*鑑賞行動に影響を与える可能性がある内容です。未見の方はご注意ください*
少し前に「私は、マリア・カラス」を観た。原題は"MARIA BY CALLAS"。
むき出しの魂でうたい、愛した 世紀の歌姫(ディーバ)の<告白>。紐解かれる未完の自叙伝。封印された手紙、秘蔵映像、音源の数々。
METライブビューイングでオペラに親しみだしたこの頃、「MET友」から「これ観に行く予定!」と教えてもらい、「なんか観といたほうがいいかも」という気がして、わたしも急いでババっと予習して駆けつけた。
▼予習メモ。*は「こういうものが観られそうかな?」という期待。わたし的な目の付け所。ここまでやってあると相当受け取れる。それが描かれてないとしてもよい。
▼友だちがシェアしてくれた新聞記事も参考に。ファッションも楽しみのひとつ。
わたしにとって、マリア・カラスは「歌をうたう人でカリスマ」という程度にしか知らなかった。
小さい頃から名前だけは聞いたことがあった。何かのときに写真を見て、黒い瞳と黒い髪だったので、それでカラス(烏)と呼ばれている人なのかなぁとこじつけて記憶していた。そういう人はたぶん多いはず...。
ギリシャ人であり、父親が本名のカロゲロプロスを短くしてカラスとした、ということを今回の予習ではじめて知った。上書き、上書き...。
彼女の歌を初めて聴いたのは、1991年のリュック・ベッソンが監督した「アトランティス」というドキュメンタリー映画だった。
南方の海。その海の中に潜って見える、目が痛くなるほどの青さと生命力にあふれ泳ぎまわる海の生き物。そこに挿入されるマリア・カラスの歌は強烈な記憶を残した。オペラってもしかしたら美しくていいものかもしれない、という印象はたぶんこのときに生まれた気がする。
それから30年近く。
オペラを聴こうと思ってYoutubeを流していると、たいがいマリア・カラスに行き当たるなぁということは思っていた。ほんとうにどういう人なのか全く知らなかったが、カリスマ的な存在だということはその扱いからして、よくわかった。
当日は観終わってから友だちと感想をおしゃべりした(恒例の)。
彼女には身近に声楽家が何人かいるということで、この映画について仕入れた評判をシェアしてくれたのだが、どうもその道の人からすると、「怖くて観られない映画」なのだそう。マリア・カラスの発声法は、喉やその他身体への負担が大きすぎるためやらないのが普通、と。それは例えるなら、「昔は体育の時間にも普通にやっていたうさぎ跳びが、実は膝に大きな負担があると指摘されて今はやる人はいない」というようなものらしい。
こちらは歌唱や発声についてはズブの素人。そこが聴き分けられないことは、ある意味ラッキーなのかもしれない。なるほど、そういう時代の話なのかー.....。
時代といえば、そこかしこに時代を感じて、切なくなった。
例えば、ローマの舞台を第一幕だけで降りた「スキャンダル」は、現代で歌い手の心身の調子がよくなかったら代役が演るとかは当たり前のことなのだろうけれど、当時のその状況。
国の威信をかけた歌劇場のこけら落とし。国の重要人物も来る。自分が新しいオペラの時代を背負っている。自分の代わりに立てるほど華のある代役もいない。期待を一心に背負って、まさかできないとは言えない...という中で、誰にも助けを求められず、真正面から挑んで、そしてやはり成せなかった。しかしできるギリギリまではやりきった。
というところが、今であれば、本人が発信するメディアがあるだろうけれども、スターの言葉は間をつなぐ新聞やテレビなどのメディアがいなくては大衆に届かず、その中では書きたいイメージに沿って書かれてゆき、どんなに誠意を尽くして自分の言葉で語っても歪曲されたりカットされるということがあったんだろう、と思う。
誠意といえば、マリア・カラスが、どんな失礼なインタビューにも、たとえノーコメントであっても、相手を人として扱っている言葉を返していたのが印象的だった。いつもほんとうのことを表現しようとしてきた、とても正直な人だったんだろう。芸術に対しても深い愛があって、信じているものがあって、それを自分の使命として受け入れていた。でも、その姿勢や態度が悪く取られたか、故意にか、誹謗中傷の的になってしまったのかもしれない。(実際はどうだったかはもちろんわからないけれども)
