友人からきっかけをもらって、今年の夏から、とある勉強会で聖書を学んでいます。
教える人も教わる人もキリスト教の信者ではありません。客観的に、しかし他人事としてではなく、この宗教についてまっさらなところからはじめて学んでみる。解説書ではなく、聖書そのものをまず読んでみる。
未知のもの、既知と思い込んでいたものに対し、自ら問いを立て、その答えを様々な手法で見い出し、自分の辞書のページを増やし、自分を変化・成長させてみようとする試みです(と、わたしは勝手に解釈している)。
わたしが学ぶ動機は、二つ。
一つめは、美術や文学や芝居や音楽など、わたしの愛する芸術は、聖書の知識がないと本質を読み解けないものが多い。なんとか知識を深めてより広く深く受け取りたいから。
二つめは、歴史を見ても、今現在の世界情勢を見ても、キリスト教圏の人と接するにしても、聖書にルーツがあるのでは、という想像は働いても、自分の解釈を述べるまでに至っていないのが悔しいから。
今、2回の講義が終わったところですが、そのあたりのことが少しずつわかりかけてきており、大人になって自ら求めてする勉強はやっぱり楽しいな!と興奮しています。
さらに先日はスピンオフで「創世記」の読書会をやってみたい!と言い出しっぺになり、ファシリをやらせてもらい、7人であーだこーだと自由な感想を話す時間を持ちました。楽しかったなー!みんなで少しずつ持ち寄ってできた感じがあって、よかった。やっぱり読書会は楽しい。既に専門家から内容の講義は受けているので、それを踏まえつつ、読書会では自由な感想を膨らませたり掘り下げたりしていきました。やってみて、さらに理解が深まり、物語としての味わい深さや幅の広さを感じることができたと思います。
この勉強会では、勉強の方法を教えてもらえることもとてもありがたいです。原典にあたることが大切。解説書は易しいものからはじめる。小学生向けのものから。自分なりの楽しい続け方を模索すること。どんなささやかな問いも大きな疑問の解決につながる可能性を秘めている。その素朴さに専門家がハッとすることだってある。わからないことはどんどん専門家をつかまえて聞けばよく、わからないことを一緒に探求していく楽しみだってある...などなど、実際にやってみると意味がわかる。
次回から勉強会本体が【講義+感想共有】の流れにしていくことになったので、ますます楽しみです。大学のときにゼミがなかったから、ちょっとその気分を味わってみているのかもしれない。勉強会は来年の冬ぐらいまで連続講義形式で続くので、これからもこのメンバーで学べて、まだまだいろんな発見がある、この軸で読み解けるものが増えていく一方なのかと思うと、うれしくてたまりません。仲間と一緒にやる勉強って楽しいなぁー♪