ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

「ゆるく」は高度

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「ゆるく」と表現される場に参加することがある。

たぶん「ゆったりとした雰囲気」とか「顔見知りになる程度のつながり」という意味でつかわれているのだと思う。

 
テーマがオープン。
年齢、性別、エリア、属性、関心などの対象者の範囲が広い。
この時間内であれば出入り自由。
プログラムがあまりない。
ちょっとした「やること」が一応用意されているが、参加は強制ではない。
他の人との交流はそれぞれに任されている。
…など。
 
ゆるく交流するってすごく高度だなと常々思っている。
わたしは人と話すのは好きだけど、あたりさわりのない話や、雑談や、根拠のない社会通念に基づく話(例えば、家族はいいものだ、日曜日の夜は憂鬱だ、田舎の人はあたたかい...etc)が苦手なので、そういう場でどう振る舞っていいのかよくわからなくて、いつもきょろきょろおどおどしている。たまたま知り合いが来ていたりすると、「おお、神よ!」と駆け寄ったりもするけれど、そうでないときは気を張りすぎてしまい、帰宅してぐったりしているということが多い。
 
自由にゆったりとお過ごしください、お近くの方とご自由にご歓談ください...。
できる人にとっては、なんということはないのだろうけれども、いつも本音で話してしまう(本心ではなく)と思っているわたしとしては、関係性のできていない人とのテーマなしの会話はとても辛い。3〜4人ぐらいまではなんとかがんばるけれども、それ以上になるともう辛い。
 
天気の話や、今目の前で起こっていることの感想をきっかけに、ふわふわふわふわしながらも、徐々にその人がいったい何者なのかとか、共通の話題はないだろうかということを、住まいのエリアや、出身や、職業や、家族構成や、来歴や...というようなことから探り出そうとする会話になることが多く、あたりさわりのない会話は安心、安全なのかもしれないけれど、それは別に聞きたくないのに、ということが多い。でも、聞かないと間がもたない感じになる。
 
わたしはだいたい「なぜ来たのか?どうやってここを知ったのか?」というようなことから話を広げていこうとするけれども、それはそれで、あまりされたことのない質問をぶつけて、いきなり核心に迫ってしまうこともあるので、それ以上話を広げられても抵抗を感じる人も多いのだろうと思う。
 
それ以上に、わたしは聞かれてもいないのに、自分の経験や考えを伝えて、まずは自分がどんな人間かを開示しようとしてしまうので、そこもたぶん引かれてしまうのだと思う。
 
つくづく、雑談は難しい。
みなさんはどうやって雑談をしているのでしょうか?
そしてそれはほんとうに楽しいの?
 
 
わたしもかつて「ゆるい」と表現する場をひらいていたことがあるけれども、やっていくうちにだんだんと、ゆるい場ってつまらないなと思うようになった。
 
ぎゅっと真剣になる時間があるから、それ以外の時間にゆるみが出る。
(その緩急をつけるのがプログラム・デザイン)
 
プログラムの最中は、テーマについてみんなが取り組む。その中でのやりとりは、そのテーマ設定がなければ生まれてこなかったものだし、その時間、その人たちとでなければ起こりえない何か。
その集中した時間が終わった休憩時間や終了後のゆるみの中では、自然と相手への心からの関心を含んだ質問が交わされ、普段の雑談とは異なる会話がうまれている。そういう感じが好きなのだと思う。
 
あるいは、単に自分がずっとなにもなくてゆるんでいるとか、だらだらするのが苦手なのかもしれない。
ゆるい場が悪いのではなく、自分の性格の問題だと思う。
 
 
今、ふと思い出したけれど、「こういう体験をしましょう」というプログラムはあるのに、ファシリテーション計画が全然なくて、「この進行だとそこまで辿り着かなそうなんですけど…」とハラハラした場もあった。
 
あるいは、参加者に遠慮して、ファシリテーターが場をホールドする役割を放棄しだすとか。そもそもファシリテーターがいないとか。
 
そういう「プログラムはあるのにファシリテーションがゆるい」場は、主催者が何をしたくて場をひらいたのか、わからなくなってしまっているように見えて、とてももったいない。