鬼ヶ島」が「鬼」に乗っ取られた顛末を描く影絵のクオリティも高い。普段は禁じられている異文化への憧れも、ここでは惜しみなく提供される。TVもない時代、同種の目的を持ってつくられた創作物を子どもたちは食い入るように見たことだろう。そして男の子は「お兄さん」に憧れただろう。

そもそも全編が子どもの声でできているところが怖い。声を当てているのは職業声優なのか、子どもなのか、あるいは子どものような声を出せる大人なのかは不明。

 

海軍省が巨額の費用を投じて作らせたプロパガンダ映画、国策映画。昭和19年12月に完成し、昭和20年4月に公開。ちょうどアメリカ軍が沖縄本島に上陸しているとき。

冒頭には、これが国策映画であること、日本のアニメーション映画史にとって重要な作品のため残し、公開していることが松竹によって示される。

映画のターゲットであった子どもたちは疎開して都市部にはいなかったし、映画館も空襲に遭い上映するところがなかったりもして、リアルタイムで観ていた人はそう多くなかったという。それはよかったのか、皮肉めいているのか、なんなのか、なんとも言えない気分になる。

 

製作の苦労はあったのだろうが、全編にわたってつくることの喜びに満ちていると感じる。多くの技術的な工夫があり、感性の表現があり、能力の深化がある。作家にとっての活躍のチャンスだったのだろうと、そこは非常によく伝わってくる。むしろ自分にしかできないことで貢献できるという喜びさえあったのかもしれない。戦時にはそういう情熱や野心が多く利用されたことだろう。

 

取材のために落下傘部隊に体験入隊したというだけあって、子ども向けのアニメーションとは思えないほどにリアリティがある。今のCGでつくるリアリティとは全く違う質の表現。従軍カメラマン、映像技術者、画家とはまた異なる表現で現場を克明に記録している。そういう意味でも貴重な作品。絵もすごいが、音もすごい。どのように録ったのだろうか。海軍から素材の提供があったのだろうか。

徹頭徹尾、非の打ちどころがない国策映画。初めて実物を全編通して観ることができてよかった。実物として残る、アーカイブされていることには大きな意味がある。

 

とはいえ製作者の側に立って観ると、戦後いかに活躍したとしても、自分のこの仕事が「存在するべきではなかった」と見做されるというのは、どのような気持ちなのだろうか。想像もできない。

と書いてみて、いや、フィクションのためのフィクションを作るという仕事はいつの時代にもあり、後世から見れば「加担した」と判じられることも多いことにも気づく。加担したつもりはなかったとしても、それが直接的、間接的に人を殺すことだってある。

かといってどんな責任が取れるのかということも、ひと言では断じられない。自分が仕事を通じて過去にしたことを思い返しても、難しいと思う。

こういう無数の人の物語がまだ語れずに埋もれているのだろう。語られることなく亡くなっていった人も多いのだろう。

 

資料

・焼け野原の国策アニメ『桃太郎 海の神兵』/週刊金曜日7/9号(2021年)

図書館で読ませてもらった。"製作時、徴用などで若いスタッフが抜ける困難な状況下、監督らは落下傘部隊への体験入隊など取材を重ねたという"(本文引用)


・「海の神兵」を知っていますか? (2011年5月30日)

www.asahi.com

 

・『戦争と日本アニメ  「桃太郎 海の神兵」とは何だったのか』佐野明子, 堀ひかり著(青弓社, 2022年)

イムリーにこんな本も出たので、読んでみる。

www.seikyusha.co.jp

 

・瀬尾監督の前作に、真珠湾攻撃を題材にした中編映画『桃太郎の海鷲』(ももたろうのうみわし)がある。当時の国産アニメは10分程度までしかなかったので、37分もの作品は快挙だった。

これも見てみると、『桃太郎の海鷲』でやり残したことを『海の神兵』で実現したり発展させたりしたことが見えるのかもしれない。機会があれば観たいが、なかなかエネルギーを使うものでもある。

 

ここ数年追っているテーマの一つに、「アジア・太平洋戦争中のプロパガンダに協力した芸術人・文化人」がある。

たとえばこの映画で表されたようなこと。

hitotobi.hatenadiary.jp


たとえば展示で見たようなこと。

note.com

 

あるいはこのような「語られてこなかったこと」「未だ直視できないでいること」

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アニメーションや人形劇を使ったメディアコントロールを調べたくて入手したところ。

 

引き続き探究していく。

 

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映画『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』@岩波ホール 鑑賞記録

