ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』鑑賞記録

ポレポレ東中野で『なぜ君は総理大臣になれないのか』を観てきた。

映画「なぜ君は総理大臣になれないのか」公式サイト

 

きっかけは友人の投稿。

こんな政治家もいるんだな、と希望を抱かせてくれます。

2017年の衆院選の裏話や比例と小選挙区の違いなども分かってめちゃ面白いよ。

とのこと。

 

 


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正直なところ、観るまでは、「ちょっとズレたところもある、熱血すぎる若手議員の奮闘記」みたいな内容なのかと思っていた。

 

全然違った。


頭を動かし、心を震わせ、身体を使う、一人の人間の姿がそこにあった。

「こんな政治家がいたのか!」

「ずっとこういう政治家いないのかなぁ〜と思ってたんだよ!」

「青き衣の者?!(風の谷のナウシカ)」

「こういう世界があるのか!(家族と地域総出で候補者を支援)」

「こういう構造になっていたのか!(選挙と投票、政界)」

がいっぺんにきた。

 

「なぜ小川さんは総理大臣になれないのか」

と、問われているのはむしろ私のほうだった。

拍子抜けするぐらいの庶民感覚と、世界、地球の中の日本を観るというバランス感覚。一人ひとりと全体、過去と今と未来を見わたす眼差し。聡明さ、明晰さ、誠実さ。

「したたかさが足りない」というけれど、気弱なわけでは全くない。非常にタフな精神をお持ちだ。

追及すべきところでは、激しく、厳しく、全力で戦っていた。
自分が権力が欲しいからではなく、みんなのために。


特に、希望の党合流とその後に起こったこと、この選択を「間違えた」ときの小川さんのふるまいや言動にも、「こんな政治家がいたのか!」と思わせるところがあった。

この人のリーダーシップをこれからも注目したい。

 

 

映画を観ながら、政党の変遷など推移がわかっておもしろいのだけれど、一方で、まるでこれは室町時代安土桃山時代か......という感じがして、しょうもない権力闘争はほんとうにどうでもいい、小川さんに早く政策提言、立法してもらえないか、とずっと考えていた。

批判しなければ状況は動かないし、目に見えるように訴えなければならないのはわかっているけれど、このあとからあとから出てくる汚行の粗探しのようなことに、優秀な人々の時間もエネルギーもとられていくことに、言いようのない無念さを感じた。

きっと今までだって、こんなふうに潰されたり削られたり、ずっと起こってきたんだろう。

 

パンフレットにも書いてあるけれども、「政治家は言葉が大事」。それをひしひしと感じた。わたしはコロナ以前からずっと、言葉を蔑ろにする政権の言動に散々傷ついてきた。そういう自分を認め、受け入れることができた。真摯な言葉を紡ぐ政治家もいるのだ、ということが救いだ。(言葉の話は内田樹さんの記事にもあるのでぜひ一読されたい)

 

当日の鑑賞後はすぐに話したくて居てもたってもいられず、この映画のことを教えてくれた友人に連絡をとって会い、2時間半も話し続けた。

映画の感想はもちろん、今まで政治について考えてきたことをどんどん話した。

「おかしいと思ってよかったんだ!」「話せる相手がいる!」という安心安堵。

そうだ、わたしは本当はもっと政治について話したかったのだ。

 

そう考えると、知らず知らず自分も飼い馴らされてしまっていたことに気づく。
いったいこの躊躇は、いつから、どこから、はじまっていたのか。

複雑で、一筋縄ではわからないようになっている。考えなくていいように仕組まれ、誘導されている。きっと話題にしないことからはじまっているのだ。空気の恐ろしさ。

 

でもそれを「制度や仕組みがこうなっている」「権利と義務」などの暗記からはじめるのでなく、小川淳也という一人の政治家への「個人的な関心」をきっかけに学びがはじまるところがいい。

これぞまさに学びの本質ではないか!

