ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

かるたでふりかえる2016年

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今年最後のかるたの練習会でした。


夏に競技かるたをもっとやりたいメンバーを集めて練習会を発足して、かるたCafeとは別に練習会の日をつくって、稽古をつけてもらって、大会に出て...それ以外に起こった出来事との相互反応の中で、見える風景がぐっと変わった一年でした。

 

いくつかのターニングポイントの中で、今年5月にやったメンバーとの対戦がひときわ思い出深く残っています。ちょうど定位置を決めはじめた頃。

運命戦になり、自陣は「ありあ」、敵陣は「あらざ」。「ありま」も「あらし」ももう出ているので、決まり字は「あり」か「あら」しかない状態。音としては「AR」まで同じで、そのあとに来る音が「I」か「A」かを聞き分けるという難しい局面。頭が真っ白になりながら、自陣を守るとか敵陣を抜くとか全く考えずに、ただ音に反応していました。周りで見ていたメンバーに、「運命戦で、しかも"あら"で敵陣抜いたの!すごい!」という声が上がってはじめて、「あ、抜いたんだ、取れたんだ」と思考が追いついたのを覚えています。そのときに何回目かの「かるたっておもしろい」という興奮がありました。

 


長らく、競技かるたって競技をして勝ち負けを争っているだけなんだと思っていた。でもそうではない、そんな浅いものではありませんでした。少なくともわたしにとっては。「これは何だ?ここでは何が起こっているんだ?ここでわたしは何をしているんだ?」と目を凝らすと見えてくる、その奥深さにいつも心動かされています。


厳格なルールのある安全な場で、本気で挑んでくる相手と競技することを通じて、自分の事から、自分自身から絶対に手を離してはいけないこと、自分の人生の責任を取り続けていくこと、小さな覚悟をたくさん重ねていくタフさを学んでいます。


場にいるとき、わたしはこの上なく孤独だけれど、同時にこれこそが、この安らぎこそが、わたしが求めていたものだったのだとも思う。そのとき場に対して神聖さを感じるし、敬う気持ちが自然と起こる。「畳の上の格闘技」なんて亜流みたいな表現じゃなく、「札道」とでも名付けたらどうでしょうか。


あとからはじめた人や若くて反応のいい人にどんどん抜かされる、やってもやっても敵わない人がいる、他にもやりたいことがいっぱいあってかるただけに熱中できない、子育て・家事・仕事ぜんぶ一馬力でやっているからという言い訳...そういうわたしとして、情けなさも恥もプライドもぜんぶ棄てて臨むしかない場は、いつも厳しくて優しい。


練習会の立ち上げを通じて、「みんなが望むことをやる」という場をひらく者としての学びもとても大きかったです。場に集うみんなのことを考える、一緒に運営している人を思うことをわたしはときどき手を抜いてしまう。わたしの楽しみや望みも大切にしながら、みんなのことも考えるということが、ようやくできつつあるかな、遅まきながら大人の階段をようやく上りはじめたかなと思う。それでもわたしは偉そうにしたりする必要もなくて、何かを為さなくてもよくて、「せいこさんはいてくれればいいから」と言ってもらえるのが、すごく幸せ。見えないところで場の動力でありつづけたいな。


来年はどんな新しい景色が見えるんだろう。楽しみです。
とりあえずは1/9の近江神宮での高松宮杯まであと17日。