国立能楽堂2月公演の定例公演に行ってきました。
国立能楽堂の公演は自分でも毎月チェックしているけれども、今回は演者の方とご縁があって行くことになった特にうれしい機会。
ちょうど今、わたしは樋口一葉にまつわる作品を制作しているところなので、「たけくらべ」が題名あるいは内容を敷いたと言われる「井筒」はぜひとも観てみたかった。
そのあたりの解説(PDF)>https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/1/15793/20141016124022334935/kbs_26_1.pdf
いつものようにこちらの本と、演者さんが個人的に送ってくださった解説も読みながら、予習をして、いざ当日。
狂言「蟹山伏」
とにかく蟹に度肝抜かれる。蟹やけど!蟹やけどさ!!見た目もすごいし、動きが笑える。
見所(けんしょ/観客席)から何度も笑いが起こる。
山伏とお供の強力(ごうりき/歩荷や登山案内を生業とする日本古来の運送業者)の情けなさも楽しい。
近江の国の蟹ケ沢ってあるのかな?と調べてみたけれど、出てこない。
能「井筒」
いつかはと思ってようやく観られた曲。
ゆっくりで静かで登場人物が少なくて、ドラマティックなことはそれほど起こらない。
心情と風景を味わう曲。
初心者向けじゃないことがわかるくらいにはお能初級者になれたかな。
序の舞の優美さに、透け感のある単の直衣によく合っていて、ふわふわとこの世の者ならぬ感じがよく出ている。
ひたすらに美しい世界か続いていく。
詞章も舞も美しいんだけど、「そうあってほしい女像」がなんかムカついて、勝手に性別を入れ替えて観ていた。
「熊野(ゆや)」も観てみたいけど、ストーリー的には「なぜ?!」って感じだよなぁ。
世阿弥先生のことはまだよくわからないわ…。
あ、でももしかしたら男女の恋や愛の物語に託して、違うことを言おうとしているかもしれないな。
性別や関係さまざまな、別離、未練、執着、老化、凋落、赦し、鎮魂、とか。
あるいはその時代の政治的な意図とか。
今回は、詞章を3回ぐらい音読していったらほんとよかった。
次に何言うかわかっているから、細かいところに観察がいく。
先月末から能楽講座に参加していて、
当日までに詞章を2、3回は声に出して読んでくる。始まったら謡本は見ない。正式な謡でなくてもよい。何を言っているかわからないと思われがちだけど、知っている言葉や音はちゃんと聴こえる。それだけで舞台の楽しみ方がぐんと変わってくる。
と、講師の先生からすすめられたのでやってみた次第。
それはきっと自分が想像した節、強弱、抑揚、聴こえ方でなかったとしても「知っている音」として拾ってくれる。何かしら内で呼応するものがあるということなんだろう。
舞台とのつながりを詞章を通してもっと太く豊かにできる。
自分もその舞台の一部に、より深く、なっていく。
井筒は和歌の鑑賞を楽しむ曲でもあって、きょうはそこを目一杯感受した。
こういう曲は特に予習大事。
久しぶりに頭空っぽにして、何も見立てようとせず、ただあるがままを観たら、すごーく気持ちよかった。
温泉に浸かった感。
お風呂屋さんで洗面器のカコーンていう音が響くみたいな。
きょうは忙しくせず、昨夜もちゃんと寝たので、体調よく楽しめた。
お能に限らず、観劇ってコンディション大事。
あらためて思ったけれど、舞台の上にいる演者たち一人ひとりが、いろんな時空、次元を受け持っている感じがある。お互いにその領界にところどころ接触しながら、何かが起こっていく。
流派の違いなどはまだまだ到底わからず。
これは自分でお稽古に行くぐらいしないとわからなそう。
あるいはこの先お能を観る機会がもっといっぱいになってきたら、どこかが臨界点になって急にわかったりするのかな。
今週は明日も観能。
能楽講座の先生が出演されるということで、楽しみです。
おまけ。
お能の公演スケジュールはここが詳しいです。
あとは、行ったときに能楽堂でチラシをもらってくるのが、わたしはけっこう決め手になっています。
やっぱりいまだにチラシってありがたいです。
お能以外にも映画や展覧会やコンサートなども、チラシを見ることがある。
特に東京はたーくさんあるから、決め手に欠ける。
ある程度わかるようになってきても、ウェブ上のテキストだけじゃなくて、ビジュアルやデザインからもその会、その公演の雰囲気が感じ取りたいほうです、わたしは。
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