 

それを可能にするのも、やはりこの作品が映画としてもとてもおもしろいから。

騙されたと思ってみんな観に行ってほしい。

わかりにくい政党の変遷事情などが流れでわかる。また、大都市に暮らす人には想像しづらい、それ以外の地域での選挙の実態なども、時系列で観察できる。小川さんの家族の話にも共感するところがあるし、複雑な思いもある。「あの人たちにそう言わせているものは何か」というのも、有権者として考えなくてはいけないことだろう。

 

わたしはまだまだこれから学ばなくてはならないし、伝えていかなくてはならない。
この映画で観客に問われている「なぜ小川君は総理大臣になれないのか」を共有したい。一緒に考えたい。そんな場もつくりたい。

 

やはりわたしには「作品と鑑賞と鑑賞の場」なのだ。
作品を通じて語りたい。

描かれ、物語られることによって、より本質的な批判(非難や誹謗中傷ではなく)が可能になる。設計のある良質の対話は、編集のバイアスを軽々と超える。

 

 

5月13日、公開ぎりぎりまで粘った、撮って出し。大島監督の情熱に感謝。

都知事選期間中の公開に間に合わせてくれた劇場に感謝。

 

これ、地上波TVの特集ではなく、「ドキュメンタリー映画」という形式だからこそ受け取れたと思う。お金を払って劇場に足を運ぶ人に届ける・受け取る。

作り手と受け手のお互いの約束や信頼。これは映画にしかない力。

映画だから、監督の個人的関心を動機に作品が作れる。

「君は総理大臣になりたいのか?」
「もしかして君は政治家に向いていないんじゃないか?」
の2つの質問を軸に、一人の政治開拓民の歴史を追う。

TV放映であれば、組織の方針に沿ったもっと公共性や中立性や問題提起を見せなければならない。映画だからこそ振り切れたところがあるはず。

 

ほんとうにこの映画はいろんな人に観てほしいし、語りたい。

 

 

 

▼映画どうしよっかなと思ってる方はぜひこの動画観てほしい。

youtu.be

 

 

小川淳也さんのツイッター投稿。「重ね合わせ、接点を感じる」...まさにそんな時間でした。 

  

▼2019年2月の予算委員会質疑 

 

映画から発展して思い出したこと。

 

以前わたしは、友人(だと思っていた人)に、これから自分のやっていきたいことを熱く語ったときに、「誠実さや正直さなんて一文にもならないよ、仕事になるわけない」と言われ、とてもショックだったのと怒りとで、縁を切ったことがある(もちろん他にもそれに至る理由があった)。

思えばこの人の前にも後にも、様々な形で同様の言葉は投げつけられてきた。

「したたかでなければ」「向いている・いない」も、そう。

おそらくわたしだけが経験しているわけではない、こういう冷ややかな態度や、わかりにくい形での攻撃(「もっと楽しい話をしようよ」とか)は、社会に溢れていると感じる。冷笑する人にも、それぞれの傷つきや絶望の過去があるのかもしれない。わたしも「加害」の側に回ったこともある(ほんとうにごめんなさい)。

 

それでも、わたしは、今は、そういうものとは距離を置いて、真摯な言葉に耳を傾けていきたい。人と手をつないでいきたい。

嘘をつかなくても、したたかでなくても、「能力」がなくても生きられる。
人を大切にすることを真っ当な手続きを踏んで、実現できる社会にしたい。

 

 

また、もうひとつ思い出したこと。

2016年に、松井久子監督作品、映画『不思議なクニの憲法』を観た。

fushigina.jp


観たのは、改憲に反対する有志がひらいた上映会で、監督の松井さんや上野千鶴子さんもゲストでいらしていて、お話を聞くことができた。

安倍政権になって、「特定秘密保護法」「防衛装備移転三原則」「集団的自衛権の行使容認」「安全保障関連法案」など、次々と外堀を埋める法案が可決されていって、これはヤバい!とようやく上映会で気づかされた。

しかしその後、わたし自身の身辺が慌ただしくなって、それどころじゃない状態になり、政治を丁寧に追うこともままならない日々が続き、投票に行ったりさまざまな社会課題を学ぶことはしていたものの、政治そのものに言及することが少なくなってしまっていた。仕方がなかったとはいえ、悔いが残るところもある。

もちろんどんな営みも「政治とつながっている」のは確かにそうなのだけれど、今あらためてストレートに政治を語っていく、批判していく、声をあげていく必要があると感じている。逃げてはならない、危機的状況。

 

 

ふぅ。いつも以上にバラバラとした感想になってしまった。

 

 

まずは、7月5日の都知事選投票日。

 

東京はコロナの感染症拡大に再び戦々恐々としているけれど、

でも投票、行こう!

自分も人も大切にする市民の権利を行使しよう!

 

 

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