急に読みたくなって、吉本ばななの「キッチン」を図書館で借りて読んだ。
前回がいつだったか忘れたけれど、たぶん10年は余裕で前。もっともっと前かもしれない。
はじめて読んだのは、小学生のときだったかな。4つ上の姉が買ってきて。
読んでいるあいだじゅうずっと、美しい音楽がひたひたと沁み入るような感覚でいた。
哀しみとぬくもりと。
今だ、今しかないのだ。
という時をとらえて、間に合うこともできる。
間に合わないこともあるけれど、いつもなるべくじゅうぶんにやっておけたらいいよね。
というようなことが、ふわっと浮いてきた。
誰かにとってある種の物語が急に必要とされるときのために、この人は小説を書いているんだろうなぁ。
わたしはあなたを愛しています。
と伝えることは、とても勇気のいることだ。
ぜんぶ投げ出して、無防備になるのは恥ずかしいし怖い。
あれこれ理由をつけて、ごまかしたり、自分以外を主語にしたり、別のことにしておいたほうが傷つかずに済む。面倒くさくもならない。
でも、上辺の本音だと思っていた言いたいことをたくさんたくさん並べていったら、最後の最後に下のほうにきれいな箱が残る。その箱を開けるのはとても怖い。でもその中に入っているものは、わたしに開けてもらうのを待っている。
そして、あなたとほんとうにつながるためには、その箱を開けなければならない。
弱々しく震えている。
小さく温かく鼓動するもの。
その名前を自分で呼ぶ。
よく知っているもの、自分が一番よくわかっているものの名前を。
愛というのは、相手が自分を愛してくれるかどうかによらず、ただ自分の中にあって、それにふれて確かめるだけで、十分に満たされるし、強くなれるものなんだなということを、最近ようやく知ったところでの、「キッチン」の再読。いい時間だった。
何もしないことが調和や平和を生むのではなく、愛を認めて受け入れ伝えることから、なのかなぁ。
あなたがどうであれ、という感覚がわたしにとっては特にあたらしい。あなたがわたしに対してどのような感情を持っていても、わたしはあなたを愛している、と言えるのは、それ自体がその人からの贈り物なのかもしれない。
受け取られなかったら悲しいし、受け取られたらもちろんうれしいけれども。それは相手が決めることなので、どっちの場合もしょうがない。
これは恋愛や性愛に限らず、人間同士の関係でいつも起こることだ。
それをこの物語では、すごく美味しい食べ物という言葉で伝えるのもまたすごくいい。
何周も回って、いつでも何度でも。
これが読書の愉しみ。