図書館の「きょうかえってきた本」のブックトラックを物色するのが昔から好きです。
思いがけない本に出会える、宝の山のようで。
きのう図書館に立ち寄ったら、「きょうかえってきた本に」これがあって、思わず手にとってそのまま借りにいきました。
わたしは本が好きなんですが、児童文学には非常に疎いです。
早く難しい本を読めるようになりたい!姉や父に追いつきたい!と思いすぎていたのか、現役の子ども時代に読まずに通り過ぎてきた児童文学がたくさんあります。
(まぁ児童文学に限らず、有名な本で読んでないものは星の数ほどありますが...)
特に「赤毛のアン」「ふたりのロッテ」「トム・ソーヤの冒険」あたりは名作というかもはや古典や教養レベルで出てくるので、「いやー実は読んでへんねん...(恥)」という感じで、なかなか話に混ざれないとか、理解が遅れるということがありました。
この「長くつしたのピッピ」もそのような一冊。
きのう一節だけ布団の中で息子と読んでみたのですが、へえーこんな話だったのか!とびっくりしました。
「うそをつくのはいけないことよね、でもそういうめにあった子はときどきこういううそをついちゃうものなのよ」なんてセリフがサラッと出てきたりして...。
最近、「あのときなんらかの理由や事情でできなかったことも、取り戻せることがある、タイミングがふいにくる」みたいなことが自分のテーマだったりもするので、これもそういうタイミングのひとつかなぁなんて思います。
この本、絵がいいなぁと思ってたら、あだちなみさんって、「くまのがっこう」の人ですね。服とか色とかポーズとかかわいい。
こどもの自分、大人の自分、いろんな自分になったり、登場人物に共感してみたりしておもしろかったので、訳文の本も読んでみたくなりました。
こちらは角野栄子が読みやすいようにリライト&ダイジェストにしてくださっているものです。
逆に、導入は必ずしも「原典」でなければいけない訳ではない、ということにも気づきます。
自分にとってとっつきやすい形式(漫画、ミュージカル、アニメーションなど)から入っていって、関心が深くなってきて、そういえば原典ではどうなっているんだろう?と思ったときに、当たればよい。
受容体、受け止める器ができているときに出会うのが一番の学びです。
この話をしたところ、アメリカに長く暮らしている方が、たとえば「若草物語」を出版本国で読んだことのある人をみつけるのが難しかった、という話をしていたのが興味深かったです。
「100-200年前に流行ってて、たまたま和訳された先進国文学」で、現代では本国人も読んでないのに、日本人だけが読んでいて、不思議なアセットとして残されている。
つまり、、『フランダースの犬』現象?
『長くつ下ピッピ』や、リンドグレーンは映画にもなっている(http://lindgren-movie.com/)ので、本国でも有名な方だろうと思いますが、ものによっては、日本だけで生き残っているものがあるかもしれません。
つまり何が言いたいかというと、別に読んでいなくても恥ではない!ということですね。
『赤毛のアン』も何回かチャレンジしたのだけど、なんだか世界に入れない。
訳の問題だったり、そのときの自分の調子や興味関心もあると思いますが。
他の本のジャンルと同じで、好きな人は好きだし、必要があれば読めばよいし、というものなんだなぁということが腑に落ちた、という話でした。