ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

三奪法:人を肩書きで判断・評価しないって?

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今年4月にインタビューのワークショップというものに行っていた。

5泊6日、ファシリテーター西村佳哲さんを含む13名の人びとと、山の中で、自分の「きく」や「かかわる」ということについてインタビューを通して振り返り、点検し、発見していく、いわば修行の時間。

 

心に残ったことはたくさんあるのだけど、中でも今のわたしに大きな影響を与えたことが「自己紹介禁止ルール」だった。

 

名前は住まいの地名は構わないが、

職業、何の仕事をしているか・していたか、何を学んでいるかなど、

個人の仕事や生業につながる情報はお互いに明かさないでほしい。

初めて会う者同士だから、共通の話題を探して自己紹介がはじまるのは、ごく自然なことだと思います。

でも、「いまここにいる私とあなた」というレベルでかかわりはじめる数日間にしたい。

というようなことが、ワークショップの詳細と共に、事前にメールで送られてきた。しかも「もし誰かがウッカリ質問してきたら、ニッコリ笑って答えない」ということも添えられていた。これは意図はあとで伝えられるとして、しかし相当重要なことに違いないと思った。


当日待ち合わせ場所に行ってみると、なんとなくみんなぎこちない。「はじめまして、こんにちは」と挨拶を交わし合うのだけど、ウッカリと禁止ルールに触れてしまうかと思い、はじめは言葉少な。少しずつ、どこから来たとか、今目の前に広がっている風景についての感想とか、そんなことからぽつぽつと。

 

ワークショップがはじまってから、その意図が明かされた。

肩書きや仕事の名前などで自分を言い表してしまうと、もうそこからは、「それである自分」としての言動、行動しか出てこない。

他の人がそう言っているのを聞いてしまうと、もうその人は「それの人」という自分の中のイメージやレッテル、思い込みで接してしまう。それを避けたいのだと、そんな話だったと思う。

 

人の話をきくというときに、その人がどんな話をしても、一旦、「こういう人」という思い込みにしばられてしまう(名前をつけてフォルダに分類されるようなものと西村さんは表現していた)と、自分の世界の理解の中でしかとらえられない。それによって、「ちゃんときけない」状態になってしまう。きけないでいると、未知なる人との出会いのおもしろさを妨げてしまうどころか、場合によっては人を傷つけかねない。

 

結局のところわたしたちは、6日間の間に20本(小さいワークを含めると30本以上か?)近くのインタビューを行い、合間の時間に言葉を交わし合うことを通じて、ほんとうに少しずつ、少しずつお互いを知ることができていった。

最後の最後に、帰りの電車の中でお互いの本名を聞いたり、仕事を聞いたりすることになった。それでもまだ、「一体あなたは何者なの?」という問いはなくならなかったし、そもそも「その人が何者か」というのは、「そもそも何によって規定されていると、今まで思ってきたのだろう。あることに関しては、この人のことをこんなにも知っているのに!」という小気味良さがあった。

 

また、ワークショップ中は、「その人の話よりも、その話をしているその人の"感じ"に徹底的に"ついていく"」というあり方が求められた。インタビューのやり方ではなく、きくときの自分のあり方。その人が成してきたことだけを見て、そこに興味をもって質問を投げていくのではなく、なぜそれをしているのか、もっというと、「今のその人の命の最先端がどこにあり、どこに向かおうとしているのか」に一番の注意を払う。それは実は話の内容よりもずっとずっとエキサイティングな体験だった。

 

ワークショップから戻ってきて、別の機会にどういう経緯かは忘れたが、三奪法という言葉を知った。

江戸時代の私塾のひとつ、大分県日田市で儒学者・廣瀬淡窓(ひろせ・たんそう)がひらいた咸宜園で説かれていた考えで、入塾に際し、「学歴・年齢・身分を問わない」というもの。身分や階級制度の厳しかった時代にあって、教育を受けるのに貴賎は関係ないという画期的なものだった。


このふたつの話に通じるのはなんだろうか?

(わたしも書きながら考えている)

・三奪を行わなければほんとうにその人をみる、きくことができない。

・肩書きで判断、評価していると相手と自分との関係の広がりに制限がかかる。それはもったいない。

・三奪は意識的に行わなければできない。

といったあたりだろうか。


「人を肩書きで判断、評価しない」というのは、まるで学校の道徳の授業か、釈迦の説法のような聞き飽きたフレーズなのだが、実際そうあるのはとても難しい。

このワークショップでやったような、一度、ほんとうに肩書きや役割を聞かないという経験をすることによってしか、その本当の意味するところは体得できないかもしれない。強制的にその状況になってみる。それほどまでに、われわれは、少なくともわたし個人は、評価・判断していないつもりで、非常に常に肩書きにしばられていたと思った。

 

それ以来、自分がひらく場では基本的にこちらからは自己紹介の際には、仕事や肩書きにはふれないようにしている。どうしてもそれを知っておいてもらいたいという人には自由に発言してもらう。でもそれも禁止にしてみることもある。

 

仕事や肩書きが必要な場もある。そのときはその仕事をしていること前提の場に参加しているので、言わないと話が進まないだろう。

しかしそれ以外のときは、一旦肩書きを自分から外してみる。その場に参加した動機は、仕事がなんであるかとは全然関係ないことが多いのだから。


なんとか、出会い方を変えるしかない。

名乗っていても、最初に会ったあとに、なんとか別の方向からまた出会おうとするとか。

そのためのアプローチは自分から仕掛けていくしかない。

ほんとうにその人に関心があるのなら。

それに対して相手が興味をもってくれるかどうかはまた別だけれども。


「~として付き合うほうが安心」という人も中にはいる。いろんな関係性があっていいと思うし、アイデンティティの持ち方はひとそれぞれ。

ただ、役割で出会っているときには、その範囲内にお互いがとどまってしまうので、人をよく知りたいという欲求をもっているわたしとしてはどうしてもつまらないと思ってしまう。

とはいえ、自分が開示することは自由だが、他者にそれを強制しないことも大切とも思っている。


わたしにとって場づくりとは、結局は人とのかかわり方を見つめていく作業だ。

こういう経験をするたびに、見えてくる世界があり、探求の喜びは果てしない。