場をつくる人の中には、固定した空間としての場所もデザインする人がいる。
自分にとって居心地のよい場所に、お客さんがやってくる。
一人で、あるいは連れだってやってきて。
一定の時間を過ごして。
そこで安全に安心に居心地よくいる中で、
人々になにかが起こっているのを、見守っている。
「飲食業がやりたかったわけではなく、コミュニティをつくろうとしたら、結果こうなった」という知人がいた。
自分が大切に思っているものを、人と分かち合うために。
あるいは、人の流れや滞留を起こしたり、人と人とを出会わせる装置となる。
それが喜び、ということなのかな。
わたしは、あまり固定した場所をもちたいという気持ちがあまりない。
「レイアウトやインテリアに凝る」とか「丁寧に作り込んだそこに人を招き入れる」という感じがいまいちぴんと来ない。
「いつもそこにあってほしい」という期待を受け取り続けるのが苦手なのだ。
そこにはあまりわたしの喜びはないみたいだ。
むしろ、人が心を込めてつくった物語のある場所や、
自然が長い時間をかけてつくりだした場所で、
ポータブルな場をひらくことが好きである。
手軽さ、可変、その時々で、ぴったりくる、
...とかそういうワードが浮かぶ。
場所から生まれる場もあるし、場をひらくための場所を必要ともしている。
わたしの場合は、場所をつくってくれる人がいるおかげで、場がひらける。
ということかな。
今の気分では。