岩波ホールで『歩いて見た世界』を観た記録。

www.iwanami-hall.com

youtu.be

 

2022年7月29日に閉館する岩波ホールの最後の上映作品。

最後は必ず観にくるという自分への約束として、前作『メイド・イン・バングラデシュ』を観に来たときに前売り券を買っておいた。

 

原題は"Nomad: In the Footsteps of Bruce Chatwin"

一つの人生を振り返りながら、世界との繫がりを結び直す、詩的で穏やかな作品。重々しさと神聖さが漂う。霊性、Spirituality。

過剰に美しく仕立て上げられているのではないかとか、植民地主義的な眼差しはなかったのかとか、いろいろ気になるところはありながらも、呼吸も穏やかになり、今観ているものが確かに心身に作用するのを感じながら過ごした。

 

最近流行りの矢継ぎ早の伝記ドキュメンタリーとは一線を画す、作家の芸術作品になっている。チャトウィンへの個人的な友愛。これがなくては撮れなかった映画。そして監督自身の人生哲学。長いキャリアの末に到達した場所へと観客を誘ってくれる。

ちなみにヘルツォークは多作。2020年までに劇映画、ドキュメンタリー、短編・中編・長編合わせて計67本!フレデリック・ワイズマンにも驚いたが、ヘルツォークも凄かった。

 

ヘルツォークの作品は『アギーレ/神の怒り』(1972年)のギラッギラのイメージが強かったので、年と重ねると人はこんなにも穏やかになっていくのかと驚いた。

そんなに単純に評せるものではないだろうが、知らずに見たら同じ作家の作品とはとても思えないだろう。『アギーレ』の場合は、やはりクラウス・キンスキーの存在感がありすぎるし、ヘルツォークも若かったし、なにより時代が違う。1972年は冷戦の真っ只中で、ベトナム戦争もある。世界は相変わらず戦時下にあった。

今は? 今はどうなのだろう。

この50年でいろんなことが起き、いろんなことが急激に進み、人類は今どこにいるのだろう。その大きな流れの中にあって、自分はどのように生きていけばいいのだろう。私を支えてくれる「神話」はあるのだろうか。

 

死を前提とした生の哲学が「旅」というキーワードと共に語られていく。自分の死生観にもゆっくりと触れていく時間。映画の音、歌の効果。

死そのものも怖いが、死に至るまでに何が起こるかわからないところが私は怖い。
一瞬なのか長いのか、不慮なのかある程度回避ができるのか、苦しむのか苦しまないのか、他者から傷つけられるのかそうではないのか。

そうして怖がりながらチャトウィンの晩年から最後の日々を見ていると、単に今の場所から次の場所への移行(transition)なのかもしれないとも思う。死からは免れない。

それにしても、人間の命というのはなんと儚く短いんだろう。

 

「人間にとって最も大切な資産は時間」とは、ある文化人類学者の言葉。

カタカナで「ノマド」と書くと、働き方に関する一過性のムーブメントのイメージが強い。原題をそのまま使わないのはよかった。

この苦しい時代の中で観た『歩いて見た世界』が、後の私を支えてくれるかもしれない。

岩波ホールの最終上映作品に立ち会ったということと、この映画を体験した時間と、映画のタイトルを覚えているということが。

 

チュプキさんの6月のチラシが岩波ホールへのオマージュになっていたことにようやく気づいた。6月、7月は岩波ホールミニ特集とのことです。

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最後の作品だから、予告編はないんだよなと寂しく思っていたら、本編の前にスライドショーが始まった。文化ホールとして始まり、エキプ・ド・シネマ(映画の仲間たちの意)として274作品、66の国と地域の映画を紹介してきた。

この場所に降り積もってきた「映画の時間」や人の気配や建物の歴史を感じて、胸がじわっとする。アーク状の壁の照明が消えて本編へ……。ああ、最後なんだなと思う。

今回は、『ハンナ・アーレント』を観に来たときに座っていたあたりに着席した。ここで一番印象深い映画。

www.iwanami-hall.com

hitocinema.mainichi.jp

https://www.tokyo-np.co.jp/article/154150

 

歩いて7分ほどのところにある千代田図書館では、「ありがとう 岩波ホール」の第2期を展示中。過去の上映作品を年代ごとに2本ずつ選んで、スタッフのエピソードと共に紹介。「長尺でも客が入る」という自信は、何十年もやってきた蓄積の上にあったのだなとあらためて気づかされる。小さなコーナーだが、足を運ぶかいがある展示。

www.library.chiyoda.tokyo.jp

 

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