今で言えば「毒親」のような理不尽に厳しい、歌の道を強いる母に育てられた少女時代を送っていたことも描かれている。より周りの期待に沿って、最先端のファッション、最先端のメイクを鎧のように纏い、完璧なステージを作ることで、この世界に居場所を得ていたように見えた彼女。それが、オナシスと出会って、一人の人間としての自分をのびのびと表現できるようになっていった時期の、柔らかで安らかな表情にはぐっときた。休暇先のまちでステージにあがり、一曲歌ったときのにこにこの笑顔。船の上でスカーフを直す仕草もすてきだった。
今回の映画の中ではそのカットされたインタビューやシーンなどもふんだんに挿入され、基本はマリア・カラスの話している言葉、書いている言葉で進行していく。
小さな言葉の中に彼女らしさがにじむ。
「使わないレシピを集めてノートに貼るのが私の唯一の趣味なの」
「家庭と仕事の両立は絶対無理」
「彼は凡人ゆえに他人の栄光にすがろうとしたの」
「大勢の人に歌心を感じてほしい」
「フランス人はほっといてくれるから好きよ」
「私生活の私、プライベートの私は単純で陽気な人間よ」
「私にとってオペラは自己表現」
「観客が感謝を示すので、私も感謝を返す。彼らが私をつくりあげた」
中でも、
「真価は時間が経てば証明してくれる」
「わたしは反論しないタイプなの。戦ってもムダ。時が経てば収まる」
という言葉どおりに、今まさに監督トム・ヴォルフによって名誉回復が行われているという感じがした。とはいえ、ラブレターまでも公開されていたのには、胸がちりちりとした...。
ここ数年、特にミュージシャンやファッションデザイナーなどの伝記映画、ドキュメンタリー映画が続いているように感じているが、それはどうしてなんだろう?とか、俳優がその人の役を演じるのと、本人や関わった人のインタビューとナレーションなどで構成していくのと、受け取り方はどう違うだろうかなど、「ボヘミアン・ラプソディ」や「アリー スター誕生」なども引き合いにしながら話して興味深かった。その二本ともわたしは観ていないので、ここで詳しく語れないのだけれども。
「子どもの頃から私はタフに見られてきた。でも実は違うの。私も生身の人間よ」
ということを、たぶん描いているのだろう。「真実のマリア・カラス」のような。
少し前の時代では、それを「恵まれない子ども時代、栄光と凋落、その哀れさ」といったような暴露的で観客の好奇心を刺激しようと煽り立てていた感があった。
しかし今つくられているものは、一人の人間の多面性を理解したり、時代の変遷を感じたり、自分との共通点・共感ポイントを見出し、それを今を生きる力に変えようとしている流れがあるのでは、と感じる。
わたしの共感ポイントは、オナシスとよりを戻した時期の言葉。
「もうお互いに自己主張しなくていい。愛人ではなく、深い友情で結ばれている」
激しい愛の時期を経て、紆余曲折あって、だんだんと流れが穏やかになっていく様。
そういうこと、人生であるよなぁ。
1975年にジャクリーン・ケネディ・オナシスが亡くなり、
1976年にアリストテレス・オナシスが亡くなり、
1977年にマリア・カラスが亡くなった。
偶然にしてはこの連続...。
この一本を観ただけではわからないことが多すぎて、他の切り口で語ればまた新たな面が出てきそう。でもほんとうに、人間ひとりの人生ってそんなに単純じゃないよね...ましてこんなスターであればなおさら...と思いながら帰途についた。
全体を通しての印象は、たとえて言うなら、「マリア・カラスのコスチューム展を開催している美術館のホールで、日数限定で上映されていたドキュメンタリー映画」という感じがした。その人物の一面を知るための概略的で補足的な資料の趣。
また一つ世界を知った。
観られてよかったし、感想を話し合えてよかった。
その後シェアしてもらった記事。ああ、あれもこれも...という感じ...。
映画「永遠のマリア・カラス」のレビュー。観てみたいような、少し寂しい気持ちになりそうな...。