ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

二人いれば読書話はできる、のだが。

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おととい「読書会って何?どんなことをするの?」という記事を書いたら、アクセス数がガンと伸びてて(当研究室比)とても驚いてます。ありがとうございます。

 

友人からこんなコメントをもらいました。

「読書に興味を持ったのがここ最近だから、この記事は興味深かった!先日友人が同じ小説を読んで感想言い合ったら、視点が違っていて驚いたところ。読書会に似たものを感じたのでした。」

 

そうそう!

二人しかいなくても、誰かと同じ本の話をして、全然違うふうに感じたんだ!っていう読書会の楽しさの原体験ってここにあるんだよな〜と、思ったわけなのですが。

じゃあなんで友だちと本の話すればいいのに、わざわざ読書会をするのか、ということも同時に思いました。

 

それはやっぱり「ちゃんとその話をする」ためには、場として設定される必要があるからだろうなと思います。

 

友だちと本の話をしていて、それなりに盛り上がるのだけど、なんとなくどこかで、感想をきっかけに出てきたエピソードのほうへ脱線していって、そのままなんとなく本の話は終わってしまう。1時間もその本の話をしているということはないと思う。

 

 これは友だちと美術館に行くときでもそう。

一緒に作品を見て、それぞれのペースで見て、たまには同じタイミングで同じ作品を見ることがあって、ぱっと見の印象を二言、三言、交わしたりしながら、お茶したりランチしたりしながらちょっと感想を話す。それでもそんなに長いこと、あるいはたくさん話すことはできなくて、だんだん「そういえば」とか「最近あった関心事」のほうに話題が移っていってしまう。

友だち同士だから、やっぱりふつうそんなもんかなと思う。
そのときに本の話が出てくるのも、たまたまという感じで。

 

でもこれを「この本の感想を2時間ガッツリ話す場です」と設定する。
設定した人(場をひらく人、まもる人=ファシリテーター)がいて、その趣旨を理解した人が集まる。全員が友人同士でもいいと思う。

全員で2時間のあいだ、この本の話をしようと努める。

そういう中でしか生まれてこない「うねり」とか「深みを見た!」みたいな感触がある。

 

話をするというのは、なんらかのエネルギー交換がおこなわれている場で、それがあるひとつの対象を様々な視点からみようとしていくときに、集中がある。人の話が刺激的でおもしろいというのもあるけど、それよりも、人と人とが集中してやり取りしている(固苦しく真面目という意味ではなく、笑っててもそこに集中している感じ)ところで起きている、その言語化しがたい何かが、場のおもしろいところなのだと思う。

 

二人いればもちろん読書話はできるのだが、それを「これについて話す場」として設定することで、「多岐にわたった」、「こんなところまで行くと思わなかった、すごい!」という実感がより得られるのが、読書会なのかなと思う。 

 

(写真は、武蔵小杉でひらいている読書会「ブックトークカフェ」より)