ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

片付け祭りのあとに

片付け祭りのあとに、最近ぷかんぷかんとあぶくのように上がってくる感情。

本当に大事にしたいものを大事にできなくて辛かったのだなぁという痛みと悼み。

 

暮らしのこと。

片付け、掃除、洗濯、料理。

育児にまつわることも一部そうかもな。

 

それを丁寧にすればするほど、自ら性別役割分業を強化することになるのではと怖れて、それが苦手、嫌い、関心がないとする態度をとったり、強化してくるように思える存在に対して、戦闘態勢を敷いてこなければいけなかった。

 

祖母や母や叔母などの身内の女たちをずっと見てきて、ああいうふうにジェンダーと結びつけられ、家庭内権力が上の者のやりたがらない雑事として、押し付けるようにやらされ、できないと責め上げられるのはたまらないと、子どもの頃から感じていた。

 

行動を制限されるのも納得がいかなかったし、大切にすることが優しさ、弱さのようにとらえられることも悔しかった。

 

 

わたしはほんとうは、自分の生に直結する衣食住のことを丁寧にやりたかったんだなぁ。

 


「丁寧にする」っていうのは、手順を増やすとか、いい材料を使うってことじゃなくて(それも一部含むけど)、自分の中心から外さない・自分から切り出さないってことを言っている。



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どうしても手がまわらなくて家事を外注したときに、楽にはなったけどあまり幸せになれなかった。

ほんとうは家事や育児の「めんどうな部分」を省いたり、コストカットしたいわけじゃなかった。

 

身の回りのことを自分の扱える範囲にし続けておきたい。

衣食住を自分の身体の延長として真摯に考えていたい。

 

もちろんそれをまずは切り分けて、安心して暮らしたり、集中して伸びたり挑戦したい時期もあるから、ずっとずっと毎日こうでないと!と考えているわけじゃないけれども。

 

 

 

そしてこういうことはたぶんわたし個人の話じゃないと思っている。世界中にあると思う。

 

 

ほんとうにジェンダーと家事、炊事、育児を結びつけるとロクなことないので、そういう土俵からはわたしはもう完全に降りたいし、かかわりたくない。

 

そう思っていても、巻き込まれる面倒臭さはまだまだあるのだけれど、なるべく距離を置くことにする。

 

役割や属性に人を閉じ込めたらほんとだめ。

 

 

片付けの副産物はこれからもたくさん出てくるだろう。