ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

読書会は本の話が7割

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読書会についての覚書。

自分の経験を元にしていますので、誰にとっても当てはまることではないと思います。

自分のやってきたことを自分に言い聞かせるように、思いついたことから、ちょこちょこ書いていきます。

 
「読書会は本の話が7割」
というのは、わたしなりに決めているファシリテーションの基準ですが、この基準は、映画や展覧会など、他の「作品を観て感想をおしゃべりする」系の会をひらくときにも、「○○の話7割」は、自分の指針になっているように思います。
 
わたしの開催する読者会の多くは、課題本を読んで感想を話しあうタイプなので、それを前提にお読みください。
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「本の話」は、内容の解釈、言葉や表現、感情の読み取り、著者の背景や書いた動機・意図、本のテーマにかかわる歴史、書かれた社会的背景、などが主に指しています。また、そこから派生した個々人のエピソードも含まれていて、それを洩れ聞くのが読書会の醍醐味でもあります。
 
さらに話にはもう一種類あって、エピソードからさらに派生した別のエピソードがあります。
それはいわゆる脱線というやつで、「本の話」からはだいぶ遠くなります。

個々人のエピソードをどこまで「本の話」ととるかも、7割ってどのぐらいの分量かとか、個人の感覚でしかないのですが、ファシリテーターとしては、ここの感覚は研ぎ澄ませておきたいところなのです。自分がひらく場なので自分の感覚と場の雰囲気から感じとるしかありません。何回か開催してみるとつかめてきます。

なぜ本の話7割かは、場をひらく者にとっての「なぜわたしはこの場をひらくのか」そのものです。また参加者にとっては、「何をしに来たか」につながる話です。結局、「その対象を味わい尽くしたい、それには他者の力が必要だ!」という潜在的な気持ちの動きから人が集まり場ができるわけで、その本来の思いから外れてしまうことがありすぎると、やっている自分も参加者も楽しくなくなります。
 
脱線している本人はたくさん話していて楽しそうに見えて満足しているように見えますが、内心「脱線してすいません、でも止まらないから誰か止めて~」と思っていたりします。そういう人に実際に聞いてみたから確かです。そのときに大手を振って止めることができるのはファシリテーターなので、勇気をもって介入します。

わたしは、「ひとつの対象について、まとまった分量をしかもあらゆる角度から真剣に話すから、人と話すのはおもしろいんだ」という確固とした信念をもって場をひらいています。自分の中にそういう信念があると、それを妨げるものが何かは自ずと見えてきて、ファシリテーターとして何をするべきかの行動が決まってくるように思います。

なので、本の話以外が多くなってきたなと感じたときにどうすればいいか? は、起こってしまってもやりきる気持ちの強さと行動がひとつ。
 
もうひとつは事前の準備です。別記事で書きます。