10月に「子どもの宿題にまつわる私のモヤモヤを語ろう」という場に参加した。
参加しておいてよかった。
そうしみじみと感じたこの2ヵ月だった。
どんな場だったのかは、主催のすわれいこさんが丁寧なレポートを起こしてくださっているので、ぜひお読みいただきたい。
息子が5年生になり、どのような教育を親としてしていくべきか、してあげられるのか、というようなことを考えたくて参加した。
他の家庭の方針や選択を参考にするのは、あらゆる要素が異なるので難しい。つまり、構成員も違う、経済力も違う、地域も違う、世代も違う、本人の受けてきた教育も学んできたことも違う、子どもも違う。
だから、ただとにかく自分で自分の覚悟を決めたいという一心だった。
いろんなことを話したが、結局自分の中で決まったことがいくつかあった。
・宿題および勉強をみるのはわたしの役割としない
・宿題をするかどうか、どの宿題をするかは息子が決める
・わたしは、どのように学びたいか息子が決めるのをサポートし応援する・わたしは、担任の先生と連携をとり、学びの状況を把握する。心配があれば相談する。
・衣食住のサポートをする。わたしと生活する時間は、息子が健やかで機嫌よく過ごせるように配慮する、息子の状態をよく観察する、わたしも楽しむ・否定しない、非難しない、強制しない
・楽しく提案する、共に喜ぶ・質問には最大限の努力をもって答える、わたしの学びの中から提供する、わたしも学ぶ
・課題の分離を心がける。「それはほんとうは誰の課題か?」
・わたしの不安から行動しない。自分に不安があるときは別で聴いてもらう
・わたしの自己犠牲を前提にしない
・手段はひとつではない、因果関係が不明なことのほうが多いことを常に持つ
「え、そんなことを思ってもいいの?」と言われるかもしれないが、この5年間、考えに考えてきた末にこうなった。今年も夏休みの宿題を巡り、こんなことや、こんなことを考えてきた。
今のところ息子は自分で気づき、判断し選択し、相談し、喜びを味わい、学びの毎日を生きている。そのような息子の日々の学びや成長を、わたしは心から祝福している。
息子と担任の先生、わたしと担任の先生、わたしと息子との信頼関係も強くなった。息子の担任の先生は、学校の外で活躍する場を持っていて、本質的に健やかな人だ。
これらの軸の言語化は、間違いなくあのときにわたしが、わたしの気持ちと考えを言葉にして宣言できたことが大きい。他の人たちの話を聞く、つまり、わたしが選ばなかったものを選んでいる人と対話をしたから。
気心の知れた友人であっても、雑談ではできない話だ。
やはりテーマを据え、作法のある対話の場が必要。
矮小化されたり、一般化されたり、アドバイスされたり、愚痴に終わったり、話題を奪われたりしない場の設定。
そこに自ら望んで集っている生身の人とのあいだで起こることが、希望や力をくれる。
日本の教育制度は岐路に立っているし、高等教育(入試制度、大学経営)も新卒採用制度も揺れている。「順当に積む」という以外の手段での「達成」が可能になった。何が起こるかわからない時代に、このような個々のちいさな葛藤と決断と歩みの積み重ねがとても大切になってくると思う。
また、最近よく思うのは、「子どもの力を信じる」というのは、親が自分自身を信じてないと無理だということだ。親が、自分自身のために、挑戦や学びと共にあること、あり続けること、自分を信じること体験をしているからこそ、子の力を信じることが真に成せる。
揺れてもいい、間違ってもいい。
わたしもまだ途中の存在として居る。
覚悟を決めさせてくれた場に感謝。
_________
▼鑑賞対話ファシリテーション、場づくりコンサルタント承ります。
▼話す表現、書く表現もしております。
▼イベントで、わたしの場づくりやファシリテーションを体感してください。